Dailyたまのさんぽみち
2013/12/2(Mon) 岐路
濃密な時間が流れた11月も過ぎ去り、今年も師走がやってきた。 今年も1年間ここまで守られてきたことは感謝の一言に尽きるが、この国の行く末のことを 思うと、心が晴れない。今の過ちだけであれば、取り返しはつく。しかしながら、将来に深く 禍根を残す過ちは、取り返しがつかないのだ。
明治期に自由民権運動が高まり、薩長を中心とする明治政府が国会開設を約束したとき、 いかなる政党が国会で多数派を占めようとも自分たちの権力が揺るがないような政治システムを つくり出そうと、明治政府は腐心した。そして、大日本帝国憲法、言論、集会の統制、統帥権の 独立、枢密院、教育勅語、教育と学問の分離、治安維持法などの仕組みによって、民主主義の 進展をいびつな方向に誘導し、最終的には日本をカタストロフィに導いた。
そして、今、政権交代が現実のものとなった時代に、国会、すなわち国民の代表の 権限を厳しく抑制するような法案が、国会で国民の代表と呼ばれている人たちによって、 多くの国民の危惧と反対にもかかわらず、強行に採決されようとしている。
日本において国会議員とは、一体何を、そして誰を代表しているのであろうか。
政権交代が起こる社会になれば、国民の多くがついていけなくなるような極端な考え方は 影を潜めて、中道に近づくことになるだろうというのが、私の考えであった。
ところが、日本の政治は、政権交代が起こったことで、むしろ極端な考え方をなりふり構わず 振り回して、そこでのたまたまの勝者が、今後自分たちに批判的な者を弾圧するような方向へ 舵を切っているようにすら思える。そして、そこに見え隠れするのは、政治家たちの自信のなさと 想像力の欠如のはなはだしさである。
今の政治家たちは一体何を、そして誰を代表しているのか、そもそもよくわからない。そして、 おそらく本人たちもよくわかっていないだろう。何かを代表していない代議士は、根無し草のような ものだから、当然自信ももてないだろう。さらには、政権交代を経験したにもかかわらず、政治家 たちは、自らが国家権力と対峙する側になるかもしれないということを本気で考えていないように 思われる。オールマイティのカードを作成することは、自分がそのカードをもっている間は万能感に ひたれるだろうが、相手にそのカードが渡った段階でたちまち立場は逆転するのである。
だが、そのような想像力が微塵も感じられない。今がよければ、今さえよければ、と考えている ようにすら思える。
民主主義とは、オールマイティのカードを誰にも渡さないシステムであるといえる。誰もが 法の下で平等であり、法の外に出られる者はいない。このルールの下に、私たちは知恵を絞りながら、 よりよい社会のあり方を模索してきたのだ。
にもかかわらず、国民の代表者がオールマイティのカードを作って行政や軍隊に差し出すならば、 もうこのゲームは成り立たなくなる。これからの民主主義社会を育てる活動は、穴の空いたバケツに 水を注ぎ込むようなものになる。
このようになれば、論理的な必然として、私たちの選択肢は、息苦しい社会を我慢するか、 そのような社会を転覆させるか、のどちらかになってしまう。実に、残念な、そして不幸な社会である。
私たちは時代の大きな岐路に立たされている。
11月を感謝しつつ、12月も引き続き、この国の行く末と、皆さまの 日々の生活の平安を祈っております。
2013/11/9(Sat) 34歳
11月になり、心が晴れやかになっている。11月は私が生まれた月であり、 ずっと前から、11月になると、心が落ち着き、自分自身とより深く対話することが できるようになるのが不思議だと思っていた。あるいはこれは11月が秋から冬に向かう 季節であり、誰もが内省的になるということに過ぎないのかもしれない。それでも、 私は11月を特別に愛している。
このように11月を偏愛しているというだけではなく、 前回のコラムの「四等国」というタイトルが、どうにも気に入らないということもあり、 11月に二つ目のコラムを書くことにした。これで8月を飛ばした分の 埋め合わせになるかもしれない。
昨日、山梨の小学校を訪問して、お話をさせていただくという機会があった。 とても素敵な小学校で、「学び合い」の授業に取り組む子どもたちと、先生がたの 姿から学ぶべきことがたくさんあった。また、地域と教育委員会に支えられている 学校というのは、温かいものであると、改めて思わされた。
公開研究会のあと、ここまでがんばってこられた先生がたの慰労会があり、 あまりがんばっていない私も押しかけて、参加させていただいた。みんなで がんばって一つのものを創り上げたあとのパーティーというのは、実に居心地のよいもの であった。信頼関係に支えられた同僚性がそこにはあり、同時に一人ひとりが 専門性に裏打ちされた教師としての誇りをもっておられて、個と全体の響き合いが 生まれていた。これこそ「学び合い」であると思わされた。授業もまた、個と全体が 響き合うところから「学び合い」が生まれる。そのためには、まず教師自身が 個と全体を響き合わせる関係性を生きる必要があるのだ。
楽しい気分でパーティーを過ごして、もう宴もお開きになるかという頃、 ある先生が私のところに来られて、次のように言われた。「私のテーブルのところで、 先生にお聞きしたいね、というテーマが出たのですけど、質問しても大丈夫ですか?」 これに対して、「何かお聞きになりたいことがあるんですね。質問していただくと、 私の理論の甘いところ、曖昧なところがはっきりしますし、これからの研究と学びの課題が 明確になりますので、どんなことでもいいから、ぜひおっしゃって下さい。」と喜んで 答えた。
すると、その先生はちょっと言いにくそうに「何でもいいんですね」と念を押されたので、 「もちろんです」と答えたところ、「えーっと、先生はおいくつなんですか?」と尋ねられた のには仰天した。
「どんなことでもいいから」と言った以上、曖昧にごまかすわけにもいかないし、 そのテーブルに出かけて、「えっと、いくつに見えますか?」と学習課題を提示したところ、 「34歳」と言われて、さらに仰天した。
34歳の頃、私は一体何をやっていたのだろう。ふとそう思って、「たまのさんぽみち」の バックナンバーを読み始めたら、夢中になって読みふけってしまった。34歳の頃、どうやら 書きたいことが山のようにあったらしい。ほぼ毎日のように何かしらの文章を綴っていた。 文章を綴らないことには前に進めなかったのだろう。11月のコラムに次のような文章があった。
2001/11/6(Tue) <ノスタルジー>
出先からの帰りに、近くの魚屋さんをのぞいたら、買い物に来ていたおじさんから話しかけられた。 「寒いねえ。ふところも寒いよ。この冬、越せるか心配だよ。」そのおじさんは言った。 「仕事はどうですか?」と尋ねると、「仕事ねえ、ダメだよ、土方もダメだ(ない)し」という返事。 「おまちどうさま」という声とともに、魚屋さんがおじさんに袋を渡したので、「何買われましたか?」と尋ねたら、 「ねこちゃんと一緒に食べるの。あらだよ。これでもごちそう。それじゃあ、お先に」とおじさんは去っていった。 おじさんにつられて、私はさばの切り身を二切れ買って、家に帰った。
古い都営住宅に住んでいた頃は、1960年代的な共同体があって、いろんな人生経験を積んだ人たちが周りにいて、 とても居心地がよかった。貧しいくらしではあったけれども、家のまわりに笑いが絶えなかった。 長屋ぐらしは、私が生まれた頃の時代にタイムスリップしたように、時間がゆったりと流れていた。
しかし、今は、都営住宅も建て替えられ、近所の人たちは、新しい高層の住宅に移っていった。 近所をパトロールしているおじさん、おばさんたちの数もめっきり減った。何だか寂しくなった。
私は一体何がほしいのだろうと、ふと考えた。私がほしいのは、瀟洒(しょうしゃ)なマンションでもなく、 仕事での成功でもなく、ただお互いにいたわり合うことができる、笑いと安心のあるくらしなのだということに気がついた。 ここ三十年あまり、金メッキのように社会の表面は豊かになった。多くの人が車ももっているし、パソコンも携帯電話ももっている。 だけど、肚の底から笑うような経験をどのくらいしているだろうか。
人の喜びを自分の喜びとし、人の悲しみを自分の悲しみとする人間としての共感と想像力をどのくらいもっているだろうか。 モノや情報に囲まれることで、モノや情報はなくても人生を楽しめる人間力は、かえって衰えているのではないだろうか。
この文章を書きながら、私は、笑いと安心のあるくらしを求めているから、今こうして仕事をしているのだということに気づいた。
まもなく34歳という時の文章であった。あの頃の私もやっぱり私だという気もするし、あの頃は遠くに なりにけりという気もする。両方の思いが自分の心のなかでぶつかっている。
34歳の頃、私にはまだ子どもがいなかった。そして、ヨーロッパに行ったこともなかった。 その前夜、9・11のアメリカ・ニューヨークでのテロ事件があり、大きな衝撃を受けた。 1990年代という時代が一体何であったのかを理解することができず、深い霧の中にいた。 「仕事での成功」も求めておらず、ただ目の前の学生たちに何とか通じる言葉をもちたいと 日々七転八倒するばかりであった。
その後、イギリスに行き、子どもが生まれ、教育というものの大きさ、尊さが 実感できるようになった。そして、迷走する日本社会のなかにあっても、ブレることのない 仕事の軸のようなものが、ほんの少しながらも見えてきた。それは、恩師である佐藤学先生が 「学びの共同体」という教育のヴィジョンを示してくれ、さまざまな学校の授業の事実のなかで そのヴィジョンが実現するのをこの目で見たことによって、より確かなものとなった。 2007年に出会った静岡県富士市立元吉原中学校の教育実践は、私の仕事の上での大きな転機と なった。
私はいろいろと遠回りをしてきた。実際にやってみなければわからない蒙昧な私には、 この過程は必要なことであった。そして、今、ようやくこの地点に立っている。
その私であるが、昨晩私は34歳に見えたらしい。単に容姿から判断されたわけではなく、 1時間15分にわたる講演を聴いていただいたあとに言われただけに、何とも複雑な気分であった。 おそらく私が今ほんとうに34歳であったならば、なかなかの有望な教育研究者の仲間入りが できたかもしれない。だが、凡庸な私は、34歳ではない。もう一回り上の年齢なのだ。
そのテーブルで、私が自分の年齢を明かすと、「えっ」という声が上がった。実にしっかりしたお姉さま先生たち から「私より年上なんですね」とびっくりされた。確かに、素敵なお姉さま先生たちは、安心感と 安定感、そして包容力に溢れており、私のような危なっかしさが感じられない。きちんと丁寧に歳を重ねて 生きてこられたことが伝わってくる。細やかな他者への配慮を忘れることなく、一日一日を丁寧に 生きてこられたにちがいないのだ。
周回遅れの私の人生だが、きちんと年輪を刻んでいきたいと思っている。
11月は、ここまで穏やかな秋の日に感謝しながら過ごしています。 引き続き、静かに落ち着いた時間を過ごしたいと願いつつ、皆さまの 日々の生活の平安を祈っております。
2013/11/1(Fri) 四等国
10月は台風が次々とやってきた。そして、あっという間に11月である。 朝晩はめっきりと涼しくなった。学生たちも体調を崩しての欠席が多くなった。 私も大学時代しょっちゅう体調を崩していた。それでも仕事を始めてからは、 幸い大きく体調を崩すこともなく、何とかやっている。責任というのは、人間を 支えるものなのであろう。一方で、この国では、責任という言葉があべこべな かたちで使われていて、人々を不幸に導こうとしている。
責任(responsibility)という言葉は、そもそもその語源からして応答(response) する能力(ability)から来ており、統治する側、ケアをする側に要求される資質である。 民がこのようなことを求めているから、社会がこのように歪んでいるから、かくかく じかじかの対応をするというのが、統治する者が果たすべき責任である。そして、赤ちゃんが泣き やまないから、患者さんが苦しそうにしているから、何をしてあげればいいのかと 心を配り、まず第一にそのことを考え、できる限りの対応をするというのが、ケアをする者が 果たすべき責任である。つまり、責任とは、社会的により弱い立場にある者との関係のなかで、 その声に耳を澄まし、相手を力づける道を探ることによって、自らも大人として、人間として の成熟を実現するものなのである。
ところが、日本社会では、しばしば責任は弱いものになすりつけられてきた。戦争指導者たちが戦争責任を 自ら問うことがなかったところから始まり、水俣病、三井三池炭鉱粉塵爆発、そして、JR西日本の 福知山線の脱線事故、福島第一原発のカタストロフィに至るまで、権力をもつ者たちがその責任を 問われることはなく、水が高いところから低いところへ流れるように、そのしわよせは社会的に 立場の弱いもののところに向かうのだった。
責任逃ればかりしている者たちが声高に責任と言い、状況をコントロールする権限を与えられて いない者たちが実質的な責任をとらされる。これでは、社会の倫理は成り立つまい。為政者たちは、 倫理の欠如を道徳なるものでごまかそうとしているが、日本のいわゆる世間教からなる道徳というものは、 多数決によって責任を弱いものになすりつける装置として機能するだけで、無責任問題の解決には 至らないばかりか、かえって事態をややこしくするだけになるだろう。
重い責任を負うべきは、権力者たちであるにもかかわらず、権力者の責任を軽減し、国民の権利を制限し、 国民の義務を重くするような法案が相次いで国会に提出されている。なかでも「特定秘密保護法案」は、日本国憲法の 根幹である国民主権を揺るがす驚くべき法案であり、私たちの社会は、戦前に逆戻りする道を歩もうと しているかのように思える。
日弁連によると、「特定秘密保護法案」の問題点として次の五点が挙げられている。
①「特定秘密」の範囲が依然として広範(別表第1号)であり,また,極めて曖昧であること(同第2号乃 至第4号),
②そのため,「特定秘密」の指定に当たって,官僚の恣意が働く余地 が極めて広いこと,
③このような情報が漏えいすることに関して,処罰範囲が広 く,かつ,刑罰が重いことから,言論の自由,知る権利を侵害するおそれが大き いこと,
④取扱者の適性評価制度は,プライバシー侵害性が極めて高いことなど の問題がある。
⑤しかも,驚くべきは,行政機関から国会への「特定秘密」の提供 の条件に関しても行政機関の広範な裁量が認められており,国会による行政機関 の監視機能を空洞化させるものになっている。これは,国会の国権の最高機関性 を著しく損なうものである。これでは,国会は,「特定秘密」の名を借りた違法秘 密や擬似秘密を暴くことさえできず,国会の行政に対する監視機能が空洞化する。
以上の五点に対して、国会議員たちはどのような応答をし、国会議員としての責任を果たすのであろうか。
国民の代議士としての国会議員の権限を大幅に縮小し、国民のコントロールが 効かない無法地帯を、行政に提供するような法案に、国会議員たちが揃って賛同する としたら、もはや国会議員にその存在意義はないといっても過言ではない。
あべこべな言葉遣い、あべこべな法案は、私たちの社会の土台を切り崩して、 国民主権と基本的人権、平和のためにたたかってきた先人たちの血の滲むような 努力を台無しにしつつある。このようなことがこれまでの歴史のどこにあったこと だろうか。『坂の上の雲』を夢見る指導者たちに率いられながら、私たちの社会は、 昔登ってきた坂道を転げ落ちながら、四等国への道を自ら選ぼうとしている。
毎日新聞が「特定秘密保護法案」についての社説を掲載しています。併せてご一読下さい。
毎日新聞 社説:「秘密保護法案 国会は危険な本質見よ」
11月は、穏やかな秋の日に感謝しながら過ごしたいと思います。 10月は波瀾万丈、台風万来で、全然落ち着いていませんでした。 11月こそは、静かに落ち着いた時間を過ごしたいと願いつつ。 引き続き、お身体とお心にお気をつけてお過ごし下さい。
2013/10/1(Tue) シンガポール
9月をすっとばしてしまい、10月になってしまった。全くもって面目ない。 彼岸を過ぎて、すっかり外の風は秋めいている。夏のあとに秋があるのは、 実にありがたいことだと思う。ただ、秋の時間は短い。
9月はゼミ研修でシンガポールに出かけていた。シンガポールの街は、バブル時代の 東京を彷彿させるようであり、とにかく活気があった。食べ物もおいしく、治安もよく、 水族館も楽しく、出かけるにはなかなかいい場所に思えた。
ほぼ赤道直下に位置するシンガポールは(北緯1.22度)、まさに常夏の国で、 外を歩くと、すぐに汗ばむほど暑く、夜になってもなかなか温度が下がらなかった。 しかしながら、建物に入ると、驚くほど涼しく(寒く)、ホテルの部屋の温度も、 15℃に設定されて、ギンギンに冷えていた。節電という意識はほとんど感じられなかった。 そして、夏と冬で寒暖の差がないとはいえ、外と内で寒暖の差の激しい国であった。
シンガポールでの滞在はなかなか楽しかったのだが、いろいろと考えさせられる こともあった。その一つは、東南アジアの国々の人々がみなシンガポールの人々のような 暮らしをするならば、地球はもたなくなるだろう、ということであった。たしかにシンガポールには、 活気がある。しかし、この活気は、経済成長に支えられたふんだんなエネルギーの消費と、 経済成長のために外国の資本や世界の富裕層をシンガポールに集める政治的、経済的戦略によって、 成り立っている。そして、この社会の下支えをしているのは、隣国のインドネシアなどからの 底辺労働者である。
さらに、シンガポールでは国民の教育に対して手厚い保護がなされている。学校の校舎も 立派で、ITなどの最新設備も整っている。しかしながら、外国人労働者などは、この保護から ほぼ除外されているのが現実である。
シンガポールの国の面積は、ほぼ東京23区と同じである。実にコンパクトである。 ここまでのシンガポールの成功は、周囲に安価な労働力となる第三世界をもつ都市国家である ということを前提としており、日本にそのままその制度設計を導入することは困難であるように 思われる。
ただ、私たちが学ぶべきことはたしかにあった。その一つは愛国心教育について である。シンガポールの愛国心教育は、ある民族の尊大さを増長させるものではなく、 多様な民族間の相互の尊重と理解を深めるものとして存在している。そもそも シンガポールは、中国系、マレー系、インド系を中心とする多民族国家であり、 放っておけば、民族間の対立が生じるおそれがある。そのなかで、シンガポール人と しての意識を育むために愛国心教育はあり、これはむしろ日本でいうならば、 地球市民教育やコスモポリタニズムと近いものであるといえる。
シンガポールの中等学校の食堂には、中華料理、イスラム料理、インド料理、 西洋料理のコーナーのほか、日本料理のコーナーもあった。シンガポールに住んでいると、 自然と世界とのつながりが見えてくる。そういう意味でも、日本にはない開放感が あった。
自家中毒になるという結末しかありえない尊大な民族主義を手放して、 世界とつながる快楽をもっと多くの機会で感じたいものである。
学生たちは、その若い感受性で、今回の海外ゼミ研修旅行から実に多くの貴重な ことを学んだ様子である。後期第一回目のゼミで、すべての学生にシンガポール 旅行から学んだことを報告してもらったところ、大幅な時間延長となった。 こうした機会を与えてくれた東京経済大学には、感謝したい。
10月、短い秋の時間を、静かに落ち着いて過ごしたいものです。 引き続き、お身体とお心にお気をつけてお過ごし下さい。
2013/8/11(Mon) 記録更新
8月になった。夏空というのは、青い空のところどころに白い雲が沸き立つような、 爽やかなものだというイメージがあるが、今年の東京の夏は、どんよりと重く、ねずみ色の 空が地上に住む人々を圧迫するかのようである。そして、とうとう11日の東京都心の最低気温は、 30.4度となった。11日の朝、東京都心の気温は30.9度までしか下がらなかった。そして、 昼過ぎに38.3度まで上昇し、日付が変わる直前に30.4度まで下がり、これが最低気温となった。
過去138年間で東京がもっとも暑くなった夜、私は書斎にエアコンをつけて休んでいた。 そこにいるときは快適であったが、廊下を歩こうものなら、頭がぼっーとするくらい、 熱気がこもっていて、とても人間が住めるような場所ではなくなっていた。シェルター以外 の場所では生きていけない、そのようなかつての近未来SFが現実のものとなってしまって いる。
そして、今日12日、四国の高知県四万十市で最高気温41.0度を記録し、日本最高記録を 更新したとのこと。うだるような暑さに包まれて、おなかのなかで食べ物が煮えそうである。 我慢比べの日本の夏、にもかかわらず、なぜだか、電力各社から電力供給が不足しているという話 をとんと聞かない。それでも、原発再稼働に踏み切るのだろうか。フクシマでは、放射能汚染水の 流出が深刻な問題となっているのに。
10日、西日本への旅を終えて、東京に戻ってきた私は、炎暑のなか、自転車で近くの スーパーに買い物に出かけた。そして、東日本での買い物と、西日本での買い物に、決定的な 違いがあることに気がついた。東日本で買い物をするとき、食品の産地がとても気になるのだ。 放射能に汚染されている食品は、何としても避けたい。自分はともかく未来のある子どもたちに は食べさせたくない。市場に出ている商品であれば、安全なのかもしれないけど、 政府や電力会社の情報隠しを見ていると、どうにも信用がならない。そうなると、少しでも 原発事故の現場から遠い産地の食品を選んで購入することになる。そして、そのような食品は、 明らかに割高であり、それにもかかわらず品薄なのである。さらに、格安で大量に並んでいる 食品は、産地が微妙なところにある場合が多い。
おいしいものを買うという、いわば楽しみであるはずの買い物が、東日本では、 ストレスになっているということに、改めて気がついた。政策に関与している人たちは、 このような人々の日常のストレスをどこまで理解しているのであろうか。そして、安心して 食品を購入できるという、私たちの暮らしの土台にあるべきことを犠牲にしてまで、 守りたいもの(推し進めたいもの)とは、一体何なのだろうか。
「日本を取り戻す」のであれば、原発事故の起こる前の、そして原発乱立が起こる前の 「美しい日本」をこそ取り戻していただきたい。今は東日本の問題であるが、再び原発事故が 起こったら、西日本も決して人ごとではない。第二次世界大戦のあまりにも愚かな「敗戦」から 学ぶことができず、そして、今回の悲惨な原発事故からも学ぶことができないのならば、 あまりにも私たちの社会はホープレス(絶望)ではないか。
1000兆円を超える国の借金、乱立する原発とそこから生み出される放射性廃棄物、 いずれも現在の問題というのみならず、私たちの未来をも破壊するものである。ここに今の社会の深刻な 倫理的問題が存在している。破壊の射程が、かつてよりも大きく広がっているのだ。
こうしたなか、敗戦から68年目の夏を迎えている。日本の敗戦は、敗戦がもたらす 塗炭の苦しみを、沖縄や朝鮮半島の人々が担うという、ねじれたかたちで経験された。 だから、私たちは歴史を学ぶという営みに抜きには、敗戦という経験の意味を学ぶことは できないのである。敗戦という経験の意味を学ぶことができなければ、わかるまで負け 続けなくてはならないということになる。これは実に悲惨なことである。
高校野球にしても、世界陸上にしても、この国の若者たちは実によくがんばっている。 それは大いに誇るべきことだ。しかしながら、がんばること自体に価値があるのではなく、 どうがんばるのか、何に向けてがんばるのかが問題なのである。どんな社会をつくって いきたいのか、国際社会のなかで他の国々との間にどのような関係を構築したいのか、 こうしたことをきちんと考えていかないと、すべてが行き当たりばったりで、すぐに にっちもさっちにも行かなくなってしまう。
8月、暑さと喧噪のなか、静かに新たなる時代をデザインしたいものです。 お身体とお心にお気をつけてお過ごし下さい。
2013/7/1(Mon) 岩の上
7月になった。2013年もちょうど半分が過ぎたことになる。早いものである。 そして、6月は何とか生きていたものの、とても疲れた。この国で生きていくというのは、 なかなか疲れるものがある。あるいはどの国であっても、生きていくのは疲れるものかも しれない。それでも、この国に生きることの疲れかたは何ともいえないものがある。 何の確かさももたないまま、イナゴのように右に行ったり、左に行ったりしている 時代の風あるいはリトル・ピープルに、ただただ振り回されながら、右往左往している のが、今の私たちの姿ではないだろうか。そのなかで、機を見るに敏な人が時代の寵児と してもてはやされるのだが、賞味期限が過ぎると、どこかに捨てられてしまう。 そのなかにあって、どうしたら「砂の上」ではなく、「岩の上」に家を建てることができるのか。 自分自身の歩みを自省したい。
6月はいつものように旅のなかにあった。栃木に出かけて、山梨に出かけて、 それから高知に出かけた。高知では、黒潮がほんとうに黒いことに感銘を受けた。 そして、私の高校の先輩であり、恩師が「卒業生のなかでももっとも幸せな人の一人」と 常々おっしゃっている歴史民俗資料館の学芸員の先生にお会いしてきた。 初対面であったが、その立ち姿からは、恩師と同じ学びと寛容のオーラが漂っていて、 永遠の少年のような目の輝きが印象的だった。
高知に行き、そこで学芸員を務めるというのは、おそらく当時の高校の文化からすると、 ずいぶんと個性的な人生の選択だったように思う。高校はひたすら上昇志向の空気に包まれており、 その視線は東京あるいは医学部に向けられていた。そして、医者になるか、あるいは官僚になるか、 というのが当時の生徒たちの進路の王道ではなかっただろうか。
しかしながら、若い頃、自分に正直であった人は、それだけ苦労もするものだが、 のちにそれだけ実りのある人生を送ることもできているように思う。自分自身の歩みを自省する とき、自分はどこまで自分に正直であったのかと疑問に思うことがある。そして、そもそも自分に 正直であるとはどういうことなのか、と考えると、いろんなことがわからなくなってくる。 人間は思った以上に複雑な存在なのだ。自分の選択のほんとうの意図は、自分自身でもわからない 場合もしばしばあるのである。
何はともあれ、世の中には、上昇志向に参加することを快しと思わず、ひっそりと 誠実に生きたいという人々が必ずいるのであり、こうした人たちが幸せに生きることが できる社会が、真に豊かな社会であると思うのである。こうした人たちは、周りの人たちを 幸せにする力をもっており、こうした人たちを大事にしていくことが、幸せな社会を つくることにつながるのだ。
ところが、今の社会は、あらゆる人々に上昇志向を強いるものだから、弱いもの (無条件に叩けるもの)を見つけるとイナゴのように群がる人々があらわれる。 人を叩いていると、その人が叩き落とされているつかの間の間、自分が上昇しているかの ような錯覚を得ることができるものだから、この運動は繰り返される。 そして、不幸な社会が築かれていく。
イナゴとたたかっても勝ち目はない。イナゴは自分のしたことの意味をわかってもいないし、 反省もしないからである。人間を育てていかないと、どうにもならないのだ。
先週からクワガタムシを飼っている。研究棟のエレベーター(5F)の前に 瀕死の状態で転がっていたのを、持ち帰ったものである。この一週間でずいぶん元気に なったが、成虫のクワガタムシが土の中に潜るということを、初めて知った。 クワガタムシもまた、ひっそりと生きるのが本来の姿のようである。
7月、社会の激動のなか、岩の上に新たなる時代の礎を建てたいものです。 お身体にお気をつけてお過ごし下さい。
2013/6/3(Mon) 責任と希望
6月になった。新しい自転車は快調に走っている。さて、乗り手の私はというと、 なかなか快調というわけにはいかないが、何とか生きている。生きているだけで上々と もいえる。6月も何とか生きていきたいものだ。
6月は紫陽花の季節であるが、同時に私にとっては教育実習の季節である。 学生たちが全国各地で奮闘しているのを、遠くから応援したり、時には授業を参観して コメントを述べたりしている。学生たちの授業からは学ばされることが多々ある。 責任が学生たちを成長させること、そして責任とは他者との関係、とりわけ自分より 弱い立場にある他者との関係から生まれること、などなどである
学生たちは子どもたちと向き合うことにより、私たち教員と向き合っているとき とは比較にならないほどの責任を自ら引き受け、教育内容を真摯に学び、教材を 準備して、授業で子どもたちと対峙している。たとえ、そこに足りない点が多くても、 子どもたちは責任を引き受けようとしている学生たちに温かいまなざしを向けている。 このような教室は実に清々しいものがある。
また、日々、大学で学生たちと接しながら思うことがある。教員がどんなに あがいても、学生が学生をケアする力にはかなわないということだ。学生は学生からの ケアによって自分の居場所を得て、自立の力を育てる。教員としてできることは、 そのような関係性を、何とかして学びの場につくることだけだ。
学び手を信頼すること。そこからしか学びは始まらない。
おそらくこのことは、学び手としての自分、何かを変えていく主体としての自分を 信頼することとつながっているのだろう。
小さなことであってもたたかって何かを変えたという成功体験の積み重ねが、 私たちの民主主義を担う力を育てていくにちがいない。諦めたらそこで終わる。 粘り強く、一歩でも半歩でも前進することだ。
ブラジルで識字教育を行った偉大な教育思想家パウロ・フレイレは、 「ものごとを変える、変えることができる、という意志と希望を失ったそのときに、 教育は、被教育者にたいする非人間化の、抑圧と馴化の行為の手段になっていく」と 述べている。(『希望の教育学』パウロ・フレイレ著/里見実訳(太郎次郎社)より)
学生たちの変容は、私たちに希望を与えてくれる。今年もまたこの6月、希望を 探す旅に出ることになる。
6月、この梅雨の季節、じっくりと学びたいものです。ただ体調を崩しやすい季節 でもあります。どうぞお身体を大切にお過ごし下さい。
2013/5/1(Wed) 無知
新緑が心を和ませる時候となった。大型連休ということだが、大学は祝日授業もあり、 まとまった休みはない。落ち着いて仕事ができるのが一番有り難いことなので、大型連休と 無縁の状態は、なかなか悪くない。それでも、先日、14年間乗り続けた自転車の具合が 悪くなったものだから、お気に入りの職人のおじさんがいる自転車屋さんまで遠乗りした。 診断の結果、自転車はご寿命とのことで、これまでの長年の労をねぎらったあと、 さようならをして、新しい自転車に乗って帰路についた。新しい自転車は三段変速ギアと オートライトがついている。乗り心地もよく、これからの自転車ライフが楽しみである。 行楽地に遠出しなくても、自転車で走るだけでも結構気分爽快になる。大量のエネルギーを 消費する時代ともさようならをして、身の丈にあった生活をしていきたいものだ。
2013年の新年度となり、2003年にイギリスのノリッチに向けて渡航してから 早10年が経つということに驚いている。2003年3月にイラク戦争が始まり、その直後の 渡航ということもあり、緊張に包まれての出国であった。だが、イギリスの社会、 そしてノリッチという都市は、実に落ち着いたところであり、思いがけず安心できる 暮らしを送ることができた。そして、彼の地から日本をみると、生活者が守られていない という印象をもった。今もなお、人種差別が平気で行われ、野放しになっているこの国の ありかたを、大変残念に思い、またその未来を深く憂いている。
悪意と無知とどちらがよりたちが悪いかを考えるとき、かつて私は悪意がより 悪いと考えていたが、今は無知より危険なものはないと考えるようになった。 悪意はコントロールできるけれども、無知はコントロールできないからだ。 内田樹氏が述べているように、今、日本にはかつてのような煮ても焼いても食えない ような政治家はほとんどいなくなり、つるりとした顔をした政治家が増殖している。 そして、無知と正義が恥ずかし気もなく結合したような言説が、この社会を覆い つつあるように思える。無知である人たちは、おそらく社会を崩壊に導いたとしても、 それを自分の罪であると考えることができないであろう。しかしながら、はっきりと 言っておかなくてはならない。無知であるということは、明らかに有罪(guilty)である。 今、コミュニケーション不全の社会が、知識社会のなかでの無知を増殖させている。
しかしながら、民主主義のお手本とされる古代ギリシアにおいてすら、 無知の民衆がソクラテスに死刑を宣告するという出来事があった。 そこまで人間の理性というのは、信頼できないものなのだ。だから、私たちが 依拠すべきなのは、知識や科学ではなく、人間の理性や知性には限界があるという まさしく「無知の知」なのである。
私たちは現代日本を襲った3・11の出来事を通して、人間の理性や知性の 限界を突きつけられた。そして、ネズミ一匹に生命線を破られる原子力発電所の 脆さを知ることとなった。今、私たちは原子力の安全神話、すなわちすべて人間が 制御できるという物語を、信じることができないでいる。信頼できる研究者たちは、 少なくとも今の人類の技術では、想定外のことが起こったときに、放射線による 汚染をコントロールすることはできないと異口同音に語っている。
「無知の知」とは、知性の放棄ではない。むしろ知性の尊重である。 わからないということを自覚し、自然や社会、人間の前で謙虚になること、 ここから知の営みははじまる。そしてスポーツで一流の選手ほどその競技の 難しさを知っているように、知の営みを深めている人ほどその事象のわからなさを 知るのである。
自分がわかっていないというのに気がつくのは、なかなか難しく、 多くの人は成人する頃には、気がつくのであろうが、私のような凡庸にも及ばない 人間は、最近ようやく気づいていたりする。だから、無知を笑うことは到底できない のであり、ともに無知と向かい合っていくしかないのである。
おまえはほんとうは無知なのだよと、ときには踊りや振りつけも交えながら、 辛抱強く教えて下さった恩師たちや、居眠りや表情で日々教えてくれている学生たちに 感謝しつつ、5月もまた無知からの出発を始めたいと思っている。それでは皆さんどうぞ よい5月を!爽やかな季節を満喫したいものです。
2013/4/1(Mon) 書店
昨日、東京駅に用事があって出かけたついでに、八重洲ブックセンターに 立ち寄った。時々、このコラムでも愚痴っているように、最近、外に出かけても 何かと不愉快なことが多いものだから、全体的に引きこもり気味になっていて、 本もネットで注文することが多く、書店から足が遠ざかっていた。ところが、 久しぶりに本格的な書店に出かけると、質の高い書店というのはまさに文化 そのものであるという印象を受けた。質の高い書店という環境が、私たちの 気持ちを高めて、思考を促してくれるのである。
質の高い書店には、自分が探し求めている本のみならず、いまだ知らなかった けれども、ほんとうはこれがほしかったと思える本が存在するものである。 目標と行動との関係において、あらかじめ決められている目標、ミッションをもち、 適切な行動によってそこに到達するというモデルと、行動することで目標自体が アップグレードし、ミッションもまた高められるというモデルがあるとすれば、 人間の豊かな人生は後者のモデルに近いのではないだろうか。
思いがけない楽しみがあるところに、私たちが外に出かける意味があるので あり、私たちはただ用を足すために出かけているわけではない。そして、思いがけない 楽しみがあるところに人生を生きていることの意味があるわけであり、私たちはただ レールに乗るために人生を生きているわけではない。書店が思いがけない楽しみを 準備してくれるように、大学は思いがけない知の喜びを準備する場所でなくては ならないと思う。
今日は大学の入学式。希望に胸を膨らませて大学の門をくぐった学生もいれば、 不本意な思いを抱えてここにいる学生もいることだろう。いずれにせよ、私たちは 学生のニーズに応えるだけではなく、学生のニーズを超える何かを準備しなくては ならない。そのようなものに出会えたときに、学生たちの心も小さなこだわりを超えて 未来に向けて大きく躍動できるようになるだろう。
しばらく前から週に一回体幹トレーニングの教室に通っている。そこで感じたことは、 先生と生徒のコミュニケーションというのは、実に奥が深いということである。生徒はただ 自分の思い通りに過ごしたいと考えているわけではない。自分を高めたい、高まりたいと 思っている。だから、少々苦しくても、先生にしっかりと指導してほしいと思っている。 だけど、もちろん、意味のない苦しさには、納得がいかない。生徒が音を上げるとすぐに 緩める先生は信頼されない。だが、生徒が音を上げていることを感受できない先生も 信頼されない。それに、一人ひとりの生徒で体力も、目指すところも違う。 わずか6名ほどの生徒を相手にしても、先生は大変である。
それでも、生徒が高みに上りたいという思いは、信頼できるのではないだろうか。 想像している以上の高みに導いてほしいという思いは、教育を成り立たせている根底に あるのではないだろうか。
プログラム化されている学習には、想像している以上の高みが存在しない。 これに対して、人と人とが出会うことによって生み出される学びからは、しばしば想像を 超える何かが生まれる。そして、この何かこそが、私たちが生きることの意味であり、 生きることの喜びを実感させるものである。
想像以上の学びの世界に私を導いてくれた恩師たちに感謝しつつ、本年度もまた学生たちと 新しい学びの頁をひらきたいと思っている。それではよい4月を!
