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たまのさんぽみち



  2007/7/7(Sat) 不在者投票


 

  「低空飛行」という前のコラムには、2人の敬愛する先達から温かいメッセージをいただいた。有り難い限りである。もちろん、「低空飛行」は今も継続中であるが、私自身は、この道のスペシャリストを目指して鍛錬中と思うことにしている。その実、ただの「低空飛行」なのだが。

 それはさておき、参議院選挙が間近である。日本の政治状況には、ただただあきれ返るばかりであるが、それでも結局はモンスターではなく、人間が政治を行っているわけであり、その一人ひとりを私たちの一票で選んでいるわけで、選挙権を行使することはとても大事なことであると考えているのは、以前と変わりはない。

 夏休みの最中にあてて投票率を下げるためか、あるいは時間稼ぎで「松岡利勝農水相の自殺」と「年金問題」から国民の目をそらすためか、わざわざ夏の盛りの7月29日に投票日が設定されて、関係者の方々には全くもってお気の毒としか言いようがない。

 さて、こんな投票日を設定されたものだから、私自身も投票日当日の予定が立たないので、インターネットで期日前投票について調べていた。すると、知られざる(私が知らなかっただけかもしれないが)不在者投票の仕組みを知ることになったのである。

 期日前投票は、よく知られている制度である。公示あるいは告示の翌日から投票日の前日までに、選挙人名簿に登録されている市区町村の期日前投票所で行うことができる。しばらく前まではいろいろと制限があって敷居が高かったのだが、今は誰でも簡単に投票できる。旅行で出かけるとか、仕事のスケジュールが入っているとか、いろんな人に対して融通の利く、大変便利な制度であり、多くの人々に利用されている。

 ところが、よく似た制度として「不在者投票」というものがある。私は今回調べるまで「期日前投票」と「不在者投票」を混同していたのだが、この二つの制度は違うものであるということが今回ようやくわかった。埼玉県の選挙管理委員会のホームページには次のように記してある。「選挙期日前に行う投票は選挙人名簿に登録されている市区町村の選挙管理委員会で行う場合は、原則として「期日前投票制度」により実施されますが、選挙人名簿登録地以外の市区町村選挙管理委員会や病院・老人ホーム等で行う場合は「不在者投票制度」により実施されます。」

 つまり、「不在者投票」とは、公示または告示から投票日までの期間、ずっと住民票がある場所にいられない事情があっても投票できるようにしようというシステムなのである。それでは具体的にどのようにして不在者投票が可能になるのであろうか。例えば、住民票は実家にあって、東京のアパートで一人暮らししている学生のケースで考えてみよう。

 この学生は、自分が選挙人名簿に登録されている市区町村の選挙管理委員会の委員長に対して直接又は郵便によって、投票用紙と投票用封筒(外封筒と内封筒)を請求することができる。 すると、投票用紙と投票用封筒のほか、不在者投票証明書が送付されてくる。こうして学生は、公示または告示から投票日前日までの期間に、現在滞在している市区町村で投票ができるのである。


 読者の皆さんのなかには、あるいはもうすでにご存じだった人もいらしたかもしれないが、私と家族にとっては、住民登録以外の地で、投票ができるというのは青天の霹靂だった。もちろん、悪用されたら危険な制度であるが、正当な理由であれば、大いに活用すべき制度だと思うので、学生諸君にも、旅芸人の一座にも、里帰りの人々にも、ぜひとも活用していただきたいものである。

 あなたの一票が未来を創るのである。

 それではよい7月を!





  2007/6/18(Mon) 低空飛行


 

  今年の6月は忙しい。例年、教育実習の季節で忙しいのだが、これに加えて、+α、+βのことがあり、ヨロヨロしながら、何とか生き長らえているという次第である。日本社会では、30代、40代の男が小遣いも少なく、会社ではこき使われており、幸福度も低いそうだが、この低空飛行年代の真っ只中にいる私もまた、ご多分に洩れず、なかなか冴えない毎日を過ごしている。低空飛行している間はまだしも、建物や山にぶつかってしまってはシャレにもならないので、ヨロヨロと建物や山の隙間を探しては低空飛行を続けているのだが、これが果たしていつまで続くやらという感じである。
 というわけで、今回はこれにておしまい。しばらく低空飛行が続くでしょうから、低空飛行のスペシャリストとして、腕を磨くことにしたいと思います。梅雨の天候不順のなか、お身体には気をつけてお過ごし下さい。では!




  2007/5/8(Tue) 風林火山


 

  今年のNHK大河ドラマ『風林火山』は面白い。例年だと、もうそろそろ退屈になり、パチンとテレビのスイッチを切ってしまう時期なのだが、今年は違う。重厚な構成、主人公をすべて善とするような甘さを断ち切った作り、主人公とその周りだけではなく周辺まで細部にわたって緻密に書き込む丁寧さ、そのいずれもが、大人の知的、情緒的欲求に見合うものである。
  『風林火山』には、以前の、大河ドラマが大人のものだった時代を思い起こさせるものがある。山本周五郎原作の『樅の木は残った』は、1970年の大河ドラマの作品である。このドラマ自体は、子ども心に恐ろしかったオープニングの映像のことしか覚えていないのだが、大人になったあとに読んだ原作は、何とも深みがあるものであった。史実とどのように重なり、どのように異なっているのかは、専門家ではないので知らないけれども、深みのある歴史小説というのは、人間の苦しみと悲しみに対する共感とともに、人間に対する理解をより温かく、そして寛いものにしてくれる。

  「子どもだまし」ということばがある。子どもをだますような見えすいたつくりごとのことである。今、私たちの周りには、「子どもだまし」が至るところに転がっているように思う。例えば、「改革」「改革」と叫びながら、社会的な不平等を拡大していった国民に人気のある人物。こうして「子どもだまし」をしてみたら、大人も簡単にだませてしまった。だから、「子どもだまし」ですべてを塗布してしまおう。これが2000年代に入ってからの、この国での政(まつりごと)の基本方針であるように、私には思われる。
  「子どもだまし」では、たとえ一般の人々をだますことができても、その道の専門家、あるいはそのことを真剣に考えてきた人々をだますことはできない。だから、「子どもだまし」は、だまして得られた、作られた「国民の声」というものを御旗に立てて、その道の専門家やそのことについて真剣に考えてきた人々を排除する。そして、今度は、エセ専門家を用いて「子どもだまし」を権威づけする。
  テレビのドラマであれば、「子どもだまし」の番組は、スイッチをパチンして見なければよい。これだけで事足りる。しかしながら、政(まつりごと)は、私たちの人生、生活、生き方の選択肢に直結する。選択肢が狭められていくと、人々は自由に生きることができなくなっていく。「子どもだまし」の政(まつりごと)は、いつかは人々から自由を奪っていく。

  しかしながら、こうした「子どもだまし」もまたどこかで破綻する。なぜならば、どんな世界にも外部というものが必ずあるからだ。「子どもだまし」は「内部」では通用しても、「外部」では通用しない。なぜならば、それはさまざまな立場の人々からの批判という吟味を得ていないからである。吟味されていないモノは、たとえ今は繁栄してるように見えても、その実、脆弱である。「オウム真理教」が悲劇的な結末を迎えたように、この社会もまた悲劇的な結末に至るかもしれない。一つの社会は、その社会が発展したのと同じ要因によって、衰退に向かうのだと、ある人が述べていた。これを避けるためには、どこかでギアのシフトチェンジをしなくてはならない。
  「右向け右」という集団主義が高度経済成長を支えてきたのだとすると、時代が変わり、人々の生き方も変わった今、一人ひとりを大切にし、その生き方を認め、その力を最大限に引き出していくことを、次の課題にすべきなのだと思う。たとえ、はじめはうまくいかなくても、試行錯誤となろうとも、変わらなくてはならないのだ。これまで「改革」「改革」と声高に叫ばれていたのは、「(根幹を)変えない・変えたくない」ことのカモフラージュだったような気がする。「変わる」ときには、しみじみと静かに変わっていくのだ。大騒ぎすることに惑わされてはいけない。

  「子どもだまし」はもうたくさんだ。志を高くもちたい。今がまだ見てくれは悪くとも、精巧な「子どもだまし」よりも、荒削りの「ほんもの」に価値を置きたい。荒削りの「ほんもの」を心通う人々としみじみと味わう。こういう日が来ることを待ち望んでいる。では、よい5月を!





  2007/4/3(Tue) 旅のつづき


 

 旅に出たくなった私は、3月の終わりに名古屋と九州に出かけた。どちらも実家への帰省であったが、一人旅だったので身軽だった。都合がつけば、甲子園球場に立ち寄ってみようかと思っていたのだが、故郷の大牟田高校は抽選で開幕試合を引いてしまい、その日は大学の卒業式だった。そして、翌日の熊本工業高校にターゲットを変えてみたが、当日は雨が降っていて、結局、観戦を取り止めることにした。甲子園とは縁がなく、まだ一度も行ったことがないままである。
 なぜ甲子園に行こうと思い立ったかというと、私が生まれてからはじめて故郷の大牟田から甲子園に出ることになったからである。私が生まれる数年前、巨人の原辰徳監督の父親である原貢監督率いる三池工業高校が夏の甲子園に出場し、初出場で初優勝という快挙を遂げたことがあるのだが、これも人づてに聞いたことがあるばかりで、もちろんその時生まれていない私は知らない。だいたい、西鉄ライオンズの鉄腕・稲尾和久投手を擁しての日本シリーズでの三連敗のあとの四連勝だったり、日本シリーズ三連覇だったり、私が育った地域には過去の栄光話はそこら中に転がっていたのだが、現在の栄光はこれっぽっちもなかった。
 私が育った時代は、九州の野球の暗黒時代であり、西鉄ライオンズの栄光は黒い霧事件もあり、地に墜ち、太平洋クラブ、そしてクラウンライターに身売りをして、ついに西武に買収されることになった。九州からプロ野球球団がなくなるということは何とも寂しい事件だった。それ以来、私にとって西武は仇敵であり続けていて、自分がいつの日か西武鉄道の沿線に住まうようになるとは思いもしなかった。そして、九州にはホークスがやってきて、はじめは低迷を続けたが、今や押しも押されもせぬ、立派な球団となった。少し人生を生きていると、いろいろなことがある。
 さて、大牟田から甲子園に出るなんてことは、一度もないだろうと思っていたところ、地元の選手で構成されたチームが秋の大会をあれよあれよと勝ち上がり、選抜に選ばれたということで、ちょっと野次馬気分で行ってみようかと思ったのだが、その日は卒業式と重なり、しかもコロッと負けてしまったのだ。「残念だったねえ〜」と私のことを知る人たちは慰めてくれたのだが、私は、大牟田の高校が甲子園でプレーしているということだけでもう十分だったので、そんなに残念でもなかった。歳を重ねると、勝ち負けよりも大切なものが見えてくる。私は相当の負けず嫌いだったのだが、少し人生を生きると、いろいろ変わるものである。そして、高校生にとっても、私にとっても、人生はまだまだこれからなのだ。
 結局、今回、甲子園には行けなかったけれども、旅は大いなるリフレッシュとなった。いつも休んでいるように見えるかもしれないが、心から休めたのは昨年の9月以来であったので、しぼんでいた心が水にひたされたような気がする。新幹線のなかで読書する時間は、至福の時間である。旅をしていると、本がすっーと心のなかに入ってくるから不思議である。読書もまた旅のようなものであるからだろうか。
 昨日、入学式があり、今日、教職課程の説明会があった。そして11年目のシーズンが始まる。10年が終わってちょうど一回り、今年からもう一度リスタートの気分である。大学に勤めたときに、大学院時代の恩師から「大学院にもう一度入学したという気持ちでやりなさい」と言われたのだが、そういう気持ちで10年が経った。そして、今春、今度は自分自身で「大学にはじめて勤めたという気持ちでやりなさい」ということばをかけたいと思っている。物事に向き合うときのフレッシュな気分というのは、何と清々しいことだろうか。1年生のまなざしもそうであったし、新任教員の輝きもそうであった。フレッシュ、リフレッシュ、スタート、リスタート、私たちは何度も人生の節目に立ちながら、自分のあこがれをかたちにしようと第一歩を踏み出していく。そして、遠い空の下で、誰かががんばっていることが、あなたを支えてくれているように、あなたががんばっていることが、遠い空の下の誰かを、そして私を支えてくれている。それではよい4月を!




