Daily  たまのさんぽみち


教育についてのひとりごと
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  2001/3/19(Mon) <応答のあるうれしさ>

 本のページでも紹介している『エウレカ』の著者、轟寿男(とどろきひさお)先生から「高井良ゼミナール冊子2000」を読んでの感想メールがやって来た。発信した情報に、応答が返ってくると、何ともうれしいものである。そして、その応答が、こちらの発信を超えて、より深く読み込んでもらえたものであると、さらにうれしくなる。昨晩は、そのメールに一生懸命再応答のメールを書いた。轟先生の第一作『轟先生がやってきた』も、かなり面白い本である。本のページをリニューアルしたら、掲載したいと思っている。


 ○ 『高井良ゼミナール(前半)』は興味深く読みました。「今」の小・中・高校生を知りたいと常々思っています。いろいろなことを考えるとき、要するに「今」が自分には見えていないということを痛感します。上にも書いているように「今」が見えないのです。そういう意味では「今」をレポートしているという気がします。しかし、「今」をどう捉えていいのかはまだまだ分からない状態です。
 又、先生の話は自分ならこういう風に答えるというような比較の気持ちで読みました。その中で、一番興味深かったのは61ページの森崎君のレポートです。編集後記の森崎君のコメントを読んで一段と興味が深くなりました。

 「まず朝、生徒の顔を見る。その中から、どんな様子かなと感じ取るのが一つ。どこか違うなと思ったら気をつける。すぐに声をかけたりはしない」
 「こちらがきちんとした態度をとっていれば、信頼関係は築ける」
 「やっぱり楽しくだね」
 「人格が無視されて、学力だけで教員になる。ある種の哲学に欠けている」
 「そこまで生徒に気を使われていたと思うとまずかったなと思う」
 「みんな仲良くとは言わない。何かやろうとしたときにまとまればいい。集団とはそうあるべき」

 他にも印象に残っているのですが、これらの言葉に対してもっと突っ込んで聞いたら面白いだろうなという気がしました。教育実践に関して素晴らしい力量を持たれていて、教育哲学、教育理論を、言葉として持っているかどうかは別として、しっかり持たれている。そういう気がします。

 『高井良ゼミナール(後半)』は今読んでいます。これもなかなか面白そうですね。

 勝手なことばかり書きました。失礼の段、ご容赦を。


 ○ 森崎くんの聞き取りは、私にとってもたしかな読みごたえがあった。中学時代に、「この先生は何か違う」と感じた森崎くんが、その違いを生み出しているものはどこにあるのかという問いをもち、先生の考え方の底に降りて、聞き取った作品である。教師として日々研鑽を積まれている轟先生に、どこかしら響く作品が、一つでもあったことが、今年のゼミナール企画への大きな励ましになった。




  2001/3/16(Fri) <風邪でダウン>

 夕食をケチって牛丼にしていたせいか、はたまた来年度のことを考えざるを得ない時期に来て脳がフリーズしてしまったせいか、風邪を引いてしまった。昨晩まで何ともなかったのだが、明け方目を覚ましたら、のどがとっても痛かった。そして、一日、床に伏せることとなった。
 考えてみると、小さい頃から、この時期になると、3分の2ぐらいの確率で、風邪でダウンしている。花粉症がひどい私は、この時期、鼻、のどがやられやすく、風邪にとってはスタンバイ0Kの状態になるのだろう。熱が39度にもなるようなインフルエンザは、身体中が痛くなり、とても苦しいのだが、微熱の風邪は、仕事はできないものの、なぜか心穏やかで、普段のようにじたばたすることもないのが、ほどよい感じである。おそらく普段は、ヘンなところに力が入っているのだろう。風邪がよくなっても、自分の力をわきまえて、失望もせず、ぬか喜びもせず、淡々と自分の畑を耕していけたら、どんなにかいいだろう。





  2001/3/15(Thu) <牛丼並290円>

 マクドナルドが平日ハンバーガー65円という驚異的な価格破壊を行い、並みいる外食店を震え上がらせているが、我らの牛丼屋も負けてはいない。国分寺駅前にも、らんぷ亭と松屋が隣同士に店舗を構え、激しい価格競争をしている。子どもの頃、なかなか牛肉を食べることができなかった私としては、牛丼並290円とは夢のような話である。さっそく、290円で夕食を済まそうと、らんぷ亭に入場した。「並一つ」と注文し、お姉さんが運んでくれた水を飲んでいると、速攻で「お待たせしました」とちっとも待ちもしないのに、おいしそうな牛丼が運ばれてくる。運んでくれたお兄さんの顔を見上げると、おっと、私の講義に出ていた二部の学生ではないか。「あはは・・・」「へんなところであったね」と言い訳がましく苦笑いする私と、「こんにちは」と礼儀正しく働いている彼。私はいそいそと牛丼並290円を食べて、らんぷ亭をあとにした。
 らんぷ亭が包囲されてしまった以上、次は松屋しかないと、今度は、私の足は隣の松屋に向かった。おっと、松屋は、らんぷ亭と違って、自動券売機で食券を購入するという仕組みになっている。なんにしようかな、やっぱり、牛丼並290円だな、そうそう、これでも私は大学の先生だ、リッチに卵50円をつけよう(笑)と、総額340円をはたいて、夕食のメニューが決まった。さっそく、食券をテーブルにおいたところ、店のお姉さんが食券をみて、どぎまぎとまどっている。どうしていいのかわからない様子だ。あれれ、一体、どうしたのだろうと思う私、どうしようと困っているお姉さん。なにか私の顔にへんなものでもついているのかなと思ったが、彼女の視線は、私の食券に釘付けだ。なんだろうと、私も食券に目を移した。
 すると、そこには「卵50円」と書かれた食券が一枚だけ置かれていた。「牛丼並290円」が自動券売機に置き去りにされていたのだ。店のお姉さんは、牛丼屋に来て、「卵50円」だけをたのむこの客には、いったいどのようなわけがあるのだろうかと、とまどっていたのだ。おそらくマニュアルには書いてなかったのだろう。心やさしい彼女は、貧しくて「卵50円」しか買えないのであろう不可思議な客を前に、立ち尽くしていたのだ。 あわてて、置き去りにされていた「牛丼並290円」を救出した私は、「あっ、これ」と食券を彼女に渡した。彼女は心なしか安堵しているように見えた。まもなく彼女は、何事もなかったかのように、牛丼とお味噌汁(松屋は290円でなんと味噌汁までついている)を運んでくれて、私は幸せそうに牛丼をほおばった。そして、何事もなかったかのように、再び研究室へと戻っていった。




  2001/3/14(Wed) <一事が万事>

 はりきって仕事をしていたところ、プリンタが紙詰まりを起こし、中断を余儀なくされた。プリンタを開けて、紙を思いっきりひっぱったところ、紙がブチっとちぎれて、事態はさらに泥沼化してしまった。せっかく調子よく仕事をしていたところだったので、ハラが立った。そして、いつもは読まないマニュアルをひらいた。マニュアルには、紙詰まりになったら、紙おさえを解除して、引き抜くようにと書いてある。紙おさえをONにしたまま、ムリにひっぱったので、紙がちぎれて、悲惨な事態になったのだ。マニュアルを読まずに、自分勝手なことをして、ドツボにはまる。ああ、いつも一事が万事だ。
 自分の不手際は脇において、こんなプリンタの設計をしたのは一体、どこのどいつだと毒づきながら(自分が退陣するのはマスコミのせいとほざいているどこかの誰かさんといい勝負だ)、プリンタをひらき、すきまからわずかに出ている紙を二本の指ではさんで取り出そうとするが、またブチっと切れるだけだ。ああ、かなしい。しかし、めげないぞと、ひどく威勢だけはみなぎって、再びチャレンジ。外してはならないところを外し、またわずかに出ている紙をひっぱるが、またもやブチっ!
 もういい加減、サービスマンでも呼ぼうかと思ったところで、いや、サービスマンも人間、我も人間、サービスマンができることが自分ができないはずはないという(誤った)論理的解答を得て、なにかそこにはマニュアルには書いてない謎が隠されているにちがいないと考え、あれこれプリンタの内部をさわりはじめた。すると、ある棒がぐるぐるまわることに気づく。その棒をまわすと、紙送りの芯と連動して、紙がまわって出てくるではないか。おお、感動。やっぱり解答はあったと大喜び。ところが、どっこい、紙の右半分は、この方法で救出されたが(もちろん遺体となってもとの姿をとどめないでのお帰りだった)、左半分はうまく出てこない。何度やっても同じだ。万策尽きたかと思ったところで、ふと棒を逆に回すと、うしろのほうから左半分がにょこにょこの顔を出してきた。おお、すごい!押してもダメなら、引いてみろというのは、やはり真実だった。何だか、オレも進歩したなと、自画自賛。ちょっといい気分。
 しかし、考えてみると、最初からマニュアルを読んでいたら、このあとの事態は免れて、さっさと終わっていたはず。まあ、おかげで、日記のネタが生まれたわけだが。一事が万事、やっぱり相変わらずな私だった。




  2001/3/13(Tue) <滅びゆく都営住宅>

 3年前まで住んでいた1960年代式長屋の都営住宅が、いよいよ建て替えとなり、取り壊された。現在の私の本籍地でもあり、結婚して新しい生活を始めた旅立ちの家が、跡形もなく壊されていくのは寂しいものがあった。私たちが住み慣れていた土地であるのに、工事のため白い天幕に囲まれ、ガードマンが配置され、物々しい雰囲気にされていく過程が、また悲しかった。建て替えでさえ、こうであるのだから、住み慣れた土地がゴミ処理場に変えられていく人々の悲しみは、いかほどであろうか。
 新聞によると、アフガニスタンのイスラム原理主義組織タリバンが、バーミヤンの石仏をダイナマイトで破壊したという。タリバンの外相は、石仏破壊は「イスラム法に基づく宗教的行為だ」と言っているらしいが、他者に対する想像力の欠けた行為を「宗教的行為」ということなどできようか。住み慣れた土地、なじんだ風景を、暴力的に奪い去られる悲しみをもつ人たちが、世界中にどれくらいいることだろうか。
 私は、都営住宅を出たあとも、住み慣れた都営住宅の近くに住み、ときどき空き家となった旧家を訪ねた。そして、主がいなくなり、草がぼうぼうと茂った庭を眺めた。このように3年近く、お別れのグリーフワーク(悲しみの儀式)をしてあと、取り壊しの日を迎えた。もちろん寂しい気持ちはあった。しかしながら、グリーフワークをしたおかげで、心の整理はかなりできていた。惜別の気持ちとともに、そこに住めたことへの感謝の気持ちも沸き上がってきた。人は、この忙しい世の中で、なんと呑気なことだろうと言うだろう。しかし、人間がこの地球のいずこかに住まい、そこで人生のある時間を過ごすということは、決してどうでもいいことではないのである。都営住宅での3年あまりの日々は、きっと人生の最期を迎えるときに、キラキラと輝いていることだろう。




  2001/3/12(Mon) <粉雪の舞う月曜日>

 3月は、冬と春がせめぎあう季節だ。今日は、冬が巻き返し、国分寺でも粉雪が舞っている。ホームページを始めてから、表紙に路地の花を掲載しているが、花を見出すことが最も難しいのがこの季節である。もうしばらくすると、野の花たちが一斉に咲き誇るのだけれども、冬と春がせめぎあうこの季節、野の花たちは慎重に時機を待っている。今日のような日があるから、迂闊には開花できないのだ。
 高所恐怖症なのに、高いバスの天井によじのぼってしまい、バスが走り出し、あやうく振り落とされそうになる夢をみた。バスが左右に揺れるたびに、落ちそうになり、「ああ、こんなことで命を落とすのか、止めておけばよかった」と自分の浅はかさを呪った。目が覚めて、命拾いをしたが、野の花たちのように、しなやかで賢(さと)くありたい。




  2001/3/10(Sat) <日ノ出町・所沢>

 ○ 何だか、最近、いろんなものがほんとうはでたらめなのではないかという疑念が頭をよぎる。東京多摩部のゴミ処理場がある日ノ出町、ここでは第一処分場が満杯になり、第二処分場が建設されている。処分場建設に反対の住民たちによるトラスト地は、東京都の強制執行で立ち退きをよぎなくされ、巨大な谷をつぶしての第二処分場建設が着々と進んでいる。第一処分場では、廃棄物から出る汚水を地下水や河川に流さないために、ビニールシートが敷かれたが、あっさり破損が見つかるという始末であった。厚さ1.5ミリ程度のビニールシートの上に、廃棄物の山を積み上げるならば、ものの役には立つまいというのは、小学生でもわかることである。先日、フィールドワークのために買った中古の軽自動車で日ノ出町に出かけ、雪の残る山道を歩いて、第二処分場を探検してきたが、暗澹たる気持ちで帰路に着いた。その話は、あとにゆずる。
 さて、でたらめといえば、所沢周辺の産業廃棄物処理工場問題、いわゆる所沢ダイオキシン問題である。NHKのラジオニュースによると、工場の数が最盛期の3分の1になったという情報が流れていたが、地元の人の話では、ほとんど状況は変わっていないという。また、テレビ朝日の報道問題(ホウレンソウにダイオキシンが付着しているという報道に対して、JAが訴えたもの)以来、マスコミも及び腰になり、問題の解決がさらに難しくなっているという話だった。所沢付近の問題が、一体、どういうものなのか、ちょうど先日、ひょんなことからある方からメールをいただいたので、ご紹介したい。