2013/3/7(Tue) 福井
福井に出かけた。大学時代に日本海をぐるっとまわる鉄道の旅をして以来、 久しぶりの北陸である。しかも、以前出かけたときは、石川県から北陸本線で 南下して福井に入り、敦賀から小浜線、舞鶴線、宮津線(現、北近畿タンゴ鉄道)を 経由して、山陰本線に出たものだから、東海道本線の米原から福井に入ったのは、 初めてのことになる。
米原駅から福井駅まではJRの営業キロで99.9km。あまりの近さに驚いた。 近畿の近江と北陸の越前はもっと離れているイメージがあったのだが、考えてみると、 戦国時代には、北近江の浅井家と越前の朝倉家は深い同盟関係にあり、どちらかが 攻められると、すぐさま先方に援軍を送っている。険しい山岳地帯に隔てられては いるものの、近江と越前は歴史的にも地理的にも近い関係にあったのだ。
さらには、米原駅から敦賀駅までは同じくJRの営業キロで45.9㎞。 かつての若狭の国、現在の福井県嶺南(れいなん)地方は近畿地方と直結している。 若狭湾、敦賀湾というと、本州の北のはてというイメージがあったのだが、これは全く 私の不勉強の致すところであって、実は日本列島の大動脈である東海道新幹線から わずか50km圏にあったのである。
越前国(福井県嶺北地方)は、西は日本海、東は美濃国(岐阜県)との国境(くにざかい)の 険しい山岳地帯に囲まれた土地で、西に海、東に山という配置が、私が生まれ育った筑後国と よく似ている。しかしながら、筑後国の西に位置する海が有明海という穏やかな内海であり、 東に位置する山がなだらかであるのに対して、越前の国は日本海という波高き外海に面するとともに、 屏風のような威風堂々とした山々に囲まれており、風土には大きな違いがあるように感じられる。
福井県は、第二次世界大戦での敗戦後、大陸からの大勢の引き揚げ者が舞鶴港を 目指したように、朝鮮半島、沿海州と向かい合っている。さらには、古代日本の中心で あった畿内とも隣接していることから、歴史的にも重要な舞台となってきた。 ヤマト王朝の草創期には、越(こし)の国の王であった男大迹王(をほどのおおきみ)が、 畿内に入って、継体天皇として即位している。奈良時代には、藤原仲麻呂が反乱を起こし、 敗れたのち、再起を図って越前を目指している。南北朝時代には、新田義貞が越前国藤島(福井市)で その最期を遂げている。
また、古代から越前国は大国と位置づけられており、豊かな土地として知られていた。 芥川龍之介の短編小説『芋粥』は、『今昔物語集』を題材としたものであるが、これは 京で貧しい暮らしをしていた主人公を、地方豪族の藤原利仁が自らの本拠地である越前国敦賀に 招いて、ありあまる芋粥をふるまう話である。江戸時代にも、越前藩は大国であり、 御三家に次ぐ格であったが、のちに領地は細かく分割されている。それでも、 海運が中心であった近世において、三国や敦賀は、流通の要港として栄えていた。
近代に入り、昭和30年頃まではほぼ県の人口が増え続けていたが、日本列島が 高度経済成長に入った1960年代、急激な人口の流出が進み、全国に先駆けて、人口停滞、 そして人口減少が始まった。昭和35年に75万2696人だった県人口は、昭和40年には75万557人、 昭和45年には74万4230人へと減少している。この間、県庁所在地の福井市の人口は増加している ことと、全国の人口が9430万人から1億466万人へと10%以上増加していることを考えると、 福井県の辺縁部での人口減少は、過酷なものであったことが推察される。
ところが、1960年代にわたって停滞、減少していた福井県の人口は、1970年代に入ると、 一転して増加に転じている。昭和45年(1970年)に74万4230人だった県人口は、昭和50年には 77万3599人と上昇し、昭和55年には79万4354人となり、昭和60年には81万7633人まで到達して いる。あるときまで時代から取り残されつつあった地域が、ある時期を境として、突如、 繁栄の道を歩み始める。ここにはどのようなトリックが隠されていたのだろうか。
昭和45年(1970年)は、日本原子力発電敦賀発電所1号機が営業運転を始めた年であった。 同年、関西電力美浜発電所においても1号機が営業運転を始めている。これは民間電力会社が 運営するはじめての原子力発電所であった。その2年後の昭和47年(1972年)には、美浜発電所 2号機、そのまた4年後の昭和51年(1976年)には3号機がそれぞれ運転を開始している。 さらには、福井県の西端で、関西電力高浜発電所が建設され、昭和49年(1974年)に1号機、 翌昭和50年(1975年)に2号機、昭和60年(1985年)には3号機、4号機がそれぞれ運転を 開始している。
福井県の原子力発電所建設ラッシュはこれにとどまらない。現在、日本で唯一稼働している 関西電力大飯発電所は、昭和54年(1979年)に1号機と2号機の運転が始まり、平成3年(1991年)、 平成5年(1993年)にそれぞれ3号機、4号機の運転が開始されている。大飯発電所は出力ワット 数が大きく、1号機から4号機までがすべて美浜1号機(34万キロワット毎時)の3倍以上の 出力となっている(117.5万~118万キロワット毎時)。これに加えて、昭和62年(1987年)には、 日本原子力発電敦賀発電所で2号機の運転が開始されており、以上で、福井県内の原子力発電所は、 4×3+2×1=14基に達する。
これでもう十二分(more than enough)という気持ちであるが、福井県内の原子力発電所は まだ存在する。一つは、昭和54年(1979年)に運転開始となった日本原子力研究開発機構新型転換炉 ふげん発電所(ふげん)である。プルトニウムを燃料に使用したこの炉は、相次ぐ事故のため、 平成15年(2003年)に運転終了となり、廃炉に向けての作業が進んでいる。そして、もう一つは、 同じく日本原子力研究開発機構高速増殖原型炉もんじゅ(もんじゅ)であり、平成7年(1995年)に 2次系ナトリウム漏えい事故以来、試運転を停止、(平成22年)2010年に再開するも、3ヶ月後に 炉内中継装置落下事故によって運転停止となっている。
ふげん、もんじゅの名前は、仏教の普賢、文殊という両菩薩に由来している。普賢菩薩と 文殊菩薩は、慈悲と知慧を象徴する菩薩であるという。この命名には、祈りがこめられていた のかもしれない。だが、未来永劫禍根を残す可能性のあるこれらの炉に、はたして人類の智慧と そこに住む人々への慈悲がこめられていたといえるだろうか。
福島と同じように、福井もまた、原子力発電所を受け入れるという苦渋の選択によって、 しばらくの繁栄を手に入れることができた。しかしながら、この繁栄は砂上の楼閣のような ものではないだろうか。故郷を失った人々の苦しみ、そしてそこで生み出されている継続的な 悲しみ、痛みは、経済的な効率性と天秤にかけられるような生易しいものではない。 本来であればもっと前に気づかなくてはならなかったのだが、せめて3・11のあと、 私たちは、生き方と社会のシステムを、変えていかなくてはならない。それが原発事故のために 震災のあと救助もされずに命を落としたり、故郷を失い、生きがいすらも失った人々に対する 私たちの責任であるだろう。経験から学ぶことができなければ、私たちは自分たちの手で 自分たちの首をしめることになる。
ご先祖様の土地に毒をまいてはいないか、孫、子の遊び場に地雷をしかけてはいないか。 科学技術や経済成長という言葉のもつ魔力に、集団的にだまされてはいないだろうか。
たまたま福井への車中で読んだ一冊の本は、これからの私たちの生き方について深く考えさせてくれるものであった。 3・11の苦しみのなかから、こうした本が生まれているということに一筋の希望を感じる。絶望的な「現実」のなかからも希望を紡ぐことが、 私たちにもっとも求められていることだろう。
『3・11後を生きるきみたちへ――福島からのメッセージ』たくきよしみつ(岩波ジュニア新書、2012)
(追伸) NHKの全国ニュースで故郷の風景が流れました。PM2.5で煙った 町の様子でした。東に行けば放射線があり、西に行けば大気汚染がある。どこにも逃げ場の ない悲しい時代になりました。このような時代からこそ、智慧と対話と協同が必要になって いるのでしょう。ただ、私は花粉症がひどくて泣きそうです。それでもよい3月を!
2013/2/6(Wed) Comeback
昨日、ゼミの補講を終えて、ようやく今シーズンの区切りがついた。 そして、明日から大学の一般入試が始まる。どこもかしこも、日本社会は 忙しい。とはいえ、何を求めて、どこからどこへ進もうとしているのか、 そこがはっきりと見えてこない。再度の政権交代の後、円安が進み、 株価が上がっている。だが、経済のミニバブルの陰で、原発事故を受けた エネルギー政策の抜本的見直しや、超高齢化社会を目前にした社会保障の 再構築など、日本社会の未来を見据えた議論は、後景に退いているように 思われる。
私は「日本を、取り戻す」という自民党のキャッチ・コピーは、 日本の多数派の人々に訴えかける上で、なかなかすぐれたものであったと思っている。 経済面での衰退、外交面での苦境、生活面での人々の孤立、ここ20年ほど、 日本に住む多くの人々は、かつてはあったはずの幸福な生活が失われていく のを感じ、苛立っていた。「取り戻す」という言葉に人々が惹かれたのは、 かつての時代に戻りたいという郷愁からではなかったか。 もちろん、今、自民党が政権を握ることと、自民党が全盛期だった時期に 戻るということは、別のことである。だが、「日本を、取り戻す」という キャッチ・コピーは、この二つを何となく結びつけて、衆議院選挙での 自民党の大勝を実現することとなった。
果たして1960年代、70年代は取り戻せるのか。そして、本気で取り戻す ためには、どのような針路を歩めばよいのか。このように考えると、人々が今回の 政権交代に託したほんとうの思いが見えてくるように思う。1960年代前半、日本にはまだ 原子力発電所は存在しなかった。1960年、南関東の人口は全国の18.9%(2010年には27.8%) にとどまっていた。1964年、東京でアジア初の五輪が開催された。同年、東海道新幹線が 開業している。1971年、婚姻率がピークを迎えた(戦争直後を除く)。そして、 同年の合計特殊出生率は2.16(2010年には1.39)であった。翌1972年、 日中の国交が回復されて、アジアの戦後に新たな時代が幕を開けた。 1975年、ベトナム戦争が事実上の終結を迎えた。
(以上、2/6執筆。その後、長野県松本市に出かける)
もちろん、この時代には、水俣病などの公害問題や炭鉱事故、交通事故の増加、 受験競争の激化、連合赤軍による浅間山荘事件のような負の歴史もあった。 だが、全体として、1960年代、70年代は、地域による格差は今ほどではなく、 就職して結婚し子育てを行うという営みが、「普通」にできる時代であった ということができるだろう。これは、貧富の格差が比較的少なく、社会における 階層の流動性も比較的保証されていたことを土台としている。
1960年代、70年代は、社会が豊かになっていることを多くの人々が実感できる 時代であった。続く1980年代には、日本社会はすでに折り返し点を迎えていたと 思われるが、バブル経済の祝祭によって、その事実はあまり気づかれることなく、 1990年代前半のバブル経済崩壊ではじめて、私たちは日本社会の変質に気づかされる ことになった。ちょうどこの時期、世界では東西冷戦が終焉を迎え、日本では長期に わたった自民党の一党支配に終止符が打たれている。この後の日本社会の凋落については、 ご存じの通りである。
1980年代後半以降、日本政府は巨大な借金を積み上げてきた。家庭や企業と同じように、 借金の恒常化というのは、組織やシステムの深刻な不健全さをあらわしている。誠に遺憾な ことであるが、1990年代以降21世紀はじめに至る日本人というのは、日本史上最もモラルの 低い人々であったと、後世の歴史家から判断されても仕方がない。なぜならば、自分たちの 飽食のために、孫子(まごこ)の財布にまで手を出し、先祖代々受け継いできた美しい国土を 放射能で台無しにしてきたのであるから。このことの反省なしに、「日本を、取り戻す」と 言っていても、未来はないのである。
今、1960年代、70年代のような社会を取り戻すためには、1960年代、70年代に 行っていたのと同じ政治を行うのではダメである。今は、当時とは比べものにならないほどの インフラがある。新しいインフラを作ることよりむしろ、今あるインフラを有効に活用する 方法を考えなくてはならない。そして、大量消費社会ではなく、持続可能な社会のシステムを 構想しなくてはならない。人々の関係を希薄化し、関係をお金に換える社会から、関係の 楽しさを作り出す社会への転換をはからなくてはならない。
滞っている人々のエネルギーを、怒りや憎しみの負のエネルギーに変えるのではなく、 必要とされている喜びを経て、思いやりと助け合いの正のエネルギーに変えることができたら、 社会は確実に変わるように思う。メディアや政治が、怒りと憎しみを煽るのは、その仕事に おいて楽をして、手抜きをしているからだ。相手のことをきちんと知りもしないくせに、 叩くのは恥ずべきことだ。メディアも政治も、人々の表層的な声ではなく、もっと深い声を 聴くところから、リスタートしなくてはならない。そして、おそらく、私たちは圧倒的な 現実を前にしての沈黙を経験することなしには、語るべき言葉を獲得することは できないだろう。
メディアの劣化についての論評は、内田樹先生のブログの文章が秀逸です。併せてご一読下さい。
内田樹の研究室
内田樹先生や小熊英二先生のような、 卓抜で目からウロコが落ちるような文章を読んでいると、一体全体、私が文章を書く意義など、どこに あるのだろうかと思ってしまいますが、山にはエベレストや富士山もあれば、三池山や大間山(わが故郷の ローカルな山々)もあるということで、どうかご寛恕下さい。
いやいや、おまえは一体山なのか、丘ではないか。いや、丘でもない、ただの荒れ地だろう。 いや、荒れ地でもない、窪みにちがいない。という声も聞こえてきますが、窪みも、砲撃から身を守る 隠れ場所になるかもしれません。
それではよい2月をお過ごし下さい。
2013/1/7(Mon)
片付け
新年あけましておめでとうございます。何はともあれ昨年も生き抜いて 新しい年を迎えることができたことを感謝します。また、時々たまのさんぽみちを 訪ねていただいていることを感謝します。ツイッター全盛の時代に月一回の更新では、 あまりにも牛歩でありますが、今年はヘビ年でもあり、これまで以上にクネクネ、ぬらりくらりと、 たわごとを書いてまいりますので、どうぞよろしくおつき合い下さい。
昨年末の総選挙は、人々の苦心惨憺の選択の末の絶妙な結果であった。 マニフェストが絵空事となり、消費税増税のみは実現した民主党には、厳しい 裁断が下された。同時に、危険であやしい匂いが漂っていた「第三極」も ブームにはならなかった。そして、自公で過半数をはるかに超えて、時計の針は、 3年半前に戻った。自公の獲得議席が多かったので、キャスティングボード狙いの 「第三極」も、肩すかしとなった。選択肢が見あたらないなか、これはおそらく 人々の集合的な知恵が働いたものであろう。だが、今回の選挙でももっとも 多数派だったのは、棄権した人たち、入れたい政党、政治家がない人たちであり、 このことは忘れてはならない。
聖書に次のような言葉がある。「恐れることはない。われわれと共にいる者は 彼らと共にいる者よりも多いのだから。」(旧約聖書・口語訳・列王記下6:16)。 この言葉を朗読しながら、今の日本社会はこれとずいぶんと違うなあと、ふと思った。 だが、その次の瞬間、いや、そうではない、今の日本社会でもこの言葉の通りなのだと いう思いがふつふつと湧き上がってきた。平安よりも争いを好む人が多いわけなどない。 協働よりも競争を好む人が多いわけなどない。信頼よりも不信を好む人が多いわけなど ない。人間はそもそもそのようにねじ曲げられたものとしては創られていないのだ。 だが、社会がこんがらがってしまっていて、自分自身や他者と平安に過ごす 方法や、他者を信頼し、協働する方法を、多くの人たちが知らないでいるだけなのだ。
ふと思ったこの確信は、私は何かしら大きな力を与えてくれた。いつも少数派で あると思っていたのだが、もしかしたらそうではないのかもしれない。
東京新聞のコラムで中村圭子さんから教わったことだが、 新内の岡本文弥の「戦争は嫌でございます。親孝行ができませんし、なにしろ散らかりますから」 という言葉は、実に心に響いてくる。ほんとうに戦争は「散らかりますから」。
私たちはフクシマを散らかしてしまったのだから、まずはこれを片付けましょう。 片付ける誠意と能力の欠如を、新たな「散らか」しでごまかすのは止めましょう。
「散らか」す人が片付ける人よりも多くなったら、その社会は衰退を始めます。 片付ける人がもうイヤになったら、その社会は滅びへと向かいます。
今年は皆さんとともに一つひとつ片付けていきたいと思います。
それでは厳寒のなか、どうぞ皆さま、お身体にお気をつけて。今年がまあまあの 一年でありますよう。
2012/12/3(Mon)
年の瀬
大河ドラマの「平清盛」では、ついに源氏が平氏打倒の挙兵に踏み切った。 主役の平清盛は、白拍子にうつつを抜かし、かつての白河法皇と重なるような 自らの欲望にとりつかれた権力者になってしまった。大河ドラマでは、多くの場合、 主役はいつも正しいというのが、決まり事となっているが、今回の「平清盛」は、 主役がもはや正気ではない。今の時代には、ぴったりの内容だったように思われるが、 残念ながら、最後まではじめの不評を覆すことは難しかったようだ。
朝のドラマは、戦後の焼け野原からの復興と女性の成長物語という NHK朝ドラの王道を見事に描いた「梅ちゃん先生」のあと、バラバラ家族と 引きこもり風の男性と騒がしいヒロインという型破りの「純と愛」が始まっている。 とにかく、朝からギャアギャアと騒がしいというのは、結構な掟破りといえるだろう。 「梅ちゃん先生」のファンだった私だが、バトンタッチとなって、すっかり 観るのをやめてしまった。朝から家族の喧嘩など、観たくもないのである。
というわけで、テレビドラマも受難の時代ではあるが、視聴者というものは、 ドラマにリアルであることを望みつつも、夢を見たいのであり、いつも日本中の 家族で起こっているような、夫婦や親子のいさかいを見せつけられたところで、 喜ぶわけではない。したがって、「梅ちゃん先生」のように、現実にはあり得ない ような美しい人間関係を描きながら、白黒テレビや調度品など細かいところで リアルを追求するというのが、おそらく適切な方法論なのだろう。
リアルな世界での出来事としては、12月には総選挙が行われることとなった。 こちらでは、テレビドラマ顔負けの、三文芝居が行われている。全く方向性が 違うように思われる政党が合併したり、タケノコのようににょきにょきと新政党が 生まれたり、次の日には消えていたり、公約がコロコロ変わっていたり、まるで 喜劇である。一昔前の演劇の世界が、現実の世界で実現しているかのようである。 学生運動ののち、国民の政治的関心と政治的成熟の高まりを国家運営や企業活動の マイナスととらえてきた社会の結実が、ここにあるように思われる。遠き思慮が なければ、近い将来に憂いがやってくるのだ。
しかし、それでも新政党に対する期待の低さは、国民の学習の結果なのかも しれない。だが、今回、圧勝する勢いの自民党でも、支持率は20%そこそこであり、 国民の信任を得ているとは到底いえない。小選挙区制をふくめて、今のありかたが 国民の政治参加のために適切な制度なのかどうかを、再考するときに来ているのかも しれない。
その上で、私たちは投票に行くしかない。どの党も選べないというのは、 全く正論であるが、政治というのは、そもそも最善を選ぶものではなく、 最悪にならないように、有権者が目を光らせておくものであるからだ。 そして、選挙で当選したからといって、また過半数をとったからといって、 政治家が何をしてもいいというわけではない。政治家はまず法を守らなくては ならない。第一義的には、法とは国民を縛るものではなく、必然的に権力を もってしまう政治家を縛るものであるはずである。
たしか、公務員の政治活動を禁ずるといって大騒ぎをしていた男が いたはずである。あの男は、自分自身は公務員でありながら、全国各地に 遊説に出かけているようである。たしか、公務員の勤務時間などについても、 ずいぶんと細かいことを言っていたのではなかったか。ご自身の勤務は、 一体どうなっているのだろうか。ずいぶんとご都合主義な男ではないか。
強いものに勝手にさせないのが民主主義であり、これをきちんと支えるのが マスメディアの役割である。政治家の放言を一方的に垂れ流すのではなく、 権力者の言葉と言葉、そして言葉と行動の矛盾を吟味して、一般の人々に 提供することがこれからのマスメディアにますます求められているように思う。
日本経済は斜陽のなかにある。これは間違いない。だが、経済的に斜陽であることと、 国民の不幸は、同義ではない。経済的に斜陽であっても、社会的に豊かで、幸福で あることは十分にありえるのである。今の日本の問題は、経済的な斜陽にあるのではなく、 経済しかなかったこれまでの国づくり、社会づくりに起因しているのである。 これからは経済以外の面を、充実していけば、人々は十分に幸せに生活していける のである。今あるインフラの活用と、知識基盤社会への対応と、適切な富の配分を 考えていけば、十分にやっていけるのである。
これから4年の日本の舵取りを決める選挙、たしかに選びようがない状態では あるが、政治家たちを高笑いさせないような選択は、できるはずである。
寒い季節に入ります。どうぞ皆さま、お身体にお気をつけて。それでは、また来年、 お会いしましょう。
2012/11/1(Thu)
負け方
先月は『梅ちゃん先生』の話を書いたが、『梅ちゃん先生』が高視聴率で 人気上々だったのとは対照的に、相変わらず視聴率の低空飛行を続けているのが、 大河ドラマ『平清盛』である。8月に7.8%という新記録を出してから、台風の 追い風もあって一時持ち直したかに見えたが、10月21日には再び7.9%と記録に 迫っている。だが、「本気でやって最低記録更新はすごく光栄なこと」という 主演の松山ケンイチは、ただ者ではない。自分の力を大きく見せるために、 「いい加減にやった」フリをする人々が多勢であるなかで、あえて「最低記録」に 「本気」を強調する。たしかに10月28日放送の「鹿ヶ谷の陰謀」では、痛いところを ついてくる西光を、執念深く足蹴にするシーンは、すごい迫力であった。
復讐することは神の仕事であり、人間の仕事ではない。仇敵源氏の嫡流で ある源頼朝までも許した平清盛が、一人の僧に過ぎない西光を許すことが できなかったところに、平氏の没落の影が見えていた。 たしかに今回の脚本は物語として一流であるとはいえまいが、 松山ケンイチの「本気」は壮絶であったといえるだろう。上昇する時代ならば、 多くの人々が気持ちよく生きていくことができる。だが、低迷する時代を どのように生きるかというのは、誰にとっても難しい課題であり、今、 私たちにもっとも求められているテーマであるといえる。
同じ負けるにしても負け方というものがある。平氏は源氏との戦いに敗れて、 壇ノ浦で全滅してしまった。しかしながら、今の時点から振り返ってみると、 源氏といっても一枚岩ではなかったわけであるし、平氏が生き残る方法は あったかもしれないと思う。あるいは、平氏の滅亡は、その等質性ゆえに 避けられなかったのかもしれない。そして、源氏は、身内で争っていたからこそ、 そのうちの誰かが生き残ることが可能になったのだろう。視点を変えてみると、 歴史の風景は全く逆さまに見えてしまう。
2009年の政権交代から3年以上過ぎた。ここまで民主党の3年間は失敗に 満ちていた。だが、じゃあ民主党から自民党に戻れば済むという問題ではない。 自民党も政権末期は失敗に満ちていた。だからこそ、国民は政権交代を選択 したのである。そして、この3年間で自民党が変わったかというと、そこは あまり期待できない。このような状態だから、第三極が注目を集めている のであるが、同床異夢の政治家が集まる第三極もまた、すでにほころびが見えつつある。 したがって、次の選挙の焦点は、民主党がどう負けるかということになるだろう。
負け方のなかに次のたたかいの萌芽がある。国家としてもっとも避けなければ ならないのは原理主義への退行である。宗教原理主義にしても、民族原理主義にしても、 私たちを幸せにするものではないとともに、多様性に満ちた世界の承認を決して得られない あり方である。原理主義を選択した国家は、いずれ世界から孤立することになる。 しばらく前、中東では民主革命が連鎖的に起こり、この出来事はアラブの春と呼ばれた。 だが、アメリカの軛から自由になったあと、民主的な社会が自動的に生まれたわけでは なかった。イスラム原理主義が影響力を強めているのである。
アメリカによる支配か、あるいは原理主義か、というのでは、あまりに 寂しい選択肢である。日本でも、アラブ社会と同じように、世界におけるアメリカの覇権が 揺らぐなかで、原理主義が台頭してきている。だが、小熊英二氏が『社会を変えるために』 で記しているように、民主化が進み、多様な生き方が認められるようになっているのも 確かである。かつて社会の隅々にまで張りめぐらされていた、どこに所属していたら何党に 投票すべきといった縛りは、今ではずいぶんとゆるくなっている。私たちはこのゆるやかさを 新たな民主主義の構築につなげていかなくてはならないのだろう。
政治にすべてを委ねて、私たちの社会を変えてもらおうとするのか、あるいは、政治が たとえメチャクチャであっても、一人ひとりの力で、前人の努力で積み上げてきた私たちの 社会の基盤を守ろうとするのか、私たちは今、問われているように思う。身の程知らずな 政治家たちが跋扈する世の中で、社会を守っていくためには、民主主義の多様な可能性を 探る必要があるだろう。清き一票を入れるだけではなく、周りの人々に対する配慮をする ことも、少数者を支えていくことも、外国人と親しく交わることも、民主主義を支える 重要な働きである。
まだまだ日本社会は民主主義の実現に向けての途上にある。おそらく小学校高学年ぐらい だろうか。だからいざこざが起こりやすいのだ。せめて私が生きているうちに、高校生ぐらいまで には成長したいものだ。これからが成長期なのだ。小学校高学年で退行している場合ではない。
今日は東京経済大学は学園祭(葵祭)の準備のため、授業がお休み。おかげでコラムを 書くことができた。今日は東京は爽やかな秋晴れです。週末もこのような天気が続くと いいのですが。それでは皆さま、どうぞお身体にお気をつけて、よき秋の日をお過ごし下さい。
2012/10/1(Mon)
梅ちゃん
台風一過の青空が広がっている。そして今日から10月。これまで楽しみに していた『梅ちゃん先生』が終わってしまった。ほんとうに昭和という時代が 良い時代だったのかと考えると、簡単に答えを出すことはできないのだけれども、 少なくとも『梅ちゃん先生』の家族での食事の風景や、人と人とのつながりに 何かしらの懐かしさを感じる気持ちは抑えようがない。
もちろん『梅ちゃん先生』では視聴者の昭和ノスタルジーをかきたてるために 用意周到にシナリオが作られているのだろう。そのためのいくつかの装置については ドラマの端々から垣間見ることができる。一つ目は不在にかかわるものだが、 『梅ちゃん先生』には車が出てこない。車の不在が、濃密だけれども 他者に開かれた人間関係の構築を可能にしているように思われる。 二つ目は電話とテレビの効用である。『梅ちゃん先生』では電話(黒電話)と テレビ(白黒テレビ)が重要な場面で出てくるが、電話はプライベートな 関係をオープンにする働きをもち、テレビはさまざまな人々を一つにつなげる 働きをもっている。今の携帯電話やテレビの効用と反対のベクトルをもっている のである。
『梅ちゃん先生』では食事のシーンも実に多かった。大学病院でも、自宅でも、 梅ちゃんはいつも誰かと食事をしていた。そもそも冷蔵庫もなかった時代、みんなで 集まって食事をすることは合理的なことであったのだ。今ならばコンビニに行けば、 24時間いつでも弁当やおにぎりを買うことができる。しかし、梅ちゃんの時代には、 そのような「便利」なものはなかった。それでも人々はおそらく今よりは幸せに暮らして いた。そして、のちの時代のようにゴミがあふれることもなく、結構、合理的に生活は 営まれていた。
私は新しいテクノロジーが嫌いなわけではない。だから私もホームページなんぞを もっている。新しいテクノロジーがその人と周りの人たちに幸せをもたらすのであれば、 大いに使えばいいと思う。だが、新しいから、流行しているからといって、自分にとって 周りの人々にとってプラスにならないものもある。一体どれだけの人が本を読む時間を スマホにとられていることだろう。子どもとかかわる貴重な時間を育児ブログや ツイッターの更新にとられていることだろう。そして、今の時代は、いろんなものや 情報があふれすぎていて、もたなければよかったものや知らなければよかった情報などが、 そこら中に散らばっている。
こんな時代に子どもが大人になるということはなんと大変なことだろう。 そう思うと、周りの大人たちに見守られながら、子どもたちが成長していった 「あの時代」のことを、やっぱり懐かしく思うのである。
それでは、読書の秋をお楽しみ下さい。今の時代、読書はそれだけで現代社会に 対する抵抗の実践だとのこと。たしかにスマホ時代になってから中央線の読書率が 下がっているような・・・読書しましょう!