  2007/3/15(Thu) 旅


 

 時々、無性に旅に出かけたくなる。じっとしていることがなかなかできない性格のようである。なぜそんな人間が研究者になったのだろうかと自問自答してみるが、答えは出てこない。ケ・セラ・セラである。思い返してみると、旅に出たくなったのはかなり小さい頃からで、小学校の頃、自転車で遠くまで探検することが楽しみだった。小学校2年生の時、小さな自転車で山を越えて、県境を越え、熊本県南関町の農家で梅をごちそうになったことがあった。峠でウサギを見かけた。そして、高校時代から一人旅を始めて、大学時代は休みには必ずどこかに出かけていた。
 旅の醍醐味はどこにあるのかというと、知らないところが親しみのあるところに変わっていくプロセスにある。あの道とこの道がつながっていたとか、昔、美術の教科書に載っていた絵の実物はこんなに素敵だったとか、旅は多くの喜びを与えてくれる。映画「寅さん」が面白いのは、もちろん寅さんの恋愛物語や一家の団らん風景にもあるのだが、やはり毎回旅が組み込まれているからだろう。消えつつある戦後日本の風景を山田洋次監督は映像として残したのである。山陰、瀬戸内、九州、北海道などの風景が多かったように思うが、これらは私が追いかけた風景でもあった。
 外国に行くと、また旅の醍醐味は広がった。伸びやかな気分になるのである。これは日本では気づかないうちにいつも縮こまっていることの裏返しなのだろう。リスクもあるのだけれども、自分の人間力を最大限に発揮しながら、人生を楽しむことができる。これこそ自己責任なのだが、日本に帰ると自己責任とは何かを全くわかっていない人たちが自己責任と連呼している。ああいう人間にはなりたくないと思いつつ、また縮こまってしまう。何はともあれ、外国を旅することは、ついつい狭くなりがちな自分の視野を大きく広げてくれて、寛容さを育ててくれる貴重な経験だった。
 この春、「青春18きっぷ」が発売されている。1枚で5回(あるいは5人)1日JRの普通列車に乗車できる切符である。今春は国鉄がJRとなって20周年にあたるため、特別価格8000円での販売となる。旅の虫がうずいてくる。モゾモゾ、モゾモゾ、モゾモゾモゾ。朝早く東京を出ると、西は小倉まで、北は青森まで行けるらしい。
 大学時代には、この切符を握りしめて二度東京から九州まで行ったし、この仕事に就いて2年目のゼミ夏合宿でも元気な学生たちがこの切符にお世話になった。深夜に東京駅を出て、長い一日が始まり、瀬戸内海に夕陽が沈み、再び日が暮れる。そして夜の電車に揺られていると故郷に辿り着く。このプロセスが何とも言えず旅情にあふれていた。旅の24時間の内訳は、後悔8割、楽しさ2割だったが、目的地に辿り着いた喜びは旅の苦労をすべて忘れさせてくれた。
 そして、24時間鈍行電車に揺られる時間も体力もない今、こうして思い出に浸りながら、文章を綴っている。人生の折り返し点、これからどれだけ豊かな、深い旅をすることができるのだろうか。それは、自分自身の健康もさることながら、これからどんな社会を築けるか、どんな世界を創っていけるかにかかっている。
 三月は旅立ちの季節。皆さんもどうかよい日々をお過ごし下さい。




  2007/1/25(Thu) 悪女


 

 中島みゆきの歌に「悪女」という名曲がある。ちょうど私が中学校の時に流行した歌で、当時も、そして今でも大好きな歌である。「マリコの部屋に 電話をかけて オトコとあそんでる芝居 続けてきたけれども」という出だしがとても印象的なこの歌、私はなんの疑問ももたずに、主人公が女友だちのマリコに電話をかけて、私にもオトコはいるのよ、とマリコに偽って虚勢を張っていたのだと思っていた。ところが「読売新聞」の「発言小町」(=これは時々とても面白い)で、この解釈はあまりにも「青かった」ことが判明した。
 投稿された40代の女性によると、「悪女」の歌詞をめぐって、大学生の娘さんと高校生の息子さんとご本人との間で解釈にズレがあったという。二人のお子さんは「マリコに恋人がいて幸せそうにしているのが羨ましくて、私にだって恋人がいるのよとマリコにアピールしている」という解釈であり、私のこれまでの解釈と同じである。これに対して、投稿されたお母さんは、「電話をかける主人公の隣には恋人がいて、でも彼の心はもう別の女性に行っている。だから自分にだって付き合ってくれる男性がいるのよ、というアピールをする為にマリコに男性役を演じてもらっている」という解釈だという。この発言をめぐって「発言小町」では侃々諤々、楽しいコメントが連歌のように続いている。この細かいやりとりは、下のリンクから「発言小町」本体を読んでいただくとして、この40代女性の解釈を読んで、考えたことをお話ししたい。
 この女性は、「心で、『ふっふっふ、青いな君たちは』と思いながら、実際の所、自信がありません。(20年以上、自分の解釈以外考えた事がなかったです)。」と書かれている。この女性は、「悪女」と出会った時、おそらく二十歳前後。この時の感性で捉えた解釈を今も持ち続けているのだろう。そして、人の解釈というのは、一旦できてしまうとなかなか変わるものではない。私もまた、「悪女」が大ヒットしてオリコンで第一位を獲得した1981年から今まで25年間もの間、中学生の頃に何の疑問もなく抱いた素朴な解釈を持ち続けていたのである。
 「悪女」の歌詞をひもといてみると、「マリコの部屋に」という上記の出だしに続いて、「あの子もわりと忙しいようで、そうそうつき合わせてもいられない」とある。その後、「土曜でなけりゃ、映画も早い。ホテルのロビーもいつまでいられるわけもない。帰れるあてのあなたの部屋も受話器を外したままね、話し中」と続く。主人公は、夜の街を帰るところもなく彷徨(さまよ)っているようである。このあと、「悪女になるなら月夜はおよしよ〜」というさびの部分があって、二番となる。二番は「おんなのつけぬ コロンを買って 深夜のサテンの鏡で うなじにつけたなら 夜明けを待って 一番電車 凍えて帰ればわざと 捨てぜりふ」と始まる。そして、「涙も捨てて 情けも捨てて あなたが早くわたしに愛想をつかすまで あなたの隠す あの子のもとへ あなたを早く渡してしまうまで」となり、さびの部分に入る。
 二番をよく味わうと、主人公の彼である「あなた」がほかの女の子を好きになっており、「あなた」は主人公に悪いと思い、まだ一緒にいるのだが、そこでけなげな主人公は、ほかのオトコに抱かれて朝帰りをし、咎める彼氏に捨てぜりふを吐くような「悪女」として振る舞っていることがわかる。もちろん、彼に罪悪感をもたせることなく別れさせてあげるためである。この文脈で読み直すならば、マリコは主人公の親友で、男性役を演じてくれていたということが明確になる。ハッとさせられたとともに、自分自身の「青さ」と「浅はかさ」を思い知らされたのであった。
 さて、もう一つ、沢田研二の歌に「勝手にしやがれ」という大ヒット曲がある。1977年にヒットして同年のレコード大賞をとった曲である。「壁際に寝返り打って 背中で聞いている やっぱりおまえは 出ていくんだな」という出だしが印象的な曲である。(ちなみにジュリーは、この歌の途中で帽子を投げたのだ。これが格好良かった。)私は小学校4年生の時にこの歌を覚えて、近所のおばさんたちの前でよく歌っていた。(みんなよくおだてて私に歌わせてくれたので、私はジュリーになった気分で気持ちよく歌っていたのだ。もちろん帽子もかぶってきちんと投げていた。)私の場合よくあることだが、気持ちよく歌っていたのはいいのだけれども、全く歌詞の意味を間違っていたことに最近気づかされた。私は、「壁際に寝返り打って 背中で聞いている」のはオンナだと思っていたのだ。そして、人の話を背中で聞いているようなオンナには、出ていってもらおうと、主人公が言っているのだと重大な勘違いをしていた。ゆっくり考えてみると、「行ったきりなら幸せになるがいい 戻る気になりゃいつでもおいでよ」と歌詞は続くわけだし、どう考えても、「壁際に寝返り打って 背中で聞いている」のは主人公のオトコだし、出ていこうとしているのはオンナなのだが、こんな勘違いを私は30年近くをしてきたわけである。「出ていくんだな」の「だな」が推測の「だな」とわかるまで30年もの歳月が必要だったのは、振り返ってみると、格好良く帽子を投げることばかりに気をとられて、観客にウケようと、わかりもしない歌を背伸びをして歌っていた私の困った性格に起因するようである。
 私は、「勝手にしやがれ」とは小学校の時、「悪女」とは中学校の時に出会い、その時に幸か不幸か自分なりに惹きつけられて、ある程度ものにしてしまった。その結果として、自分の経験の幅でしか、歌詞の深みを理解できないということが生じてしまった。そのため、「青く」「浅はかな」解釈を何となく長い間、抱えることとなった。これに対して、40代の女性は、ちょうど大人の女性となりつつあった頃、「悪女」と出会った。そして、歌詞の深みを汲み取りながら、この歌を自分のものにしたのである。
 それからしばらく「悪女」のことを考えていると、小学校受験や中学校受験のような早期教育が盛んだというのに、どうしてこんなに若者の学ぶ力が衰えているのだろうかという疑問に対する一つの答えを得た気がした。何事にも出会うには時があるのだ。音楽にも、スポーツにも、ゲームにも、携帯電話にも、文学にも、異性にも・・・。早ければ早いほどいいというわけではない。早い出会いは不幸であることもしばしばである。子ども時代は子どものようにして過ごさせたい。大学時代は学生として伸び伸びと過ごさせたい。そして、学びの原動力である未来に対する憧れを大切にしてあげたい。早い出会いが「浅はかな」理解に枠づけてしまうとしたら不幸である。「オトコなんて」て十代で思ってしまうのは気の毒である。「勉強なんて」て十歳にもならないうちに思ってしまうのは絶望である。
 「悪女」はいろんなことを考えさせてくれた。さすがは名曲である。そして、発言小町のトピ主(はじめに発題してくれた人のこと)に感謝である。


発言小町:「悪女」の解釈





  2007/1/17(Wed) 未来予測


 

 私の「時代」についての読みはあまり当たらないのだけれども、幸か不幸か当たりつつあることがある。これは学生たちと戦後史を学びつつ、再び戦争に向かう道に進むかどうか、日本社会の岐路は2007、8年頃にやってくるだろうと話したことである。1999年のことだった。この話をした時に、ある女子学生が「いやだなあ」とポツリと言ったことを覚えている。
 なぜこういう話をしたかというと、1999年には小渕内閣の下、国旗及び国歌に関する法律(以下、国旗国歌法と略)が法案が成立、施行されるという出来事があったからである。国旗や国歌というものはシンボルであり、シンボルであるからにはそこに属する人たち誰もが喜べる(あるいは喜べないとしても少なくともいやな思いはしない)ものでなくてはならないと、私は考えている。ところが、日本の場合、「日の丸」と「君が代」はかなり特殊なシンボルであるといえる。とりわけ、「君が代」は、その歌詞からしても誰もが喜べるものでもなく、主権在民の日本国憲法の思想ともちぐはぐなものであった。当然ながら、そうしたシンボルに対しては、賛否両論が生まれる。しかしながら、当時の政府は、戦後50年以上の歩みを重ねてきた新しい時代の列島に住む人々にふさわしいシンボルを議論し、模索するのではなく、古く手垢のついたシンボルを法律で確定してしまい、そのシンボルを喜ばないものを異端とする道をひらいた。この流れでいくならば、これからも特殊な(普遍性をもたない)思想が、法律として制定され、それに従わないものが異端とされることは続いていくだろう。これが当時の私が日本社会について感じた危機感であった。この社会が時間をかけて曲がりなりにも育ててきた合意と信頼が失われてしまう。この危機感が私の言葉となった。
 ではなぜ2007、8年頃と考えたのか。2002年には日韓共催のワールドカップがある。国家的イベントであるワールドカップを何としても成功させなくてはならない。これは日本のナショナリズムの抑止力になるだろう。なぜならば、歴史的にみると、日本のナショナリズムは朝鮮半島や中国との関係のなかで作られてきたからである。ワールドカップ共催による隣国韓国との友好関係はとにもかくにもつかの間の寛容を保証するだろう。問題は2003年以降である。じわじわとナショナリズムが強まるのではないだろうか。そして、2010年になれば、団塊の世代も引退し、少子高齢化で明らかに国力は低下する。これが誰の目にも見えるようになるはずである。そうなれば、この現実を受け入れた社会政策、政治が支持されるようになるだろう。問題はこの現実認識が浸透するまでの0年代後半である。ここで取り返しの効かない致命的な政策、政治が選択されるならば、2010年以降の成熟した大人の社会へのソフト・ランディングは閉ざされてしまう。戦後、日本社会は明らかに幸運であった。冷戦下の恩恵を預かり、経済成長を実現してきた。戦後の荒れ野のなかから今の豊かな社会を築いてきた。しかし、この幸運に気づかず、すべてを自分たちの力と勘違いするならば、神さまはもう二度とは微笑んでくれない。
 2006年暮れ、教育基本法の改正案が国会を通過した。まさに特殊な(普遍性をもたない)思想が、法律として制定され、より普遍性をもつ人類の遺産を踏みにじるという出来事だった。教育を生涯の仕事として見つめ、考えてきたものならその大多数が異議申し立てをせざるを得ないような出来事だった。私は、以前の教育基本法が至高の作品であるとは考えていない。しかし、以前の教育基本法のほうが今度の教育基本法よりも「(ずっと)まし」であると考えている。前に進まなくてはならないところで、後ろに引きずり降ろされている。もどかしくてならない。
 ところで、最近、授業の準備のために、講談社『日本の歴史』所収(18)の井上勝生著「開国と幕末変革」を読んだ。これは厚みのあるすばらしい作品だった。著者は、幕末の幕府の官僚たちは国際情勢に疎く、外交交渉力もなく無能だったという通説に疑問を投げかけ、当時の国際法もふくめてかなり正確かつ的確に理解していたことを論証している。幕末の幕府の役人たちを無能に描いたのは、薩長による倒幕に正当性を与えるためだったという。ここで坂本龍馬が師事した勝海舟もまた幕臣だったことを思い起こしてみたい。幕府にも人材はいたのである。そして、現実にあり得たであろう、徳川や諸藩も加わった雄藩連合による政治と、薩長という西南二藩による独裁と、どちらが多くの人々の意を汲む(よりましな)社会を実現したかについては、簡単に結論を出すことはできないだろう。明治政府が万世一系の天皇というフィクションをことさら強く打ち出さなくてはならなかったのは、薩長の藩閥政府の脆弱さの所以ではなかったか。
 牧原憲夫著『民権と憲法』(岩波新書)によると、明治維新ののちも、「西南戦争の最中も、東京の女湯では、『こんなばかくせえ世の中がいつまでもつづいてたまるもんけえ、どうせ徳川さまがいまにまたお帰りになるに決まってらァな』とだれかが言えば、『そうよ、そうよ』の相づちが飛びかった(山川菊栄『おんな二代の記』)」という状況だった。決して、人心が幕府から離れていて、薩長が人心をつかんでいたわけではなかった。歴史はあとからみると一つの直線のようであるが、その時々ではどちらに転ぶかわからないさまざまな可能性の玉手箱である。そして、一人ひとりの小さな判断が歴史を変える可能性をもっている。
 「ばかくせえ世の中」を確固たる歴史にしてしまうのか、あるいは「(ずっと)まし」な社会をこれからも大切にしていき、そこからの地道な改良を重ねていくのか、今、私たちの社会は岐路にあるように思える。

