Daily たまのさんぽみち
教育についてのひとりごと
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2000/10/19(Thu) <不夜城>
最近、堅苦しい話ばかりしているような気がするので、今日は肩のこらない話を一つ。私の場合、電車で大学に来ると終電が早い。最後の電車が所沢からの上り電車なので終電がなんと11時58分なのである。だから、大学を11時過ぎには出ないと家にたどり着けない。夜間のゼミナールの飲み会などやると、すぐにシンデレラになって駅に走るはめになる。ここで、終電のない自転車が一躍脚光を浴びることになる。先日、大学に自転車で来て、よしとばかりに午前零時半までがさごそと研究なんぞをして、「ああ、よくがんばった」と充実した気持ちで帰路につこうとしたときのことである。研究室1Fの電光掲示板を見て、あぜんとした。1、2、3、何とまだ6人もの教員が残っているではないか。実験のある理系の大学では普通のことかもしれないが、文系の東京経済大学で、午前零時半にまだ6人もいる。一体、みんなはどうやって帰るのだろうか。う〜ん、何と勤勉な東京経済大学の先生たち。しかし、単なる帰宅拒否症だったりして(笑い)、あるいは研究室でピコピコとゲームにはまっていたり(笑い)、いや、そんな不良少年(中年)は、私だけだろう、きっと。今日も不夜城で夜戦が展開される。
2000/10/16(Mon) <舞台裏>
前のコラムで、肚をくくったはずだが、学びを創るということはそんなに簡単なことではなく、まだまだ長いたたかいが続きそうである。しかし、自分自身、ちょっとばかりましになってきたかなと思うこともある。それはスムーズに行かないことで落ち込むのではなく、つまづきを次の飛躍のチャンスにしたいと考え始めたことである。ゼミでは、学生の身近なところから学びを創るということをテーマとしてきた(1年目は体をなしていなかった)が、昨年ぐらいから学生たちの間でもっと深く学びたいという内発的な欲求を感じるようになった。そして、自分たちの経験の語り合いの場にとどまらず、知的にひらかれた学びの場に発展させていく途を、試行錯誤しながら探っている。私が考えている知的にひらかれた学びの場というのは、そこで表現、発表された作品が、対話・議論を通して高められ、より説得力をもつ知に高められるような場のことである。こうした場を創るためには、表現の形態が他者からの批判を許すものでなくてはならない。今、私たちが行き詰まっているところは、この地点にある。
これから遠い道のりかもしれないが、自分にとっては、今、大きな一歩を踏み出そうとしているような気がしている。
2000/10/12(Fri) <肚をくくるということ>
毎年10月というのは、死にそうになる季節と相場が決まっている。せっかくさわやかな季節であるのに、私は、この時期、頭で考えていたことと現実に起こっていることとの調整がつかずに、七転八倒することになっている。同じようなことは、5月の連休明け頃にも起こる。大学の授業に向けて、春休み、夏休みに準備をするわけであるが、私の準備はいつも見当外れである場合が多く、現実の学生という“他者”に出会って、方向転換を余儀なくされるのである。自分の“観念”(=思いこみ)とそこにいる学生という“現実”の折り合いをどのようにつけるか、私はこの問題をめぐって、毎年2回、性懲りもなくじたばたすることになる。
自分の“観念”で相手を操作できると考えるのは、何とも幼児的な思考である。しかし、この幼児的な思考が通用しないことを思い知らされてはじめて、私は次のステップに立つことになる。そして、私が向き合っているのは、私の分身ではなく、私とは違った他者なのだということにようやく気づく。そこでようやく、私のどん詰まった問題関心に他者を引きずり込むのではなく、異質な他者同士から学び合うことができる場をどのようにして創ったらいいのかを考えるようになる。そのときに、今用いることができるリソース(資源)−教員の能力、学生の現状、限られた時間など−を冷静に見つめることができるようになる。悔しいけれど、今の自分ではここまでで精一杯なのだ。そこで最大限のことをやろうと。ここで往生際の悪い私も肚をくくる。
