河野昌幸さん
<河野昌幸さんにとっての三池争議>




河野さんとゼミの神山くんとたかいら


 【河野昌幸さんの聞き取りの記録:1997/10/16(木)−武蔵村山市の自宅】

 私と河野さんとの出会いもまた、NHKのドキュメンタリー「戦後50年、そのとき日本は」の番組においてであった。河野さんは、三池争議のヤマ場であるホッパー決戦の行動隊長を務められた。最前線で警察部隊と激突する役割であり、そこには決死の覚悟があったのだと思う。また、NHKの番組では、自らが作詞にたずさわったという「炭掘る仲間」を噛みしめながら歌っておられた河野さんの姿が印象的であった。時折涙ぐみながら、「炭掘る仲間」を歌っておられた河野さんの心には、どのような思いが渦巻いていたのであろうか。そして、河野さんが生命を賭けて闘った三池争議とは一体何だったのか。私は、ぜひとも河野さんに実際にお会いして、お話をうかがいたいと思ったのだ。
 河野さんの電話番号は、大牟田、荒尾の電話帳には掲載されていなかった。しかし、荒尾に住む久保田正己さんが河野さんの住まいをご存じだった。東京都武蔵村山市、私が住む清瀬市と同じ東京の多摩地区である。運がよかった。これはぜひとも学生を連れていきたいと思った。そして、この秋、ついに河野さんにお会いする機会を得た。河野さんは、足を悪くされ、ほとんど寝たきりの状態であるとのことであったが、記憶はきわめて明晰で、約3時間にわたって詳しいインタビューをもつことができた。河野さんへのインタビューは、今回の一連のインタビューの中でもとくに印象に残るインタビューとなった。

 河野さんのご自宅は、西武拝島線の玉川上水駅から徒歩で10分ほどの、閑静な住宅街のなかにある。河野さんは、故郷をはるか離れた東京多摩地区にて、末の娘さん夫婦とお孫さん二人と住んでおられる。足を悪くされて以来、ベッドに横たわっておられるとのことだが、83歳というのが信じられないぐらい、記憶は確かで、話の内容はしっかりしていた。ベッドの部屋には、三池艦隊の写真が掛けてあった。三池艦隊の帆船は、争議のときの長崎からの援軍だったそうだ。大牟田の話を少しばかりかわしたあと、河野さんはまず壁に掛かった写真を見ながら、三池艦隊の話をして下さり、そののち、久保清さんが刺殺されたことの無念を語られた。どちらの話からも武器や資金や政治力の面で劣勢だった組合の苦しい闘いの様子が、私たちに伝わってきた。この話を導入として、私の聞き取りの方法であるライフヒストリー法により、河野さんの誕生からの人生行路の物語(ライフストーリー)が幕を開けた。
 河野さんは1914(大正3)年7月22日、福岡県山門郡山川村に生まれた。山門郡は大牟田・三池の北に位置する地域であり、山川村は純農村地帯である。河野さんの生家は精米業を営んでおり、姉弟構成は姉4人と本人で、河野さんは一人息子の末っ子であった。小学校を卒業後、旧制八女中学(現、八女高校)に進学。当時、旧制中学に進学できる生徒は限られており、河野さんが知的にも能力が高く、家庭の理解もあったものと思われる。それでも、月に5円の授業料は大きな負担で、授業料の納入の際、お父さんからしばしばもうちょっと待ってくれと言われたという。
 1932(昭和7)年、河野さんは八女中学を卒業。その後、教員検定の試験を受け、見事1年で合格すると、1934(昭和9)年から大牟田市の第九小学校の教師となり、その後、1938(昭和13)年までそこで教鞭をとることとなった。そもそも温和な河野さんは、小学校の教師という職業が決して嫌いではなかったが、その当時月給30円で両親と食べていくのは大変だったということもあり、姉夫婦のつてをたどって、満州に行くことになる。親御さんたちは反対をされたというが、その反対を押し切って、河野さんは、渡満する。廬溝橋事件をきっかけとして日中全面戦争が勃発した翌年の1938(昭和13年)の8月のことであった。