 新年あけましておめでとうございます。私の気持ちはあまりおめでたくもないのですが、1年を生き抜いたことはまずはめでたいことです。ブログ全盛の時代に、旧来のスタイルで「対話」を拒否していますが、あしからず。最近は、時代が奈落の底に向かっているのを横目に見ながら、時代遅れの自分自身が楽しくなっております。時代にはるかに遅れつつ、しかし、独善にはならないように牛歩の歩みを続けていきたいと思っております。今年もよろしくお願いいたします。それでは、寒さのなか、お身体に気をつけてお過ごし下さい。




  2006/12/11(Mon) 末世


 

 最近、よく思うことがある。世も末だということである。20世紀が終わり、新しい世紀に入って、時代の潮目は末法思想から希望の灯に向かって潮流が変わるべきところなのだが、この社会の「世も末」度数はさらに増してきている。1年9ヶ月前に日本に帰国した時、日本人とはかくも冷たく、自己中心的な人々だったのかと驚き、嘆いたのだが、その闇は今もなお深まっているように感じられる。不安に満ちた気持ちでイギリスに入国した時、ノーフォークの美しい風景と人々の笑みに迎えられ、一瞬にしてその社会に適応したのに、帰国して約2年になろうとしているが、この社会に対してはいまだに適応する気にはなれず、胸の中は悲しい気持ちでいっぱいである。
 外に出かけて、楽しい気持ちになることは滅多にない。自分の知っている人たちで構成されている場所、商業施設、ある目的のある場所に行くときは、別である。しかし、ブラブラとただ外に出ても、楽しい気持ちになることはない。いつからこうなったのか、人々のコミュニケーション能力は劣悪で、他者(ひと)がそこにいることを尊重するような立ち振る舞いができない人々に満ちている。また、自分の顔のことはさておいて、人々の表情は険しく、明らかに以前よりも醜くなっている。余裕のなさがすべての立ち振る舞いにあらわれており、こんな社会で育つ子どもたちは、どんなにか不幸だろうとまた悲しみが増す。大人のことばはすさんでおり、子どもたちはネガティブなことばのシャワーと消費社会のふわふわとしたメッセージを浴び続けて、人間として成長する機会を奪われている。そして、このような社会のあり方が常識であり、当然であると思わされている不幸。この社会の幸福度の低さと、妬み、嫉みといった、人間としての劣悪な感情が支配している空気に、私の心は疼いている。
 この国が母国でないならば、どんなにか気持ちが楽なことだろう。世界にはこんなにどうしようもない社会があると笑ってすませることができる。あるいはちょっと親切心を起こして、アウトサイダーとして助言をすることもできる。しかし、このすさんだ社会がかつて自分を育ててきた社会であり、今も、そしてこれからも私が生活を営んでいく社会であるという現実を直視するとき、悲しみはさらに増し加わる。今のような世界認識を行い、こんな道に進んでいったら、不幸になるとしか考えられないのに、笛吹男のあとについていった子どもたちのように、人々は政治とメディアに従っている。やけっぱちの乱痴気騒ぎをしながら、屠(ほふ)り場に向かって進んでいる人々の群を見ながら、どうすればいいのだろうか。
 NHKのニュースでは、今日も楽しそうに北朝鮮のニュースが流れている。話によると、北朝鮮はひどい国家らしい。しかし、その圧制下で苦しんでいるであろう北朝鮮の人々のために私たちが何ができるかという切り口で、この問題が語られることはない。すべての国内の矛盾を北朝鮮問題に押しつけているだけだ。そして、子どもたちの犯罪があると、メディアはこれに飛びついて、大騒ぎをする。現在、少年院が過小収容であるのに対して、大人たちの刑務所が過剰収容で大変な状態だということすら、一般の人々には知らされていない。子どもたちの凶悪化がイメージとして流布される。そして、このイメージが「現実」なるものを構成する。子どもたちの犯罪がなかなか出てこないと、貧しき人々の子殺しの話が話題となる。ここでも、子育てに冷たい社会、貧しき人々に冷たい社会について、きちんと分析されることはない。容疑者個人の特異な性格が問題とされて、ひたすら糾弾される。すべてが自己責任である。
 だが、考えてみると、自己責任ということばはいつも社会的弱者に向かって発せられる。社会的弱者が負うにはあまりにも重過ぎる過剰な自己責任を、自分たちのことばに決して(ほとんどの場合)責任をとることはない社会的強者であるはずの政治家たちが語っている。郵政民営化選挙であれほど大騒ぎして党から追放した議員たちを舌の根も乾かぬうちに復党させた前首相たちの責任をメディアが問うことはない。あれこそペテンではないか。しかも、ペテン師は空々しいことばを放ち、追放された議員たちのほうが始末書を書かなくてはならないという転倒した世界。この「転倒した世界」、すなわちアベコベ社会は、今のこの社会を言い表すのに言い得て妙である。
 思い起こすと、見ず知らずのイラクの人々のために手弁当で命を懸けて現地に赴き、不運にも人質となった3人の人たちを「自己責任」ということばで糾弾したのもまたペテン師であるところの前首相だった。おそらくこれものるかそるかの賭けだったはずだが、この賭けが彼にとっては都合のいいほうに転んで、人々もまた志のある3人の青年たちを非難した。しかしながら、見ず知らずの人たちのために自らの命も顧みない志のある人々を非難して、自分の利益だけを追求する人々をもてはやすという転倒は、とても危険なことであった。なぜならば、倫理の崩壊を招くからである。私はあの「自己責任」事件が決定的な分水嶺だったと考えている。人類のために命をも捧げようとした人々を糾弾したことで、この社会は倫理を立ち上げることを放棄したのである。
 「転倒した世界」を放置しているならば、「洗脳のための教育」「平和のための戦争」「支配者のための憲法」というような矛盾した概念がきちんと吟味されることもないままシステムと化し、社会をおぞましいものに変えてしまうだろう。もうすでに矛盾した概念が常識のような顔をして至るところに居座っている。例えば、「サービスとしての教育」、これもおかしな概念であるが、もはやこれを疑う人はあまりいない。「教育」は人間を、そして社会をつくるものであって、それはサービスではない。「教育」とは、人間の生きる根幹にあたるもの、すなわち世代継承であり、再生産の営みである。サービス業は顧客の満足度によって評価される。しかしながら、人間を育てるときにはこれだけではダメなはずだ。サービスを惜しんで、たとえ苦しいけれども我慢させて、自分たちで考えさせ、自分たちで解決させなくてはならないこともある。「教育」とは、人々の社会的自立を支える仕事であるからだ。
 教育に人生を賭けてきた専門家たちがほぼすべて反対している中で断行されようとしている教育基本法の改正、そして素人たちの居酒屋談義で決められようとしている教育再生会議の教育改革案、これらがこの社会をどのようにして地獄の底までいざなってくれるのか、ただ見つめていくことにしたい。そして、いつの日か「見るべき程の事は見つ」(註1)と言って、この世あるいはこの社会を去ることになるだろう。ただし、私は自害はしない。(註1 Wikipedia 平知盛より 「1185年、壇ノ浦の合戦で平氏滅亡の様を見届けた平知盛は、海へ身を投げ自害した。このとき、知盛は碇を担いだとも、鎧を二枚着てそれを錘にし、「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と言い残して入水したと言われている。」)
 寒くなってきました。お身体に気をつけてお過ごし下さい。2006年師走。




  2006/10/24(Tue) 公立学校の可能性


 

 清瀬の隣に東久留米という市がある。東久留米には気持ちのいい川が流れている。一つは黒目川、そしてもう一つは落合川。秋になると、なぜか私たちは自転車で東久留米に出かけることになっている。落合川の源流まで約30分、ちょうどいいサイクリングコースなのである。
 サイクリングの途中で、東久留米の団地にある大きな空き地のある公園に立ち寄った。休日とあって、お父さんとキャッチボールをしている大きな子どももいれば、お母さんと滑り台をしている小さな子どももいる。また異年齢の子どもたち同士でサッカーをしているグループもある。幼児から小学校高学年までさまざまな子どもたちが集っているのだが、これが見事にお互いを配慮しながら、気持ちよく遊んでいるのである。一人の幼稚園ぐらいの女の子が私たちのいたブランコにやってきた。上手にできるのを見てほしいようである。「上手ねえ」と声をかけるととてもうれしそうである。お父さん、お母さんはどこなのかちょっと心配になって尋ねたところ、遠くを指さして「あのオレンジ色の服を着ているのがお父さん」という。お父さんは女の子の弟と思われる男の子と虫取り網をもって虫を探している。遠くから女の子が遊んでいるのを見て、安心しているようである。
 しばらく遊んだあと、女の子はお父さんと弟のところに走っていった。私たちが公園から帰るとき、「バイバイ」と手を振ったら、お父さんが「ありがとうございました」という挨拶をされた。一昔前ならば、当たり前のような出来事が、とてもうれしかった。今は、人なつっこい子どもはいても、大人がきちんとコミュニケーションをとることが少ないからである。ちまたにあふれている大量消費の商品よりも、こういう関係がほしいのよと話しながら、自転車で清瀬への坂道を登っていった。こういう関係が生まれる場所こそが、公共の場所であり、まさしく公園なのだと思った。
 昨日は、千葉県の公立中学校の公開研究会に参加した。「学びの共同体」をめざして学校改革に取り組んでいるこの学校では、教師のことばは丁寧であり、がさつさはどこにも見られず、子どもたちは安心して教室に集っていた。傷つきやすいはずの思春期の子どもたちが、失敗をおそれることなく、ほかの子どもたちの支えのなかで、成長している姿がそこにあった。教師たちが安心して挑戦し、成長できる環境で仕事をし、教師をふくむ大人たちが子どもたちのなかにある育ちへの力を信頼するならば、このような空間が生まれるということを知らされた。思春期をこのような関係のなかで自分と他者を育てながら過ごすならば、大人になったとき、成熟した美しい蝶々が生まれてくるに違いない。
 大人とは思えないような幼稚な人間たちが跋扈して、その幼稚さにも気づかずに生きている今の社会。表層的な「学力」や批判精神を伴わない「愛国心」よりもずっとずっと大切なものがあるはずである。子どもたちは孤立させられることなく、安心して仲間とともに学び、育つことを保証されなくてはならない。実際に、学びから脱落し、孤立している子どもが一人もいない公立中学校の教室風景をみて、公立学校の可能性を感じた。ただ、こうした公立学校が生まれるためには、民主主義を深く理解し、卓越したヴィジョンをもつ教育学者と、子どもの学びを変えたい強い願いをもつ校長先生、こうした試みを外からしっかりと支える教育長が必要であり、これらが揃うのは並大抵のことではない。教育改革は、これらの三者を育てることを抜きにしては成り立ち得ないのである。




  2006/9/28(Thu) 人垣


 