 * 高井良さんもホームページをお持ちですので、ちょっと覗かせていただきました。その中で、所沢のダイオキシンの記事がありますね。これが非常に気になりました。
と申しますのは、実は私は2年ほど前に約2年間、東所沢に住んでおりました (ヤオコーやノジマがわりと近所でした。どのあたりかはおそらくご存知でしょ う)。もちろんダイオキシン問題など知らずに住み着いたのですが、当地では大 きな問題になっていました。東所沢に越した時に2歳前ぐらいだった息子が、そ れまでなんともなかったのが徐々に咳き込むようになり、もともとアレルギーの 気はあるのでしょうが、とうとう気管支炎になってしまいました。このままでは 本格的な喘息になってしまうのではないかと心配し、2年ほどで再び引っ越し、 八王子に住み着きました。それから2年ほど経ちましたが、今ではほとんど咳き 込む事がなくなったのです。全てが環境によるものとは言い切れないのでしょう が、身を持って経験しただけに、人事ではない話です。最近はだいぶ改善されて きているらしい事をニュースなどで耳にしますが、一刻も早く、正常な環境になっ て欲しいものです。

 この方だけでなく、同じような話を別のところでも聞いたことがある。こうした普通の人の感覚こそがゴミ問題の怖さを最もよくあらわしている。「安全宣言」「もう大丈夫」といった専門家によるでたらめを信用するのは、いい加減終わりにしたい。




  2001/3/9(Fri) <ホームページ改造計画>

 ○ 秦さんや糸井(重里)さん、そして鳥越(俊太郎)さんのホームページに刺激されて、混沌としている私のホームページを整理しようと、昨日から改造計画にはまっている。来シーズンの授業を前にしての逃避行動とも考えられるのだが、それはさておき、本のページを整理していて、いろいろと自己発見があったことが面白かった。まず、分類してみたら、教育関係の本が最も多かったことである。生半可な教育学者ながらも、やっぱりこれが本職らしい。続いて、家族論、あやしい心理学、いずれも自分の意識が内向していたことがうかがえる。

 ○ 3月から車で大学に通っているが、道路がほじくり返されていて、やたらめったら時間がかかる。朝だとこれまでの自転車に負ける。車としてはかなり癪(しゃく)である。逆に自転車としては誇らしい。さて、道路がほじくり返されているのは、もちろん年度末調整のため。予算を使い切らないと、翌年から予算を削られるから、あわてて工事を入れるというおきまりのやり方だ。あれもしばらく前までは笑い話だったが、今はもはや笑い話ではない。長らく不況が続き、税収も減っている。それもただの不況ではない。人が快適に過ごすためのモノがほぼ行き渡ってしまっての不況なのだ。ある経済学者たちは、需要は作られる、問題はそのような魅力ある商品が出ないからだというが、私はそうは思わない。IT革命なんぞいう、目くらましによって、つかの間の需要を作り出すことはできるだろうが、問題が先送りされただけで、必ず飽和点に達するはずだ。人が生きていくのに必要なものなど限られている。過剰なモノは、人の力を削ぎ、不幸に陥れるだけだ。
 不況、不況だと大騒ぎするが、バブルの頃は、貧乏人にはひどい時代だった。不動産業者は貧乏学生を相手にしないし、地方から上京した人間にとって東京で家をもつことは夢のまた夢だった。あの頃にくらべると、たとえ年収が下がったとしても、家は安くなり、食料品も安くなり、生活しやすくなっている。新聞等によれば、デフレはよくないことらしいが、一体誰にとってよくないのか。株価が下がったところで、ほとんどの庶民には関係がない。不幸、不運をそのまま野ざらしにせず、互助していく仕組みさえ作れば、バブルの時代より今のほうがずっと生活しやすいのではないか。問われるべきは、今の不況であるというより、バブルの夢を追い続ける精神であろう。

 ○ ホームページ改造計画を突き動かしているものは、春のめざめのようである。長らく内向していたかえるさんも、啓蟄とともに目覚めるのか。あるいは、目覚めてすぐに、あなぐらに戻ってしまうかもしれない。




  2001/3/8(Thu) <表現をひらく>

 昨日、野宿者の人権と生活の支援活動をされている稲葉剛さんから電話があり、東京経済大学・生徒指導論の特別講義のときの学生たちの感想文を、季刊Shelter lessの誌面に掲載させてほしいという依頼があった。学生の感想文であるから、私の一存で決めることはできず、学生に許可をとった上で、返事をするという回答をした。それから学生たちに連絡をとっているわけであるが、これまでのところ掲載を拒んだ学生は一人もいない。
 また昨日、私はかねてからホームページ、あるいは本にて、思いを寄せていた(もちろん例にもれず片思いであるが)秦恒平さんに、昨日のこの欄の「こころ」の文章を添えて、ごあいさつのメールを送った。すると、ご多忙中にもかかわらず、電光石火の速さで返信が来て、なんと私の文章が秦さんのホームページに掲載されたというではないか。自分のホームページには、性懲りもなく駄文を載っけている私だが、相手が大文学者となると、話は違う。赤面し、「どうしよう」と思いつつ、本日、秦さんのホームページを訪ね、日記と電子文庫に私の文章があることを確認した。
 今朝、「秦さんの読みの深さからすると、私の読みは話にならないぐらい浅い。ああ、どうしよう」と出勤の車の中で、高校時代の現代文の恩師と私との対談「テープ」を聴きながら、私は悩みを深めていた。面白いことに対談「テープ」には、秦さんのこと、そして『こころ』の読解についての話が入っており、何ともグッドタイミングだったのだ。
 対談のなかで、わが恩師・西原和美先生は、「一人ひとりの多様な読みを許容することこそ、近代読者論の基盤」であるとおっしゃり、これを可能にしたものは「黙読の成立」だったと語られた。さらに、この論理でいくと、大学入試の現代文は、作品の一つの読みを解答するのではなく、作品と出題者と解答者との三角関係においてしか成立し得ないという。つまり、無限にある読みの中から、一つの読み、すなわち、出題者の読みを探っていくことであるというのである。もちろん、出題者の読みをそのまま察するのはあまりにもいやらしいから、チラッと解答者が、出題者と自分とのズレを調味料のようにつけ加えると、バッチリなのだろうが。
 少し本線から脱線してしまったが、今日、記したかったことは、たとえ「学生の感想」や「私の批評」が稚拙であっても、表現をひらいていくことに意味があるのではないかということである。表現は、自分に対しての表現であるとともに、他者に対しての表現でもある。他者を意識しない表現など、ないと言ってもいいだろう。(日記でさえ、心のどこかで、自分の死後、誰かに見られることを意識して書いているはずである。)稚拙な表現であっても、他者の目を通して、鍛えられていく。これを避けているかぎり、表現が成熟することはあり得ない。
 私のホームページにも、いろんな人たちからメールがやってくる。もと学生以外の方からのメールは、これまでほとんどホームページに掲載することはなかったわけだが、プライバシーに差し障りのないものは、今後、掲載してみたいと思っている。私と読者一人ひとりの対話もさることながら、私が問題提起したことについて、読者の人たちがどのような感想をもち、考えを抱いているのか、ここが響き合うことこそが、インターネットというメディアの面白さではないかと思うからだ。そして、考えてみると、この方法こそが、私が4年間かけて、東京経済大学の講義の中で、学生たちとともに創り上げていった方法なのである。
 ホームページの運営を始めて、自分だけでコンテンツを作って4年近く。ときどき疲れることや、こんなかたちで意味があるのだろうかと思うことや、こんな中途半端な表現で自分をすり減らしているとしたらと悩むことがあった。これもまた一昨年夏の北海道合宿で明らかになって以来の、抱え込む(歪んだかたちの英雄願望か)という私の病理のゆえだろう。そこで、秦さんのホームページに出会い、糸井さんのホームページに出会い、ホームページを通して、人と人との関係を編み直していくという面白さに気づきつつあるところである。

 * なお、ほんのページ、一週間に一冊はいよいよつらくなったので、しばらく更新はお休みして、これまでのページを整理して見やすくし、読者の人たちからのコメントなどをつけるというかたちにリニューアルしようと思います。




  2001/3/7(Wed) <こころ>

 夏目漱石の『こころ』を再読した。高校時代に現代文の恩師に『こころ』の世界にいざなわれて以来、16年ぶりのことである。今回、わたしを『こころ』の世界にいざなったのは、秦恒平さん。秦さんは、東工大で『こころ』を題材として、人のこころのあやに迫る文学の授業をされていた。秦さんのホームページで、『こころ』の講義ノートを読み、ぜひとも自分で再読し、たしかめてみたいと思ったのだ。
 『こころ』の読みとりについての話は、本のページに譲るが、1冊の本を時間をおいて読み返すというのは、変化する自分と不変の自分を知る、愉しい営みである。高校2年のとき、気合を入れて『こころ』の感想文を書いたことがある。あのとき、私は「K」と「先生」を対象として、観念だけが先走り、実践が伴わない彼らのありようを批判した。そして、自分と他者を追いつめない「いい加減」「適当」という実践原理があるのではないかと論じた。
 そして、大学時代、私は教育実習で訪れた母校で、『こころ』の感想文を受けとり、読み返す機会を得た。そのとき、「K」や「先生」、そして「私」と同じような学究の徒の立場にいた私は、「いい加減」「適当」な高校時代の自分を許容できず、過去の自分を断罪した。そこで私が断罪した過去の自分とは、世間そのものであった。
 それから10年ほどの歳月が過ぎ去り、私は「感想文」ではなく、『こころ』そのものを読んでみた。私のこころは、上「先生と私」、中「両親と私」に引き込まれた。人に巻き込まれるのでも、人を拒絶するのでもなく、人と関係をとり、そこから学んでいくことはどのようにして可能か。『こころ』の「私」の「先生」と「両親」についての考察を通して、さまざまな思いが脳裏をかけめぐった。しかしながら、高校時代に圧倒的な比重を占めていた(教科書でもこの場面が引用されている)下「先生と遺書」は、以前よりずっと小さい存在になっていた。
 今回、私は、「K」や「先生」のありようを批判するというより、気の毒なことだと感じた。「K」や「先生」が考えた以上に人間とは弱いものではないのかと、私は今思う。『こころ』には「向上心のないものは馬鹿だ」という印象に残ることばがある。自己を鍛錬することで、強くなれるという一つの幻想がここにはある。この幻想が、感情(あるいはこころ)というままならないものに敗れ去ったとき、「K」、そして「先生」は自らを裁く結末に至る。
 そこで「先生」と「両親」の世界が対置される。「先生」の思索は根源的である。「先生」の世界は、一見輝かしく見える。しかし、「先生」は読書はするが、知的生産はしない。「先生」は日々の糧を国債の利子によって得ている。一方の「両親」は、世間的な慣習にとらわれている。見てくれ主義であり、浅はかに思える。しかし、病いの中で「私」の学資の工面をしている。こうして限りなき「観念」の世界と、限りなき「実践」の世界に引き裂かれる「私」が浮かび上がってくる。これは西欧の学問と日本社会の現実のはざまを、どちらにも同一化することなく生き抜いた漱石の姿でもあるだろう。
 私自身に引きつけて考えるなら、身体を観念の支配下におこうとした大学時代、そして見事に破綻をきたした現在、現実への居直りがいやなら、はざまを生き抜く以外に道はない。「先生」の死、「父」の死のあとの「私」の人生は、「近代」の死、「世間」の死のあとの私たちの歩みとも重なっている。『こころ』は偉大な作品である。




  2001/3/3(Sat) <とある演劇>

 昨晩、とある演劇を観に出かけた。現代史をテーマとしており、それが演劇という形式でどのように表現されるのか楽しみにしていたのだが、かなりがっかりした。説明過剰の構成で、役者もセリフが板についておらず、何度もとちっていた。あそこまで役者がとちっているということは、役者がよっぽど練習していないのか、あるいは脚本にリアリティが欠けるのか、どちらかであるが、役者が揃ってとちっていたことからしてもおそらく後者だろう。
 『演劇入門』という本のなかで、演出家の平田オリザは、演劇は演劇という形式でしか表現できないものを表現するべきであり、観客を啓蒙しようというのは間違っているという趣旨の話を語っている。私が昨晩観た劇は、演劇としての感動、カタルシスが見事に欠落した、まさに本を読めば足りる話だった。それも3時間(+往復の時間)も費やす必要はなかった。
 その劇を見なければできたこと(どうせたいしたことはやらないのだが)を惜しみながら、時間を返せと腹立たしい思いであったが、一通り怒ったあとは、自分ならば、あの時代をどのように表現するだろうかという疑問が沸き上がってきた。すると、一つのシーンを作成するにしても、確たるイメージが浮かんでこないのである。当時の人々の生活、思い、些細なパーツの一つひとつが自分の中では、曖昧模糊としていることに気づかされた。劇を作るということ、あるいは表現するということは、こうしたパズルの一つ一つを自分のイメージ、ことばで埋めていくことだ。すばらしい劇を観ると、脚本家、演出家が苦心惨憺して創り上げたイメージの世界が、あたかも自分のイメージの一部であるかのように錯覚に陥る。インパクトのある授業も同じである。「そう、そう、そうなんだ」とあたかも自分が以前から考えていたことのように吸収される。曖昧模糊としたものに輪郭を与えることが、芸術の力である。だが、もう一方で、イメージを外された場合には、さて自分のイメージとは何かという問いを受けとることができる。これも芸術による感銘とは別の意味で貴重な経験である。
 多動症だった子どもの頃からずっと、自分にとって意味を見出せない場所にいることがものすごく苦痛であり続けている私だが、ようやく一見意味を見出せない場所から何かを見出す術を教えられつつあるようだ。まだまだそこへは地獄のような悪態をつきまくるという過程を経たあとでないと、たどり着かないけれども。