 満州では、南満州鉄道の吉林鉄道局文書課に勤務する。渡満の翌年1939(昭和14)年、満州で大きな事件が起こる。満州とソ連の境界線あたりで日本軍とソ連軍の間で大規模な戦闘が起こったのである。これがいわゆるノモンハン事件である。ノモンハン事件は、「事件」という名称でその実態を隠蔽しているにもかかわらず、その内実は明らかな「戦争」であったといわれる。5月から9月にかけて、ノモンハンで日本の関東軍はソ連軍に大敗を喫し、これで北進をあきらめざるを得なかったといわれている。河野さんは、満州でノモンハンから帰還する軍人たちの顔を見て、すべてを悟ったという。その顔は、とてつもなく暗く、箝口令で一切口止めされ、軍人は一言も語らなかったにもかかわらず、ノモンハンの激闘がどんなにかひどい負け戦であったかが明らかだった。
 1945(昭和20)年8月8日、ソ連軍が日本に宣戦布告し、満州では阿鼻叫喚の叫びが充溢した。関東軍や南満州鉄道の幹部たちは、先を急いで、内地へ逃げ、開拓民たちは残された。河野さんもまたソ連国境近くのジャモスに抑留され、さらに撫順に移り、抑留された。そこで河野さんは、1945(昭和20)年10月から翌1946(昭和21)年6月まで小学校の校舎に住まわされた。満州の冬は苛酷である。栄養も十分ではなかったのか、そこでお母さんと姪御さんが亡くなった。過ぐる1943(昭和18)年に、お父さんを亡くしている河野さんは、希望の地と夢見た満州で大切なものをすべて失ってしまったのである。河野さんにとって、満州はまさしく絶望の地であり、そこで何度も死のうと考えたという。大牟田での教員生活を辞めて、渡満したという人生の決断が、結果的に父と母の死につながったという自責の念が、河野さんの心をいかに苛んだか、その苦しみは想像するに難くない。しかし、河野さんは生きることを選択した。自らの選択の過ちを前に死に傾きかけた河野さんが、ここで生きることを選んだということは、敗戦までの31年の人生を自分の責任において引き受けて、もう一度生き直すことを意味していた。河野さんの戦後は、こうして始まった。
 1946(昭和21)年7月1日、河野さん一行を乗せた船は、舞鶴港に入港した。河野さんは生きて内地の土を踏みしめた。九州の郷里に帰った河野さんは、しばらくの間、巻きたばこづくりをしながら生計をたてたのち、同年9月から三井三池炭鉱に入山した。戦後復興を支える石炭産業に対して、国策として傾斜生産方式がとられ、炭鉱夫の配給がよかったことが、その入山の動機であった。河野さんは、1941(昭和16)年に結婚し、二人の子どもがいた。家族を養っていくために、食料、衣料の配給に恵まれていた炭鉱夫になることを決断したのである。入社試験は簡単であった。「共産党についてどう思うか」「よく知りませんが、あんまり好きじゃありません」「よし」これだけで合格となった。河野さんは三井三池炭鉱宮浦坑に入り、2年間現場でみっちり働いた。
 さて、三井三池では、1945(昭和20)年12月17日、三川坑に最初の労組が結成され、1946年には三池労組が結成されていた。1948(昭和23)年に、河野さんは組合の代議員に選出され、代議員大会で当時組合長でのちに参議院議員になる阿具根登氏の推挙で、文化部長となったのである。これが1948(昭和23)年9月のことであった。この後、組合の専従役員となったが、1952(昭和27)年の63日間のストライキのとき、一回現場に戻っている。しかし、組合の専従役員ということで、会社側に警戒され、現場の細かいところは見せてもらえなかったという。さて、翌1953(昭和28)年4月には、再び組合の役員に選出され、はじめて本部の役員となった。三井三池炭鉱には三川坑、宮浦坑、勝立坑など複数の坑口があり、それぞれに組合の支部がある。河野さんは、それまでは支部の役員であり、このときから本部の役員として歴史の表舞台に登場することになるのである。
 さて、はじめて本部の役員となった河野さんは、宮川睦男組合長のもと、なんと組合の書記長に選出され、三池労組約2万人を統括する立場に立つことになる。そして、宮川−河野体制の下、1953(昭和28)年7月の三井鉱山の首切り合理化政策に対して、113日間の闘争、いわゆる「英雄なき113日のたたかい」を闘い抜き、指名解雇撤回を勝ち取るのである。この闘いで、「眠れる豚」といわれた三池労組の士気は、俄然高まった。資本論の研究で著名な向坂逸郎教授を始めとして、のちに福岡県の知事となる奥田八二氏ら、九州大学経済学部の教官、助手、大学院生たちがぞくぞくと三池に駆けつけ、勉強会を開催した。社宅単位の地域分会ごとにひらかれたこの勉強会を通して、三池労組は理論武装を固めていった。