 爽やかな秋晴れの一日である。週末は大阪の学会に出かけていた。そして久しぶりに九州まで遠征をして、スポーツで身体を動かしてきたら、全身が痛くて大変である。日頃の運動不足ともう若くないことを思い知らされることになった。
 さて、大阪での学会は、日本教育社会学会という学会で、今年は大阪教育大学で開催された。奈良県との県境近くにある柏原キャンパスは、すごいところにあり、駅からしばらく坂を登ったあと、三基のエスカレーターを乗り継いで、ようやく学校に到着する。エスカレーターには蜘蛛の巣が張っていて、ちょっと油断をしていたら、森に戻ってしまいそうなところであった。エスカレーターを使わずに毎日駅から大学まで山登りをしたらさぞや健脚になるだろうと思った。スポーツをするなら大阪教育大学である。
 ところで、私は全く大阪に土地勘がない。鉄道や地下鉄がどのようにつながっているのか全く知らないし、エスカレーターではどちらに立ったらいいのかわからずにオロオロしているという次第である。(東京ではエスカレーターに乗るとき、左側に立って、右側を急ぐ人のために空ける慣習になっているのに対して、大阪では右側に立つというのは、よく知られていることのようである。今回、福岡でも観察していたが、どうも東京と同じように左側に立っているようであった。)
 しかしながら、大阪に来ると懐かしく思うことがある。というのは、少年の頃、祖父と一緒に大阪、京都を訪ねたときのことを思い出すからである。祖父と一緒に大阪の十三というところで寿司を食べて、その寿司が700円だったことをなぜだかよく覚えている。そして、今回、上本町というところでランチの寿司を食べて、その寿司が同じ700円だったことで、当時の思い出がよみがえってきた。祖父ともう一度話がしたいと思った。今の社会について何と語るだろうか。中国大陸へ戦争に行ったこともあり、米軍の空襲で家を焼かれて、戦後は結核で死の陰の谷をさまよった祖父の経験と思いを、今もう一度尋ねてみたいと思った。しかし、祖父はもういない。
 考えてみると、30年近い年月が流れて、物価はたしかに上がっているはずなのだが、寿司の値段は同じだった。食材の流通が変わっているということなのだろう。そして、寿司職人の生活は厳しくなっているにちがいない。私たちの生活をとりまく環境は、30年前とは大きく変わってきている。世界との結びつきはかつてより深く、複雑に、そして多元的になってきている。以前よりも学びに対してひらかれていないと現実に対応できないような社会が到来している。その一方で、学びから自分を閉ざし、狭いコミュニティーのなかでしか人とつきあわない人々も増えてきている。こうしたギャップは、大変深刻な社会不安を生み出すように思われる。
 だから、ここでも他者への想像力をこれからの時代の課題として挙げたい。エクセレント(優秀)であることが強く求められる今の社会であるが、みんながエクセレントになったら、エクセレントな人を褒める普通の人々はいなくなってしまう。他者の痛みのわかる普通の人々こそが今の時代にもっとも必要なのであり、そのために学びの環境、生活の環境を整えていかなくてはならないと思うのである。エクセレントを至上の価値としてしまうと、人々は自分の王国を守るために、どんどんゲームやネットといった仮想現実にひきこもってしまう。他者の痛みがわかり、他者の話が聞ける普通をよしとするならば、人々は安心して現実で憩えるようになるだろう。
 私は普通の水準の高い社会がよい社会であると考えている。たとえ学者が昼夜を問わず研究をして学問の水準を高めようとも、普通の人々が本を読まずに、上手な話し合いもできない社会では仕方がないと思っているし、いくらスポーツの選手が身を削って練習をしてオリンピックで金メダルをとっても、普通の人々が身体を動かさずに、生活習慣病になっている社会では仕方がないと思っている。エクセレントな人の足を引っ張らない、すなわち他人をねたまない社会をつくることはたしかに大切だが、誰もがエクセレントを指向しなくてはならない社会は、人々を幸せにはしない。私は普通の人々の水準の低下を心配している。他者への想像力というキーワードによって、普通の人々の連帯を高めて、社会のセーフティネットとしての人垣をつくること、これが私の仕事のヴィジョンである。
 それではよい10月を!




  2006/9/11(Mon) <9.11>


 

 東日本では8月の前半は比較的涼しかったが、お盆を過ぎたあたりから暑くなった。9月に入ってからは、やっぱり暑かったり、少し涼しくなったりの日々だが、先週末は暑かった。そして、清瀬では今日未明の午前3時頃から豪雨と雷に見舞われた。半分眠っていながらも「こんな雨が降ったら屋根にあながあくのではないだろうか」とよくわからない心配をしていたのだが、やっぱり夢ではなかったようで、ネットニュースを見たら、「未明の関東南部に大雨と雷、1万4000世帯が停電」と見出しにある。近くの西東京市では午前3時から4時までの1時間に85ミリの雨が降ったそうだ。ちょうど前回のコラムでも、大雨と落雷、さらには雹の話を書いたのだが、今回もまた同じような話題である。こんなに激しい天気が一年に何度もあるということは、以前は経験しなかったような気がする。何か自然と人間との関係にも異変が起こっているのだろう。
 さて、今日は9月11日。ニューヨークの同時多発テロからちょうど5年になる。この5年で国際社会はさまざまな暴力の応酬を繰り返し、悲劇に巻き込まれる人々もますます増えている。5年前、ニューヨークの貿易センタービルが崩れ落ちる映像を見ながら、ビルとともに何か大切なものが崩壊し、これからどんな時代で生きなくてはならないのだろうという、何とも言いようのない衝撃を受けたのだが、余波は今も深いところで進行しているように思われる。同時多発テロの報復として行われたイラク戦争は、池澤夏樹さんらが警告した通りの結末になった。池澤さんが『イラクの小さな橋を渡って』で結論づけていたように、イラクが侵攻されて、そこに住む人々の暮らしが台無しにされなくてはならない理由はどこにもなかった。そもそもイラクは複数民族と複数宗派からなる、いわば帝国主義、植民地主義という外からの必要によってかたちづくられた国家であった。そこで統治機構を無理矢理解体したら、大混乱が起こることは目に見えていた。多くの場合、戦争という大破壊のあとにどんなことが起こるかについては、予測できないことが多い。しかしながら、イラク戦争では、その後、何が起こるかについて、多くの人々が明確に予測できていて、またその通りに現実が経過している。この戦争が益をもたらさないことが誰の目にも見えていたからこそ世界中で反対運動が起こった。それにもかかわらず、戦争は遂行された。そして、今、人々はもはや心の底では、アメリカを信じることができないようになっている。さらには、アメリカという記号が象徴していた民主主義、人権、自由といったプラスの価値も一緒に葬り去られようとしている。これは大変不幸なことである。アメリカの迷走が、世界中に原理主義的な独裁政権を生み出すという悪循環。このツケはすべて他者を侵すこともなく、自分も侵されることなく、ただただよく生きたいと思う人々の暮らしにまわってくる。この一線を踏み越えてしまうと、人間として大切なものが崩壊してしまう、そして私たちとその子どもたちはそうした時代の中で生きていかなくてはならなくなる、そういう切実な思いがあったからこそ、イラク戦争への反対運動は全世界で盛り上がったのである。
 ベストセラーになった『バカの壁』のなかで養老孟さんは、若い人たちに必要なものは個性ではなく、他者への想像力だと書いていたのだが、私はこれに全く賛成である。これは若い人たちだけの問題ではない。働き盛りの人たちにも、お年寄りにも、そして政治家にも最も必要なものは他者への想像力であり、はた迷惑な「変人」としての個性ではない。ちょっと想像力を働かせてほしい。はた迷惑な個性を振りかざす人々が複数存在する会議では、何一つ大事なことは決まらないということを。養老さんも言っているように、隣の人間と間違えられることはないという意味で人間は存在自体そもそも十分に個性的であるわけで、わざわざヘンである必要はない。他者への想像力を働かせるならば、こうされたら相手はイヤな思いをするだろうとか、気づくことができるはずなのである。すなわち、孔子の言っている「汝の欲せざることを人に施すことなかれ」(論語)である。またキリスト教には「あなたがしてほしいように他人にもしてあげなさい」ということばがある。どちらも他者への想像力の大切さを語っている。
 ややこしい世の中であるけれども、LifeとはそもそもSimpleなもの。最先端の科学技術によって救われるというような幻想を捨てて、Simple Lifeを生きたいものである。それではよい9月を。




  2006/7/25(Tue) <could be worse>


 

 先のコラムで「7月である。いよいよ夏の到来である。」と書いたが、小中学校が夏休みに入ってもいっこうに夏がやってこない。そして、西日本では大雨である。私の故郷もよく雨の降る地方で、中学校の時にはしばしば道路が水に浸かり、裸足で登校したものだった。ときには、学校は大雨のために午前中で休校となることもあった。そういうときはたいてい帰りにはもう水が引いていて、登校の時のほうがよほど危険であった。そして、危険というのも(死なない範囲では)案外楽しいものであった。子どもは日常が裂け目を見せるときが好きなのである。死なない範囲で、子どもたちには危険を経験させなくてはならない。そうでないと、日常の裂け目と「死」との境界線がわからなくなってしまう。
 さて、先のコラムで私は居眠り運転をしそうになったのだが、やはり疲れていたようだ。数日後、夏風邪のためにダウンしてしまい、こじらせて気管支炎になった。それでも授業を空けるわけにはいかないので、気力でマイクを握っていたのだが、さすがにこうして踏ん張っている授業で、携帯電話をいじりながら食事をしている学生がいたのには切れそうになった。携帯電話をいじられるか、食事をされるか、どちらかならば、まだ私の怒りの器の許容範囲なのだが、手をかざして携帯をいじりながらモグモグと食事をされると、怒りが器をあふれるのである。皆さんはどう思われるだろうか?
 というわけで、切れそうになった私だけれども、前期最後の授業で切れてしまうのは、真面目に聴いてくれているほかの学生たちにあまりにも失礼なので、もともと小さな器を精一杯ぐっと広げて、にこやかに授業を終えて、最後に「私の授業があまりにもつたなく、皆さんを退屈させてしまったことをお詫びいたします」と話したところ、拍手を受けて幕切れという不思議なエンディングとなった。反語的な表現がどこまで伝わったのかどうかわからないけれども、後期は「講義中に携帯電話をいじりながら食事をするのはやめて下さい」というところから今後はストレートに攻めてみようと思う。ストレートといえば、昨年度のゼミ冊子に掲載された羽田明弘君の「ストレートの条件」という詩があまりにもすばらしく、私もゼミ生も大きな感銘を受けたのだが、私もまたストレートを投げ続け、そのストレートの無様さを見つめなくてはならないのだろう。
 ストレートといえば、ゴルファーのタイガー・ウッズ選手。今年の全英オープンでのプレーは凄みがあった。そして、72ホールのプレーが終わったあと、彼はあたりをはばかることなく号泣した。タイガー・ウッズ選手は感情をストレートに出すオープンな人柄だけれども、ここまで号泣する彼を観るのははじめてだった。父を失ったあとでのはじめてのメジャー制覇、彼にとって特別なものだったのだろう。タイガー・ウッズ選手のプレーはほんとうにストレートである。あのようなストレートに到達することは誰にでもできることではないだろうけれども、彼と同じ時代を生きていることだけでも幸せに思う。そして全英オープンは私にとっても特別な大会なのだ。
 さて、話は戻って、夏風邪のためにダウンしてしまった私だが、少し治りかけた頃、「総合演習」というゼミ形式の教職の授業の最終回で「武蔵国分寺」ツアーを行い、夜の飲み会に参加した。そのときは楽しかったのだが、次の日、起きてみるとひどいことになっている。奇跡的にその日は何も入っていなかったので、一日中寝込むことになった。そして、布団の中で、もう歳も歳だし、学生と同じペースで遊ぶのは止めようと固く決意した。ところが、次はゼミのプレ合宿。レクリエーションとしてサッカーをやることになった。また遊びたい虫がうずく。結局、学生たちと汗びっしょりになるまでサッカーをして、そのときは楽しかったのだが、夜の飲み会でしゃべっていると、せき込み、せき込み、再びダウン。夏風邪はいつかは治るかもしれないけれども、バカは死ぬまで治らないと、この時、痛感したのであった。
 それでもまだ話は終わらない。翌日、ゼミのプレ合宿も無事終わり、みんなで昼食を食べて、解散しようとしたところ、にわかに空はかき曇り、雷雲がたちこめた。あわてて移動をしたけれども、どしゃぶりと稲光りで車から外に出られない。すぐ近くに落雷が相次いで、生きた心地はしない。最後の最後にとんでもないことになったと思ったところ、まだまだ話はこれでは終わらなかった。どしゃぶりと稲光りにまじって、大粒の氷が空から降ってきた。雹(ひょう)である。最初は小さな氷の粒だったが、次第に大きくなり、冷蔵庫の製氷器でつくる氷と同じぐらいの巨大な氷がボンネットとフロントガラスを叩きつける。ガラスが割れはしないかと心配だったが、何とかガラスは持ちこたえた。しかし、車がひどいことになっているのは火を見るより明らかだった。
 私の愛車は、ボコボコになった。ボンネットがアルミニウム製だったことが災いとなった。こうしてまた一つゼミ合宿に伝説が加わった。前の晩、車を学生に自慢したことが雷さまの怒りを買ったのだろう。災いはどこから降ってくるか、わからない。杞憂というけれども、ほんとうに空から氷の塊が降ってくることもあるのだ。まあしかし、サッカーをしても私は生きていたし、雷が落ちても氷が降っても学生はケガもしなかったし、私の車も何とか動いているし、「could be worse(まあいいさ)」と帰路についた。
 「could be worse」というのはイギリス生活で身につけた英語で、直訳すると「もっと悪いことだってあったかもしれない」という意味である。ジョン・エリオット先生とのゴルフでは、ミス・ショットのあと「could be worse」とよく慰め合ったものである。ミス・ショットも段々であり、どんなミス・ショットでも、それよりももっと悪いミス・ショットが考えられるのである。それよりはましだよというポジティブ・シンキング。人生もまたゴルフのようにミスの連続である。「could be worse」を自分の語彙にしなけりゃ、生きていけない。
 さて、帰宅して夜になり、「could be worse」とは思っていたものの、やっぱりボコボコの車が気になってきた。修理をしたら数十万円必要だろう。車両保険に入っているけれども使ったら等級が三つ下がってしまう。そんなことを思いながら、ネットで調べてみたところ、朗報を知ることができた。雹(ひょう)というような自然災害によるダメージの場合、車両保険が効くとともに、等級も据え置きになるということだった。これを知ることができたのは、ネットの掲示板のおかげだった。感謝、感謝!(保険の契約書、重要事項なんたらというドキュメント、あれは読むのが大変ですものね) 最近、アンチネット派の私なのだけれども、ネットもよいことがある。というわけで、私もよいことを教えてもらったので、ほかの人にもよいことをお伝えしようと、8月を待たずにコラムを更新することにした。
 私の車は、今、入院中である。ボンネットは全交換になり、天井、サイドは板金修理になる。生きているといろんなことがある。これらすべてが経験となり、また思い出となる。生きていれば、どんなときも「could be worse」と言うことができる。だけど、いのちを奪われるともう「could be worse」とは言えない。だから、私は戦争には反対である。では、よい8月を!