  2001/2/26(Mon) <安房小湊>

 経営学部の教員懇親旅行というものがあり、房総半島の安房小湊(あわこみなと)を訪れた。帰宅して、百科事典で調べたところ、安房小湊は日蓮上人の出身地だそうである。波しぶく太平洋が紺碧で鮮やかだった。
 昔から列車の旅が好きな私だが、空いた列車の中では、いつもの仕事の遅さがウソのように、本を読んだり、アイディアを書き留めたり、仕事(らしきもの)が進展していく。いっそエジソンのように、書斎を列車の中にこしらえたいくらいだ。列車の旅だと持ち物も限られるので、気持ちが一点に向かいやすいのだろう。
 集団での旅行をすることで気づきはじめたことだが、私は一人でいることをとても好むようなのだ。人と一緒にいないと不安なのだと思っていたが、これは間違いで、(顔見知りの)人(たち)と一緒にいるときに一人でいることがかなしいだけで、ほんとうは一人でいると落ち着くのだ。(顔見知りの)人(たち)と一緒にいるときに一人でいることがかなしいのは、きっと小学校の遠足で、お弁当を一人ぼっちで食べたときのかなしみが心のどこかに残っているからだろう。
 湯川秀樹の自伝『旅人』の中で、たしか99人の生徒たちが2人1組となって布団にくるまるとき、小川(旧姓)秀樹少年が1人取り残され、教師と一緒に寝る羽目になった話が出てくる。1人ぼっちである自分という自己発見、これが科学者湯川秀樹の出発点をなしていた。
 敬愛する作家の秦恒平さんは『東工大「作家」教授の幸福』(平凡社)の中で、大学生たちに「さびしさ」、「恋」、「嘘」などを突き詰めて考えさせるしかけをもって、ふるえるほどの教育実践を行われている。秦さんには遙かに及ばないが、学生の個人史を読みながら、ボロボロと涙を流す私の見つめる先には、「痛み」合える学びと成熟の共同体がある。そこに行き着くまでには、まだまだ紆余曲折があるだろうけれども。




  2001/2/21(Wed) <秦恒平さん>

 最近、私が遊びにいくホームページが変わりつつある。自分がページを更新していると、なかなかほかのページに立ち寄る暇がないのであるが、今のお気に入りは、芥川賞作家で東工大の教授も務められた秦恒平さんの「湖の本」のページである。秦さんは、文学の講義を担当し、夏目漱石の『こころ』の「私」と「先生」と「奥さん」の歳はいくつかというみごとな課題を学生たちに提出し、『こころ』を読み解いていく教育実践を行われている。この教育実践の模様は、ホームページにも全文紹介されているが、ぐいぐいと引き込まれる。この文章を読んで、『こころ』を文庫で買い直し、再読しはじめたくらいである。ツボを心得た課題は、学び手を惹きつける。秦さんは、パソコン初心者だった(今も)そうだが、このページを見ていると、ホームページ作成に必要なものは技術よりむしろ、深い内容とそれをほかの人々に分かち合いたいという強い願いであることが伝わってくる。現在、私は、秦さんの本を注文中であるが、濃密な知的労働を注ぎ込まれた本の内容を惜しみなく、ホームページで共有させて下さる秦さんには、頭が下がる。秦さんのページには、背筋に凛と響いてくる深みがある。人間に対する温かさと厳しさを感じる。
 今回、秦さんのページのほか、糸井重里さん、鳥越俊太郎さんのページを加え、リンクのページを充実させたのでぜひどうぞ。

秦さんの「湖の本」のページ




  2001/2/20(Tue) <ゼミ冊子づくり>

 昨日、朝9時から夕方5時半までかけて、ゼミ生たちとゼミ冊子づくりをした。今年のゼミ冊子は、インタビューの原稿が約170ページ。これを100部作るというのは、並大抵のことではない。印刷、仕分け、製本を自分たちでやったのだが、これは私にとって大きな賭けだった。
 というのも、1年半前の夏休み、22人の学生を連れていった北海道合宿では、私の企画がことごとく現実の厳しいしっぺ返しに遭い、死ぬような思いをした。集合場所、宿泊、交通経路、研究発表、体験学習、施設見学などなど、すべてにおいて、私の企画は甘く、学生たちを振り回してしまうことになった。そもそも私は、以前からリュックを背負って、行きの切符だけをもって、あとは風の吹くまま気の向くまま、旅は道連れ、世は情けといった感じて、旅を楽しむ人間だった。しかし、人を巻き込んでしまう職業として、この生き方だけではやっていけないことを痛切に気づかされたのが、あの北海道での合宿だった。
 自分に都合の悪いことは頭を振るとニワトリのように忘れてしまう私だが、北海道の合宿に限ってはとことん懲りていて、いまだに北海道の「ほ」の字を見るだけでも鳥肌が立ってしまうぐらいである。この私が、北海道の第一のリベンジと位置づけていたのが今回のゼミ冊子づくりだった。
 北海道では、企画からチケットの手配、バスの手配、宿の手配、そして細かいスケジュールまで全部私が抱え込んだ。そして、抱え込んだにもかかわらず、肝腎なことはことごとく抜けていて、ありとあらゆるところから水漏れが発生した。(最後の日には、ほんとうに山深い森にてテント生活の私たちに無情の大雨が振ってきたのだ)学生たちともっとコミュニケーションをとっておけば、こういうことにはならなかったはずだ。私は細かいことをする必要はなくて、押さえるところだけきちんと押さえておけばよかったのだ。
 今回のゼミ冊子作りでは、全体の段取り、注意点など押さえておかなくてはならないところを徹底的に考え(私が考えたところで猿の浅知恵だけれども)、あとは学生たちに任せてみようと思っていた。そして、北海道で痛い目にあったことについての私なりの分析が正しかったのかどうか、試してみようと考えたのである。
 すると、ちょうどいいタイミングで、当日、11時から4時まで出かけなくてはならない用事が入ってきて、まさに学生に任せるしか方法はなくなった。そして、その結果は、全体の工程がすべてスムーズにいっても6時までかかるだろうと予想していたのに対し、なんと5時にはほとんどの作業が終わり、後片づけに入ることができたのである。
 二部ゼミの卒業生で、この欄を読んでくれている人も多い。彼らに、今年はじめて、二部ゼミと一部ゼミで合同の冊子を作ったことをお知らせしたい。二部と一部の学生たちが力と知恵を合わせて、手作りの冊子を作り上げたことは、私にとっても、とてもうれしいことだった。北海道のトラウマが少しばかり癒され、学生とつくるたかいらゼミというスタイルを大事にしていきたいと改めて思った。昨晩はお酒がおいしかった。しかし、いい気分で終電帰りをしてふとカレンダーを見たら、明朝早くからスケジュールが入っていた。先日、2時間半しか寝ていない私は、これはヤバイと思った。そして、見事に寝過ごしてしまった。やはり、人生、甘くなかった。




  2001/2/17(Sat) <伊豆からの富士>

 昨晩、学生相談室の研修会(フリーターになる若者たち)、国分寺市民教育フォーラムに参加したあと、9時32分東京発のこだまで修善寺に向かった。駅弁を買って、新幹線でゆっくりと食べようかと思いきや、金曜日の夜のこだまは満席で、立ち食いするはめに。三島から伊豆箱根鉄道に乗り換えて、修善寺に着いたのが11時9分。それから、学生たちの飲み会に合流し、明け方まで語り、翌日、修善寺−戸田を結ぶ山中から駿河湾越しの富士山の絶景を眺め、東京に戻ってきた。
 西伊豆からの富士山はなんとも美しい。海の向こうに富士がそびえ立つのを地上から見ることができるのは、伊豆半島のおかげである。山の中から海と富士山が見えるのだから、たまらない。しかし、三十路に突入した身には、夜更かしがこたえる。だから、そろそろ寝ることにしよう。明後日のゼミ大編集会に備えて。




  2001/2/15(Thu) <合格福袋、その後>

 前回の合格福袋の話のあと、卒業生のHくんからメールがやって来た。少し引用させてもらうと、次のようなコメントである。

「たまのさんぽみち、めちゃめちゃ笑いました。

なんだかむずかしそうな顔をしていた先生の顔が想像できてけっさくだった。

ところで、私の通う水道橋駅も、ここ二、三日はやはり日大の経済学部や東洋大の入試などで受験生はもとより当然のように予備校のバイト君たちが合格福袋をもって道を作り、毎朝歩道で待ち構えています。

かれらは、配ってナンボなのか、目の前を行くタバコを吸ったお父さんや私たち明らかにサラリーマン族にも容赦なく書類の束を押し付けてきます。(笑)

そして親父族のなかでも「この人はもらってくれる!」を分かるとみんなでよってたかって書類漬けにし、ついには使いもしない書類で両手一杯にして複雑そうな顔をしている人もいたりしてました。

なんだか、どこでも一緒だなっと嬉しいやらおかしいやらで、面白くなってメールを書いてしまいました。」

 うーん、つまり、ことの真相は、私が受験生のようにみえて、福袋をもらったわけではないようだ。「配ってナンボ」のバイト君にとっては、とにかく受け取ってもらうのが大事なのであって、相手が受験生だろうが、おじさんだろうが、かまわないというわけだ。つまり、合格福袋事件から判明したのは、私の若さ(幼さ)ではなく、私が周囲に醸し出しているであろう「この人はもらってくれる!」という、ものほしそうな雰囲気だったのである。そういえば、先日も、池袋で女性専用のテレクラ・ティッシュをもらったのだった。H君のメールのおかげで、ちょっぴり自分を知ることができた。ありがとう、H君。
 明日は、一日大学での仕事のあと、夕方から地域の教育の会合に出て、夜は二部ゼミの学生たちと伊豆修善寺にて「卒業旅行」。修善寺到着は夜12時頃になる見込みである。朝までバトルが予想されている。(きっとまたこてんぱんにやられるにちがいない)相変わらず、飛んで火にいる冬の私である。




  2001/2/11(Sun) <合格福袋>

 私は大学に勤めてまる4年になる。ということは、私の就職とともに入学してきた学生たちがこの春卒業し、巣立っていくということである。つまり、私と一緒に入学してきた学生たちでさえ、もう社会人間近ということである。それなのに・・・
 今、大学は入試シーズン真っ盛りである。試験の採点の仕事がある私は、日曜日というのに早起きをして、大学に向かった。もちろん、人が働いているときに休んでいることが多いので、まれに人が休んでいるときに働いたところで、自慢にもならないが、三連休という巷の声をよそめに、私は国分寺の駅から大学に向かった。そして、大学までの坂道を登りきり、校門にあとわずかというところで、「どうぞ」という声とともに、差し出されたのが一枚のビニール袋。この文章をお読みになった方々は、もう気づかれたことだろう。そう、受験生のための「合格福袋」である。中にははじめて一人暮らしをする大学生のための住宅情報や家電情報などが入っている。今年もまたもらってしまった。4年目になるのにもらってしまった。同期入学の学生が卒業するというのにもらってしまった。最近、西武百貨店で購入したアダルトな(と本人は思っている)スーツを着ていたはずなのにもらってしまった。
 就職1年目、何のためらいもなく、予備校のS台のアルバイトさんから「試験、がんばって下さいね」と声をかけられ、鉛筆をもらってから、苦節3年。日々七転八倒して、苦しんでいるはずだが、その苦しみが足りないのか、いまだ受験生のままである。今年も勲章の「合格福袋」を小脇に抱えて、大学の採点会場へと駆けていった。




  2001/2/9(Fri) <怒濤の九州遠征>

 更新していなかった間、月曜日から木曜日まで九州に遠征をしていた。聞き取りと授業見学がメインの仕事であったが、実家にも立ち寄り、ひたすら忙しい毎日であった。九州遠征中の話は、いろいろあってここに書き切れないのであるが、一つだけ最も印象に残ったことを挙げると、私の母校(高校)の授業のスピードについていけなかったことである。18年ぶりに母校で高校1年の授業を見学したのであるが、超特急の授業で私の頭はついていけなかった。終わったあと、生徒たちにインタビューもしたのだが、どうも彼らの多くはあのスピードについていっているらしい。もはや私が生きるスピード、学ぶスピードは、進学校の高校生たちのスピードとは違うものになっていることを、発見した。そして、あのスピードについていっていた18年前の自分に、一体何が見えていたのだろうかと問い返すことになった。「のぞみ」のようなスピードで突っ走っていたあの頃の自分は、野路の花を愛でることもなかった。ひたすら授業で突っ走り、図書館の本を読みまくり、自分の問いを置き去りにして、次の駅を目指していた。いつも自分は見えないけれども、18年後、授業見学という鏡を通して、昔の自分と出会うことができた。そして、これからの生き方、学び方を考える機会になった。教育の仕事は、自分の育ち直し、育て直しだということを痛感した経験だった。




