<生徒指導論アンケート(3)>


第三回:テーマ【生徒による生徒のためのフェスティバル】



 1、前回のレポートについて

 前回は、愛知県の中学校教師、伊藤育雄先生の生徒指導の実践について、コメントを書いてもらいました。伊藤先生の実践は、自分の趣味であったロックを手がかりとして、生徒たちをロックバンドに巻き込みながら、管理教育を組み替えていく筋道が描かれています。皆さんのレポートからは、生徒の自己責任の問題や、教師と生徒の信頼関係の問題、自由と放任の問題など、さまざまな論点が生み出されました。


 2、前回のレポートからいくつかの作品を紹介します。

 (1)「責任」や「信頼」をキーワードとして実践を批評した作品

 「やはり自分の経験からして、ある程度責任を与えられた方が自分の力を発揮できると感じる。自分は中学校入りたての頃は、学校というのはなんてアピールする機会が少ないのかとおもっていた。しかし、二年になり、ほとんど無理にやった学級委員長を任されてからは、自分がやらなければ学年の行事も進行できないなどというある程度の責任を負わされ、ようやく自分をアピールできたと思う。やはり、うちの学校は本文みたいにある程度の自由を与えられていたが、それでもなお自分の考えで学年が動くという快感はたまらない。また、自分という存在がどういう人物なのか、皆に少しでも知ってもらえたのは、現在の自分にとりうれしくもあり、また何でもやれるという自信になっている。本文でもやはり自分たちで作り出す事の実例をあげているが、やはり、自分をアピールするというのは人間だれもが持っている欲求であり、規則にはめられているところでは決して満たされないと感じます」(Tさん)

 「もともと音楽を聞き、歌を唱うのは、唱うことに楽しさを見つけ、満足させることにあると思う。今の世の中にはロックがあふれている。そんな世の中で育った生徒達に、音楽の教科書で出てくる歌を唱わせて、その音楽に楽しさを見つけ出す生徒は少ないと思う。だから、まず第一に、楽しさを見出せる音楽を生徒達に選ばせた。そんな中で、生徒のエネルギーを引き出させたのは当然だと思う。
 そして、生徒達が子どもであっても、自分達なりのプライドを思っているはずである。だから、(ギブ・アンド・テイク)と言うと言葉が悪いかもしれないが、ある程度、生徒達に選択の自由を認め、その上で、これだけは守るというルールを出させるのである。そうすれば、生徒達は自分のやりたいこと、楽しい事が出来る、しかし、自分達が決めたルールは守るという、生徒にとっても教師にとっても良い結果が得られると思う。
 生徒にとって、自分達で決められたルールが守れなかったと教師に言われるのはプライドが許さないと思うから。」(Pさん)

 「@のなぜこの実践は子どもたちのエネルギーをうまく引き出すことができたのか?という視点から述べていくことにする。学校生活の中で生徒たちは学校の規則という規律だけにとどまらず、友人とつき合うことにも気をつかう生徒が非常に多いのではないかと思う。この学校生活の中では、自己を表しているのではなく、自己の中の他者でしか友人関係をつくれない、つまり自分の主体性を出せていなかったのではないかと考えることができる。よい生徒であろうとするため、自分はそのような性格の人間ではないかもしれないのに、自分をよい生徒に近づけようとする。これが離れていればいるほどストレスが非常に大きい。そのことがある時から自己責任を持つ代わりに自由に行動することができる環境へ入ることができれば、自己の主体性をあらわすことができて、気をつかわなくてもよいから、自分に内在しているエネルギーを発散できるのである。
 中学生というのは、小学生とは違い、自己の主体性が非常によくあらわれてくる時期であり、自分で行動しようとする願望が強くなっている。ゆえにこの実践が生徒たちにうまく伝わったのではないかと思う。」(ERさん)

 「教師がドラムをたたいたことがよかった。かた苦しいというイメージをやぶる行為がそれだったんだと思う。教師はまじめということからロックもできるという印象を生徒に与えた。ちがう教師の面を見れたことが生徒にとってよかったんだと思う。
 生徒の意見を聞くことが“平和”へのカギだと思うし、教師も生徒を信頼しなくては“平和”ははじまらない。上からのおしつけだけでは反発をかうだけだから。教師と生徒の間の信頼関係がこの実践の成功のもとだったんだと思う。」(Uさん)

