Daily  たまのさんぽみち


教育についてのひとりごと
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  1999/1/19(Tue) <神戸U>
 神戸を歩いたときの写真ができた。2人の学生とともに少年Hと少年Aの町を辿っていった。北須磨ニュータウンの理想的な街並みには、排煙を出す町工場もない。テレクラのちらしの貼られた電話ボックスもない。学校と住宅だけの白い町。庭付き一戸建てに住む核家族と犬、ここはわたしたちの社会が求めた理想の町だった。思えば、わたしの故郷の大牟田市は、寒村が石炭によって工業都市に移行し、町の中心を七色の川と呼ばれる汚い川が流れる公害に汚染された町だった。何とも理想からほど遠い町だった。しかし、そういう町を多くの人たちが懐かしみ、今、心の拠り所にしている。これは一体どういうことなのだろう。人が生きるということは、一体どういうことなのだろうか。「教育的」であるとは一体どういうことなのだろうか。こういう問いをもって、今年最後の授業に臨む。神戸の写真は近々HPに掲載しようと思う。


  1999/1/16(Sat) <神戸>
 今週、神戸に行ってきた。同じ須磨区の二つの地域、−妹尾河童の『少年H』が育った下町と、“少年A”酒鬼薔薇少年が育ったニュータウン−、を時間をかけて歩いてきた。この二つの町には、言いようのないほど大きな違いがあった。別の世界というほどだった。歩く人々の顔が違う。自分を笑い、たくましく生きる下町の人々と、仮面をかぶり虚構の幸せを生きるニュータウンの人々。2人の少年は、ただ単に町が子どもたちに送るメッセージを忠実に生きたのだということを、わたしはこの二つの町を歩いてみて、思い知らされた。わたしたちの社会は子どもたちからどれだけのものを剥奪してきたのか、そして、わたしたち自身どれだけのものを剥奪されてきたのか。住まうという営みの大切さを真剣に考えていかないと、とんでもないことになると思った。日常の住まいのなかに、人間のさまざまな部分をうけとめる何かがないと、わたしたちは生きることができない。デオドラント(無臭)の町では、わたしたちのなかに潜む悪はどこにも居場所を得ることができない。しかし、その何かはニュータウンにはなかった。いや、実はあった。犯行現場にだけ。ニュータウンは理想の町だった。理想は夢となり、現実化した。しかし、その途端に、すべては虚構であるということが明らかになった。少年Aはみんなが賢く虚構を生きている町でただ一人、虚構を虚構とわからず、真に受けて、町のメッセージ通りに生きてしまった。わたしたちは、今、虚構とわかりながらも虚構を演じざるを得ない、そういう時代に生きている。ニュータウンには、犯行の一つの舞台となった池が、整備され、公園化されるという貼り紙があった。少年Aが命を賭けて、訴えたメッセージが再び陳腐な日常によって、抹消されようとしている。彼はまさに二度殺し、二度殺されたのだ。


  1998/12/4(Fri) <ペルソナ>
 本のページを更新していない。何を紹介するのかは決めているのだけれども、更新する時間がない。今週は、昭和高校の久保先生の授業で発表するペルソナの練習で大忙しだった。教えながらも授業に学び手として参加すると、授業を受けるという営みもかなり大変なことだということがわかる。とくに課題があると大変なことになる。真剣に取り組もうとすると、他のことは何もやれないぐらいエネルギーを必要とするのである。久保先生の授業では、忙しい高校生たちが保健の授業にあのくらい大きなエネルギーを注いでいるのかと思うと、先生にも、そして生徒にも敬服せざるを得ない。学校教育を批評する人にいいたい。「言うよりやってみな、結構大変だよ。」明日、発表だ。東くん、がんばろう。


  1998/12/2(Wed) <同性愛者として生きる授業>
 生徒指導論のゲスト講師として、同性愛者であることをカミングアウトして生きることを決意された伊藤悟さんに来ていただいた。期待以上のわかりやすく、心に迫るお話で、少なくとも私にとってはものすごく濃くて意味ある時間だった。知らないことから偏見をもち、人を差別して自分を正当化することはよくあることだ。少数派のセクシュアリティを語るという大変さを、伊藤さんにお願いしてしまったことに心苦しさを感じたが、ほんとうにありがたかった。


