Daily たまのさんぽみち
2005/7/11(Mon) <ロンドン>
ロンドンでテロが起こった。リバプール・ストリート駅はロンドンからノリッチへの鉄道の始発駅であり、キングス・クロス駅はロンドンからケンブリッジへの鉄道が出発する駅である。テロが起こったのは、イギリスで生活をしていた頃に、私にとってなじみのある場所であった。
私が住んでいたノリッチからロンドンまでは、電車で2時間、車ならば3時間ほどかかる。だから、用事がない限り、ロンドンに行くことはなかった。時々、ロンドンを訪ねて地下鉄に乗ると「ここで爆発が起こったらひとたまりもないだろう」と感じた。ロンドンの地下鉄(少なくとも私が使用したラインは)は上下線のホームが分かれており、東京の地下鉄よりもホームが狭く、圧迫感があるのである。
もちろん、今回の事件が起こったのは、ロンドンの地下鉄に不備があったためではない。そもそも多くの人々が集まるパブリックなスペースをすべて監視することなどできない。4.5kgというノートパソコンより少し重いくらいの爆弾をチェックするなど、どう考えても現実的ではない。
NHKが相変わらず「今のところ死傷者の中に日本人はいない模様です」とわざわざ「不在」をアナウンスしている一方で(あとで負傷者がいたことが判明するのだが、それはさておき)、イギリスから発信している個人のサイトからは、イギリス人たちは普段の生活を淡々と続けることがテロに対する最大の抵抗であるとして、事件の翌日から普段通りの生活を行うロンドン市民の様子が知らされてきた。
テロリストは、直接の被害を与えるだけではなく、社会に不安と恐れを撒き散らすことを目的としているわけだから、ロンドン市民たちの対応は見事だったということになる。ロンドン市長もまた今回の事件はすべての人種、宗教に対する攻撃であるというコメントを出していた。市民社会を守ろうとするならば、キリスト教対イスラム教などという単純で危険な図式にのらないことが何よりも大切である。今回の事件で最も胸を痛めているのは、イギリス内に住むイスラム教徒たちであるのに違いないのだから。今回の対応からもイギリス社会の成熟を感じている。
江戸時代の法に喧嘩両成敗というものがあり、私はこれに長く納得がいかなかったものである。なぜ売られた喧嘩を買って悪いのか、殴られたら殴り返す権利があるだろう、と。しかしながら、喧嘩、紛争が相手と同じ次元に入ることだということを考えると、やっぱり売られた喧嘩は買ってはいけないのである。売られた喧嘩を買うことは自らを貶めることであり、共同体の倫理を手放すことだからである。誰だって売られた喧嘩は買いたい。しかし、この自然な感情に従うならば、何か気に入らないことがあったら喧嘩を仕掛けて相手を自分の次元にひきずり降ろすという無法が横行することになる。江戸の法には知恵があった。
9・11事件のあと、アメリカは売られた喧嘩を買って、怒りの矛先をテロとはおそらく関係のなかったイラクへ向けた。そして、テロリストと同次元に入った。無法者の世界である。イラク戦争は私闘であるからどこまでいっても片がつかない。イラクの泥沼のはじまりは、9・11を「戦争」と規定したところにあった。「犯罪」と規定したならば、アメリカはテロリストと同列に位置することはなかっただろう。
「犯罪」に対しては、政府は、「犯罪」に対する備えをし、「犯罪」のより少ない公平な社会の構築をめざすしかない。そして、市民は、自分であったかもしれない「犠牲者」とその遺族の悲しみとともにあり、慰めの人となることが求められる。大騒ぎはいらない。国籍や宗教による分け隔てもいらない。ただ、「共苦共悲」して、日々の暮らしを続けているイギリスの市民から学んでいきたい。
2005/6/29(Wed) <炎暑>
昨日はとにかく暑かった。午後2時の時点で東京・府中では36.5度まで気温が上がっていた。東京・大手町でも6月の最高気温の記録を更新したらしい。記録ラッシュの昨今の気象状況である。
昨日の深夜から雨が降って、今日はずいぶんと涼しくなった。まさに恵みの雨である。乾き、暑さに喘いでいるなかでの雨は、大いなる救いである。おそらく今朝は、通勤の人々も雨を呪うことはなかったのではないだろうか。あの昨日の暑さのあとでは。
しかしまたあの暑さを忘れた途端に、雨を呪う気持ちが再び頭をもたげてくるだろう。そもそも人間とは忘れやすいものである。だからこそ、忘れないように心に刻んでいかなくてはならない。