2012/8/28(Tue)
夏休み
あまりにも暑いので、8月はこのコラムも夏休みとさせていただいた。 小学生は7月21日から夏休みだったが、こちらは夏休み前の最終授業が 7月30日、まったくもって大学生も気の毒である。そして7月31日は 定期試験の監督。8月1日の身の程知らずの炎天下野球大会をはさんで、 8月2日は明治大学の教員免許更新講習で話をした。ここから8月7日まで いろいろと仕事が入っていた。
よく働いたものだから、今年は久しぶりにしっかりと夏休みをとった。 九州に里帰りして、これまた暑い夏を堪能した。新大阪で九州新幹線直通の 「さくら」に乗り換えて、そこから新大牟田まで3時間8分。九州新幹線の 開通と、山陽新幹線との直通運転のおかげで、関西から九州までの距離が おそろしく短縮された。しかしながら、新大牟田に止まる直通列車は一日に 一本しかない。新大牟田は市街地から離れた場所にあるため、乗降客も 少なく、いつも閑散としている。ところが、お盆の季節、一日に一本しか ない直通列車からは、人がわんさと湧き出ていた。私たちもその湧き水の 一滴として、大牟田に降り立った。
大牟田市の人口は現在12万人。私が住んでいた二十数年前には16万人の 人口を抱えていた。その昔は20万人を超えたこともある。だが、石炭産業の 斜陽化とともに、人口は減少の一途を辿り、国に先駆けて少子高齢化の先進地域 となった。大牟田市の高齢者(65歳以上)の比率は、今年30%に到達した。 時代から取り残された場所のようであったが、いつの間にやら、時代の最先端を 走っているようになった。周回遅れなのかもしれない。そして、大牟田に住む 私の親類縁者の高齢者率は、100%である。
九州新幹線の開通は、かつて私の祖父が楽しみにしていたものであったが、 田中角栄の日本列島改造計画で全国の新幹線網が構想されてから開通するまでに ほぼ40年の歳月を要した。そして、その間、祖父も他界し、実際に新幹線が開通 してみると、これはむしろ大牟田の地盤沈下を決定づけるものとなっている。
新幹線が開通する前、在来線の大牟田駅は最強の駅でありつづけていた。 最強の駅というのは、通過する列車がないということである。鹿児島本線の 特急はすべて停車し、西鉄大牟田線の終着駅と接続していることもあり、 ターミナル駅として、市民の利便性と誇りを支えていた。人口が減少しても、 周辺の久留米や熊本からほどよい距離があることもあり、最強の駅である ことには変わりはなかった。そして、どの列車に乗っても止まるというのは、 大牟田にかかわる人たちに安心感を与えるものであった。
ところが、新幹線は大牟田駅にはやってこなかった。久留米と熊本を 最短距離で結ぶために、市街地から離れた山あいの場所に新大牟田駅が 新設されることとなった。新大牟田駅は鹿児島本線とはもちろんつながって おらず、バス便は一時間に一本のみ、実にローカルな駅となってしまった。
必然的に、九州新幹線のなかの主要駅から外されることになった新大牟田駅には、 一時間に一本の各駅停車つばめと、一日に一本(上り列車は二本)のさくらが止まる だけとなった。こうして新大牟田駅は、新幹線は止まるものの、そのなかでもっとも ローカルな駅の一つとなり、在来線の特急が数本を残してほぼ廃止された分、 市民の利便性も誇りも失われることとなった。祖父が40年来夢見た夢はついに実現した かのように思えたが、その内容は全くちがうものとなった。
それでも九州新幹線はなかなか快適である。東海道山陽新幹線の普通車両が 一列五席であるのに対して、九州新幹線は一列四席であり、ゆったりとしている。 椅子も車内も木の材質をふんだんに使ってあり、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
大牟田が日本の未来図であるならば、おそらく日本もまた「一等国」の地位を 失い、アジアのローカルな国として、生きていかなくてはならない日を迎えること だろう。もうすでにその兆しは見えているのかもしれない。
だが、そう悲観することもないだろう。「一等国」をめざした歴史ははたして 国民にとって幸せなものであったのか。周りの国々と人々に対して心あるもので あったのか。そう考えるとき、公害と労働災害が頻発したかつての大牟田のことが 重なってくる。そして、明治時代に内村鑑三がかの有名な『デンマルク国の話』を 講演したことが思い起こされる。
アメリカとデンマーク、どちらが経済大国かといえば、もちろんアメリカだろう。 どちらが軍事大国かといえば、それはもうもちろんアメリカだろう。 どちらがエネルギー消費大国かといえば、それももちろんアメリカだろう。 どちらに金持ちがより多いかといえば、それもまたもちろんアメリカだろう。 どちらがオリンピックのメダルが多いかといえば、これまたもちろんアメリカだろう。
でも、もし皆さんがどちらの国に生まれたいかと聞かれたら、どうだろうか。 もちろんアメリカだと断言できるだろうか。かの国には、貧困があり、格差があり、 銃があり、熾烈な競争がある。一方、デンマークには、福祉があり、平等があり、 これらに守られる人々の生活がある。「一等国」であることと、国民のくらし、人々の くらしは、別物なのではないだろうか。
日本の地方は疲弊しているといわれる。だが、私の見る限り、人々の生活の質は、 東京よりも圧倒的に地方のほうが豊かである。たしかに東京には富裕層がいる。その 人たちは際限のない消費生活を満喫しているかもしれない。だが、そういう人たちは 一握りであり、普通の人たちは不満のある住環境と高い家賃や住宅ローン、通勤ラッシュや 行楽渋滞、希薄な人間関係などに苛立ちながら、過ごしている。これに対して、地方には、 とんでもない大金持ちもいないかわりに、多くの人々が住環境や通勤環境も恵まれ、 ほどよい人間関係のなかで、そこそこのくらしを満喫している。
政治が機能して、教育が分散して、東京一極集中が改まるならば、日本は格段に 住みやすい国になるだろう。私は以前から福島に遷都(官公庁を移設)するといいと 夢想していた。もし中央省庁が福島にあったら、原発事故にどのように向き合ったこと だろうか。また、イギリスでは、ケンブリッジ大学もオックスフォード大学も大都市から ほどよく離れて存在している。
「小さくともキラリと光る国」という「新党さきがけ」のスローガン、21世紀の 日本のありかたの指針となるなかなかなものだったと、今、思う。虚勢を張る競争を 煽るばかりが政治ではない。
それでは、まだまだ続くであろう暑い季節、どうぞお身体にお気をつけてお過ごし下さい。
2012/7/4(Wed)
鏡と鑑
東京の6月は例年よりも過ごしやすかった。九州にはいつものように 梅雨の豪雨がやってきているが、今年の東京の梅雨は雨が少ない印象がある。 しかも、例年よりも湿度も、気温も低めで、ヨーロッパの夏を思わせる気候で あった。考えてみると、夏至は梅雨の時期に訪れるので、例年は一年でもっとも 昼が長い季節が、梅雨空の下で何となく過ぎてしまうものだが、今年は、 東京でも夏至の頃は、昼が長いということを実感できた。それでも、午後8時頃 まで草野球に明け暮れた九州での生活が懐かしく感じる。でも、それはもう1970年代 から1980年代にかけての話。思えば、遠くへ来たもんだ。
私が幼い頃、祖父が一緒にお風呂に入ると、必ずのように戦争の話を語って いた。幼い私にとって、その話は、まるで大河ドラマの戦国時代のような大昔の 話に思えたものだが、今になって振り返ると、それはたかだか三十数年前の話だった。 私が今、昔は午後8時まで白球を追っていたという話をするのと、変わりはないのだ。 そのように考えると、今、私と学生との間で、対話が成り立っているのは、奇跡の ような気もする。というよりも、はたして対話が成り立っているのかどうか。 実際は、向こうが適当に話を合わせてくれているだけなのかもしれない。 考えてみると、私も学生の頃、よく先生の話に調子を合わせていたように思うし、 (先生、ごめんなさい)。
話はともかく、ここ数年、外出して不愉快な思いをすることがとても増えている。 私が先生業をはじめて長くなったことから、他者が配慮してくれることに慣れてしまった からではないかとか、私の立ち居振る舞いに何らかの問題があるからではないかと、 いろいろと考えてみたが、こんなふうに思っているのは、私だけではないようなのだ。 たとえば、内田樹氏は、ベストセラーとなった『下流志向』のなかで現代の日本社会では 「不快」が貨幣となって流通していることを論じ、「現代日本人」が「『私は不快に耐えている 人間』であり、あなたは『私を不快にさせている人間である』という被害-加害の スキームを瞬間的に作り上げようとする」能力を「異常に発達させつつある」と 述べている。そして、「街を歩いていて、人とぶつかったときに僕は必ず『あ、どうも すみません』と先に謝りますが、僕に謝ってくれる人はほとんどいません。これは 若い人に限らず、五十代、六十代の人でもそうです。人をにらみつけて、ちつと 舌打ちして去る、という人がずいぶん増えました。」と続けている。内田樹氏は、 関西の方なので、こうした新たなマナーは東京だけではなく、全国に広がっていると いえるだろう。このほかにも、私の敬愛する穏和な紳士が、先日あるコラムに、 電車のなかで足を踏まれて、すみませんの一言もなかったという話を書かれていた。 子どもたちにこんな大人にはならないようにしようというメッセージを添えて。 普段ならば、そうしたことを殊更に書かれるような方でもないので、相当、腹に据えかねる状況だった のだろう。何はともあれ、こういうマナーは、ますます不愉快な社会を蔓延させて、 不愉快の悪循環を生み出すだけだから、どこかで断ち切らないとまずいだろう。
その方法としては、街中に鏡を備えるというものがある。すると、次のようなことが 起こる。おっ、向こうから不愉快な顔をしたやつがやってきた、よし、こっちもあいつより 不愉快な顔をして、ギャフンと言わせてやろう、なに、あやつめ、さらに不愉快な顔になりやがった、 ちくちょう、見ていろ、不愉快パワー全開、悪の皇帝を甦(よみがえ)らせるほどのオレさまのバッドエナジーを 浴びてみろ(「プリキュア」ネタです。ご存じでないかたはすみません。)と、不愉快 パワー全開の顔を相手の顔と突き合わせてみたところ、それは鏡で、相手は自分自身だった。 こうなれば、あまりのばかばかしさに笑うしかなくなるのではないか。
かつて学校で手鏡をいつも持参して、ふてくされている生徒の前に立ち、その顔に手鏡をあてて、 「むなしくないかい?」と声をかけていた先生がいた。今、巷(ちまた)には、政治、マスコミ、教育など、 いろんなものに対する批判が溢(あふ)れているけれども、これらはすべて、私たちの社会の鏡ではないだろうか。 鏡であるのならば、少しでもチャーミングなところを見つけて、育てることにしたら、 どうだろうか。たとえば、最近では原発再稼働に対して立ち上がった人たちがいる。 そして、マスコミも、以前とは違い、最近ではデモをきちんと報道している。 それから、今の社会で、電気をできるだけ使わないで生活している人たちがいる。 その新しいライフスタイルを、東京新聞では一面で報道している。こうした取り組みは、 まだ小さいえくぼのようなものかもしれない。しかし、実にチャーミングではないか。 そこには新しい時代への希望が見えるではないか。
もう無責任の時代とは、この辺でさよならしたい。国土や郷里を台無しにする者たちに 従っていくことはない。かつて水俣病で不知火海は損なわれた。(大学院時代に水俣病患者と 出会い、水俣病患者のためにその一生を捧げられた原田正純先生がお亡くなりになった。 医者としての誠実さを貫かれた崇高な人生だった。合掌。)そして、諫早湾の干拓で 私の故郷の海である有明海は損なわれた。さらに、今回の原発の事故でフクシマ、そして 日本社会への信頼は損なわれた。無責任な権力と科学の罪はあまりにも重い。 そして無関心な一般人たちの罪も心に深く刻んでおかなくてはならない。 これらの歴史から学ぶことができなければ、私たちの未来はあまりにも暗い。
他者への想像力をもてない知性など、ほんものの知性ではない。
ところで、大河ドラマ「平清盛」は、平治の乱に突入した。視聴率はともかく、 清盛は奮戦している。次回は、義朝との決戦となる。保元、平治の乱によって、 日本列島は武士の世の中に突入するが、清盛も、義朝もその行く末は実に哀れである。 平家は壇ノ浦で滅亡するし、源平合戦に勝利したはずの源氏も三代で滅亡する。 とりわけ、源氏は、勇ましく雄々しいイメージとは裏腹に、八幡太郎義家ののち、 義親、為義、義朝の嫡流三代が無惨な死を遂げ、頼朝だけは名を残すことになるが、 その嫡男頼家は母方の北条氏によって暗殺されている。嫡流五代のうち、四代が 悲惨な末路を迎えているのである。
それなのに、源氏に、勇ましく雄々しいイメージが与えられているのは、 なぜなのだろうか。保元の乱で、父・為義と五人の弟を切ることになった義朝、 そして、かつて心強い味方であった二人の弟を攻め滅ぼした頼朝など、本来ならば、 人の鑑とはなりにくい人物であったろうに。
アメリカ人がもっとも好きな大統領としてよく挙げられる人物にリンカーンが いる。奴隷解放を掲げて南北戦争をたたかったリンカーンは、自由と平等の担い手 であることを自負するアメリカ人の自尊心を満足させるのだろう。それでは、 イギリス人がもっとも好きな歴史上の人物は誰だろうか。ネルソン提督だろうか。 トラファルガー海戦を勝利に導き、ナポレオンの侵攻からイギリスを守り、自身は 戦死したネルソン提督は、今もなお、ロンドンのトラファルガー広場でその勇姿を 見せている。あるいは、イギリス人は、科学者のニュートンや、 文学者のシェイクスピアを愛しているかもしれない。
それでは、日本人がもっとも好きな歴史上の人物は誰だろうか? 「あなたが 好きな人物」ではなく、「多くの日本人がもっとも好きな歴史上の人物は誰?」と 外国の人に尋ねられたら、どのように答えるだろうか?
