Daily
たまのさんぽみち



   1998/6/19(Fri) いよいよ今日で教育実習行脚の旅が終わる。今日の目的地は静岡県浜北市の浜北西高校である。東京駅に出て、新幹線で浜松まで行き、遠州鉄道にて小松駅へ。浜北西高校は小松駅から4Kmほど離れた場所にある。
 ここでは、実習生の大城卓正君が教育実習に臨んでいる。スーツを着て、初々しい教師といういでたちで現れた大城君の担当は地理、今日は水上交通についてである。見やすい板書とよく準備された説明の下、授業は流れていった。地方と都会では、生徒たちの雰囲気が違うと、今回痛切に感じた。地方では、まだまだ伝統的な形式でも授業は成立する。
  しかし、教師と生徒との人間関係が保たれている今のうちに、一方通行ではない学びの関係を創り上げていかないと、いずれ生徒たちの叛乱が訪れるのではないかと思う。
  それともう一つ。学校は以前よりずっと多様性をもってきている。生徒指導により授業の形式を保っている学校から、管理はもはや断念し授業の内容で何とか生徒を惹きつけようともがいている学校まで、さまざまだ。なかにはさほど自覚的な生徒指導の必要もなく、授業が成立している学校もあるように思えた。このような多様性に対して、一律な教育方法では対応できないところにきている。現実の生徒と向き合って、そこで格闘して、自分なりの教育方法を掴むしかないのだ。これがまさに実践であり、さらにいえば反省的実践である。学校で授業が難しくなっている今こそ、逆に実践が成立する土台ができたと考えることも可能なのだ。そのためには、人が学び合うときには必ず失敗が伴うということを認め、回り道を許容し、おおらかに育ちを見守っていく、まわりの人々のまなざしがどうしても必要になる。今年の実習生たちは、わたしの欲目かもしれないが、ほんとうにいい経験をしたように思う。わたしも彼らの経験から数多くのことを学ばせてもらった。まさにそこには確かな経験があり、実践への挑戦があったから、彼らのことばは、あとに続く人たちにも強く印象に残ったようだ。彼らもわたしも、この2週間あまりの経験を咀嚼しながら、これからの歩みを続けていく。全国行脚の旅は終わったけれども、旅は始まったばかりなのだ。

  
小島先生と大村さん(横顔)

   1998/6/16(Tue) 今日も南に向かって出発。今年はなぜか京王線沿いの学校が多い。今日の学校は、前々から楽しみにしていた東京都世田谷区の大東学園高校である。なぜ楽しみにしていたかというと、初めて訪ねる女子高だということももちろんあるが、この高校で新しい実践の取り組みがなされているということを聞いていたからだ。1年生を対象にした総合学習「生と性の授業」は、教師も生徒と同じ目線に立って、混迷する現代の性を巡る環境のなかで、自己決定という選択を学んでいくというものであった。斬新な試みにぜひともいろいろと学びたいと思った。
   学校に着くと、教務担当の先生がお見えになるということで、しばらく待っていたところ、何とそこに現れたのは、小島真奈先生。NHKの「教育トゥディ」で紹介された「生と性の授業」を担当された先生だった。わたしは驚いて、つい興奮してしまったが、小島先生に、職員室の実習生の机に案内されて、実習生の大村直子さんに会う。何と、わたしが時間を間違えて、4限のはずが3限に来てしまったようで、大村さんはおおいにあせってしまう。日本史の授業で、内容は第一次世界大戦から戦後のワシントン体制のところ。
  大村さんはきちんと調べて、よく生徒たちに伝えていた。一方、生徒たちはというと、なんとも伸びやかで、さまざまなかたちで授業に参加していた。おおらかな雰囲気のなか、わたしも、ビデオを回すよりも参加しようと、何人かの生徒とことばを交わしながら、今教えられていることについて話し合った。生徒たちを押さえつけるのではなく、授業の中身で惹きつけようと試みている大東学園高校の取り組みに、共感しつつ、続く4限にも参加したのち、学校をあとにした。


