私にとっての三池争議
<私にとっての三池争議>
【三池争議の聞き取り調査を始めるにあたっての私の動機】
私の三池争議との出会いについて、少しばかり語っておこう。私が三池争議のことをきちんと知り、学んでみようと思ったのは、NHKのドキュメンタリー「戦後50年、そのとき日本は」の番組を観てのことだった。1985年に、日本の戦後50年を記念して作られたこの番組では、安保反対闘争、三池争議、水俣病、沖縄返還など、戦後史の岐路ともいえる出来事にスポットをあてて、当事者たちの証言をもとに、それらの出来事の今に至る意味を解明していく手法がとられた。この手法は、私の研究の手法であるライフヒストリー法ともつながっていて、NHKのこのドキュメンタリーは、「映像の世紀」と並んでとても興味深い番組に仕上がっていた。私は、この番組を通して、改めて三池争議と出会うことになったのである。
改めて三池争議と出会うというのはどういうことか。私は、1967年に三池炭鉱のある福岡県大牟田市で生まれた。それは今から考えると、三池争議から7年たったときだった。さらに、三池炭鉱三川坑の粉塵爆発による大事故から4年たったときだった。もうすでに石炭で栄え、戦後の経済復興を支えた大牟田の街は斜陽の時代を迎えつつあった。私は、地元の小学校、中学校で学びながらも、学校で三池争議のことを教えられたことは一度もなかった。学校では、近現代史のこと、身近なことは学ばないようになっている。一人ひとりの生活や家庭や思想にかかわってくるようなテーマは、避けられるようになっている。そして、誰がみてもそうであるとしかいえないような、いわばどうでもいいような知識だけが教えられる。そうであるから、学校で三池争議について教えられることは決してなかった。石炭については教えられた。しかし、それは江戸時代に農民の何とか左右衛門が燃える石を発見したとかいうしょうもない話と、三池炭鉱で産出される石炭が日本全国で産出される国内炭の何十%を占めるとかいうどこに住んでいる者が学んでも同じような知識のみだった。大牟田に住むものにとって、三池争議について学ぶことは、恐ろしいことであったゆえに、巧妙に避けられたのだった。
さて、そういう風土のなかで、私はどうやって三池争議に出会っていったのだろう。幼い頃の大牟田の風景を思い起こすと、そこには電柱にくくりつけられた立て看板があらわれてくる。「合理化反対」という労働組合の立て看板。石炭を中心に廻っていた大牟田の企業はすべからく斜陽化の時代を迎え、企業は人員削減による合理化によってこの危機を乗り切ろうとしていた。大人の社会の動揺は、必ず子どもの生活に響いてくる。大牟田では、子どもたちもまた先行き不安な空気のなかで、すさんでいたような気がする。それは、筑豊でも同じことだった。筑豊の中小炭鉱が相次いで倒産していた時代、筑豊の子どもたちは一夜にして荒れたといわれる。三池でもまた、1960年以後、同じ状況が待ち受けていたのだ。
私は、このような大牟田の風土と、校内暴力が全国を席巻した時代のなかで、少年時代から思春期を過ごした。大牟田にいたとき、いつも孤独だったし、はやく都会に逃れたかった。しかし、同時に、大牟田の風景に深い愛着をもっていた。そして、18の春、上京した。その後、東京に住んで、そこから大牟田について考える体験をすることになった。それとともに、大牟田で自分の生きた時代が何だったのかを考える体験をすることになった。大学2年のとき、最も気に入っていた教育学の授業で、「自分のお薦めの一冊」をみんなに紹介するときに、私は書名は忘れたが三池炭鉱の歴史を語っている本を紹介した。そして、「大牟田は日本の戦後経済復興を支えた都市であった。三池炭鉱で働いた人々のおかげで戦後の復興はなしとげられた。しかし、今は大牟田はさびれた街になっている。もし日本という国が、地方を利用するだけ利用して、役に立たなくなるとポイと捨てるのであれば、いずれは日本という国全体が同じ運命を辿るだろう。」と話したことを覚えている。そして、最終レポートの授業案提出では、「石炭」というテーマで、10時間の授業案を作成した。
その後は、教育学の世界に進み、学校における学びのあり方と、教師の成長について研究を続けてきた。そして、三池炭鉱のことは、しばらく頭から離れていた。そういうときに、私はNHKの「戦後50年、そのとき日本は」を観たのである。そこで描かれていたのは、解雇される者が解雇されない者とともに闘うという仲間の連帯の姿であった。私は、連帯して大資本と闘った歴史をもつ故郷をもつことに誇らしささえ感じた。その一方で、番組のなかでは、語られなかったことがあるのではないかという思いをもった。番組は、NHKらしく資本家と労働者の中立を保つように描かれている。さらに、もはや忘れ去られようとしている三池争議にインパクトをもたせるために、資本主義と社会主義の体制の選択という大風呂敷を広げて、三池争議を描いている。また、聞き取りの対象が、労使双方の大物と政治家ばかりである。私は、この番組に感動を覚えながらも、こういうクリアーな描き方により、隠されてしまった何かがあるのではないかと思ったのである。
そして、1997年3月30日、三池炭鉱は124年の歴史に幕を閉じた。そのとき、三池争議を闘った三池労組の組合員はわずかに15名。新労(第二組合)の抵抗もなく、あっけなく閉山は完了した。三井鉱山の代表者は、閉山の挨拶で、寒村だった大牟田を繁栄させたのは、三井鉱山の功績であると語ったという。合理化でヤマを離れ、各地で苦労したであろう人々のことは、彼の頭にあったであろうか。自らの過ちで起こした三川坑の粉塵爆発で亡くなった500人以上の人々のこと、今もなおCO中毒の後遺症で苦しむ患者とその家族の人々のことは、彼の頭にあったであろうか。三井鉱山が刻んだ負の遺産についての言及はまったくなかった。
私は、その1997年3月30日の数日前まで、大牟田にいた。私は、その春で大学院での学びを終え、4月1日からの東京経済大学への就職が決まっていた。そして、学生最後の春を、大牟田で過ごしたのである。私は、東京で職を得ることになった。その私が故郷とかかわる方法には、どのようなやり方があるのだろう。私は、地方から上京し、出世して故郷に錦を飾るような生き方は嫌だと思った。そして、地方に戻り、地方の文化を支えていく働きも、取りあえず閉ざされた。そうであれば、外に住みながらも、大牟田、三池の歴史を掘り起こしていくことによって、故郷とかかわっていきたいと思った。東京の学生を三池で闘った人々とかかわらせていくことは、おそらくお互いにとって意味のあることではないだろうか。私はこうして、東京に住まうことによって、三池とかかわっていくことを決意したのである。三池の闘いは、今の学生の心に届くだろうか。届くかどうかは、私自身が、三池の闘いを自分のことばをもって捉えることができるかどうかにかかっているように思う。私の三池とのかかわりは、今始まったばかりなのだ。