経営者のための雑誌には、しばしば、戦国時代の英雄たちの名前が並んでいる。 「○○△△に学ぶ部下の掌握術」というようなよくある見出しで。経営者たちの多くは、 自分のお気に入りの戦国大名をもっていそうである。だが、「多くの日本人がもっとも 好きな歴史上の人物は誰か?」という問いに対して、織田信長や武田信玄という回答では 何だか収まりが悪い。といって、伊藤博文や吉田茂という回答も何だか的を外している ように思われる。しいてあげれば、坂本龍馬だろうか。たしかに坂本龍馬は好感度が高い。しかし、 それでも「多くの日本人がもっとも好きな歴史上の人物」とまでは言えないような気がする。
結局、「そんな人物はいないようだ」というのがもっとも適切な回答であるようだ。 もしかしたら外国の人には「ヘンなの」と思われるかもしれない。それでも日本という国は、 そもそもそんな国なのだ。無理に「多くの日本人がもっとも好きな歴史上の人物」を 創り上げようとすると、それこそ無理が生じる。源氏に、勇ましく雄々しいイメージが 付与されたのも、アメリカで建国の英雄ワシントンのことを知った人々が、そのような 人物の存在に憧れて、無理矢理こしらえたものであるからなのかもしれない。
さて、7月も4日が過ぎた。それでも今年はまだまだ長い。教育実習生の話は今年もまた 見事であった。教室の空気がピリッと引き締まった。だが、一週間経って、再び弛緩していた。 これにはがっくりしてしまったが、何はともあれ、教える側に立つことの責任を引き受ける ことでの若者たちの変容には、いつも感動させられる。今の学生たちもまたいつかは わかることだから、粘り強く、向き合うしかない。
それでは、暑い季節、どうぞお身体にお気をつけてお過ごし下さい。
2012/6/2(Sat)
風と石
5月は長かった。そして雹が降ったり、竜巻が暴れたり。突然の豪雨は、 温暖湿潤気候という気候区がいつの間にやら変更になったのではないかと思わせる。 地球も、世界も、刻一刻と変わっている。だが、変化には望ましい変化と、そうでは ない変化がある。都市型豪雨が私たちの生活様式に警告を与えているとするならば、 混迷する政治も私たちの学びと他者とのかかわりの様式に警告を与えているのかも しれない。社会の変化をあたかも天災であるかのように諦めて受け入れるのではなく、 望ましい変化に向けて地道な日常を積み重ねていくことが、私たちの務めだろう。 社会を創っていくことにおいては奇跡はないのだから、粘り強く続けていくしかない。 「どうせ変わらない」と諦めてしまうのは、スマートに見えて、その実、下策であり、 これでは現状維持すらおぼつかなくなる。だからといって、「すべてぶっ飛ばしてしまえ」と 独裁者に全権委任するのは、さらに下策である。この二つは表裏一体の関係にあって、 どちらも深いニヒリズムとシニシズムにとらえられている。望ましい変化を生み出す ものは、希望であり、私たちは希望の芽を探さなくてはならない。
今、私たちは自分の身の回りで節電をすることによって、原発の再稼働を 阻止できるというパワーを握っている。「どうせ変わらない」という長年の状況は 明らかに変化しているのである。あれほど、政治、経済のエスタブリッシュメントが 原発の存続に躍起になりながらも、現在、原発が一基も稼働していないという状態が 生み出されている。これは私たちの社会の一般の人々のパワーであり、本人たちの自覚に かかわらず、現在、一般の人々のパワーはこの国の政治、経済、文化を左右することが できるだけの巨大なものとなっているのである。関西では、大飯原発の再稼働をめぐって、 きなくさい動きが出ているが、それでも、人々がまとまってチャレンジしていくならば、 まだ脱原発の目はある。
1990年代以降、既存の政治勢力はいずれもそれまでのパワーを失い、衰退の 一途を辿ってきた。冷戦の終結、都市化の進行、経済の停滞は、イデオロギー政党 としての社会党、共産党に大きなダメージを与えただけでなく、共産主義の防波堤を自認し、 経済界の利益を擁護し、そこで得られた富を地方に分配するという自民党の存在意義をも 揺さぶることとなった。1990年代以降、既存の政治勢力のうち、政党としての力を 維持することができたのは、おそらく公明党だけであっただろう。都市化が進行し、 新自由主義が席巻し、人々の紐帯が弱まり、孤立が深まるなかで、宗教共同体を母体とする 公明党は、確実な支持者を確保し、衰退する政権党からは確実な票を見込める党として 頼られ、政治のキャスティング・ボートを握ることとなった。 大阪維新の会が公明党との連携をはかっているのは、ここだけが風に左右されない政治勢力 であるということをわかっているからである。この風と石の連携は、1990年代以降の衰勢の なかで、自民党が編み出した延命の方法であり、小泉純一郎の時代に大きな閃光を放った。 大阪維新の会もまたこれに倣っている。
石が一つに、あとは小石が三つ、四つ、そのほかはすべて風というのが、 今の日本の政治情勢である。おそらく今は、誰も全体をコントロールできていないのでは ないだろうか。もちろん、政府の政策決定には、アメリカの意思が強く反映されているの だろうが、どのような政府を選ぶのかは、一般の人々の意思決定にかかっている。 おそらく、これまでのどのような時代よりも、一般の人々のパワーが国を動かしてしまう、 そういう時代に、私たちは生きているのである。
だが、私たちの社会では、その自覚が実に薄い。とりわけ、現在の民主党の混迷が 「どうせ変わらない」という人々の思いを深めている。だが、小泉改革を生み出したのも 一般の人々の「民意」であったように、民主党政権を生み出したのも一般の人々の「民意」であった。 現実は、「どうせ変わらない」ではなく、ここ10年ほどのうちに、「民意」は政治の方向性を何度も 変えてきたのだ。だから、私たちが憂うべきことは、この国の政治が「どうせ変わらない」ことではなく、 私たちの政治の変えかた、そして政治とのかかわりかたがこれでいいのかということである。 私たちは何を変えたいと思ったのか、そしてどんな社会を創りたいと考えたのか、 さらにはその社会には私たち以外の他者はどのように位置づくのか、私たち以外の国はどのように 位置づくのか、私たちはこの国の政治を考えるときにこのようなことを考えてきたのだろうか。 さらには、民主主義とは果たして政党や政治家に対する全権委任のシステムなのだろうか、選挙以外の 方法で人々は政治にかかわることができないのか、政治が行うべき範囲と行うべきではない範囲を どのように考えるべきなのか、私たちはこうしたことをきちんと考えてきたのだろうか。
政治家は今、「民意」を畏怖している。なぜならば、彼、彼女らの正当性を証明するのは、 「民意」しかないからである。だが、率直にいって、現在の「民意」とは底の浅いものであり、 全くのところ大したものではない。それこそ風のようなものだ。どこから吹いてきて、 どこにやっていくのか、誰にもわかりはしない。こうした「民意」は、政治の質を高める ものではないから、いつか捨て去られるものになるだろう。政治家たちは、これまで 「民意」なるものを利用してきたが、今「民意」なるものの厄介さに苦しんでいる。 だから、おおっぴらに「『民意』なんてくだらない」といえる時が来るのを待望している。 「『民意』なんてくだらない」といえるのは、緊急事態の時である。災害、そして戦争、 こうしたものは、コントロールできなくなった「民意」を抑えるための絶好の機会なのである。
今はおそらく「民意」のダウ平均がもっとも高い地点であり、今後、「民意」の価値は地に墜ちる 可能性がある。私たちは、「民意」がまがりなりにも高い価値をもっている今のうちに、その高い価値に 見合う実質のある民意を育てていかなくてはならない。これはたしかに遠い道のりではあるが。
ところで、大河ドラマ「平清盛」は相変わらず苦戦している。先週(5/27)は「保元の乱」という 前半最大のヤマ場の回であったにもかかわらず、関東地区で10.2%というワースト記録を更新している。 ただ、この原因ははっきりしている。ウラ(オモテ)番組に女子バレーのロンドン五輪出場をかけての 大一番があったためであり、女子バレーは23.3%というダブルスコアで「平清盛」に圧勝している。 明日(6/3)は「保元の乱」の後始末を語る大変重要な回なのであるが、何ということか、ウラ(オモテ) 番組に男子サッカーのワールドカップ最終予選日本対オマーン戦が控えている。もちろん「平清盛」は 「保元の乱」には勝ったものの、「ワールドカップ最終予選」には勝ち目はなく、おそらく ワースト記録はさらに更新されることになるだろう。何度も記しているように、視聴率の低迷が そんなに問題であるとも思えないのだが、「平清盛」は現在のところ、運からも見放されているようである。
ネットを検索していたら、歴史作家・関裕二氏の「NHK「平清盛」はなぜ面白くないのか」という 文章に出会った。「その理由は「画面が汚い」などというものではあるまい。最大の原因は、 複雑な人間関係と時代背景を丁寧に説明していないからではないか。背景には、 いくつも歴史の大転換が埋もれているのに、話を「男女の愛憎劇」に矮小化し、 ホームドラマに仕立ててしまったことが、敗因であろう。実にもったいない話だ。」という批評は、 擁護派の私にしても、納得のいくものであった。
「NHK「平清盛」はなぜ面白くないのか」
「大河ドラマ」は歴史ドラマなのだから、歴史に正面から向き合うところから味わいが出てくるものである。だが、 その挑戦の結果、視聴者に受け入れられないのであれば、これは仕方がない。だが、歴史的にとてもおいしい素材を扱っていながら、 歴史を丁寧に描写するところが感じられないのは、実に惜しいことである。
政治家も同じではないか。視聴率(支持率)ほしさのために、パフォーマンスに夢中になり、政治をわかりやすい 「改革派と守旧派の愛憎劇」に矮小化し、ワイドショー化してしまったことが、現在の政治不信と政治離れを生んでいる のではないだろうか。政治家は、政治に正面から向き合うところからその味が出てくるものである。そうした味わいの ある器を国の宝としてもつことができないのは、寂しいことである。
研究者もまた同じである。自分自身の仕事においても心したい。
6月になった。これからが胸突き八丁である。教育実習生たちも各地の学校でがんばっている。 踏ん張りどころである。
それでは、梅雨の季節、どうぞお身体にお気をつけてお過ごし下さい。
2012/5/1(Tue)
浮沈
4月はいつものように慌ただしかった。一年は長いとわかっていても、 4月はついオーバーペースになってしまう。わかっちゃいるのに止められない。 これが人間の(私の)ドジなところである。
大河ドラマの「平清盛」は相変わらず苦戦している。視聴率が 上がらないこともともかく、興味深いのは、視聴率が低迷しているという ことが、大いなる話題になるということである。スポンサーとは無縁の NHKなのだから、視聴率が低迷していようが、どうってこともないだろうと 思うのだが、視聴率が高い低いということに過剰というほどに反応する ところに、現代日本社会のありようが映し出されているように思われる。
平家物語にあるように、人生は「諸行無常」であり、山あり谷あり である。ときには、谷ばかりの人生もあるが、それでも振り返ってみると、 ちょっとした尾根ぐらいはあったことだろう。山ばかりの人生になると、 これはうらやましくなるが、それでも丁寧に振り返ってみると、いくつもの 谷があったことだろう。そもそも、谷が深いから、山が屹立するのであって、 山ばかりの人生などあり得ないのである。
今をときめくダルビッシュ有投手だって、高校時代、そして最近も、 いろいろとあったではないか。そうした失敗を乗り越えて、今、輝いている ことが美しいのであって、失敗がないことがすばらしいことではない。 失敗をして、それを正面から見つめるところから、進歩が生まれるのである。
だから、「平清盛」も大いに失敗していい。お芝居なのだから、失敗 したところで人が死ぬわけでもない。そして、中途半端であることは止めた ほうがいい。たとえば、史実に沿うのならば、それを徹底してみる。 平家物語の脚本を問い直すのならば、それを徹底してみる。そうすれば、 失敗しても、何かしらの貴重な遺産が残ることだろう。
勝つと大騒ぎして、勝ち馬に乗り、負けるとまた大騒ぎして、負け馬を けなす傾向にある私たちは、イギリス人の淡々とした粘り強さから学ぶべき ことが多々あるように思う。ノリッチ・シティー・フットボールクラブは、 イングランドのプレミアリーグから陥落し、ついに三部にまで落ちてしまった。 それでも、ノリッチの人々は、チームを応援し続けて、2011年、不死鳥の如く、 プレミアリーグに戻ってきた。そして、2011-12年のリーグで、降格候補に 挙げられながらも、予想外の善戦の結果、ほぼ残留が決まっている。
おそらく、イングランドには、ノリッチのようなチーム、地域が数多く あることだろう。常勝軍団ではあり得ずに、上と下を行ったり来たり。 そして、ファンは上に行ったら、またいつかは落ちるだろうという思いを もちつつ、つかのまの躍進を喜び、下に行ったら、日はまた昇ると信じて、 チームを支える。これからの私たちの社会に必要なものは、勝ち馬に 乗ることに長けている軽薄な知性ではなく、勝とうが負けようが淡々と 時が来るのを信じて待つ強靱でしなやかな知性ではないか。
今がその時でないのなら、負けていればよいではないか。地力があるならば、 きっといつかその時が来るだろう。まあ、自信も、ヴィジョンも、希望もなければ、 いつになっても時は来ないかもしれないけれども、そればかりは仕方がない。 自信と、ヴィジョンと、希望を育むべく、自分の生き方の方針、そして、社会の ありかたの方針を転換して、気力を充実させていくしかないのだ。
5月になった。これからが本番である。たしかな歩みを見せてくれた 先達に学びながら、一歩一歩歩んでいきたい。
それでは、新年度の疲れの出る季節、どうぞお身体にお気をつけてお過ごし下さい。
2012/4/2(Mon)
平家物語
3月には大震災一周年を迎えた。月日は確実に前に向かって進む。 だが、被災地には瓦礫の山が残り、原発から放射能はまだ出続けている。 すべてはまだこれからであり、政治は、人々の痛みに立つところから 再出発しなくてはならない。変わらなくてはならないと思いつつも、 どうしたら変われるのかわからないまま、私たちは立ちすくんでいる。 そのような気分を用いて、ワン・フレーズの、喧嘩腰の男がやってくる。 「天下無敵のオレさまがすべてを変えてあげましょう。」この男ならば、 何とかしてくれるのではないかと思う人々が続出しても不思議ではない 時代の空気が今私たちの周りに存在する。しかし、私たちは忘れない。 独裁者にすべてを委ねて、幸せになった国民などどこにもいないということを。 対話こそが民主主義の土台だということを。 所詮、喧嘩腰であってもお山の大将。アメリカと対決でもしたら、 ひとたまりもあるまい。しかし、ここは私の愛する 祖国である。私たちは、外圧がなければいくらでもみっともないことをする という烏合の衆ではなく、自らまっとうであることを求める存在でありたい。 それが人間としての自立であり、自律の証しであろう。
私は、40年余りの人生経験のなか、数多くのお山の大将と出会ってきた。 だが、お山の大将が大将であり続けることなど、一度もなかった。 お山の大将は、どこかの時点で、山を降りるか、山から引き摺り下ろされるか、 あるいはお山の大将であることを改めるか、これらの選択肢のいずれかを 選ばなくてはならなくなった。そして、この経験的な真理は、今から 800年ほど前に編まれた『平家物語』にも綴られている。
「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。沙羅雙樹の花の色、 盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し。 猛き者もつひには滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ」という有名な文句で 始まる『平家物語』では、お山の大将として位置づけられたのは平清盛で あった。『平家物語』の支配的な物語としての力は、圧倒的なものがあり、 今もなお、平清盛を好む人は少ない。私たちの社会では、清盛は悪役で あるという常識が、幅を利かせているのである。
だが、果たして平清盛は本当にお山の大将だったのかと考えると、 疑問が生まれる。平治の乱に勝利してその権勢を確立したあとも、天皇と 上皇の対立が起こると、その間に立って、対立の緩和に努めるなど、 バランスを考える政治を志していたようである。また、日宋貿易に 力を注ぎ、遣唐使派遣を中止したあとの内向きな社会を改めて、 東アジアの新秩序をめざしたように、明らかな国際的ヴィジョンをもっていた。
清盛亡き後の中世日本社会は、再び内向きになり、元が使者を送ってきた ときに、使者を斬殺するという対応をとることになる。そして、元寇の際には、 朝廷、公家は神頼みに終始し、武士もその緒戦で大敗を喫することになる。 結果的に、海と嵐に助けられたとはいえ、鎌倉政権の外交的な対応は、 褒められたものではなかった。さらに、このときの外交的なヴィジョンを伴わない 幸運は、神風、そして神国思想を生み出し、私たちの社会に独善的な考え方を 根づかせてしまった。もしも清盛の構想が実現していたら、宋や高麗を通して、 モンゴルの台頭もあらかじめ認識することができただろうし、そうなると、 東アジア社会に従来とは違った連帯が生まれたかもしれない。
というわけで、悪役をあてがわれていた平清盛に光を当てて、 その人生のなかに日本社会のもう一つの可能性を描き出そうとしている点に おいて、大河ドラマ「平清盛」はチャレンジングなのだが、相変わらず、 視聴率はさっぱりである。その上、いつもはほとんど反響のない私のコラムに、 前回は珍しく反響があったのだが、そこでも「あなたはいろいろと書いているけど、 やっぱり、このドラマはわかりにくいし、ややこしい」と言われた。
そう言われてみると、やっぱり、話の筋がややこしく感じられる。 話がもともとややこしいのか、あるいは筋書きに問題があって話がややこしく なっているのか、どちらにも少しずつ原因があるのだろうが、何といっても、 この作品に原作が存在しないということが、もっとも大きな原因になっている ように思われる。
もちろん、脚本はあるのだが、平清盛のようなそもそも史料の少ない 歴史上の人物をドラマ仕立てにするためには、歴史物を専門としているわけでは ない脚本家だけで物語をつくるのは、至難の技であろう。前回のコラムで大河ドラマの 秀作として挙げた「黄金の日々」は、城山三郎が原作を執筆している。 昨年度の「江」のように、はじめから史実とはかけ離れていても構わないというので あればともかく、史実に迫ることを求めるのであれば、質の高い原作が求められる のであろう。
「平清盛」を通して、スタッフがやりたいこと、描きたいことには、大変 共感している。だが、今のところ、話の流れが激しすぎて、感情移入しながら ついていけないというのと、話の組み立てに未整理なところがあり、わかりづらく なっているということは否めない。これが視聴率が低迷している一つの理由なのだろう。
それでも、主人公を完璧な人物と描きたがる大河ドラマのなかで、欠点だらけの 人物を描いているところは評価できる。さらには、無理筋気味な脚本をしっかりと 演じて、お芝居の愉しさを視聴者に与えてくれている役者たちは、さすがである。 あるいは、視聴率はこれまでで最低になるかもしれない。だが、それならそれで いいではないか。どうせ視聴率はゼロより低くはならないし、おそらくゼロにも なりはしない。世の中には、私のような変人だって必ずいるからだ。いや、私以上の 変人もゴロゴロしている。視聴率40%で次の年に忘れられる作品よりも、視聴率5%でも 30年後に語られる作品のほうが価値がある。視聴率が低くなったら、もう肚をくくって、 ひたすらやりたいことを貫くしかない。そうすれば、きっと誰かが評価してくれること だろう。
私は支持率70%のお山の大将より視聴率10%の平清盛のほうが好きだ。 視聴率の低さにおののき、もっとも低いレベルに迎合するのではなく、 ややこしい話をわかりやすくそして歴史上の人物の心をその内側から丁寧に 描くという基本に忠実に、この試練の時を乗り越えてほしい。 作品からそのようなチャレンジが感じられる限り、 私は応援しつづけることだろう。
4月になった。また長い一年間が始まる。自分を見失うことなく、 歩んでいきたい。
それでは、寒暖の差の激しい季節、どうぞご自愛してお過ごし下さい。
2012/3/1(Thu)
文化
東京の2月は雪で締めくくられた。北国かと見まごうばかりの雪景色が 目の前にあらわれた。それでも、人々の日常の重さは、変わらない。 何が、どうなれば、満足なのか。おそらく、そのこともわからないまま、 ただ毎日を繰り返している。そして、日常の重さだけが増し加わっていく。 すると、日常を変えようとする人たちの営みは、冷笑される。
久しぶりに大河ドラマを観ている。今年の大河ドラマ「平清盛」は、実に面白い。そもそも 平清盛の青年時代に関する史料は少なく、どのように描くかは、演出家の 腕一本にかかっている。このドラマでは、閉塞した時代を、打ち破ろうとする 破天荒な風雲児として、平清盛は描かれている。そのような意味で、このドラマは、 日常を変えようとする営みに、位置づいている。しかしながら、残念なことに、 メディアによると、にわかには信じがたいような番組批判が出されているようである。
「画面が汚い」、そして「話の筋がややこしい」。これは果たして文化の批評と いえる水準なのだろうか。そもそも、このドラマをつくるために、どれだけの人々が知的な 努力を積み重ね、そして身体を張って、踏ん張ってきたのか、そのくらいのことは、 少し観るだけですぐにわかるはずなのに、きたない、ややこしい、という言葉ですべてが 切り捨てられる。文化の破壊がこんなところにも映し出されていて、あまりの情けなさに、 涙も出ない。
そもそも、大河ドラマを観て、話の筋がややこしいなどと言うことは、いやしくも 頭を使って仕事をする人間にとって、恥ずべきことであろう。、そのような物言いは 人前で堂々というのは自分の無知をさらしているのに等しいのである。ところが、今は、 こんなもん、ややこしくてわからん、と言えば、言ったものが勝ちになる。そして、 作ったものがややこしいものを作ってしまって申し訳ありませんと謝らなくてはならなくなる。 もちろん、わからないから教えて下さい、ならば、納得できる。誰だって、わからないことは あるし、教えてもらう権利はある。これは学びの基本だ。ところが、わからないのは、おまえが悪い、 というのは一体どういうことなのだ。私たちの周りの世の中は、実はわからないことだらけではないのか。 そして、そのわからないことをわかろうとするからこそ、人は学び、成長するのではないだろうか。 わからないのは、おまえが悪い、と言うことは、学びと成長の否定ではないだろうか。
話は変わるが、新聞に掲載されていた何らかの調査で、中年の男女が言われて 嬉しい言葉の第一が「若々しい」で、嬉しくない言葉の第一が「頑固」だったと いうものがあった。ちなみに、私は「頑固」だと言われると結構嬉しかったりする。 それはともあれ、そこには、嬉しい言葉として語群のなかからもっとも選ばれなかったのが 「成熟」という言葉だったという結果も掲載されていた。私たちの社会は、 「若々しい」ことに価値があり、「成熟」していることには価値が置かれない社会なのだ。 この調査結果には、深くなるほどとうなずかされた。
「成熟」を求めるのではなく、「若々しさ」をひたすら追い求める高齢化社会、 これが今の日本社会のマジョリティが構成している現実である。だからこそ、 いい歳をした知事も、きたない、ややこしいという4歳でもわかるような語彙を、 恥ずかし気もなく、ひけらかせるのだろう。そして、自分自身が考えないことを 恥ずかしいとすら思わないで、自分で考えて何かを変えようとしている人々を 簡単に批判できるのだろう。
今年の大河ドラマの厚みは、成熟した役者によって支えられている。とりわけ、 中井貴一演じる平清盛の父親の忠盛と、和久井映見演じる母親の宗子が出色である。 どちらも、かつては「若々しい」役者であったが、その「若々しさ」を卒業したのち、 「成熟」を身にまとった役者として、新たな存在感を出している。
この「平清盛」のチーフ演出家である柴田岳志氏は、少年時代に大河ドラマ 「黄金の日々」に感銘を受けて、今回の「平清盛」を構想したという。なるほど、 歴代の大河ドラマのなかでも出色の出来だった「黄金の日々」のもっていた開放感、 国境を超えた視点、異文化との出会いが、「平清盛」にもたしかに継承されている。 このように考えると、文化において重要なことは、視聴率よりも、その作品に人を 動かす力があるかどうかなのであることがわかる。だから、「平清盛」の評価は、 この作品に出会った子どもたちが、30年後、何を生み出すかまで待たなくてはならない 。このような長いスパンが、文化という営みのスパンである。
私たちは30年後、一体何を残すことができるのだろうか。心に手を当てて よく考えたい。
それでは、引き続き、寒さの中、どうぞご自愛下さい。
2012/2/1(Wed)
鬼は内
1月は冷蔵庫であった。おそらく北国では冷凍庫だったことだろう。 そして雪国では豪雪が襲ってきた。地方、とりわけ雪国では過疎化、高齢化も 進んでいるので、豪雪とのたたかいは、言葉通りの意味で、命懸けのものと なってきている。私たちは厳しい自然、厳しい社会との対峙を余儀なくされ、 これからの人生を生きなくてはならなくなっている。
いつの頃からだろうか、私たちの社会では、よりよく生きることは 一つの贅沢のように見なされるようになってしまった。そして、人々が ただ生き延びることでだけで精一杯であるような社会が出来上がって しまった。目の前には、厳しい自然、厳しい社会があることはたしかだが、 人々がよりよく生きることを目指さないようになったら、社会はその みずみずしさを失ってしまうことだろう。人間はそのようにできているのだ。
話し合いとは民主主義の基本であり、話し合いが機能するためには 双方の歩み寄りがなくてはならない。ところが、自分の考えを少しなりとも 曲げないことが、自分の考えをもっていることであるかのように、人々が 勘違いをし、そう信じ込んでしまったものだから、いたるところで話し合いが 機能しなくなっている。ただでさえ、少子高齢化で、働き手が少なくなって いるのに、働く世界には不必要なストレスが蔓延しているものだから、 社会は加速度的に劣化していくばかりである。
話し合いがもっとも成立していない場所の一つに国会が挙げられるが、 そもそも国が傾こうとしているのに、そして政党政治が、民主主義が、 深刻な危機を迎えているのに、政党はひたすら敵失を待ち、それを あげつらうことにのみ、全力を尽くしているので、人々から愛想を つかされている。そうこうするうちに、話し合いなんて時間の無駄だ、 民意は自分にあるという独裁者風の男があらわれて、人々の人気を集めたり している。まるで、教科書に書いてあるような、民主主義の末路、 独裁政治の始まりである。
そもそも人間が生きるということは数多くの不確実性に囲まれていて、 簡単なことではないが、これに対して、学問や政治は、その不確実性と どのようにつき合っていけばいいのかを考え、最善とはいわないまでも よりましな答えを探究してきた。そこにあるのは、よりよく生きることが 人間の普遍的な目的であるという前提であった。だが、今、この前提を 人々が共有することが難しくなっている。学者も、政治家も、この前提を 一般の人々に共有してもらってはじめて、本来の仕事ができるのだが、 このことをすっかり忘れてしまった学者や政治家は、ムラをつくったり、 公共性をむしろ破壊したりして、自分たちの土台を切り崩してしまっている。
人間が生きるということの不確実性を確実性に変えたいという人々の 願いがあり、企業はこうした人々の願いに何かしらの答えあるいは幻想を 与えることによって、成長してきた。たとえば、車はその代表例であり、 車を手にすることによって、人々は確実で快適で迅速な移動手段を得る ことができるようになった。ところが、車の増加は、交通事故の増加という 新たな問題を生み出した。また、車の増加による交通渋滞は、車の確実性を 再び不確実性に引き戻してしまった。このように、私たちは短い期間では 確実性のようなものを得ることができても、人生という長い期間では 不確実性からは逃れることができないのである。
今の社会の劣化は、人々の確実性をもちたいという願いが青天井に 上昇したことと関係をもっているように思う。確実なもの、ピッタリなもの、 これを探せば探すほど、私たちは“王様”となり、調整力を失っていく。 私たちの現実の世界は、多くの他者との調整によって成り立っているのだが、 “王様”だけの社会では、お互いに歩み寄り、調整をすることはできない。 こうして、満たされて幸せなはずの“王様”たちは、みんな孤独になり、 不幸になっていく。
私たちはもうそろそろ気づかなくてはならない。人間としての私たちが 得ることができるのは、どこか誰かから与えてもらえる確実性ではなく、 他者とのかかわりのなかで育てていく不確実性とつき合っていく包容力 であるということを。そして、この包容力こそが寛容と呼ばれてきた ものなのだ。くだらないケンカをすることが、人間の存在証明ではない。 黙って、人の助けになることをされている、数多くの人たちから、そして 黙って、輝いている野の草から、ただただ学びたいものである。
寒さの中、どうぞご自愛下さい。
2012/1/12(Thu)
迎春
あけましておめでとうございます。昨年は大変お世話になりました。 そして、今年もよろしくお願いいたします。今年は新年早々、体調を崩して しまい、また多忙で、コラムも書けない状態です。日頃のご無礼をお詫びする とともに、有形無形の励ましに感謝いたします。今月はこれにて失礼いたします。
2012年がよい年でありますように。
2011/12/3(Sat)
志
今年もついに12月である。1990年代のはじめにバブル経済が崩壊して以来、 日本経済は、ずっと閉塞感に覆われているように思われるが、2000年代の後半の リーマンショック以降、今度は世界経済全体が閉塞感に覆われてしまったように 思われる。この閉塞感は、学生たちの生活に明らかな影響を及ぼしており、 今年度の4年生は、厳しい就職戦線に苦しめられている。
マスメディアからは、若者が内向きになり、若者の間に安全志向が広がり、 あきらめ感が漂っているというメッセージが流されているが、これは決して正しい 認識ではないと、私は思う。内向き、安全志向、あきらめ感というのは、 むしろ現在の日本社会を鏡に映した像であり、これらの特徴は若者に限った ものではない。むしろ若者はかつての時代と同じように、チャレンジをしたいと いう思いを強くもっているし、また一人ひとりがチャレンジしている。 ただ、その思いが潜在的なものに止まっていたり、一人ひとりの思いがバラバラで、 目に見えるかたちでつながっていけないところに、マスメディアの錯覚が 生まれる。そして、マスメディアは、ニートのような目につきやすい現象に、 光をあてる。
もちろん、ニートのような問題現象に光を当てることも大切なことである。 だが、その時、こうした問題現象を糾弾するのではなく、なぜニートが生まれる のかを深く考え、そうした問題現象に向き合うための政策を考えなくては ならない。だが、私たちの社会では、問題現象に光を当てるのだが、しばしば それが中途半端なかたちで行われることがある。その結果、かえって人々の偏見を 生み出し、報道することが逆効果となることがある。
ニートはその良き例である。そもそも社会的に困っている人々なのに、 報道によって、これらの人々は、困った人々にされてしまう。若者についての 報道も同じである。内向きになり、安全志向が広がり、あきらめ感が漂っている としたら、そうした若者は、社交的になり、チャレンジし、希望をもつには どのように生きたらいいのか、わからないでいるからなのに、個人的な問題、 さらには家庭の問題というように社会から切り離した問題にすり替えられて しまう。こうして、私たちの社会では、本来は社会的な問題が個人的な問題と なり、すべては個人の超人的な努力に委ねられてしまう。
普通の人々は、そうした超人的な努力には耐えられないものであるから、 たまたま超人的な努力と運によって成功した人は羨望のまなざしで見つめられる。 そして、そうして成功した人が何らかのことで挫折を味わったときには、一斉に 集中砲火を浴びることになる。もし社会がすべての人々にほんとうに開かれた ものであるならば、人々は他者に対してかくも大きな嫉妬を抱くことはなくなる だろう。ほんとうに自己の努力、すなわち自己責任で成功と失敗が決まる社会 であるならば、人々は今よりもずっと潔くその結果を受け入れることだろう。 皮肉なことに、自己責任という言葉が声を大にして叫ばれ、人々が自己責任という 考え方を深く内面化しているこの時代は、自己責任という言葉を人々が 受け入れなかった時代よりも、ずっと自己の成功と失敗に対して自己の 関与する余地が少なくなっているのである。