  2001/2/4(Sun) <ウォッシュレット物語、完結編>

 賞味期限切れになりそうであったが、ここで宿題の「ウォッシュレット物語」。電気屋で注文し、入荷とともに、自転車でぶら下げて、念願の「ウォッシュレット」くんは自宅にやってきた。奥方が帰ってきて、午後九時過ぎ、「さあ、ウォシュレットをあけよう」と言う。いつもは、私が「あけよう、あけよう」と言って、奥方が「いやだ、もう寝る」というのが定番であるが、その日ばかりは、不思議なことに、奥方の一声で、真夜中の「ウォッシュレット格闘物語」が始まったのだった。
 箱を開封して、取扱説明書と設置工事説明書を読んで、ショックを受けやすい私は、さっそく落ち込む。一枚めくると、必要な工具として「ドライバー(+−) モンキーレンチ(250mm) プライヤー」と書いてある。店頭にあったパンフレットをみると、大きく「仕上がりキレイな樹脂連結管でラクラク取り付け」と書いてあり、さらに赤文字で「手締めOK」と念を押してある。ところが、どうもこれは新しい便座を取り付けるときのもので、古い便座を取り去るときのことは考慮されていなかったらしい。何とか、工具箱から、ドライバーとモンキーレンチを探し出したが、残念なことにプライヤーは見あたらず、さっそく前途に暗雲が立ちこめる。
 そして、隣のページに進むと、「設置のまえに」という欄に、「水道の止水管によって工事の方法が異なります。止水管を確認して下さい」という注意書きがあり、その下にフローチャート式の図が示されている。なんとこのフローチャートは四つのゴールのうち、二つのゴールでは工事のスタート・ラインに立つことができるが、もう二つは「分岐水栓を組みかえて取り付ける *専用の工具が必要です →8ページへ」というゴールにたどりつき、8ページをめくると、「下記の水道工事は専門業者にご依頼ください」という文章が目に入る。ショックを受けて、再びパンフレットに戻ると、「今お使いのほとんどの便器に取り付けOK」と太文字で書いてある。購入前のパンフレットと購入後の説明書で言っていることがかなり違う印象を受けた。まるでシラバスには楽しそうなことを書いているが、授業がはじまると言い訳ばかりしているどこかの大学教員のようだ。
 「下記の水道工事は専門業者にご依頼ください」にたどりつきたくないと思った私は、「設置のまえに」の試験をパスして、取り付け工事に強行突入した。ここまできて「できません」はないのだ。これでは男がすたる。前進あるのみだ。やばいやばい、フェミニストの人たちに怒られそうだ。いや、それどころか、この特攻精神はきわめて危険だ。こうして日本軍は泥沼に入ったにちがいない。しかし、たかがトイレだ。失敗しても、家が水びたしになるくらいだろう。まさか日本沈没までは至るまい。というわけで、いつものように取扱説明書のルールを守ることをやめ、独自のたたかいをはじめた。そして、深夜の十二時前、工事は完了した。そして、工事の成否をあきらかにする「試運転」に挑戦。ガガーン!ノズルからシャワーが出てこない。ノズルが「こんばんわ」とあいさつして、すぐにひっこんでしまう。やっぱり「専門業者にご依頼ください」だったかと思いきや、今度はじっさいに便座にすわってみると、シャワーが出た。便座右後方に内蔵スイッチがあり、そこが押されていないと、シャワーが出ない仕組みになっていたのだ。やはり、最後までお化けトイレだった。
 というわけで、数回にわたってお騒がせをしたT家のウォッシュレット物語は、幕を閉じる。実は、このあと、リモコンを右につけるか、左につけるかですったもんだがあったのだが、それはまあ置いておくことにしよう。ウォッシュレットの「インパクト洗浄」は、なかなか悪くない。




  2001/2/2(Fri) <自分史にあたる>

 生徒指導論の講義の課題として「自分史」というものを出してみた。はじめての試みだったが、私は、教師の仕事とは、自分自身の育ち直しでもあると考えているので、生徒指導以前に自分を見つめることが大切だと思っているのだ。一番自分を見つめなくてはならないのはおまえだよといわれると、まったくその通りとしか答えようがないが、何はともあれ、講義を通して、自分を見つめるトレーニングをしてきたつもりでいるので、その実践編として、最後に「自分史」を書いてもらったのである。
 最後の講義で受け取った「自分史」の束を前に、ページをめくることが怖くて、昨日までほかの仕事を優先させていたのだが、いよいよタイムリミット、意を決してページをめくった。すると、ある程度事前から予想していたことであるが、その予想を超えて、そこには、重く、深い「自分史」があらわれ、圧倒された。飯島愛の自伝『プラトニック・セックス』がベストセラーになっているが、あの本にまさるとも劣らないほどの作品が出てきた。読んでいるうちに、底なしの井戸に引き込まれるような感覚に襲われ、そして悲しみと痛みにボロボロと涙があふれてくる。もうダメだ。一日目は、数人分しか読めなかった。
 今の時代を生きるということは、とくに子どもとして生きるということは、かくまで苦しく、厳しいことなのか。明るい笑いに包まれるキャンパスの中で、そこにだけぽかんと穴があり、地底へつながる坑道があるかのように、「自分史」の世界は重かった。研究室を離れ、自宅に戻った私は、予想通り、心で処理しきれなかったものが身体に出て、寝込んでしまった。
 今日は、一日中、寝込んでいた。身体は正直である。心で受けとめきれなかった分をしっかり受けとめてくれる。一日、身体をいたわっていたら、この文章を書けるまでに回復してきた。自宅の寝床から見える清瀬の里山では、小鳥たちがさえずり、木々に映える夕日の光は、もう冬の色ではなく、春の訪れを告げていた。




  2001/1/30(Tue) <熱い学生たち>

 今日こそウォッシュレットの続きを書こうかと思いきや、学生たちと飲んでいて終電車になってしまった。あまりに議論が熱かったので、ちょっとウォッシュレットについて書く気持ちにはなれず、この話はちょっと延期とあいなった。
 さて、この4年間、夜間部の講義が1年間終わると、学生たちと打ち上げをして終わることにしている。ほんとうは昼間部の学生たちとも語り合いたいのだが、人数も多いため、難しく、今のところ、打ち上げで1年間の総括をするのは夜間部の学生たちの特権となっている。今年は、最終の講義から時間が経っていたにもかかわらず、参加しているすべての学生が集まって、今までになく、やたらと濃い飲み会になった。
 今の学生たちは、醒めているといわれるし、実際、そうかなと思っていたのだが、私のこの認識をひっくり返すほど、今日の学生たちのパワーはすごかった。話題となったテーマにしても、今の青年の心の内、歴史教育、教師の仕事など、骨太なテーマで、私がたじたじになるぐらい熱かった。おそらく、私の講義で毎回くだらない話を聞かされているフラストレーションが溜まっていたのだろうが、彼らの心中には語りたいことと、そして聴きたいことが山ほどあるのだということに気づかされた。
 私の結婚式のとき、妻の私への第一印象について「はじめて会ったのに、説教されて、ムッときた」という紹介がなされたとき、会場でドッと笑いが起きたほどの自他ともに説教臭さを認める私だが、今日ばかりは学生たちにしてやられた。みごとに説教されて、私は敗れ去った。悔しいけれども、爽やかな敗北感である。(ほんとうは泥まみれの敗北感で、風呂から上がってようやく爽やかと思えるようになったが)説教されて悔しかったけど、これだけの連中がいれば、これからの社会において、たのもしいと思ったことは事実である。少人数ということもあったが、これまで夜間部の学生たちからは教わることが多かった。小さな世界しか知らず、視野の狭い私を懸命に教育してくれたのは彼らだった。かえすがえすも、今年から夜間部が募集停止になることが残念である。




  2001/1/27(Sat) <おお、雪!>

 ウォッシュレットの続きを書こうかと思いきや、思いもかけない日中の雪、清瀬はほとんど北海道状態。おそらく私が生まれてから自宅で経験する一番の雪であり、かなりワクワクしている。妻は、六本木に出勤中で(外人専用パブではありません、念のため)、お気の毒だが、私は、自宅にいて、はしゃがずにはいられない。それも、ほんとうは、今日、大学でゼミ生たちと会うはずだったが、ゼミ幹事の学生の急用で、延期になり、災難を逃れることができた。まったくゼミ幹事は、最後の最後にとても立派な仕事をしてくれた。みんなが彼に感謝していることだろう。
 NHKのラジオを聴いていたところ、北海道の人から「雪の日は、黙って家にいろ」という内容のファックスが来ていて面白かった。この冬は、東京で雪が相次いで降り、このためにジョギングができないということをはじめて経験し、話には聞いていた雪国の高校球児の苦労を(最近の強豪校には充実した室内練習場が完備しているかもしれませんが)ようやく実感することになった。私がとくにそうだが、南国育ちの人間は、やりたいときにやりたいことをやれると思いがちだ。そして明治維新の薩長土肥はいずれも南国。努力をすれば何とかなると思う発想は、おそらく南国人から生まれたものに違いない。ムリヤリ諫早湾を干して、宝の海・有明海を台無しにするなど、何とでもなるという発想が行きづまっている今、雪国の人たちにバトンタッチして、諦念と我慢について教わりたい気持ちである。でも、ちょっと待てよ。あの田中角栄こそ、越後、雪国出身だった。あの人はどうみても諦念というより相当強引だったなあ。日本列島改造計画だったもんね。もし雪国に首都が移転され、「全天候型いつでも快適に生活ができます」というキャッチフレーズの開閉ドーム式新都市が、公共事業でつくられることになったらどうしよう。雪国への政権委譲もなかなか簡単にはいかないようだ。外は、まだまだ雪が降っている。妻は帰ってこられるだろうか。




  2001/1/25(Thu) <ウォッシュレット、その後>

 あまりにマニアックなウォッシュレットにおそれおののいていた私であるが、意を決して、妻を従え、いや、従えられ、近所の電気屋に向かった。自宅から歩いて15分ほどのところにある、オレンジと黄色のど派手な看板が出ている電気屋である。ところが、電気屋においてあるパンフレットを見ることで、さらに混乱は深まった。N社のパンフレットが2つあり、まったく違うラインナップで、まったく違う宣伝文句が並んでいる。時期が違うのかと思いきや、どちらも2000年冬ヴァージョンである。片方は、「粒のそろった水塊を高速で噴出し、ボリューム感と気持ちよさを向上。しっかり洗えるのに飛び散りの少ない、まさに『新感覚』の洗いごこちです」という宣伝のあとに、“ググッときてシュワッと洗う”というウルトラマンのようなコピーがついている。もう片方は、「女性のカラダを考えたビデ専用ノズルはおしりの雑菌が入らないように角度を追究。前から(約100°)後ろへ清潔に洗います。また、おしり専用ノズルは、おしりに的確に当たり、飛び散りの少ない真下(約85°)洗浄です」と究極の角度をめざしている。パンフレットを読みながら、きっと水流派と角度派で社内が大激論になり、妥協点を見出せないまま、それぞれのグループが商品を開発、市場で雌雄を決することになったに違いないと推理を深めていった。推理を深める私の隣で、妻は、もういい加減にしてよとうんざりした様子。もうどうでもよくなったようだ。一方、私は、トイレのことで何でこんなに悩まなくてはならないのかと高度消費社会を呪いながらも、N社の謎についての考察を続けている。
 ウォッシュレット選びに煮詰まった私たちの前にちょうどあったのは、同じN社のマッサージ椅子。「どうぞおためし下さい」の立て札に遠慮することなく、2人してマッサージ椅子に座った。マッサージ椅子なんて、温泉で100円入れてゴリゴリやられて以来、十数年ぶり。どうせたいしたことはないだろうと思っていたところ、ここでも大ショック。いつの間にか、すごい進化をとげて、下手な人間より明らかに上手なマッサージ師に生まれ変わっているのである。形容しがたいほどのモミモミ感、ツボを見つけてほぐしていくワザには、はっきりいって、深い感銘を受けた。マッサージ椅子で、身も心も柔和になった私たちは、「ウォッシュレット止めて、こっち買おか」と言いつつ、意を決して、しばらく前からずっとこちらを見ていた店員さんに、「N社のウォッシュレット、何で2種類あるのですか?」と、さきほどからずっと気になっていたことを尋ねた。すると、N社とN電工は、別の会社なのだという説明。私の推理は、あっさり外れた。しかし、とにかく、これ以上トイレにかかずらわっているわけにはいかないと思い、店員さんとお値段の交渉をして、お化けの出ない(ウォッシュレットの項参照)型番を選んで、ついに購入に踏み切った。長い道のりだった。
 さて、これでウォッシュレット物語が終わるかと思いきや、そうは問屋がおろしてくれなかった。まだまだ続く、ウォッシュレット秘話。お楽しみに。