  2006/7/3(Mon) <イギリスと蚊>


 

 7月である。いよいよ夏の到来である。そして、今朝は日本の夏の主役の一つである“蚊”に起こされた。おかげで通勤の車の中でものすごい睡魔に襲われることになった。居眠り運転にはまったくもって言い訳無用なのだが、車のハンドルを握るとどんなに疲れているときでも目がさえる私がこんなに眠くなったのははじめてのことだった。何とか大学までたどり着いて、よろよろと研究室に入ったところで、パソコンをスイッチをつけて椅子に座った途端、そのまま意識が遠のき、眠ってしまった。しばらくして電話のベルがなり、寝ぼけまなこのままあわてて会議に急いだ。もちろん、先週から諸々の疲れがたまっていて、“蚊”は最後の一刺し、すなわちとどめだったわけだが、いろいろと危ないところだった。
 さて、日本の夏の風物詩でもある“蚊”が登場すると思い出すのがイギリスの夏のことである。なぜだかわからないのだが(知っている人にはぜひとも教えていただきたいのだが)、イギリスには“蚊”がいないのである。おそらくまったくいないということはないのだろうが、日常の生活ではほとんど出くわすことがなかったのである。それだから、イギリスの住宅には、網戸はなかった。そして、夏でもそのまま窓を開けることができた。イギリスでのバーベキュー、キャンプ、ピクニック、こうしたアウトドアが楽しかったのは、おそらく“蚊”がいなかったからである。イギリスの夏は、たしかに日本の夏よりも涼しい。しかしながら、ときどき暑い日もある。同じ温帯の島国で片方に“蚊”がいて、片方に“蚊”がいないというのはずいぶん不公平な感じがする。日本は、地震、台風、大雨、“蚊”とずいぶんと天災やたたかうべきものが多い。これが日本人の占い好きとかかわっているのかもしれない。また日本では、ホームセンターでアウトドア・グッズがたくさん売り出されているわりには、実際にアウトドアを楽しんでいる人は少ない。これはあきらかに“蚊”と深い関係をもっているだろう。あるいは、もしもイギリスに“蚊”がいたら、蚊取り線香の開発に忙しく、産業革命はイギリスでは起こらなかったかもしれない。歴史において、“蚊”の果たした役割は、思いのほか、大きいかもしれないと思うのである。イギリス人は“蚊”がいないことを当たり前と思っていて、“蚊”についてあれこれと考えることもないだろうから、“蚊”についての考察を深めることにおいては、日本人がアドバンテージをもっているということも言える。
 さてさて、6月から7月にかけて、私のまわりでは、体調を崩している人が例年以上に多いように感じるのだが、どうもこの原因の一つは、ドイツで開催されているサッカーのワールドカップにあるようである。私もまた先週から諸々の疲れがたまっていて、週末は非常事態となったにもかかわらず、準々決勝のドイツ対アルゼンチン、イングランド対ポルトガルを観たものだから、今朝の“蚊”にとどめを刺されることになったのである。しかも、ご存じのように、どちらの試合も延長戦でも決着がつかずにPK戦での勝負という最も長い試合展開になった。もちろん、120分の激戦とPK戦を観戦したあとは、すぐに眠れるものではない。こうして衰えつつある私の身体はさらにむしばまれることになった。しかし、1980年代からのアルゼンチン・ファンであり、最近はイングランドを第二の故郷としている以上、これらの試合を観ないわけにはいかないのである。そして、アルゼンチンもイングランドもPK戦でさようならとなった。
 イングランドの敗北にノリッチの友人たちが落ち込んでいる様子が目に浮かぶ。ポルトガルにPK戦で敗退するのは、2年前のユーロ選手権とまったく同じ光景だった。あのとき、私はノリッチに住んでいて、近くのカフェに観戦に出かけた。カフェはイングランドのユニフォームを着たファンで埋まっており、興奮も高まっていた。私は途中までその雰囲気を楽しんだのだが、イングランドが負けてその巻き添えをくうのはごめんだったので、試合が終わる前にカフェをあとにした。イングランドが敗退して、人々は目一杯落ち込んでいた。ほんとうに落ち込むのである。あくるひの大学は、お通夜のようだった。今回のワールドカップでは、さらなる期待をかけていたようだから、もっと落ち込んでいることだろう。不謹慎かもしれないが、私はあの人々が思いっきり落ち込む様子が好きだった。人間らしかったからである。私たちの社会では、個人的な感情を表に出すことは忌避される。日本がオーストラリアに逆転負けをしようが、何事もなかったかのように月曜日が始まる。これはある意味ではすごいことである。抑制の文化である。だけど、みんなで泣くというのもまたいい。感情は放出しないといつかコップからあふれてしまう。
 ポルトガルのゴールキーパー・リカルド選手には感動した。イングランドの選手が蹴ったすべてのペナルティー・キックに手を当て、4つのうち、3つを枠の外にはじき出した。イングランドの選手たちが蹴る前から不気味な雰囲気を漂わせ、相手を圧倒していた。まさに鬼神の活躍だった。リカルド選手は、無名だった自分を発掘し、重用してくれた名将フェリペ監督を深く信頼していたという。相互の深い信頼が勝利を導いたのだろう。イングランドは恐れていた通り、フェリペ監督に三度(みたび)行く手を阻まれることとなった。ノリッチの友人たちからの知らせはまだない。ではよい7月を!




  2006/6/1(Thu) <6月>


 

 6月になった。調子のよくない理由を考えていたのだが、これは前月のコラムに書いたように「仕事の量が私の容量を超えてしまった」からではないようだ。社会の動きが私の感性とはまるで違う方向に向かっており、そうした中で仕事をすることに徒労感を感じているということのようだ。
 ここ数年の間で、人々の表情は険しくなった。人間不信が至るところに漂っているようである。時々、ふと見知らぬ人と目があったときに、ゾッとすることがある。あるいは、私の感性が狂っているのかもしれない。それならば、社会のほうは救われる。そうあることを願いたい。だが、しばらく前までイギリスに住んでいたとき、このような経験をすることはなかった。そして、十年ほど前までは、日本に住んでいても、これほどの経験をしたことはなかった。かつても街でトラブルに遭ったり、イヤな目に遭ったことは何度かあった。しかし、目があっただけでゾッとするような経験をしたことはほとんど記憶にない。
 かつて東京経済大学の桜井哲夫先生が『言葉を失った若者たち』(講談社)の中で、その後、作家の中島梓さんが『コミュニケーション不全症候群』(筑摩書房)の中でで、若者たちの間にひろがるコミュニケーションの危機について論じ、社会に警鐘を鳴らしたことがあった。あの頃はまだ社会の中でマイノリティーだったコミュニケーション不全のありようが、今は老若男女を問わずマジョリティーとして、あるいはこの社会への適応の手段として、アメーバーのように広がってきているように感じる。私は、発達心理学者のエリク・エリクソンを尊敬し、またジョン・デューイの教育哲学からも影響を受け、人生の課題は「成長」であるという深い信仰をもっているから、このコミュニケーション不全の社会に適応する気は毛頭ない。なぜならば、この社会への適応が人間としての「成長」につながるとはどうしても思えないからである。しかしながら、「成長」はさまざまな他者とのコミュニケーションを通してしかもたらされないことも事実である。社会を忌避して孤立していると、常に唯我独尊の危機にさらされる。人生の課題を「成長」であると考える人間にとって、今の時代の日本社会は、生きづらいこと、この上ない。できることといえば、小さな共同体をつくって、そこでは人間が「成長」できるまともな空間を準備することだけだ。しかし、より大きな社会とその共同体が反対方向を向いているとするならば、共同体に救いを求めてやってくる人々をかえって傷つけることになるかもしれない。八方ふさがりとはこのことだ。
 社会の発展が人々の「成長」と調和的であるときには、人々のプラスのエネルギーは大きく社会に向けてひらかれ、人々は豊かな心と生活を形成することが可能になるだろう。しかしながら、今の日本の社会は、そうではない。「改革」という口当たりの良いことばで、人々が育ち、生活を営むという侵してはならない領域が、市場主義に売り渡されている。人々の「不安」はさらなる「改革」を求め、新たな市場を生み出す。そして、そこで生まれる新しい産業は、しばしば底の浅いものである。コミュニケーション不全の社会を利用しながら、進んでいく「改革」。どこかでこの動きに歯止めをかけなくては、この社会はとんでもないことになる。
私は、現在進行中の教育基本法、憲法の改正の動きにはっきりと反対の立場をとる。それは現行の教育基本法、憲法が最高のものであると思っているからではない。今の時代、そして、今の社会、人々、議論の質が、教育基本法、憲法が作成された時点でのそれらと較べて、明らかに劣っていると確信しているからである。小熊英二さんの力作『<民主>と<愛国>』(新曜社)を読んで、この確信はさらに確かなものとなった。猜疑心とコミュニケーション不全の時代には、昔の人が残してくれた灯りを大事にして、光あるところまで歩くのがいい。そこに残っているわずかな灯りを吹き消すならば、どうして光を求めることができるだろうか。そして、光あるところに辿り着いてから、ゆっくりと時間をかけてよりよい新しい灯りを準備すればよい。
 少なくとも、人間が育ち、成長するという営みを支えるという観点からすると、この社会はまったく絶望的な方向に向かっていて、ひたすら奈落の底へと急いでいるとしかいいようがないというのが、私の結論である。私の気が狂っているのか、この社会が狂っているのか、これは読者の判断に委ねるしかない。願わくば、私の気が狂っていることを。
 今月は、教育実習の巡回のため、東北地方に出かけます。かすかな光があることを期待して。では、よい6月を!

     東京新聞のこの記事はほんとうのジャーナリズムとは何かを教えてくれる。






  2006/5/9(Tue) <5月>


 

 5月になった。私の調子はよくない。日本に戻ってきて、仕事の量が私の容量を超えてしまったような気がする。これから夏休みまで長い休みのない日々が続く。生き延びていけるのかどうか、心配である。人生は順風のときもあれば、逆風のときもある。そして、順風のときのほうが実は危険だったりする。たまたま偶然に救われていたものを自分の力であるかのように勘違いしてしまうことがあるからだ。逆風のときはおそらくそれがほんとうの自分の力なのだろう。ただし、逆風の真っ只中にいるときはその風景を物語ることはできない。それはまさに混沌であり、逆風と向き合うことだけで精一杯だから。ただどうぞ読者の皆さんご心配なく。逆風もまた私の人生にとっては必要なことだから。ということで5月はこれで終わり。願わくば6月には文章が書けることを。よい5月を!