60年前の夏は暑かったことだろう。ヒロシマやナガサキでは、おそらく昨日の東京以上にジリジリと焦がれるような暑さのなかを、爆薬の匂いをかぎながら、ある人々は生き延び、ある人々は息絶えていったに違いない。
この60年間は、戦争を少しでも経験した人たちが何かを伝え、また何かは伝えないことによって、私たちの社会は動いてきた。そして、これからは、戦争を経験していない世代が、前の世代が伝えたことを継承し、また伝えてこなかったことを掘り起こし、伝えていかなくてはならないのだろう。私たちの多くがヒロシマやナガサキの悲劇に共感できるのは、それが伝えられてきたからである。そして、朝鮮半島や中国の苦しみに共感できないのは、それが伝えられてこなかったからである。
伝える、伝えないというのは、個人的な次元のことではない。集団としての次元のことである。すなわち、私たちは「ヒロシマやナガサキはなかった」ということばを吐く人間と出会うならば、その人間を重大な欠陥をもつ人間であると考える。そして、そういう人間に私たちの社会の舵取りを任せることはできないと考えるに違いない。つまり、私たちの社会では「ヒロシマやナガサキはなかった」と言うことは許さない社会として構成されているのである。これが「伝える」ということの内実である。これに対して、例えば「強制連行はなかった」ということばは、横行している。このようなことばを吐く人間が政治家になることはもちろんのこと、閣僚がことばにしても許される。これが「伝えない」ということの内実である。
私たちが当たり前と思っていることも先人の努力と営みによって成立してきたものである。「ヒロシマ」「ナガサキ」にしても原爆が落とされたことが事実であるから今もなお伝えられているのではない。語りついでいかなくてはならないという意志と実践があるから今もなお伝えられているのである。つまり、私たちは「ヒロシマやナガサキはなかった」と言うことすら可能なのである。今後、改憲し、憲法第9条を改め、核武装をするという方向に私たちの社会が進むならば、おそらく近い将来、権力者にとって「ヒロシマ」「ナガサキ」が邪魔になる日が来るだろう。その時、今、私たちが当たり前のように行っている「平和教育」が「非国民」の名でののしられることがあるかもしれないのである。
炎暑の下で、爆弾は投下され、人々の皮膚は焼けただれ、のどが乾き、たくさんの子どもたちが死んでいった。そして、戦後、冷戦という恵雨のおかげで私たちの社会は急速に経済成長をなしとげた。冷戦後、雨はこれまでのように都合よくは降っていないかもしれない。しかしながら、国際社会という雨を呪うならば、いつか再び地獄絵をみることになるだろう。そして、次はもうその後に恵みの雨があるとは限らないのである。
2005/6/22(Wed) <デジタル時計>
先週、ついに時計の針を日本時間に戻した。デジタル時計だから時計の針ではなく時計の数字というべきだろうか。何にしても3ヶ月ちょっと粘っていたのだけれども、また一つ日本モードに戻ったということである。もちろん、この3ヶ月間ずっとイギリス時間で過ごしていたわけではない。デジタル時計だから世界のローカルタイムというものが付いている。基準時間はイギリスのグリニッジ標準時のままで東京のローカルタイムを見ていたのである。なぜこれで不都合があったかというと、ローカルタイム設定では同じ画面に日付が表示されないのである。ときどき時計を見て、日付を確認したくなることがある。というわけで私の時計は日本時間に戻された。
イギリスでは日付つきの時計は必需品であった。車をキャンパスに駐車するためにスクラッチカードの日付をこすることが必要だったからである。このスクラッチカードは宝くじやお菓子のあたりくじと同じようにコインでこするものである。16枚綴りになっていて£16で購入しなくてはならない。そして、キャンパスに駐車するときにはその日の日付をこすって車のダッシュボードに置く義務があるのである。スクラッチカードを置き忘れたり、誤った日付をこすっていたりすると、言い訳なしでファイン(罰金)が課される。キャンパスの駐車場の管理者たちは、居丈高な上、いつも責任逃ればかりしていて(人の言い訳は聞かないくせに)、まともに仕事はしておらず、いまだに腹が立つぐらいなのであるが、おかげで私は必ず時計で日付を確認する癖がついた。あんな連中と面倒なもめごとにならないためである。どんなことからも学ぶことは必ずある。これもまたイギリス生活で教えられたことである。
