Daily  たまのさんぽみち


教育についてのひとりごと
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  1999/12/31(Fri) <大晦日に追いつく>


 本のぺーじの更新が九ヶ月分ぐらい遅れていたのだが、この年末に一気呵成の仕事をして、何とか大晦日に追いつくことができた。夏休みの宿題を8月31日に徹夜でしたような気分だ。身体によくないからこんなことは止めよう。ほんとうならば、毎週コツコツとやるのが一番なのだが、シーズン中はどうしてもほかの仕事が優先となって、手が回らなくなってしまうのだ。自転車操業状態で3年間やってきたが、もうちょっとゆとりをもって一人ひとりを見るような仕事ができればいいなあ。何はともあれ、1999年も年越しを迎えることができそうです。ありがとうございました。また来年、お会いしましょう。



  1999/12/29(Wed) <1999年もあとわずか>


 1999年もあと2日ばかりで暮れてゆく。個人的には1990年代は苦しい時代だった。1989年の参議院選挙での土井社会党の躍進とベルリンの壁の崩壊に、私は新しい時代の幕開けを感じたが、1990年代は予想していたのと違う展開にとまどうことが多かった。もちろん、1990年代がしんどかった大学院時代と重なっていたということも一つの理由だが、それだけではない。1995年の地下鉄オウムサリン事件、1997年の神戸酒鬼薔薇聖斗事件、1999年の音羽幼稚園事件など、社会、教育のあり方を根底から覆すような事件が次々に起こったことが何よりもショックだった。これらの三つの事件は、思想的にはまったく解決がついていない。オウムを断罪し、追い出す法律はできても、オウムでしか生きられないという人を救う道は準備されていない。酒鬼薔薇聖斗事件以降、文部省が「心の教育」というスローガンを打ち出しても、「透明な存在」に共感する子どもたちの心は閉ざされたままである。音羽幼稚園事件で「お受験」を問題にしたところで、問題の根っこはもっと深く、小手先のことで育児という孤島に取り残された母親たちを救うことはできない。考えてみると、1990年代こそは、ドン詰まった時代だった。もちろん、ドン詰まったのは真っ先に私自身であるが、時代もまたドン詰まっているように思えるのである。
 しかしながら、冬至を超えると、一日一日日が長くなるように、ドン詰まってドン底まで落ちると、あとは上がっていくしかないのも事実である。あとわずかな1990年代をきちんとドン詰まって、2000年にちょっとずつ浮上をはかることにしよう。何はともあれ、1990年代の苦しい時代を生き抜いた人々にかんぱい!



  1999/12/16(Thu) <北村年子さんのワーク>


 昨日、生徒指導論の授業で、北村年子さんに身体のワークをナビゲートしていただきました。先週とくらべて、スタジオに入った途端に、学生との距離が近く感じられ、今日はきっと親密さを怖れない深いワークができるという確信がありましたが、その通り、今年の授業のなかでも、そして3年間の北村さんのワークのなかでも印象に残るワークとなりました。今までどう感じていて、何を考えているのか、今ひとつ掴めなかった今年の学生たちが、ものすごく真剣に出会いと自分への気づきを求めていることがわかりました。北村さんやほかのゲストの皆さんにおんぶにだっこの講義ですが、学生のHPに生徒指導論の話題などが書いてあったりして、(学生さんのページ)何か種がまかれているような感じで安心しました。あとは種をわたしたちのなかでどう育てていくかです。



  1999/12/13(Mon) <高校生の「教師」イメージ>


 依頼していた高校の先生から生徒の「学校観」「教師観」「親観」「生徒観」についてのアンケートが返送された。ざっと見ただけだが、驚くべきことに、「教師観」において否定的なイメージが書き連ねられている。「悪魔」「鬼」等々、罵詈雑言の数々。これに対して、「親観」は、「神様」「友達」等、肯定的なイメージが多いという印象を受けた。「親」についてのイメージに「ぱしり」(注:つかいっぱしりのこと−いじめられていいように使われる子のことをさす)というものがあったのには、参った。親が子どもの壁となる役割を放棄することで、教師がスケープゴートにされている面があるのかもしれない。ゼミナールの学生たちの努力が興味深い知見をひらきつつある。今年度、そして来年度のゼミでこの問題についてさらに検討したい。