大東学園高校の授業風景


   1998/6/15(Mon) 今日は今年の実習生のなかでは一番の近場となる。それでも清瀬の自宅からは1時間以上かかるが、東京都北区の富士見中学校へ。最寄りの駅は、埼京線の十条である。大学時代、塾講師のアルバイトで十条に通っており、富士見中学校の生徒に数学やら国語やら教えていたことがあった。あの頃の生徒はちょうど実習生の小玉祥史君と同じ年代だった。そうこう昔を思い出しながら、富士見中学校に着く。
   小玉君の担当は、社会科の地理で、アンデス地方(高地に住む人々)についての学習が中心であった。わたしは少々アンデスにはうるさいのだが、小玉君はきっちり調べており、実習生とは思えないほど、堂々としていた。さらに、黒板を二つに分け、一方には教師の板書、もう一方には生徒の発言を書き、生徒たちの小さなつぶやきも拾いながら、授業を組み立てていた。富士見中学校の中学1年生は、何ともいい感じだった。教師と生徒との交流・対話がうまくいくと、こうも穏やかな表情を見せるものかと感心させされた。指導の先生の「小玉君は、生意気にも生徒の声を大事にしながら授業を組み立てようと、いろいろと工夫しているんですよ。そんなあっさり実習生にできちゃったら、わたしたちなんで給料をもらっているか、わかりませんよね」という微笑ましい言葉をもらって、わたしは富士見中学校をあとにした。


   1998/6/12(Fri) 今日も南へ向かって出発。東京都府中市の府中工業高校へ。ここでわたしは今年初めて女性の実習生の授業を見ることとなった。相原麻子さんである。男子生徒の多い工業高校で、果たして大丈夫かとちょっと心配していたが、まったく杞憂のようだった。若い女性の先生が来たということで、生徒たちも喜び、相原さんもハキハキと持ち前の明るさで、生徒たちの心を掴んでいた。これまでのなかでも、とくに安心して見ていられる授業だった。よく届く声、見やすい板書、わかりやすい説明、こうした基本的なタクトがしっかりしていたのに加えて、1クラスの生徒の数も少なく、コミュニケーションがとれていた。


   1998/6/11(Thu) 今日は南へ向かって出発。再び東京都調布市の神代高校へ。ここには、東経大から三人の実習生がお世話になっている。実習にはいろいろなアクシデントがつきものだ。それを乗り越えて、実習生たちは一回りも二回りも大きくなって大学へ戻ってくる。エビフライやマグロの缶詰、石炭、原油、ボーキサイト等々、ほんものを準備して、生徒の関心を高め、インドネシアの授業を完了させた東君のがんばりがキラリと光っていた。



熊谷高校・高田君の授業風景


   1998/6/10(Wed) 今日も北へ向かって出発する。目的地は埼玉県の熊谷高校である。
  埼玉県でも屈指の進学校。実習生の高田俊之君が待っている。高田君の担当は日本史、単元は「平氏政権の成立」である。進学校とあって、生徒たちの要求水準も高く、授業の準備が大変だと、高田君は言っていた。学ぶ立場から教える立場への飛躍、これは思った以上に大変なことである。高田君の授業は、黒板をひろく活用しながら、丹念な教材研究に支えられて、なかなか見応えのあるものであった。同時に、進学校(あるいは学校)において、予備校の授業とは違い、いかに「歴史を学ぶということ」を伝え、「探究者」を育てていく授業を成立させるのか、という大きな課題が、わたしに突きつけられた。実習生の授業が示すものは、つねにラディカル(根源的)である。