こうしたことを教えてくれているのは、私のまわりの学生である。学生がいなければ、私は自分の“観念”の泥沼にはまって、おぼれ死んでいたことだろう。育てることによって学ぶというジェネラヴィリティの思想(=エリクソン)は、こうしたことを語っているのだろう。大人が肚をくくれば、そんなに悪いことになりはしない。
2000/10/7(Sat) <スポーツの秋・学びの秋>
今年の秋は、いつもの秋にも増してさわやかな風を感じる。別に私の心がさわやかであるわけではないが、自転車で大学まで来たり、東京経済大学100周年記念にこじつけたゼミ野球大会を開催するなど、今秋は外気にふれる機会が多いからであろう。そうそう、これからも、今年こそはと、念願の野外授業を企画している。そのための偵察もあって、外を歩くことが多い。自閉的であった私が、少しずつ外に向かって開かれていこうとしているのだろうか。
ゼミ野球大会では、高校まで硬式野球で活躍していた一線級のつわものがいる中で、ほとんど未経験の学生が臆せずに自分なりの上達をとげていたのが印象に残った。何事も挑戦してみてはじめて、上達があるのだし、最初からできないと諦めていては、いつまで経っても同じ地点にいるしかない。目先の勝敗にこだわるやり方では、人は育っていかない。経験を積むことで人は育っていくのだ。果敢に経験を求める人間はいずれ力をつけるし、失敗(=経験)を許容する場が最終的に人を育てる。
高校時代、野球推薦で入学しながら、三年間レギュラーになることができなかったという学生が次のような話をしてくれた。野球部の監督は、信頼する選手とそうでない選手がすでに決まっており、彼が信頼する選手しか使わなかった。練習試合でさえ、ほとんど9人でたたかったという。実戦で経験を積むチャンスを与えられないから、いつまで経っても、補欠はレギュラーに追いつけない。その上、試合において代打で起用されても、練習試合でも使われていないのだから、結果を出せというほうが無理である、と。
実は、私は高校時代、剣道部に所属していた。部員は少なかったが、中学までかなりしっかりやっていたメンバーがいて、結構強い部だった。その中で、私は高校からはじめた初心者だったので、経験者と一緒に練習をしていくのは決して楽なことではなかった。1年生の夏の大会が終わると、2年生が引退した。進学校だったので部活で対外試合に出られるのは2年の夏の大会までだった。秋から春までの大会は、1年生だけで臨むことになる。まだ話にならないような初心者だったけれども、私にとって対外試合はぜひとも経験してみたいことだった。毎日の練習のなかで、地稽古という試合形式の練習はあるが、真剣勝負というのがどんなもので、どんなふうにひねられるのか。自分の唯一の武器であった、相手の出鼻に放つ“出小手”がどこまで通じるのか。勝ち負けはともかく経験をしてみたかった。当時、部員は1年生7名であり、5人制の大会ならば無理だが、7人制の大会であれば出場できるはずだった。ところが・・・
秋の大会は、7人制の団体戦だった。「よし!出番だ!」と心秘かに思っていたところ、主将は、初心者では勝てないという判断から、剣道部に所属していない中学までの経験者2人を、この大会だけということで入部させ、試合に備えたのだった。私ともう1人の初心者は、唯一の公式戦出場のチャンスを断たれた。もう一人の彼は、私よりは大人だったというか、勝負だから仕方がないと考えていたが、私は、部活でともに汗を流していない連中が横から入ってくるなんて、自分なりに一生懸命やってきたこれまでのことは一体何だったのだろうかと思った。同じ部のなかの力関係で自分が出場できないというのならわかる。しかし、別のところから人を連れてくるというのは一体どういうことなのだろうとやり場のない憤りを感じた。(都市対抗野球には補強選手という制度があるが、あれは明文化されたルールである)そして、秋の大会、補強した結果は、一回戦敗退だった。
私は一年が終わると同時に、寮を出て、剣道部を辞めた。チームをチームと思えないところにいても、仕方がないことだった。段位などには興味はなかった。
私は剣道の初心者だった。初心者でさえ、ないがしろにされることに対して、一分の魂がある。だが、先ほど述べた学生は、野球推薦入学の実力者だった。彼にとって、練習試合でさえ使われないということは、どんなにつらいことだっただろう。それでも3年間やりとげたということに、私は心を打たれた。勝ち負けという狭い見方によって、傷ついてきた人間はたくさんいるだろう。しかし、これを自分たちの代で断ち切っていくこと、そして、勝負を唯一の結果ではなく、自らの日常の鍛錬の鏡としてとらえ、技とかけひきを楽しむ度量をもつこと。スポーツだけではなく、学びにおいても、いつもこのことを考えながら、生きていきたいと思うのである。