  2006/4/4(Tue) <三池 終わらない炭鉱の物語>


 

 先月、岩波シネサロンにて映画「三池 終わらない炭鉱(やま)の物語」の試写会があり、出かけてきた。ほんとうのことをいうと、企画・制作協力「大牟田市・大牟田市石炭産業科学館」というので、官製の枠にはめられた作品ではないかと思い、あまり期待をしていなかったのだが、実際は出色の出来だった。
 監督は熊谷博子さん。東京の生まれの人だという。はじめて三池炭鉱を訪ねたのは、1997年3月の閉山のあと。1998年から取材と映画の準備を始めたというから、私が三池の人たちのインタビューを始めた時期とほぼ重なる。三池の人たちから貴重な証言をいただきながら、そのあまりもの重さにとまどい、まとめることができないままであった私にとっては、この映画を観るにあたっては、いろいろと複雑な思いがあった。大牟田のこと、三池のことを知らない人が三池炭鉱の歴史をどんなふうにまとめるのだろうか。炭鉱の光と影の、影をどのように表現するのだろうか。いつもは不遜にも他者の人生を再−表現することを生業(なりわい)としている私だけれども、自分の深く思い入れのある世界をほかの人に表現されるという段になり、身体を固くして、何かを守ろうとしている自分に気づかされた。
 しかしながら、銀幕の世界は、とても伸びやかだった。屈託がなかった。登場する人物は、ほとんど知っていた。また登場する場所も、ほとんど知っていた。しかしながら、あのように組み立てることは、私にはとうてい真似のできないことだった。私の身体の固さとは対照的に、熊谷さんの取材には、先入観のない、単刀直入の構えがあった。私はただただ脱帽した。そして、私にあのような心の寛さがあったら、私の仕事ももっと豊かなものになっただろうと、自分自身のことを振り返った。
 取材を受けた人物の中には、私の大叔父もいた。囚人さんたちが鎖をつけてジャラジャラという音を立てて、朝夕、監獄から坑口まで歩いていた話は、祖母から何度も何度も繰り返し聞かされていた話だった。そうした一つひとつのエピソードをつなげていく技術も見事だった。そこには映画監督の技があった。そして、片手に子ども、片手にカメラで仕事をしてきたという、女性としての生きる思想が、映画を支える軸になっていた。とりわけ、三川坑での粉じん爆発のあと、CO闘争をたたかってきた松尾薫虹さんへのインタビューは、観るものに人間の豊かさを開示してくれるものだった。一酸化炭素中毒の後遺症のため、人格が変わってしまった夫を抱えながら、巨大企業とたたかってきた松尾さんは、苦しみに満ちた人生を歩んできたはずだが、その顔からあふれる表情の豊かさは、ひきこまれるほどだった。粉じん爆発と、その後、今も続いているCO中毒で苦難の道を歩まされた介護する女性たちを、この映画はしっかりととらえていた。
 三池争議(三池闘争)については、言いたいことはある。しかし、どんな作品であっても、その一部を批判するのは簡単なことである。これに対して、創造するのはたやすいことではない。今、生きる人々に受け入れられなくてはならないという映画という表現方法の枠のなかで、ここまで誠実に表現なされたことは、敬意をあらわすに値するものである。4月1日よりJR総武線(中央線・地下鉄大江戸線)東中野駅前のポレポレ東中野にて、モーニングロードショーが始まっているので、関心をもたれた方、炭鉱とそこで生きた人々の輝きに接したいと思われた方は、ぜひともご覧になってほしい。観てきて幻滅したということは決してない作品だと、私は確信している。また8日(土)には熊谷監督によるトークショー、15日(土)にはルポライター鎌田慧さんによるトークが企画されている。「過去を知り、明日を見る」。立ち止まって、私たちの社会が歩んできた道を見つめてみたい。

     三池・終わらない炭鉱の物語

     ポレポレ東中野

     読売新聞の批評 −内容がわかりやすく紹介されています





  2006/3/2(Thu) <あれからちょうど1年>


 

 今日で帰国してからちょうど1年になる。1年前の3月1日から2日にかけての1日はイギリス・ノーフォーク州・ノリッチから東京・清瀬までの長い長い旅の1日だった。いや、旅はもう2月28日から始まっていた。この日、住み慣れたフラットをあとにして、徒歩で大きな荷物とともに川の対岸にあるホテルに移動したのだった。この2月28日の夜、イングランドのプレミアシップにいたノリッチ・シティ・フットボールクラブは、ホームでマンチェスター・シティに2−0からの逆転負けを喫し、その後、一時は浮上のきざしもあったが、最終戦で敗れて、プレミアシップから陥落した。そして、1年後の今、ノリッチ・シティは二部リーグにあたるチャンピオンシップでも低迷を続けている。
 日本に戻ってきたとき、人々の間に流れる空気がたまらなく息苦しかった。成田空港からの高速バスでも人々は無口だった。温かく包み込まれるような空気を感じることができなかった。もちろん、親しい人の出迎えがあったならば、状況は違っていただろう。しかし、その温かさは身内という村社会の中だけの温かさである。イギリス生活で満喫したのは、余所者も包み込んでくれる市民社会の温かさだった。知らない人間同士が、お互いに気持ちの良い関係を築くという身体作法を、人々はもっていた。知らない人の微笑みがいつも心を温かくしてくれた。日本に戻ってきて、身内か、あかの他人か、あるいは村社会に帰属するか、孤立して生きるかという、極端な選択肢しか存在しないことがとてもつらかった。
 二者選択というのは、人を操作するためのきわめて有効な方法であるという。先の総選挙では「郵政民営化に賛成か、反対か」という二者選択を争点にすることで、現政権が圧勝をおさめた。さらに、先日、地下鉄で拾った雑誌「SPA」の記事によると、二者選択というのは、女性をモノにするための有効な手段であるそうだ。これからカラオケに行く?それともドライブ?と選択肢を狭めることで、もう帰るという選択肢を消すのだという。さらに悪のりするならば、シティホテルに行く?それともラブホテル?と誘うならば、ラブホテルはちょっと、でもシティホテルなら、という反応が期待できるということか? しかしながら、万が一この作戦が成功したとしても、こんな子ども騙しの手法に騙されるような相手と、豊かなパートナーシップを築いていくことは難しいにちがいない。もちろん、最初から豊かなパートナーシップを築くつもりがないのなら、あり得ることだけれども。すなわち、これが愚民化政策の正体ということだろうか。
 イギリスで生活をして感じたことは、人間とはかくも多様性をもつ生き物なのだなあということだった。体型も、肌の色も、髪の色も、目の色も、そして考え方も、人間には大きな幅がある。そして、この多様性こそが、地球上で人間が生き延びていくためのアドバンテージを与えたにちがいないのだ。そして、イギリスでは、人と違うことは大いなるアドバンテージになった。私がアジアの人間でヨーロッパの人間とは違った習慣や文化を身につけていることが、彼らにとってとても興味深いことだったし、私にとってもヨーロッパやアラブ、アフリカ、南米の人々の習慣や文化、ものの考え方というのは、大いなる刺激であった。多様性があることは面白いし、自分と違うものから学ぶところはきわめて大きいと感じた。生きていて退屈することがなかった。
 帰国してみると、この社会の価値観の狭さがものすごく気になるようになった。例えば、テレビのスイッチをつけると、日本と韓国では考え方が違い、なかなかその溝は埋まらない、などと、いきなりあらっぽい二者選択的な図式を押しつけられる。私はそれを見ながら、ちょっと待ってほしい、その日本の考えって何なの? 誰がそのように考えているの? 私はその中に入らないよ。 ちょっと待ってよ。 と頭が混乱しているうちに、話はどんどん進んでいってしまう。教育の議論でも、ゆとりか、詰め込みか、などと、あまりにも単純な二者選択が、きちんと考えられることもなく、一人歩きをしてしまう。こうして時代の風潮のなかで、右へ流れたり、左へ流れたりするのだけれども、ちっとも本質的な議論は深まらない。学校ってそもそも何をするところなのか、私たちは子どもたちにどのような未来をプレゼントしたいのか、こうしたことがきちんと考えられないから、どっちへ転んでも、また壁にぶつかって、反転するだけである。
 このように社会の大きな空気には、もうどうにもならないほどの失望感と、ある意味、絶望感をもっているのだけれども、それでも小さな実践の中には、やはり人間の面白さが感じられることがある。例えば、ゼミ冊子作りをしていると、この工程のなかで、学生たちのさまざまな姿が見えてくる。デザイン作りに長所をもつ学生、忍耐と体力のいる印刷で活躍する学生、細かい校正で力を発揮する学生etc.。仕事の面白さというのは、こうしたさまざまな人材を生かすところにあるのだと思う。
 ところで、今、東京経済大学の学生相談室でブームになっているものがある。北海道・旭川市にある旭山動物園である。もうすでに2人の同僚が遠路、旭山動物園に出かけている。この動物園では、動物たちが最も輝いている、最も生き生きとしている姿を観客にみてもらおうと、さまざまな工夫を重ねているのだという。たとえば、ペンギンがまるで空を飛ぶように水中を泳ぐ様子や、高所を軽々と渡っていくオランウータンの技を、観客が楽しめるように、園舎はつくられている。さらには、ライオンやトラ、ヒョウなどの肉食動物に対しては、観客の動きがよい刺激になるような園舎の設計を行い、このため、運動量が増え、食欲も増進したという。これは一つのよい相互作用である。また、極北の地にあるため、これまで冬場の入場者は見込めなかったのだが、ペンギンの運動も兼ねて、雪道をペンギンが行進するという企画をはじめたところ、これが大ヒットして、冬場も観客が殺到するようになったとのことである。
 この旭山動物園の実践であるが、私たちはここから多くのことを学ぶことができる。一つは、最も輝いている姿、最も生き生きとしている姿を引き出すことが、人々の感動を呼び、多様性を大事にしたいという気持ちを育むということである。この企画にかかわった人は、いくら動物保護、環境保護をことばで訴えても、動物園の檻のなかで倦んでいる動物たちにしか接すことができないのでは、実感が沸かないだろうと考えたという。多様性をもつ動物たちがそれぞれに生き生きとしている姿を目にしてはじめて、多様な生態系を守りたいという思いが生まれてくる。私たちも人間の多様な姿に感動し直すことが求められているのではないだろうか。そのためには、多様な人間が輝いていける環境を育てていかなくてはならない。
 もう一つは、一つの失敗のため、すべての可能性を閉ざしてしまう世間の圧力とたたかうことである。この旭山動物園の試みは、前例のない試みであり、そこにはいくつもの失敗があった。しかしながら、動物という生き物から学ぶためには、失敗から学ぶしかないのである。だから、一つの失敗で、すべてをあきらめることをせず、失敗から学び、次の可能性を探っていった。そして、極北の地にありながらも、東京の上野動物園とならぶほどの入場者をもつ動物園への成長したのである。
 今、私たちの社会では、極度に失敗を恐れる風潮がある。一つ失敗があると、その原因をよく考えることもせず、すべてを取りやめにしてしまって、事足りたとすることがしばしばある。たとえば、滋賀県での市立幼稚園でおこった不幸な事件のあとの集団登園問題もそうだった。以前に不安の申し出があったときには対応をしなかったという人々が事件があった途端にすべてを廃止にした。ほんとうに集団登園が問題だったのだろうか。疎外感を感じている人が放置されていたことが問題ではなかったのか。あるいは不安があっても一律の対応しかしてこなかったことが問題ではなかったのか。こうしたことが検証されることもなく、ただ集団登園のみが廃止となった。おそらくこのシステムのため、毎日の送り迎えが必要ではなく、助かると感じていた人たちもいたことだろう。そして、もちろん、このシステムには問題があると感じていた人たちもいたことだろう。しかし、一つの問題が発生したことで、よく検討されることもなく、すべてが消されてしまった。
 少し落ち着いて考えてみよう。問題(事件)のなかには、きわめて特殊な問題(事件)もある。たとえば、かつて鳶職だった酔っぱらいがフェンスを上って大学構内に入り、酔った気持ちよさのために、時計台の外壁を頂上まで上り、そこで足を滑らして転落死するという事件があったとする。これは再び起こる可能性がきわめて低い事件である。もしこうした事件が起こるたびに、フェンスを5メートルの高さにしましょう、時計台の屋上には安全のために手すりをつけましょう、構内のみまわりのための警備員を増員しましょう、というような対応をしていたら、大学財政が破綻してしまう。こうしたときには、酔っぱらいさんには大変気の毒だったけれども、ああ、合掌!とみんなでその死を悼むしかない。こうした特殊な問題を一般化してすべて対応していたら、もう身がもたなくなってしまう。これに対して、問題のなかには、構造的な問題もある。たとえば、これは実際の例であるが、東武鉄道の踏切事故、JR西日本・福知山線の脱線事故がそうである。前者は、勘違いすることもある一人の人間の判断に、複雑に混み合うダイヤのなかでの踏切開閉の判断が任されていたこと、後者は、小さな失敗を皆が共有し、そこから学ぶのではなく、失敗を隠蔽する方向に誘導し、大きな破綻につながるような社員“教育”が行われていたということ、である。こうした構造的な問題は、その根底から問題にされなくてはならない。いずれにしても、問題が起こったときに、その問題が特殊な問題であるのか、構造的な問題であるのかをきちんと考えるところからはじめなくてはならないのである。
 立ち止まって、考えてみたい。今、この社会はどの方向に向かって進んでいるのか。安心できる未来か、あるいは奈落の底か。もはや決して、みんなで渡れば怖くない時代では、ない。では、皆さん、よい三月を!