ところで、日本に戻ってきて3ヶ月、いろいろと彼我の差を痛感することがある。その中でも大きなものを一つ挙げるならば、報道の差である。イギリスにいた頃は、メディアの報道はかなりフェアーで国際的だった。イギリスのニュースでは、イギリス国内、ヨーロッパのことのみならず、日本の出来事、アジアの出来事もよく報道されていた。もちろん、イギリスの報道もまた完全に公平であるはずはなく、批判的に検討しなくてはならないのであろうが、世界のさまざまな地域での出来事がかなり丁寧に報道されていた。そして、報道内容もイギリス人ではない私からみても納得のいくものであった。一例を挙げるならば、イングランドと日本がサッカーの親善試合をしたときも、日本のプレーの質を丁寧にリポートして、1−1の引き分けだったけれども、内容としてはイングランドが負けてもおかしくないものだったと報道されていた。日本の身びいき、大本営発表的報道に慣れている私からはとても新鮮なものに聞こえた。日本の地震のリポートもあった。世界各地の紛争、飢餓、災害のリポートもあった。
日本に戻ってきた。NHKは北朝鮮のニュースをこれでもかこれでもかと流し続けている。おそらく北朝鮮を必要とし、愛しているのだろう。カンボジアで子どもたちの人質となる事件が起こった。大きな報道がなされた。一人の子どもが亡くなった。カナダ人だった。その途端に報道は立ち消えになった。学校の中で子どもたちは日本人の子どもも日系人の子どももカナダ人の子どもも一緒に遊んでいたことだろう。日本人の親が悲しむのと同じように子どもを亡くしたカナダ人の親は深く悲しまれたことだろう。しかし、日本のニュースはかつて以上にナショナルなものとして構成されており、ニュースを見れば見るほど、世界への関心を失い、自国中心主義になるようにできているように思われる。
おそらく北朝鮮で報道されるニュースが私たちにとって笑止千万なものであるのと同じように、今、日本で流されているニュースは偏狭な意識を育てるものとなっている。現実を的確に認識することこそが問題解決の原点であり、「学び」の原点であるのに、今のメディアの報道には絶望感すら感じる。「情報」もまた阿片(アヘン)である。大本営発表的報道のアヘンにさらされて、現実を直視することができなくなったとき、新たなアヘン戦争が起こるのではないだろうか。私たちの国の現実は、家庭にたとえるならば月収54万円の家庭が6800万円の借金を抱えながらさらに毎月43万円の借金をして借金の利子を返している状態なのである。国の財政を家計にたとえるのは間違っているという学者もいるが(日本の場合、国の借金(国債)を請け負っているのは主に日本国民であるから)、国債を保有している金持ちが国の借金をチャラにしてくれるわけなどないので、国の借金は中低所得層にのしかかってくることは明らかなのである。
偏狭な意識を育てることで国をまとめようという考えは近道のようで深い森につながっている。この国に住んでよかった、この大人たちに育まれてよかったと思えることが、成熟した人々を育て、その人たちの住む共同体、社会を成熟したものとする、迂遠だけれども唯一の道なのである。見たくないものを見る勇気、いや、ほんとうは私も見たくないのです。(↓ 肝試しにどうぞ デジタル時計です 瞬く間に東京に豪邸が建ちます 但し借金です)
リアルタイム財政赤字カウンタ
2005/5/21(Sat) <さよならプレミアシップ>
先週の日曜日は“決戦”だった。2004年8月に幕を開けた今シーズンのイングランド・プレミアシップもいよいよあと1試合を残すだけとなっていた。イングランド・プレミアシップとは、イングランドサッカーの最高峰、1部リーグのことである。我がNorwich City Football Clubは、2003-2004のシーズンで2部リーグにあたるDivision1(現在はなぜかチャンピオンシップという=2部がチャンピオンシップというのは明らかな名称のインフレーションである)にて首位を快走、憧れのプレミアシップへの切符を手にした。プレミア昇格が決まった時、私たちのフラットの前では、黄色と緑のカナリア色のユニフォームを着たファンたちが集まり、「オレたちはプレミアシップだ、ワッハッハ」という大合唱が行われていた。Norwich City Football Clubのファンたちは、幸福の絶頂にあった。