  1999/12/6(Mon) <北村年子さんワークショップ>


 今日は、午前中、国分寺にて北村年子さんのワークショップに参加しました。保育にたずさわっている保母さんたちと一緒に、今のお母さんたちの苦しさについてのレクチャーとリラクゼーションを受けました。ちょうど私と同じ世代にあたる子育て期のお母さんたちは、母子カプセル(密着)家庭の第二世代にあたるのですね。親自身がよい子であらねばならないという苦しさを抱えていて、にっちもさっちもいかなくなっている。自分のことと重ね合わせながら、リラクゼーションでは涙が出そうになりました。明後日から東京経済大学で、北村さんのワークショップがひらかれます。卒業したリピーターもやってくるかもしれません。自分自身と学生の違った面に出会えるのが楽しみです。北村さん、ありがとう。



  1999/12/5(Sun) <すこたん企画出版記念パーティ>


 週末から風邪気味だったが、何とか午後からすこたん企画の出版記念パーティに出かける。久しぶりの都心へのお出かけで、田舎のねずみは目がまわってしまいました。何といってもラグビー早明戦の日に、国立競技場の隣の日本青年館に行ったのですから。それも同じ2時開始。JR信濃町駅は、えんじと紫の小旗をもった学生たちでごった返しておりました。さて、すこたん企画は、同性愛者であることをカミングアウトして、偏見をなくすために活動している伊藤悟さんと簗瀬竜太さんが運営しているものです。今日は、2人の新著『異性愛をめぐる対話』の出版を祝う会というので、未知の出会いを楽しみに出かけたのでした。期待通り、多様な人たちとの出会いがあり、なかでも性同一障害(障害といっていいのかどうか?)で女性から男性へ性転換手術を受けられた方は、「性をめぐる話はいつも二分法で語られるが、同性愛といっても、わたしにとってほんとうの同性とはいないわけで・・・」という話をされ、「む、む、む」と今までの私の狭い思考が問い直されるのであった。感動したのは、大東学園高校の丸山慶喜先生。高校に赴き、性について語ると、生徒たちは90分間、身を乗り出すようにして聴き入るとのことでしたが、それはしかりと思えるほど、身体(生き方)と言葉が合致していて、無理のないあり方の先生でした。出会いをクリエートしてくれた伊藤さんとやなせさんに大感謝!(もちろん、お2人の話もよかったですよ。)



  1999/12/4(Sat) <一つのこと>


 一つのことをやるのでさえ、とても難しい。相田みつをの作品の中に「ひとつのことでもなかなか思うようにはならぬものです。だからひとつのことを一生けんめいやっているのです」というものがある。ほんとうにそうなのだ。
 ところが、今日、半日かけてホームページの整理をしようと考えたが、ひとつのことに絞ることができなかった。あ、あー。あれやこれやに手を出してしまい、何一つものにならないというのは、幼い頃からの自分の業のようなものだ。フロイト的にいえば、肛門期的な病だろうか。捨てられないものを無理に捨てるか。あるいは捨てられない自分を見つめ、その自分ときちんと向き合っていくか。今はとりあえず後者しか選べない。一つのこと。せめて本のページだけでも細々と続けていきたい。



  1999/12/1(Wed) <伊藤悟さんとやなせりゅうたさんの講演>


 昨年に続き、今年も生徒指導論の講義で、伊藤悟さんとやなせりゅうたさんに来ていただき、「同性愛者として生きる」ということについて話をしていただいた。自分たちが多数派にいると、知らず知らずのうちに常識として身につけていることが、マイノリティに対する抑圧になっていることがある。さらに、多数派として生きる、カメレオンみたいな生き方をし続けていると、自分がほんとうにしたいこと、自分がほんとうに幸せだと思うことが何だかわからなくなり、「透明な存在」になってしまうことさえある。自分の中のマイノリティに気づき、それを大切にしていくことが、自尊心を高め、人の存在を肯定的に受けとめる第一歩ではないかと、お二人の話を聞きながら、考えた。とても元気が出た。