  2006/2/1(Wed) <如月>


 

 今日から二月。東京の二月は雨のスタートである。イギリスの冬は雨模様の日が多かったのだが、そのことは仕事に向かうには決して悪くなかった。もちろん、日が長く、アフタファイブをたっぷりと楽しめる夏は楽しかったのだが、夏ばかりでは人生に深みが出ない。というよりも、夏ばかりだと仕事にならない。では、いつも冬だったら仕事がはかどるのかというと、そうでもない。夏と冬、昼と夜、生きるということはバランスが大切なのだろう。
 今年の冬、日本海側では記録的な大雪である。大学入試センター試験の日、問題に向かって孤独なたたかいをしている受験生たちの背中を見ながら、この若者たちが豪雪地帯を訪ね、お年寄りの家の雪下ろしを手伝うならば、お互いにとってどんなにか幸せで温かい時間が流れるだろうとふと思った。それからすぐあとに、これを奉仕作業として義務づけるという考え方ではいけないと思った。今、若者も、お年寄りも孤立に向かっている。しかし、若者も、お年寄りも孤立させてはいけないのだ。お互いに孤立させない関係性を育てて、その上に、交流は生まれなくてはならない。若者にとって、一人(孤独)になることは大事なことである。しかし、その一人になることは人とより深くつながるためのものではなくてはならない。人の気持ちを汲み取るための自己との対話である。
 センター試験は答のあるたたかいだ。しかしながら、人生には一つの答が必ずあるわけではない。三つ答があることもあれば、選択肢には答がないこともある。解答の頁をめくる手をぐっと我慢して、自分でもう少し考えてみたい。寒い二月は考える月である。




  2006/1/5(Thu) <新年>


 

 仕事始め。研究室の窓からの風景は凍えている。今年の日本の冬は寒い。そしてヨーロッパもまた寒いらしい。もはや日本には四季はなく、二季になったという話をある人から聞いたのだが、酷暑と厳寒で覆われる厳しい時代になってしまった。
 勝ち組・負け組、社会の二極化、不平等社会、格差社会、上流・下流というような巷でよく目にすることばも、自然現象とちょうどシンクロしているように思われる。ほどよさ、よい加減、中庸というものが社会から居場所を失いつつある。矢沢栄吉が“金持ちも貧乏人も一日三食”というような内容のことを話していたが、マネーゲームにうつつを抜かす人たちは一体何にお金を使うのだろう。何百億という虚構のマネーが動いている一方では、各駅、各都市の一等地には消費者金融のビルが燦然と輝いている。そして、絶望的に他者に無関心になりつつある社会、空虚なモノローグしか語らない首相。私からみると、どう考えてもこの社会は転落に向かっているとしか思えないのだけれども、メディアは、日本の景気回復、株価上昇と大はしゃぎしている。一体、バブルから何が学ばれたのだろうか。
 話は大きく変わるのだけれども、日本列島に住む人々は、モノづくりにおいては一流だと思う。日本車は放っておけば世界中に溢れかえってしまうぐらい安価で性能がいいし(だからヨーロッパは関税を課している)、家電はもう日本製が世界の隅々まで行き渡っている。日本列島に住む人々が培ってきた技術の高さは、目を見張るものがある。これに対して、ヒトづくり、システムづくりにおいては評定外だと思う。人からやる気を奪うシステムが隅々まではりめぐらされているし、この上「改革」が行われると、まだわずかに残っていたなけなしのやる気までも失われるのがオチなのである。これは私にとっても他人事ではない。なぜならば、人づくり、システムづくりの弱さは、人文科学、社会科学の弱さであるからだ。
 社会人と呼ばれる人々は、ほとんどが人文科学も社会科学も信じておらず(あるいは学んでおらず)、精神や信念や勘のほうがずっと役に立つものであると経験的に感じている。あるいは人文科学者、社会科学者までもがそうであったりする。その結果として、人々がモノづくりをがんばり、過労死寸前までがんばっても、そこで生み出された富は人々の暮らしをより豊かにするものにつながらないのである。立ち止まって、システムと配分についてよくよく考えるならば、必ず私たちの暮らしの幸福度は上がるはずなのに、それができていないのである。
 人文科学や社会科学はスピードではない。深さである。だから古典が今も生きて続けているのである。現在、地球上に生きている人間は人類全体のほんの一握りであり、もっと多くの人間がこれまで生きてきて永遠の眠りにつき、そしてもっと多くの人間がこれから生まれてくるはずである。その人々から私たちは「そのときおまえは何をしていたのだ」(同僚からの年賀状より引用)と問われるのだ。このように今、地球という舞台に立ち、生きているということは、責任を伴うことなのである。こうした射程をもって学びを深めることが、人文科学や社会科学の課題であるだろう。
 モノづくりもいい。しかし、このモノをつくってどのような社会を創りたいのか、どのような未来を創りたいのかがなければ、そのモノは空しいだろう。金儲けもいい。しかし、この富を使ってどのような社会を創りたいのか、どのような幸せを創りたいのかがなければ、その金に何の意味があるだろう。
 これまでどんな厳しい時代であっても、生物は、そして人間も次の走者にバトンをつないでいった。だから今がある。バトンをつなぐことの意味をゆっくりと考えることが、今年の私の課題になりそうである。よい一年を!




  2005/12/3(Sat) <再適応>


 

 師走になった。今年の東京の11月は、比較的暖かい日が多かったような印象があるが、12月になり、暦通りに寒さが感じられるようになった。今日は、日本列島の北側では真冬の寒さになるようである。東京も寒い。今朝は、東京経済大学の裏門からの階段を駆け上がってきたのだが、それでも身体が温かくならなかった。(東京経済大学は、国分寺崖線のちょうど上に位置しているので、北門以外からのアクセスでは急坂を登らなくてはならないのである。)
 さて、10月まで日本社会に適応できずに苦しんでいた私であるが、11月になったらなぜだか急に再適応が進み、これまでのように夜毎にノリッチでの生活を思い出すこともなくなった。不思議に思い、同居人にこの話をしたところ、「冬になったからじゃない」とあまりにも的確な一言が返ってきた。そう、冬のイギリスはあまり幸せではないのだ。とくに今年の晩秋、ノリッチはかなり寒くなっているという話を風の便りで聞いていた。そして、今年の東京の11月は晴れの日が多く、暖かかった。さらに昨年のこの季節は、もう帰国のことが心にあって、イギリス生活を楽しむというよりもいろいろと帰国に向けて考えなくてはならないことがたくさんあった。次の春がもうないということは寂しいことであった。こうして去りゆく日のことを数えながら生活する日々は、戻りたい日々ではなかった。1年前の生活に戻りたいと思わなくなった途端に、今に適応したようなのである。相変わらず単純というか、ゲンキンなものである。(これで複雑にこんがらがっている社会を生きていけるのかしらん)
 さてさて、前回のコラムでも少し触れた城島選手が、ほんとうにメジャーに行くことに決まった。ソフトバンク・ファンの私でも、城島選手のメジャー挑戦は寂しいというよりもワクワクするので、プロ野球についての人々の意識もおそらく変わってきているだろう。あるときまで、ドラフト会議の結果や選手の名前など、しっかりとおさえていたのだが、今はちっとも知らなくなっている。日本テレビがいつもやっている特定球団の放映にはまったく関心がなくなり、ロッテが快進撃したプレーオフにはものすごく関心があったのだが、地上波での放映がなく、見ることができないこともあった。これも人々の意識の変化とシステムとの間のズレなのだろう。
 一方、国技と言われている相撲も近頃は不人気が続き、土俵から遠い枡席はガラガラということもあるようだ。たしかに、私も、昔は幕内の力士の名前をなんとなく覚えていたものだが、今ではちっとも知らなくなっている。しかしながら、朝青龍のことは知っており、実は大好きである。ただ残念なのは、朝青龍が優勝してもモンゴルの国歌が流れないことである。もしモンゴルの国歌が流れるならば、モンゴルでの相撲の視聴率はさらに上がるだろうし、あるいは琴欧州が優勝したら場内でEUの旗が振られ、ポール・マッカートニーが賜杯を授与し、土俵の上で一曲歌ってくれるというようなことがあれば、私も枡席のチケットを買って出かけたいものだと思うのだが、なかなかそうはならないところが我が国の「伝統」である。(ちなみに2005年現在、ブルガリアはEUに加盟していない。相撲がきっかけで「欧州は一つ」なんてことになったら大いなる国際貢献である。)
 スーパースターが外国に出かけて活躍する姿をみて、うっとりするのもいいけれども、外国からスーパースターがやってきて活躍する姿に拍手をするおおらかさももちたいものである。九州場所の朝青龍の優勝(しかも前人未踏の7連覇)がかかった魁皇との取り組みで、揃って魁皇を応援することはないだろうと私は思う。F県人の国際感覚に大いなる疑問をもちましたね、同郷人として。では、皆さん、よい年末をお迎え下さい。




  2005/10/31(Tue) <Enjoy>


 

 明日から11月である。かつて日本では徐々に秋から冬に向かって季節が移っていたように思うのだが、近年、ちょうどいい季節が短くなっているように感じる。暑い夏が延々と続いて、これが終わると急に寒くなる、そういう感じである。
 ところでイギリスもまた天気と気候は急激であった。一日一日が賭けのようなもので、朝、自宅から外に出てはじめて、今日は秋なのか、冬なのか、あるいは夏なのかがわかる、そんな感じだった。そして、その朝の季節が一日続くとは限らない。夏と思って、薄着で出発すると、帰りには凍えるということもしばしばだった。
 イタリアのセリエAからイングランドのプレミアシップに移籍した中田英寿選手も、新天地ボルトンに到着したとき、朝あまりの寒さに驚いて、昼になったらこれが思いがけない暑さに変わったことにもう一度驚いたという話を、HPの日記に記している。
 このように猫の目のようにコロコロと変わるイギリスの天気だが、人々のもつステレオ・タイプのイメージというのは根深いと思うことが時々ある。というのは、イギリスで生活をしていたという話をすると「雨が多くて、冬は寒かったでしょう」と言われることが多いのである。実は私もまたイギリスに行く前までは、イギリスの冬というのは、陰鬱な雨が降り、凍えるように寒いというイメージをもっていた。私より1年前にウエールズに行き、そこに滞在していた知人からメールでいろいろとイギリス生活についての情報をもらっていて、大いに助かったのであるが、そのメールにあった冬も暖かいという便りに、不思議な印象をもったことを覚えている。
 そして、2003年の春にイギリスを訪れ、ちょうどその時、春の底冷えのする寒さに参ったのだが、これはイギリス人たちも寒いと感じる寒波の到来だったことをあとで知った。2003年の冬は、極めてマイルドで東京の冬のほうが寒いと感じるくらいだった。降水量も東京よりも全然少なかった。2004年の冬は、前年よりはたしかに寒かったのだけれども、イメージしていたほどではなかった。あるいは地球温暖化の影響かもしれないけれども、イギリス南部は決して寒くはないのである。冬でも十分ゴルフができる。しかも青々とした芝の上で。(イギリスの芝生は冬も青いのである)
 さて、ボルトンの中田選手の話題に戻るが、移籍早々、イングランドのサッカーに適応して活躍しているようであり、脱帽である。イギリス人はフットボールをこよなく愛していて、フットボールについて驚くほど知識をもっていた。私の友人たちの多くはセリエAで活躍している中田選手のことを知っていた。「日本にもスゴイのがいるだろう、あのイタリアでプレーしている・・・」「ナカタのこと?」「それそれ、ナカタ」、こういう会話を何度も交わしたことがある。しかしながら、歴史と伝統のあるイギリスで活躍することは、たとえ中田選手であっても、並大抵のことではないだろうと、私は思っていた。サッカーは野球とは違って、周りとのコミュニケーションが大きなポイントとなる。野球は止まったところで判断ができるが、サッカーは動きながら判断しなくてはならない。即興的なコミュニケーションは、日本で生まれ、育った多くの人々があまり得意とはしないところである。しかしながら、中田選手はこの壁を突き抜けている。スゴイものだ。
 ところで、中田選手の目からしても、イングランドのサッカーは「楽しむ」ことに特徴があるとのことである。イタリアのサッカーは「勝負」が第一だったという。イギリス人の暮らし、生活をあらわすとき、「楽しむ(エンジョイ)」というのが中心にあるというのは私も実感したことである。イギリスのアマチュア・ゴルファーのアベレージはおそらく日本のそれより技術が高くはなかったと思うのだが、エンジョイする力ははるかに突き抜けていたように思う。イギリスでは、周りがエンジョイしているし、エンカレッジしてくれるから、いろんなことに、たとえ下手でも大いに楽しみながら挑戦することができた。そして、結果的に楽しむことが上達につながる何よりの近道だったようにも思う。
 エンジョイの感覚を大切にしたいと思う。この社会では、エンジョイしていると「楽」をしていると見なされ、エンジョイできなくなるまで負荷をかけられるのだが、「楽」と「楽しさ」は明らかに違う。高校時代、「楽より楽しさ」ということばをいただいた。「楽しさ」は新しいことへの挑戦とともにある。イングランド・プレミアシップへの挑戦は、中田選手に大いなる「楽しさ」を感じさせてくれたことだろう。もちろん、「楽」とは対極にある「楽しさ」を。そして、コミュニケーションが求められるメジャー・リーグ捕手への城島選手の挑戦、これもほんとうに楽しみである。




  2005/10/4(Tue) <別の道>


 

