しらけたゼミだったが論文はましだった。これはひどいといったものは一つもないから、ひょっとすると平均したら、今までで一番よかったかもしれない。締め切り間際になってイライラさせる学生もいなかった。
今年の巻頭には鎌谷さんの『羊男とドーナツ』を置いた。ほかにもよくできた作品はあったが、これが一番読みやすいのではと思った。彼女が村上春樹論をやるといったとき、何をテーマにするのか聞いたところ、「ドーナツ」と言った。「うん.....ドーナツをどうするの?」と聞くと首を傾げるばかり。本当のところ「これは困った」という感じだった。そこから、ドーナツの穴に注目し、井戸やエレベーターとの類似性、つまり異世界への通路とか空虚感の象徴と問題意識が煮詰まりはじめると、後はぼくも読むのが楽しみになった。おっとりして物静かだから、今ひとつ考えていることがわかりにくかったが、論文には、彼女の世界がしっかり自己主張されている。
大久保さんの『ブラックジャックのバイオエシックス』もよくできている。そして静かなことでは、鎌谷さん以上で、ゼミの中でもよけいなことは一言もいわない、というふうだった。けれども、報告をすると、いつでもきちんとしていたから、ぼくは彼女については何も心配しなかった。で、予想通り、最初に持ってきた時点から、特に注意することもないほど完成されていた。医療や人間の健康と死の問題をブラックジャックを材料に、うまく処理していると思う。ただ難をいえば、そつがない分、意外性に欠けるところだろう。
許斐(このみ)君は最初「読書論」を書くと言っていた。「読む」ことの意味。J.オングの「声の文化」、外山滋比古の「読者論」。彼ならR.バルトだって読めるかもしれない。そんなふうに感じていたのだが、いざ書き始めると印刷メディアの歴史になってしまった。これはこれでよく調べているが、許斐君らしさが出せずじまいだったかもしれない。最近の学生の本の読まなさ加減にあきれているぼくにとっても、「読み」は大きなテーマである。彼なりの考えが形になってきたら、いろいろ話してみようと思っていたのだが、ちょっと肩すかしを食らった感じである。
加藤さんは編入で3年生からだが、その割にというか、だからこそというか、社会学を積極的に勉強したいという気持ちが強かった。「自我論」をやりたいと言うから、G.H.ミードの『精神・自我・社会』を読ませてみた。それでへこたれるわけでもないから、続いてP.バーガーにE.ゴフマンと次々渡したら、結構面白がって読んできた。で、いざ自分で書いてみると、消化不良で難解な文章。「これはどういう意味?」「ここは何が言いたい?」と問いつめることで、自分でもあやふやなところが解消していき、こなれた文章が書けるようになったようだ。もちろん一番、社会学らしい論文になっている。
「誤解」について考えた山室さんは途中で混乱してしまったようだ。ぼくが「誤解するのは弱者の権利」だよ、などといったためかもしれない。「誤解」をマイナスばかりでなく、きわめて多義的な意味として理解する。その課題が重くのしかかったのか、締め切り間際になっても顔を見せなかった。山室さんはまじめだから、ぼくのようなへそ曲がりの意地悪な視点は持ちにくいのかもしれない。ちょっと無理な要求をしてしまったと反省し、心配になって電話をかけた。すると、「もう少しでできあがる」という返事でぼくは正直ほっとした。で、うまくまとめることが出来たと思う。が、もし時間があったら、もっと面白くできたのにという気もしてしまう。
映画好きの田村さんが決めたテーマは「映画と子ども」。しかし、これは難しいなとぼくは思った。子供向けの映画にしても、子どもを題材にした映画にしても、あまりに多すぎる。けっして『グーニーズ』と『スタンド・バイ・ミー』だけで済むものではない。映画がはじまってからの代表作を調べるだけでも容易ではない。第一、「子ども」とは何かといったことも押さえなければならない。難しかったが、そんなアドバイスに従って、よく頑張ったと思う。映画の歴史を調べ、ウォルト・ディズニーについての本を読み、子ども論も勉強した。しかし、テーマがあまりに大きすぎて、テーマを薄く広くなぞった程度にしかならなかったのは残念だった。
