それぞれにとっての三池争議
<それぞれにとっての三池争議>
【私が三池争議の研究をはじめた理由】
前川俊行さんは、昭和27年荒尾の生まれ。お父さんの楠元辰雄さんが三池炭鉱で働き、1960年の三井鉱山の合理化で指名解雇処分を受け、三池争議の激闘空しく、三池を去ることになった。荒尾を去ってのち、楠元さん一家は、岐阜や京都、福井などを転々としながら、さまざまなご苦労を経験されることになる。前川さんは、7歳まで住んでいた荒尾の炭鉱住宅をとても懐かしく思い続けておられ、ホームページにも当時の炭鉱住宅の様子や三池争議の模様などの写真を掲載されている。お父さんの楠元辰雄さんは、つねづね九州へ帰りたいと語っていたそうである。前川さんは、今は亡きお父さんの炭鉱労働者としての思いを受け継ぎつつ、子どもの目から見た炭鉱住宅での生活について語ってくれた。1つ目のボタンを押すと、前川さんのホームページに、2つ目のボタンを押すと、前川さんの聞き取りの詳細画面に移ります。
那須俊春さんは、昭和2年大牟田の生まれ。昭和21年7月に三池炭鉱宮浦坑に入り、三池労組の青年部幹部として活躍。三池争議の数年前の山猫争議を成功させる。1960年の三井鉱山の合理化で指名解雇処分を受け、三池争議の激闘では、分会長として争議を指導する。争議の終盤、中央労働委員会の斡旋を受諾するかいなかの論争では、大演説を奮い、受諾反対派を抑えて、解決の道をひらく。NHKの「戦後50年、そのとき日本は」の番組で、ヤマを去る労働者を代表して最後の演説を行ったのが那須さんである。那須さんは、現在は、大牟田市会議長を務めながら、三池炭鉱閉山後の労働者の雇用問題などに専心しておられる。なお、革新系議員の市会議長就任は大牟田市議会でははじめてということだった。ボタンを押すと、那須さんの聞き取りの詳細画面に移ります。
久保田武己さんは、大正13年大牟田の生まれ。現在は、荒尾市に在住。敗戦後、昭和20年に三池炭鉱に入る。親戚、兄弟に炭鉱労働者(係長、係員含む)がひしめく、炭鉱一家だったという。組合の専従を長く務め、三池争議のときには、副組合長として、組合長の今は亡き宮川さんを助けながら、資金調達など奔走したという。自らを西南戦争の軍資金調達者にたとえながら、三池争議について、ざっくばらんに話をしてくださった久保田さんの姿は、その親分肌なところが、西郷隆盛と重なり合って写った。ボタンを押すと、久保田さんの聞き取りの詳細画面に移ります。
芳川勝さんは昭和18年台湾の生まれ。現在の三池労組の組合長である。昭和23年に九州に引き上げると、お父さんが九電勤務を経て、昭和24年から三池炭鉱に入る。芳川さんもまた、定時制高校(鉱山学校)に通いながら、昭和33年に三池炭鉱で勤め始める。入山直後に、三池争議が始まり、そこから組合活動に関心をもつ。争議のあと、三井鉱山側の第一組合(三池労組)に対する差別や三川坑の粉塵爆発事故など、苦難の日々を経験しながらも、新たな入会者のいない三池労組を守り続け、1997年3月30日の閉山後も、CO中毒の患者や遺族、また三池争議の指名解雇者などの心の拠り所としての三池労組を保ち続けておられる。ボタンを押すと、芳川さんの聞き取りの詳細画面に移ります。