若者が社交的になり、チャレンジし、希望をもつためには、まず若者に 居場所を与えなくてはならない。社会のなかで自分の場所が与えられたら、 若者は確実に変わる。そして、大人たちは繰り返し、繰り返し、自分たちの 経験を若者に向けて語らなくてはならない。自分たちの肯定的な経験と、悔いの 残る経験を伝承することによって、自分たちを乗り越えていけるように、 若者たちを励まさなくてはならない。
育てようとしないで相手がいないところで文句ばかり言う輩(やから)には、 早々に退場いただくのがよい。叱るならば相手の目の前で叱るのがいい。 私の教職論の授業では、受講生たちにこれまで出会ったなかで印象に残っている 教師のエピソードを語ってもらっているのだが、この企画を通してわかったことは、 若者たちは厳しく叱ってくれた教師たちに感謝しているということである。 若者たちは今のままでいいと思っているわけではないのだ。成長したい、変わりたい と思っているのだ。
政治家たちももうそろそろ世論すなわち有権者に迎合することは止めて、 自分がどうしたいのか、どのような社会のあり方を目指すのか、そこで勝負する ようにすべきではないだろうか。民意などという耳障りのいい言葉で、政治を 語るのは、あまりにも軽薄である。そもそも民意とはそんなに明確なものではない。 あっちに行ったり、こっちに行ったり、ふわふわとしたものである。 そんな民意にびくびくするよりも、政治家は明日の民意を、今日の民意よりも 高いものにすべく自分の言葉と器量を磨けばいいのである。
志は高く、日々の仕事は地道に。相変わらず、口だけな私であるが、 今日は、大学の教育実習講義とクラブ活動のOB会で、学生たちの真摯な 学びと活動に励まされたので、その力を借りて、大風呂敷を広げさせて もらった。若者たちに学ぶべきことは、たくさんある。
それでは、よい12月をお過ごし下さい。
2011/11/2(Wed)
隔絶
今年もとうとう11月となった。東日本大震災の年として、記憶に残る年に なるであろう2011年もあと2ヶ月である。タイの洪水、アメリカ東海岸のハロウィンの雪、 トルコの地震、世界各地で地球は人類に荒々しい試練を突きつけている。地球にへばりついて 何とか生かされている私たち人間の姿を今思い知らされている。
後期の総合演習の授業では、授業のはじめに世界の出来事を話している。 この試みは、今の学生たちが誕生したのが、1989年にベルリンの壁が崩壊し、 東西冷戦に終止符が打たれ、そののち1991年にソ連が解体したあとだということを 知ったことから始まっている。冷戦時代に学校教育を受けた私の世代にとって、 ベルリンの壁が崩壊し、ソ連が解体するなど、考えられないような出来事であった。 そして、これらのニュースを目の当たりにして、これから世界は大きく様変わりする ことを思わずにはいられなかった。ところが、現在二十歳になろうとしている学生たちに とって、東西冷戦なんて大昔のことであり、世界が変わっているということへの 驚きなどはほとんどないのである。
チュニジアを説明するのに2002年のワールドカップの話を持ち出したのが、 彼らにとって2002年も大昔だった。日本で開催された記念すべき大会であるにも かかわらず、みんな知らないという。私たちの共通の経験、出来事はどこにあるのか。 しかも、これが一般的な学生ではなく、教職を志す学生であり、その上、その多くが 社会科、公民、地歴を専攻しているというのは、一体どういうことなのか。そうした 問題意識から、世界の出来事についての話を始めたのである。
今のところ、この試みはあまり成功しておらず、私が世界史の蘊蓄を話し出すと、 居眠りを始める学生が必ず出てくる。おそらく私の世界史理解が浅いために起こっている ことだと思うが、ほんとうのことはよくわからない。私が話すばかりではなく、 学生たちの世界認識について聴いてみたいと思い、先日は、行ってみたい国、地域と、 その理由について話してもらったが、西ヨーロッパと北米が中心で、アフリカ、中東、 アジア、南米はほぼ皆無だった。思い出しながら、書き連ねると、イギリス、フランス、 イタリア、アメリカ、カナダ、オーストラリア、そして一つ台湾。これでジ・エンドである。 12名の英知を集めたにしては、面白くないのではないか。
行ってみたい国、地域に、韓国も中国も入ってこない。そして怖い者みたさでも、 北朝鮮やリビアやイラクも入ってこない。学生たちは実に感じのいい若者なのだが、 あまりにもまとまりすぎてはいないか。
私ははじめに口火を切ってペルーと言った。そして誰もこの路線にはついてこなかった。 このついてこない冷静さに関しては、たしかに学ぶべきところがあるかもしれない。 ただ、それは単に私にカリスマ性がないだけで、カメルーンの笛吹き男にはついていって しまうのかもしれないが。
私はこの秋もまた笛吹けども踊らずの笛を吹きつつ、学生の前にヘンなおとなとして 立ち続けることだろう。笛を吹いている間はまだいいが、調子に乗って法螺貝(ほらがい)を 吹かないように自戒しつつ。
それでは、よい11月をお過ごし下さい。
2011/10/3(Mon)
秋空
9月は台風がやってきた。先月書いた話とは逆に、この9月のはじめには偏西風が 日本列島から遠く北に離れていたために、台風が西から東へと流されることがなく、 日本列島付近で停滞してしまい、紀伊半島を中心として記録的な豪雨になったのだという。 9月の後半には、関東地方にも台風が直撃し、再び首都圏の交通がストップすることに なった。私の研究室の目の前に立っている木の枝も、台風によって折れて、生々しい 木肌をさらしている。私たちが自然に寄生して生きていることを思い知らされる2011年 である。そして、人類の人口はやがて70億人を突破する。
私の少年時代、世界の人口は40億人であった。世界の人口が40億人に到達したのは 1974年のことである。このデータが教科書に載り、世界には40億人も人が住んでいるのかと 感心していたのが今から30年ぐらい前のこと。その後、日本列島がバブル経済に浮かれていた 1987年に50億人に到達し、バブル崩壊で苦しんでいた1998年に60億人に到達、そして今度は、 世界が経済危機にあえぎ、日本列島が未曾有の震災に苦しんでいる2011年に70億人を突破する ことになる。私たちが浮かれようが苦しもうが、人類の数はひたすら増えてきたのである。
70億人という数字は想像もできないが、莫大な数字であるということは間違いないだろう。 これだけの人類がいかにして共存できるか、そして食糧やエネルギーなどをどのように供給し、 分配していくのか、こうした問題がこれからの人類の大きな課題になる。
40億から70億へ、この37年で世界は大きく変化している。さらに、国連加盟国を 数えてみても、1974年の138か国から2011年の193か国に、こちらもずいぶんと変化している ことがわかる。人も増えて、国も増えて、いわゆる先進国のことだけを考えることで世界が 見通せた(ように思えた)時代は終わりつつある(もう終わっている)のだ。
これからは技術もそれを支える思想も、70億人が地球に住む時代に耐えうるもので なくてはならない。混み合った時代を生き抜くという点では、日本にはいろいろな知恵が 息づいているはずだ。山がちな国土のなかで、混み合った社会で、人々が共存してきた 歴史をもつのだから。小さな家であっても、わずかな庭のスペースに緑の潤いを大事にする。 そういう心を、古くから私たちは継承してきた。巨大な建造物を造って、地域を破壊しても、 知らん顔をする。こうした負の歴史は、決して長いものではない。大きさや速さ、効率性を 競うのではなく、細やかさを競うようになれば、私たちの社会は、人々の強みを発揮できる 社会になるのではないだろうか。
大きさや速さを競うことにかまけて、細やかな精神でこの社会をほんとうの意味で 支えてきた人々を蹂躙してきた近代の歴史を振り返り、しみじみとした歩みをもう一度 歩んでいきたいと思う。
簡単ではないが、それしか道はない。
それでは、よい10月をお過ごし下さい。
2011/9/1(Thu)
石橋湛山
8月は暑かったり、雨が降ったり、激しい気候だった。従来は夏には 日本列島から北に離れる偏西風が、地球の気候変動のためか、日本列島付近に 南下しているようで、急激な豪雨が降りやすくなっているのだという。 この夏、九州でも竜巻が発生したが、かつては竜巻などおとぎ話のなかの エピソードでしかなかった。大津波といい、原発から出続ける放射能といい、 まるで小松左京の小説か、手塚治虫の漫画の世界のようである。これが現実に なっているのが、今の日本である。物語にはカタルシスがあるが、現実には 痛みがある。
2009年夏の熱気なき政権交代からちょうど2年。民主党の代表選があり、 新しい代表が選ばれた。そして民主党から3人目の首相が登場することになる。 3度目の正直になるのか、あるいは2度あることは3度あるになるのか、 それはわからないが、与党のトップを決める選挙で、第一回目の2位以下の 候補が決選投票で第1位の候補をひっくり返したのは、1956年の自民党の 石橋湛山総裁以来55年ぶりだということに驚いた。この時、石橋湛山は、 石井光次郎との2位・3位連合で、1位の岸信介を破っている。
戦前から日本の膨張政策を一貫して批判し、戦後は全面講和を唱えていた 石橋湛山が首相を長く務めていたら、日本の戦後史は今とはどのように違う かたちになったことだろう。しかしながら、石橋は首相に就いてまもなく、 無理な遊説がたたって、病に倒れ、退陣している。そして、その代わりに 総理となった岸が、1960年安保の一方の主役になったことは、周知の通りである。
政治の岸、そしてこれを引き継いだ経済の池田の路線は、対外的には 日米安全保障条約によってアメリカとの紐帯を強力にし、国内的には高度経済成長を 実現し、日本を経済大国に押し上げた。その一方で、対外的には、アメリカ一国に依存して 自主外交の能力を失うとともに、アジアの隣邦との和解を先延ばしし、国内的には、 都市に人口が集中し過密化を招くとともに、地方は人材を失い過疎に苦しみ、 水俣病などの公害問題を生み出し、放置するなど、負の遺産も残している。
歴史的に考えるならば、現在の日本社会の行き詰まりは、岸=池田路線の 行き詰まりとしてとらえることができる。原発事故による放射能の問題は、 水俣病と同じように、企業、国家による人災であり、この対応に、民主党の 理念と思想が問われている。野田新首相は、石橋湛山の精神にならって、 国民が安心して住める社会づくりに踏み出す責任がある。どじょうがきれいな 水でしか生きられないように、子どもたちもきれいな空気と土壌と水に育まれる べきなのだ。空気と土壌と水こそは私たちのいのちの源である。
安心して安定的に供給でき、その技術が世界にも通用するエネルギー政策、 同じく農業政策、地方で人々が安心して暮らすことができるような知と雇用と富の配分、 安心して子育てができ、安心して次世代に社会を任せることができるような保育、教育 政策、安心して働き、老後を暮らすことができるような福祉政策、政治が行うべき地道で 大事な仕事は山積している。
まだまだこの社会に可能性はある。この国の政治家が賢くないことは、もうすべての 国民にバレてしまっているのだから、今更賢いふりをするのは止めて、国中から賢い人々を 探し出して、その知恵に耳を澄まし、仕事をお願いすることである。 政治家はもうそろそろ空虚な思いつきをしゃべることを止めたほうがいい。 そして、真摯に生きてきた人々の話を聴くことである。そして聴き分けることである。 そうすれば、まだまだこの社会は粘り強く、新たな時代に向かっていけるだろう。 そのためにも、これからの1年間はとても大事な1年になることだろう。 しっかりと見守っていきたい。
それでは、よい9月をお過ごし下さい。
2011/8/2(Tue)
話し合い
7月は暑かった。そしていつまで経ってもゴールが見えてこなかった。 かつて大学は休みにあふれていた。しかし今は小・中学生が夏休みに入っても、 授業が続いており、8月になっても試験が続いている。消耗戦である。 ところがこの消耗戦、どこに敵がいるのか全くもってわからない。 何とたたかっているのか、全くところ不明である。ただただみんなで我慢大会を している。何だかヘンな感じもするが、ほかにいい方法も見あたらないので、 やるしかないだろう。こんな雰囲気だろうか。
7月下旬に台風が来て、その後、思いがけず涼しくなったおかげもあり、 心配された電力不足もなく、東京では普通の暮らしができている。しかしながら、 被災地はまだまだ復興の途上にあり、原発の放射能はいまだ収まる気配がない。 今年、福島では教員採用がゼロとなった。子どもたちが流出し、学校も使用できず、 先生の新規需要の見込みがなくなったからである。原発の事故は、その地域に 住んでいた人々の暮らしに深刻な打撃を与えるとともに、子どもたちや若者たちの 未来をも奪おうとしている。
そして、玄海原発の再開をめぐる九電のやらせメールの事件と、佐賀県知事が これに荷担したのではないかという問題は、個別の問題ではなく、日本という システムの問題であるように思われる。私たちの社会には、至るところに既定路線に沿わない意見は ノイズとみなし、議論を封じて、無理筋を通してしまうところがある。 異論を出すと、変人や活動家、あるいは非国民というレッテルを貼られて、意思決定の 主体から外されてしまう。異論が出ることは、計画が無理筋であるかもしれないという 一つの大事な知らせなのだが、これを封じることで、より筋のいい話に落ち着く チャンスを失ってしまう。
組織内ではこのような仕組みをつくり、異論を排除することに成功していても、 組織の外ではこのような仕組みはそもそも通用しないから、無理筋はどこかで破綻する ことになる。戦時中の帝国日本が破綻したのは、そのようなことではなかったか。 だから、国語教育者の大村はまは、日本人が戦争に負けたのは話し合うことが下手 だったからだと考え、戦後、話し合いのできる子どもたちを育てようとしたのである。 日本社会の根本問題を話し合いが下手ということばで言い当てた大村はまの慧眼は 卓抜したものであったと思うが、今もなお話し合いのイロハがわかっていないまま、 社会と政治の混乱は続いている。
話し合いの基本は、人の話を深く聴くということに尽きる。人を黙らせるのが 話し合いの目的ではないのだ。では、話し合いの目的とは何なのか? それは、 自分が変わることだ。相手を変えることではない。国会が話し合いの場であるならば、 話し合いのあと、議員たちの意見は変わるべきなのだ。相手の論理に説得されて変わる ことを裏切りであると責めるようであれば、そもそも話し合いの意味はない。 国会では議員は話し合ってなんかいないのだ。 だが、それは議員たちだけのせいではない。相手を言い負かすことが良いことだと 考えている私たちの責任でもある。相手の論理を受け止めて、自分自身を変える能力が あるかどうかを見なくてはならないのである。
最後に、高校の先生からのメールで知った国会における「児玉龍彦東京大アイソトープ総合センター長の参考人説明」 の映像のリンクを掲載する。マスメディアは国民をバカにしているように思われる。だが、それはいけない。できるだけのホンモノと 出会わせるのがメディアの仕事で、あとは人々の判断に任せるしかないのである。児玉先生は今回の原発事故の放射線は、 熱量からの計算では広島原爆の29.6個分に上るといい、しかも原爆の放射線が1年間で1000分の1になるのに対して、今回の場合は 10分の1にしかならないと証言している。
児玉龍彦東大教授の国会参考人説明(映像)
児玉龍彦東大教授の国会発表概要(レジュメ)
それでは、よい8月をお過ごし下さい。
2011/7/6(Wed)
挑戦
6月は教育実習で出かけていた。若い学生たちの奮闘からは学ぶべきことが 多々ある。不可能と言われても、チャレンジすることで新たな扉を開く学生がいる。 その学生のチャレンジによって、高校生たちも学び合いを求めているのだということが 明らかになる。当たり障りのない実践からは、当たり障りのない応答しか返ってこない。 自分自身の課題を練り上げ、それを生徒たちに投げかけてみるという、チャレンジに よって、今の閉塞を打破するような応答が返ってくることもある。もちろん、 チャレンジは成功するとは限らない。だが、チャレンジすることがなければ、人間の社会は ただよどんでいくだけなのだ。
チャレンジといえば、40歳クルム伊達公子さんの挑戦は、私たちの心を打つ。 1996年のウィンブルドンでのシュテフィ・グラフ選手との二日間の激闘は、今もなお、 印象に残る試合である。あの日、雨が降って、日没順延にならなければ、おそらく 伊達公子さんは日本人選手として初のファイナルの舞台に立つことになっただろう。 あの時、試合の流れは完全に伊達選手のほうに傾いていた。そのことは、本人だけではなく、 観戦した多くの人たちがわかっていた。
そののち、ドイツ人レーサーのクルム氏と結婚してクルム伊達公子となった彼女は、 15年の歳月を経て、ウィンブルドンのセンターコートに戻ってきた。しかも、相手は ウィンブルドンでの全英オープンで5回も優勝しているビーナス・ウィリアムズ選手であった。
一体どうなるのだろうという不安をよそに、クルム伊達公子選手は自分の持ち味を 出して果敢に闘い、何と第一セットを奪取。最後はあと一歩及ばず、惜敗となったが、 日本のみならず、世界に感動を与える好ゲームを演じた。まさにチャレンジがこの扉を 開けたのである。
15年前の準決勝は実に惜しかった。しかし、あの惜しい準決勝がなければ、 現役復帰というチャレンジも生まれなかったかもしれない。人生には運不運があるのは たしかだが、その運不運をどのように受け止めていくのか、そのことは一人ひとりの人に 委ねられているように思われる。
クルム伊達公子さんの輝きは、15年前の不運を新たなチャレンジによって プラスに変えたことによって生まれている。新たなチャレンジは、15年前の不運を 物語の結末ではなく、物語の一つのエピソードに変えてしまったのだ。これから 私たちは、クルム伊達公子選手のもっとも印象に残る試合のリストに、2011年の ビーナス・ウィリアムズ選手との熱戦を加えることになる。
また、ゴルフ界の若い選手のなかにも不運から学び、感動を与えてくれた選手がいる。 北アイルランド出身のローリー・マキロイ選手である。マキロイ選手は、昨年、 セント・アンドリュースで行われた全英オープンにおいて、第一日目に63(9アンダー)と いう驚くべきスコアを叩き出し、首位に立った。ところが二日目には80(8オーバー)という これまた驚くべきスコアを叩いてしまい、優勝争いから大きく後退することになった。 ここから再び盛り返して、結局は通算8アンダーで三位タイでこの大会を終えているが、 二日目に彼にとっての普通のゴルフをしていれば、栄冠は彼に輝いていたはずだった。
そして、今年のマスターズ、マキロイ選手は初日から得意のロケット・スタートで 65(7アンダー)で首位発進、そして鬼門の二日目も69(3アンダー)とスコアを伸ばし、 単独首位に。三日目も70(2アンダー)と安定したゴルフで、完全優勝まであと一日と 迫った。2位とは4打差あり、新しいチャンピオンが生まれるのも間近かと思われた。 ところが、最終日、前半のフロント9は踏ん張っていたが、後半のバック9で大きく崩れ、 再び80(8オーバー)を叩いてしまい、無惨にも15位タイという結果が残った。
千載一遇のチャンスに大失敗をしてしまったことで、立ち直るのは時間がかかる だろうと思われていた。ところが、マキロイ選手はこの失敗を失敗とは考えなかった。 貴重な経験だと考えたのである。トーナメントリーダーとしてメジャーの大会の 最終日を迎えるということは、こういうことだと、マキロイ選手は大事な何かを学び、 この経験は必ず次に生きてくるという確信を得たのである。
そして、次のメジャー大会である全米オープンで、初日からいつものように 65(6アンダー)とロケットスタートを切ると、二日目には66(5アンダー)とスコアを 伸ばし、三日目も68(3アンダー)として後続との差を広げ、最終日も69(2アンダー) と前人未踏の域までスコアを伸ばして、16アンダーという驚異的なスコアで全米オープンの チャンピオンに輝いたのである。
マスターズでマキロイ選手がトリプルボギーを叩き、大きく崩れたのが最終日の 10番ホールであった。そのマキロイ選手が、全米オープンでは、同じ10番ホールで、 あわやホールインワンという完璧なショットを披露した。マキロイ選手の最終日10番 ホールの物語は、オーガスタ(マスターズの会場)のトリプルボギーからコングレッショナル (今年の全米オープンの会場)のスーパーショットに書き換えられたのである。
クルム伊達公子選手やマキロイ選手が示してくれたように、私たちの人生、 そして社会の物語は、いつも未来に向かって開かれている。今の失敗、今の停滞は、 そこで終わりではなく、そこから真摯に学ぶならば、必ず何かの知を生み出し、 もの一つの物語を紡ぎ出すことを可能にするのだ。
マキロイ選手にもその若さとパワーにかかわらず、静かさと落ち着きを 感じるが、一昨年の全英オープンゴルフで59歳にして優勝争いを引っ張り、見事二位に 輝いたトム・ワトソン選手といい、そして今回のクルム伊達公子選手といい、 セカンドキャリアとして挑戦している人たちがもの静かである ことに感銘を覚える。自分自身への挑戦とは声高に行うものではなく、 静かに身を引き締めるところから出発するのにちがいない。
例年にも増して暑い夏が来そうです。どうかご自愛ください。ではよい7月を!
2011/6/1(Wed)
日本とドイツ
5月は連休から授業が始まった。震災のため、殊勝になったのか、私語も 自粛になったのか、私の周りでは、例年よりも落ち着いた授業となっている。 原発事故はまだ続いている。情報の隠蔽が行われていたことも明らかになった。 それでも人々は生活を続けていかなくてはならない。舵取りがその任を果たさない 船の乗客は、悲惨である。そういう舵取りを選んできた私たちも、深く反省しなくては ならない。
ドイツで連立与党が2022年までにドイツ国内“すべて“の原子力発電所を 停止することに合意をしたちょうどその時、日本では菅内閣への不信任議案が出されようと している。そして、その不信任議案に野党のみならず、与党民主党からも賛成者が出るのでは ないかと言われている。
不信任議案を提出したり賛成したりする人たちが菅内閣がダメだと言いたいと いうことはわかった。だが、それなら誰が首相になり、どういう与党の枠組みならば、 今よりもマシな震災復興体制がとれるのか。そして、その震災復興体制とは どのようなものなのか。こうした具体が全く見えないまま、ただ政局として 不信任議案が出されようとしている。今日本で起こっていることは、残念ながら、 私には、好き嫌い、あるいは権力闘争のレベルにしか見えない。私の目があまりにも 幼稚なのであれば、それはこの国にとって幸いである。だが、未曾有の国難にあって、 バカげたゲームに明け暮れる永田町の住人を見ていると、こんな人たちから“愛国心” など言われるのは、ちゃんちゃらおかしいと言いたくなる。
私の研究室にはしばしば学生たちが訪れる。ノンポリに見える学生たちは、 異口同音に政治家、とりわけ国会議員たちのことを批判している。あまりにも 学生たちが政治家に不信感をもっているので、私は学生たちの前ではだいたい 政治家を擁護している。政治家にも真摯な人たちはいる、そうした人たちに 対して私たちが無関心なのが問題なのだ、とか。政治家は選挙で敗れたらただの 人になってしまう、だから思いのほか立場は弱いのだ、私たちが守らなくては 政治家もその潜在力を発揮できないのだ、とか。だけど、こんなバカげたこと ばかり見せつけられるようでは、私もまた政治家を擁護する気持ちをなくしてしまう。
「原発政策に対して菅内閣はあやふやな態度をとっている、今度の震災で 原発事故の与える社会的コストの高さを思い知った、ただちに原発を停止し、 これまでのエネルギー政策を転換する枠組みを作るために、菅内閣を打倒しよう」 というのなら、話はわかる。ところが、今回の倒閣の中心人物たちは、何と 「地下式原子力発電所政策推進議員連盟」なるものを立ち上げている。 会長はたちあがれ日本の平沼赳夫代表、これに民主党の鳩山由紀夫、羽田孜、 自民党の森喜朗、安倍晋三という四人の首相経験者が顧問として加わり、 さらには、谷垣禎一自民党総裁、亀井静香国民新党代表、渡部恒三民主党最高顧問も 顧問として名を連ねるという。私にはこれはブラック・ユーモアにしか聞こえない。 こんな冗談のようなことがなぜ現実に起こってしまうのか。
日本から10000kmも離れたドイツで、政治家たちが日本の教訓から学び、 その渦中にいて、責任者である日本の政治家たちが何一つ学んでいない。 どうしてこのようなことが起こるのか。政治家の問題なのか。国民の問題 なのか。本来ならば、解散総選挙をして、原発政策に荷担してきた政治家は、 不信任に遭うというのが、当然の展開ではないか。原発事故のそもそもの原因を 作ってきた人たちが、現内閣に不信任議案を突きつけるというのは、あべこべではないか。
振り返ってみると、私たちの社会では考えるべきことを考えることをせず、 そこから目をそむけて、先送りしてきた。戦争責任の問題、アジアの諸国との 関係の問題、沖縄の米軍基地の問題、社会の統合と外国人の人権の問題、 政治と教育の関係の問題、公教育と教育産業の問題、などなど。その結果として、 コンフリクト(葛藤)に対してとても脆弱な社会が出来上がってしまった。 何らかのアタック(攻撃)があると、この社会はすぐに揺らいでしまう。 私たちの社会の民主主義の脆弱さを、アタック(攻撃)して悦に入っているのが 地域政党である。地域政党の躍進は、人々の国会議員への根深い不信を 原動力として、生まれている。
政治不信を原動力としてその生命を保っている地域政党に、新たな価値の 創造は期待できない。そもそも政治とはかすかな信をつなぐ技術であるからだ。 人々の政治不信のなかでの、不信任議案の提出、二重の“不信”が、日本社会の 絶望を色濃く映し出している。
さまざまな問題を先送りし、考えてこなかったことのツケは大きい。 それでも私たちはオウム真理教のようにハルマゲドンを待つべきではないのだから、 今から一つひとつ考えていくしかない。まず何を考えるべきかといえば、 原発のこれからだろう。そして、復興の枠組みだろう。 菅内閣でうまくいっていないのはマネージメントなのだから、この際、 マネージメントの仕組みを根本的に考え直すべきだ。国がやること、地方がやることを しっかりと分けて、現場が動きやすい仕組みをつくることが求められるだろう。
この仕組みを考えるにあたっては、小さな取り組みから学ぶべきことが 多くあるように思える。今のような緊急時こそ顔の見える関係性が求められている のではないだろうか。私の周りで見聞きした範囲では、教会の物資支援の取り組みは、 うまくいっているように思える。必要な物資が必要な人に届けられているようなのだ。 これは顔の見せる関係性が構築されていたからだろう。農協、生協、信用金庫なども そうしたネットワークの結び目になりうるだろう。今は、国や自治体といった 公的セクターだけでなく、顔の見える共同体を育てていかなくてはならないし、 国や政治家がそうした共同体から学ぶべきことはたくさんある。
不信にまみれた政治家たちが画策しているような国家権力を肥大化させる 方向では、この国は間違いなく良くならないといえる。この画策が成就すれば、 最も倫理的にレベルの低い人々によって、まともな人々が支配される悲惨な未来が 訪れるだけだ。国家の法は卑劣な行為のみを厳格に取り締まる最低限のもので良い。 あとは人々の知恵と工夫に委ねれば良いのだ。
復興のプランにおいては、被災地復興や支援における不正、私物化は、 厳罰に処す法を整備する必要はある。また資材の便乗値上げなども厳しく 取り締まる必要がある。その上で、あとは現場をよく知る人々の知恵と 倫理と実践に任せることだ。もちろん、細かい不正を針小棒大に書きたてる メディアはいるだろうが、こうしたメディアは社会の不正をただしている そぶりを見せながら、現在の歪んだ構造を延命させているだけなのだ。
今回の東日本大震災では、あれほどの大災害にもかかわらず、被害を 受けた人々が暴動も略奪も大パニックも起さなかったことを、世界の人々は感嘆した。 これはたしかな美徳である。こうした奇跡を起こした人たちを信じ、励ましていく べきではないのか。このような国民を信じ、励ますことをせず、我慢強い国民に あぐらをかいて、そこから搾取しながら政治家たちが権力闘争に明け暮れるならば、 どのような未来が待ち受けているだろうか。ぞっとする。
今月もまた興奮してしまった。おそらく興奮している人間に碌な文章は書けていまい。 どうぞご寛恕を。そして、再び、この国に黙って熟考し、深くその行く先を案じ、黙って苦しみのなかにいる人の そばにいる人たちが存在することを知っている。そのような人たちのこと、そして、今回の震災、人災を、 私たちに代わって、受苦して下さった人たちのことを想う。
6月、サイコロ振ってどんな目が出ても、微笑みながら政治家一人ひとりの立ち振る舞いを 冷静に見つめていたいと思います。不信任議案の採決が行われる6月2日は図らずも本能寺の変が 起こった日です(当時の暦にて)。本能寺の変から429年。被災地の人たちは今回の大義なき 政変をどのように見つめていることでしょう。それでは梅雨寒の時期、どうぞお身体に気をつけてお過ごし下さい。 (6月2日改) * 初稿は5月31日にアップロードしましたが、6月1日には6月のコラムが読めないという 不思議な事態が発生しました。(6月1日の怪)6月2日の朝には読めるようになっていました。理由はわからない のですが、大変失礼いたしました。
2011/5/2(Mon)
熟考
4月は非日常だった。卒業式に続いて、入学式も中止となり、授業の開始も 5月2日からと決まった。計画停電のほうは暖かさが回復するとともに実施されることも なくなり、落ち着いたけれども、余震は毎日のように続き、落ち着かなかった。 学生たちもまた落ち着かない日々を過ごしたことだろう。
地震と津波は天災だけれども、原発事故は天災ではない。私たちの社会の システムの問題であり、思想の問題である。“東京”電力の原子力発電所が、 福島にあり、新潟にあるという問題。今回の震災で最も甚大な被害を受けたのは、 もちろん東北地方であるが、最も照射されたのは“東京”という問題であった かもしれない。
東京を日本の頭脳と考えるならば、“東京”という問題は日本人の頭脳の 問題である。考えてみれば、地震大国の日本、津波大国の日本の、海岸沿いに 原子力発電所が林立しているという事態は、異常なことであるのだが、私もまた その上にあぐらをかいて、日々の生活をむさぼっていた。まさに思考停止であった のだ。
24時間煌々と明るい都市生活は、今回のような福島の不幸と引き替えに しても、保たなくてはならないものだったのか。そして、私たちはこのような テーマについて真剣に考えることがあっただろうか。
今もなお日本列島にはいくつもの原子力発電所が稼働している。 福島の不幸という現実が現実に起こったあとでも、電力会社の都合や電力需要の 都合といった現実がなお優先され、現状維持が行われている。
さらには各新聞社、マスコミの世論調査でも、原子力発電については、 現状維持、容認派が、縮小、廃止派を上回っている。ただ、果たして世論調査と いうのは、人々が判断と選択を正しく反映しているといえるものだろうか。 私はこれまで世論調査の対象となった経験はない。だが、少し考えてみるだけで、 世論調査は人々が熟考して出した結論とは到底言えないということがわかる。 たとえば、家事に追われているときに、新聞社から電話がかかってくる。 世論調査について協力を求められる。そして、普段考えていないこと、 あるいは真剣には考えてこなかったことについて、ある選択肢の なかから回答を求められる。私たちはこの時どのような対応をするだろうか。 あわてて調査する側が求めているような意見、あるいは多くの人がそう考える であろうと思えるような無難な意見を選んでしまうのではないだろうか。 これが国民の意見であるといえるのだろうか。
例えば、私はかつて総合演習という授業のなかで、死刑制度の是非について 議論を行ったことがあった。ご存じのように、日本の世論調査では、死刑制度について 賛成が圧倒的多数を占める。一方、法曹関係者を対象とする調査では、この結果は ずいぶんと異なる。私の授業でも、はじめは死刑制度に賛成の学生が多いのであるが、 学んでいくうちにそんなに簡単な問題ではないということに気づいていく。冤罪の 問題、加害者の来歴の問題、そして悔い改めの問題、赦しの問題、こうしたことを 学んでいくと、死刑制度に安易に賛成することにためらう学生たちが増えてくる。 そして授業の最後には、死刑賛成派はほとんどいなくなっている。