  1999/11/19(Fri) <遠藤投手、ドラフト7位で日本ハムへ>


 本日のドラフト会議で、東大の遠藤投手が日本ハムで7位の指名を受けた。本人もプロ入りを希望しており、小林至投手以来、4人目の東大卒プロ野球選手が誕生することになる。日本ハムの1位指名は、夏の甲子園優勝投手の正田樹投手。同じ左腕ということもあり、遠藤投手にとって前途は決して容易ではない。プロの世界の厳しさというのは想像もつかないが、何事も挑戦しないことには始まらない。その上、神宮時代でも、これまでに遠藤投手ほど安心して観ていられる東大の投手はいなかった。彼の投球術をさらに磨けば、プロでも通用すると、私は思っている。日本ハムの指名は、単なる話題づくりではないはずだ。貴重な左腕投手として、戦力として見なされていると思う。新生・日本ハムで、大輪の花を咲かせてほしい。


  1999/11/3(Wed) <美輪明宏さん講演会>



 大学では、今学園祭(葵祭)の真っ最中。学生たちはがんばっている。東京経済大学の模擬店は、安くてうまくて良心的だ。そして、今日、美輪明宏さんの講演会。葵祭実行委員会の人選もすばらしい。開始前から長蛇の列で、会場に入れない人々があふれかえった。窓によじ登ってみたり、すごい根性で、授業でもこんな光景があれば・・・なんて思ったが、あるわけがない。美輪さんは、キンキラキンの金髪に、紫色の衣装で、いってみれば、大僧正のようなもの。君が代、日の丸法制化批判から始まって、近代建築への批判と日本文化の見直し、部屋のインテリア、音楽の聴き方、男女の関係まで、硬軟自由自在といったトークショーだった。あのくらい聴かせる語り手は、なかなかいないと思う。会場は笑いが絶えず、人々は心の重荷を一つ降ろして、明るい顔で会場をあとにしていた。ことばの力を思い知らされた。


  1999/11/2(Tue) <工藤投手とダイエー球団>


 福岡ダイエーが優勝して、何ともうれしい気分だった。地元の球団が身売りして、関東の大きな会社にもっていかれた九州人の思いは、何ともいえないものがあった。少年時代に、弱小だったけれども唯一の身近な球団が、大きな力でどこかにもっていかれた私にとって、福岡ダイエーの優勝は遅れてきたクリスマスプレゼントだった。ところが、優勝の喜びもつかの間、優勝の原動力となった工藤投手が、球団フロントとの間の感情的なしこりにより、退団する可能性が大となった。工藤投手は、一投手として職人気質の仕事を貫いてきて、今回の問題もお金ではなく、心のしこりだという。私は、工藤投手のおかげで優勝して、優勝セールスで儲かっておきながら、この仕打ちをする球団フロントはとにかくきたないと思う。人の心を踏みにじる行為は、必ずブーメランのように自分の元に返ってくる。ダイエーは取り返しのつかないことをしてしまった。



  1999/10/27(Wed) <遠藤投手、プロ入りか>


 日刊スポーツの記事によれば、

「近鉄が東大・遠藤投手指名へ
 近鉄が今ドラフトで東大の左腕・遠藤良平投手(23=筑波大付)をリストアップしていることが、明らかになった。東京6大学野球春季リーグで明大、法大から勝ち星を挙げるなど、通算8勝をマークしている。球速は最速でも130キロ台前半だが、変化球で打者のタイミングを外すのが持ち味。今季の日程が終了した24日にプロ入りを表明した。
 即戦力左腕を熱望する近鉄は、山本スカウトがマークしており、入団すれば1991年(平成3年)にドラフト8位でロッテから指名された小林至投手以来、東大から4人目のプロ選手となる。
 今年のドラフトは梨田新監督の構想で「投手中心」が確認されている。異色キャリアの遠藤も、そのターゲットに含まれている。 」

