1997winter2
<三池の冬1997 その2>
1997年の年末、降り立った大牟田駅。3日間の用事を終えて、東京に帰る当日に撮影する。軽自動車で大牟田駅に帰りの新幹線の切符を買いにいき、タイムリミットが決定する。最後の半日、ここからちょっとした探検がはじまる。
大牟田駅に自動車を停めて、徒歩で目指すは笹林公園。駅前にある笹林公園は三池争議のとき、労働者たちが結集したところでもある。市役所(左写真)の脇を通り、駅から3分ほどで笹林公園に到着する。笹林公園では、子どもたちが何人か遊んでいるくらいで、ほとんど人気は見あたらない。ぽかぽかしている陽気だが、年末の忙しい時期に、こんなところを散歩しているのは、わたしのような暇人しかいないのだろう。
これはおまけであるが、三池炭鉱創業の碑である。ちょっと見にくいが「三池炭山創業碑」と書いてある。裏には発起者として団琢磨の名前などが並ぶ。『見知らぬわが町』の中川さんがここに来たとき、「高校生らしい男の子たちが五、六人」たむろしていたらしいが、わたしが来たときには、小学生らしい女の子が二人座っていた。木陰になっていて、子どもたちがゆったりと落ち着ける居場所になっているのだ。せっかくだから、そのまま写真を撮らせていただいた。
<左の写真をクリックすると、裏面をご覧になれます>
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。このページをご覧になった方は、しばらく考えてみるか、あるいは書物をひもといてみて下さい。ちょうどここまで書いた時点で残された時間がなくなり、1997/1/19(mon)まで北海道の森へ行く予定ですので、気をもたせたまま、中断することにいたします。
(1997/1/28)お待たせいたしました。この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
笹林公園からの風景です。カソリック教会が見えます。
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