気分で応答するのと、学びを深めた上で熟考ののち応答するのでは、全く 選択の重みが違うのだ。原子力発電について、こんなにも多くの人々にかかわりの ある大事な問題であるにもかかわらず、私たちの社会では真剣な議論を通して、 国民あるいは市民が選んだというプロセスはくぐり抜けていないと思う。 だから、すべてが他人事のようであり、喉もと過ぎれば、となるのだ。
世論調査に過度に依拠することは危険だ。熟考のない多数派の言説は、 むしろ疑われなくてはならないのだ。
そう考えると、やはり最終的には私たちの社会の政治と教育の貧困に 到達する。国政ははっきりいって日本のリスク要因になっている。政治として 機能していない。政治が国民、市民の生活を守るものになるように、枠組みを 組み替えなくてはならない。
その上で、やはり教育の問題は避けて通れない。民主主義は、一人ひとりの 社会構成員の熟考抜きには成り立たないものである。私たちは子どもたちに学校で 論争的な問題をこそ学ばせる責任がある。小学校においては読み書き計算といった 基本的なリテラシーを保証しなくてはならないだろう。それでも、小学生にも 授業の場で考える機会を保証しなくてはならない。そして、中学生、高校生にとっては、 学びの中心には答えのわかったことではなく、答えのわからないこと、すなわち論争的な 問題が据えられるべきだ。考えない教育を受けてきた子どもが、大人になったからといって 急に考える大人になるはずなどないのだ。
考えない人間が実施し、考えない人間が答えている世論調査に、社会を破壊される など、まっぴらごめんだ。
この国に黙って熟考し、深くその行く先を案じ、黙って苦しみのなかにいる人の そばにいる人たちが存在することを知っている。そのような人たちのこと、そして 今回の震災、人災を、私たちに代わって、受苦して下さった人たちのことを 想う。
5月、すべては長期戦。どうぞお身体に気をつけてお過ごし下さい。
2011/4/1(Fri)
震災
3月11日午後2時46分、東京も激しく揺れた。これまでに経験をしたことが ないような長く、深い揺れだった。どこかで大変なことが起こったにちがいないと すぐに思った。
それから映像を通して流れてきた風景は、信じがたいものであった。 テレビに映し出される津波の実況中継、危険の真っ直中に向かう車を鮮明な映像で 見ながら、何もできない無力感、罪悪感、悲しみ、被災者のかたがたはもちろんのこと、 日本中の、そして世界中の多くの人たちが、心に痛みを負った。
すぐにとんでもないことになったとわかったのだが、大災害がいつもそうであるように、 時間が経ち、その全容が明らかになるとともに、その被害の深刻さも増していった。
そして、原発事故、取り返しのつかない事態が生じてしまった。もし自分が生まれ育った 土地でこのようなことが起きたらと考えると、地元住民のかたがたの悲しみ、苦しみの 一端が想像されるが、これは耐え難いことである。青い海と、緑の山、懐かしく心慰められる ふるさとの地が、人の住めない、放射能に汚染された地になるとするならば、もう人が人の力で 立ち直ることはできないだろう。地震や津波ならば、また人の力で復興することができる。 だけど、放射能は人の力を超えている。決死の覚悟でたたかってくれているかたがたには、 心から感謝するほかないのだが、本来ならば人がたたかってはいけない相手だ。
天地人とはよくいったもので、人は地にはかなわない。私たちは地に守られて、地に 抱かれて、地の上に住んでいるのだ。その地を台無しにしてしまっては、どうにもならない のだ。
地を台無しにしてしまった以上は、天の声を聴くしかないだろう。この大災害が、 私たちに何をメッセージとして語っているのか、それを考えるしかない。
今、東京は暗い。夜、帰り道が怖いほどだ。研究室からの夜景も明らかにいつもとは 違う。ネオンライトは消え、一昔前の夜のように、ひっそりと静まりかえっている。
この夜の雰囲気は、イギリスを想起させられる。イギリスの夜も暗かった。 車で走ると、深い闇のなかで、心地のいい孤独感にひたったものだった。 幼いときに、父の実家から心細い田舎道を走ったときと同じような心の風景が そこにはあった。
病院や工場など電気が必要なところには十分な電気が行き渡るようにしたい。 ただ、先祖代々守ってきた土地を台無しにしてまで、電気を使わなくてもいいではないか。 ものがなければ、人間は知恵を出す。こうしたことは日本人がとくに得意とするところである。 原子力なしで、どんな工夫ができるか、少ない電気で、どんな知恵が生まれるか、 私はぜひともチャレンジしてみたい。
たとえば電気が足りない分、薪ストーブを普及させたら、雑木林が手入れされ、 更新されて、都市の景観と緑化にも寄与するかもしれない。自然エネルギーを導入する 技術が高まれば、その技術をもって世界に寄与し、日本の経済的、技術的ステイタスも 向上するかもしれない。何よりもプラスとプラスの技術開発を行うことが大事である。 わたしも、あなたも、幸せになるようなテクノロジー、これが人々から応援される 鍵である。
原発は、必ず対立を生む。構造的にそうならざるを得ないのだ。実に危険な 代物であるから、自宅の隣に原発が建つとなれば、右翼だろうが左翼だろうが、 東京ガスの社員であろうが東京電力の社員であろうが、100%反対する。 だから、そこで取引が行われる。補償金だったり、補助金だったり、固定資産税だったり、 雇用だったり、さまざまなプレゼントが準備される。誰だって、こうしたものは ほしい。地域を愛するからこそ、地域の経済的発展や福祉や教育に寄与する 資金や雇用はほしいのだ。だから、100%反対するはずのものが、90%、80%と なっていく。こうして、ある程度の賛成者が得られれば、政治的に事業を進めていく 決定がなされる。そして、原発が動き出してしまえば、もう止めることはできない。 地域経済も原発に深く依存することになるし、原発なしには生活できない人たちが 日々増えていく。
反対派の人々も、賛成派の人々も、どちらも気の毒である。こうした深刻な対立を、 構造的に生み出す代物は、まずそのことだけで問題をされなくてはならない。
私は、先月のコラムに次のように書いた。再録しよう。
「倫理と文化の質がおそらく最も低い中央が、地方の命運を握り、国家を左右している この国の不幸を思った。」
問題にしなくてはならないのは、どちらに転んでも不幸な選択を地方 (あるいは一般の人々)に押しつける中央(あるいはエリート)の倫理的な責任問題であると、 私は考える。
最後は、人の痛みを知れ!の一言に尽きる。そして、被災者の人たちには、 私たちはいつもあなたがたとともにいます、というメッセージを捧げたい。 イギリスの知人友人たちからは、私たちの安否を気遣うメールとともに、 あなたと日本のことをいつも思っています、という メッセージをいただいている。
Thinking of you and of Japan
knowing that people around the world are thinking of your country
地を取り戻すのは、天の声を聴くところから。
静かなる4月をただ祈りつつ
2011/3/2(Wed)
青い鳥
2月はあっという間だった。そしておそらく人生もまたあっという間なのだろう。 いくつか喜ばしいこともあり、いくつか腹立たしいこともあった。まさにこれが 人生なのにちがいない。それでも、わざわざ不愉快な社会をつくる必要はないわけで、 そこには人間の知恵が入る余地はある。人生はいいことばかりではないけれども、 お互いに足を引っ張り合うよりもましなありかたは存在する。
2月、九州と信州に出かけた。どちらも気持ちのいい場所であった。 九州・久留米の大砲ラーメンは実にうまかった。店員さんもてきぱきとしていて、 そのリズムと心遣いが何とも気持ち良かった。こんなに安くてうまいラーメンが 食べられるのに、そしてそこは私が学び育った場所なのに、なぜ自分はここに住んで いないのか。そして、好きでもない都会で文句ばっかり言っているのか。 自分自身の浅はかさを深く思いながら、豚骨ラーメンに舌鼓を打った。
ここだけの話だが、東京では総じてラーメンは高くてまずいといえる。あるいは私の 研究不足なのかもしれないが、行列のできるラーメン屋に並んでさんざんな苦労 ののち出てきたラーメンでも、食べてみると地方では並程度のパフォーマンスである。 東京の場合、そもそも地価が高すぎるのだ。だから、賃料がそのまま代金に上乗せされる。 その上、多くの場合、店内が異様に狭い。これも高い地価のせいである。 結局、東京では、窮屈な姿勢で、高くてその価値に値しないラーメンを食べなくては ならなくなる。こうして人生の楽しみが一つ失われる。
おそらく政治家ご用達の赤坂の料亭にでも行けば、田舎では食べられないような ご馳走が食べられるのだろうが、残念なことに私には縁のない話である。 おそらく金に糸目を付けなければ、東京には卓抜した料理があちらこちらに転がっている のだろうが、残念なことに私は安くてうまいものが好きなのである。高いともうそれだけで 罪悪感が絡みついてしまい、たとえおいしい料理でも楽しく味わえなくなってしまう。 もちろん、特別なイベントの場合はそうではない。デートとか、お祝いとか、である。 しかし、デートやお祝いなどの特別イベントは、凡人の生活のなかにそうそう頻繁にあるわけではない。 むしろ、呪詛に満ちあふれた日常から気分転換するために、時にはおいしいものを食べたくなる というのがありふれたケースである。 ところが、そこで入ったお店が高くてまずかったりすると、さらなる呪詛の世界となる。 このようにして、東京では、呪詛の悪循環から逃れられないのである。
このように考えてみると、限りなく東京と相性が悪いような気がする。 そんな私がなぜ東京に住んでいるのだろう。ほんとうに愚かだとしか言いようがない。 地を愛せないことは不幸なことである。
話が脇道に入ってしまったが、私はこのようなことを考えながら、その地を 愛し、その食を愛し、大砲ラーメンで至福の時を過ごしていた。好きな場所では、 散財することが喜びになるのだ。このお金が好きな人々に廻るとしたら、どんなにか 嬉しいことだろう。このお金で好きな場所が潤うとしたら、どんなにか嬉しいこと だろう。だから、私は今年からふるさと納税を始めることにした。これは実に気分が 良かった。私が納めるお金が、ふるさとの文化遺産の保護に使われるならば、 呪詛にも耐えて働いている甲斐があるというものだ。しかし、逆に考えると、 このことは今の地を愛せていないということでもある。これを考えると、気分が滅入った。
これは嫁いできたものの、婚家に馴染まず、実家を懐かしんでいる嫁のような ものだろうか。自分が自立できていないのだろうか。そんなことも考えたが、 私はノリッチは愛していた。自立の問題もあるかもしれないが、地の問題も あるだろう。これもここだけの話だが、東京の人たちは目つきが悪い。 それだけ東京の人々の暮らしにはストレスがかかり、生きていくのが大変なのだろう。 実際、地方ならばこんなところに人が住むだろうかというような場所にも、 東京では家やマンションが建っている。そして人は大勢いるのだけれども、私と 二人称のかかわりをもっている人はほとんどいない。全体がそういう環境であるから、 東京で暮らすというのは簡単なことではないようだ。
再び話が脇道に入ってしまったが、久留米に戻り、安くてうまいラーメンを食べて ご機嫌になった私は、久しぶりに我が母校を訪ねることとなった。恩師がこの三月で 母校を去られるということで、最後のご挨拶にうかがったのである。筑後の国の一宮 である高良山(こうらさん)の麓に建つ母校の校舎もまた、恩師が去るのと時を 同じくして、新校舎に建て替えられることになっている。
高良山と高良川、そして筑後川という、ここにいたときは当たり前だった風景が、 とても心落ち着くものであったことを改めて知った。そして、学舎もまた通っていた 時代には一刻も早く立ち去りたい場所であったのだが、改めて訪ねてみると、 地の恵みのある得難い場所であるということに気がついた。学舎は高台にあり、 北は筑後平野を広く望むことができ、南は山の見事な緑に包まれている。 いろんなところを経験してきたからこそ、ここの良さが見えるようになったのかも しれない。それにしても、環境を選ぶことのできない幼く、若い時代に、良いものと 出会えるということは、何ものにも代え難い財産である。私たちは今、幼く、 若い人々にそのような出会いを準備できているだろうか。深く吟味しなくてはならない。
教室では、ある授業を参観させてもらったのだが、生徒を一人前とみなし、献身的な 努力によって質の高い学びを準備されている若い先生の真摯な姿に、心を打たれる 思いであった。ここで思ったことも同じであった。それと気づかずに良いものを享受できる ということは、有り難いことである、と。気づかないからほどほどのものを、ではなく、 気づかないからこそ最高のものを準備する。その精神がなくては教育は成り立っていかない だろう。
学校の環境も、授業も、あの頃はそんなにいいものだとはちっとも思っていなかった。 もちろん、例外となる授業はあった。あるいは、今回もまた例外を見ただけなのだろうか。 それははっきりはわからないのだけれども、たとえ例外であっても、それがきちんと継承されて いるのならば、それは最悪ではないということである。教育のほんとうの成果は、 おそらく子どもたちが四十歳を過ぎないとわからないだろう。四十を過ぎた今、手にとって 読み返してみても、学ぶところが多々ある教科通信を出されていた恩師の実践には敬服する ばかりである。
久留米を去って、次は信州・安曇野に出かけた。こちらもまた地の恵み豊かな 土地柄であった。北アルプスに抱かれ、梓川の流れとともにある人々の生活と文化は、 まさにこの地のようであった。包む込む自然が、包み込む人々を育てているようで あった。和菓子屋さんの前で、メーターを止めて待っていてくれたタクシーの運転手さんは、 自分自身の倫理で私たちに親切であるとともに地域社会に貢献していた。生活とはその 一つひとつが倫理的であるものだが、地の恵み豊かな土地では、一人ひとりの倫理が ストレートに発揮しやすいような気がする。
倫理と文化の質がおそらく最も低い中央が、地方の命運を握り、国家を左右している この国の不幸を思った。私がもし地方に住むならば、別の憤怒をもつに違いないと、私は確信している。 中央のだらしなさと権威主義に、日々、怒りまくるであろうことは目に見えているのだ。 したがって、私の場合、東京にいても、地方にいても不幸なのだろう。これは私という人間の 歪みが抱える不幸であるとともに、この社会の歪みが抱える不幸でもある。 だから、私が地方に行くことで解決する問題ではないのだ。そうであるから、 今はまだ東京にとどまって、こうした思いを文章に綴りながら、また地方から学ぶために いろんなところを旅しようと考えている。
東京は地方よりも花粉症がひどい。皆さんも花粉症に気をつけて。
よき3月を!
2011/2/1(Tue)
祝福
1月は寒かった。そして東京はからっからに乾いていた。 日本列島は冷凍庫に入ったかのように冷え込み、日本海側には ドカ雪が降った。さらに南の霧島では新燃岳の噴火があり、まさに 天変地異が続いている。
口蹄疫、鳥インフルエンザ、等々、厄難もあり、これに加えて、 大学生の就職難、リストラ、等々、これでもかこれでもかという打撃が 続き、さすがの我慢強い人々も耐え難い思いをもたれていることだろう。
国の借金もただただ膨らむばかり。国の借金と地方の借金を合わせると 1000兆円という天文学的な数字になり、ついに国債の格付けがスペインを 下回ってしまった。勤勉だと言われている国が、どうして陽気だと言われている 国より、借金まみれなのか。
陽気に過ごしていて、借金まみれならば、イソップ童話のキリギリスみたいで 諦めもつくが(キリギリスは、そしてスペイン人も怒るかもしれないが、スミマセン)、 ガリガリ勤勉に働いていて、借金まみれというのは、どうも納得がいかない。
おそらく日本国民の多くもそう思っているものだから、こんなに働いていて、 我慢しているのに、何だこの生活は、何だこの仕事のなさは、と政治家に対して 怒ることになる。
すると、政治家ははい、はい、すみません、といろんなものを不定見に (そしてどさくさにまぎれて自分たちの支援勢力に)ばらまくものだから、 ますます国は借金まみれになっていく。
このままではいつかはハイパーインフレになるほかないと、経済学の素人である 私は思うのだが、そんな不安はバカげているという「専門家」なる人たちもいて、 ほんとうにわけがわからないのだ。
大きすぎて潰せないというのが一つの神話になっていて、大企業や経済大国は 何をしても大丈夫ということになっているが、世界史を学ぶならば、ローマ帝国を はじめとして、巨大な帝国もまた常に栄枯盛衰の歴史を歩んできたことは一目瞭然 である。始まりがあれば、終わりがあるというのが、歴史の避けられない必然なの である。そして、人々の欲望の総和が人々の能力の総和を超えたところから、 カタストロフィーが始まるということも歴史が教えてくれるところである。
「専門家」なる人たちは、自分が現役の時代に、あるいは生きている時代に、 そのカタストロフィーは来ない(あるいは来ないでほしい)と語っているに 過ぎない、と私は思う。たしかに人々の「世界の終わり」を先延ばしにする能力は、 私のような「てれっと」(博多弁:調べてくだされ!)している人間には想像も つかないほど、高いことは間違いない。
必要なものが一応行き渡っても、次から次に新しいものが生み出される。 液晶テレビが出てきて、これはこれはと感心していると、3Dなるものが登場して、 古いものをなるべく早く陳腐にしようと懸命な努力が続けられている。たしかに 白黒テレビがカラーテレビになった時は多くの人々に感動があったのだろうが(私は おそらくそのことをリアルタイムで憶えている最後の世代だ。いやおそらく同世代 でも都会に生まれた人たちは知らないことだろう)、ハイヴィジョンになり、 液晶テレビになり、どれだけの感動が生まれたのだろう。
資本主義というシステムはつねに新しいものを産出し、人々の新たな欲望を 創造するように宿命づけられているのかもしれないが、いくら金持ちでも三食 食べたら、お腹もいっぱいになるし、一日は二十四時間しかないのである。 人々が消費に駆り立てられないと成り立っていかないシステムは、やっぱり 無理があるように思える。
そのように考えると、昨今の若者の消費離れは、欲望の総和を能力の総和に 調和させる試みであるのかもしれない。だが、欲望の総和を抑えることによって 両者の調和を保つというこの試みは、まさにデフレーションそのものであり、 国の借金を返済するという方向にはいかないものだから、何とか彼らの欲望を 高めようとさまざまな方法でお金がばらまかれるのだが、雇用と所得に不安が あるものだから、やっぱり欲望は高まらず、国の借金だけが雪だるま式に 膨らんでいくことになる。
日本史を紐解くと、その昔、徳政令なるものがあり、江戸時代にも棄損令なる ものがあって、政権の末期になると、しばしば借金の棒引きが行われるのが常であった。 私たちも今、徳政令の前夜を生きているのかもしれない。もはや借金の返済について 考えるよりも、借金棒引き後のご破算になった世界で、どのようなかたちで新たな社会を 築いていくのかを考えるときに来たようだ。
私のアイディアは全員年金あるいは全員定額給付金。月額10万円をすべての 国民に支給する。人口1億3千万と概算して、総予算は156兆円。うわー、これだけで 今の予算の2倍近く。やはり現実は簡単ではない。
生活するために必要な最低限度のお金は全員に支給し、これ以上必要な人や 社会に貢献したい人は働く。これが私の考える理想なのだが、実現するためには どこかにダイヤモンドの鉱脈か、油田が発見されなくてはならないようだ。
今できることとしては、身の丈にあった生活をすることぐらいだろうか。 農林水産省は鹿児島県か宮崎県に移転し、法務省は網走あたりに居を構える。 市会議員はマンションの理事会のような持ち回り制にして、そのなかから 都道府県会議員を選出する。そして、そのなかから国会議員の半数を選出する。 すると、裁判員制度の政治版が完成する。
そして、公共的な仕事の報酬はすべて年収500万円均一とする。公務員、 自衛官、警察、教師、医師すべて、五百均(ごひゃっきん)。志のある人たちが 集まってくればよい。ただし、年収を抑える代わりに、その仕事はリスペクトされて、 高い専門性の保持が保証さなくてはならない。安かろう悪かろうではダメだ。
そもそもアリなのだから、ありのままにやっていくしかないのだ。 アリがクジャクになったバブルの夢をいつまでも見ていても仕方がないのだ。
最後に、何よりもねたみ、そねみといったネガティブな感情を生きる エネルギーにしないこと。今のこの社会の人々の目つき、インターネット上の 書き込み、犯罪者の言い訳、などなど、あまりにも残念なものがある。 内田樹が、インターネット上にあふれている言葉は意見ではない、呪詛だと いみじくも指摘していたが、呪いはまわりまわって自分に返ってくる。 人を呪ってはいけない。人は祝されるべきなのだ。これも内田樹から 教えられたことである。
私たちは巷にあふれている呪いから自分自身を身を守らなくては ならない。そのためにまず自分自身を祝福することだ。生まれてきて よかった。生まれてきてWelcome!。生まれてきてHappy!。生まれてきた だけ儲けもの。何でもいい。そうすれば、天からあなたに祝福が下る ことだろう。もう一度、呪うなかれ、祝福しよう。
それではよい2月を!
2011/1/1(Sat)
謹賀新年
12月はノロウイルスにやられてしまった。あわただしさの中で、 身体も疲れていたのだろう。夜中に突然吐き気がして、胃がねじ切れる ような苦しみを味わった。時々、体調を崩すことがあっても、仕事に 支障をきたす時期にそれが起こることは滅多になかったのだが、今回は いろんなところに迷惑をかけてしまった。体調を崩したことは、私に いろんなことを教えてくれた。仕事について、生活について、よくよく 考え直さなくてはならないと思わされた。おかげで、しばらくは布団の なかで煩悶していたのだが、嵐が去ったあとは、清々しい気持ちであった。 いつだって自分自身の弱さを覚えていなくてはならない。
2010年は21世紀初めの区切りの年であった。2009年の 政権交代が何かしらの変化を生み出すはずの年であった。だが、この社会は 相変わらず迷走を続けている。それでも、私は今、1990年代から2000年代 半ばまでの大逆走とは違う社会の空気を感じている。
2010年に起こった最も印象的な出来事の一つに、尖閣諸島沖での 中国漁船と日本の海上保安庁の巡視船の衝突から派生した、さまざまな 事件があった。私が興味深いと思ったのは、ここ20年で最も政治的に 左寄りだと思われる菅政権の下で、中国との関係が最も緊張したものに なったことである。
2006年に小泉政権を引き継いだ安倍政権は、ここ20年で最も 政治的に右寄りと思われる政権であった。ところが安倍首相が就任後 はじめて訪問した国は中国であった。そして、小泉政権時代に 冷え切っていた中国との関係は、安倍政権以降、雪解けを迎えることに なる。
そして、今回の尖閣諸島沖の事件である。安倍政権がそうであった ように、時の権力者の熱烈な支持者が期待するのとは逆の方向に、 政治は動いている。これは日本という国家が国際社会という大きな枠組みの なかで動くしかないということのあらわれであり、現実的な選択肢の幅は そう大きくはないということが示されているのである。
政治が右にブレようが、左にブレようが、日本丸としてはほどほどの ところを前に進んでいくしかない。これは政治の閉塞と表現するよりも、 政治文化の成熟と見なすことができるのではないだろうか。
自民党が長い間、政権を握り、その末期には、小泉政権が市場万能主義 の幻想によって、大きな支持を得た。だが、市場万能主義の綻びが明らかに なり、民主党による政権交代が実現した。ところが、民主党に代わっても、 さまざまな問題が一挙に解決するものではないということが明らかになった。 むしろ、自民党がいろんなノウハウをもっていたことが明らかになった。 外交問題における国内向けの勇敢なポーズと対外的な低姿勢の二枚舌が、 政治的なノウハウによるものだということも明らかになった。
ここ20年ほどの迷走は、私たちにいろんなことを教えてくれた。 最も大事な教訓は、政治に幻想をもつことはできないということだった。
もちろん政治は社会的経済的資源の配分の問題であり、重要な役割を 担っている。だが、政治の力で社会が一挙にポジティブな方向に変わる ことはありはしない。ベストではなく、どうすればベターになりえるのかを 熟慮するのが政治である。人々がパフォーマンスの政治に幻滅していると いうことは、決して悪いことではない。
見るべきものは見た今、私たちは成熟しなくてはならない。 これまで創り上げてきたものの価値をきちんと評価し、「改革」という ことばに惑わされることなく、静かにしみじみと変わることを恐れては いけない。
2010年代は、身の丈にあった日本社会を創るときになるだろう。 そのために、強力なリーダーはいらない。これまで創り上げてきた文化の 価値をきちんと評価しつつ、新しいチャレンジを恐れない真摯なリーダーが いれば、それでよい。あとは、ここに住む人々が全体のエコロジーを考え、 他者に配慮をもつことだ。そうして生まれる新たな日本社会は、今よりも、 住み心地のよいものになるはずだ。
そのためには、私たちは生きる文化の豊かさを育てなくてはならない。 もはやまともな政治ならば、大きな差異を生み出せない時代に来ている。 私たちの生きる文化、すなわち何を大切に生きるのかの多様性、を育てる こと、これが政治に負けない社会を育てることになるだろう。
それではよい1年を!
2010/12/3(Fri)
歩く
11月も忙しかった。土日が仕事でそのまま月曜日に突入ということが しばしばあり、いろんなところにしわ寄せが来ている。そして、あわただしさの 中で、また一つ歳を重ねた。賢くなっているのだか、愚かになっているのだか、 全くわからないまま、ただ時だけは流れ過ぎている。
自分の愚かさは自業自得であるだけだが、自分の愚かさが周りの人々の 学びと成長を妨げているとするならば、これは由々しきことである。 だから、教師は学ばなくてはならぬ。それが最も大きな責任だ。
この秋、高校時代の恩師と再会する機会があった。学びの日常を 生き続けた恩師の歩みをただただ仰ぎ見るばかりである。毎日学びの小径を 歩き続けることは楽なことではない。
歩こうとしながらも立ち止まったり、つまずいたりの繰り返しである。 どこをめざして歩いているのか。自問自答する日々である。
ただ周りの人々には感謝するばかりである。辛抱強くつき合って 下さっている。少しはお返しをしたいのだけれども、なかなかままならない。 非礼をお詫びするばかりである。
それでは2010年の最後の月を、お元気でしみじみとお過ごし下さい。
2010/11/1(Mon)
井の中の蛙
10月は忙しかった。予想されていたことであるが、やっぱり忙しかった。 例年は、秋になると調子が上がってくるのだが、今年はただ疲れているという 感じである。
それでも体調を崩して寝込むというようなことはなかったのだから、 そこは良しとして、感謝しなくてはならないのだろう。考えてみると、 学生時代はよく体調を崩してダウンしたものだった。こんなにしょっちゅう 寝込んでいて社会に出てから大丈夫なのかと心配する人もいたりしたが、 仕事に就いてからはすっかりダウンしなくなった。
おまえは大学にいるだけで社会に出てはいないじゃないかと言われたら、 はい、すみません、と言うしかないが、社会だろうが、大学だろうが、 家庭だろうが、仕事をしているということは、身体にとって大きなことの ようだ。
学生はよく体調を崩していて、今時の学生はすぐに具合が悪くなって、 社会に出てから大丈夫なのかと、私もすっかり余計な心配をする大人に なってしまったが、私ですら大丈夫だったのだから、おそらく学生たちも 大丈夫だろう。
今若者たちに必要なものは、丈夫な身体よりも、「具合が悪くなって 何が悪い、こんな世の中の空気を吸っていれば、誰だって具合が悪くなる わい」と居直るふてぶてしさかもしれない。就活だの、婚活だのと追い立てられて、 若者がふてぶてしさを失ってきているのは、実に残念なことである。
「私の魅力がわからないとは、何て世の中の男たちには見る眼が ないのだろう」と思うオンナたちがもっとたくさんいてもいいではないか。 「オレの力量が見抜けないとは、何て会社のおっさんたちは見る眼が ないのだろう」と思うオトコたちがもっとたくさんいてもいいではないか。 もちろん、オンナとオトコを入れ替えてもいい。そうしたふてぶてしさが、 若者の特権だったのではないだろうか。
大学院時代に「オレはボーナスのもらえない天才だ」と語っていた とある先輩は、今や世をときめく売れっ子ライターになっている。 私は自分のことを天才と言ってはばからない彼の自負が好きだった。 そのくらいのことを思わなくては、厳しい世界で、自分を支えることは できないではないか。
今の時代は情報が溢れている。そしてそのほとんどがくだらない情報だ。 その情報ですべてを知った気になったり、その情報で劣等感に苛まれたり、 実にバカバカしい優越感と劣等感がはびこっている。そしてそうした情報に 振り回されながら、私たちは右往左往している。そんな時、情報から遮断された 部屋で、ワープロの画面に向かいながら、「オレは天才だ」という自負で 自分を支えていた彼のことを、何だか懐かしく思う。
高校時代、私は偏差値なるものを全く信じていなかった。もちろん、 自分の偏差値というのも知らない。では何を信じていたのかというと、 学校の校内模試の結果のみだった。それも高校三年になってからである。 当時、私の母校では、校内模試でどのポジションにいたら、どこそこの 大学に入ることができるということが言われていた。情報はこれだけで 十分だった。
それ以外の情報は無視していた。はっきりいって井の中の蛙(かわず)である。 しかし、井の中の蛙で十分だった。余計な情報を集めても、余計な心配が増える だけである。だいたいまだ仕上げていない範囲が出題される模試を受けても、 自分の力に見合った結果が出るわけではない。そんなものは無視すればいい。 それを母校では、教師たちがうちの生徒は高3の体育祭が終わってから伸びる という神話で表現していた。私たちはその言葉を高3の体育祭までの結果は 気にすることはないというふうに解釈していた。
私たちが卒業したあと、母校にも開国が訪れ、予備校に行く生徒たちも 増えてきた。生徒たちはもはや井の中の蛙ではなくなった。しかし、皮肉にも、 井の中の蛙の時代のほうが、生徒たちのパフォーマンスは総じて高かったように 思われる。今は、とんでもなくスゴイ生徒たちも出ている反面、情報の渦のなかで もがいている生徒たちも多いようだ。
世界を相手に勝負するならば、情報は必要だ。ただし、情報の質が肝心だ。 石川遼選手がセント・アンドリュースで全英オープンを四日間戦って、そのうち、 二日間をトム・ワトソンとラウンドしたような、質の高さ。これはもはや情報では なく、経験の領域に入るのかもしれない。五感をもって身体中に響き渡らせた 貴重な経験。十代でこうした経験ができるのは、今の時代の恩恵なのだろう。
情報化社会には光と影がある。だが、この光は数少ない卓抜した人物に 集中し、影は社会に広く蔓延しているように思われる。もしも携帯電話に 無料ゲームがついていなければ、そこに座っている男性は、その時間を 自分自身を振り返る時間にあてたかもしれない。もしも携帯メールが なければ、授業の前の時間、隣の友人と授業に関する何かしらの議論を 交わしたかもしれない。
私は凡庸な人間の一人として、凡庸な人々に共感を覚えるのだが、 凡庸な人間は、環境に大きく左右されるものである。そこに本があれば、 本を読み、そこにゲームがあれば、ゲームをする。これが凡庸な人間である。 今の時代は、凡庸な人間があまりにも守られていないのではないか。 凡庸な人間がいくらかの自負をもちながら安心して自分を育てることができる 井戸が失われているのではないだろうか。
10月は忙しさに追われていたので何も書くことがないと思い、 パソコンに向かいながらも悩んでいたのだが、自分の凡庸さへの 気づきから、何とか文章が生まれた。凡庸であるということも何も 悪いことばかりではないようである。
それでは凡庸な皆さんも、非凡な皆さんも、それぞれの秋をお過ごし下さい。 よい11月を! 再見!
