多摩の散歩道 《1997/5/25発行 つくし出版》
−ひとつの森の物語− その3 はじめての授業
こんにちは、たまのさんぽみちです。新緑があざやかな季節になりました。今朝から雨が降っていますが、雨にしっとりと濡れた庭の木々の若葉はとてもうれしそうです。生き生きしている姿が伝わってきます。清瀬の庭にやってきて1年ほどの<やまもも>と<はなみづき>ですが、もうすっかりなじんでくれたようです。最古参の<ぐみ>は、2年間で、やってきたときの2倍の背丈になり、誇らしげに伸びています。ところで、これを書いているわたしは1年生、はりきりすぎて少しばかりからだをこわしてしまいました。庭に植えた木は、しばらくは新しい土になじむのに一生懸命で、土との一体感を確かめてから、伸びていきます。わたしも、もう少しおとなしくしていればよかったなと思いつつも、昔からこういう性格だったから仕方がないとあきらめつつ、これをいい機会として、リラックスして、歩んでいこうと思っています。はじめから、そんなにすごいことができるわけないですよね。
大学で学生さんたちを相手に講義やゼミをするようになってちょうど一ヶ月がたちました。この一ヶ月の間、いろんなことがありました。とくにわたしは、大学の専門課程から大学院を修了したこの3月までの9年間、同じ建物、同じ研究室にずっといて、出会う人たちもかぎられていましたので、この一ヶ月は、新たな発見と驚きと反省の連続でした。最終的には、この期間、200人ぐらいの人といっぺんに会って、目が廻ってしまいました。
それにしても、最初の講義というのは緊張するものですね。一生で一遍しかない最初の講義では、別の部屋のマイクをもっていき、コンセントと合わないわ、チョーク入れを落として、割れたチョークが散乱するわで、たいへん情けない思いをしましたが、肉声をふりしぼり、四ヶ月間考え抜いた自己紹介の挨拶をして、何とか長い長い一日が終わりました。わたしの第一日目を一緒に緊張してくださった方々や、これまで貴重な経験をわたしにわかちあってくださった方々など、この一日がなんとおおぜいの方々によって支えられていたのだろうかと、いま思います。
昨日までに講義とゼミを4回ずつもちました。今でも、教室に向かうときには、一体どういう顔をして学生さんたちが待っているのだろうかと、ハラハラドキドキしています。それでも、緊張と後悔と反省に埋め尽くされた1、2回目の講義とくらべると、3回目からは、学び手の学びのリズムをからだで感じとるゆとりが、ほんの少しですが生まれてきたように思います。3回目の講義のとき、教室に入って、「ああ、この教室はこんなに狭かったのか」と感じましたから。1回目の講義のときは、うしろの壁がはるかかなたにあるような巨大な教室に思えたものです。まだまだ立って話をしないと、学生さんたちに届かない感がありますが、これからは椅子にすわりながら、学び手に届く講義を創りあげることを一つの課題としています。
授業はやはり緊張しますが、授業が終わって、個別に学生が集まり、ゆったりとお話しするのが至福のときです。昨日は、川田龍平くんがやってきて、将来のことや教育学のことなど、いろいろと雑談をしました。奇しくも最初の学生として、有名人をもつことになりましたが、高校教師をめざす一人の学生として、かれを励ましつつ、わたしもともに学んでいきたいと思っています。
さて、前回の《たまのさんぽみち》で課題としたことがこの二ヶ月でどのくらい実現したでしょうか?一つは「みみをすます」ことでした。一ヶ月の間、学生さんたちとふれて、そこに「みみをすます」価値のある経験と思いが確かにあることに気づきました。ですから、あとは、わたしがゆったりとした時間を生き、学生さんたちとともに濃い空間を創りだし、語られる何かを「待つ」ことができるかどうかにかかっています。次の二ヶ月の課題は「待つ」ことです。アクティブに「待つ」。もう一つは「小さな森のような研究室」を創ることでした。一ヶ月で十数名の人が研究室を訪ねてくれましたが、まだまだ「森」とは到底言えなかったのではないでしょうか。今日は、久しぶりに一日清瀬にいて、清瀬の自宅で《たまのさんぽみち》を綴っています。この清瀬の古ぼけた住まいには、いやしのちからが満ちているように思います。おそらく、わたしのからだのリズムと、この時代錯誤の空間が合っているのでしょう。ここに一日いると力がみなぎってきます。だけど、研究室には、まだまだそのちからはないようです。研究室を森の囲炉裏のような物語の空間に変えていくこと、これが今後の大きな課題です。だいたい寒山拾得の掛け軸の掛かった研究室で過労になるとは、寒山拾得に呵呵呵と笑われてしまいます。
それにしても、学生さんたちは、あなどるべからずです。表現は稚拙であっても、こちらの弱いところ、曖昧なところにきちんと反応してきます。わたしも、つらいところですが、その反応から逃げることなく、自らの思索と成長の契機として捉えなおしていきたいと、考えています。でも、やっぱりつらいですが。
一喜一憂の毎日ですが、一喜一憂の積み重ねが、わたしの経験をかたどるのだと思い、なんとか生き延びています。最後の二段落は、西向きの研究室で書いています。夜の帷がすっかり降りました。それでは、また、お元気で。