 そして、なんといっても、鉄の団結を誇った三池労組を支えたのが、三池炭鉱主婦協議会(三池炭婦協)の結成であった。全国組織としての日本炭鉱主婦協議会(日本炭婦協)は1952(昭和27)年9月に結成されていたが、三池では会社側の妨害工作により、結成は遅れていた。会社もまた女性の連帯が最も脅威であることに気づいていたのである。男性労働者だけの組合運動は、競争や差別によって切り崩すことが容易い。ところが、主婦たちも組合運動の担い手として参加するとき、その連帯の力は容易に分断することはできない。男性が観念の領域を担っている一方で、女性は生活の領域を担っている。観念の領域における連帯が生活の領域における連帯と結合したとき、ものすごい力を発揮する。三池の113日間の闘争の勝利の背景には、三池炭鉱主婦協議会(のちの三池炭鉱主婦会)の結成があったのである。
 もう一つ、三池の113日間の闘争の成功は、鉱員と職員の連帯によって生み出されたと、河野さんはいう。日給の出来高払いである鉱員と月給取りである職員との間には、大きな溝があった。しかし、この113日間の闘争では、鉱員の組合である全国三井炭鉱労働組合連合会と職員の組合である三井鉱山社員労働組合連合会が連帯して闘ったことが、組合側の勝利の大きな要因となったのである。この後、113日間の闘争で勝利を得た三池労組は、さらに三井鉱山を相手取って、労働者の権利を次々に認めさせていった。
 この間、河野さんは、三池労組の書記長から全国三井炭鉱労働組合連合会(三鉱連)の三池代表に移った。三鉱連には、三池のほか、砂川、美唄、芦別、田川、山野の五山があり、全部で六山で構成されていた。一方、河野さんに代わって三池労組書記長には灰原茂雄氏が就任した。ところが、石炭産業がもてはやされた戦後復興期は足早に過ぎ去ろうとしていた。エネルギー革命の到来である。中東の巨大油田の発見により、世界のエネルギーの趨勢は、石炭から石油へ大きくシフトしていった。この逆風のなか、1950年代後半から、筑豊の中小炭鉱で合理化、倒産が相次いだ。この流れには、良質の石炭を産出していた三池でさえも逆らうことができなかった。そして、1959(昭和34)年、三井鉱山社長の栗木幹氏は、強硬な決断を下した。三井全山での4580人の大量指名解雇である。このなかには、三池の2210人が含まれていた。
 三池の2210人には組合活動家が約300名含まれており、そこには明らかに資本の組合潰しの意図があった。三池労組は、これに対して徹底抗戦の構えをとった。会社側との交渉は決裂し、三井鉱山は、1960(昭和35)年1月25日、ロックアウト(組合員の坑内への立入禁止)を断行、これに対して、三池労組は全面無制限ストライキに突入、三池争議の幕は切って落とされた。
 さて、このとき、河野さんはどうしていたのだろうか。河野さんは東京にいた。三鉱連の代表として、今回の争議の難しさを痛感していた。113日間の闘争のときとあらゆる状況が違っている。1959(昭和34)年7月の三鉱連の御嶽大会で、三池のほかの五山は、会社との妥結の道を選んだ。三池は孤立してしまったのである。さらに、今度は職員の解雇は通告されていない。三池労組の闘いは、職員からも支えられることはない。この状況の下で、会社と全面的に闘うことには勝ち目はないと、河野さんは思った。だが、説得に向かった三池で、東京と三池の温度差を感じた。妥結を勧める河野さんを、三池の組合員たちは「おまえも東京ぼけしたか」と一蹴、河野さんは仕方がないとあきらめ、三池労組と心中する覚悟を決めた。自らが育てた組合を、利害からではなく、ただひたすら守りたかったのだ。
 その頃、三池では、会社による組合の分裂工作が進んでいた。組合の幹部は副組合長の久保田正己さんを除くと、社会主義協会の会員で占められていた。これに対して、批判的な勢力も存在した。会社は、ここに目をつけ、切り崩し工作を展開した。そして、1960(昭和35)年3月15日、緊急中央委員会で鉄の団結を誇った三池労組は分裂した。河野さんにとっては、なんとも悲しい出来事であった。自らが育てた組合が分裂し、骨肉の争いを演じる。怒りと悲しみがこみ上げてきた。十数年かかって育て上げてきた組合が、一瞬にして崩れ去る。この悲しみはいかばかりなものであろうか。
