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![]() ・主人公はアル中でギャンブル好きのダメジジイだが、かつては将来を嘱望されて映画監督になるはずだった。借金取りに追われ妻や娘に愛想つかされる現在と、若い頃に撮影現場で働く姿が代わり番こに描かれる。映画が全盛だった半世紀前の昭和の時代と現在との対比である。 ・その時代には、小さな町にも映画館があって、多くの観客でにぎわっていた。しかし今は、映画館で見ようと思えば、大きな町のシネコンに出かけなければならない。その代わりに、家でいつでも見たい時に見たい映画が見られるようになった。この映画には今となっては懐かしい小さな映画館が登場する。若い頃に映写技師をしていた主役の友達が経営しているが、コロナ禍もあって閉館に追い込まれている。 ・監督の山田洋次は、この作品に映画はやっぱり映画館で見るべきだと言おうとしたのかも知れない。それがコロナ禍と重なって、映画館の危機という切実な訴えのように聞こえてきた。僕はこの映画をAmazonで家のパソコンで見た。今では映画館も普通に開館されているが、コロナ禍になってから一度も映画館にはいっていないし、当分は出かけることもないだろうと思う。その意味では何とも皮肉といえるかもしれない。 ・「キネマの神様」という題名は主人公が監督第一作として撮るはずだった映画の題名である。映画館に足しげく通って同じ映画を何度も見る主人公に気づいた映画の主人公が、スクリーンから客席に呼びかけて飛び出してくるといった話だった。そのシナリオに共感した孫が、映画のシナリオを公募する木戸賞(実際には城戸賞)に応募するために主人公の爺さんと書き直しをして、見事受賞することになる。 ・スクリーンから登場人物が客席に飛びだすというのはウッディ・アレンの『カイロの紫のバラ』のモチーフである。映画や演劇は、それを見せるために作られるが、演じられる世界と見る世界はまったく別の世界として考えられている。二つの世界の間にコミュニケーションは起こらないのが大前提だが、ウッディ・アレンは映画の中でしばしば、その掟を破って観客を当惑させた。 ・山田洋次もそのことを当然知っているだろうと思う。知っていてなぜ使ったのか。映画のラストは、主人公がかつて自分が助監督をした映画を、映画館で見ながら死ぬという場面になっている。スクリーンから主演の女優が飛び出してきて、一緒に行こうと言われてついていくのである。このシーンを撮るところから思いついたのかなどと、勝手に思ったりもした。ちなみにこの映画には原作があるが、その物語は映画とはまったく違うものである。 |
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