2010/10/1(Fri)
手荒い歓迎
7月、8月も暑かったが、9月に入っても暑さが続いた。ところが秋分を過ぎると、 一気に気候は晩秋に早送りされた。毛布が必要な寒さになった。ほどほどということばは もはや死語になってしまったのか。そして、10月である。
9月は空を飛んでいた。12時間のフライトでロンドンまで飛んだのだが、 到着したその日、たまたまロンドンの地下鉄が一斉にストライキに入っており、 ロンドン・ヒースローから高速鉄道に乗って降り立ったパリントンの駅構内は、 人々でごった返していた。イギリス時間の午後4時は日本の真夜中の12時。 朝4時に起きての長い長い一日でぐったりと疲れている上、ロンドンの土地勘もなく、 頭の中が全くイギリス・モードに切り替わっていない私としては、 ただただ途方に暮れるばかりであった。
その日のうちに、私はイギリス南部の海岸近くにあるLewis(ルイス)の街に 行かなくてはならなかった。イギリス時代の先生の自宅を訪ねるためである。 2年半前のイギリス行きでは、アムステルダムからノリッチに向けて出発した プロペラ機がノリッチ空港上空まで行きながらも濃霧のため着陸できず、 ロンドン・ヒースローに連れていかれるという事件があったが、イギリスに行くと 実にイギリスらしい強烈な歓迎を受けることになっているようだ。パリントンの駅 構内で、「今回もまたこれこそイギリスだ。でも勘弁してくれよ。」と思いながら、 やはり私は途方に暮れるばかりだったのである。
途方に暮れている私は、とてもいいカモに見えたのだろう。いかにも映画の 悪役で出てきそうなイギリス人が近寄ってきた。「地下鉄は動かねえよ、ほら、タクシー 乗り場だって長蛇の列だ、3時間ぐらい待たなくてはならねえ、こっちへこい、 タクシーに乗せてやる」というようなことを話しかけてきた。あまりにも悪人顔で、 この話が親切心から出てきているのではないことは明白だったのだが、私としてもほかに 何のあてもないものだから、悪役についていくことにした。「あんた、タクシーの 運転手?」、「ヴィクトリアまでだいたいいくら?」と尋ねても、一言も答えない。 足早に裏の路地へ私を誘導する。ますます怪しい。
裏の路地を抜けると、ちょうどタクシーが止まっており、そこから人が 降りていた。「ほら、ちょうどいい、これに乗れ。」と悪役は言う。こいつら グルか、とちょっと思ったのだが、悪役はタクシーの運転手に話しかける様子もない。 そして、「おい、チップをよこせ、20ポンドだ。」と言う。悪役は、地下鉄の ストライキという事態に乗じて、にわかビジネスを行っていたのだ。 しかし、20ポンドとはずいぶん高いものだから、「高すぎる。10ポンドに 負けてくれ。」と言って、10ポンド札を一枚渡して、私はそそくさとタクシーに 乗った。にわかビジネスの悪役は次のカモを見つけるために駅に戻っていった。
タクシーの運転手はマッチョだった。しかし悪役のようではなかった。 「あの男はなんだ?」と尋ねてきた。「ああ、なんだか知らないが、ここまで 連れてきて、金をよこせと言ってきた。おそらく自営業を始めたのだろう。」と 答えると、「金を払ったのか?」と聞くので、「ええ」というと、「あんなヤツに 金を払うんじゃない」と言う。悪役が登場し、その後、腕っぷしの強い労働者に 救われる。すべてがイギリスだ。まるですべてがグルになっているかのようだ。 イギリスでは、必ず悪役が出現し、その後、お助けマンがやってくることに なっている。そして、そのどちらからもお金をとられる。にもかかわらず、 こちらは「ありがとう!」と感謝することになる。イギリス人はこのようにして 世界を征服していったのだろう。イギリス滞在中のビザ延長問題でも同じ 構図だった。あの時、アフリカから来た友人は、「あれがイギリス人の 商売だよ」と話していた。植民地支配もまたこの構図だったのだろう。 悪役だけでは世界征服はままなるまい。全く商売上手な人たちである。
さて、タクシーは大きな公園の周りを走り、馬に乗った警官たちともすれ違った。 タクシーの運転手は、フットボールと家族を愛する典型的なイギリスの労働者であり、 実にナイスガイであった。タクシーには運転手の家族の写真が飾られているが、これも イギリスのタクシーではよくあることである。フットボール話に花を咲かせながら、 地下鉄のストライキで混乱しているロンドンの市街地を走り抜け、無事ヴィクトリアの 駅に到着した。そして、こちらの料金は10ポンド。旅行者だからとぼったくられる こともなく、思ったよりも安い値段だった。さきほどの悪役と同じ値段ではあんまり なので、5ポンドのチップを払い、私は窮地を脱した。あとでロンドンの地図を 眺めたところ、タクシーから見えていた公園はかの有名なハイドパークであり、 ロンドン中心部を北から南へと縦断していたようである。
ヴィクトリアに着いて、あまりの人の多さにここでも右往左往していたのだが、 何とかルイスまでのチケットを買い、座席に座ってホッと一息。テームズ河を渡り、 ガドウィック空港を経由して、イギリスの田園地帯を眺めながら、長い一日を 振り返っていた。午後7時過ぎ(日本時間午前3時過ぎ)に無事ルイスに到着し、 それから先生の温かいおもてなしで、午後10時まで19世紀の雰囲気漂う レストランにて会食に参加した。繰り返しになるが、朝4時から起きている私としては、 時計の短針が二周した日本時間午前4時を、イギリス人の先生とその日五度目の 食事を食べながら、英語で話をしながらにこやかに過ごすというのは、 なかなかの大儀なことであった。
床に就いたのは、今回もまた午後11時(日本時間午前7時過ぎ)。イギリスに 行くと、いつもたいそうなおもてなしが待ちかまえており、私を眠らせてくれないのだ。 ノリッチ行きがヒースロー行きに変更になった2年半前もノリッチ到着は午後11時だった。 今回もまた、先生の書斎のベッドに身体を沈めると、ぐったりと精根尽き果てて、 これが人生最後のヨーロッパ行きだろうな、と思った。そして、まどろんだ。
翌朝、早起きをして先生のコテージの周りを散策した。すばらしい田園風景で、 空気がとてもおいしかった。そして、先生の奥さまが手入れをされているガーデンを 歩いた。ゆったりとして気持ちのいいガーデンだった。人格というものが生活の輪郭を つくっていて、それが建築、庭園として具象化されているという感じである。形を与えられる 日本、内側から造っていくイギリス、建築一つをとってみても、その文化の違いが はっきりと感じられる。
日本に戻ってきて、世界史の教科書を紐解いた。違う、全然違う。そう思った。 世界史の教科書から構築されるイギリスと、自分の目で見、感じてきたイギリスには、 大きな隔たりがある。多くの知識人の手と目が入り、「公正である」ことをめざしている はずの教科書の記述ですら、一人称の「私」の経験とは隔たりがあるのだ。 与えられた知というものに対して、私たちはよくよく用心してかからなくてはならない。 もちろん、自分の経験を絶対化することは知的にひらかれた構えであるとはいえない。 だからこそ、自分の経験をひろげていこうとチャレンジすることは、他者と共存できる 社会をつくる上で、とても大事なことではないかと思う。
帰国して、いろんなことを感じる。そのなかでも日本の若者の内向きな姿には、 不安を感じる。もちろん、若者は社会の空気をもっとも敏感に感じとっているわけであり、 内向き、安全志向というのは、ここ20年来の日本社会の姿の反映だといえるだろう。 まあ、一人だけ外向きになって、チャレンジしても、損をするだけであるから、 こうなるのだろうけれども、みんなが内向きの社会というのも面白くなく、住みにくい ものである。
簡単に外がいいということができる歳ではなくなっている。外がいいのか、 内がいいのか、それは簡単に答えが出ることではない。だけど、たとえ内を 選ぶとしても、両方を見て、内を選ぶのと、はじめから内しか見ないのでは 大きな違いがあるのではないだろうか。そして、内しか見ることができない けど、外に思いをはせるのと、外に思いをはせることなく、内にのみあるのでは、 その人の志、人格の発達に大きな違いが生まれるのではないだろうか。
それでは学びの秋、よい10月をお過ごし下さい。
2010/9/1(Wed)
炎暑
7月も暑かったが、8月も負けずに暑かった。最高気温、最低気温ともに インフレーションを起こしており、「明日は最高気温33℃」という天気予報を観ると、 ああ一息つけるとホッとするくらいである。かつては33℃と聞けば、「うわぁー、あっつー」と思わず 叫びそうだったが、今では36℃、37℃がざらである。また「明日は最低気温が26℃」と聞けば、 「ああ、寝苦しかー」と顔をしかめたものだったが、今では28℃、29℃という恐ろしい 数字が目に入ったりする。あんまりだ。
そして、もう9月になるのにまだ暑さが続いている。今年の暑さは高値安定である。 牛丼は価格競争でどんどん安くなり、液晶テレビの価格もぐいぐいと下がっているのに、 気温だけは天井知らずの右肩上がりである。経済のデフレと気候のインフレ、この二つに 相関関係はおそらくないのだろうが、やっぱりこの暑さはあんまりだ。
この暑さのおかげで、庭のミニトマトがずいぶんとたわわに実っている。 7月に最盛期を迎えていたはずが、8月末になってもまだ赤い実を産出し続けていて、 驚きである。ただ、収穫にあたっては、蚊との厳しいたたかいが待っており、 これが大変なのである。暑い夏、繁ったトマトの枝は、蚊の絶好の住みかになっているようだ。
結局、こんなに暑いものだから、できることと言えば、とにかく生存することのみ。 この夏(も)、たいしたことはできなかったけれども、炎天下の野球の試合で倒れることもなく、 学会で出かけた広島で行き倒れになることもなく、なんとか生存しているので、 これでよしとしたい。ちなみに、この夏、私が巡った地域のなかで、最も暑かったのは、 広島であった。広島の暑さは、東京にも、大牟田にも、まさっていた。広島には東京よりも 強い日射しが降り注いでいた。そして大牟田にはあった風がなく、暑さが地面にたまっていた。
今夏は原爆から65年目の夏だったが、あの暑い広島に、しかも8月に原爆を投下するなんて、 それはひどすぎるよ。
食糧難の時代、暑さと空腹をしのぐだけでも大変だっただろうに、そこに原子爆弾まで 降ってくるなんて、想像を絶するこの世の地獄だ。とにかく戦争はいかんのだ。
暑いといえば、チリの鉱山での落盤事故。ご存じのように、地下700メートルに33名が 閉じこめられている。温度、湿度ともに高く、何とも厳しい環境のようである。今まで 全員が生存しているということは、素晴らしいリーダーがいて、統率のとれた集団が 形成されているゆえだろう。33名といえば、ちょうど学校の一クラスのサイズ。なんとか 救出の日まで一人の落伍者も出さずに全員で生き抜いてほしい。とにかく生存することが 大事なのだ。そして希望なのだ。人類の叡知は、原水爆や新兵器の開発などではなく、 救出作業に向けられるべきなのだ。33名が生き抜くことは、人類の希望なのだ。
民主党が政権交代にあたって唱えた「生活が第一」というスローガンは、 日本の政権政党のスローガンとしてはかなりすぐれたものだったと思う。 日本の近現代史を振り返ると、第二次世界大戦中の特攻隊、集団自決から高度経済成長期の水俣病、 三池炭鉱の粉塵爆発、連合赤軍事件など、人間の生命を疎かにすることが多すぎた。 一人ひとりの「生活」、そして「生命」をまず何よりも大事とすること、 この文化をこの社会にしっかりと根づかせること、これは新しい時代の意味あるヴィジョンであった。
昨年夏の高揚感なき政権交代からちょうど1年、民主党では菅首相と小沢前幹事長が 代表選を争うことになった。「(国民の)生活が第一」というスローガンは、どのような 内実を伴うものであったのか。この争いには、権力闘争以上の何かがあるのか、 残念ながら、私には全く見えてこない。
暑さもまた地下700メートルの人たちとつながっていると思えば、我慢もできる。 彼らが教えてくれているように、苦境にある人々が生き延びていけることこそ、 その社会の底力ではないだろうか。苦境にある人々の生活が守られることこそ、 その社会の厚みではないだろうか。
叡知を尽くして、一人の落伍者も出さずに生き抜いていこうという思い、 これは人間を人間にする思いではないだろうか。政治にもまた一人の自殺者も 一人の失業者も出さないという気概が必要なのではないだろうか。
日本の政治があまりにも寂しい。オレサマ大会のチャンピオンが一国の首相に なるというのでは、ヤクザの世界と変わりはないではないか。相撲界のことを 断罪する資格は、おそらく私たちにはない。
それでは皆さんお身体に気をつけて!まだまだ暑い9月ですが、どこかに 秋がしのびよっていることでしょう。
2010/8/1(Sun) 故郷へ
今年の日本列島の7月は亜熱帯であった。この暑さはもはや異常の日常化で あり、これまでの常識が通用しないところに来ている。かつて夏になると、 一日日射しに肌をさらして、身体を焼き、全身の皮がむけるのを、蛇の脱皮の ように楽しんでいたのだが、今年は、1時間半ほど屋外のプールに出かけた だけで、全身ヤケド状態になり、あまりの痛さに夜も眠れない状態である。
日頃の生活の問題や、毎年積み重ねられていく年齢の問題など、 そこには複合的な要因が絡み合っているのかもしれないが、地球温暖化、気候変動 の問題がその根底にあることは間違いないように思われる。 かつての私たちは、エアコンのない部屋で窓をあけて普通に生活をしていた。 しかしながら、今は、かつてのようにエアコンのない部屋で勉強することは、 難しい。
こうした時代のなかで、学校だけが時代から大きく取り残されている ように思われる。冷房のない暑い教室に、子どもたちが40人も押し込まれている。 先生たちもまたそのなかで仕事をしなくてはならない。学校は我慢大会の場所では ないはずである。ほとんど逆効果しかないように思われる教育改革を声高に 叫ぶことは辞めて、黙ってエアコンを各教室につけるというのはいかがか? そのために子ども手当を1000円ほど削っても、反対する人はそんなにいないだろう。 人を我慢させておいて説教を垂れるよりも、涼しい風でも送ってあげるほうが、 「愛国心」だって高まるだろう。そして、公立の小、中、高校の校舎に、知恵と資金を 注ぎ込むならば、都市部の公立離れだって食い止めることもできるだろう。
しかし、お金がない、というのが、今の日本の公共セクターである。
昨年の夏、歴史的な政権交代を実現した民主党が掲げたスローガンは、 「コンクリートから人へ」であった。これは見事なスローガンだったと 思うのだが、1年経って、どのように実現されているのか、よく見えて こないというのが率直な感想である。子ども手当は、子どもの育ちを 親だけの責任という自己責任論の範疇に置くのではなく、社会が共有する責任として 引き受ける覚悟を示したという点では、大きな意義をもっていたと思うのだが、 その具体化の方法としては、何とも詰めの甘いものであったと言わざるを得ない。
まず何よりも子どもにかけるお金は、きちんと子どもに届かなくては ならない。そうであるから、使われるお金は、子どもの育ちの根本である 食を支える給食費や、子どもの学びの環境であるクラスサイズの適正化、 教師の質の向上、保育園の充実などに、向けられる必要がある。今、子どもを もつ親たちの多くは、子どもの育ちのことで悩み、不安になり、心配している。 かつては子どもというものは、放っておいても、それなりに育つものであった。 子どもたち同士のギャング集団があり、遊ぶための原っぱがあり、大人たちの ほどよい無関心があった。
しかしながら、今の日本、とりわけ都市部においては、子どもの育ちを守るために、 親たちが多大な努力を払うことが当たり前になっている。子どもの幼少期には、 親が積極的に子育てサークルなどに参加して、子どもたちの遊び仲間をつくるために 努力する。これを怠ると、たちまち親子ともに孤立してしまう。学校に行き始めると、 下校時には、不審者から子どもを守るために、親たちが校門近くまで迎えに行く。 不審者情報が携帯電話のメーリングリストを通してしばしば流される時代にあっては、 こうした親の対応を過保護の一言で片付けることはできないだろう。小学校の高学年に なると、塾弁(じゅくべん)=夜の塾のための弁当のことらしい、をもたせて、 学習塾への送り迎えが始まったりする。実際、私の知己である高名な研究者は、 多忙な生活のかたわらで、娘の塾弁を毎日作っているとのことだった。 もちろん、知人は男性である。
こうした話は、子育ての外側にいる外野の人々からすると、おそらく ばかばかしい話に聞こえるものだと思う。なぜならば、私自身も同じように 思うからである。しかしながら、私がこうした話をうかがっている人たちは、 揃いも揃ってまっとうな人たちであり、自分の願望を子どもに押しつける たぐいの、いわゆる古典的な教育パパ、ママからはほど遠い人たちである。 幼い頃から知識を押しつけるような詰め込み教育を嫌い、子ども時代を 伸び伸びと育ってほしいと考えている人たちである。こうした人たちが、 何とも不可思議な努力に追い込まれてしまうという問題は、真剣に考える べき問題であるように思う。
この7月、久しぶりに九州に帰った。おかげで冒頭に書いたように、 外遊びして、全身ヤケド状態になり、水脹れまでできて、ひどく苦しみ、 ようやく現在、蛇の脱皮状態まで回復したのだが、九州で痛感したことは、 人と人との関係性は、田舎と東京とでは大きく異なっているということだった。
東京では他人は信用できないもの、じゃまなものというのが前提に なっていて、そこから人間関係が構築されているようである。他人のバリアを 超えて、知り合いになると、東京の人々はなかなか親切である。だけど、 私にはこのプロセスがじつに面倒である。なぜならば、一日に出会う人の 大半は、他人であり、道をすれ違うだけだったり、追い越したり追い越されたり するだけだったりする関係だからだ。私はこうした他人もまた私と同じような 心をもっているだろうから、気持ち良くすれ違いたいと思う。だけど、残念ながら、 東京では、私の思いはほぼ片思いであり、いつも肩すかしにあうのである。 毎日が片思いで、ふられつづけるというのは、なかなかストレスなものであり、 私は、日々の実践のなかで、他人はイヤなものというメッセージを 何度も届けられながらも、観念的にそれに抗いながら、疲れ果てている。
これに対して、田舎では他人は面白そうなもの、ここにはない何かを もたらしてくれるものというのが前提になっているように思われる。 田舎で子どもと一緒にいると、まず何か話しかけられる。
今回の場合、まず福岡空港の高速バスの停留所で。
「どっから来たと?」
「はい、東京です」
「ふぁー、東京ね、遠かー」
方言は結構グローバルであり、「ふぁー(Far!)、東京(Tokyo!)」と言えば、 そのまま、外国人にも通じそうである。私にとっては、バスの停留所で 前後ろに並んだら、このくらいのコミュニケーションをするのが当たり前。 それができないようでは、人間の範疇には入らないのだが(もちろんできない 事情がある人は別)、東京でのコミュニケーションは次のようになる。
「どこからですか?」
(無言)じろっと顔をみて、なんでそれがおまえに
関係あるのかというオーラを出す
「どこまで行かれますか?」
何か下心があるのかと思われたのか、くるっと背を向けられる
「・・・(ああ、今日も振られたか)」
悲しいコミュニケーションである。これが悲しいから、次からはもう話しかけない ようになる。唯一の例外は、国際線の飛行機のなか。ここで振られたことはない。 それでも、日本人に向こうから話しかけられたことはない。ヨーロッパ人なら、 フィフティ・フィフティ。新幹線で隣の座席の人と話さなくなったのはいつからだろう。 10数年前には、隣のおばさんと意気投合して車内販売のアイスクリームをおごってもらったり (これは私が高価な車内販売アイスクリームを食べた唯一の経験である)、眠っていたところを 隣の女子大生に起こされて東京まで延々話につき合わされたりしたことがあったのだが、 最近の記憶にあるのは、隣のおじさんにコーヒーをこぼされたことぐらいである(泣)。 これも他人が面白いことを運んでくる存在からじゃまな存在に移行してきていることの あらわれであろう。 まあ、今では、隣の座席のおばさんと意気投合するような若い男は、「熟女専科」とレッテルを 貼られたり、隣の座席の男を起こして延々話をするような若い女は、「心理的な問題を抱えている」 と診断されたりするのだろう。あーあ、ばかばかしい世の中になったものだ。
ところで、弘前から遊びに来た友人が話していたのが、東京の人は知らぬ間に「話しかけるなオーラ」を 身体から出しているそうである。その友人の家族と公園に出かけたところ、なんとまあたくさんの 人たちから話しかけられること。驚いたのである。どうしてだろう?と尋ねると、きっと自分たちは 身体がゆるいんだろうという。私は意識は田舎者のままなのだが、おそらく身体はいつしか固まって しまっていたのだろう。そうそう、考えてみると、東京に出てきてすぐの頃、いろんな人によく話しかけられたものだった。 その頃、意識は一生懸命都会者になろうとしていたが、おそらく身体は田舎者だったのだろう。
話は戻って、二つ目のシーン、大牟田で散歩に出かけると。(心理劇=セリフはほとんどなく、 私の心の動きだけを追った)
おばあさんが坂道のみちばたに座っている。
私はそのほうをチラチラと見ている。
とても暑い日で、おばあさんは暑さにぐったりしているようで、
機嫌が悪そうである。
東京でこういうタイプのおばあさんに話しかけると、
間違いなく無視される。
(何度も無視されて、とてもイヤな思いをして、腹が立っている。
私は自分一人の時は話しかけて無視されても
まあ折り合いをつけることができるが、小さな子どもが一緒の時には、
許せなくなるのだ。)
どうも向こうもこっちを見ていないようだし、そのまま通り過ぎよう。
そして、通り過ぎようとした瞬間、
「暑かねー」
うっ、何という不覚、何という堕落、何という人間としての恥ずかしさ、
私という人間は人間不信にまみれてしまった。何ということ・・・・
「暑かですねー」
オレはもうこれ以上、東京にいるべきではないのかもしれない。
二つ目のシーンについては解説はいらないだろう。暑い中でみちばたに座り込んでいる おばあさんがいて、心配して声をかけるという人間として当たり前のことよりも、 無視されて自分自身が傷つくことを恐れる気持ちを優先している、この自分の情けなさ。 弘前の友人だったら、「おばあさん、お元気ですか?」と屈託もなく話しかけたことだろう。
最後に、三つの目のシーン、帰りの東京の中央線にて。
九州の田舎から戻ってきた私にとっては、殺伐とした雰囲気。
人々の顔も険しく、疲れ切っており、ピリピリとした空気が
感じられる。
車内も混んできて、子どもに笑顔を向ける人もなし。
早く目的地に着いてほしいという思いだけで、旅の一行程を楽しむ
という気持ちは全くない。
乗り換えのため、たくさんの荷物を網棚から降ろして、電車を降りる。
子どもをサポートする余裕もない。
すると、険しい顔をしたおばさんが、片方の腕が外れて落ちそうになっていた
リュックを、子どもの腕に通して下さった。
有り難きかな人の情け。
考えてみると、都会の人間というのも、その多くは、もとはといえば、 地方から出てきた田舎者だったはず。そのどこかには同じ心が流れているに ちがいない。一人ひとりの心には温かいものがあるのだろう。
それにしても、日本人の多くが地方から都会に出て行ったとき、 ヨーロッパの都市のような成熟した個人主義が発達するでもなく、 日本の田舎のような温かい紐帯が持ち込まれるでもなかったのは、 どうしてなのだろうか。
私は弘前や大牟田といった日本の地方都市に、むしろヨーロッパと 通ずる何かを感じる。もちろん、見てくれはまったく違うのだが、 いわゆる発展から取り残されたがゆえの歴史や人々のつながりが そこにはあるのだ。二者が異なるのは、ヨーロッパでは歴史の保存や 人々の生活様式の持続が自覚的に行われており、日本ではたまたま そうなってしまったということである。
私は日本を、そして東京を危惧している。この国の主流のコミュニケーションは ガラパゴス化していないだろうか。この国や首都に適応するということは、 この列島にひきこもるしかない生き方につながるのではないだろうか。
放っておいても、子どもたちが人間としてまともに育ち、ほんとうの意味で グローバルであるような社会を、どのようにしたら構築することが可能になるの だろうか。
これは簡単なことではないかもしれない。だが、例えば、まずは、人の流れを都会から地方へ逆流させる仕組みを作るところから はじめるのも一つの方法だろう。
8月です。どうぞ熱中症とヤケドにお気をつけて下さい。
2010/7/1(Thu) グリーン
今年の東京の6月は暑かった。時々、梅雨らしく雨も降ったのだが、 雨が止むと日射しが強く感じられた。いつも愛用していた帽子を、とある 出先に忘れてしまったものだから、ここしばらく帽子をかぶっておらず、 いつもより日射しを強く感じるのかもしれない。その上、愛用している イギリスで購入したスニーカーが、全く防水加工がなされていないもの だから、少しの雨でも靴下までびっしょりと濡れてしまう。雨や日射しに さらされている私の生活は、まさに、あめにもまけず、かぜにもまけず… の世界であるが、よく考えてみると、ただ生活に工夫をしていないだけ であり、どう考えても褒められたものではない。
さて、先月のコラムで、私のエコ・ライフについて記したのだが、 何をやっても長続きしないもので、6月は結構遠出をすることになった。 縮小した生活と一つ所にあって自分を深く見つめる生活は、どうも私の 性分に合わないらしく、6月のはじめには気持ちが沈んで仕方がなかった のだが、仕事絡みで信州に出かけたことで、随分とリフレッシュできた。 北アルプスの山々は壮観で、安曇野のお米と野菜は実においしかった。
そして、安曇野から戻ってくると、ワールドカップが始まった。 ワールドカップの年の教育実習生は、いつも大変である。ワールドカップは 6月に行われるため、教育実習の時期とちょうど重なる。時差のため、 試合は夜中になり、生徒たちは寝不足になる。今年、一番気の毒だったのは、 6月25日に研究授業が組まれていた実習生であった。その日の未明に、 日本対デンマーク戦があった上に、25日はとても暑く、さらに研究授業の 前の時間がプールだった。この条件で、50分間勇敢に戦った実習生は、 褒められるべきであろう。
今回のワールドカップでの日本代表の大健闘は大いに称えられる ものであるが、これまでの観戦で私が一番印象に残っているのは、 イングランドのつまずきである。南アフリカの旧宗主国であり、 プレミアリーグの繁栄と黄金世代の選手たちをバックに、絶大な 期待を背負って、ワールドカップに乗り込んだイングランドは、 辛くもグループリーグを二位で通過したものの、決勝トーナメント1回戦で ドイツに1-4と大敗し、早々に南アフリカを去ることになった。 そのつまずきのもとは、初戦のアメリカ戦にあった。
イングランドにはタレントが揃っていた。フォワードのルーニー、 ミッドフィルダーのジェラード、ランパート、ディフェンダーのテリーの ようなワールドクラスの選手がフィールドにちりばめられていた。 そのなかで、唯一の弱点といえるのがゴールキーパーであった。 初戦のアメリカ戦、ロバート・グリーンがゴールマウスの前に立った。 開始早々の前半4分、イングランドはジェラードのゴールで先制、44年ぶりの ワールドカップ優勝の悲願に向けて、順調なスタートを切ったように 見えた。ところが、前半40分、信じられないシーンがTVに映し出された。 ゴールキーパー正面への何でもないように思えたシュートを、慎重に慎重に キャッチングしようと構えたGKグリーンが、はじき、そのボールが するりとゴールにすいこまれたのである。
試合後、グリーンは、あのボールは1000回あったら999回はキャッチできた ボールだった、1回の過ちがここで出てしまった、と語っている。 そのコメント通りの、まさかの失敗であった。ここまで血の滲むような 努力をしてきたであろうサッカー大国の代表GKにして、こんなミスを 生じさせるような緊張感、それがワールドカップという四年に一回の 祭典にはあるのだろう。
このゴールで同点とされたあと、後半イングランドはアメリカに 対して攻勢を加えたが、アメリカはGKを中心にゴールを死守して、 1対1で引き分ける。初戦で目算が狂ったイングランドは、次戦の アルジェリア戦でもまさかの0対0の引き分けという結果に終わった。 最終戦のスロベニア戦では1対0で勝利し、何とか決勝トーナメントへの チケットを手にしたが、そのチケットはほしかった1位通過のチケットではなく、 避けなくてはならなかった2位通過のチケットであった。
ワールドカップの対戦国の抽選日、イングランドはその幸運に 沸き立った。イングランドが入ったC組には、アメリカ、アルジェリア、 スロベニアという比較的くみしやすいと思われる国々が選ばれた上に、 ここを1位で通過した場合、決勝トーナメント1回戦はおそらく セルビアかガーナ、準々決勝ではメキシコかフランスあたりが 対戦国として予想され、ブラジル、アルゼンチン、スペイン、ドイツ、オランダ といった優勝候補と顔を合わせることがないからである。
実際、ベスト8が出揃った時点で、イングランドが入るはずだった このパートでは、ウルグアイ対ガーナの対戦が組まれている。この二か国も ともに好チームであるが、ドイツ対アルゼンチン、オランダ対ブラジル、 スペイン対パラグアイという思わず息を呑むような残り三つの組み合わせと比べると、 一息つける雰囲気があるだろう。
2位通過のチケットを携えたイングランドの前に立ちはだかったのは、 ここまで14大会連続でベスト8以上に進出しているという破格の常連国 ドイツであった。誤審があったとはいうものの、イングランドはドイツに 圧倒されて、いつものように期待外れにグレートブリテンに帰っていった。 結局、イングランドは、ロバート・グリーンの1000回に1回の失敗を最後まで 引きずってしまうことになった。
痛恨のミスをしたあと、ロバート・グリーンは、もはやワールドカップの ゴールマウスの前に立つことはなかった。追い込まれてしまったカペッロ監督は、 選手に再挑戦の機会を与えることよりも、目の前の勝利を優先させたのだろう。
私はロバート・グリーンのファンだった。ロバート・グリーンはノリッチ・ フットボール・クラブのゴールキーパーであり、2004年にノリッチがプレミア・リーグへの 昇格を決めたときの守護神だった。ノリッチ・フットボール・クラブは、 プレミア・リーグの常連ではない。二部や、ときには三部を彷徨している ローカルなチームである。私がノリッチでノリッチ・フットボール・クラブの試合を 観戦していた時、ゴールマウス裏のシートから一番近い選手が、グリーンであった。 グリーンの背中は、たのもしく、格好良く、グリーンがフィールド・プレーヤーからも 観客からも絶大な信頼を得ていることが感じられた。ゴールキーパーたるものは、 かくあるべしというのを体現していたのがグリーンだった。
ローカルなチームからより大きなチームに移籍して、グリーンはイングランド代表に 選出された。ナショナルチームのゴールキーパーというのは、特別なものである。 想像もできないほどの重圧に耐えなくてはならない。そして、信頼を勝ち取るためには、 いくらかの幸運も必要になってくるだろう。だが、今回、グリーンは、不運のくじを 先に引いてしまい、次のチャンスはもう廻ってこなかった。それでも、グリーンが ワールドカップに出場したことは、後世まで刻まれることだろう。そして、グリーンは まだ30歳。これからも彼のチャレンジは、彼の人生は続いていく。
私も含めて大方の予想を超えて厳しいグループリーグを見事に勝ち抜いた 日本代表は、ベスト8をかけたパラグアイとの一戦で、120分+PK戦の死闘の末、 敗退することになった。PK戦での敗退は悔しいだろうが、ワールドカップ本戦 出場が夢のまた夢だった時代から観戦してきた世代からすると、決勝トーナメントで 南米の強豪パラグアイと延長戦まで戦い抜いたなんて、夢のまた夢のそのまた夢の ような話である。ここまで見事なチャレンジをしてくれた選手たちと監督、 スタッフにありがとうと言いたい。
そして、日本代表と日本のメディア、応援してきた人々には、対戦相手を respectし、称えることを望みたい。これから世界でさらに上を目指すであろう 本田圭祐選手は、試合後のインタビューで「パラグアイが上だった」とコメントして いた。負けた時に勝者を称えるという構えは、これこそ世界レベルのものであり、 こうした構えが選手、メディア、サポーターに共有されたとき、日本のサッカーも 世界レベルに到達しているにちがいない。
パラグアイはいいチームだった。日本もいいチームだった。全力を尽くした あとの爽快感が、この二チームから感じられた。
日本代表の奮闘は、とりわけ、中学生、高校生たちに大きな勇気を与えた ことだろう。誰かのチャレンジは、ほかの誰かのチャレンジにつながるものだから。 私は、失意のグリーンが語った、それでも自分の人生は続く、ということばに勇気を 与えられた。その通りなのだから。そして、ワールドカップでミスをするということも、 ワールドカップに出場できなければできないことなのだ。
いよいよ7月です。どうぞ寝不足にご注意下さい。
2010/6/1(Tue) 片付け
新緑の5月も終わり、キャンパスの緑も深くなってきた頃、6月になった。 6月は陽が長い。日本列島の東にある東京でも、午後7時近くまで明るく、 やはり過ごしやすい。今週は天気が良さそうなので、総合演習で企画している 国分寺散策が実現しそうだ。気持ちのいい季節は長くは続かないので、この時間を 大切にしたいものである。
さて、私にとってこの5月は日常であった。連休にも遠出することもなく、 全くもってエコな生活を送り、その後は、ただただ日常を重ねるばかり。 3月に房総半島から帰ってきて、車の給油も一度もしておらず、ガソリンが 腐ってはいないかと心配になるほどである。それどころか、考えてみると、 電車にすらほとんど乗っていない。ほとんど徒歩か、自転車での移動という、 小学校時代を彷彿とさせるような、縮小した生活を送っている。
面白いもので、カンボジアやスコットランドまで出かけていく拡大した 生活のなかにはもちろんいろいろな発見があるのだが、歩いたり、自転車に 乗るだけの縮小した生活のなかにもまたいろいろな発見があるのである。 考えてみると、私が尊敬する先達たちのなかには、世界を駆けめぐる インターナショナルな人もいるのだが、一つ所から世界を眺めている 人もいる。モノが見える、他者への想像力があるということは、表層的な 生活パターンとは無関係なのだろう。高校時代に、正岡子規が病床の中から、 深くモノを見つめていたということを教わったことがあり、いたく感心した ことを憶えているが、心の旅ができる人は、一つ所にあっても自分を 深く見つめることができるのだろう。
実を言うと、私は引っ越しの多い人間で、出戻りまで含めると、 現在の住居まで16回目の転居を経験している。人生の長さで割ると、 2~3年に1度の転居ということになる。主観的には落ち着きたい気持ちの 強い人間であるが、何とも落ち着きのない人生を生きている。それで16回の 引っ越しによって何を学んだかというと、引っ越しは大変だというありきたりな ことだけだ。いつも引っ越しのたびに、モノが多いのは大変だから、金輪際、 モノを増やさないようにしようと、固く心に誓うのだが、しばらくすると、 また元の木阿弥、モノに囲まれて、状況は悪化の一途を辿っている。こういうのを 学び下手というのだろう。
モノを増やさずにシンプルに生きている人をみると、自分もそうなりたいと 憧れるのだが、いつの間にか自分の部屋は自分らしくなっている。 自分らしさなんてわざわざ求めなくても、誰だって自分の部屋は結構自分らしく なっているものだ。自分の部屋がない人は自分の机周りとか、見つめてみるといい。 まあ、その自分らしさは、あまり嬉しいものではないかもしれないけれども… それが自分なのだ。
だから、自分探しをするよりも、部屋の片付けをしたほうがおそらく 生産的であるのだが、自分探しができないと部屋も片付かないという反論も ありうるだろう。
私の場合、授業関係の資料の片付けと授業の構造化は密接にかかわっており、 比較的構造化できている授業の場合、授業関係の資料がすぐに片付くのだが、 そうではないと、片付けることで骨が折れる。やっぱり片付けは頭の中の整理と 相似形をなしているようだ。
このコラムを書いているうちに、片付いていない仕事が山積していることに 気がついた。頻繁な引っ越しに逃避することなく、今あるところにとどまりつつ、 片付けるようにしていかなくては。
喧噪の4月、5月を過ぎて、何とか無事に6月を迎えることができたことに 感謝しつつ、片がつかない人生ながらも、少しでも片をつけるように、心掛けて いきたいものである。そして、何かしらの片がついたときに、自分自身もまた 一つ変容していることだろう。
それではしっとりとした6月をお過ごし下さい!