 ということらしい。遠藤は筑波大附属高校から一浪して東大に入り、東大野球部のエースとして孤軍奮闘してきた。浪人時代、予備校に自転車で通った努力と、バックに足を引っ張られても決して腐らないハートで、頭角を現してきたサウスポーだ。私は、ずっと遠藤を応援し続けてきたので、卒業してもプロで応援できると思うと最高の気分だ。プロの水は厳しいに違いないが、遠藤ならきっとやっていけると思う。めざせ、第二の星野。


  1999/8/2(Mon) <プレ合宿>


  7月29日、30日と武蔵村山校舎のセミナーハウスでT部ゼミナールの北海道合宿のためのプレ合宿を開催した。相変わらず私がだらしないのか、集まりの悪いゼミだったが、みんなで作ったカレーが元気をくれたのか、夕食後調子が上がり、夜の11時までの討論と、明け方までの飲み、語りの会が充実していた。もうそろそろへぼ監督も卒業したいのだが、今でもなお、私が黙っていたほうが雰囲気がいいのだ。大学生にとっては、ゼミは一つの通過点。「教師はただの通過点に過ぎない、因果な商売だ」とつぶやいたら、「通過点に一緒にいれるなんてすばらしいじゃないですか」と学生に諭された。人生の大事な通過点で、ともに右往左往すること、私ができることといったらそれくらいか。


  1999/7/15(Thu) <前期が終了>


  昨日で前期の授業が終了した。会心の出来というのには程遠いが、何事でも一つの区切りまで到達するのは嬉しいものがある。最後のU部の教育方法の模擬授業大会は、かなりのレベルで驚いた。7名の人数でこってりやると、あそこまで行き着くのかという感じである。彼らの潜在能力の高さを改めて感じた。ずっと感じていることだが、まだまだ日本の大学は捨てたもんじゃない。教員の能力も、学生の能力も決して低くはない。ただ、この資源をうまく交流させ、相乗効果を生み出す方法が見いだせないでいるだけなのだ。東京経済大学も、学部を増設し、総合大学への道を歩んでいるようだが、今必要なことは、一つには、大学における教育方法の確立であり、もう一つは、地域に根ざした大学になることではないかと、私は考えている。Jリーグは経営難がいわれるが、地域に密着して堅実な運営を行ってきた鹿島アントラーズやジュビロ磐田は、名門クラブに成長している。大学も少子化の時代を生き残るためには、地域のサポーターを得、文化と情報のセンターとして生まれ変わらなくてはならないのではないかと、私は思う。


  1999/7/15(Thu) <教育実習紀行(完)>


  はにわさんの実習の直後に、ちょっと事件があり、教育実習紀行が中途でとん挫していた。これを完了させないことには前期が終わらないので、続きを記したい。二週目、群馬と栃木に向かった。群馬は、新田郡笠懸町立笠懸南中学校の木戸健裕君である。何だか、中世の武士でも出てきそうな地名だが(新田義貞が箕笠をまとい、馬にのって登場するイメージ)、それほど田舎ではなく、大きな国道が走っている。両毛線沿いの岩宿遺跡近くの学校である。木戸君は、今年のゼミナールの幹事で、縁の下の力持ち的な存在である。穏やかな人柄そのままに、知的にハンディキャップをもつ生徒たちのクラスで、生徒を引っ張るのではなく、そばに寄り添うようなかかわりができていた。また、中学1年生を対象とした中国についての地理の授業では、生徒から出た「台湾って中国?」というつぶやきを取り上げて、即興的な授業を行っていた。授業案からはずれる展開は、なかなか教育実習生ができることではない。感心した。チャイムが鳴る前に、私は、教室を失礼して、栃木へと向かった。
 栃木は、小山市立桑中学校の小島宏裕君である。小山は東北新幹線の停車駅があるほどだから、きっと駅前で食事がとれるだろうと思っていたところ、食べ物屋さんがないので驚いた。何とか路地裏に「そば屋」を見つけたが、そこだけでほかには何もない。タクシーで桑中学校に向かう途中、国道沿いにはファミレスなどが並び、新幹線の停車駅でさえ、駅前はすたれ、郊外型のレストランがにぎわっていることがわかった。車社会で、鉄道の旅行者には不便なことが多い。さて、桑中学校の隣には、蚕中学校があり、何ともセンスのいいネーミング。養蚕地帯らしい。桑中学校は、数年前に野球部が全国大会制覇。何と小島君はそのときのメンバーである。何をやってもなかなか日本一になるのは難しい。すごいことだ。桑中学校に着いて、校庭を一目見て、野球の強いわけがわかった。校庭がものすごく広いのだ。普通の学校の4倍ぐらい。びっくりした。横道にそれてばかりだが、小島君は中学3年生を対象とした公民の授業、生存権ということで、ハンディキャップをもつ人々と共存できるバリアフリーな社会づくりという独自の授業案をもって、生徒の関心を惹きつける授業に成功していた。あとの検討会では、教頭先生や指導の先生からも絶賛されていた。小島君はこの経験で、本気で教師になろうかと思い始めているようだ。人生を狂わす(?)かもしれない教育実習の経験だった。
 最後を、質の高い授業で締めてもらって、今年の教育実習は終わった。