桐生高校


   1998/6/8(Mon) 新しい一週間が始まる。今週はハードなスケジュールが待っている。
  朝早く自宅を出発して、群馬県桐生市にある桐生高校へ向かう。西武池袋線、武蔵野線、埼京線、上越新幹線、両毛線と乗り継いで、11時過ぎに桐生に到着。さすがに盆地だけあって、肌寒かった東京とは違って熱気がもうもうとしている。桐生高校は桐生駅から徒歩5分ほどの場所にあり、いかにも地域の中心校といった感じで威風堂々と建っている。
  高校野球の古豪でもあり、優勝旗やカップが所狭しと並んでいた。校長室に通されると、校長先生にここ数十年の学校の変化について尋ねる。わたしは、学校を訪問したら、必ずこのことを尋ねることにしている。桐生高校でも、生徒の変化は激しいという。校長先生は、マスコミの教育力が増大し、家庭、学校の教育力が相対的に弱まっていると語られた。
  学校で教えられることが必ずしも正しいわけではないと子どもたちが思っているので、教育が難しくなってきているという。東京を中心とする首都圏から離れた桐生でも、高校生の生活空間と意識が大きく変化しているようだ。
   ここの実習生は上原進太郎君。名前の通りのびやかでおおらかな学生である。大学4年生の上原君であるが、在学中とは学校や生徒の雰囲気も変わっているらしく、とまどうことも多かったという。担当は公民科で、社会福祉についての授業を行った。クラスは3年生の合同クラスで五十名以上で、実習生にとっては難しい条件だった。上原君の授業は、お祖父さんの年金証書などの具体的なマテリアルを使いながら、わかりやすく日本の社会福祉のシステムについて説明するものだった。教材研究、授業のプレゼンテーション、ともに実習生としては高い水準にあったといえるだろう。ただ、ここでも公民科の限界が顔をのぞかせた。社会福祉のシステムの理念と現状のズレにどうやって迫り、そこで考えをたたかわせていくのか、これが次の課題として残されている。上原君の授業のなかでも、川田龍平さんの話が出たとき、多くの生徒たちは反応してきた。そして、指された生徒が、「非加熱の血液製剤によってHIVに感染した」と答え、関心の高さを示していた。こういう授業の裂け目から、学びの世界にどのようにいざなっていくか。現在の社会システムの行き詰まりとともに沈没するのでなく、創造的な学びをどのようにきりひらいていくか。
  佐味君と授業とともに、上原君の授業も大きな課題を、わたしに突きつけてくれた。



山形商業高校・鈴木君と生徒


   桐生高校で授業を見学し、上原君と昼食をとりながらカンファレンスを行ったあと、わたしはその足で山形に向かった。両毛線で小山に出て、宇都宮で山形新幹線に乗り換え、午後6時過ぎに山形駅に着いた。山形へ行くのは、生まれてはじめてのことで、とても興味があった。東北新幹線の2階建てMaxと山形新幹線のシルバーメタルの車両にも感動したが、福島から米沢にいたる山深い景色と、山形県に入ってからのさくらんぼ畑のひろがりには、なんともいえない愛着を覚えた。山形駅で、実習生の鈴木君と会い、夕食をとり、彼の友人が勤めるホテルで1泊して、翌日山形商業高校に赴いた。山形商業高校で、校長先生とお会いし、「三十数年間で、生徒たちは変わりましたか」と尋ねたところ、「いえ、ほとんど変わっていません」というお返事だった。このお返事の通り、校長室に入ってくる生徒あり、職員室に入ってくる生徒あり、礼儀正しく、けじめがありながら、教師と生徒との関係はきわめて良好に思えた。懐かしい学校の風景といった感じである。
  わたし自身、小学校卒業以来、このような学校の風景に出会ったことはなかった。男女の数はだいたい半々であった。この学校では、授業を支える「授業とは聞くものだ」という意識が浸透しているように、わたしには思えた。
   鈴木君は、簿記を担当していたが、本日の授業では思い切った工夫をして、なぜ企業が決算を出すのかというテーマに、さまざまな角度から迫っていった。なかでもおもしろかったのは、「恋愛について」というアプローチである。相手のどういうところを見て、好きになるかという導入から、見かけだけで判断するのではあぶないこと、失敗したら、もう一度自分を見つめ直し、再出発すること、こうした流れを自分の失恋談などを交え、生徒の意見をくみとりながら、創り出していった。この過程で、バブル時代に自分を見つめなかった企業が今、破綻しそうになっていることを語り、リストラということばの意味も説明した。そして、企業が自分自身を見つめ、ほかの人にも実態を明らかにするために、いま学んでいる簿記があり、決算があることを生徒に語りかけた。
   鈴木君は、授業のあと、うまくいかなかったと反省しきりだったが、とんでもない、すぐれた挑戦のある実践だった。ユニークで独創的な実践だった。思い起こせば、昨年の教育方法の授業案づくりで、彼は「ラブレターの書き方」というテーマで授業案を創った。
  この彼にとってのライフワークである恋愛論が、実習で生きてくるとは、驚きであった。
  今年の教育実習は、豊作つづきである。ぼやぼやしていると、教育方法の教師をとって代わられそうだ。あぶない、あぶない。

