久保田正己さん
<久保田正己さんにとっての三池争議>
【久保田正己さんの聞き取りの記録:1997/8/27(水)−荒尾市の久保田さんの自宅】
私と久保田さんとの出会いについて、少しばかり語っておこう。私が久保田さんのことを知ったのは、那須さんと同じく、NHKのドキュメンタリー「戦後50年、そのとき日本は」の番組を観てのことだった。私にとって、番組での久保田さんの印象はあまり強いものではなかったが、これは久保田さんの存在の希薄さではなく、久保田さんの存在の重厚さが単純化した扱いを許さなかったからであることが、実際にお会いしてみてよくわかった。三池労組の副組合長をなさっていた久保田さんには、どうしてもお会いしたいと思い、実家の母から大牟田の電話帳にないという連絡を受けた後、荒尾の電話帳も探してもらい、久保田さんの所在を知ることができた。
那須さんに会っていただく約束の日(1997年8月26日)の午前、私は久保田さんに電話を入れた。久保田さんは、那須さんとは対照的にぶっきらぼうで、「何を聞きに来るんだ」と言われた。確かに、私自身、よし三池争議のことを学ぼうと思いたったばかりで、実際、何を聞いたらいいのかきちんとわかっているわけではない。当事者の人たちと実際に会いながら、三池争議とは何だったのかを理解していこうという甘い考えをもっているぐらいだ。さすがに久保田さんは、その甘さをきちんと見抜かれたのだ。私は、しどろもどろしながらも、大牟田の出身で、三池争議について学生たちとともに学んでいきたいと考えていること、どうしても当事者であった久保田さんに実際に会って、どういう思いで闘われたのか、お話をうかがいたいことなどを説明した。
すると、久保田さんは、じゃあ、一応、来なさいと言ってくれ、身体の調子が悪いから、長い時間にならないようにと言われた。私は冷や汗をかきながら、はい、短い時間で十分ですと答え、翌日の午前中に会っていただくことになった。
1997年8月27日の9時30分、私は母の軽自動車を借りて実家を出て、荒尾の久保田さんのお宅へ向かった。約束の10時のちょっと前に久保田さんのお宅についた。久保田さんは縁側からこっちへ入ってこいという動作をなさって、私は玄関から入っていった。奥様が出てこられ、ご挨拶されたのち、私は、久保田さんと縁側のソファーに座って向き合いながら、お話をうかがうことになった。自宅の書棚には、三池争議、三池炭鉱、労働問題などに関する本が数多く並んでいた。久保田さんは、年に何回か、あんたのように話を聞きたいという人が連絡してくると言われた。だけど、たいてい断ることにしている、だいたい本を読めばわかることなのに、話を聞きに来るというのが多い、と苦言を呈された。そして、まあ、あんたは地元の人で、話を聞いとると切れもんみたいだから、ちょっとおうてみようかと思った、とお世辞を言われた。しばしのやりとりを通して、押したり、引いたり、変幻自在の、まさに「人物」だとうならされた。
久保田さんと一言二言交わしたのち、私は、三池炭鉱に関する本もきちんと読まないで、久保田さんに会っていただこうという自分の横着さに恥じ入ったが、ここまで来た以上、引き返すわけにもいかない。肝を据えて、インタビューへと突き進んだ。インタビューの内容に入る前に、久保田さんに会ったとき、二つの収穫を得たことを伝えたい。一つは、私がNHKの「戦後50年」の取材について尋ねたところ、「よう勉強しとった。本はかたっぱしから読んどったようだ。」とおっしゃりつつ、「だけど、ほんとんことはわかっとらん。ちごうとる(違っている)。」と言われた。「どこかちごうとりますか」と尋ねたところ、「例えば、資本主義と社会主義の体制の選択など、こっちは全然考えとりゃせん」と答えられたのである。うん、うん、私が思っていたことと近い。そして、もう一つは、久保田さんに総評の元議長である太田薫さんから手紙が来ていたことである。久保田さんは人望厚く、太田薫さんとも親交が続いているようだ。さらに、その手紙の内容が、なんと三池争議、三池炭鉱に深くかかわることであったのだ。このことは、彼らの人生にとって三池争議がまだ終わっていないことを示していた。(続く)
<出会いの場面まで1997/10/5>