  1999/6/14(Mon) <教育実習紀行(5)松戸市立和名ヶ谷中学校>



はにわさん


  二週目が始まった。今日は、千葉県松戸市の中学校。私は東京の西に住んでいるので、武蔵野線を延々東に向かう。教育実習生は関谷はにわさん。今シーズン唯一の女性。明るく、人なつっこいので、事務の人たちの人気者でもある。さて、この中学校では、「調べ学習」というものが行われており、今までの学校とは一風違った雰囲気で授業が行われていた。まず、舞台が教室ではなく、図書館であった。生徒たちは、授業中、立ち歩いて、いつでも調べものをしていいことになっている。先生、実習生はグループとなっている班をまわって、アドバイスをしたり、質問に答えたりしている。こういう教室だと、ビデオを回して、観ているというのも何だか変な感じがするものだから、わたしもまた生徒のグループの間に入って、いろいろと変なことを言いながら、一緒に調べたりした。結局、3人の大人で、三十人あまりの生徒をケアしたことになり、ゆったりとした時間を生きることができたような気がする。その後、給食までいただき、生徒たちと一緒に食べてきた。ここが今という時代にあることを疑うほど、穏やかで人なつっこい生徒たちだった。



和名ヶ谷中学校



  1999/6/11(Fri) <教育実習紀行(4)本庄東高校>

  今週のしめくくりは、今年はじめての私立学校。限りなく群馬県に近い、埼玉県の本庄市にある本庄東高校である。教育実習生はこれまたゼミ生の浦部亮二君。ゼミではアンケート調査を実施し、DJ風の発表をしてくれた、行動力のある学生である。教科は日本史で、蒙古襲来の授業を2年生に行った。日本史クラスが31名だったということもあり、落ち着いた雰囲気のなか、浦部君はわかりやすい説明と見やすい板書で、板についた授業を展開した。時間配分がまた見事で驚いた。本庄東高校は100%大学進学を目指す生徒で構成されている学校で、約90%の生徒が現役で大学に進学するという。学校の教育方針が明確であり、枠組みがはっきりしているため、教育実習生にとっても学びやすい構造になっているように思われた。考えさせられた一日だった。


  1999/6/10(Thu) <教育実習紀行(3)大沢中学校>

  3校目は、今年はじめての中学校。朝早く自宅を出て、日光のちょっと手前にある栃木県今市市に向かった。JR日光線が1時間に1本しかなく、苦労したが、高原にさしかかる今市は、緑も多く、風がさわやかだった。教育実習生はゼミ生の大橋康人君。さわやかなサッカー青年。昨夏は九州まで鈍行で往復した強者である。教科は社会科の歴史で、ペリー来航について2年生に授業を行った。世界地図を掲げて、ペリーがどのようなルートで浦賀にやってきたのかを予想させたり、ペリーの二つの肖像画(一つは普通の肖像画、もう一つは当時の日本人が想像して描いた天狗のようなペリー像)を較べることにより、当時の人々にとってのペリー来航の衝撃の大きさについて考えさせるなど、工夫の見られる授業だった。ただ、中学2年生という年頃の難しさもあるが、生徒たちの反応が弱く、授業においては教師と生徒の対話が成立していないように思われた。公立中学校のおかれている立場の曖昧さの中で、授業を成り立たせていくためには、教師が教育内容とフレッシュな関係を作り、それを表現していくことが求められているのではないかと考えた。