 10月になった。しかしながら一昨日の東京は真夏日、汗ばむ陽気だった。そうはいってもやっぱり10月で、昨日は秋風が吹いていた。大学も始まり、キャンパスには学生たちの姿が戻ってきた。
 大学への通勤途上で、ある職員の人と出会った。今年25年ぶりにパリに行ってきたという。そして、25年前パリに行ったとき、人々が冷たいと感じたのに、今年は人々が親切だと感じられたという話を聞いた。それから、これは、歳を重ねて、感じ方が変わったからかもしれないと話された。これに対して、あるいはもしかしたらこの25年間の間に日本社会が冷たくなったからかもしれませんねと、私は答えた。
 25年前というと1980年である。バブル経済の前、ビデオやゲーム機が人々の間に普及する前のことである。私はその頃まだ九州にいて、東京のことは全く知らないのだけれども、人々の間の関係は今とは大きく違っていたに違いない。もちろん、高度経済成長のあとで家電が家庭に入り、人々の暮らしはそれ以前とは大きく変わっていたのだが、まだ消費の単位は家族にあった。ちょうどその頃、家族みんなで電器屋に行き、ほしかった大きなラジカセを買ってもらったのを覚えている。もちろん、あのラジカセは私のものではなく、家族のものであった。
 それから、25年が経った。携帯電話を家族のものとして使っている人は少ないだろう。パソコンもまた脳の延長であるから個人で所有しないと都合が悪い。消費の単位はすっかり個人に代わってしまった。個人どころではない。複数の携帯をもっていたり、そこまではいかなくても、複数のメールアドレスをもっている人ならば、ごく普通にいるだろう。こうなると消費の単位は、個人より細分化されて、個人のなかにあるさまざまな人格あるいは役割になってしまう。
 消費の単位が細分化されるほど、消費は伸びるのだけれども、人間の成長、あるいは成熟という意味では、いろいろと難しい問題が生じる。難しい問題が生じているので、心理や教育という分野になぜか光が当たってしまう。ここでまた新たなマーケットが生まれる。心のケアなどというマーケットである。そして、おそらく国民総生産や国民所得はみかけ上、高くなるのだろうけれども、生活の質はどうなのかというと、大いなる不安が残る。
 仕事柄、中学校や高校の教科書を手に取ることも多い。学校で教わっていた頃は退屈だった教科書だが、改めて自分の関心から読み直してみると、これがなかなか面白い。たとえば、ある中学地理の教科書に「おもな国の国民所得」という図がある。これは国の大きさを国民所得によってあらわすことで、ビジュアルに世界における経済格差を表現したものである。1994年とデータは少し古いのだが、アメリカが672兆円、日本が431兆円と世界の二強になっている。3位のドイツは日本の半分以下の207兆円、そしてイギリスは106.7兆円と日本には遙かに及ばない。この教科書で日本の生活しか知らない教師から教わるならば、おそらく子どもたちは日本は世界随一の豊かな国だという印象を受けるに違いない。アメリカのほうが国民所得が多いとはいえ、アメリカは日本の2倍以上の人口を有している。
 しかしながら、イギリスでわずかながら暮らした経験からいうと、イギリスより日本のほうが豊かであるとは到底思えないのである。どんな逆立ちをしてみても、周りの人々の暮らしを見つめていると、明らかに日本のほうが貧しいのである。通勤地獄、道路渋滞、狭くて高い住宅、短い休暇、ゆとりのない生活、政治的な話ができる公共空間の欠如、批判精神のないメディア等々。もちろん、より公平であるために、車はイギリスより日本のほうが安く手に入り、外食もイギリスより日本のほうが手軽でおいしいこともつけ加えておきたい。それにしても、日本が431兆円、イギリスが106.7兆円という数字は、一体何をあらわしているのだろうか。はなはだ疑問なのである。
 生活の質をあらわす場合、「国民所得」よりも「国家・国民の消費支出」を指標にするほうがよりふさわしいかもしれない。(経済学ではこのような研究が行われているのだろうか?) つまり、「国民所得」が高くても、人々が将来への不安から貯蓄に走ったり、あるいは日々のストレスからギャンブルや薬物使用にのめり込んだりしているのであれば、豊かな国とは言えない。また「国民所得」がいくら高くても、このお金が政府に吸い上げられて、一日に一台しか車が走らないスーパー林道に変わったり、借金のための利息返済にあてられているならば、これもまた豊かな国とは言えない。これからの時代、どうお金を稼ぐかではなく、どうお金を使うかが問題のように思うのである。
 どうお金を稼ぐかは、ガムシャラにがんばればいい問題だが、どうお金を使うかは、美的センスと倫理を必要とする領域である。また未来を見つめる目も必要である。他者への配慮も必要であり、自分がいったいほんとうに何がほしいのかを省察することも必要である。学ばない人間は、上手にお金を使うことができない。諫早湾の干拓に使うお金はあっても、30人学級に使うお金がないという社会には、おそらく未来はない。天下り先の確保に使うお金はあっても、若者の雇用の確保に使うお金はないという社会にも、明日はない。消費が変われば、社会が変わる。
 同じパリの話からスタートしたのだが、今回は四角もイノセントも出てくることなく、「四角いイノセント」はどこか遠くに行ってしまった。文章というのは不思議なものである。ゴールはどこにあるか自分でもわかりはしない。失ってしまった「四角いイノセント」はキラキラ輝いてみえる。でも、いつかまた一角獣のようなイメージの「四角いイノセント」に出会う日がくることだろう。




  2005/10/3(Mon) <四角いイノセント>


 

 「四角いイノセント」というタイトルの文章を書き上げて、保存して、サーバーに送った(はず)なのに、Dailyたまのさんぽみちのページを見ても、更新されていない。送り損なったのかともう一度送ったのだが、同じく「寅さん」が一番上に出てくる。あれれれれと、パソコンの中にある元のファイルをみてみたら、みごとに「四角いイノセント」が消えている。どこか別のファイルに書き込んだのかと検索してみたのだが、どこにもない。どうも神隠しにあったようだ。残念無念。
 おそらくいつものように凡庸な文章だったのだろうけれども、消えてしまった文章はもう二度と書けない名文のように思えてくる。文章を書いていて、神隠しにあったことは、これまでも何度かあった。おそらく私が使っているエディターソフトの問題なのだろう。なかなか書けないときには、しばしば中断して保存するので、一気に神隠しにあうことはない。だが、ときたま、ごくまれに、自分の心の底からことばが湧き出てきて、保存する暇もないほど、文章がほとばしるときがある。そして、こういうときに限って、神隠しにあうのである。だから、悲しいのである。


  2005/8/29(Mon) <寅さん>


 

 夏の終わりはいつも寂しい。たとえ暑く寝苦しい夏であっても、夏が遠ざかるときは何かしらせつないものを感じる。青春がその時にはたとえ傷つくことが多かったとしても、そこから遠ざかる時せつなく懐かしく感じられるのと似ているのだろう。
 ところが、東京都葛飾区の中学校では週休二日制に伴う学力低下を補うためにほぼ1週間早く2学期がスタートしたとのこと。ただでさえ夏の終わりは後ろ髪ひかれる思いだろうに、8月から休みが差し引かれるとは何と殺生な。もし私が今、中学生だったら大人の決定を大いに呪いそうな話である。それも舞台があの寅さんの故郷の東京・葛飾だとは、何ともせちがらい世の中である。寅さんもあの世で嘆いているに違いない。
 いくら学力低下が問題といっても、知的好奇心をもてない授業をダラダラやっても学力向上につながるわけはない。夏休みには先生にもしっかりと休んでもらって、そしてときにはしっかり学んでもらって、知的好奇心を喚起するような授業をやっていただくのが一番である。しっかり休まなくてはアイディアだって生まれない。もちろん、休んでもアイディアが生まれない人だっているわけだが、それはまあしょうがない。そういう人はダラダラやってもアイディアが生まれないのだから、休んだほうがまだましというわけだ。
 さてさて、休んでもダラダラやってもアイディアが生まれない代表例のような私だが、そういう私のこの夏の楽しみは、寅さんである。NHK衛星第二で48作全部を放映してくれるというので、NHKを大いに見直しているところである。(NHKもまたこの日本の縮図であり、周辺にいくほどまともなのである。NHK総合の7時のニュースは大いにいかがわしいのであるが、衛星第一のワールドニュースはなかなか面白く、衛星第二の寅さんに至っては映画放映後の対談も見事なのである。ちなみにテレビ視聴時間1日3時間以上の人たちには、圧倒的に小泉自民党支持が多いという調査結果が出ていた。テレビの効果抜群である。自分の頭で考えたいと思ったら、テレビを捨てて街へ出よう。とテレビで寅さんにはまっている私が言っている。)
 私もかつては(夏の盛りの青春の頃は)寅さんには見向きもせず、相も変わらず山田洋次監督もあのマンネリ映画をいつまでもやっているなあと心の底で思っていたのだが、これは私のいつもの浅はかさだったということに今回、寅さんを見ながら気がついたのである。この心境の変化は、ちょうど第一作の寅さんの年齢に私が到達したということもあるが、ニュースで同年代の人々の惨めな犯罪と重ねながら、寅さん的価値観の偉大さとその消滅の悲しさを思うからでもある。ニュースとなる惨めな犯罪の向こうには、しばしば30代無職男がいる。印象では親と同居という場合も多い。私も紙一重、決して他人事は思えない。そして、寅さんはまさにこのカテゴリーにあてはまる。香具師という職とは言えないような仕事で渡世し、自分の家はなく、葛飾・柴又のおいちゃんの家に世話になっている。30男なのでそれなりのプライドはあるが、定職、結婚のあてはない。
 こうした寅さんであるが、妹のさくらをはじめとしてまわりの人々に支えられながら、何とか生きている。そして、寅さんのまわりには何か温かいものがぽっと生まれる。大の大人が暇で遊んでいるものだから、ちょうど入会地のように、どこかで誰かの役に立つ。でも入会地だから、恋が実ることはない。恋から近代家族という流れは、排他的な関係に成り立っているからだ。とにかく、寅さんの世界は風通しがいい。寅さんの服装もそうだし、おいちゃんのまんじゅうやは入口が開け放たれているし、裏にはさくらの旦那ひろしが勤める工場もある。毎回登場する家々も蚊が入るのではと心配になるぐらい外に向けて開かれている。そう言えば、昔は家の中に蚊が入るのは仕方がないこととして、蚊帳を吊って寝ていたものだった。寅さんは今の30代無職男の幼い頃の記憶でもあるのだ。
 寅さんは愉快である。この愉快は寅さん一人では生み出せない。寅さんを囲む人々がいてこそ、寅さんの愉快は生まれてくる。私は、囲む人々の衰退を今の日本にみる。私たちの社会が今求めているのは、勘違いしたリーダーシップを発揮する人やスタンドプレーの人ではない。人を囲む人々が必要なのだ。イギリスのホームパーティには、挨拶も乾杯もプログラムもなかった。ただ招く人と囲む人々がいて、そこで時間の流れるのが楽しかった。あの囲み、囲まれる関係は、幼い頃の記憶にも近いものがあった。寅さんをみていると、寅さんを囲む人々がいて、囲む人々の温かさがただみているだけで心をしんみりさせてくれる。寅さんからは人の幸せには難しいことはいらないというメッセージが流れてくる。




  2005/8/1(Mon) <松山>


 

 7月の終わりに四国の松山に出かけた。夏目漱石の『坊ちゃん』の舞台である松山には今もなお市電が走っていた。道後温泉にある正岡子規の記念館はなかなかの充実ぶりで一見の価値があった。正岡子規はベースボールをこよなく愛し、21世紀に入ってから「野球殿堂」入りも果たしている。俳句からジャーナリズムまで幅広い関心をもち、病魔におかされながらも、病と正面から向き合って生きた正岡子規が亡くなったのは35歳のことである。中年期をもたない文人は多い。
 正岡子規が松山から上京した時には、その行程のほとんどが海路であった。横浜から新橋までは鉄道。どのくらいの日数を要したのであろうか。今では、東京の羽田空港から松山空港まで1時間20分のフライト、あっという間である。少しばかり本を読み、ウトウトしているともう着いている。
 ほぼ20年前に上京したとき、飛行機はまだまだお金持ちの乗り物であった。空港に行くと何だかリッチな気持ちになったものだ。東京モノレールに乗っている人々の層も今とは随分違っていたような気がする。空港に直結しているモノレールはほかの電車とは違い、非日常の乗り物のように感じられた。ボックス席の非日常な車内空間、モノレールの高い視点から見渡す東京の風景は、ほかの場所からみる風景とは違って見えた。
 今では、モノレールにも通勤電車と同じ長いシートの車両が導入され、沿線にはビルが建ち並び、乗客の層も様変わりしている。沿線の会社の面接に向かう就職活動の若者もいれば、場をわきまえない騒がしい高校生たちもいる。ここでもまた日常が非日常を覆いつぶすという、大衆消費社会のグローバル化が進展している。
 モノレールもさることながら、飛行機に乗る人たちの層も変わってきている。今は格安航空券やホテルとセットになった格安チケットが出回っていて、多くの場合、移動の手段としては飛行機が最も安価である。空港や飛行機から「憧れ」は急速に失われつつある。大衆消費社会は「憧れ」を善意の下に奪い去っていく。
 明治の文人たちの精力的な活動を支えたものは情報が限られているがゆえの圧倒的な「憧れ」と、その「憧れ」と「現実」とのギャップではなかっただろうか。今は、スペースシャトルにさえ、宇宙への夢という「憧れ」よりも「ノルマ」と「メンツ」があからさまに見える時代である。「憧れ」は与えてもらうものではなくて、育てていくものと思いながら、松山から帰路に着いた。