1997summer1
<三池の夏1997 その2>




 三池山は私の心の故郷である。そもそも校歌というのはあまり好きではないのだが、中学校のときの校歌だけは結構好きだった。歴木(くぬぎ)中学校という中学校だったのだが、そこの校歌の歌い出しは「雲も湧き立つ三池山 高い望みと仰ぎ見て」というものだった。三池山は標高300mそこらのローカルな山である。そんな山を高い望みと仰ぎ見る矮小な精神こそ、地に足がついていていいと、私は思う。富士山のように屹立する山だけが山としての存在意味をもつのではない。みんなが富士山であれるはずがないし、みんなが富士山である社会なんてうっとおしい。三池山のように知る人ぞ知り、いつもそこにいて人々を安心させるような存在もまたすばらしいと思うのだ。



 帰省したときの一番の楽しみは、暮れなずむ山々に囲まれた窪地を犬を連れて散歩することである。田んぼのあぜ道を犬と一緒に歩きながら、生きるということはどういうことなのか、ふと考える。夕闇が東の空から空全体を覆っていく時間は、ものを考えるにはとてもいい時間だ。こういうときに、自分自身が生きているという感覚と、この生もまた有限なものであるという感覚がふつふつと沸き上がってくる。そのとき、コンクリートで国土を埋め尽くすという「開発」によって、私たちが失ってきたものは何なのかがありありと浮かんでくるのだ。



 日本のほかの地域とくらべると、大牟田には昔と変わらぬ風景が残っているように思う。東京や都市部では、数年のうちに街の風景は様変わりするが、大牟田はその没落のゆえに、古い風景が消極的に残されることになった。それもそこに残されているのは、城下町のような歴史的に価値があると見なされている風景ではなく、戦後の1960年代までのありきたりの風景である。わたしは1960年代、あるいは1970年代はじめの石炭で風呂を沸かしていた時代のゆったりとした時間の流れをとても懐かしく思う。わたしたちの社会において、お金がないから「開発」できないという消極的な理由ではなく、子どもにとっての遊びの空間や心に残る風景を保全していこうという積極的な理由をもって、「開発」をとどめることができる日が来るのは、いつのことだろうか。



 向こうに見える古い一軒家に、私の祖母が一人で住んでいる。まわりの反対にもかかわらず、一人で住んでいる。祖母は畑仕事が大好きで、小鳥に話しかけ、草取りをして、畑で作物が育つのを生き甲斐としているが、年寄りの一人暮らしは危険が伴うと、みんなが言う。たしかに、ケアをする側の人間の立場に立つと、車もつけられないような辺鄙な一軒家に、年寄りが一人で住んでいることはとても心配であるし、面倒なことなのだ。しかし、祖母にとって、あの一軒家を出ることは、手足をもがれることに等しいのだ。そこでの暮らしがすべてなのだ。大人は、子どもたちにも危険だ、大変だ、と警告し、彼らを安全で楽でつまらない道に誘ってきた。危険と背中合わせでないような生き生きとした生活なんてどこにあるのだろう。いつからわたしたちの社会は、危険を忌み嫌い、追放するようになったのだろうか。









          庭(畑)から見た祖母の家

 いずれ来る祖母の死によって、このような桃源郷のような空間は失われていくのであろう。






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