 「この先生自身が生徒に対して真剣に向き合っていることが通じたからであると思う。私がそうであったように、生徒は先生が自分を子どもだと思って、一個の人間と見て接しているかいないかとうことは敏感に察知する。教師を目指す者として肝に銘じていることの1つとして大人も子どももなく人間は全て一個の人格を持った人間であるのを知っていることは大切だと思う。
 先生が自分のために一所懸命ロックバンドを盛り立てようとする姿勢を生徒が分からないはずがない。この先生はすばらしい先生だと思う。
 先生という立場は、生徒と一緒に「道」を走る者でも「道」をつくる者でもない。生徒自身が「道」をつくってゆけるような環境をつくるのが役目であると思う。具体的な名案は今はないが、そんな先生になりたいと思う。この先生もやはりそれのできる先生である。」(Kさん)

 「私は学校の校則は、つり橋の下にある安全用のネットだとたとえる。それは、生徒はつり橋を渡っていくと仮定する。普通の人ならすんなり通るが、中には橋をゆらしたり、飛び降りようとする人もいるかもしれない。その時、もし彼らが万が一落ちてもネットで下まで落ちない。つまり悪さをして社会からはみ出ようとする人間を校則が止めるものだと考える。
 しかし、必要以上にネットをはってはいけないと思う。必要以上にネットをはれば安全かもしれないけれども、自分の力で渡ったわけでもないので達成感はないし、きめられた通路を歩いてるだけに思いはばかばかしくなるだろう。
 ゆえに、私は伊藤さん(ロックのリズムが〜)に賛成である。生徒を信頼するのは大切なことであるし、又生徒に任せるだけでなく向かう方向を示すことも時には必要である。要は人を初めからうたがわないことである。」(不景気脱出だ!さん)

 「中学生の世代は、例え先生の言うことが正しくても反抗してしまうことがあると思う。だから、生徒に出来ることは全部まかせて、教師は見ているだけでいる方が学校はうまく機能するのではないか。学校が勝手に押し付ける“ルール”よりも自分達で作った“ルール”の方に生徒は従うのではなかろうか。」(Bさん)

 (2)「自主性」尊重と「放任」について考えた作品

 「子どもたちの自主性、興味を上手く重んじることができたことがよかったと思う。自主性を重んじることは一歩間違えると放任になってしまう。子どもたちを監視するのではなく、ほったらかすのでもなく、いい方向(その判断は難しいけど)へ向かうヒントを与えるというのがよかったと思う。ギター部の6月講演でのように生徒と一緒にやること(生徒と同じ立場に立ってみる)もプラスになっていると思う。
 自主性を重んじることで、いつも同じ子が役割を持つということになっていないかということが気になった。一部の子の考えだけで進んでゆくということはないのだろうか。そこで教師の対応が問われると思う。」(Cさん)

 「自由であるということはたしかにすばらしいと思うし、生徒にとっても居心地のいいものであると思う。しかし、今は教員の企画と同じ自由しか求めていなくても、これも通る、あれも通ると生徒がだんだんと理解していったら、生徒が自由にあぐらをかきはじめてたら、自由というものの許容範囲をいつかこえる日がやってくると思う。そんな時、生徒を信頼するだけではだめだと思う。しかし、解決策となると、せっかく広めた自由をうばうという方法しか思いつかない。あとは、どこで接点をみつけ、円満に進められるかだろう。結局は話し合いしかないだろう。」(Fさん)

 (3)ほかの教師との関係の難しさについて考えた作品

 「今日の講義を受けて、自分はまだ先生になっていないからよくわからないけれど、こう思った。自分の経験(小、中、高校)からいってその学校での先生の役割みたいなのがある様な気がする。生徒に人気のある人、人気のない人、こういう相談はこの先生で、こんな話はあの先生にはできない。その中で今日の伊藤先生は生徒に人気がある先生だと思う。しかし、ぼくは生徒との距離を近くするということは、1人の先生として、ぶなんな道とはいえない様な気がする。それは、他の先生(特に、生徒にきらわれている先生)の風当たりが強くなりそうだからである。しかし、生徒たちを本当に理解し、エネルギーを出すには、距離を近くするべきなのであろう。もし、自分が教師になったら、その距離をどのくらいに保つのかなあ?と今思った。できれば平凡に暮らしたいけど、伊藤先生の様にかっこいい先生もいいなあ・・・。」(Mさん)