今年のできは一言でいえば「団栗の背比べ」。そんな中で例外的に良くできているのは畠中さんの「うわさの解体新書」である。うわさ論はこのゼミでは2度目で、前作もいいできだった。そこが励みになったのかもしれないが、理論的なポイントを押さえた論文らしい作品を書き上げた。意地悪な批評をすれば、ほとんど欠点がないところが欠点と言えるだろう。もっと脱線や飛躍があったら良かったのにと思うが、それは彼女の性格から言ってないものねだりなのかもしれない。
何度も書き直しをした結果、かなり良くなったと言えるのは井上さんの「ローファイ考」と深見さんの「犯罪報道の倫理」だろう。
井上さんはローファイという音楽から受けたショックと、既成の枠を壊した下手(?)な音楽の新鮮さをそのまま文章にして持ってきた。受け入れられ安さではなく、稚拙であっても素直な自己表現にこだわる音楽。しかし、それがCDとして売られていることの矛盾や、新しい音楽が既成のスタイルを崩すところから繰り返し生まれている事実には無自覚だった。何度も書き直したが、自我論への展開が今一つスムーズでないところが残念。
深見さんはシリアスなテーマをオーソドクスに固くまとめて持ってきた。言いたいことはわかるが人に読ませる文章にはなっていない。そこを何とかしようと言うのが課題だった。ですます調にしたり、ぷつぷつ切れて流れのない文章を読みやすくする。「私、できません」などといいながらも、何度も書き直して持ってきた。かなりましになったと思う。でも、人に理解される文、読もうという気をおこさせる文章を書くためには、もっと練習が必要だよ。
反対に安井さんの「情報誌わーるど」は読みやすい文章になっている。しかし、普段のおしゃべりと同じで、饒舌だが中身がない。だから「ぴあ」の大阪版と名古屋版の比較をした章は全面カットにしてしまった。「エー。一晩かけて書いたのに」と文句を言ったが、長ければいいというものではない。情報誌の背景に「ミニコミ」という無数のメディアの蓄積があって、そことの関係を論じなければ、なぜ「ぴあ」が出てきて社会に受け入れられられたか説得することはできない。そのあたりを書き加えたが、どうも実感として理解できていないようである。
饒舌と言えば、相棒の川合さん。「15秒のCM」はテレビCMをタレント中心に論じたものである。一言でいえば、自分の好みを正当化するための理屈づけといった内容である。矛盾点をいくつも指摘したのだが、そこは避けて全く新しい話題を付け足すといったやりとりの末に、最期には一番の長編になってしまった。調査もして努力したことは評価するが、あれでダメならこれという発想は安直である。彼女に一番欠けているのは批判精神である。たとえば銀行への批判がこれほど高まっている時期に、それに無頓着な形での銀行CMはいただけない。バブルの時期の地上げ騒動や、その結果としての不良債権。そう言った悪いイメージがかわいいタレントを使ったCMで隠されている。そこを批判的に論じたら、もっと説得力のある論文になったと思う。
CM論は他に2本。どちらもCMが好きという以上のことは伝わってこない。「CMの中の音楽」を書いた松林さんは11月になってから、「先生。考えていたことは、本を読んだらみんな書いてあって、それ以上何も書くことがなくなってしまいました」といって困った顔をしてやってきた。「今頃何を言ってんの?」という気持ちだったが、「その本を参考にして最近の傾向を自分で調べたら」とアドバイスした。それなりにがんばったが、彼女にも批判精神というものが希薄である。ヒット曲がCMやドラマの主題歌として使われて売り込まれる。そんな企業戦略にまんまと引っかかってしまうことに、最近の大学生はなぜ腹を立てないのだろうか。小室をやっつけてやるぐらいの意気込みがないと、おもしろい論文は書けないよ、松林さん!