   1998/6/6(Sat) 同僚の横畑先生にご不幸があって、急遽、わたしがピンチヒッターとして水道橋にある昭和第一高校に赴く。文京区の一等地にある学校は、場所柄やむを得ないのだが、校庭が狭い。実習生の佐味卓郎君は礼儀正しく、わたしを迎えてくれた。本当なら気心の知れた横畑先生の指導を受けたかったと思うが、こればかりは仕方がない。佐味君の担当は、公民科。日本国憲法についての単元であった。実習初日ということで緊張がみなぎっていたが、基本的なところはきちんと押さえて、説明を進めていった。最後、時間が余ったところで、自己紹介をする。実習生は生徒と歳も近いので、実習生が歩んだ道について語ることは、生徒の自分づくりの上でも意味があることだろう。公民の授業を受けながら思うことは、教科書の原理原則の説明と現実の社会での運用のズレの大きさである。このズレに鋭く迫っていかないと、ことばは生徒に届かない。どうしても学びが建前の域を超えることができないのだ。これはわたしたちにとって大きな課題である。佐味君の授業の最後で、質問をした生徒のことばがとても印象に残った。「大日本帝国憲法は欽定憲法で、日本国憲法は民定憲法とありますが、どう違うのですか。」この問いは、日本国憲法はGHQの草案をもとにできたという説明に対して、鋭く問いかけるものであった。こうした生徒のつぶやくを拾っていきながら、教師が自分の学びの課題として受け止めていくこと、ここからしか教育方法の改良は生まれないだろう。

   1998/6/5(Fri) 今日から教育実習・全国行脚の旅が始まる。今年の学生は、北は山形から西は浜松まで地域色多彩なだけでなく、それぞれがユニークでとても楽しみだ。今日からこの「Daily たまのさんぽみち」では、教育実習・旅紀行を連載しようと思う。
  教職の学生やゼミの学生など読んでくれるとうれしい。