  1998/11/3(Tue) <清瀬のさんぽ>
 結局、10月は一度も「Daily たまのさんぽみち」を書いていない。10月は、大学の講義で「現代社会と人間」の担当もあり、学会発表もあって、多忙な月だった。そして、今学祭の真っ最中、天の恵みに助けられている。今日は、朝から頭痛がしたが、どうもあまり働きのよくない頭ばかり使っているせいかと思い、妻と清瀬の畑、里山をゆったりと散歩した。武蔵野の雑木林は、20年から25年育った木を切り、薪などに使い、切り株からの新芽を育てて、再び20年から25年育てるというように、人の手を入れて、育てていったものらしい。清瀬には、江戸時代からの武蔵野の雑木林がたくさんあり、それに囲まれて広い畑がひろがっている。さんぽをしながら、生きていることの喜びが沸き上がってきた。豊かな土地に囲まれているがゆえに、こういう土地を狙ってくる産業廃棄物処理場の問題もある。子の代、孫の代の宝を横取りするような生活とはおさらばしなければ、もうどうにもならない時代に入っている。こういう時代だからこそ、周りの動きを睨みながら、自分のペースでゆったりと歩んでいこうと思う。


  1998/9/30(Wed) <掲示板サーバー故障について>
 月曜日から掲示板のサーバーが故障ということで、困っていた。問い合わせてみたところ、あちらこちらから苦情が出ているが、サーバーの管理者が長期休暇に入ったところで連絡がとれずにどうしようもない状況だということだった。ここの担当者の説明がとても気に入った。
 いつも故障せずにうまく動いているばかりが能ではない。コンピュータだってトラブルことはある。だいたい人間のすること、失敗はつきものなのだ。トラブルのとき、一番イライラするのは、状況がきちんと説明されないことだ。その点、ここの担当者は、正直に内側の事情を説明し、謝ってくれている。サーバーの故障というアクシデントだけれども、そこから学べることがたくさんある。サーバー復旧までしばらくお待ち下さい。



  1998/9/19(Sat) <河野さん宅訪問>
 昨日、三池争議の行動隊長河野昌幸さんのお宅におじゃました。大牟田での合宿の報告と雑談が中心だったが、河野さんにお会いすると、ものすごく励まされる。1960年の空気が甦ってくるようだ。河野さんは84歳。遠い道のりを歩いてこられた。賢老から学ぶということは、なんと癒されることか。ずっと横になっておられるが、今度一緒に飲もうと誘われた。毎晩、晩酌を少々なさるとのこと。若い頃は一升瓶を空けるほどの強者だったらしい。賢老と一献交える日が楽しみだ。


  1998/9/18(Fri) <大学後期シーズン始まる>
 いよいよ大学の後期シーズンが始まりました。長い夏休みでしたが、えらく忙しい日々でした。最近、重苦しい時代と重苦しい自分に気が滅入っていましたが、大学に戻ってきた学生たちの姿を見かけると、「よしやろう!」という気分になるから不思議なものです。教師は学生によって生かされているものだと実感します。今シーズンは、できるかぎりゆったりとした気分で、任せるべきところは学生に任せてやっていきましょう。こう思えるようになったのも、合宿のおかげかな。


  1998/9/9(Wed) 昨日の夕刊と今日の朝刊に、小学2年生の片山隼君がダンプカーにひかれ死亡した事件で、ダンプカー運転手の不起訴処分が破棄され、再捜査が指示されたというニュースが掲載された。このHPでも隼君事件の会へのリンクを貼り、多くの人々に関心をもってもらったり、大学の関係者の方々に署名をお願いするなど、ささやかな支援活動を続けてきただけに、よかったという思いがひとしおである。署名して下さった方々、関心をもって下さった方々に、改めて感謝の意をあらわしたい。
 ダンプカーの運転手に個人的な恨みがあるわけではない。彼が隼君をひいたことに気づかなかったのは本当かもしれない。だけど、大きな力を用いることを許されている大人は、その結果に対して責任をもつべきであると、わたしは考える。さらには、個人の責任以上に、自動車という一つ間違えば大きな凶器(とくに子どもや老人にとっては恐るべき凶器である)をコントロールする役割を担っている交通行政のシステムのいい加減さこそきちんと問題にすべきだと思う。おそらくこの同じような思いが、20万人近い署名につながったのではないだろうか。人々の声が集まったときの大きさに勇気づけられる。最後に、隼君の両親の言葉を掲載したい。