2010/5/1(Sat) 新芽
あわただしかった4月も終わり、新緑の5月がやってくる。最近は、 散策しながら街並みの緑を眺めることが、心の癒しになっており、歳を 重ねたことに気づかされる。
さて、卒業式、入学式の花といえば、桜である。ご存じのように、 今年の春は天候不順で、暖かい日が続いて桜の開花が早まったかと思うと、 花が開いた頃に寒さがぶり返して、花は冷凍保存されたように長持ちした。 おかげで、全く期待をしていなかったのだが、ようやく花見の喧噪も終わった だろうと、小金井公園に出かけたところ、まだ桜が残っていて、花を楽しむ ことができた。とりわけ、一面に広がった桜の花によるピンクの絨毯は美しく、 一年に一度のハレの舞台に立ち会えたことを有り難く思った。何事も期待を しないと、結構満足できるものである。考えてみると、知らず知らずのうちに、 自分にも、人々にも、過度な期待をしすぎているのかもしれない。
イギリスにいた頃は、自分に対する期待も低く、生きていることが 実に楽しかった。電気代を銀行で無事に振り込めただけで、Good Job!と 喜び、今日の仕事はこれでおしまい!という感じ。もちろん、時々、猛烈に 高いハードルを超えなくてはならない日もあり、いつもこんなお気楽という わけでもなかったのだが、基調として自分に対する期待が低いというのは、 決して悪くないものであった。
日本に戻ってきて、しばらくはイギリスモードを保っていたのだが、 歳月には勝てず、今年辺りはすっかりイギリス風ののんきなリズムを 失ってしまい、元の木阿弥のバタバタ人間になってしまっている。 実に困ったことなのだが、やはり薄っぺらい異文化理解だったのだろう。 それとも、自分の根っこにあるもの、生まれ育ちというのは、それだけ 大きな影響をもっているというべきか。学び変わるということにシニカルに なってはいけないが、これにも期待しすぎるのも問題なのだろう。
ところで、桜が終わった4月の街並みで清々しい姿を見せてくれている のがハナミズキである。街路樹やシンボルツリーとして白やピンクの花を 咲かせているハナミズキを眺めると、心が穏やかな気持ちになる。 立つ姿が美しいのである。軽みがあり、凛としている。
我が家にも一本ハナミズキの木があり、これは今はもう建て替えられて しまった清瀬の都営住宅に住んでいた時代から育ててきたものである。 今春、ハナミズキの植え替えを、植木屋さんにお願いした。もう15年になる 木だし、根が横に張っていたのでかなり切ることになったこともあり、 うまく植え替えできるだろうかと、ずっと心配していた。
植え替えてからしばらくは、ずいぶん元気がなさそうだと感じた。 ところが、4月に入り、新芽が出てきた。新芽が出てからも、まだ心配して いたのだが、次から次へと新芽が育ち、ハナミズキの木にうるおいのような ものが感じられるようになり、今、とても嬉しい気持ちになっている。
お世話になった植木屋さんがとてもいい人で、雨のなか、労を惜しまずに 植え替えをして下さった。草木を愛していることが仕事の節々からうかがえて、 こういう人に植え替えてもらえるのならば、万が一、木が枯れてしまっても 納得がいくと思っていたのだが、植木屋さんの愛のおかげだろうか、ハナミズキが 元気に新しい土に根づいたのである。
周りの街路樹や家々のハナミズキは、白やピンクの美しい花を咲かせている。 これに対して、我が家のハナミズキはようやく葉っぱが出てきたところである。 周りとくらべると、ずっとつつましいことであるけれども、新芽が出ていることが 実に誇らしく、またがんばったことをほめて上げたい気持ちでいっぱいなのである。
斎藤喜博先生の文章のなかに、芭蕉の次の句が引用されていた。
「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」
何気なく眺めている垣根を、よく見ると、そこには小さななずなの白い 花が咲いている。つつましい存在の輝き、そしてそれを見ることの大切さを、 さわやかに表現した句である。
何もバタバタすることだけが日本の伝統ではない。斎藤喜博先生のしみじみとした ことば、松尾芭蕉の俳句のしーんとした静けさ、波風の立たない心、先入観のない心を 求めた文化の伝統が私たちの社会にもたしかに存在している。
名声や華やかさとは無縁でも、確かな仕事をして、人々に幸せを与えている人は、 必ずいるものだ。私は幸せなことに、数多くのこうした人たちと出会ってきた。 有り難いことである。
それでは充実の5月を! 張り切りすぎないぐらいで。
2010/4/1(Thu) 春風
3月はやっぱり去ってしまい、とうとう4月が来てしまった。こんなに 早く4月になり、しかも4月のついたちから入学式があるとは、エプリール・フールの ようだが、どうもエプリール・フールではないらしい。
3月にはずいぶん久しぶりに房総半島に出かけて、半島の南の端まで 訪れてみたのだが、これがなかなか気持ちが良かった。泊まった民宿の 食事からおもてなしまで非の打ち所がなく、久方ぶりに幸せな気分に浸る ことができた。温かい心と、プロフェッショナルな仕事は、人を幸せな 気分にしてくれるものである。(ただ、隣室の男三人組が真夜中まで 大騒ぎするのには参った。あまりにもかしましいので、六人ぐらいいるのか と思ったが、あとで三人と知ったときには驚いた。一人二役を演じていた のかと思わされるほどである。)
ネガティブな経験を重ねることにも意味がないとは言えないが、 やはりポジティブな経験が与えてくれる温かさは、私たちを勇気づけてくれる ものなので、たとえ1ヶ月に一つでもポジティブな経験に出会えると、 嬉しいものである。
もちろん、1ヶ月に一つというのはおおげさなことであり、丁寧に 思い出していけば、いくつもの温かさに出会っていることもたしかである。 人のちょっとしたことば、すれ違う人のちょっとした配慮、さりげない親切、 こうしたものが私たちの気持ちを前に向かせてくれる。
そういえば、3月には恒例のゼミの追いコンを開催した。今年、感動した ことは、少人数だったけれども、みんなが二次会まで参加し、しかも二次会で カラオケに行こうと言った私に対して、学生側からぜひとも語り合いたいという 希望があり、カフェでとても深い語りを経験することになったことだ。
そして、主に語ったのが私ではなく、学生たちが語り、私はその話に聴き入って いたところに、この日の格別な良さがあった。学生の語りを聴きながら、大学という 場所もなかなか捨てたものじゃないと、心は喜びで満たされていた。 学生たちのたしかな成長を目の辺りにすることほど、嬉しいことはない。
厳しい時代のなかにあっても、新しい芽は必ず生まれてくるのであり、 私たちは辛抱強く、待ち望んでいかなくてはならないのだと、改めて思わされた。 人の成長と成熟というのは、実に尊いものである。その人の益になるのみならず、 周りの人々に希望と勇気を与えてくれるからだ。
いつものように人生はなかなか一筋縄ではいかないもので、この喜びに ひたっていられたのも一晩だけで、翌日には今度は大人たちのあまりにも 未熟な姿を目の辺りにして、何とも言えない、ぐったりとした気分になった わけだが、たとえ少数派になったとしても、成長と成熟の光を求めていきたいと 思うのだ。
これも何度か書いたことのような気がするのだが、小学校の頃、周りを いじめたり、仲間はずれにしたりしながら、それを喜んでいるように見える 人々の横顔を見ながら、なぜこの人たちは、こんなにも幼稚なんだろう、 とがっくりしていたものだった。そして、いずれ大人になったら、 こんなバカな世界がまかり通るわけがないと、信じ、 それが自分が生きる支えとなっていた。
そして、確かに、高校、大学と進路を進んでいくごとに、価値観の近い 人々と行動をともにするようになり、やっぱり大人になったら世界は変わって いったと、喜びをもって感じるようになった。これは時代に重ね合わせるならば、 1980年代のことである。
ところが、少しばかり世間を知るようになり、また世間との交流を もたざるを得なくなってきた近年、私が住んでいるこの社会は、まさに 小学校と同じだと思えてきた。なぜこの人たちは、こんなにも成熟していない のだろうと思われる人々の群れと、なぜこの人たちは、こんな厳しい状況の中で、 こんなにも気高く存在し得るのだろうと思われる少数の人々、これは私にとっては、 デジャヴュ(既視感)の風景であった。
振り返ると、成熟の欠如と、こうした幼稚さに憤りながらも何一つ状況を変えることの できない私の非力さと臆病さは、三十数年前と何一つ変わっていない。
さらに深刻なことに、1990年代から2000年代にかけての社会の変化は、 子どもが子どもであり、大人が大人であることを困難にしてきており、 人々の成熟を難しくしてきている。
私たちは子どものことをあれこれいうけれども、まず何よりも大人が成熟することの 愉しさと喜びを感じることができなければ、子どもがまともに育つことはあり得ないのでは ないだろうか。
小学校の頃は、この世界からの脱出に夢があった。だが、脱出がつかの間の 喜びであったことを知る今の私は、単純に脱出を夢見るわけにもいかない。 そして、小学校の頃は、脱出を夢見る私を応援してくれる人たちもいた。 だが、今は、そういうまなざしはもう期待できない。
もう内側から組み替えていくしか打開の方法は残っていない。そして、自分自身の非力さと 臆病さと闘っていく以外に方法はない。
ゆっくりと、自分の足で、歩いていくほかあるまい。
それでは出会いの4月を! 桜が新しい出会いを待っています。
2010/3/1(Mon) 春霞
2月は沈思の時だったはずだが、ずっとバタバタしていた。「職人さん」の ようにすべてを手際よく、美しい生活と仕事をするのが理想なのだが、生活に おいても、仕事においても、なかなか見習いの域を出ることができず、バタバタと 不恰好に生きている。
気持ちに余裕がなくなっているせいか、細かいことがずいぶんと気になる ようになり、反省をさせられることが多々あった。イギリスに滞在し、人間に とって最も大切な美徳の一つは「寛容」であることを、深く知らされたのだが、 また忘れようとしているようである。
こんなことを書くと、また嫌われそうであるが、やっぱりそう思えるので、 書かずにはいられないのだが、いつからか、人々の表情が険しく、暗くなっている ように思えてならない。もちろん、これは社会の厳しさの反映なのだと思うのだが、 それだけではないように感じることがある。人とのつながりを失い、人への信頼を 失った表情に思えるのだ。
表情だけではない。立ち振る舞いにしても深刻である。コミュニケーション不全 であるような立ち振る舞いが街中にあふれている。目の前で何が起こっていても 感じない、不感症の増殖。こんな社会のなかで、どのようにして生きていけば いいのだろう。次の世代を育てていけばいいのだろう。私はもう途方に暮れる ばかりである。
もちろん、高円寺の駅で、自らの命も顧みず、咄嗟に人助けをした青年のような人もいて、 それは実に心温まる出来事ではあるのだけど。
先日、車のクラクションを鳴らしたことで暴力沙汰になり、死亡事故が起こったという 報道を読んだ。40代の男性が70代の男性を死なせたらしい。報道によれば、一時停止の 標識のある交差点できちんと一時停止したところ、後ろからクラクションを鳴らされて 激怒した40代の男性が70代の男性を殴打したとのことである。冷静になれば、人の命を 奪うほどのことではないのだが、社会の人間関係から「寛容」が失われているということが こうした事件の背景にあるのだろう。
すると、今朝、通勤途上、トラックから降りた運転手が傘をかざして 後ろの車の運転手と大喧嘩している場面に出くわした。新小金井街道という大きな 通りでのことである。本人はいたって真剣だったのだろうが、端から見ると、 ずいぶんと滑稽な風景だった。道路の真ん中で、透明なビニール傘を振り回して いる姿は、現代のドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャのようであった。 (事件の場所からすると、ドン・キホーテ・デ・ラ・ヒガシクルメなのですが、 さらに正確な場所を記載しますと、ドン・キホーテ・デ・ラ・タキヤマと なります。『滝山コミューン1974』を書いた原武史さんを喜ばせるような 活劇はしないでほしいのですが(笑)。←以上、わけのわからない人は読み飛ばして 下さい。すみません。)
せっかくならば、ほんもののドン・キホーテのように騎士道の復活をめざして、 たたかってほしいものだが、ずいぶんと世知辛い現代のドン・キホーテである。 まあ、私も前の車がタバコのポイ捨てをすると、クラクションを鳴らしたりする ので、殴られないように注意しなくてはならない。私を殴ったりすると、おそらく このコラムで面白おかしく書かれた上に、たぶんいずれかの講義でも話のネタに 使われるので、そこはどうかご了解を。ただ、これも命あっての物種だが・・・
昔、縁側で祖父と将棋を指していた時、私が形勢逆転を狙って、攻め合いに 持ち込もうとすると、祖父は決まって「金持ち喧嘩せず」と憎らしいことを言って、 さっと自分の駒を逃がしたものだった。この「金持ち喧嘩せず」という言葉は、 なぜだかずっと私の頭のなかに残っていて、ずっと実践しようと思うのだが、 貧乏癖が抜けきれないのか、なかなか実践できないでいる。
そういえば、私が喧嘩をして珍しく相手をやっつけたと自慢をすると、 父もまた「本当に強いやつは喧嘩などしない」と一蹴したものだった。 そして、憎らしいことに「小さな犬ほど、よく吠えるものだ」と言っていた。 父も結構血の気が多いタイプだったが、経験からいろいろと学んだのだろう。
さて、このような父祖の教えに照らしてみるならば、今の社会には、 貧乏なちび犬が増えてしまったということになる。この分析には何となく合点がいく。
早く気づけないだろうか。貧乏なちび犬がキャンキャン叫んでいることが 実に恰好良くないことに。そして、貧乏なちび犬がほんとうに求めているものは、 愛情と希望であることに。
しばし生協に出かけて、食堂で味噌ラーメンを食べてきた。実に美味しかった。 そして、北海道から高校の先生たちがやってきたとき、「うまい、うまい」と 東京経済大学の札幌ラーメンを一緒に食べたことを思い出した。人間はラーメン 一杯でも、つながりがあれば、幸せになれる。
貧乏だから不幸なのではないのだ。バラバラだから不幸なのだ。だからと いって、オリンピックで一つになる幻想を追うのではなく、目の前の一人と つながることで、希望がひらけるのだ。この国では、バブルの時代も人々は 不幸であり、不況の時代もまた不幸であった。しかし、幸せの鍵は、すぐ 近くに落ちている。「隣人を愛せよ」という言葉は、実に尊い。私たち自身も 誰かの隣人なのだ。
それでは旅立ちの3月を! 春の訪れはもうじきです。
2010/2/1(Mon) 職人さん
1月はスタートダッシュであった。もはや瞬発力もなくなっているのだが、 1日から長距離をドライブし、また復路も走り、往路復路ともに1000円渋滞を 楽しんできた(正確には大都市近郊区間は別料金なので1000円ではないのだが)。 それでも、正月の富士山は凛として美しく、何とも清々しかった。
東京に戻ってくると、すぐに海外からのお客様があり、またまた土俵外で いろいろと騒ぎになっている「日本の伝統文化」大相撲に同行したり、講演会を 開催したり、目の回るような日々を送っていた。大相撲を観戦したのは、まだ 学校に入るか入らないかの頃、祖父母に連れていかれて以来、この人生で二度目 のことである。前回は九州場所。両国の国技館に入ったのははじめてである。
遠くの二階席からだったけれども、土俵上の力士たちの身体の柔らかさが 感じ取れて、随分と感心した。番付が上位になるにしたがって、力士たちの 身体に柔軟さが増してきて、強さというものが固さではなく、柔らかさのなかに あるということに、大いなる発見をしたような気になった。
やはり本物の力というか、本物が教えてくれること、は何にも代え難いもの だと改めて思った。イングランドのフットボールも、実にエキサイティングだったが、 お互いに技を磨き合いながらの勝負は、勝ち負けを超えた楽しみを与えてくれる ものである。
さて、私は引き続き、「価値」ということについて考えている。「価値」を どのくらい生み出せるのかが、やはり肝腎であり、「価値」を生み出せない人間、 あるいは社会は、どう考えても衰退していかざるを得ない。もちろん、世間的な 意味で、あるいは役に立つか、利益を生み出すかというような視点に限定して、 「価値」を考えているわけではない。
難病のなか、それでも希望をもって闘っている人は、大きな「価値」を 生み出してくれているわけであり、たとえ大きな過ちを犯してしまったとしても、 そこから悔い改めて罪を償うならば、人間という存在の「価値」を回復させて くれているわけである。人の話をしっかりと受け止めて聴くことも、人を尊重する という「価値」を生み出しているわけで、「価値」とはたとえ小さなことであっても、 実に尊いものである。
最近、関心をもっているのは職人さんの仕事であり、自分の仕事に対する 丁寧さ、誠実さというのは、実に尊いものであると痛感する。熟練の職人さんは その動きに無駄がなく、美しい。また仕事に対する愛情が感じられる。そして、 決して雑ということがない。すぐれた職人さんの仕事ぶりは、いくら見ていても 見飽きることがない。
ところで、そうした職人さんの後継者は育っているのだろうか。職人さんが 育つには時間がかかる。職人さんに限らず、「価値」を生み出せる人間を育てるには、 時間もかかるし、手間暇もかかる。だが、その時間と手間暇を惜しんでしまっては、 社会も組織も、衰退するしかない。
現在、メディアやさまざまな通達文書、会議など、私たちの社会の表舞台では、 「価値」を生み出しているとは言えないものがはびこっている。そして、それらが しばしば「価値」を生み出している人たちを制限したり、それらの人々の活動を 妨げたりしている。絶対的な正義に立つ言説や、命令の言説、一方通行の言説が 「価値」を生み出す時代はもはや終わったと、私は考える。これからの「価値」は、 対話によって生まれ、他者への配慮、共感から紡ぎ出されるだろう。そして、 これまでもまた、ほんとうの「価値」はこうした営みと思いから生み出されて きたのである。
1月に入って、やる気がなくなるような出来事が四回あった。そして、 やる気が出るような出会いも何度かあった。やる気がなくなるような四回の出来事の すべては、どこかの人々がいわゆる「仕事」なるものを忠実にこなしたであろう 結果であった。他方で、やる気が出るような出会いは、「義務」ではなく、 いわゆる「仕事」でもなく、「仕事」を超えてつながりを求めて下さる人々の 思いの結果であった。知性と想像力なき「仕事」は、大いなる罪ではないのか。
「仕事」に就けないことが恥ずかしいのではない。ひどい(非道い)「仕事」を していることが恥ずかしいのだ。
明日は東京でも雪という予報が出ている。雪の夜くらい、職人さんの仕事を 思い浮かべ、自分の仕事を振り返る、そういう時間であってもいい。
それでは沈思の2月を! 春の訪れを待ちながら
2010/1/8(Fri) 初春
12月が忙しかったものだから、年末ギリギリまで仕事に侵食され、気がついた時には 大晦日になっていた。大晦日も雑用に追われて、気がついた時には年が明けていた。 いつもは家の前の森を眺めながら、遠くの除夜の鐘に耳を澄まし、静かに新しい年を迎える のだが、今年はずいぶんと面白みのない年越しをしてしまった。
それでも年を越せる家があるだけましだというのが、今の日本社会の現状であり、 何だかせつない思いである。貧困、とりわけ子どもの貧困の問題は、社会が責任を 負わなくてはならない。子ども手当も大事だが、それ以上に学校給食の無償化や 長期休暇中の子どもたちの居場所、食事を保証するといった子どもを直接サポートする 仕組みを作っていくことが求められるだろう。
ところで12月は忙しかったのであるが、何だかいい雰囲気であった。 どうなることかと心配していたあるクラスが、12月になって急に活気づいたり、 北海道からすばらしいゲストの先生が来て下さり、授業も、そのあとの懇親会も 大いに盛り上がったり、有り難いことであった。どちらも人々のおかげであったが、 嬉しい時間であった。
人生の折り返し点を(おそらく)過ぎ、「価値」ということについて考えるようになった。 世の中には、地道な活動によって「価値」を生み出してくれている人々がいる。 一方で、自分たちの利益は得るけれども、何ら「価値」を生み出していない人々もいる。 「価値」を生み出してくれる人々の営みは、実に尊い。ほんものの家を造る人、 安産のサポートをする人、心を打つドキュメンタリーを創る人、すべて「価値」を 生み出している。温かい言葉をかけてくれる人、親身になって話を聴いてくれる人、 苦しい時に黙って隣に座ってくれる人、計りしれない「価値」を与えてくれている。 「価値」とは目に見えないことも多いけれども、尊いものである。
これまで多くの人々に「価値」を与えていただいたので、今年は少しでも 「価値」を生み出せるように、日々の営みを大切にしたい。
それでは今年一年、ゆるぎなき平安とたゆみなきチャレンジがありますように。