2000/10/2(Mon) <熱血教師と沈着生徒>
今年のゼミナールでは、夏休みに、教師、あるいは子どものインタビューを行い、後期に発表するというスタイルをとっている。まだはじまって2週間ほどであるが、いくつか面白い特徴が見えてきている。簡単にいうと、教師の熱血化と、それに反比例するような子どもの冷静化傾向が見られるのである。たまたま若い教師のインタビューが揃ったのであるが、教師は生徒にかかわろうと一生懸命で仕事に熱心にたずさわっている。しかしながら、そこにはほとんど授業についてのエピソードがない。学校での教師の本来的な役割は、授業にあり、生徒とのかかわりは二の次であると思うのだが、教師は“教科”より“教育”に熱心である。これに対して、生徒は、教師を醒めた目で見つめている。そして、“説教”はいいから、授業の上手な教師であってほしいと思っている。
う〜ん、学校という場をめぐる見事なすれ違いがここに映し出されている。教育行政は「心の教育」とか「カウンセリング・マインド」とか“教師の人間性”を主張するのだけれども、生徒が求めているのは、むしろ“教師の知性”である。ここがすり替えられているかぎり、学校教育はその空虚さを増すばかりであろうし、子どもの不幸は続く。学生たちのインタビューは、今、学校に必要なものは、教師が相互に学び合える環境を創り出すことだと教えてくれる。
2000/9/27(Wed) <いつもと同じ秋の夕暮れ>
新しいシーズンが始まり、これと同時に、HPの更新がかなりきつくなった。本のページは、秋雨前線のように停滞中である。シーズン前はいろいろと思いめぐらし、リズムのある、健康的な生活を送ろうと思うのだが、シーズンが始まると、いつもながら私の予想は甘く、目の前の蠅を追うことで精一杯となり、とても健康な生活は送れなくなる。始まってからわずか1週間あまりで、4年目となった今年もいつもと同じ秋を感じ、ああ、かなしいと落ち込んでいる。
しかし、考えてみれば、一喜一憂していても、仕方がないわけである。成功体験によって自己評価を高め、失敗体験によって自己の力量を高め、どちらも肥やしにすればいいことで、まあそんなものである。ある学生に教えられたことだが、彼は「満足するかどうかで授業を判断したことはない。ユニークな授業、平凡な授業、あらゆる授業の中から学ぶことがある。」と言った。これこそ卓抜した学びの構えであるように思われる。彼の見事さに感心しつつ、今日も私は、往生際悪く、ぼやきながら授業の教室に向かうのであった。
2000/9/21(Thu) <知的な快楽>
後期の授業が始まり、先日は、自分の授業のほかに、オムニバスの「現代社会と人間」に参加した。この授業は、合法的にほかの先生の授業を受けることができるのが、その魅力の一つである。自分自身、大学時代には漫然と授業を受けていたに違いないのだが、教員になってみると、授業を受けるという機会は、(1)自分自身の授業をブラッシュアップするためにも、(2)ほかの領域での研究からヒントを得るためにも、宝の山のように見えてくる。そして、昨日の福士先生のコミュニティの経済学は、まさに磨かれた宝であり、その一つ一つのことばによって脳が活性化するのが感じられるほどであった。
昨日は、夕方からオリンピック・サッカーのブラジル対日本戦があり、普段であればそこに関心に向くはずであるが、知的な快楽というのは、自分の内側から沸き上がってくるだけに、外からもたらされるオリンピックの感動よりも、より根源的なのである。自分自身の授業ではまだまだ達成できていないのだが、学びの拠って立つところは、内側からこみ上げてくる知的な快楽にあるのだと思う。知的な快楽が集中を生み、学ぶ身体を形成していく。授業という場は、「おまえはワクワクしながら学んでいるのか」という問いを突きつけてくれる、ありがたくも厳しい場であるように思われる。
2000/9/18(Mon) <北海道遠征>