 母章代さん「高検の検事さんに、隼の誕生日までに起訴をしてほしいと何度もお願いしてきました。隼が生きていれば、今日は、誕生祝いをどうするか考えていたでしょう。本当にどうなるか、心配でしたが、一番いい知らせを聞けて幸せです。」

 父徒有さん「ようやく私たちがたたいていたドアが開き掛けてきたという感じです。だいぶ先が見えてきました。これも皆さんから今日までに寄せられた19万5707人の署名のおかげだと感謝しています。」


  1998/9/4(Fri) 合宿はおそらく大成功だった。諫早湾の干拓地で干涸らびた土の隙間にまだムツゴロウや蟹が生きていたのには驚いた。何だか健気で、何だか人間のしていることが情けなかった。学生たちもじっとそこにたたずみ、「東京ではニュースや新聞で見ても他人事だと思っていたけど、ここに来ると何ともいえない」と語っていたのが印象的だった。あの広大な干拓地がコメ余りニッポンで水田になるのだろうか。


  1998/8/17(Mon) ちっともDailyで書けなくていけない。今夜、6時12分東京発のブルートレイン“はやぶさ”で九州合宿に向かう。この1週間の経験で、学生それぞれが何かを掴んでくれることだろう。都会の大学に通う学生を地方と出会わせること、これだけでも大きな意味があると思うのだ。大牟田は老人の町、全人口に占める老人の比率がきわめて高い町である。こういう町では、学生たちも歓迎される。廃坑や干拓地などを辿りながら、近代化の中で失ってきたものを見つめてきたい。
 合宿日程:1日目(肥後古墳巡り)2日目(大牟田・荒尾炭鉱巡り)3日目(阿蘇から有明海を渡り、島原へ)4日目(島原半島巡り<原城跡・口之津・諫早湾干拓地>)5日目(長崎・吉野ヶ里遺跡巡り)


   1998/7/31(Fri) 今日で7月が終わる。梅雨の明けないなんとも変な7月だった。今日は午後から三池争議の聞き取りに出かける。ホッパー決戦で行動隊長を務められた河野昌幸さんに、もう一度お話を聞きに行く。昨年の聞き取りを通して、河野さんこそが、三池争議がなんのための闘いだったのかを、ご自身の生き方のなかに刻み込まれた方だということを知り、もう一度ぜひとも話を聞きたいと思ったのである。


   1998/7/24(Fri) 九州から東京に戻ってきたら、思わぬ寒さにとまどっている。九州では梅雨もあけて、うだるように暑い日があったのに、東京は肌寒い。先日、ゼミ合宿の準備として、三池炭鉱関連の本とビデオの勉強会を開催した。三池争議があった1960年は、学生にとってはもはやはるか昔の出来事となっている。高度経済成長以前の生活は、急速な勢いでわたしたちの目の前から姿を消そうとしている。今年、大牟田で合宿できるのは、僥倖だった。なぜならば、おそらく今年の9月で炭坑住宅は消えてしまうからだ。そして、人々の生活の匂いの消えた、デオドラント(無臭)の街がそこに出現するのであろう。炭坑で働いた人々とその家族の生の営みの匂いを少しでも嗅いで帰ってくるだけでも、わたしたちにとって大きな学びになることと思う。


   1998/7/15(Wed) 月曜日から九州にやってきている。ゼミ合宿の準備と調査が主な目的である。本日は、インターネットで知り合った“くりりん”さんとともに、三池の炭鉱マンだった方々のインタビューと、炭坑施設の見学を行った。“くりりん”さんはものすごく詳しく、周りからは“炭坑フリーク”と呼ばれているそうだが、その名に恥じず、すぐれたナビゲーターとして、わたしを案内してくれた。炭住には、わずかだけれども、まだ住んでいる人たちがいた。間に合った。それでも銭湯はつい最近壊されてしまったという。ある時代がものすごい勢いで失われようとしている。ある風景が、ある街並みが、多忙な人々のくらしの陰で、消えていこうとしている。“くりりん”さんは、毎日カメラをもって、その風景をレンズに収めようと格闘されている。わたしもまた、失われていく、人々のくらしの重みを文章で残していきたいと思うのだ。収穫の多い日だった。整理して早くHPにも掲載したい。



万田坑の櫓・中国人労働者が働かされたところ


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