<生徒指導論アンケート(2)>


第二回:テーマ【酒鬼薔薇聖斗事件(2)】



 質問1:あなたはこの事件を複雑かつ特殊な問題を抱えた容疑者による特殊な事件であると考えますか、それとも現在の社会や学校のシステムのなかではあるいは自分も容疑者になりかねないというような一般性をもつ事件であると考えますか。次の3つの選択肢のなかから最も自分の考えに近いものを選び、その番号に○をつけて下さい。

  1、特殊な事件であると考える
  2、一般性をもつ事件であると考える
  3、わからない

                          前回   今回

 (1)「特殊な事件であると考える」を選んだ人    → 7名   7名
 (2)「一般性をもつ事件であると考える」を選んだ人 →27名  25名
 (3)「わからない」を選んだ人           →15名  18名

 <集計結果についてのコメント>
 一人ひとりの学生が、自分が生きてきた歴史のなかからそれぞれの教育についての考え方を創り出していることに改めて目を開かされる思いだった。前回と今回でほとんど数字が変わっていなかったことは、私がこの事件について語ることができなかったことを物語っている。語ることができないことを語ってしまったため、混乱させてしまった人にはおわびのしようがない。ただ、私は皆さんに語ることで、この事件を語ることの難しさと身をもって体験させていただいた。このことを感謝したい。そして、ここでの破綻が、これからの授業でプラスに働くように努めたいと思っている。

 質問2:あなたが今、中学校の教師であるとしたら、この事件を生徒達にどのように語りますか、そのエッセンスを書いて下さい。

 <皆さんの意見についてのコメント>
 皆さんの文章には脱帽したの一言です。ここに掲載できなかった文章のなかでも、この事件を語ることの難しさ、さらにはそれを知った上でどのような働きかけをするかについての深い考察が見られました。皆さんの意見を読みながら、語れないということを認めた上で、さてどうするかと考えたとき、意味のある教育実践が創出されるのではないかと、私は思いました。皆さんは今の教育の難しい状況に立ち向かうに十分なセンス(感性)を持ち合わせています。あとは伝承、表現、対話を通して、そのセンス(感性)を実践の力に高めていけたらと思います。

 いくつかの作品を紹介します。

 (語れないというところから論を深めていた人たちの作品)

 「語るというより、今、現在の中学生(酒鬼薔薇と同学年)がこの事件について何を考え、どう思っているのか、知りたいし、知るべきだと思う。色々な情報がマスコミ等を通じて入ってくるが、僕らはまずその情報の選択をしなければならない。
 今、私が教師であるとしたら、教師失格かもしれないが、生徒に何を伝えればいいか分からない。この事件を生徒たちがどうとらえ、何を考えるかが大切だと思う。それは教師についてもいえるのではないでしょうか。」(Mさん)

 「正直、この事件に関しては、教師にも答えはわからないと思います。教師はこの事件について考えたり、うなずいたりという自分なりの結論、考えは必ずあると思います。ですが、そのことを言ったとしたら、生徒は自分の考えをどこまで理解するだろうか。この問題は視点を変えれば、意見や考え方はいくらでも違ってきます。この結論、正しい答えというのは、出てこないと思うのです。色々、自分なりに考えることはあるけれど、生徒、人間をつくらなければいけないという教師の立場を考えると、自分の言葉にとても重みが出てくると思います。その為、生徒たちにただ1つ力を込めて、断言できるとすれば、
 『人殺しというのは、決して犯してはいけないし、このような事件は二度と起きないでほしい!!』と強く言うことしかできないと感じました。教師が言ったことをどのように生徒が受け止め、それをきっかけとしてこの事件をどう考えるかが重要だと思いました。」(Cさん)

 「正直に言って語れない。自分が生に関して考える時に結局いつも最後に疑問が残ってしまう。虫は殺しても人間は殺してはいけないなんて私の中では矛盾が生ずるし、人間生まれたからにはたった一度きりの短い人生、好きなことをしても良いのではないかと思う。このように全くといっていいほど、自分の中では答えにとどかない。もともと答えなどないのだろうが、私の中ではそれに少しでも近づけない以上、生に関することを口にして、それが生徒に与える影響を考えると恐ろしくて語れない。よって、結局は、生徒に自分自身も加わっての話し合いに終わってしまうと思う。生徒それぞれが自分の意見を述べ、他人の意見を聞くことしかできない。しかし、それが大切なことであることは確かだと思う。」(Rさん)

 「こういった事件を成長段階である中学生に語るというのはすごく難しいと思う。中学生ぐらいまでは子どもというのは大人を見て育つからだ。特に先生といった子どもからすれば何か特別の地位のように感じてしまう人の話などは、うのみにしかねない。
 そう考えると、もし自分が中学生の教師であったとしたならば、酒鬼薔薇事件には固執せず、人の命の尊さから説明してあげたい。
 中にはサカキバラの顔写真まで見せてこの事件を語っていた先生もいたらしいが、学校で先生がこの事件の内容や本質をどうこう生徒に語るかという質問じたい、自分は違うような気がする。」(Sさん)