そして、2004-2005のシーズンが始まった。だが、プレミアシップは甘くなかった。マンチェスター・ユナイテッド、アーセナルといった強豪チームを前に、Norwich Cityは苦戦し、初勝利がもたらされたのはようやく7試合目のことだった。さらに、2勝目を挙げるには初勝利以上の時間を必要とした。16試合目にようやく白星が2つとなった。フットボールの試合ではしばしば引き分けがあるにしろ、16試合で2勝というのはプレミアシップ残留に絶望的な数字だった。そして、19試合目に3勝目を挙げたあと、またしても長いトンネルに入り、ようやく日本の稲本選手が所属するウエスト・ブロムウイッチ・アルビオンとの最下位決戦に競り勝ち、4勝目を挙げたのは実に29試合目のことであった。
だが、まだ光は見えなかった。Norwich Cityはここから引き分けもない5連敗を喫する。私がノリッチを離れる最後の夜、Norwich Cityが2−0をひっくり返されて2−3で敗れる試合を観たのは、この5連敗の2連敗目のことだった。34試合を戦ってわずかに4勝。Norwich Cityの熱烈なファンであっても、多くの人々がこの時点で来シーズン、プレミアシップを陥落することを覚悟していた。ところが、4月に入ってから奇跡は起こった。
4月9日、Norwich Cityはホームにマンチェスター・ユナイテッドを迎えた。大方の予想を裏切り、2ー0でこの名門チームに完勝した。実は、今シーズン、Norwich Cityが2点差以上で勝ったのはこれがはじめてのことだった。そして、このあともなかった。マンチェスター・ユナイテッドに勝ったことが選手たちに自信を植えつけたのであろうか、16日にはアウエーでクリスタル・パレスに3−3で引き分けると、20日にはホームでニューカッスル・ユナイテッドを2−1で下した。23日には再びホームでチャールトン・アスレチックを1ー0で下し、はじめての連勝である。30日にはアウエーでサウザンプトンに3−4と競り負けるも、5月7日のラスト前の決戦で、またもやホームでバーミンガム・シティーを1−0で下し、ついに20チーム中17位、プレミアシップ残留圏内に到達したのである。
8月から3月までの8ヶ月間に戦った34試合のうち4勝しかできなかったNorwich Cityが、4月9日からの1ヶ月に戦った6試合で同じだけの勝ち星を挙げたことになる。4勝1分1敗という数字は、まさに“快進撃”と呼ぶにふさわしいものであった。Norwichは、プレミアシップにしがみつくためにあと一歩のところまで来ていた。競馬でいうならば、第4コーナーをまわったあと、最後尾から怒濤の差しで、前を行く3頭の馬をかわしたところであった。だが、ゴールまではあとわずかの距離が残っていた。もう1試合残っていたのである。
あと1試合を残して、イングランド・プレミアシップは空前の混戦状態となっていた。優勝争いではない。これはもうチェルシーが過去最高の勝ち点で他を圧倒していた。混戦となっていたのは、残留争いのほうであった。プレミアシップは20チームで争われる。このうち、下位3チームが自動的に降格する。つまり、17位はギリギリセーフで、18位〜20位が陥落となるのである。あと1試合を残して、17位から20位のチームは、どこも残留の可能性があり、同時に降格の可能性もあった。16位のポーツマスは、17位のNorwich Cityと6ポイントの差があったから、もうすでに16位以上が確定していた。つまり、17位から20位の4チームで1つの椅子を争う展開になっていたのである。
4チームはいずれも直接対決がなかった。別々に試合を行い、残りの3チームの結果如何によって、自分のチームの運命が決まるという筋書きになっていた。このなかで最も有利だったのは、17位のNorwich Cityだった。勝ち点33ポイントのNorwich Cityは、勝利を挙げると残りの3チームの結果にかかわらず、残留を決めることができる。たとえ、引き分けても、負けても、残りの3チームが同じように引き分けたり、負けたりしてくれるならば、残留となるのである。続いて可能性が高かったのがこの時点で勝ち点32ポイントの18位サウザンプトンと同じく勝ち点32ポイントの19位クリスタル・パレスであった。これら2チームは、得失点差わずか1の差で順位を分けているものの、ともに17位のNorwich Cityとは勝ち点差1である。Norwich Cityが引き分けた場合には、勝ち、負けた場合には引き分け以上で残留の可能性が転がり込んでくる。