  1999/6/9(Wed) <教育実習紀行(2)千歳ヶ丘高校>

  2校目は、東京都立の千歳ヶ丘高校。小田急線の千歳船橋から歩いて10分ぐらいの閑静な住宅街の中にある。教育実習生は一昨年、昨年とゼミをとっていた浅倉晴一郎君。V6風の朗らかな学生である。教科は政治経済で、需要と供給を扱ったのちの、市場の限界についての授業だった。研究授業で他の先生方も見学されており、少々緊張気味であったが、自主教材を使った工夫のある授業を展開していた。生徒たちは実習生の浅倉君と対話的な関係を切り結びたいという雰囲気をもっていたように思えたが、実習生のほうが緊張してしまい、生徒たちの声を聴き分ける余裕を失っていたようだ。これは私自身、大学の講義の中でしばしば経験することである。向こうに聴く構えがあるのに、こちらが変に固くなってしまって、うまく関係を築けないということである。息が浅くなると、それを回復するのは難しい。それでも、50分間を走り抜けた根性は大したものであるし、この緊張と反省も全力を尽くした者だけが味わえる学びの糧なのかもしれない。


  1999/6/8(Tue) <教育実習紀行(1)川越南高校>



佐川君


  いよいよ教育実習紀行の季節がやってきた。4月、5月とへばってきたところにとどめを刺す魔のロードなのだが、先輩のN先生は四国・宇和島や京都まで遠征されるという。若いもんは音を上げてはいけないのだ。でもびびる。
 さて、今日は、ゼミ生の佐川透君の実習を観に、埼玉県川越市の川越南高校へ。今回の実習指導の中で最も近いところである。(今年はびみょうに遠いところが多く、ついていないのだ)佐川君は高校時代はバスケットボールの選手で192センチという長身で、低い声がよくとおる。存在感のある学生である。
 佐川君の話によると、川越南高校は制服を変えてから女子生徒の人気が高まり、男女比が変わったという。緑豊かな土地の中にあり、教室も明るく、雰囲気も落ち着いていて、一見して心地よい学校だと思わせられた。佐川君は、3年生に地理の授業を担当していたが、生徒たちはほどよくリラックスしながら、集中し、内職をしたり、居眠りをしている生徒は一人もいなかった。これは図表、写真、白地図を使用しながら、授業の工夫をしていた佐川君の努力もさることながら、先生方の普段の取り組みの成果であろうと推測できた。過密スケジュールで気が重くなっていたが、幸先の良いスタートに何だか励まされるような気がした。