河野昌幸さんは大正3年福岡県山門郡山川村の生まれ。昭和7年に旧制八女中学を卒業ののち、教員検定試験に合格、昭和9年から13年にかけて大牟田市の第九小学校で教師として勤める。その後、親類から満州へ来ないかという誘いを受け、南満州鉄道に勤めるが、敗戦ののち抑留され、昭和21年7月1日ようやく舞鶴に戻ってこられる。九州に戻り、炭鉱労働者の配給がよかったことから、同年9月三池炭鉱に入る。三池炭鉱では、2年間現場で働いたのち、組合の代議員に選出され、昭和28年には書記長に選出される。昭和28年に指名解雇を撤回した「英雄なき113日の闘争」は、河野書記長のもとで闘われた。そののち、三鉱連(全国三井炭鉱労働組合連合会)の役員となった。しかし、三池争議のときには、三鉱連からの三池の孤立を知りながら、三池に戻り、ホッパー決戦では行動隊長として自らが育て上げた三池労組と心中することを覚悟される。自らの人生を賭けて育て上げた三池労組への熱い思いと争議の敗北ですべてが失われていく無念さを語る河野さんのお話は、私たち聞き手の心を深く揺るぶるものであった。ボタンを押すと、河野さんの聞き取りの詳細場面に移ります。
渡辺伸夫さんは昭和25年2月14日熊本県荒尾市の生まれ。大正13年生まれのお父さんは、三池炭鉱に勤めており、労働運動にも深くかかわった人だと推察される。渡辺さんが小学校4年のとき、三池争議が始まる。三池争議については、子どもとしてほとんど関心をもたなかったということだが、荒尾第三中学校時代には、親たちの全国統一学力テスト反対(学テ反対)の意志で学力テストを受けずに、学校はテレビ局の取材を受けたという。このとき、クラスには10名ぐらいしか残らなかったという。また、印象に残ったのは、1963(昭和38)年、渡辺さん中学2年の冬、社宅に大音響が響き、揺れたという話である。三井三池炭鉱三川坑の粉塵爆発のものすごさは、おそらく現地から十数キロ離れていたであろう社宅にまで響きわたったことで十分に想像できる。渡辺さんは高校卒業後、九州を離れ、各地を転々として苦労される。これは炭鉱の町に生まれ、育った、多くの人たちが辿った道であった。ボタンを押すと、渡辺さんの聞き取りの詳細場面に移ります。
渡辺清吾さんは大正13年熊本県鹿本郡の生まれ。戦後、三池炭鉱に勤め、三池労組の緑が丘社宅地域分会長として、三池争議を闘う。三川坑の粉塵爆発のとき、社宅内に51名の死者が出たという。そののち、第一組合(三池労組)の組合員だった渡辺さんは、会社から配置転換等の仕打ちを受け、退職を決意、父祖の地である九州を離れ、愛知県に移住する。愛知では、炭坑離職者用の集合住宅が準備されており、待遇も炭坑時代と比べると破格であったという。日々生命の危険にさらされながらわずか月に2万円の給料しかもらえなかった三池での生活が、お日さまの見えるところで働いて月5万円もらえる生活に変わり、愕然としたのである。昭和史とともに生きた渡辺さんの人生は、さまざまな苦しみにみちており、渡辺さんにとって三池争議はそのわずか一こまに過ぎないという。わたしは、酒を酌み交わしつつ、渡辺さんの語りに耳を傾けながら、これまでの三池争議のイメージが音を立てて崩れていくのを感じた。
浜田貞雄・千鶴子夫妻。2000年8月23日、私は茨城県に浜田夫妻を訪ねた。夫の浜田貞雄さんは三池労組で、妻の千鶴子さんは炭婦協で、それぞれ三池争議を闘う。貞雄さんは、三川坑の粉塵爆発で、救助部隊として駆けつけ、そのときにCO中毒(一酸化酸素中毒)におかされる。その後、妻の千鶴子さんは会社とのCO闘争を闘いながら、四人の子どもを抱えて汗を流して働かれている。貞雄さんは闘病中であり、9月13日、91歳にて他界。この映像が最後の姿となった。千鶴子さんは、私がはじめてお話を聞いた女性であり、そこでこれまでとは違った三池争議の姿があらわになった。文章はただいま作成中。はじめての試みとして、ビデオクリップを作成。ボタンを押すと、浜田夫妻のビデオクリップを見ることができます。バックに流れているのは、三池の労働歌です。
旧三川坑近くに建てられた三池労組会館
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