1997summer1
<三池の夏1997 その1>




 鹿児島本線の列車。博多方面から大牟田駅に到着する少し前。私が今住んでいる清瀬からだと、西武池袋線、山手線、新幹線ひかりと、鹿児島本線の快速、あわせてだいたい10時間ぐらいかかる。しかし、列車の旅はまた格別。東から西へと進むにしたがって、風景は確実に変化する。故郷が近づく気分もまた独特のものであるが、私の場合、関門トンネルではなく、筑後平野に入り、筑後川を渡ると、帰ってきたという気分になる。福岡県の中でも豊前と筑前と筑後では風景がとっても違うのだ。さて、私が住んでいた十年ほど前には16万人いた大牟田の人口はすでに14万人台になってしまった。今度の三池炭鉱の閉山でさらに減少するのであろうか。



 国道208号線五月橋付近。この辺りは昔は大牟田の中心だったらしい。今は道路はきれいになったけれども、街は年々さびれていく。車社会化が進むにしたがって、郊外型の大店舗が建ちならび賑わい、その一方で、旧繁華街はすたれてしまった。これはどこの地方都市でも見られることであろう。大牟田では、炭鉱の衰退、人口減も重なり、商店街の地盤沈下もひとしおである。さて、戦前には、私の祖父の家は魚屋で、五月橋の近くに店を構えていたそうだが、空襲で灰となってしまった。大牟田は軍需産業都市だったから、空襲も激しかったのだ。祖父の魚屋のあとには、銀行が建っている。



 大牟田川は、戦後すぐの時期には、七色の川と呼ばれるほど、工業廃棄物によって汚染された川であった。これがかつての大牟田の誇りであったらしい。戦後の食糧難の時期、大牟田川の汚れは炭都大牟田に行けば、働き口があり、食べることができるという繁栄の象徴だったのだ。もちろん、このようなことばで言いくるめられるような、世間における企業の環境汚染にたいする感覚の鈍さが、水俣病などの公害病を生み出すことになったことを忘れてはならないだろう。そののち、炭鉱の斜陽化とともに、街はすたれ、いまでは大牟田川には魚も住むようになった。まさに、街やぶれて、山河ありという風景だが、炭鉱閉山によって街はすたれても、なぜか三井という企業だけはダメージを受けた気配がない。不思議な話だ。



 国道208号線と三池への道の分岐点である。このかどには、評判のラーメン屋がある。公衆便所の隣だったが、抜群の味で便所の隣のラーメン屋として庶民の人気を得た。そのあと、ラーメンの売り上げで、ビルを建て、新装オープンしたが、きれいになってから味が落ちたとのもっぱらの噂だった。今年の夏、久々にここでラーメンを食べた。ラーメン一杯450円だった。あのどろどろとしたこってりスープは健在だった。けっして味は落ちていなかった。ここのラーメンを食べて、東京のとんこつラーメンはにせものだと、改めて思った。一度、本場の九州ラーメンを味わってほしい。大げさにいえば、スープが液体なのか、固体なのか、わからないほどのしつこさが魅力だ。




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