HPの更新を遠ざかっていた間、私は北海道にいた。自宅にテレビがないために、妻の実家が水没しそうになっていることにも気づかずに、先週の火曜日の朝、私は北海道へ、そして妻は京都に旅立とうとしていた。そこで、妻の実家からの電話、「庄内川が氾濫して、えらいことになっています」。あわてて、ラジオをつけたところ、何と新川までもが堤防決壊という。ちなみに妻の実家は、新川町。新川の流れるすぐそばである。えらいことになっている。しかし、私は、妻の仕事場に連絡して、北海道へ。正月に各駅停車で帰省したときの最寄りの駅、西枇杷島駅がみごとに水中駅になっていることを知ったのは、札幌のホテルでテレビをつけたときだった。思ったより事態は深刻だった。何とも親不孝な私である。そしてテレビもときには役に立つ。
さて、東海地方の豪雨をしり目に、私は北海道で遊んでいた、というのはウソで、授業見学と学会を楽しんでいた。ところが、北海道も雨で肌寒く、風邪をひいてしまう。ホテルのベッドでうなっているのは、何とも情けないかぎりだったが、それでも、高校の授業と学会がなかなか刺激的で、風邪をひいたり、治ったりするほどだった。(実は、高校の授業のあまりの質のよさに、自分の実践を省みて、落ち込み、風邪をひいたのだった。)しかしながら、高校の授業がすばらしいことは、私のしょぼちいプライドを傷つけたけれども、そこから学べることは多かったし、教育学者としてもほんとうに喜ばしいことであるから、思い直して、その後、元気が出たのだった。そして、気分良く東京に戻り、張り切って臨んだ後期の初日だったが、う〜ん、またまた出直しやな。人生は厳しい。北海道でいいイメージをつかんだと思ったが、繰り返し練習し、自分のものとして行かないと、イメージはただイメージで終わってしまうことがよくわかった。がんばりたい。
2000/9/11(Mon) <渇望することのたのしさ>
忙しい最中だが、いや、忙しい最中だからこそ、遊びの虫がうずうずする。先日、九州の福岡ダイエーホークスの快進撃に、矢も盾もたまらなくなり、仕事帰りに西武ドームに直行した。田舎に住んでいた頃には考えられなかったことだが、通勤電車から一歩寄り道をすると、そこには球場がある。子どもの頃、こういう環境だったらたまらなかっただろうなと思いつつ、乾坤一擲、球場に向かうと、何と球場はすでに満員、あとは外野席の立ち見のみということであった。立ち見でもいいかと入場すると、球場全体が湯気が出るような熱気にあふれ、何重にも立ち見客がいる。私も一生懸命場所を探し、立ち見3列目ぐらいの人垣の隙間から試合を観戦した。
疲れている折の、立ち見観戦、さぞ疲れるかと思いきや、それが何とも楽しく仕方がない。いつもはガラガラの球場で、ぼんやり観ているのが性に合っているのだが、満員のスタンドにはまた別の快感がある。さて、これはなぜだろうかと考えていると、あることが頭に浮かんできた。戦後の貧しい時代に子どもたちが見ていた夢の世界である。あの頃、普通の子どもたちは野球の試合を観るお金などもっていなかった。だから、球場を見渡せる丘や木に登って、ワクワクしながら試合を観たのだ。いつかはもっと近くで観てやる、いつかはあの球場に選手として立ってみせる、そのような夢を抱きながら、子どもたちが野球の試合を観た、そういう時代があった。
対象に対して、渇望するという経験は、自分の中のイマジネーションを膨らませ、長いスパンの中で、自分をどのように制御し、成熟させていくかという展望をもたせる。これは、何でも与えることがよい教育だという思想とは対極にあるものである。自分自身のことを反省してみても、子どもたち(あるいは学び手に)に特等席を与えて、ヘボな試合を無理矢理観戦させているようなことが多いような気がする。これでは誰だってイヤになるだろう。大人がやるべきことは子どもに特等席を与えることではなく、木に登ってでも観たくなるような試合を生きることに違いないのだ。
その日、大勢の観客の隙間からみるプロの野球はキラキラと輝いて見えた。プロの選手の後ろ姿もいつもより頼もしく見えた。
2000/9/9(Sat) <ゼミ合宿part2>
