多摩の散歩道    《1997/7/25発行 つくし出版》
  −ひとつの森の物語−  その4 実践という営み



 おひさしぶりです。たまのさんぽみちにようこそ。九州の大雨もようやく上がり、今年も夏がやってきました。今年は梅雨明けよりも、梅雨の合間の猛暑がすさまじかったです。6月のとある日、私は教育実習の指導のため、深谷商業高校に出かけましたが、その日の熊谷(深谷の隣)の最高気温は約40℃。こんな燃え立つような日に、埼玉の内陸の一等暑いところに、背広を着て行かなくてはならないなんて、えらく情けない思いを経験しました。その一週間前には、教育実習の研究授業が台風のために中止になるなど、普段の6月にはあり得ないような珍事に遭遇いたしました。地球もいよいよ狂ってきたようです。
 さて、前回のたまのさんぽみちでは、はじめての授業を掲載しました。光陰矢の如しというか、大学は年中休みというか、あれから2ヶ月でもう半期の授業が終了してしまいました。こう書くと簡単ですが、この3ヶ月はなかなかの悩みの連続でした。授業が終わって心地よい眠りにつけた日はほとんどなく、私に一体教えるべき何かがあるのだろうかと、眠れない夜を何度も経験しました。大学からの帰路、武蔵野線のホームに立ち、過ぎ去った授業のなかで、何一つ意味あることをできなかったという絶望感にさいまなれ、苦しい思いに引きずりこまれた日々を思い起こします。どうにか夏休みまで生き延びましたが、秋にはまた格闘の日々が待ち受けていると思うと、何ともいえないような心持ちです。
 教えるという営みは、怖ろしい営みで、自分自身の中にある弱さや矛盾を否応なく突きつけられるものです。「最近の学生は学ぶ意欲がない」とか、そういう言説に安易に便乗していれば、自分自身の抱える問題から目を背けることはできますが、そういう言説を拒絶しようという構えをもつ人々は、教えることの恐ろしさを身をもって体験していることだと思います。学生たちは、ただ一律に学ぶ意欲がないわけではありません。こちらが真剣に何かに向き合い、何か確かなものを提出すると、鋭く反応してきます。これに対して、借り物の知識や枠組みでお茶を濁そうとすると、潮が引くように、心が教師から離れていきます。これは、学生と対話的に授業を行うことを試みる教師にとって、身に沁みるつらさです。このつらさに耐えられないから、年輩の教師のなかのある人たちは、学生との対話を拒絶するようなあり方に堕ちていくのではないかと、私は思いました。
 私と学生とで創り上げる授業の雰囲気は、私の意識で制御できるものというよりも、私の無意識が学生たちの無意識とつながりつつ、生み出されていくものではないかと感じます。したがって、私が「よし、今日はうまくいくに違いない」と思っていると、そこで生まれる隙が学生たちの無意識をすり抜けてしまい、独り善がりな授業になってしまいます。独り善がりな授業は、私にとっても、居心地の悪い、やるせないような授業ですから、一週間、この後味の悪さは尾を引きます。そして、毎日うじうじと自分の授業について悩み、「ああ、もうダメだ。おれのようなやつには教師は務まらないに違いない。今度もダメだったら、田舎に帰って百姓の修業を始めよう」と思って、次の授業に悲壮な覚悟で臨みます。すると、決まって学生たちの反応はよく、そこでは何か学ぶところがあるような授業が生み出されます。思うに、こちらが悩まない状態のとき、多くのことがらが見落とされているのでしょう。そして、こちらが悩めば悩むほど、学生たちの居心地を良くする何らかの気が、教室に漂うのでしょう。
 もちろん、経験を積んだ教師たちは、すでに悩みと葛藤を通して身体化された技を修得していますから、新任の教師ほどには、生々しい悩みを必要としないのかもしれません。しかし、今、時代の転換期にあるこの社会のなかで、新任の教師に限らず、経験豊富な教師たちにも、これまでかつて誰も経験したことのない教育上の困難がふりかかっています。このことは、新任の私が現在味わっているのと同じ種類の労苦を、ベテランの教師たちもまた日々受けとめてなくてはならないということを意味しています。いえいえ、小、中、高の教師たちの労苦の重さは、大学で教えている私とは、較べものにならないでしょう。教育について何か語るときには、教師たちが逃れることができない業を背負っているということを忘れてはならないように思います。
 私がこの悩みのなかで到達した一つの暫定的な答えは、今私が悩んでいることがわをきちんと対象化して、学生たちの前にさらすしかないということでした。教師であることの苦しさをお互いに共有すること、これが「教育方法」を学ぶ上での最も大切なテーマではないかと考えるに至りました。教師がどのような思いをもって授業に臨み、授業のなかでどのような経験をし、どのようにものごとを感じ、どのような悩みをもつのかを、語ること、きちんと対象化して、語ること。ここからしか私の授業は出発できないような気がしています。
 この3ヶ月間、学生たちとよく話をしました。授業のあとの立ち話や、研究室を訪ねてくる学生との議論、食事やコンパでの雑談、等々。まずは学び手が何を考え、何を迷い、何に悩み、何を求めているのかを知ること、これが私の1年目の大きな課題ではないかと思っています。学生とのかかわりのなかで、私の独断でありますが、一つの真理を見出しました。それは<教師が暇であるということが最高の教育環境である>というテーゼです。教育改革の議論が声高に叫ばれていますが、このテーゼを無視した教育改革は破綻するしかないでしょう。学生とかかわることにおいては、いつまでも暇でありたいと、そう願っています。しかし、学ぶに忙しく、かかわるに暇であるためには、日々、自分とシステムと闘わなくてはなりません。たまのさんぽみちでは、「耳をすます」から「待つ」という穏やかなテーマを掲げてきましたが、今やこれらのテーマとともに「闘う」というテーマが遡上してきたようです。これからいよいよ真価が問われるはずです。