 実は、会社側は、第二組合のトップに河野さんをつけようとしていたという。引き抜き金として1000万円が積まれた。今でいえば、数億円に値するだろう。しかし、河野さんはこの取引を断った。こんな金をもらって、どの面下げて三池の地を踏めるかと思ったという。同じ引き抜き工作は、私がこの夏インタビューした久保田さんにも行われた。しかし、このお二人は、負ける戦と知りながら、三池労組と心中することを選択された。そして、今、お二人とも質素なお宅に住まわれているが、その表情は人を魅せる深みにあふれている。これはまさに人間の決断、選択の結実であると思わされた。
 三池労組は分裂した。ところが、その2週間後の3月28日、会社が雇ったと思われる暴力団員によって三池労組組合員久保清さんが刺殺された。この事件をきっかけとして、三池労組への同情、共感が全国に高まった。この世論の盛り上がりを背景として、三池はさらなる闘いを続けることとなった。そして、7月20日、ホッパー(貯炭槽)を固める三池労組と、実力行使による排除企てる警官隊との間で起こるであろう激闘、いわゆるホッパー決戦の日を迎えた。河野さんは、自ら志願して行動隊長となり、死を覚悟して、ホッパーの前の線路に横たわった。実は、河野さんは、この日、家を出てからのことを全然覚えていないという。窮極まで追いつめられ、すべてを覚悟したとき、さまざまな思念はすべて去ってしまうのであろう。東京に残している家族のことも全く頭には浮かばなかったという。31歳で敗戦を経験し、満州ですべてを失った河野さんにとって、三池のホッパーという戦場は求め続けていた死に場だったのかもしれない。
 ところが、河野さんはここでも死ぬことはできなかった。流血を伴う衝突を避けるために、東京では中央労働委員会の斡旋による調停工作が進んでいたのであった。中央労働委員会への白紙委任の調停案を、炭労と会社が受諾することで、警官隊は引き返していった。こうして三池労組側2万人、警官隊1万人の衝突は避けられた。
 8月10日に出された中央労働委員会の斡旋案は、事実上1202人の指名解雇を認め、会社側の要求を全面的に受諾したものであった。河野さんは、三池を離れ、東京に戻った。しばらくは総評に勤務しながら、三池炭鉱も辞めなかった。三池争議の直前、三鉱連の代表として東京にいたため、会社側は河野さんを不当労働行為で解雇することはできなかったのである。そして、しばらくして三池炭鉱を辞職した。三池争議のあと、1、2回しか九州へは帰っていないという。
 三池争議の3年後、三池炭鉱三川坑にて粉塵爆発の大事故が発生、死者458名、CO中毒後遺症患者839名という戦後最大の大惨事となった。爆発の要因は、会社側の基本的な坑内保安の怠慢によるものであった。河野さんは、三池労組の役員として、保安闘争に取り組んでいた時代のことを振り返る。毎年、死傷者が10名ほど出ていた三池で、現場の労働者が参加できる保安システムを構築することにより、毎年死傷者は減少し、3人、2人、そしてゼロと、労働者のいのちは明らかに守られていった。ところが、三池争議の組合の敗北により、合理化による人員削減の上、増産が強いられ、労働者のいのちはないがしろにされたのである。ホッパー決戦を闘っていたら、3桁の死者が出ただろうといわれる。しかし、ホッパー決戦を避けても、3桁の死者が出たのである。
 河野さんの人生は、三池争議のあとも続く。河野さんは、今年で83歳、三池争議のあと37年間を生きてきた。しかし、河野さんにとって、人生で一番輝き、命懸けでがんばったのは、三池労組を育て上げていった時代だったという。この河野さんにとって、三池争議での組合の分裂と敗北は、大切に育て上げた我が子を失ってしまうような、言葉にはいい尽くせないような衝撃だったという。私は、三池争議の研究をはじめてから、いろいろな人と出会った。そのなかでも、河野さんは特別にお会いしたい方であった。なぜならば、NHKの番組で観た河野さんの目が輝いていたからである。こんないい顔をされている方の人生の歩みをぜひともお聞きしたい、そう思って、今回、河野さんのインタビューに臨んだ。絶望を抱えながらも、義(正しさ)を追求する生き方が、あとに続く者の糧になることを、河野さんの人生から教えられた。