中一日で、同じ信州蓼科にゼミ合宿に行ってきた。今度は、夜間部のゼミナールである。夜間部は、よく言えば、おおらかな学生が多いというか、悪く言えば、ずぼらな学生が多いというか、なかなか時間通りにことが運ばない。(これは、昼夜を問わず、たかいらゼミナールの特徴だという話もあるが>ずぼらな教員)当日も、ゼミ幹事は遅れるし、当日ドタキャンの電話は入るし、発表者はフロッピーディスクに発表を閉じこめたままだし、そもそも低血圧で、朝、機嫌が悪いわたしは、もう完全にキレそうな状態だった。ホテルに着くまで機嫌の悪い状態が続いたのだが、研究発表で、学生たちが思った以上に夏休みの課題をしっかりとやってきており、その一つ一つが面白かったので、一気に機嫌がよくなり、その後は「ウミガメのスープ・ゲーム」で盛り上がるなど、楽しい合宿になった。「ウミガメのスープ・ゲーム」とは、ある物語の結末だけを話し、その物語の全体像をイエス・ノーの質問だけによって解き明かしていくというものである。ある質問によって、次元の違った世界がひらかれるというエキサイティングな体験は、学ぶという営みが問いによって新しい扉をひらいていくものであるという経験と似ていて、面白いのである。すぐれた問いによってひらかれた世界は、そこのメンバーすべてに共有され、そこから次の営みがはじまっていく。このゲームには、学ぶという営みのエッセンスが凝縮されている。
ところで、話を戻すと、学生の頃、教授が不機嫌だと、大変イヤだったものだが、自分がリードする側にまわると、自分が不機嫌なことは、あの頃、教授が不機嫌だったことよりイヤだということを知った。不機嫌だったり、機嫌がよくなったり、そんなふうにしか、表現できない自分のコミュニケーション能力の貧困さが情けないのである。それでも、いつも機嫌よくふるまっていることもできないし、機嫌の悪さも一つの教育方法として用いることができるならば、まあそれも悪くないかと思いつつ、後期のゼミナールを迎えることになる。今のところ、去年より機嫌のいい状態である。
<再度、同じようなミスをしてしまい、「ゼミ合宿part1」は永久におなくなりになりました。合掌!そして、スミマセン>
2000/8/27(Sun) <結婚式>
昨日、軽井沢で、以前通っていた教会の友人の結婚式があった。「軽井沢のチャペルでの結婚式!すごい今風!」と思って、出かけたところ、200名をはるかにこえる参列者たちで、新郎新婦の顔の広さに驚いた。そして、今風の軽やかなウエディングかという予想に反して、内容はすばらしく濃く、新郎、新婦のそれぞれの証し(どのようにして信仰を得るようになったのか、また信仰のなかでどのように相手に導かれたのかというような話をすることをキリスト教ではあかしといいます。イエス・キリストと自分とのライフヒストリーのようなものです。)を中心に、5時間にもわたって、結婚式とそれに続く、披露パーティがもたれた。披露宴のスピーチといったら、たいてい退屈なものが多く、主役は豪華な食事と相場が決まっているが、1人ひとりの語りが何ともボリュームがあり、なおかつ正直で、お話だけで満腹になるようなすばらしい会だった。「人はパンのみで生きるのではない」ということばが身にしみ、心洗われる気持ちで、帰路に着いた。
2000/8/24(Thu) <インタビューin茨城>
昨日から今日にかけて、三池炭鉱のインタビューで茨城に出かけていた。茨城といっても、水戸からさらにローカル線の水郡線ワンマンカーでトロトロ行く、すごい場所。清瀬の自宅から4時間半の道のりである。九州(福岡)や北海道(札幌)並の遠さである。列車内の寒さに備えて、ヨットパーカーを持っていったが甘かった。自転車でぶっとばした汗びっしょりのTシャツに、ご丁寧に冷房の空気を扇風機でぶっかけられ、急速冷却の出来上がり。もう凍え死にそうだった。ヨットパーカーではなく、セーターと皮のコートが必要だった、
さて、茨城では、三池炭鉱の聞き取りでははじめて女の人の話を聴く機会を得た。もう40年も前のことになるが、労働争議での闘争中の生活の大変さがリアルに伝わってきた。また、炭鉱の粉塵爆発事故で夫が一酸化炭素中毒になってからは、きゃしゃな身体で土方をしながら、子どもたちを育てられたという。すごいことだ。このような苦労を重ねられながらも、「ほんとうにいい時代を経験することができて幸せだった」と語られた。この思いはどこから出てくるのだろう。
夜は、山からタヌキが庭に出てきて、びっくりした。タヌキに子どもが生まれて、五匹ほど、食べ物を求めてやってくるのだそうだ。夜は、おばあさんの“ラジオ深夜便”(これがないと眠れないそうだ)の大音響で明け方まで眠ることができず、前夜に続いて不眠の夜というおまけがついたが、三池の人だけではなく、タヌキにまで会えて、印象に残るインタビューとなった。インタビューをしていると、自分の知っている世界はなんとちっぽけなんだろうという気持ちにさせられる。学生たちは、この夏、どのようなインタビューをしているだろうか。