松田君の「CMの見方」もオリジナリティに乏しい作品である。体が大きい割には最初からぎりぎりの合格点めざしと、目標が小さすぎる。CMの歴史をかいつまんで報告という以上のものにはなっていない。ただ一点、CMに登場するタレントの目線がカメラを見つめない傾向を指摘した箇所には興味を持った。ここらあたりを中心に現在放映されているCMをすべてチェックしたら、へぇーと驚く結果になったかもしれない。君!体力あるんだから、そのくらいのことできればやれただろ!?もうちょっと早く持ってきたら、「それやらなかったら留年」とでも言えたのに。
体力と言えば神田君。「社交としてのゴルフ」は何とか枚数だけはクリアーという以上の評価はできない内容である。彼は僕の部屋から『ゴルフと日本人』というタイトルの岩波新書を何度も持っていった。「岩波新書ぐらい自分で買えよ」と言うと「そんなもん買う金ありません」と言い放った。論文には一銭たりとも使えない。「そんなけちな根性で、何で4年も大学生できたのかな」と不思議に思うほどだが、原稿用紙一枚書くのがいかに大変なことか、最期にはちょっとわかったみたいだった。
もう一人体力勝負の山根君。彼は文字どおり「最強論」。けれども、プロレスについて書きますと言ったきり、なかなかその全貌を明らかにしなかった。実は僕は彼には期待していたのである。あの一気飲みの勢いで、えいや!と書いて、どうだと持ってくる。そんな光景を想像しても見たのだが、研究室の片隅に隠れながらそっと提出といった有り様だった。最強論が情けない。ショー的なものではなく格闘技を指向する最近のプロレス。そこに思い入れを強くするならば、真剣勝負であることと、観客に見せて満足させることの二律背反といった問題と、それこそ真剣に格闘してほしかった。出来上がりは残念ながら今一歩、いや二歩も三歩も足りない。
スポーツ論は他に三人。坂田さんの「横断幕・プラカードに見る日本とアメリカ」は目の付け所はなかなかユニークなものである。甲子園や神戸グリーンスタジアムに足を運んで材料も集めた。野茂が大リーグに行って、アメリカの球場でのファンの意志表示との違いというテーマもできた。それにイチロー人気。で、それなりにおもしろくまとめられているようにも思う。しかし、残念ながら安井さんや川合さんのような饒舌さに欠けていて、おもしろさがうまく表現されていない。これはいつも静かにしていたゼミでの様子からある程度想像できたことだが、ひょっとしたらと期待した分、物足りない。
橋場さんの「スポーツ・ヒーロー論」は出来上がりとしてはまあまあだと思う。しかし、ここまでくるのにずいぶん苦労した。スポーツ・ヒーローの歴史があってスポーツ中継の歴史がある。そんな話の重複する構成で書いてきたのを一つにまとめるように指示し、ヒーローとスターの違いに、もう一つタレントをつけ加えさせた。タレントは素顔で出てる振りをする演技者であり、イチローはその最近の代表だが、橋場さんは素顔そのものとしてイチローを受け取っているようである。素顔のままなら「えー」とか「うー」とかしか言わない野茂の方が適してると思うのだが、橋場さんは「イチロー」が好きだから、意地悪に見ることはできないのかもしれない。
スポーツ論はもう一人河村君。彼の「Let's Sports」は何が書きたかったのかよくわからない作品である。スポーツを本気になってやる人、余暇としてする人、観客として見て楽しむ人、スポーツでお金儲けをする人、グッズで一山当てようとする人、CMに取り入れようとする人、そこに国や世界大の政治や経済がからんでくる。そのあたりをうまく見取り図として描き出したかったのかもしれないが、それぞれのつながりが考慮されていない。そう指摘すると、「僕にはわからない」と弱音を吐いて「ギブ・アップ」。それでも、許さず何度か書き直しをさせた。こん畜生と思ったかもしれないが、その怒りが文章に出ていない。「君!ちょっと甘やかされて育てられたんと違うか?」
後は個別のテーマ。金子君の「酒場の形態」はアルバイトのバーテンの経験を生かしたエスノグラフィーになるはずだった。ところが最初に持ってきたのは、いくつかの酒場紹介とナンパのパターンの話。「こんなもの論文にはならん!」とどなったら、2年つきあって一度も見たことのない真剣で深刻な表情をした。酒場の形態を書くならテーマをそれだけに絞ること。実際どんなものがあるのかNTTのタウンページを調べて見ること。大阪の北と南、あるいはそれ以外の盛り場の特徴を、店の様子や客の階層、世代や性別などで特徴づけること。そんな宿題を出して、卒業する気があるなら、締め切りまでに間に合うかどうかがんばって見たらといって突き放した。で、できあがったものは50%の改善といったところである。
足立君の「空間と人間」は問題意識としてはおもしろいものである。人は無限の空間を壁で遮って自分の場所として認識する。その仕方を時代や文化的な違いとして描き出す。しかし、読んだ本のまとめという以上のものにはなっていない。滋賀県の片田舎(怒るかな?)から大学に通ってくるのは楽ではないと思うが、もっとまめに出てきて問題意識をぶつけていたらと残念な気がする。就職が一番早く決まったのだから、考える時間は十分にあったはずである。
滋賀県の片田舎から通ってきたもう一人の垣見君は、何度も書き直しをしては名神高速をぶっとばして律儀に持ってきた。彼の「銃器文化論」は通り一変の銃器反対の声に異論を唱えようとする点で意欲的なものである。まじめな分、文章も硬直していて、それを解きほぐすのに手間取ってしまった。
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