サウザンプトンの対戦相手は、強豪マンチェスター・ユナイテッドだったが、サウザンプトンにはホームというアドバンテージがある。クリスタル・パレスの対戦相手は、チャールトン・アスレチックでアウエーである。どちらも格上のチームとはいえ、最近、Norwich Cityに敗れているチームであり、調子がいいとは言い難い。だから、これら2チームにも勝ち、引き分け以上を獲得する可能性は十分にあるように思われた。そして、最も可能性が低かったのが、稲本選手が所属する最下位ウエスト・ブロムウイッチ・アルビオンであった。勝ち点31ポイントのウエスト・ブロムウイッチ・アルビオンが降格圏から「脱走」するためには、上位の3チームがすべて勝ちを逃すということが必要条件だった。その上で自らは勝たなくてはならなかった。ただ、対戦相手は、16位のポーツマス、さらにはホームと条件が比較的恵まれているのが一縷の希望であった。
運命の5月15日、Norwich Cityはかつて稲本選手が所属していたフルハムとアウエーで対戦した。0−6で記録的な大敗を喫した。最近6試合で4勝1分1敗という快進撃がまるで夢であったかのようなスコアだった。「脱走」への期待が高まったサウザンプトンは、2−3でマンチェスター・ユナイテッドに惜敗した。終始試合を優位に進め、「脱走」まであと一歩と思われたクリスタル・パレスは残り8分に同点ゴールを決められ、2−2で引き分けた。そして、最も可能性が低かったウエスト・ブロムウイッチ・アルビオンに大きなプレゼントが舞い込んできた。2−0で勝利を挙げたウエスト・ブロムウイッチ・アルビオンは、ゴール直前に前の3頭をかわし、鼻の差で「脱走」を成し遂げた。ホームのグラウンドには、「大脱走」が鳴り響いた。
私は、ノリッチの友人たちの悲嘆ぶりを想像した。イングランドの人々はほんとうにフットボールが大好きで、フットボールを人生の一部分だと考えている人も多い。私たちがノリッチを去るとき、友人たちは、ノリッチ・シティー・フットボールクラブの帽子やマフラーをプレゼントとして渡してくれた。友人たちのなかには、ノリッチ・シティー・フットボールクラブを応援するために、ノーフォークに帰ってきたという人もいる。ノリッチ・シティー・フットボールクラブは、彼・彼女らにとっては、ただの一チームではなく、人生、アイデンティティの一部なのだ。
ほんとうのことをいうと、私はノリッチ・シティーのずっこけぶりを笑ってしまったのだが(さいごのさいごにずっこけるなんてあまりにもノリッチ・シティーらしいではないか)、同時に、友人たちの落胆を想像すると、気の毒な気持ちにもなった。しばらく前に、友人にメールを入れていたのだが、なかなか返事が来ない。これはノリッチ・シティーがこけたので、寝込んでいるなと思っていると、案の定であった。
先日、そのノリッチの友人からメールが来た。やっぱりほんとうに寝込んでいた。風邪をおしながら送ってくれたメールの一節に、次のようなコメントがあった。
「私たちのフットボールチームに起こったあまりにも悲しい知らせがあるのです。この前の日曜日は、今シーズンの最終戦(ノリッチ対フルハム、アウエー)で、もし勝ったら、プレミアシップに残れるはずでした。誰もが希望にあふれていて、自信をもっていました。だって、この数週間、見事な試合をいくつも観てきましたし、ほんとうに順位も上がっていたのです。だから、12時15分には、パブはカナリア色の人々で一杯になり、興奮にみちていたのです。
ああ、スコアを書くことができません。フルハム6−ノリッチ0。あんまりです。プレミアシップから滑り落ちました。月曜日の朝、目を覚ました時、あれは悪夢で、現実ではなかっただったのだろうと思いました。しかし、事実だったのです。(訳・私)」
2005-2006のシーズン、Norwich City Football Clubは、再び二部(チャンピオンシップ)で戦うことになる。私は、二部のノリッチ・シティーが大好きだった。二部でも人々に愛され、人々が集い、勝っても負けても満足して人々が帰る。そんなノリッチ・シティーが大好きだった。エクセレントでなくてもいい。オンリーワンのチームとして、人々の人生の潤いを与えてくれるのであれば、それが地域の財産であり、文化ではないか。途上にあるということの楽しさ、すばらしさ、二部だからこそ、ノリッチ・シティーをこれからも見守っていきたいと思う。さよなら、プレミアシップのノリッチ・シティー、そしてようこそチャンピオンシップへ。