2000/8/17(Thu) <あんにょんキムチ>
今日、東中野BOXで映画“あんにょんキムチ”を観た。新進気鋭の松江哲明監督のドキュメンタリー作品だ。松江哲明監督は23歳。在日三世の今風の若者だ。祖父が日本植民地下の朝鮮半島忠清南道から日本にやってきた。映画は、眠くてその最期に間に合わなかった孫に「哲明、ばかやろう」と言い残して死んだおじいちゃんの足跡を辿ることを通して、松江という名字の由来(元々は、柳という名前だった)と、自分は一体、韓国人なのか、日本人なのかというアイデンティティの問いに迫るという構成になっている。前者については、創氏改名政策の折、柳を松に変えるようにという勧告があり、家族会議を開いて一族の出身地江陵の江と合わせて、松江に改名したことが明らかになった。しかし、後者については、人々に尋ねれば尋ねるほど、迷路のなかに入っていく。韓国にいる親類は、「おまえは韓国人だ。韓国人であることに誇りをもちなさい」と堂々という。また、在日一世の祖母は「自分は韓国人」だという。同じく三世の妹は、日本で生まれ、日本人の間で育ち、もはや「日本人」だという。松江哲明監督は、いずれの中にも答えを見出すことができず、どこにも帰属できないあいまいさを引きずって生きていこうと決意する。映画の最後には、子どもの歌声で、「迷子の、迷子のこねこちゃん」の歌が流れてくる。
すごい作品だ。自分を厳しいところに追い込んで、歴史を引き受けて生きるとはどういうことなのかを突きつけるものとなっている。
上映スケジュール
映画館の場所
映画の内容紹介
2000/8/12(Sat) <閉山ときれいな星空>
今夏もまた九州に帰郷した。スピード時代に反して、のんびり寝台車での帰省である。列車内17時間のはずがポイントの故障で1時間の遅れ、電車に長く乗れるということで喜んでいる人もいたが、さすがに疲れた。冷房に弱い妻は、毛布にくるまり、凍え死に寸前だった。時勢に逆らうことの代償は大きい。
さて、大牟田で星空を眺めると、毎年きれいになっているようである。今年は天の川もくっきりと見えた。97年の三池炭鉱閉山から3年が経つ。産業が衰退し、星空が戻ってきたのだろう。しかし、人は減っても、山河は戻らない。若者は流出するのに、田畑は埋められ、住む人のいない豪邸が建ち並び、山を削ったショッピングモールが倒産寸前だったり、もうめちゃくちゃである。必要のない新幹線が走り、住民の願いとは裏腹に、地元の交通はさらに不便になり、若者は都市に流出していくだろう。何とも皮肉なことだが、田舎頼みの政党が地方をだいなしにしている。
2000/8/4(Fri) <新しい地底のひろがり>
7月31日、めずらしいお客さんが、九州と滋賀からやってきて、何とも愉快な日になった。久留米から出てこられた私の高校時代の恩師と、三池争議まで少年時代を荒尾で過ごし、今は滋賀に住んでおられる前川さんが、上京されたのである。いずれも目的は、新宿紀伊国屋サザンシアターで行われている音楽劇“がんばろう”の千秋楽公演を観劇すること。前川さんにとっては、自分を重ねることのできる懐かしい劇であり、恩師にとっては、なんと教え子(私の後輩にあたる)が野球少年役のキャストとして出演するということで、縁深い劇であった。私は昨年、観ており、二度目の観劇になったが、今回は、昨年に増して、心を揺さぶられた。きっと前川さんと恩師とともに観たことが、私をあの時代にいざなったのだろう。劇のなかにとらえられてしまった。
さて、前川さんと恩師はもちろん初対面だったのだが、その夜、清瀬のわが家に泊まられた。狭いうちなので、同じ部屋に寝てもらったが、「にぎやかなのは大歓迎」と揃っておっしゃって、あの世代(全共闘前後)の人たちのおおらかさに気づかされた。立場は違っても、すぐに仲良くなってしまう力がある。私たちの世代(少なくとも私)にはない力である。
翌8月1日には、前川さんと毎日新聞社で、大牟田、荒尾出身の人たちとの集いに出かけた。ネットで知り合ったつながりで、ほとんどが初対面だったが、とても興味深い人たちばかりで、話に花が咲き、11時半から5時までも語り合い、語りに耳を傾けた。三池炭鉱は閉山になったが、インターネットを通して、新しい地底がふたたびひろがろうとしている。
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