川越南高校



  1999/6/7(Mon) <音楽劇「がんばろう」を観る>

  新宿・紀伊国屋ホールにて、音楽劇「がんばろう」を観た。「三池争議」と歌声運動の担い手である「荒木栄」を扱った演劇で、脚本と演出は岡部耕大さんである。岡部さんの故郷は、長崎の松浦で、そこも炭鉱のあった町である。
 今、どのようにして「三池争議」を描き、演じるのか。そこに大いなる興味をもち、わたしは出かけた。劇は、柏木家の6人家族を中心として展開する。元炭鉱夫で人のよい父の柏木巌、その妻で炭婦協(たんぷきょう:炭鉱主婦協議会)に気持ちを寄せる母のトメ、大牟田を離れ上京したものの失業し、妻にも逃げられ帰郷した長男の巌太郎、まじめ実直な根っからの炭鉱マンの次男の巌次郎、「がんばろう」を作った歌声運動の荒木栄に心を寄せる長女瑞穂、高校の演劇部に所属する元気者の次女律子、柏木家の6人は当時の大牟田のどこにでも生活していたような人々である。ところが、三池の労使の対立が深まる中で、柏木家の中でも大きな亀裂が生じてくる。三池労組を応援し、デモに出かける長女の瑞穂と、炭鉱一筋、政治嫌いの次男巌次郎の対立である。街中の対立が激化していくにつれ、三池労組、三井資本、ヤクザの三者が入り交じって、街は喧噪に包まれる。この対立をあらわしているのが、同じ原っぱで遊んだ仲である3人−巌次郎と三池労組の闘士である黒田純とヤクザ者の働かずの吾一−であった。「同じ根っこ」なのに、なぜそんなに争う、といわれながらも、時代の激流に呑まれて、3人は対立し合う。生活のために、いよいよ巌次郎が第二組合に入ろうと決意する家族会議の夜、四ツ山坑近くで久保清さんが暴力団員に刺殺される。これを知った巌次郎は、三池労組の一員として闘うことを決意し、長く苦しい闘争を闘い抜く。組合の敗北ののち、巌次郎、そして黒田純と結ばれた瑞穂は、新たな仕事を求めて大牟田を旅立っていく。
 このメインの物語に圧倒的な存在感でもって彩りを添えるのが、元西鉄ライオンズのエース上杉忠治と未亡人で屋台の総菜屋を営む桜井静子である。三池工業のエースをスカウトにきた上杉忠治は、桜井静子に心ひかれ、三池商業の補欠で不良であった静子の一粒種の和彦を鍛える。実は、桜井静子もまた、三池炭鉱に勤めた夫をもち、113日の英雄なき闘いのときには、炭婦協のはちまきを締めて、闘った一人であった。上杉と出会い、息子の成長のなかに亡き夫を見、再び炭婦協のはちまきを締めた静子は、見違えるほど若返っていく。ホッパー決戦の直前、静子の息子和彦は、会社のお偉方の息子がエースとして君臨する三池工業を破り、県大会の決勝戦に進出する。
 静子は大牟田育ちではなく、生活の匂いを求めてよその地から大牟田にやってきた一人だった。同じように炭鉱と生活を求めて筑豊からやってきたのが死ぬまで寝太郎である。峠を越え、徒歩でやってきた寝太郎は、自分の本名を忘れてしまっている。流れ者、底辺にいる者たちが、大牟田に活力をみなぎらせていたのである。
 内容の紹介が長くなってしまった。3時間に渡る劇、一つ一つのセリフも長く、三池争議は39年前の出来事であり、その空気を想像することさえも難しい。役者さんたちには苦しい仕事だったのではないかと思った。重いテーマを扱いながら、出会いがあり、別れがあり、笑いがあり、涙があり、わたしたち三池に思いをもつ人間には、十分惹きつけられる内容だった。ただ、これはどうしようもないことかもしれないが、三池についてほとんど知らない人たちには、何が何だかわからない劇だったのではないだろうか。隣の席に座った女子大生とおぼしき2人組は、ひたすら退屈そうであり、結局、途中休憩で帰ってしまった。だいたいことばも難しい。オルグ、ピケ、炭婦協…、わたしのゼミでも、ほとんどの学生はこうしたことばを知らない。三池争議から39年、これを伝えていくことが今の日本ではとても難しくなっているということを感じた。思えば、三池争議の1960年は、日本が戦争に負けてからわずか15年、戦争を闘った人々が争議を指揮していた。そもそも肚(はら)の据わり方が違っていたに違いない。戦争から三池争議までの年月の2倍をはるかにこえた歳月が争議から流れている。これをどのように伝えていくのか。わたしに課題が突きつけられている。