  2001/1/23(Tue) <追い風注意報>

 1/21のDailyたまのさんぽみちを読んだ妻からさっそく苦情が来た。ところが苦情の中身は、私の予想とは違い、「また奥さんネタで仕事をしたな、著作権料払ってよ」というものだった。一昨年、昨年のゼミで、苦しくなると「奥さんネタ」でしのいでいたことがバレ、今年いよいよ妻から「今度、奥さんネタを使ったら、著作権料を払うように」というお達しが出ていたのだった。一昨年、昨年のゼミでは、「現代日本人のライフサイクル」というテーマを扱っていたから、結婚や恋愛といったトピックにおいて苦しいときの奥さんネタ頼みだったのだ。ゼミは今年から「教師のライフヒストリー」にテーマは移り、奥さんネタが使えなくなり、しばしばピンチに追い込まれている。まあ仕事では奥さんネタが禁じ手になったので、せめてDailyたまのさんぽみちにはときどき登場してもらうことにしよう。
 さて、シーズン中なかなかできないシーズンオフの楽しみは、身体を動かすことである。私は運動はからっきしダメなのだが、小学校の頃から今はやりの多動症だっただけあって、身体を動かすことはとても好きなのである。というわけで、冬は、せっせとジョギングをすることにしている。この正月は、妻の実家で過ごしたが(またまた奥さんネタで恐縮ですが)、妻の実家というのは、愛知の水害で一躍有名になった新川と五条川に挟まれたところにある。実家の三軒隣まで水に浸かったそうだが、最もひどかったのは、新川と庄内川に挟まれた地域だったようだ。被害にあった地域では、今も、家屋には人の背の高さぐらいのところに、水没したあとがくっきりと残っている。
 話が本題からあさっての方向に向かっているが、正月の私の楽しみは、氾濫した新川の隣を流れる五条川沿いを北に向かって走ることである。五条川は一宮のほうから南に流れている。さて、張り切って、一宮をめざして走り出した私だったが、当日は猛烈な冬型、びゅーびゅー吹きまくる北風に全身をさらされた。行きは向かい風でなかなか進まず、苦しい思いをしたが、帰りは、背中を押されるような強風で快走した。ところが、帰りの途中、清洲城あたりで足が動かなくなり、吹雪の中で遭難しそうになりながら、這うようにして歩いて帰った。
 たしかにこの日は体感温度氷点下で、走っても走っても身体が熱くなるより冷え切ってくるという、これまで経験したことのない状況であったが、走れなくなった理由はこれだけではなかった。追い風の中で、自分の走力以上のスピードを出してしまったことが失敗のもとだった。考えてみると、逆風は苦しいけれども、力相応の走りをするしかない。だから、身体に変な負担はかからない。しかし、追い風に乗ってしまうと、身体がついていけなくなるのだ。
 すぐれた教師は、先に先に進ませようとするのではなく、子どもたちがあせって先に進もうとするところをぐっと引き戻す働きかけをしばしば行う。彼らは、追い風に乗って進んでいるときに落とし穴があることを知っている。凡庸な教師である私は、身をもってようやく、追い風のこわさを知った。遭難しないと学べない、そして、遭難しても救出されたらコロッと忘れてしまう、ニワトリのような私だが、追い風注意報だけは覚えておきたい。そういえば、社会党が没落の一途を辿ったのも、1989年の参議院選挙の追い風からだった。う〜ん、やっぱり追い風はこわい。




  2001/1/21(Sun) <書き直し>

 「たまのさんぽみち」の読者の一人である妻から、「柴田せんせいの本の紹介、あんまりおもしろくない」という批評をもらった。妻は、学生時代に、柴田せんせいの授業をじっさいに受け、カナダへ留学したときには推薦状も書いてもらっている。(彼女は、私と違って英語ができるのだ) 一方の私ときたら、英語はいつも赤点すれすれ、最初に英語を教わったときなんかひどいものだった。「堤防、堤防」って呪文を唱えながら、川の土手が脳裏を横切り、「英語ってヘンなものだなあ」と疑問だらけ。あとで、あの「堤防」という呪文が食事をとるテーブルのことだと知ったときは驚いた。「堤防」でめしをくっているアメリカ人って、なんてヘンな人たちなんだろうと思いつつ、「ああ、わかった、遠足に行って、そこでお弁当を食べていたんだ」と合点するぐらい、想像力が豊かというか、センスがなかったというか、英語というものが何なのかまったくわかっていなかったのだ。こういう私であるから、大学に入っても、英語の先生と親しく出会うことはなく、逃げ回っているような状態であった。ところが、私とは対照的に英語の先生には巡り合わせのよかった妻は、柴田せんせいと出会うという僥倖を経験している。
 さて、妻に「どこがおもしろくないの?」と聞くと、「あの本の紹介からは、柴田せんせいらしさが伝わってこない」と言う。確かに本人を知っている人からこう言われると弱い。考えてみると、私は柴田せんせいに勝手にシンパシーを感じているが、本人を知らないのだ。実は私にとっての柴田せんせいは、エッセイのマンガの柴田せんせいでしかない。『猿を探しに』には、マンガが本人に似ているのではなく、本人がマンガに似ていると言われる話が載っていたが、私が柴田せんせいに会ったら同じようなことを思うにちがいない。
 文章にしろ、マンガにしろ、一回作者の手を離れると、あとは一人歩きを始める。出版した本はなかなか回収が難しいが、ホームページなら簡単だ。さっそく、本のページを書き直してみた。さてさて、今度は妻になんと言われるだろうか。きっと本の紹介のことより、Dailyたまのさんぽみちに対して、「私は英語はできません。いい加減なことを書かないでよ」という苦情が来るに違いない。




  2001/1/20(Sat) <ウォッシュレット>

 シーズンが一段落すると、くらしの点検に入ることになる。くらしの点検なんて格好いいことを言っているが、こわれたままに放っておいたもの、整理しないで散らかり放題のもの、約束だけしていて履行していないこと、などのフォローをする、つまり内実は、借金を返済するようなことである。
 さて、しばらく前から家のトイレの便座が割れかかっていたので、この機に遅ればせながら、ちまたに広がっているウォッシュレットなるものをつけようかと、カタログを取り寄せたところ、唖然として絶句してしまった。世の中の流れについていけていない私は、ウォッシュレットとは、おしりを紙でふく代わりに、お湯でさっぱりするものだとたかをくくっていたところ、各社のカタログには、「水勢に0.2秒毎の強弱をつけ、繰り返すことで瞬発的な衝撃力を高め、汚れを従来の約2倍の速さで効果的にしっかり落とします」(N社)、「1秒間に70回以上強い吐水と弱い吐水を繰り返す、ワンダーウェーブ洗浄。これまでの約半分の水量で、これまで以上にパワフルな洗浄を実現。まったく新しい刺激の洗浄感です」(T社)とほとんどおしりマニアの雑誌なみの宣伝文が掲載されている。小学校時代、コンクリートに穴があいていただけのぼっとん便所にお化けが出そうだと恐れおののいていた私にとって、厠(かわや)の進化?状況に、もうひたすら驚くばかり。
 恐るべきことに、厠の進化?はこれにとどまらない。「人を感じてフタが自動開閉、お年寄りや清潔ママにうれしい機能」(N社)、「生活パターンをウォッシュレットが判定して節電。トイレの使用頻度を記憶」(T社)と書いてある。やっぱりトイレにはお化けが出るのだなと一安心、いやぞっとする。何という至れり尽くせりのお化けトイレ。人の家に泊って、夜トイレに行ったとき、フタが勝手に持ち上がったら、絶対びびってしまう。
 ここで思い出すのが、とあるお宅に聞き取りに行ったときのことである。用を済ませ、流そうと思ったら、流すためのレバーがなくて、めちゃくちゃあせったことがある。この家の人は、どうやって流しているのだろうか。バケツで汲み上げているのか。それにしてもこんなにきれいな汲み取り便所なんかあるわけがない。ヘンだ、ヘンだ、ヘンだ。あせりまくった末に、ウォッシュレット・リモコンに「流す」機能があることを発見し、ほっと一安心しつつ、なぜ用を済ますのに、こんなにあせらなくてはならないのかといぶかしく思った。いっそフタを自動開閉するのなら、そこからベロベロお化けでも顔を出すようにしておいてほしい。善意でおどかされるより、悪意でおどかされたほうがよっぽどましだ。
 何はともあれ、カタログはおもしろかった。きっと開発している人たちも、オレたちは何をやっているのだろうと思いつつ、また新しいおしりの技法を開発しているのではないかと勝手に推測した。本のページでも紹介しているあの柴田元幸せんせいは「ウォッシュレットのない時代には帰りたくない。しょせんプラマイゼロ程度にしか思えない文明の発展において、あれだけは絶対にプラスである」とウォッシュレッ党の熱心な支持者のようだが、やっぱり何事にも限度というものがあるような気がする。ウォッシュレッ党の一党独裁主義は、おっかない。「ウォッシュレッ党にあらずんば人にあらず。」「おしりの乱れはこころの乱れ。」「おまえが出たあとのトイレが臭いのは、気持ちがたるんでいるからだ、ウォッシュレットでしり洗って出直してこい。」なんていわれちゃ、ちょっとね。それにトイレの臭いだってバカにしてはいけない。糖尿病なんか、トイレの臭いから発見されることだってあるのだ。
 ということで、結局、私は、日和見党とあいなった。「ダイオキシン汚染、オゾン層の破壊など、地球環境が危機に瀕する時代に、人類はおしりの快感を追求しつつ、滅んでいくのか。ああ、わが地球の運命よ」と嘆きながら(ウソ)、またくらしの点検をさぼっている私だった。割れかけた便座は一体どうなるのか!?




  2001/1/18(Thu) <勘違いな人生>

 本日で2000年度のシーズンは幕を閉じ(学生諸君にとってはこれからほんとうのシーズンかもしれないが)、明日から2001年度のシーズンに向けてのオフが始まる。私が敬愛するイングランド・プレミアリーグ・アーセナルのベンゲル監督(元Jリーグ名古屋グランパス監督)は、優勝パレードの中にあっても、勝利の余韻より次のたたかいのことを考えてしまうと『勝者のヴィジョン』の中に記している。まさしく仕事に追われているのではなく、仕事を追い求める、こだわりの監督である。
 さて、日々自転車操業状態で、授業プランが完成するのは当日の明け方、さらには授業の資料等の準備が終わるのは、授業開始5分前という、仕事に追われる代名詞のような私だが、今年はなぜか次のシーズンに気持ち(だけ)は向かっている。おっ、オレもベンゲル監督に一歩近づいたかと一瞬勘違いした途端に、ベンゲル監督は優勝監督で、自分は下位低迷チームだったことに気づき、正気に戻る。次のシーズンなんていっているが、そんなのんきなことをいっている場合ではない。来年度も契約を結んでもらえるかを心配しなくてはならなかったのだ。
 まるでオーディコロンをしていると女性にもてると勘違いをして、電車の中でオーディコロンの臭いにおいをプンプンさせていた高校時代の私のようなはずかしい勘違いだった。あれから十数年、相変わらず勘違いばかりの人生である。




  2001/1/17(Wed) <第四コーナー>

 今期の授業も最終盤に差し掛かり、延長戦続きで、夜戦が続いている。今朝、妻と2日ぶりに会った。月曜の朝、会って以来のことだ。同じ家に住んでいるのだが、午前様続きで、朝起きると相方がもう出勤で、姿を見かけなかった。まさにすれ違い夫婦だ。
 今年も生徒指導論、現代社会と人間が終わった。最後までつき合ってくれた学生たちは、ほんとうにやさしい。自分の学生時代を考えると、恥ずかしくなるぐらいだ。学びの旅を同行してくれる彼・彼女らに励まされて、ここまでやってきた。大学で授業をすることははっきりいって修羅場だが、授業が終わると、やさしい気持ちになれるから、この仕事は何ともいえない。ただ今、第四コーナー通過中。




  2001/1/15(Mon) <卒論で終電だ>

 授業が一区切りついたかと安心していたら、まだまだ油断は禁物だった。今日は、卒論青年がやってきて、思わぬ延長戦となった。何度私の指導を受けても、論文とは何なのかがわからないという青年を前に、一生懸命論文を書くとはいかなることかを、へなちょこ教師が話しているうちに、いよいよ終電の時間になった。たまたま同じ方向だっただから、電車の中でも侃々諤々やりながら、帰路に着いた。思えば、学生の頃、私は卒論の口頭試問の場で、とある教官から「あなたは、論文とは何だと思っているのか!」と激怒され、これに対して別の教官が「○○先生こそ、論文とは何だと思っているのですか」と最初の教官をとがめ、すごい雰囲気を経験したのだが、まさか、自分が教員になっても、学生から「先生は、論文を何だと思っているのですか」と問いつめられるとは思ってもいなかった。どこへ行ってもいつもやりこめられている。同じことを経験して、あの頃は、授業料を払い、今は給料をもらっている。ありがたいことだ。ふう。




  2001/1/10(Wed) <終わりなき日常>

 鬼門の生徒指導論に一つ区切りがついた。まだもう一回残っているが、私のほうからの働きかけとしては今できるだけのことはやった。今年の学生には、ほんとうに粘り強くつき合ってもらった。毎回、異議申し立てをするためにわざわざ出席してくれる学生がいたりして、シビアだったけど、エキサイティングだった。4年経つのに、いまだ綱渡りのような毎日だ。
 さて、一区切りを喜んでいると、ある学生が「来年も出ていいですか」と一言。「うっ、それだけは許してくれー」と心の中で思いつつ、これまで振り逃げの人生だったけど、もういよいよ逃がしてはくれないようになったことを痛感。9年間も学生として授業に出続けたイヤな私を、あしらい続けてくれた恩師の佐藤先生は、何と偉大な存在であったかと今更ながらに思う。そして、私はさぞやイヤな学生であったことだろう。
 仕事に就いて4年が経とうとしていて、これまでの人生の中でもシビアな時間が継続している。考えてみると、これまでは中学、高校にしてもそれぞれ3年間であったし、どちらも息を止めたまま泳ぎ切れる距離だった。しかし、仕事は4年経っても終わらない。今年の学生を送り出しても、また新たな“つわものども”がやってくる。学生は巣立っていくのに、教師は終わりなき日常である。とんでもない話だ。オフになまくら刀を磨いておかないと、ブスリとやられてしまいそうだ。