2005/5/9(Mon) <緑>
今、イギリスはおそらく気持ちのよい季節である。5月になると日も長くなり、人々はたっぷりとぜいたくなアフター・ファイブを楽しむ。冬の間は物静かだった人々も陽気になり、抜けるような青空が人々を緑の芝生に誘う。広い緑のじゅうたんにまばらな人が集う公園でのピクニックは、私たちのイギリス生活の楽しいひとときだった。
国分寺の研究室は東向きである。5階であるが、窓からの視界のうちのちょうど下半分に緑が広がっている。そして上半分に空が広がっている。東京としてはものすごく恵まれた視界であるように思われる。大学がちょうど国分寺崖線に立っているために、視界はどこまでも広がっているのである。
一方で、帰国まで仕事場としていたイースト・アングリア大学の研究室はほぼ視界ゼロだった。ノリッチの町は美しく、すばらしかったのだけれども、大学ははるかに劣っていた。中世からバイキングの侵入と侵入者からの防衛という長い歴史のなかで作られた町と、最近、郊外のゴルフ場のあとに作られた大学では、勝負にもならないのだろう。歴史と風雪に鍛えられ、残ったものはさすがに違うのである。
帰国してから日本語の本をいくつか読んだ。なかには5、6年前に印象に残った本だが、今読むと色褪せてしまう本もあった。反対に100年も前に書かれた本であっても、今もなおリアルと感じられる本もあった。古典と呼ばれる本のよさは、以前の私にはなかなかわからなかったのだけれども、最近、何かしみじみとしたものが心に伝わってくるようになった。
今回再読してみて、夏目漱石の作品はもちろん丹念に練り上げられた筋書も面白いのだけれども、些細な出来事、何気ない会話、小さな情景の中に、時代や社会が書き込まれていて、さらなる面白さがあるということに、気づいた。そこには、イギリスと日本という二つの社会を知り、つねに違和感をもちながら、その違和感をもちこたえながら生きた漱石の思いが透けて見える。そして、それが100年経った今でもなお、色褪せていないように思われるのである。
私と他者が、そして私と社会が同じものではない以上、「違和」「異和」があるのは、当然のことなのだろう。ただ、どのようにして「違和」「異和」を語ることができるのか、そしてどのようにしたらその「違和」「異和」を聴いてもらえるのか、この社会のなかでの難しさを考えると、文章がなかなか書けなくなる。ということで今日はここまで。
今日から日常が再開。そして、この日常こそ「非日常」のようでもあり。そうであるから、皆さん、お身体に気をつけてお過ごし下さい。
2005/4/9(Sat) <郷愁>
昨日は4月8日であった。4月8日は一昨年、昨年と日本を旅立ち、イギリス・ノーフォーク州ノリッチに向かった日である。一昨年も昨年もこの日は長い長い一日となった。24時間プラス時差の8時間で一日が32時間だったからである。一昨年は成田からアムステルダムまで12時間のフライトのあと、乗り継ぎのためアムステルダム空港で4時間待ったあと、心細げなプロペラ機に乗り、北海を渡って、ノーフォークの田園と湖沼地帯(ブロード)上空を飛び、黄昏時にノリッチに到着した。入国ビザが無事におりるかどうか、預けておいたスーツケースが無事に出てくるかどうか、大いに不安があったが、どちらも無事に済んで安堵したことを昨日のことのように覚えている。そして、昨年は成田からロンドンまでの12時間のフライトのあと、今度はロンドン・ヒースロー空港で山のような荷物を抱えて入国手続きをしながら、2ヶ月の滞在ビザでこのあとどうなるのだろうかという不安に包まれた。それから、ホテルの駐車場に預けておいた車でのノリッチまでの4時間のドライブが待っていた。渋滞に巻き込まれて、ケンブリッジ付近で黄昏時になり、ノーフォークに入った頃にはもう外は暗く、土砂降りの雨が苦しかったことを思い出す。それでも、[Welcome to Norwich. A Fine City]の標識を見たときには、<帰ってきた>という喜びに包まれた。最後にフラットの駐車場ゲートの暗証番号が不在中に変更になっていたため開かないというアクシデントに見舞われたのだが、何とか隣人に頼んで空けてもらって入ることができた。2年とも不安に包まれた出発だったけれども、最終的には道は開かれて、2年間の国外研究生活を全うすることができた。そして、昨日、2005年の4月8日は機上にいることもなく、ただの24時間の1日として過ぎ、暮れていった。
