多摩の散歩道      《1997/3/25発行 つくし出版》
  −ひとつの森の物語− その2 コムフィリア(共同体への愛)



 こんにちは、お元気ですか? 前号では、「トポリア」というテーマを掲げて、お話をしましたが、これは「トポフィリア(場所への愛)」の間違いでした。相変わらず、横文字とカタカナに弱くて、申し訳ありませんでした。学校のレポートに引用してくれたという、秩父のゆうちゃん、ごめんなさいね。
 さて、今月、嬉しかったことは、長い間、ともに学んだ大学院の友だちから送別会を開いてもらったことです。7年間、大学院に在籍していましたが、ほんとうに力があり、かつ魅力的な仲間に囲まれて、日々研究生活を営んでこれたことに、心より感謝しています。大学院の友だちから一言ずつはなむけのことばをいただきましたが、みんなから支えてもらったことの大きさに対して、自分がいかにわずかなことしかできていなかったかを痛感し、恥じ入る思いでした。ただ、このような仲間とともに、20代を生きてゆけたことは、わたしにとって宝だと思います。みんなに書いてもらった色紙は、一生の宝であり、これを座右の銘として、日々研究室で向き合っていきたいです。敬愛する仲間の視線、存在とともに生きることによって、リラックスしつつも、しゃきっと背筋を伸ばして日々を送りたいという決意を新たにしています。
 思うに、研究も、一人で格闘しているように見えても、決して一人ではできないものであり、同じ志をもつ仲間の存在があってこそ、やっていけるものです。人間同士は、人と人との関係の網の目のなかで深く絡み合っていて、その網が何らかのアクシデントで切れるようなことがあると、生きていくための平衡感覚を失うことさえあります。支え合うものなくしては、生きていけない自分のことを思うと、仲間のありがたさをひしひしと感じずにはいられないのです。こうして、今回のテーマは、「コムフィリア(共同体への愛)」となりました。トポフィリアということばが気に入ったので、Community(共同体)とphilia(…を愛するという意の語尾)をくっつけて、Comphiliaという造語を創ったわけです。さて、4月からの新しい仕事の場では、どのような共同体を編み出していけるのでしょうか。それは、これからの愉しみです。確かな軸に向かいつつ、異質な人たちを包み込めるようなおおらかな共同体を編み出していくことが、いまの願いです。
 しかしながら、ことばの上では、異質な人たちとの共存はしごく簡単なのですが、現実に共存していくことはたいへん難しいことです。それでも、難しいから最初から諦めるというのではなく、自分にできる範囲で、理解の枠を拡げていくことが大切なのではないかと、これまたしごく当たり前のことを考えています。このための身体化された技として、他者の語りに耳をすますことを、身につけていかなくてはと、痛切に感じています。谷川俊太郎の「みみをすます」*1という詩は、わたしの課題と重なり合って、心に響いてきます。

 「みみをすます/ いつから/ つづいてきたともしれぬ/ ひとびとの/  あしおとに/ みみをすます」(一部・抜粋)

 「みみをすます」ことからしか、わたしの旅は始まらないような気がします。ですから、「みみをすます」身体と、「みみをすます」空間を創り上げていきたいのです。「みみをすます」ことのできる社会は、他者に寛容なすみよい社会であるように思います。そして、「みみをすます」社会は、「みみをすます」身体同士のつながりからしか生まれてこないように思うのです。
 そういえば、北海道の森のおじじさんは、東京の電車のなかで、みみをすまして音を聞き分けようと思ったら、あまりにもたくさんの音が無秩序に入ってくるので、聞き分けることはできなかったと、語っていました。街にあまりにもたくさんの音が錯綜しているから、都会の人々は耳を閉ざすようになるのでしょう。街だけではありません。田舎にも「みみをすます」ことを妨げる雑音はあふれています。情報や本、メディアが氾濫する社会のなかで、わたしたちの「みみ」はどんどん澱みを深めているやもしれないと、ふと思うことがあります。「みみをすます」身体を求め、生きていくことは、ほんとうに意味のある知恵に到達するための一歩を踏み出すことになるのではないかと、いま、感じ始めています。先日、家の近くの雑木林を散歩しつつ、そこで佇み、森の時間を深く呼吸してきました。森には再生のいのちが宿っています。わたしもまた、新しい仕事の場には、小さな森のような研究室を創りたいと思っています。遊びにきて下さい。西向きの部屋に決まりました。