<生徒指導論アンケート(8)>
第八回:テーマ【北村年子さん:自分のからだに耳をすます】
北村年子さんのワークについての感想
(はじめに)
先週のワークは、自分のからだの声にみみをすますトレーニングだったように思います。皆さん一人ひとりのからだの声、「がんばれ」というメッセージにドキドキしたり、「もういいよ」というメッセージに涙があふれたり、どちらのメッセージにも反発したり、多様だったけれども、共通していたことは一人ひとりが大切な自分をもっていて、自分の存在を受けいれられたいという願いをもっていることでした。自分のからだの声に耳をすまし、他者のからだの声をききわけていくこと、楽しくもつらい遠い道のりです。
「最初のメッセージを聞いて、母を思い出し、いらだちを感じた。2つ目のメッセージで自分が今まさに求めているものだったから、落ち着くというよりむしろ胸が高鳴った。お話を聞いていて、いろいろ考えた。私自身も今自己否定の中にいるからだ。こんなに辛く、恐ろしいことはない。どうすればそこから抜け出せるか、今日のお話で分かったが、こんなに簡単で難しいことはない。自分を真っ白にして、あるがままを受け入れる。今の私は、自分自身を受け入れ切れていない。難しい。」(Qさん)
「いじめる側、いじめられる側の両方に自尊心の薄弱がある。自己否定が強い人間が多いと言われ、私は一瞬自分の事を言われているかの様にドキッとしました。リラクゼーションの時も自分の長所を見つけられなくて、悪い所ばかりしか思いつかなくて苦労しました。根本的に自尊心を持っている人は何事にも不安、心配を覚えず、いじめとは違うじげんに立っていると思いました。」(Wさん)
「今日はリラックスして講義を受けることができました。最後のほうでやった一つめの話と二つめの話のことだけど、一つめの話は自分に改めてやらなければという決意をよみがえらせたのに、聞いているうちにそういう自分は頑張ってんのという気分にさせられた。二つめの話は自分にまだまだやれるという気持ちにさせたことと、やっぱりだるくなったら頑張らんでいいかなと思わせた。僕は意志が強くないので、いままで楽して生きてきました。自分が嫌になることもよくありました。これからは自分を好きになれるようになりたいです。」(Gさん)
「今日のリラクゼーションで感じていたのは、ある本で読んだ、苦しんでいる時こそ、もがいてあがいてサヴァイブするという言葉のことでした。本を読んだ時には、ただかっこいい言葉だなあとしか思えなかったけど、今日の授業の中のやめていいよという声を聞いたとき、安心して、涙がこみあげてきたけど、そこで本当にやめたら、自分の存在がなくなってしまう気がした。だからこそ、現実から逃げずに、もがいて、あがいて、生き残っていかなくてはと感じ、この言葉をなんとなく理解できた気がした。」(Kさん)
「なんだか体の力が抜けて気持ち良かった。2つの質問では、今一つ悩みがあって、前言葉はそわそわした気持ちになり、心臓がバクバクしだした。後言葉は体になにかが走り、涙が出そうになった。僕が今、持っている悩みもなんだか、少し楽に考えられるようになった。今日の授業は、授業というよりもなんだか言葉に言えないが、とても良かった。授業中、弱者は自分の中にもひそんでいると思った。」(Hさん)
「とてもリラックスできた。あまり気持ちがよかったので、最後の方はねてしまった。ぼくは肩の力をぬいて楽しく生きていきたい。いろいろつらいこともあると思うが、いつかは笑い話になると思うので、お気らくに生活します。」(Oさん)
「本日の講義の最後のリラックスタイムというべきところで、私は本当に体の力が全て抜けた感触であった。2つ目の言葉「もういいよ」などについては、まるで一生を満足して終わり、まさに臨終の時を迎えている気分であった。このリラックスしている最中、それまで不満に思えたことが一気に解消した、そのような気持であった。」(Jさん)