帰国して1ヶ月が経った。10キロ減っていた体重は4キロほど戻った。おそらくもとに戻るのは時間の問題だろう。というのも、日本に帰ってからというものはなぜだかイギリスにいる時よりもお腹が空くからである。一つには、私が日本食を好きであるということもあるのだろうが、それだけではなく、ストレスで過食気味になっているような気もしている。何がストレスなのかと問われると適切に答えるのは難しいのだけれども、一言でいうならば、外に出ると楽しくないのである。人々の表情、空気がノーフォークで暮らしていた時とは全く違うのである。しばらく前に現代の若者たちの生態を描写して「友達以外はみな風景」と言い当てた人がいたが、「友達(知り合い)以外はみな風景」というのが世代を問わず、社会全体に蔓延しているようであり、近所に友達(知り合い)があまりいない身には、ものすごく居心地が悪いのである。
先週、人々があまりにもフレンドリーではないので、イヤになっていたところ、道を歩いていたら、向こうから小さな女の子を連れて歩いている若いお母さんが私たち家族に向かって大きな声を上げながら一生懸命手を振ってくれた。日本にも随分フレンドリーな人がいるものだと思って、微笑み返したところ、どうも全くそのお母さんには私たちのことは眼中にはないようであった。よく見ると私たちの後ろにそびえたっているマンションの窓に向かって手を振っていた。私たちはかなり至近距離にいたわけで、その近くで声を上げて手を振るというのも不思議な行為のように思われるが、おそらく知り合いでもない私たちは風景なのだろうから、こうしたことも仕方がないことなのだろう。しかしながら、風景として無視されるか、あるいはべったりとして断ることができない関係のなかで縛られるか、どちらかだという人間関係は、とても楽しくないのである。
どちらにしても、根本的な問題は、他者がいない、他者性がないということにあるのではないかと思われる。自分と全く違う価値観をもち、全く違う思考をする人間がこの世にいるということをはなから認めていないし、ほんとうには知らない人々がなぜだかこの社会のマジョリティであるように感じられるのである。しかしながら、ここでの根本的な問題というのは、私がそう思っているだけで、おそらくマジョリティの人たちは問題であるという認識すらないのではないかと思われる。とはいえ、他者がいない社会というのは結果的には誰にとっても閉塞感が感じられるものになるにちがいないのである。なぜならば、人は他者との出会いを通して、自分を育て、自分の中にある自分の知らない自分にも気づいて、大きくなっていくものだからである。他者がいない、あるいは他者の存在を認めない社会に住むということは、自分の成長を閉ざすということにつながるのではないかと思うのである。
ノーフォークに住んでいた時、至るところで人々は私にHave you enjoyed〜(楽しんでるかい?)と尋ねてきた。そして、私はたくさんのYesを答えてきた。楽しむことが自分のポテンシャルを最大限に発揮できることであり、他者とともに育っていく鍵であることを人々から教わってきた。しかし、残念ながら、正直にいうと、今のところ、東京で生活をしていて楽しくないのである。そして、ひきこもっている人々へのシンパシーばかりが高まっているのである。
ことばの壁もあったイギリス生活は決して楽なことばかりではなかった。おそらく苦しいこと、うまくいかないこと、トラブルに見舞われたことは日本にいた時以上に多かったにちがいない。しかしながら、自分のあらゆる資源を駆使して、問題に立ち向かっていくことは爽快感があることだった。そして、立ち向かっていた私を、周りの人たちは温かく、力強くサポートしてくれた。だからこそ、私は立ち向かっていくことができた。イギリスには、日本のようにはモノがあふれてはいなかった。しかしながら、信頼できる人々、微笑みかけてくれる人々、手を差し伸べてくれる人々というソフトについては、見事なものがあった。ことばを発すると受けとめてくれる人があり、あとに続く人がいることに信頼感があった。「ものいえばくちさむし」というのとは対極にある、コミュニケーションを行うならば必ず人がサポートしてくれて、解決がもたらされるという安心感があった。べったりした関係でもなく、風景でもない、その中間の関係の豊かさがこそが、イギリス社会のソフト面での豊かさをあらわしていた。
