卒論集

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卒論集『意外とイイ』紹介
感想、寸評、愚痴、御礼


2001年3月3日

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「アメリカの死刑制度」井原通仁
「アメリカの対抗文化の始まりとビートニクについて」木倉正美
「現代日本の『化粧』」佐々木理恵
「吉本ばなな論〜克服から成長へ〜」丸田幸一
「読売巨人軍を暴け〜さようなら巨人軍〜」堀舞里子
「外国映画、字幕で見るか、吹き替えで見るか」岡澤好江
「ウェールズ音楽論」楠見学
「変わりゆく人間関係」徳井一仁
「『三国志』と日本における人気の秘密」石見大介
「メディアに見る少年法・少年犯罪とその危うさ」椚正嘉
「メディアが作る日本人イメージ」星典子
「ポピュラー音楽におけるメディアの役割」角知洋
「新宿の時代〜60,70年代日本のユースカルチャー〜」平本芙美
「リカちゃん人形から見る日本の社会」島田理沙
「ガゼルパンチ」井上理恵
「地上波デジタル放送」坂巻哲也
「社会における笑いの効用〜お笑い論〜」間野杏梨
「クラシック論−歴史と現代コンサートホール−」松本容子
「グリム童話について 3つの時代背景と子供に与える影響」村上理恵
東経大に移籍して最初の卒論集です。といって、追手門学院大学で出した『林檎白書』のようにゼミの卒論集として継続する予定のものではありません。したがって『意外とイイ』という名前も今回限りのものです。
『林檎白書』はマックを使った100%手作りの論集で、パソコンを使った印刷、つまりDTPの歴史そのもののような作品でした。パソコンの進展にあわせて、10年近く面白がって作ってきましたが、大学が変わって、必要な機材がそろわなくなりました。整えるには数年かかりますし、ぼくも多少くたびれました。そんなわけで卒論集は出さないつもりだったのですが、ゼミの活動補助費を申請したら認められてしまって、急遽出版ということになったわけです。版下だけ作って後は生協に印刷と製本をお任せですから、今までとは違ってきれいな体裁になりました。
意外とイイ』という名前は苦肉の策です。学生たちに名前を考えるように言っておいたのですが、さっぱりイイのが出てこない。編集の手伝いをしてもらった岡澤さんと堀さんと名前の話をしたときに、「結局このゼミはどんなゼミだったの?」と聞いたところ、岡澤さんが「意外といい人たち」とぽつりと言いました。で「意外とイイ? あ、それで行こう」ということに決めました。安直な名づけですが、なかなか含蓄のあるタイトルでもあります。
「意外とイイ」人たち、意外とイイゼミ生、意外とイイ教師、意外とイイ関係、意外とイイ大学生活、意外とイイ卒論。もちろんいいことばかりではありません。意外とイイ加減、意外とイイ格好しい、意外とイイなり、意外とイイ気、意外とイイ子ぶりっ子………。

それはともかく、内容についてもふれなければなりません。東経大の卒論は規定では20000字ということになっています。追手門では12000字でしたから、6割増し。これはかなりきついハードルでした。経験から言って、長い文章を書き慣れない学生には10000字でも難しいと思っていましたから、早くからたくさん書くことには注意をしてきました。しかし、どうしても水増しの内容になってしまう。それでも、とにかく20000字の見通しがつくまでは、むやみに削ってしまうこともできません。「今、何字?」。これが口癖になってしまいました。で、20000字が見えてきたところで、やおら、刀を抜き出していらないところをばっさり切り捨てる。今年はこの快感を味わう機会が少なかったように思います。徹夜で書いてきたものを、「ここいらない」と言われたときの学生の蒼白の顔。意地悪な教師にとってはたまらない瞬間なのです。
学生の卒論にはいくつかのパターンがありますが、今年は特にそれが目立ちました。まず苦しいときの歴史頼み。これはとにかく量というハードルをクリアするためには、一番手っ取り早い方法です。テーマは現代の話でも、ずっと歴史をさかのぼって長々と書き連ねる。肝心の部分は最後にちょっと、ということになりますから、当然、テーマが何だったのか、わからなくなります。
同様の量稼ぎは、他に法律、制度などの説明、あるいはキーワードの定義など、さまざまなところで見られました。もちろん、それらは必要なものではありますが、テーマに直接関係ない部分が多く混じってくると、かえってないほうがいいということになってしまいます。
もう一つは、丸写し。これは引用の仕方がわからないことにも原因があります。まるで自分で考えた、調べたかのように他人の文章を拝借する。そのことを指摘されるまで、ルール違反だとは思わない。原因はたぶん、教師の側にもあるのだと思います。実際、学生たちは4年間に同様のスタイルでいくつものレポートを書いてきて、ほとんど文句を言われてこなかったのですから。
他人の考えたこと、調べたことは「引用」であることをはっきりわかるようにして、しかもそれが誰の書いたもので、何年にどこから出た何という本か、あるいは雑誌かを「注」にすること。そんな説明は、自分が書いたもので指摘されてはじめて理解できるもののようでした。「『注』ってそういうことのためにあるんですか?今までじゃまくさいだけで、何のためにあるのかわかりませんでした。」こんなことばが卒業間際になって学生の口から出るのは、はっきり言って教師の怠慢のように思いました。

批判ばかりでは学生が怒りますから、ほめることもしなければなりません。論文の評価は、一つはオリジナリティですが、自分なりの関心と視点もって書いたものは少なくありません。

この卒論集は予算の関係で、一人15000字までに絞り込みました。学生たちには提出後にもう一回、字数を減らすための推敲の作業をやってもらったわけですが、その分、提出されたものよりはどれも、スマートになったと思います。量が多ければいい、というものではありません。

みなさん、ご苦労様でした。


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