「今日は、講義の前半で、大阪のホームレスの人の襲撃事件についてお話いただいたが、この被害者の人のことを考えるのはあたりまえだが、加害者のことについて考えることも大切だと感じた。世間では、やった方が悪いと簡単に一言で言ってしまうが、きちんとその中身を知らずに、意見してしまうのはどうなのかと思った。」(Lさん)
「リラックスの事を行ったが、うまく言えないけれども、非常に心がすーっとした。目をつぶって静かにまるで心の中に訴えてくる言葉で、自分のあり方みたいなものが変わった様な気がした。自分がつらいことがあったり、または悲しい事があったりしたけれども、リラックスによってこの様な事も、悲しいとか、つらいとかの考えではなく、違った考え方もできるような気分になった。」(Dさん)
「ぼくが感じたことは、初めの言葉にはすぐ悲しくなり、涙が出そうな感じがして、そのうちもう言わないでくれという気持ちがあるような気がした。2番目の言葉にはなぜか笑顔のようなものがでそうになっていた。そしてもういいよなどの言葉に「ああ、こんなこと言われた事ないなあ」と思い、自分の触れたことのない気持ちというか、感情にふれたような気がしました。」(Pさん)
「リラクゼーションの間、“こういうの苦手だから、早く終わってほしい”と思っていて、他のこととか考えていたのに、2つめのメッセージを聞いたら、うるうるきてしまって不思議だった。1つ目ははじめ、そうだ、がんばらなきゃと思ったけど、サイゴ、すごい反発を覚えた。不思議でした。メッセージで泣くのなんて、私って、変だと思ったけど、他にもいて、「やっぱり、みんながんばっているんだなあ」と思った。」(Cさん)
「目をつむっている時、北村さんが「がんばりなよ、みんながんばっているんだから」ということを言った時、私はあせってしまい、どうしようどうしようと心の中でウロウロしてしまった。あまり親からこういうことを言われたことがなかったから、うろたえてしまった。次に「がんばらなくてもいいよ」と言われた時は、「そんなこと言っても、なんかがんばらなきゃ」と思った。」(Iさん)
「自分がいつも心にとめていることは、つらいことがあってももっとつらく苦しい人がいて、自分のつらさや苦しさは大したことがないんだと思っている。そう思うことで、つらかったり、苦しかったりした時をのりこえている。でも、『もう無理しなくていいよ』『もう我マンしなくていいよ』と言われた時、ふと『ああ』もう無理しなくていいのか、もう我まんしなくていいのかという気持ちがして、ふとかたの荷がおりて軽くなって、すっきりした気持ちになった。」(Rさん)
「1つ目のメッセージを聞いた時は共感し、そうだ、よしがんばらなくっちゃと思い、強く感じるものがあった。2つ目のメッセージを聞いた時は、何がいいよなんだ、何がいいなんだ、ここまでがんばった、なんて。人間ここでいいなんて所なんかないんだから、ここまでがんばったという所で“いいよ”なんておかしいと反発を感じた。今、やろうとしている事をあきらめてしまいそうな感じをうけた。」(Mさん)
「今まで自分が見えなかったものが見えた気持ちになりました。そして、今の状態に満足し続けていましたが、もっと頑張らねばと思うようになりました。青い空を想像したとき、自分の故郷が思い出されました。そして幼い頃の自分に帰れました。」(Uさん)
「最後に言った2つの言葉ははっきり言ってうざかった。人にこうしろとか言われるのは一番きらいなことだからだ。自分のことを思っていっていたとしてもうざったい。」(Fさん)
「二つのメッセージについて、僕は一つめには、『言われなくてもやる』という考えが浮かび、二つめには『まだやれる』という考えが浮かんだ。両方のメッセージに否定的だったと思います。」(Tさん)
「1つめのメッセージに対しては『うるさい!自分には自分のやり方がある。いちいち言うな』と受験勉強していることの父と母の言葉とその時の自分の心境を思い出した。2つめのメッセージに対しては『何がもういいの?満足しているか、してないか、一番わかってるのは自分だし、これでいいと思うのも自分だ。何を言うとんねん』と、いつも思っていることを再認識した。」(Gさん)