富松さんは思いこみが激しい。自分勝手なところもあるから「林真理子」についての報告では、何度もきついことを言った。ぼくの主張の大半は、彼女が言う林真理子の長所を逐一つぶしてかかることだった。だから、途中で根を上げて、テーマを変えますと言い出した時には。意地悪が過ぎたかもしれないと反省した。が、しばらくして「林真理子論」に戻り、論文を書き始めた頃には、批判的な目がずいぶん目立つようになってきた。林真理子は「ブスでデブで図々しい女」である。しかしそれをあえて売り物にしながらマスコミで自分を晒し、ついには直木賞作家にのし上がった。そのキャラクターを富松さんは論文でうまく描き出したと思う。けれども、林真理子からもうちょっと距離を取って、「ジェンダー論」等を下敷きにして描き出したら、もっと面白いものになっただろう。
ドラマーの寛山君は「リズム論」を書いてきた。最初は音楽について書くといったきり、あまりゼミにも顔を出さなかった。漠然とした問題意識にぼくがきついことを言ったせいかもしれない。ところが、最初の提出日近くに持ってきたものを読むと、ドラムをたたきながら感じる自分のリズム感の悪さからはじまって、「リズムの比較文化論」と言えるものにできあがっていた。本の受け売りといった感じは否めないが、父親の出身地である沖縄と本土のリズム感における異質性等にもふれていて、説得力もあった。ただ、アフリカの伝統的なリズムから派生した音楽が、なぜ20世紀後半のポピュラー音楽を支配したのか、世界中の若者に受け入れられたのかといった考察にまで進めなかったのは残念な気がする。もっとも、このテーマは、ぼくにとってもなかなか難しくて、簡単には答の出せないものであるのだが.....。
柳田君はルー・リードのファンである。音楽はよく聴いているが、本は読んだことがない。で、論文は最初、コンピュータ論をやるつもりだった。アップルとスティーブ・ジョブズについての本を渡すと、ずいぶんたってから返しに来て、「生まれてはじめて、最後まで一冊読みました」と言った。へーと驚いたが、それで自信がついたのか、卒論はアンディ・ウォホールとヴェルベット・アンダーグラウンドについて書くと言い出した。それならとまた何冊か渡したが、それっきりなしのつぶて。彼もまたゼミをよくさぼった口である。単位がたくさん残っているから今年は書かないのだろうと思っていると、提出日の一週間ほど前に、途中まで書いた論文がメールで送られてきた。せっぱ詰まっているのに、面白くなって、書くのを楽しんでいるといった感じだった。ぼくも面白そうだと思ったが、遅れたから、約束通り読まないことにした。
吉田君もテーマを変えた一人だが、それは提出前1カ月を切ってからだった。彼もゼミをよくさぼった一人で、出せなかったらそれまでと勝手にさせたが、何とか格好をつけることができた。提出前一週間は寝ずにがんばったようで、せっぱ詰まったときの馬力は称賛に値する。けれども、もっと早くから準備して考えておけば、そんな苦労はする必要もなかったはずである。形だけはそれなりにできあがっている。しかし。携帯電話と若者のコミュニケーション状況についての、最近よく言われている指摘から抜け出すユニークさは持ち合わせていない。
宋(そん)さんの「近頃の服装論」は期待はずれの一作である。彼女は関西の大学をあちこち調べて、大学生が最近どんな服を着ているのか、それは大学によって違いがあるものなのか観察して書くと言っていた。実際その通りの内容なのだが、観察が不十分で、俗に言われている大学の特徴をそのまま復唱しているだけの指摘しかできなかった。前半のモード論や流行論は完全に蛇足で、本当はカットしたかったのだが、秋には実家の広島に帰ってしまい、めったに大学にも出てこなくなっていたから、あらためてあちこちの大学に行って見直してこいとも言えなかった。写真やイラスト等で補強したら、印象はずいぶん違っていたかもしれない。そんな意味でも、事情があったのかもしれないが、もっと時間と手間を使って調べてほしかった。
