<生徒指導論アンケート(6)>


第六回:テーマ【いじめ・いじめられ体験】



 1、前回のレポートについて

 学生の皆さんに、自分なりのいじめの定義と、自らのいじめ・いじめられ体験について語ってもらいました。

 (1) いじめの定義について

 「心がひく風邪(けっこう身近でバカにできない。程度も症状も様々でそれにあったケアをしないと大病になる。心の場合は体の場合より複雑で深刻)」

 「自分にされれば、いやな事や、不快なことを、他者に対して、他者の気持ちや立場を知る知らないに関係なく、へい気で、1個人、または多人数で、人としての最低の行為をすること。」

 「ある人が外または内面から肉体的、精神的又は社会的に損害を被ること。単なる暴力やいやがらせと違い、被害者が正当化されないことが多い。学校現場で特に表現され、人間としての関係を利用して、陰湿なものが多く、加害者も、被害者的要素を持つ。」

 「自分(いじめる側)に対してのいら立ち(コンプレックスなど)の表面化」

 「心が弱い人がさらに弱い人(心に限らず)にやつあたりして現実から逃避すること。また表面的にでも弱い人をつくれば、自分が安心できるという心理に基づくもの。」

 「特定の人に理にかなわない理由で、暴力をしたり、いやがらせをして、精神的に追い込んでいくこと。」

 「人格の無視」

 「いじめとはいじめている側がいじめていると思っていなくても、いじめられている側がいじめられていると思った時点で、いじめというものが成り立ってしまうもの。」

 「一生消せない(忘れない)記憶」

 「個人あるいは小人数の人達に対して、集団、あるいは小集団で行なう差別」

 「複数の人数で1人に的をしぼり、命令や暴力を加える事だが、複数の方は遊び心で行っていて、いじめている気はないが、その被害者の方は、ストレスなどがたまるが、文句を言う事ができない状態でいじめが成立していると思う。」

 「まわりにながされてやってしまう」

 「自分はいつでも加害者にもなり、被害者にもなりえること。」

 「理由の有無にも関わらず、一方が相手の心身を痛めつけること。」

 (2) いじめ体験について

   <大学生へのアンケートの結果(総数43名)>

  (a) あなたは、過去に人をいじめたことがありますか。

     1 はい  21名   2 いいえ  17名   ?  5名

  (b) あなたは、過去に人からいじめられたことがありますか。

     1 はい  17名   2 いいえ  24名   ?  2名

  (内訳)  いじめる側もいじめられる側も経験した人    12名
        いじめる側もいじめられる側も経験しなかった人 12名
        いじめられる側のみ経験した人          9名
        いじめる側のみ経験した人            5名
        いじめたかもしれないが、いじめられなかった人  3名
        どちらも?な人                 2名

   <いくつかのレポートを紹介します>

 「私は自分がいじめられていた時、『なんでなんだろう?』と、いつも頭の中でくり返し考えていました。いじめてる人達は、きちんとした理由なんてないだろうし、“何となく気に入らない”程度の事なのかもしれない。でもそれが何で私なのか…。そして、“ブスだから”という答えを出しました。それからは“私はブスなんだ”と思い込み、下を向いている事が多くなりました。昨日、TVで心療内科を舞台にしたドラマをやっていました。その中に醜形恐怖症の女の人が出てきたのですが、その原因の大本は中学時代のいじめでした。その女の人も自分はブスだからいじめられるんだと思い込み、上手くいかない事を全て自分が醜いせいだと思うようになったのです。それを見て、ドキッとしました。そして、今日配られたプリントの中に、“『いじめられる方も悪い』という認識はピントがずれている”とあったのを見て、私は自分で自分の事をいじめていた事に気づき、胸が痛くなりました。完璧な人間(大人)なんていないのに、欠点のない子どもなんているわけがないのです。いじめの原因をいじめられる方に求める事は愚かな事なのだと思いました。そして、いじめに関わった全ての被害者の心のトゲをわかってあげる事が大切なのではないかと思います。」