  1999/5/31(Mon) <平田オリザさんに逢う>

  今日、大ファンだった劇作家の平田オリザさんにはじめてお逢いして、お話を交わすことができた。ものすごく感激した。平田さんのことは、毎日新聞のコラムや『演劇入門』などで知り、一度直にお逢いしてみたいと常々思っていた。それがひょんなことから東京経済大学の先輩の田中昌子(あつこ)先生の紹介で、ご本人に逢えることになったのだ。ドキドキする感じは、高校時代にアイドル歌手のコンサートに行って以来で、心臓がばくばくしたのだった。平田さんは、もっと怖い方かと思っていたが、予想以上にやさしい方だった。でも、おそらく自分に厳しい方だし、役者さんには厳しいことだろう。演劇と教育のことなど、お話をしたが、惜しむらくは「平田先生」と呼んでしまったことだ。憧れていたのでドギマギして、「平田先生」と呼んでしまったが、せっかくの出会いだから「平田さん」と呼べるとよかったのに。何だか壁を作ってしまった気分。ともあれ、逢った印象は、一人になれる強い人というもの。三十代として、あのような生き方をしていきたいと思う。これで次に逢いたい人物は、辺見庸さん。『世界6月号』のガイドライン法案についての論稿、見事です。


  1999/5/16(Mon) <新緑のパレット>




 最近、週末には、清瀬と新座の市境(県境)の雑木林を散歩している。4月の末には、遠くから林を見ると、木の一本一本が微妙に違った色彩を帯びていて、それはもう鮮やかであった。5月に入ると、木の葉が濃さを増してきて、モノトーンに近くなってきた。武蔵野の雑木林は、江戸時代につくられた人工林だという。人の手が加えられながら、美しく機能的な雑木林が育っていったのである。世界の動きから取り残され、停滞していたように思われる江戸時代に、後世へのプレゼントがこのように準備されていた。グローバルスタンダードといった掛け声の下で、生産と消費のサイクルを極限まで短くしようとしている今、後世の財産を食いつぶしてはいないか、考えなくてはならない地点をとっくに通り過ぎたようだ。


  1999/3/2(Thu) <風邪と旅行>

 2月の入試の季節が終わり、ほっとしたのか、ばったり風邪で倒れてしまった。1年分の疲れがどっと出てきて、3年寝太郎のように眠り続けた。それでも合間合間に仕事があって、這って出ていったけれども、帰っては布団に潜り込む日々だった。経営学部の旅行で、伊豆下田へ行き、帰ってきたら熱も下がっていたのが不思議だった。何かしら具合が悪くなったとき、東京を去るとよくなることが多い。伊豆では、定年退職を迎えられる先生方がそれぞれの持ち味豊かな挨拶をされるのを見て、わたしもあのように年齢を重ねたいと思った。


  1999/2/20(Sat) <久保先生の今年最後の授業>

 今年度一年間、都立昭和高校の久保敏彦先生の保健の授業に参加し続けた。そして、今日が今年最後の授業だった。忙しい一年間だったけれども、不思議なことに隔週土曜日の保健の授業だけはじゃまが入ることなく、一年間完走することができた。2年B組に入って、生徒になったように、課題にも全力をこめて挑戦し、ペルソナ(仮面劇)やサイコドラマ(心理劇)などの身体表現に取り組んできた。2年B組の生徒たちは、私の居場所を作ってくれて、私にとっては久保先生に会いにいくのが楽しみなのと同様に、彼らに会いにいくのが楽しみだった。
 それから、忘れてはならないのが東京経済大学の学生の東くんである。彼は途中からの参加であったが、後半は毎回わたしとともに久保先生の授業に出て、分かち合いの話でもいい話をしてくれた。東くんの存在なくしては、私がペルソナやサイコドラマをあそこまでやることはできなかったと思う。何事にも徹底して取り組む東くんに叱咤激励されて、サイコドラマの仕上げでは午前5時半まで眠い目をこすりながら、シナリオの改良とリハーサルをやった。
 これはわたしたちだけのことではない。昭和高校の生徒たちも忙しい日常の合間を縫って、友だちを打ち合わせをし、脚本を作り、役柄を考え、小道具を作り、衣装をそろえて、音響を工夫していったのである。これがどんなに大変なことであるのか、自分が実際にやってみないとわからなかったと思う。前半は久保先生が自らの身体をさらし、身体をはって演技をし、後半は生徒たちがそれを引き受けて、自らの身体において演じていった。こういう授業が今の時代において成り立つということがとても感動的で、この一年間の経験は何事にも代え難いものだった。
 なお、来年度は、久保先生の授業は全面的に公開となるそうですので、学生や他の方々で参観したいという人がいましたら、わたしまで連絡下さい。



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