  2001/1/6(Sat) <こんにちは21世紀>

 一週間ののち、はや21世紀に入っている。2000年よりずっと淡々と2001年がやってきたように感じる。やっぱりすべての数が変わる1999→2000年の変化のほうがずっと劇的だもんね、と納得。2000年から2001年の変化は、数字が一つ増えたに過ぎないのだ。いよいよ世紀末も過ぎて、終わりなき日常のはじまりだ。
 さて、私の21世紀の幕開けは、さんざんなもの。何よりも1月3日のNHKラジオにはがっくり。あれだけ学生のインタビューと取材をしておきながら、本番ではすべてカット。わたしゃ、妻の実家で、みんなをかき集めて、ラジオの前で2時間今か今かと待ち続けておりました。「それではこの辺で、さようなら」という声を聴いて、ガガーンという気分。私一人だったらともかく、みんなを巻き込んで、えらくばつが悪かったよ。取材に来て、放送日まで伝えていたのなら、カットになった時点で連絡ぐらい入れてくれればいいのに。ブツブツ・・・。それからあやまりの電話をいくつか入れる。ぐすん。
 東京に戻ってきたら、郵便物の中にやってきました“21世紀タイムカプセル”。今話題の17歳の私とご対面です。いやあー、いやなものでしたねえ。これまでは楽しみにしていたのに、ほんとうにやってくると、開封するのが恐怖。恐怖とたたかって2時間あまり、ついに意を決してハサミを入れる。中身を見て仰天!やっぱりわたしゃ、少しは成長しているわ。こんなことを考えていたのね、17歳の私。なんとも単純です。中身は内緒。ここから得た教訓、17歳のときの私と、今考える17歳のときの私は、全くの別物ということ。だから、学生のみんなも『二十歳のころ』を読んで、「みんな、なんてすごい二十歳のころを生きていたんだ。すごく考えている。ボクはもうダメだ。」なんて思う必要はないのだ。あれはおじさんやおばさんたちがあとになって考えている二十歳の自分なのだから、二十歳のときの自分とはまったくの別物。いやー、16年前の思いつきが、私の研究テーマであるライフヒストリーやライフストーリーについて考えるリアルな手がかりを与えてくれたというのがすごい。こうしたことを考えているうちに、最初に17歳の自分と出会ったときのショックは薄らいできたが、あの瞬間のショックは大きかった。
 こうして期待に裏切られる21世紀は幕を開けた。今年の抱負は、いつものように2002年まで生き延びること、それからもう少し我慢することかな。妻の母がラジオ事件で落ち込む私を見て「なんのこれしき、まだまだこれから」と一言。レコード大賞をとったサザンのように「ほんとうは見た目以上打たれ強いボクがいる」。我慢していきたいね。




  2000/12/31(Sat) <さよなら20世紀>

 いよいよあと数時間で、20世紀が幕を閉じる。エレン・ケイが「児童の世紀」になることを願った20世紀は、「戦争の世紀」というのがふさわしい時代だった。19世紀が科学技術に希望を抱いた時代であったとすれば、20世紀は科学技術が人類に絶望をもたらした時代であった。広島、長崎、チェルノブイリ・・・
 同時に、「科学の世紀」20世紀は、交通、生活、メディアなど人々のライフスタイルに革命をひきおこした。航空機、電車、自動車、水道、ガス、電気、電話、冷蔵庫、洗濯機、ラジオ、テレビ、これらのものが私たちの生活をどんなに便利で手軽なものに変えたか。もはや水を汲みに何百bも歩く生活は考えられない。
 考えてみると、20世紀は、友好と敵対、快適と不快、こうしたものが極端なかたちであらわれた時代であったように思う。つまり、民族主義という高揚した一体感が排他的な大量殺戮を生み出し、大量消費生活が環境破壊を生み出したというように、そこには極端な裏表がセットとして準備されていた。ここから教訓を導き出すとすれば、21世紀は、「中庸の世紀」であってほしいというものである。「ほどほど」「適当」「まあまあ」「いい加減」、これらのあまり好まれない、勇ましくないことばこそ、私たちを救うのではないだろうか。ほどほどなスピードで、適当なところでお弁当を食べて、まあまあの旅を楽しみましょう。20世紀の終わりもやっぱり「いい加減」な<たまのさんぽみち>のオーナーでしたとさ。それでは、皆さま、よいお年をお迎え下さい!




  2000/12/28(Thu) <15の夜>

 尾崎豊の歌に、「15の夜」というものがある。「盗んだバイクで走り出す行き先も解らぬまま〜」という歌である。昨晩、私は「15の夜」現代版の事件に出会った。昨日、家を出たとき、自宅の前の森にバイクが放置してあった。「こんなところに乗り捨てやがって」と思いながら、大学へ行き、仕事を終えて、同じ道を帰っていった。帰りに森の脇の道を自転車で通り抜けようとすると、そこに1人の少年が2人の大人に服を掴まれ、怒鳴られている。「なんだ」と思って、自転車から降り、観察していると、どうも2人の大人は警官のようである。少年に「なめんなよ、なんだその口のききかたは!」とまるでヤクザのようにどやしつけている。「おめえ、何回目なんだ、何回もやってんだろう」とまるでテレビドラマを見るかのような、“正義の警察”の迫力である。私は「おめえらもガキの頃、いろいろ悪さしただろう。そこまでやることはないじゃないか」と思いつつ、あまりの迫力にたじたじで、観察を続けていた。すると、今度はパトカーがやってきて、警官の数は7名ほどに。少年がバイク窃盗の犯人なのだろうが、7人がかさにかかって1人の少年をいじめるようなかたちになった。少年はちょうど「北の国から」のジュンくんか、「学校W」の主人公のような、まだあどけない顔立ちで、当然のことながらビビッていた。「危険なものはもっていないだろうな」と警官はボディチェックをして、少年をパトカーに乗せた。
 たしかに人のバイクを盗むのは悪い。しかし、権威をかさに着て、まるで日頃上司からやられている恨みをぶつけるかのように少年を痛めつけても、そこにはさらなる憎悪が生まれるだけだろう。暴力は憎悪を生むだけで人の心を変えることはできない。もしきわめて稀に暴力が何かを揺さぶるとすれば、それは信頼関係を樹立できた人間が、制服に身を隠すのではなく、人間と人間として向き合って(これは相手から暴力を返される可能性を準備するということである)行った場合だけだろう。それでも、暴力は薄汚いものだし、敗北であると、定時制高校でドロップアウトした子どもたちと身体と身体でぶつかっている脇坂義明先生は語っている。(『教育困難校の可能性−定時制高校の現実から−』脇坂義明(岩波書店)より)私はそこでへこへこと観察していた人間だから、えらそうなことをいう資格などないが、「厳しさ」を「権威に寄りかかること」と勘違いしている人間は最低である。それに人間には誇りがある。たとえ盗みをした人間にだって誇りがある。人の誇りを大事にできない人間は、自分の誇りもないのである。そして、自分がしたことに向き合うというのは、自分の誇りのゆえである。誇りがあるから、自分の行いを悔い改め、新しい生き方に向かえるのである。子どもの誇りを否定するような大人に「教育」や「更正」を語る資格はない。



  2000/12/27(Wed) <高校生の自分と出会う>

 21世紀を間近に控えて、楽しみにしていることが一つある。それは筑波科学万博のときに「タイムカプセル」として送った高校生の自分からのメッセージを受け取ることである。たしか「タイムカプセル」を出したのは1983年あたりだった。当時、高校1年生の私は一体何を考えていたことだろう。そして、21世紀を迎える自分が一体何をしていると予測していたことだろう。
 私は高校3年のときに大きな価値観の変化を経験したので、これ以前の自分と出会うということはとくべつ楽しみである。価値観の変化といえば、私は、ここ数年間、いや十年ほど、真っ暗闇のトンネルに閉ざされ、手探りで出口を見つけるような日々が続いていた。今もなおトンネルの中にいるのだろうけれども、最近一筋の光を感じつつある。1990年代はとにかく苦しかった。そして、2000年になり、今年は久々に心に灯がともることがあった。高校時代の自分と出会い、21世紀の歩みを確かめたい。



  2000/12/25(Mon) <苦節9年>

 有馬記念で、テイエムオペラオーが位置どりのミスをものともせず、まさに馬力で栄冠の掴んだその日、高校駅伝で万年2位の壁にぶつかっていた大牟田高校が1秒差で仙台育英高校をかわし、9年ぶりの栄冠に輝いた。
 大牟田が故郷である私にとって、年末の全国高校駅伝選手権は、年に一度の勝っても負けても盛り上がるお祭りである。甲子園に大牟田市内の高校が出たのは、私が生まれる前の三池工業高校の奇跡の優勝が最後であり、それからは音沙汰一つない。炭鉱も閉山となり、私が住んでいた15年ほど前はまだ16万台だった人口も今や13万台まで減少したという。何もいいことのない代名詞のような大牟田の名前が、輝かしく光るただ一つの日が、12月の高校駅伝大会なのである。(といいつつ、大牟田高校駅伝部には大牟田出身の選手はおそらく一人もおらず、寄せ集めの精鋭軍団なのだが)
 何はともあれ、一寸の隙もない完成された走りの西脇工業高校、ケニア留学生で大逃げを図る仙台育英高校が台頭した1990年代、大牟田高校は、明らかに沈んでいた。毎年、県大会で全国最高のタイムを出し、優勝候補に挙げられながらも、直前のエースの故障、熱発が相次ぎ、ズルズルと下がるレース展開。結果が出ずに空回りになる毎年が続き、監督も追いつめられていたことだろう。
 今年は、何かが違っていた。それは“辛抱”だった。監督は練習をギリギリ(限界)までさせるのを辞め、辛抱した。ムリな練習で不安を紛らすことを辛抱して、努めて選手に自分の考えを伝えた。この“辛抱”が選手にも伝わり、一人一人の選手が“辛抱”して、タスキ渡しの時点では一度もトップに出ることがないまま、ゴールテープだけをトップで切った。
 ギリギリまで追いつめられた監督が、“辛抱”によって、ようやく超えられなかったラインを突破し、新たな地平に出た。西脇、仙台育英の両渡辺監督とともに、監督の知恵と力が火花をちらすであろう21世紀の駅伝が楽しみだ。



  2000/12/21(Thu) <学校W>

 大学も冬休みに入り、久々に映画館に行った。山田洋次監督の『学校W』である。教育研究者として、張り切ってこの映画を観に行こうと思ったわけではない。大学の組合でチケットがあまっており、それを買って、なりゆきで観ることになったのである。
 さて、立川の映画館に入ると、定期試験も終わって、短縮授業になったのか、まわりに制服を着た中学生や高校生の姿がやけに目立つ。「これはヤバイぞ、おしゃべりで落ち着いて観られないかも」と危惧したところ、案の定、映画が始まってもざわついてる。「うるさい」と一喝したいところだが、山田洋次の描く世界と、彼らの日々のリアリティには思いっきり差があるようだ。中学生や高校生は、学校についてのプロだ、彼らの目はシビアである。『学校W』の前半部分は、1950年代的リアリティで、劇場も間延びしていた。
 ところが、事態は、主人公が屋久島に行き、念願の縄文杉にたどり着いたあと、丹波哲郎扮するシベリア帰りの頑固じいさんが登場してから一変する。映画の筋を紹介するとこれから観る人にとって興ざめだから辞めるが、ここから1990年代的リアリティがいきなり浮上し、劇場ではおしゃべりもピタリとやみ、一体感と緊張感に包まれたのであった。この映画では、学校や都市は描けていないが、戦争と家族と老いについては見事に描けていた。逆にいえば、高度経済成長以前には日常のくらしのなかで身近に接することのあった人の生き死にや成長と老いが、生活から遠ざけられていくという風景を描くことによって、体験とそこで自覚する人間の限界を忘れ去った学校と都市のもろさを描くことに成功していると思うのだ。
 中学生、高校生たちとともに『学校W』を観て、彼らが求めているのは、限りない上昇ではなく、限界に敗れ去る体験であり、その限界を突きつけてくれるリアリティあふれる大人たちの問いかけであることを再認識し、爽やかな気持ちで劇場をあとにした。




  2000/12/18(Mon) <つまらない話>

 詰め将棋というゲームがある。将棋の終盤の陣形から連続して王手をかけていき、相手の王様を生け捕りにするというゲームである。途中、こちらの構想(=詰め)が甘いと、するりと逃げられてしまう。詰め上がるまでに五百手以上かかる壮大な作品や、詰め上がりのかたちが文字になっている作品、盤上の駒が三つしか残らない作品などもあって、こちらはもう芸術の域に達している。
 来年度のゼミナール概要、講義概要を提出する時期になった。これまで詰めが甘くて、何度もひどい目に遭った(ひどい目に遭わせた)私としては、今度こそ、とことん詰めようと、昨晩缶詰状態になっていたのが・・・指を詰めたり、詰め腹を切ったりしなくていいように、構想だけは詰めておきたいものである。



  2000/12/16(Sat) <冬の木>

 北海道の滝西の森で「子どもの村」をひらいているおじじは「冬の森が一番いい」と言っていた。木のほんとうの姿がわかるのは、葉が落ちたあとの冬だという。私の研究室は、おそらく東京経済大学で最も心和む場所である図書館前の中庭に面している。そこには一本の味わい深い大きな木がある。夏の間は、茂っていて、よくわからなかったのであるが、冬になり、すべての葉が落ちて、枝の一本一本があらわれてきた。一本一本の枝を見つめていると、それぞれが太陽に向かって手をさしのべているように見えてくる。いのちが、光に向けて、渇望し、求めている。