 「僕も小学校3年の頃に人をいじめた経験と中学2年の時にいじめに近いからかわれつづけた経験があります。小学校の時のいじめた経験は今も記憶に鮮明に残っていて、自分がやってしまった事に関して、今も罪の意識は消えないですし、その結果、中2の時は今度は自分がいじめられる側になったとさえ思います。当時、中2の時も、小学校の時、自分がいじめた事を考えていました。クラスの男、半分の人達から、いやなあだ名で呼ばれたり、自分が学校を休んだ日に美術のスケッチブックの紙が数枚盗まれたり、自分の机の上全面にマジックで落書きされ、中2の終業式近くまで担任も交換してくれなかったことです。何よりも自分がいじめられていることを認めたくなかったし、同じクラスの仲のよい友人に『1度怒って、けんかしちゃえ』と言われても、当時まじめでさわやかと印象だった、猫かぶりの自分の殻を破ることがとうとうできずに、中3になり、クラスが変わって、そのいじめは終わりました。
 僕が思うに、今日の講義でも学んだように、中学時代は学校の中でもクラス、クラスの中でも自分の所属しているグループが1つの生活形態で、特に部活動をしていなく、そのクラスしか友人がいない人となると、学校が終わっても、遊び相手がそのグループ中心だったりする。これは小学校、高校でも1部そうだと思いますが、そんな中でグループ内でいじめが始まったら、いじめられっ子は逃げ場がなくなるのは当然である。思春期の時期と重なる中学校にいじめが多いのは納得できました。」

 「私は中学1年の頃、1年間いじめにあったことがある。それは1つの小さなケンカから始まった。それが次第に大きなうわさとなり、やってもないようなことをうわさされ、私が心から信じていた友人までが避けていった。それからはあいさつをしても一度も返されず、部活内でも状況はかわらず、いやみを言われ続けた。肉体的苦痛はなかったが、心的苦痛がかなりあった。特に自分の親友だった子から『あの女』などと言われ、精神的に耐えきれなくなり、何度か保健室にもお世話になった。
 私の様子に両親は気づき、私は思いきって話した。そして、担任でもあり、部活の顧問でもある先生に相談したが、先生は『時が解決してくれるから』としか言わず、その後、何も対処してはくれなかった。私はこの言葉だけを信じて学校に通っていたが、やはり具合が悪くなっていた。保健の先生に色々聞かれ、張りつめていたものが一気に切れ、泣き出してしまった。後に学年主任の配慮によりおさまったが、次は別の人とターゲットが次々と変わっていった。
 私はその時、『本当の友達とはあるのか』と感じてしまう位、人間不信に陥っていた。このことは二度と忘れられない思い出だ。当時は毎日がとても辛かった。だが今思えば、私はこのいじめで心を成長させることができ、心に余裕を持てる広い人間になれたと実感している。今はこの出来事を辛い思いでとしてではなく、自分の心を成長させることができたきっかけとして考えようと思っている。」

 「母子寮に入っていた女の子がいじめられていたのだが、着ている物が古いということで、それから性格が暗いということで、また少々自己中心的だったこともあって、ほとんどクラスのすべての人から無視や、言葉によるいじめやバイキン扱いをうけて、机を並べるのをさけられたりもしていた。そして、僕が何かでふつうに接したことで妙なうわさがたってしまい、結局僕も疎外されるのがいやでいじめる側(この場合は無視だった)にまわってしまった。このことは今でも後悔している。」

 「中学1年の時に、入学式に目立った人がいじめられた。それは、小学校時代にリーダーシップをとっていた人のひがみから生まれた。たまたまそのリーダーシップをとっていた人が多かったために、多勢で団結していじめ、それはクラス全体へとわたり、学校中でも有名になった。
 いじめは弱いものだけがいじめられるのではなく、自分に自信をもっているものがこされた時におこるひがみの方が多く、そして、こわいと思った。(特に今は学力などで)」

 「“いじめ”ってどうしてもなくならないと思う。いじめる人も、いじめられる人も、気持ちが強くなれたら、“いじめ”はその時、終わるのではないのか。他人に流されていじめたりすることもないと思う。でも、強くなれなかったり、時間がかかったり、人によってそれぞれである。そこを誰かに手助けしてもらえたら、とても心強いし、“いじめ”がなくなり易いのではないか。それが先生の仕事(役目)ではなかろうか。」

 「私の考えは尾木先生の考えと正反対です。私の知っている事例はとても狭く、私の中学生の時の経験なので、私の方がおかしいと思われてもしかたないと思いますが、しかし、私の友だちのいじめっ子で、小学校の時、いじめられっ子だった人はいなかったし、いじめっ子は当人はいじめをしているという意識はなかったと思います。反対に、いじめっ子がいましていることがいじめだとわかった時に、いじめはなくなると思うし、私の友達はいじめをやめていました。」

 「いじめについて今まで自分なりに色々と考えてきましたが、なかなか答えがみつかりませんでした。しかし、今日の授業で何かがわかったように思います。やはり何十年も教師をしてきた人の話は重みがあり、これまでの自分の経験とてらし合わせても納得できるものばかりでした。今まで自分は教師はいじめに対して何もできないのではと思っていました。それは、いじめに対して教師がなんらかの形で注意すると、見えないところでいじめがエスカレートしていくと思っていたからです。しかし、実際は注意するのではなく、加害者にも被害者にもふれ合ってやるのが重要なのだということで、やはり教師がどのように存在していくのかが大切だと感じました。」