前川俊行さん
<前川俊行さんにとっての三池争議>




前川さんのお宅の愛犬「とらちゃん」


 【前川俊行さんの聞き取りの記録:1997/8/23(土)−滋賀県彦根市の前川さんの自宅】

 私が前川さんとはじめて出会ったのは、インターネット上のことであった。大学の近現代史のゼミで三池争議について学ぶときに、何か手がかりはないかという軽い気持ちで、インターネットの検索をしたところ、前川さんのホームページに出会ったのである。前川さんのホームページは、三池炭鉱への郷愁に満ちた、魂のこもったページであった。小学校の二年まで過ごした荒尾への懐かしみと、その故郷を去ることをやむなくされた三池争議への熱い思いが伝わってきた。炭鉱員として誇りをもって働いていたお父さんが指名解雇を受け、そこを去っていく姿。前川さんは、今はなきお父さんの姿をしのびながら、自らの出生の地である荒尾の炭鉱住宅を綴っていたのである。前川さんの詩は、深く心を揺さぶるものであった。また、小学校二年までの生活の場が、どうしてここまで前川さんの心を惹きつけるのか、私はその理由(わけ)を尋ねてみたかった。そこには炭鉱のもつ独特の匂い、あるいは、当時の三池の労働者の深い共同性、あるいは、炭鉱住宅のもつ何ともいいがたい懐かしさがあるのではないかと、私は勝手に夢想しながら、いつの日か、前川さんにお会いしたいという願いをもち、私の心揺さぶられた思いをメールにしたため、送ったのであった。
 すると、前川さんからすぐにご丁寧なお返事がきた。大牟田の出身である私に、好意をもって下さり、三池争議のときの貴重な写真なども送って下さった。それからも、何度もメールでやりとりとする中で、私は前川さんにどうしても直接お会いして、話を聴きたいと思うようになり、その夏、妻と二人で、彦根の前川さんのご自宅に、お邪魔することになったのである。
 米原駅に迎えに来て下さった前川さんは、思った以上に気さくな方だった。ちょっとぶっきらぼうだけど、細やかな配慮のある方で、関西弁の中に、九州のことばの匂いが感じられた。三十数年前に九州を離れられたせいだろうか、私が幼いときの九州のおじさんのような、おおらかで、それでいて実直な雰囲気が伝わってきた。ある意味では、九州人より九州っぽい方だった。
 前川さんは、公務員をされている一方で、マラソンやパソコンの趣味の世界をひろげられている。一番の楽しみは、大学の教育学部で養護教育を学ぶ娘さんと理工系の大学を目指して受験勉強に励んでいる息子さんの成長を見ることだそうで、「自分のような親からすれば、二人ともよく育ってくれたものだと、親ながらありがたいことだと思っています」と目を細めておっしゃった。まさにその通りの、よい娘さんと息子さんだった。やはり、親が本音で実直に生きていることが最大の教育力なのではないかと思う。前川さんは、保守的なスタンスをもちながらも、違った考え方も受け容れるキャパシティをもった方だった。情が深く、涙もろいのか、「戦後五十年、そのとき日本は」の三池争議を観ると、涙してしまうといわれた。私も、あのドキュメントに心揺さぶられて、三池争議の研究をスタートした。この研究は、私と前川さんとの出会いから出発したのだった。

  <出会いの場面まで1997/10/5>