  2000/12/15(Fri) <二つの学びかた>

 今週の水曜日、生徒指導論の授業のあと、エキサイティングな時間をもつことができた。出会いと体験を中心とする私の講義に対して、「意味がわからない」「興味がない人間はどうしたらいいのか」という批判をしてくれる学生がいて、これに対して、私がいろいろと応答をしていたところ、別の学生も加わって、「学ぶ」とはどういうことなのかというディスカッションに発展した。
 批判した学生の意見を要約すれば、「自分は意味がわからないまま、人の話を聞いたり、何かをやるということは苦痛である。事前にもっと丁寧な方向づけをしてほしい」ということであった。これに対して、あとから加わった学生の意見は、「体験をしなければ、現実に切り結んだ問いも生まれない。先生はきっかけを与えてくれているのであって、意味は学び手が一人ひとりが自分で探すものである」というものであった。どちらも一理ある。
 私は、教師として、批判した学生のことばをきちんと受け止めたいと思った。というのも、授業というのは一つの器であり、一つの枠である。器があり、枠があるから、学生は安心して学ぶことができる。しかし、その器や枠が見えないとき、学生はきっと不安に投げ込まれるだろう。授業では、必ず教師の器に挑戦してくる学び手があらわれる。そのとき、より大きな器をどのようにして創っていくのか、そこで悩み、考えればよいのである。はじめは小さい器であってもかまわない。器がはっきりしない環境では、学生はしんどいだろうし、器を類推しながら合わせていかなくてはならないので、のびのび学べないにちがいない。こういうことを教えてくれる学生は、まさに教師を育てる学生である。
 一方、後者の学生たちは、私の意図を十二分に理解し、さらにその向こうにある世界まで汲み取ってくれている、よき学び手の学生たちである。本を読むさい、よき読み手とは、書き手が書いていることを読むにとどまらず、書物の向こうにひろがる世界を読み解く人であると思う。授業にもまたよき読み手というのがいて、そういう学生のことば、レポートを読みつつ、「ああ、私の授業はそういう広がりをもっていたのか」と気づかされることがある。彼らもまた、教師を育てる学生である。
 さて、授業を妨害する生徒を登校停止処分にしてよいという、文部省の指示があり、教育現場でこの措置が実施されているという。この発想は、教師はもうすでに完成されたものであり、子どもは無知で無能であり、そこに黙って従っていればよいという貧困な思想によって生まれている。現実は、親が子どもによって親として育てられるのと同じように、教師は子どもによって教師として一人前になっていく。ときには、授業を妨害する学び手こそが教師の教師である場合もある。教育現場が大変であるとしたら、きめこまやかに子どもたちに対応することができるように、そして一人ひとりの教師が追いつめられることがないように、学校に教師の人員を増やしたり(教師になりたがっている意欲も力量もある若者は大勢いる)、教師をサポートする組織を作る(教師にこそカウンセラー、あるいはスーパーヴァイザー(アドバイスをしてくれる先生の先生)が必要だ)ことが先決である。



  2000/12/14(Thu) <ゆけゆけ「新庄」>

 阪神タイガースの星、打率は低くても、ファールフライをセンターから捕るのが夢と言うなど何ともユニークな人気者の新庄剛志選手が、大リーグ・メッツに移籍することになった。先日のスポーツ新聞、夕刊紙には、この記事があふれていたようである。紙面ののぞき見をしたところ、「買いたたかれてポイ」だの、結構酷評されていたようだが、私はこの出来事からまた違った印象を受けた。
 5年契約で12億(推定)といった破格な報酬を蹴って、2200万円の大リーグ最低賃金で渡米を決意した新庄選手は、お金と安定のために我慢をするという生き方から自分の夢のために納得のいく生き方への転換という、ほかの若者たちがくすぶりながらもできないでいることの先鞭をつけたのである。これはある意味では、イチロー選手が大リーグに行く以上の意味をもっていると思われるのである。イチロー選手は、大リーグでも一線で活躍できる実力をもっており、報酬面や球団の期待においても十分な待遇を受けている。もちろん日本のプロ野球にとっては大きな損失だろうが、社会的には理解可能な移籍である。これに対して、新庄選手の移籍は、経済学的な妥当性からはおそらく説明できない行動である。
 新庄選手が大リーグで成功するかどうかは、別にたいした話ではない。しかし、人気のある(人気があるということは今の時代の空気をつかんでいるといえる)一人の選手が、これまでの常識では考えられない判断をしたということが大きなことなのである。私たちの社会のなかで、とくに若者たちに、「人並みであるための我慢」より「ユニークであるための冒険」を選択する人々が生まれてきているということを、新庄選手のエピソードは物語っているように思われるのである。フリーターの増加などの問題も、こうした枠組みから考えてみる必要があるだろう。



  2000/12/13(Wed) <さらば「ヤル気」>

 教育について語られるとき、しばしば持ち出されるのが「ヤル気」ということばである。「近頃の大学生はヤル気がない」、「あの教授は授業をヤル気がない」、「おたくの学生はほんとうにヤル気があるのか」など、今年1年間でも、うんざりするほど「ヤル気」ということばを聞かされ、その度に、私の「ヤル気」はうせていった。
 そもそも、人の何かに対する意欲というものは、人と何かとの関係(さらにはそれを媒介する者との関係)によって上昇したり、減退したりするものなのに、「ヤル気」ということばは関係のなかでものごとをとらえる視点を奪ってしまう。それに「ヤル気」ということばは、だいたい誰かに対して他者が一方的に定義することばであり、そこから対話が生まれる気配はない。
 この「ヤル気」に対置させることばとして、「ワクワク」ということばを暫定的においておこう。「あの先生、一体ヤル気あるのかしら」と言われるより、「先生のゼミ、ワクワクしないね」と言われるほうが、何だか次には「ワクワク」するように工夫してみようという気になるものだ。「ワクワク」は、例えば「明日の野球の試合のことを思うとワクワクして夜も眠れなかった」とか、「みよちゃんは雪が溶けて、外で遊べる日が来るのをワクワクしながら待っていた」というように、対象との関係においてわき出てくる感覚であるといえるだろう。そして、今、私は、これから行われるゲストの北村年子さんのワークを、「ワクワク」しながら待っている。



  2000/12/12(Tue) <卒業生のたまぱと>

 卒業生で二年ぶりにたまぱとに参加した学生からメールが来た。彼はじっくり時間をかけて自分のことばを探すタイプの学生である。二年前の反発から、新しい自分の発見へ、今回のたまぱとが大きな意味をもったようだ。与えられたものを鵜呑みにするのではなく、反発を感じるところには反発をし、その意味を考え続ける力をもつ人は、時間はかかっても必ず自分の足で一歩を踏み出せる。以下に卒業生の文章を紹介したいと思う。

 「たまパトに参加するのは、第1回目に引き続き、2年越しの参加となりました。一度目には、恥ずかしながら路上生活者の人達に対する偏見(うーん、「負のイメージ」ってやつかな)から、あまり上手く彼等と話をすることができませんでした。r(^^;)ポリポリ
 ですが、やはり一度目よりは二度目なのか、それとも大学生と社会人という視野でものを見ることがそうさせるのか、全く違った印象を受けました。それは、“ホームレス”と一言で彼らを囲って見てしまったイメージから、“ホームレス”の人達にも色々な人がいるのだなという違いに気付けたことです。(中国人やアメリカ人を見て、みんな同じ顔と見えていたものが、それぞれ色んな 人がいるって思える感じに似てるかな)  ちょっと、話はそれるけど・・・、数年前に、神戸の震災があったでしょ? で、今まで普通に日常を送っていた人達が、一夜にして、いきなり家は壊れ火事にはなって、周りもボロボロだわ、国の救助も遅いですわで、ある日突然ホームレス状態になっちゃった。彼らには、多くのボランティアや『助けてあげなくちゃ』みたいな気持ちになった人が数多く現れた。世間一般もそういう認識でこの事件を捕らえた。僕らは、同じホームレス化した状態でも、新宿の彼らとは全く違った意識だった。
 僕自身、ホームレスになるって言うのは、それなりに彼らに問題があってのことだ(酒やギャンブルなど又は働かずにいるからなど)、要は“自業自得だ”ぐらいに二年前には思っていたんだ。 でも、三年間かけてようやく一つ知ることができた。もちろん、酒やギャンブルでホームレス化した人もいるけど、そうでない人もいるって。かつて、高度成長期には、田舎から何も知らない若者を引っ張ってきて、いくつものダムや建築物を作るために都合のいいように働かせておき、景気が悪くなったり仕事中にケガをして動けなくなったら、ハイさよならという現実。(それは時代を超えて、いまリストラという形でいつ自分達も同じようになるか知れない現実にもなっています。)
 資本主義の構造が利益追求であるためだ、というのならこれも一つの結果なのでしょう。しかし、この状態を、ただ単純に“結果”にしておいて、いいのだろうか?この現状に甘んじてていいのかな。単に「仕方ない成り行き」としておくのではなく、せめて“結果”ではなく“通過点”という形で捕らえようとする動き、社会の中で(彼等のような人達や私達も含めて)全ての人が、人として人間的に生きていくことができる、安心して社会的に生きていけるという施設や構造ができていかなくてはいけないんじゃないのか?いまは、その設備や仕組みがこの世の中に全く無いが為に、ホームレス化している人達が、新宿にはいた。
 それは、『自然災害によるホームレス化』なのか、『社会災害によるホームレス化』なのかの違いだけで、彼らは何も悪いことはしていなかった。普通の、そこらへんの家庭にいるオジーチャンとなんら変わりなかった。彼らは、ある一つの“被害者”なのであると、このたまパトを通じて自分の中で受けとめ、知ることができた。
 音楽も、テープよりライブに行ったほうが感動するし、ビデオを家で見るより映画館でみた方が後にのこる印象が違う。人から話を聞いたりするだけでは、ちょっとここまでは理解できず、相変わらず無意識の中で固定化された負のイメージを持ちながら、ずっと生きていくことになるところだった。“体験”という財産は、まさに血や肉となって今後の僕の人生の価値観というものを変えていってくれることだろう。
 学生の皆さんが、うらやましいね。こんな“きっかけ”の宝庫みたいな環境にいられるのだから・・・。
 最後にもう一言、たまパトにきていた北村さんが言ってくれた。“無理して男らしい人になる必要はない。人間らしい人になって”って。これって、大切なことだなって思った。また一つ、僕の中で好きな言葉が増えた。

「***彼は掲示板にのせるつもりで書いたので上のような文体になっています」



  2000/12/11(Mon) <たまぱと体験談>

 週末、北村年子さんと東京経済大学の学生たちと新宿たまぱと団に参加した。「たまぱと」は、たまごをもったパトロールの意で、新宿で路上生活者の人たちを訪ねている団体である。第二・第四土曜日の夜7時から9時まで活動している。
 私は二年ぶり三度目の参加だったけれども、今回、今までで一番聞きたいことを聞けたように思う。その問いは「なぜ路上で生活しているのか」というシンプルなものである。この問いに対する答えは多様である。ミャンマーで軍事政権に嫌気がさして日本に来て、職を失い、路上で生活している28歳の青年から、給料を払ってもらえず、そこにいるおじさん、そして、会社が倒産し、貯金が尽きて、就職活動しながら路上生活をしている背広姿のおじさん、それに、路上生活者であることが信じられないような、会社でも責任ある地位についていたにちがいないと思われるおじさんまで、そこには生活している。
 今回参加することで、私と彼らの間にあった距離が、今もたしかにあるのだけれども、シャットアウトされたものではなく、風が吹き合うものになったように感じた。つまり、路上生活の問題が、他人事ではなく、自分とも近いところにあることに気づいたということである。体験をうまく伝えていくことばを未だもっていないので、もどかしいところがあるが、自分の中で少しずつ何かが変わりつつあることは確かなようだ。



  2000/12/8(Fri) <真珠湾から59年>

 今日は、日本軍が真珠湾を奇襲し、日米開戦に至ってから59周年である。あとになって彼我の物量の差を知り、冷静に考えると、よくもまあ無謀な戦争をしたものだと思うが、時代の空気の中では、そのような声を上げることが難しかったにちがいない。何でも「勇ましい」言葉は、カッコよく、勇気があり、正しいように聞こえるものだ。しかしながら、「勇ましい」言葉には、気をつけなければならない。「勇ましい」言葉が生まれるのは、ある一面だけしか見えていない(見ていない・見させない)場合が多いからである。カッコ悪くったって、地に足のついた歩みをしていったほうがいい。そうでなければ、結局のところ、悲惨な結末しか待っていないのである。