  今日は、東京都調布市にある「都立神代高校(じんだいこうこう)」を訪問した。ここには、ゼミ生の岡田英樹君と、昨年の教育方法を受講した東祐司君がいる。学校は、京王線仙川駅から徒歩5分ほどの場所にあり、音楽で有名な桐朋学園と隣接している。仙川の駅は、大学院時代に聞き取り調査やアルバイトでしばしば通ったところであり、わたしにとっても懐かしいところだ。神代高校は、生徒たちが伸びやかで、とても自由な雰囲気に満ちあふれている。伸びやかなところだから、授業に対する反応も正直で、面白かったり、深かったりすると食いついてくるが、そうでないと潮が引くように気持ちが離れていく。それだけに、教育実習生にとってはシビアな学校である。
  まず3限で、東君の授業を参観した。昨日、東君は生徒の心をつかむ授業ができずに、一晩悩んで、午前2時に起きて、再度準備を練り直してきたという。この真摯な姿勢には頭が下がる。この成果もあって1限の授業は良かったと指導の先生もおっしゃっていて、一安心。この日、東君の授業のテーマは、「インドネシアのスハルト政権はなぜ倒されたのか」というもの。東君はインドネシアの民族音楽のCDを流して、教室の雰囲気を落ち着かせたあと、このテーマをめぐって生徒たちに問いかけるところから、授業を始めた。
  自分だけで引っ張ってしまって失敗に終わった昨日の授業の反省に基づく工夫である。東君のこのような思いが生徒に伝わったのか、さまざまな意見が生徒から出てきた。意見が出る度に、他の生徒から拍手が出て、盛り上がる。1年生のひたすら元気で、ノリのいいクラスだった。生徒の意見を汲みとりながら、東君は、スハルト政権が独裁の長期政権ゆえに腐敗したことを説明、まとめて授業はつつがなく終わる。東君が生徒たちに受けいれられていると感じた1時間だった。
   続いて4限で、岡田君の授業を参観した。岡田君が実際に授業を行うのは、今日がはじめてで、わたしはいろいろととまどうことも多いのではないかと予想していたのだが、この予想は大きく覆された。岡田君が担当したのは3年4組のクラス、1年生と比べるとずっと大人の雰囲気が漂う。岡田君は、指導の先生の助言もあり、思い切った授業に挑戦した。
  一つのテーマをめぐって、ディスカッションを試みる授業である。岡田君が選んだテーマは、「御嵩町の柳川町長襲撃事件」である。岐阜県御嵩町における産業廃棄物処理場の建設をめぐって、建設反対派の住民の推す柳川町長が当選、これに対し、これを快く思わないグループが柳川町長を襲い、重傷を負わせたという事件である。民主主義とは何か、住民自治とは何か、公共性とは何か、暴力は許されるのか、といった大きな問題を考えるには、絶好のケースである。
   岡田君は、この事件を報道した新聞記事を配布すると、ざわついた教室の雰囲気に少しも臆することなく、「今日はみんなにこの問題について考えてもらいたい」と語りかけた。 わたしは初め、これだけの手がかりで、みんなに発言を求めるのは、難しいのではないかと思っていた。しかし、岡田君の構えが生徒たちを問題に没入させていったのだ。岡田君は決して引くことはなかった。ざわめく教室のなかでも、「ねえ、みんな聞いて、ごめん、でもどうしてもここは聞いてもらいたいんだ」と語りかけ、粘り強く一人ひとりの生徒に意見を求めていった。すると、生徒たちは何かに引き込まれたように、この問題について深く考え、違った考えをもつ相手に、自分なりの根拠をあげながら説得的に語っていった。
  わたしもこの教室のなかにいて、見学しているということは忘れて、授業のなかに没頭していった。一人ひとりの生徒の意見はとても深く、深くうなずかされるものばかりだった。
  民主主義のようなことばは決して上っ面のところだけでは学べないということがありありとわかる思いだった。違った立場に立つ者同士が、それぞれの論理をぶつけ合い、他者の論理と出会って、自分自身の論理を問い、矛盾だらけの社会問題に立ち向かっていくこと、この営みの原石が岡田君の授業に輝いていたのだ。わたしは、深い感動と希望をもって、教室を去った。岡田君は人生初めての授業で、こんなすばらしい世界を拓いたのだ。わたしは、この仕事を続けていく大きな励みをいただいた。もちろん、これはビギナーズ・ラックかもしれない。そして、岡田君は自分がどんなにすごいことをなしとげたのか気づいていないことだろう。おそらくそうに違いない。しかし、真剣に学び、教えるということについて考え、生徒たちに「ぼくもこの問題について答えをもっているわけではない。だけど、この問題についてみんなと一緒に考えていきたいと思っているんだ」と問いかけた岡田君のあり方が、ビギナーズ・ラックを生み出したのだ。ビギナーズ・ラックもすばらしいものなのだ。あの教室には、確かな学びと成長の共同体が生まれていた。わたしは今ものすごく爽快な気分のなかに包まれている。

   1998/5/20(Wed) 昭和高校の久保敏彦先生の実践はすごい。授業がライブであり、高校生がいきいきと学んでいる。久保先生の授業の空気を吸うと、身体からエネルギーとよしやろうという意気込みがあふれてくる。久保先生の実践記録である『教室に学びのライブを』(太郎次郎社)はお薦めの一冊だ。

   1998/4/10(Fri) 久しぶりにひとりごとを語る。新しい年度、大学ではガイダンスの連続で、さぞかし新入生もうんざりしていることだろう。クラスの担任挨拶、教職課程の説明会の挨拶を終えて、ああ、ことばが学生に届かないなあと感じる。学校での教師のことばというのは、なぜあんなに学生に届かないのだろう。みんなという対象がきわめて曖昧であるからか、あるいは教師が命令の言語しかもっていないからか・・・
   仕方がないので、自分自身の経験のことを話すと、学生はちょっと顔を上げて、こちらをのぞきこむ。今年も一年、身体を張って、いかなくてはならないようだ。


通勤路の小径(こみち)