芳川勝さん
<芳川勝さんにとっての三池争議>




 【芳川勝さんの聞き取りの記録:1997/8/27(水)−大牟田市高砂町・三池労組会館にて】

 私と芳川さんとの出会いについて、少しばかり語っておこう。1997年3月の帰省の折、早いうちに三池労組と連絡をとっておかなくては、閉山に伴って三池労組も解散するだろうから、と思い、電話帳で三池労組の電話番号を調べ、電話を入れた。そこで、感じのいい事務員さんの取り次ぎで芳川さんが出られ、三池労組はまだ存続することと、話を聞きたいのであれば、応じることはできるとのことを話された。三池労組が存続するということで安心した私は、その春はそこまでで、1997年の夏に三池労組を訪ねることにした。
 三池炭鉱旧三川坑の近くに建てられた三池労組会館を探すのは難しかった。私の住んでいた歴木は、大牟田市のどちらかといえば北東であり、三池労組のある南西の地域はなじみの薄い地域であるからだ。それでも、なんとか三池労組会館の建物を見つけると、その美しさに驚いた。15名の組合員しかいない労組の会館とはとうてい思えない。さほど大きくはないが、こじんまりとしていていい感じの建物である。この建物が、三池争議で解雇処分を受けた人々や粉塵爆発のCO中毒で苦しむ人々の拠点としてカンパによって作られたと聞くと、こういう拠点はとても大事だと思われた。三池労組には、貴重な資料もたくさんある。時代の流れとともに、埋もれさせてはならない、生きた記録なのである。
 さて、芳川さんは、多忙の間を縫って、時間を割いて下さった。また、未整理の資料も見せて下さった。近くに住んでいれば、学生と労組会館に通って、資料の整理をしたいとほんとうに思った。10年間、三池労組は存続するという。三池争議について研究するならばこの10年が勝負だと思った。さらに、当時の三池労組が作成した三池争議のビデオも見せていただいた。芳川さんは10代で三池争議を経験し、その後の三池労組の斜陽の時期にずっと三池労組を支えていった人だ。組合の専従ではなく、自らも採炭現場で働きながら、労働運動を続けていった人だ。こういう人は信頼できると、私は思った。(続く)

  <出会いの場面まで1997/10/5>