 「単純にこの事件はいけないことだ。残酷なことだと言い、深くは話さないかもしれない。と言うのは、この事件で誰が何がいけないのか、僕が分からないし、生徒も一人一人意見がちがうと思う。教師の言葉は重要であり、今の生徒達は何を考えているかわからない。そんな状況でこの事件を語るのは怖い。
 もし語るのだったら、一人一人個人的にその人にあった話をする。」(Kさん)

 「今日の授業を終えた段階でも私の意見は変わらないです。その理由は、一般性をもつと考えている人の意見を見ると、社会の責任、学校の責任といったように少年が悪いというよりも、他人に責任を押し付けているように感じるからです。私の考えは残酷なように思いますが、どうしてもこの少年のしたことが許せないので、誰もが犯すような一般性をもつものではなく、特殊なものだと思います。自分が教師であるとしたら、この事件のことをうまく伝えられないと思います。しかし、人へのおもいやりを伝えたいと思う。」(Aさん)

 「様々な情報が飛びかい、どれが生の情報かわからない今、私にとって語る事はとても難しい。だが、この事件に関連し、人の存在、自分をみつめてもらえるように語りたい。よい方法とはいえないかもしれないが、過去の事件を取り上げ、その後どうなったのか、情報的要素をもたせながら考えた上で、この事件について生徒たちと考えたい。/弱さを受け入れる社会、強さ(耐える)社会の関係の複雑さについてとまどいを感じる。」(Fさん)

 「事件内容について話すことはたぶんできないと思うが、あえて言うならば、親の顔に泥をぬるな、やりたければ少年、少女Aがとれてからにしろということです。今回の事件でもいえたことだが、酒鬼薔薇の親が遺族に謝罪の手紙をだしたとき、相手のほうは当然であると考えていたと思う。むりもないことである。しかし、親にとってみれば、今まで自分がせっせと働いてきて得たものが、これからは犯人の親としてしか扱われなくなってしまうのである。自分たちは少年Aであるからいいが、親は社会からの信用を今まで築いてきたものをすべて失うという信じがたいものが待っているのである。だから、少しでも親を思う気持ちがあるなら、親のつらさがわかるなら、少年Aがとれてから一個人となってからしろといいたい。」(Tさん)

 「私自身、いろいろわからないことの多い事件なので(一般性をもつとはやはり思えない)生徒たちの(現役中学生の)旬な意見を討論させて、自分も中学生の気持ちを考えてみたい。きっと新しい発見がたくさんあると思う。
 私が語ってしまうと、大人の意見をおしつけてしまいそうだし、中学生は中学生なりに、きっと私たちよりずっと身近に考えていると思う。」(Nさん)

 (何らかの語りの方法を探っていった人たちの作品)

 「今の時代というのは、いろいろな形で大量の情報がそこら中にあふれている時代だと思います。しかし、それに反比例するように、実際の経験や自分や他人に対する“生”の感じが少なくなっていると思います。
 実際、僕もふと一秒前の自分が本当に自分であったのか説明することができず、不安になる時があります。はじめて例の犯行声明を見たとき、『透明な存在』ということばがとても気にかかったのをおぼえています。
 僕が中学校の教師であったのならば、希薄である現実を埋め合わせるべく、自分で多くを経験し、自分の頭で考えるようにするように話したいと思います。また、そうしたいです。」(Wさん)

 「生徒がどう考えているかをこの授業の様に言葉にさせて、その中で今、自分が持っている不満や悩み、それをぶつける事の出来る友人はいるのかみたいな事を考えさせたい。(“ぶつける”は暴力のぶつけるではなく相談とかの方で)
 今もし自分が教師だったら、本当はとてもこまると思う。はっきりとどうして良いか分からないし、(2)にマルをしたのも、殺人もいじめも“度”の差だけで、要は似た物だと考えたからです。そう考えると、この問題が出たからどうするかというより、いじめの事についてだってものすごく大変な事だと思う。教師が大変な仕事だと再認識してしまった。それにしても、いろいろつらくなってしまう。殺しがかんたんに行われる事にも、教師になろうと夢見てはいても、こんな現実では…の両面で」(Lさん)

 「教育の問題点を生徒として(自分が経験したこと)、先生として話したいと思う。自分が経験したことならば、生徒に『エラそうなこと言って!』などと言われないと思うし、共感も得られるかもしれない。表面的に『人を殺めてはいけない』などといっても何も伝わらない。社会の常識ではなく、自分で考えたことを話せば良いと思う。」(Yさん)

 「まず言うことは、“された人の立場になって考える”ということです。誰でも一度はいじめられたり、いやがらせをされた事があると思います。もちろん私にもあります。しかし、“いじめられた立場”というのは、その人がその行為に対して復讐の念というか、そういうものを持っていると“いじめる側”になってしまうかもしれません。でも、その時、相手のことを思う気持ちがあるのなら、自分と相手の両親、兄弟、友人のことを思うならできないと思うのです。また、中学生というのは、それまでの親に気に入られよう、教師に気に入られようとする自分から抜け出して、自分というものを作り出すために、反抗してきます。それを受けとめ、生長させる親、教師、社会が必要なのだと思います。」(Hさん)