中島さんは一番遅くテーマを決めた。彼女は一芸入試の一期生で、長野県の作文コンクールで入賞とあったから、ぼくはかなり期待をしていた。実は面接もぼくがやったのである。そんな一芸入試の事後調査の格好のケースなのだが、完全に期待はずれだった。「マルチ商法」「ネットワーク・ビジネス」を自分の経験からレポートする。文章の折々には、ちょっと光るものもあるが、洞察力や分析力には乏しい。ちょっと近づいて、こわごわ覗いた程度のルポルタージュといったもので、まるっきり社会学もしていない。「マルチ商法」「ネットワーク・ビジネス」は家族や友達を誘って金儲けしようと呼びかける。もちろんそれが嘘であることを半ば自覚しながらの行為である。そんな商法が若い層に浸透している。そこが人間関係論に発展したら、ずいぶん違う内容になっていただろうに………。
浜崎君はスキーの選手である。そしてゼミにはよく顔を出した。しかし、無理に言わせなければ、めったに発言などしない。テーマも、スキーについてとか、バイトをしていた大阪ドームについてとか行き当たりばったりで、それをどう料理するかなどはかいもく見当もつかないといった状態だった。そんな感じで、3年から4年になり夏休みが過ぎて秋になった。「論文どうするの?」と聞くと「消費者金融について書きます」と言う。「具体的にどこ?」「アコムとか」。「ぼくはアコムはよく知ってるんだよ。『ホームエコノミカ』っていう雑誌を出していて、そこによく書いているから。編集者の人とは特に親しい。だからいい加減なもの書いたらあかんで。」と言った。スポーツ選手はせっぱ詰まれば何とかなる。そんな期待を込めてのことばだった。で、できはというと、まあ、とにかく書けてよかったという感じである。
田嶋君はラガーマン。いかにも体育会系といった体格だが、割と繊細、というより細かいところを気にしすぎる。要するに気が小さい。サッカーやラグビーについて書きたいという気持ちは早くから決まっていたが、南米とヨーロッパの比較をしようか、Jリーグの話にしようかと迷っていた。ラグビーとサッカーの違いについて書きたいというから、「それならイギリスの社会、特に階級について勉強する必要があるな」と言ったらきょとんとした顔をした。それでも、しばらくすると、何冊か本を読んできたと見えて、ラグビーとサッカーの別れた経緯とか、その後の発展と階級の問題などを話してきた。「P.ブルデューの『文化資本』と『経済資本』っていう考え方知ってるか?」と聞くと興味を示した。だいぶ、はまってきている。何となく期待がもてそうな気がした。で、書いてきたものはと言うと、これがなかなかの大作である。注がやたら多くて詳しい。余計なものもあるが、論文らしくもなっている。
松村君はゼミでは影が薄い。いるのかいないのかわからないから、どのくらい出席したのかも印象にない。で、論文だが、「プロ意識論」とやはりスポーツがテーマだった。内容はと言うと、ゼミでの発言がほとんどなかったのと同様、何が言いたいのかよくわからない。プロ意識の大切さを強調したいようなのだが、気持ちだけが空回りしている。アマチュアリズムがなぜヨーロッパで興隆し、それがどうしてプロフェッショナリズムに淘汰されようとしているのか。そのあたりは、ヨーロッパとアメリカのスポーツの歴史を比較して分析することや、メディアと商業主義の関係を調べることが必要だが、つっこみ不足はいなめない。
最後に新田君。彼は留年で、他のゼミ生とはほとんど面識がない。だから、「この人誰?}と思う学生が多いはずだ。テーマは「クソゲー」。ゲーム好きでよく知っていることは、この論文を読めばすぐわかる。しかし、5年もいた割には社会学の臭いがまったくしない。そんな批判をすると、チクセント・ミハイをつかってコンピュータにはまる心理を「フロー現象」として分析し直してきた。申し訳程度だが、それで格好は付いた。ただ、コンピュータを使い慣れているにもかかわらず、卒論のテキスト・ファイルでの提出を忘れた。このボケたところがいかにも彼らしいのだが、おかげでぼくがOCRで読みとって、間違い訂正などもしなければならなかった。確かまだ就職も決まっていなかったようだが、正直言ってぼくだって、君なんか使いたくはないと思ってしまう。もっと、人の言うことをしっかり聞いて、要求に応じられるように心がけないと、世間では通用しないよ、などと言いたくなるが、彼の笑い顔を見ると、何となく許してあげたくなってしまうから不思議だ。
篠原さんは本人の希望により削除。
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