  2000/12/7(Thu) <研究室の水>

 先日のDailyたまのさんぽみちに対して、ニューヨークにいる卒業生から早速感想メールがやってきた。彼は、教師のしごとの面白さは出会いを数多く経験できることにあるのではないかといい、メールの最後を「しかしNHKのお姉さん気になりますね。教師って羨ましい、、、、、。」と締めくくった。まあ役得ということで許してもらうことにしよう(笑い)。ホームレスのおっちゃんのたくましさへの感動を伝えようと思ったのだが、NHKの美人のお姉さんをみての感動のほうがうまく伝わったようだ。まあいいか。
 さて、昔この欄に、わき水のことを書いたのを覚えておられる方がいるだろうか。柿田川湧水群を訪れた話や、国分寺の真姿の池を散策した話などであるが、さいきんちょっと水というものに凝っている。今年からはじめている教育方法U−授業デザイン論−という科目の最終課題は、「国分寺の水とくらし」である。生きていくための最も大切なものの一つである水、その水と人がどのようにかかわりながら歴史をつくってきたのか、調べてみたいと思ったのである。ところが、灯台もと暗しとはこのこと、きれいなわき水を求めてさまよい歩く私の、まさに足元である研究室の水が茶色の異物入りのとんでもない代物なのである。この水は一体何なんだと思いつつ、これまで浄水器などをつけてだましだまし自衛していたのだが、本日とうとう係の人がやってきて、水質の検査を行ってもらうことになった。
 そして、わかったこと。なんとわが東京経済大学の水は、全部井戸水だということである。驚くべき事実。きっと教員、学生ほとんどが知らなかったにちがいない。(もしかして知らなかったのは私だけ?)研究室の水が濁っているのは、研究棟の人口が減り(新築マンションばりの新研究棟が完成し、うちの長屋研究棟はガラガラになっている)、水道の使用量が少なくなっているからだという。水道管は使用しないと、さびなどがたまってしまうらしい。だから、解決策は、「これからはじゃんじゃん水を使って下さい」とのこと。うーん、空襲で家を焼かれモノのない時代に苦労した祖父母の“倹約”の教えを今まで守り続けてきた私にとって、これはコペルニクス的転回の解決策。やっぱり今は、消費社会なのか。明日からは、おそらく日本が戦争に明け暮れて人々のくらしが貧しかったころ、秩父の山脈に降り注ぎ地下水となった水を「じゃんじゃん」使うことにしよう。いっそ洗濯機と風呂も研究室にもってこようかな。



  2000/12/6(Wed) <ホームレスの人々と出会う>

 今週の生徒指導論の授業では、ゲストにルポライターの北村年子さんを呼び、若者のホームレス襲撃事件の深層について語ってもらった。ゲストの北村さんは、さらにゲストとして三人のホームレスの人たちを連れてきて、その上、NHKラジオ局の美人のお姉さんが二人やってきて、6号館地下のスタジオは熱気に包まれた。
 そもそも今年の生徒指導論に出ている学生たちは、雰囲気がいいのだが、今日の講義では、今まではどちらかというと、後ろのほうにいた学生たちが前に出てきて、積極的にホームレスの人々に向き合い、いつもとは違った空気のなかで濃密な時間が流れていた(ように思う)。
 ホームレスの人々は、想像していた以上にフレンドリーで、自ら学生たちとの垣根を取り払って下さり、また真剣に自分たちのライフヒストリーを語られた。それを聴く学生たちの目も真剣そのものであり、学生たちがほんとうの社会の現実、生きている人間の姿に出会うことをいかに渇望しているのかが伝わってきた。
 「学ぶ」ことは、自分の「枠組み」をより広く、豊かなものにしていくこと。異質なものを排除していくことは簡単だが、そこには閉じた、貧しい人生しか生まれない。電車の吊り広告を眺めていると、大人ってこんなアホらしいことにしか関心がないのかとがっくりくることが多い。人生を通して、異質なもの、異質な人と出会うことを求め、その対話によって自分が変わることを求めるならば、そこにはどんなに奥行きのある生涯が創られることだろう。
 子守歌のようなやわらかな語りでこの場を準備して下さった北村さん、そしてわざわざ敷居の高い大学まで足を運んでくれたホームレスの人々、この場をともに生き、いつも希望を与えてくれる学生たちに、心より感謝したい。



  2000/11/29(Wed) <「弱さ」と「愛」>

 先週の生徒指導論の授業では、茨城県の高校教師・大滝修先生にゲストとしてきていただき、教師としての歩みと実践について話をしてもらった。大滝先生は、中、高時代にさまざまな傷つきと挫折を経験しながらも、「旅」と「出会い」をテーマとして、教師としての人生を切りひらかれた。その原風景として、中学校時代の一人旅で出会った行商のおばさんのエピソードが語られた。北海道の追分でSLを追いかける大滝少年に、行商のおばさんが惜しげもなく毛ガニを二杯くれた話である。少年に対する愛は、少年の人生を変える力をもっている。大滝少年は、この「旅」から出発し、現場で考えるという学びのスタイルを教室にもちこみ、ラディカルな教師として活躍している。叱責よりも、説教よりも、あるいは幾多の解釈よりも、ただ一粒の「愛」こそが人を育てることに気づかされる。「弱さ」を認め合う同士が出会ったときに、そこには「愛」が生まれるように思う。今日の生徒指導論で学生たちと観た「ホームレス襲撃事件」のビデオ、そこには自分の中の「弱さ」を認めきれない若者が、自分より「弱い」と考えた人を容赦なく金属バットで殴り、殺すというやりきれない事件があった。加害者の20歳の若者の顔は、童顔で穏和であり、私の授業に出ている学生たちと少しも変わらないように思った。しかし、そのペルソナの裏には、どのような葛藤を秘めていたのだろう。「弱く」てもいいやんか。「弱い」自分を認めることができるほうがずっとほんとは「強い」んや。そう思った。



  2000/11/22(Wed) <誕生>

 先々週の生徒指導論の授業では、「現代社会と人間」の牧原先生のアイディアを借用して、自分なりのコンテクストの中に中島みゆきの「誕生」を位置づけ、みんなで聴いたところ、結構みんなでしみじみした。そして、実をいうと、今日は、私の誕生日である。
 学生相談の学生さんから「11月22日33歳、数字が揃ってめでたいですね」と言われ、初めてそのことに気づいて、何だかうれしくなった。そのあとこの話を思い出していたら、今年が2000年であることに気づき、「00年11月22日33歳」ということを発見。さらにうれしくなった。次の1年をめざして歩みたい。



  2000/11/17(Fri) <私の個人主義>

 私は高校時代に、現代国語の先生を通して夏目漱石に出会った。労働者の息子であった当時の私にとって、夏目漱石の作品に出てくる「高等遊民」(親が金持ちでいろいろ観念的なことを考えながらダラダラしている男のこと、今風にいえばプータロー)は、苛立つ存在であり、おまえは何でそんなに暇なのか、何でそんなに観念的なのか、働いてめしが食えれば、それで何に文句があるのだ、というふうに感じていた。しかしながら、月日が経って、労働者の息子であった私は、大学の教員というインテリゲンチャになってしまった。そして、めしが食えればいいと思っていたのが、めしが食えてもいろいろ思い悩むようになり、ついに、パンより生きるためのことばがほしいと考えるようになった。(もちろん、めしが食えない経験をしたことがないから、こんなことがいえるわけで、ほんとうにパンのない状態は想像を絶するものだと思うが)
 こういう状況に陥ったとき、私は、再び漱石を読みたくなった。そして、青空文庫でPlamにダウンロードして、「私の個人主義」という講演記録を読んだのである。そこには、漱石の自分史があり、あの漱石が「あやふやな態度で世の中に出てとうとう教師になったというより教師にされてしまった」と言い、「その日その日はまあ無事に済んでいましたが、腹の中は常に空虚でした。空虚ならいっそ思い切りがよかったかも知れませんが、何だか不愉快な煮え切らない漠然たるものが、至る所に潜んでいるようで堪らない」と述べているのが、私の心にぐっと来た。誰もが、自分の空虚さには自分で向き合うしかない。代わりに向き合ってもらうことはできない。ごまかしても空しいだけである。人生、今はわからなくてもいつかわかる日がくるときもある。漱石に出会わせてくれた先生に感謝している。



  2000/11/13(Mon) <青空文庫>

 青空文庫というものがインターネットにはあって、ボランティアの人々が著作権が切れた小説などをテキストとして打ち込み、ネットで提供している。これには普通のテキスト・ヴァージョンと、Palmヴァージョンがあり、スケジュール管理にPalmを使っている私にとっては、とてもありがたいものである。(知らない方のために:Palmというのは電子手帳用のOSで、とても使い勝手がよく、アメリカでは一番のシェアを誇っています。最近、日本でも、ソニーがクリエという製品を出しましたが、これにはPalm OSが使われています。)
 先々週のテーマとは反対に、青空文庫というのは、インターネットの光の部分である。つまり、青空文庫は、一人の無償の働きが、世界中の人々の役に立つという喜ばしいシステムなのである。私は、ただで作品を使わせてもらう、まさにフリーライダーなのであるが、毎回、パソコンで打って下さった方に「ありがたい」と感謝しつつ、読んでいる。これからの社会では、経済的な報酬よりも、自分は人の役に立っている、人に認められている、喜ばれているといった精神的な報酬が尊ばれていくと思われるが、お互いに認め合い、感謝をし合い、創り出していくネットの関係の網の目は、楽しいものである。
 さて、青空文庫で今、読んでいるのが夏目漱石の「私の個人主義」であるが、これについては次に書くことにしたい。それでは、今日は、これにて。(青空文庫にリンクしています。本文中の文字をクリックしてみて下さい)



  2000/10/29(Mon) <ネット・表現・無意識>

 今日のテーマは、インターネットで知り合った男女(男性は40代の歯科医師・女性は20代の元OL)がメールのやりとりをして1ヶ月足らず、そして実際に会って数日で心中をしたというニュースについてである。
 私たちは、まだネットで表現をはじめてからわずかな時間しか経験していない。私たちはネットで表現するとはどのようなことなのかについて、その可能性と怖さをほとんど知らないと言ってもいいのである。ネットは長野県に田中康夫知事を誕生させるとともに、新たな心中や自殺幇助も生み出す。しかしながら、これらの現象も、ネットの可能性と怖さの一端に過ぎないのかもしれない。
 ネットではほとんどの個人のページが匿名である。匿名であるがゆえに、普段、誰もがもっていながらも、公の場で目にしたり、耳にしたりすることのない、人の無意識のドロドロとつながった世界が、そこにはなまっとした形で転がっている。私は、私生活を公開しているHPで、作者が亡くなったというページをいくつも見てきた。人は、自分の無意識を公開してしまったとき、自分だけの心のポケットを失い、魂の危険にさらされるように思われるのである。
 紙媒体の表現は、具体的な読者が想定される。したがって、その表現においては、他者のまなざしが必ず意識される。これに対して、ネットの表現においては、その読者像はつかみようがない。そして、本であれば、推敲を重ね、精緻な論理によって構成された作品が、価値をもつのに対して、ネットの表現では、なまなましさのインパクトがより人を惹きつける。こうしたネットの特徴は、人々がこれまで培ってきた表現のありように、大きな変更を加えようとしている。
 そもそも表現とは、自分自身の卑小さの自覚により、生まれてきたものではないかと思う。詩人の谷川俊太郎さんが「自分のなかにそんなに自己表現に値するものがあるのか、自分というものの貧しさにくらべて、日本語は遙かに深くて豊かなものである」という気づきについて、『ひと』(特集−黙る2000.5+6、太郎次郎社)に書いている。この文章から、自分がこれまでの歴史のうねり、文化の堆積に対して、どんなにちっぽけな存在であるのかを思い知った地点から、その人の表現がはじまることを教えられるのである。
 自己憐憫をネットによって増幅させ、心中に至るというのは、表現の対極にあるものである。誰だって、人生にどん詰まることはある。しかし、それはそれぞれがきちんとどん詰まっていればいいだけのことで、それは決してネットを通して垂れ流すものではない。垂れ流される時代にあって、慎み深い人の存在は、貴重かつ希少なものとなっている。



  2000/10/25(Wed) <トルシエ・ジャパン>

 トルシエ・ジャパンがすごい。先日のアジア・カップ準決勝でも、イラクに先制されたもののすぐに追いつき、イマジネーションあふれる攻撃で、最終的には4対1で試合をものにした。決定力不足と言われ続けてきた日本サッカーが見違えるように自信に満ちたものになっている。
 評価が分かれるトルシエ監督だが、彼は日本の大人にはあまり見られないいくつかの特徴をもっており、これが若者たちの力を引き出したように思われる。一つは、自身がパフォーマーであることである。彼は、コーチングの際に、自身でプレーをしながら、教える、そのような能力をもっている。二つ目は、選手との距離を保っていることである。彼は、監督であり、選手とは友だちではないことをはっきりと自覚している。身体的には、選手との距離を感じさせないが、精神的には、きちんと選手との距離を保っている。これが選手との間のクリエイティブな緊張感を生み出している。三つ目は、トラブルに強いことである。つまり、あとを引かない。過去にトルシエ監督が名波選手を酷評したことはよく知られている。しかしながら、現在、トルシエ・ジャパンは、名波選手を中心に動いている。もちろん、これは名波選手の努力もさることながら、トルシエ監督が感情的に選手を評価し、それをいつまでも固定するのではなく、パフォーマンスによって公平に評価することのあらわれだろう。
 これら三つの特徴は、専門家としてのプライドの高さとつながっているように思われる。選手に決して媚びることなく、自らのアイディアに対する誇りをもち、同時にプレーをする当事者である選手には敬意をもつ。トルシエ監督は、卓抜した指導者の一人であるように思われる。紹介してくれたベンゲル監督の識見の高さは、さすがである。2002年が楽しみになった。あとは、日本サッカー協会がつまらないことで足を引っ張らないことだけを期待したい。



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