このように私のホームシックはまだまだ続いている。過剰適応として同居人にも笑われているほどの私であるが、なかなか日本社会に適応できないでいる。それでも来週から授業である。今度は私が他者を認め、ほんとうに気づいていけるかどうか、問われる番である。中間の関係の豊かさを育てるのが私の仕事であるのだろうから。
では、よい春をお過ごし下さい。
2005/3/22(Tue) <帰国>
なぜだか決して終わることはないと思っていた2年間だったのだが、時間は幸福な時も不幸な時も決してとどまることはない。ついに私たちのノリッチ生活も終わりを迎えることになった。2月は日本へ引き揚げる準備のため、あわただしい日々を過ごした。
2月中旬にイングランドに寒波が訪れて、案の定風邪をひき、いくらかの余裕をもたせていたはずの引き揚げ準備スケジュールはギリギリとなった。さらにこの寒波は、2月いっぱい続いた。2週間近く、毎日、雪が降って積もっては溶けるという天候とおつき合いすることになった。はなはだしい日には、30分毎に吹雪と晴天が繰り返しやってきた。外出のタイミングをはかるのも難しく、スケジュールはさらにギリギリになった。
それでも何とか日本に送る別送品の荷物を発送したのち、イギリス生活を支えてくれた車を売却した。荷物がなくなり、ガランとしたフラット、そして車のいない駐車場、2003年4月にノリッチに来た時と同じ寂しい気持ちに包まれた。何ももたずに生まれてきて、何ももたずに死んでいく。人生もまた始まりと終わりは身一つである。私たちのノリッチ生活もまたスーツケースと手荷物と大きな不安と一筋の希望から始まり、再びスーツケースと手荷物に戻っていった。ただ違うことは、私たちの心のなかに、イギリスで出会った人々、出来事、場所とたくさんの懐かしさが刻まれていたことである。最後の数日をキャンプ生活のようにして過ごし、2月28日、約22ヶ月住んだフラットと別れを告げた。家主のジャッキーとサイモンが別れのあいさつに来てくれた。お別れのプレゼントとして、現在プレミアリーグで残留を賭けて奮戦中のノリッチ・シティー・フットボール・クラブのグッズをくれた。よい家主に巡りあえたことは、イギリス生活の大きな僥倖だった。
住み慣れたフラットを出たあと、そこから程近いノリッチのホテルで最後の一夜を過ごした。かつてアイヴァーとメアリーに招待してもらった思い出の香港料理店で最後の夕食をしたのち、ホテルのテレビでノリッチ・シティー対マンチェスター・シティーの試合のチャンネルをつけて、寂しさをまぎらわせた。ここからすぐ近くのノリッチのスタジアムで試合が行われている。私たちが住んでいたフラットはスタジアムと駅の中間に位置していた。試合の日になると観客が黄と緑のカナリア・カラーのユニフォームを身にまとい、スタジアムに集まっては、試合が終わると足早にスタジアムから去っていく様子を、フラットの窓から見るのが好きだった。勝っても負けてもノリッチ・シティーを応援し、大好きなフットボールを楽しんでいる人々の姿を見るのは愉快なことだった。プレミアリーグに昇格してからは苦戦しているノリッチ・シティーだけれども、私もプレミアリーグに昇格後、ノリッチ・シティーの試合を見る機会はなかった。ホテルのテレビでの観戦がプレミアリーグのノリッチシティーをはじめて見る機会となった。そしてそれはノリッチを離れる前の夜であった。ホームのノリッチシティーは2点を先取する幸先の良いスタートを切った。しかし、地力に勝るマンチェスター・シティーが2−2と追いつくと、ノリッチシティーは防戦一方となった。一人少ない人数で粘り強く守っていたのだが、ロスタイムに決勝点を奪われて、2−3で逆転負けした。これが私のノリッチでの最後の夜だった。
翌朝、6時半に起きて、朝食をとったあと、ホテルをチェックアウトしてノリッチのコーチ(バス)ステーションに移動した。朝、外は小雨が降っていたけれども、出発の時には雨は上がっていた。コーチステーションではバスを待ちながら、初老の夫婦と言葉を交わした。ノーフォークに住んでいて素敵だと思ったのは、多くの場合、初老の夫婦たちが仲睦まじく、温かい雰囲気を周りに醸し出していることだった。人生という長い旅路をともに歩んできた朋友へのいたわりが感じられる二人の姿だった。
しばらくしてコーチが到着したので、私たちはスーツケースを預けて、両手に荷物を抱えたままヒースロー空港行きのコーチに乗り込んだ。コーチは懐かしいノリッチのシティーセンターをぐるっと一回りして、私たちが2年前にはじめて泊まったB&Bの前を過ぎ去り、私がほぼ毎日通った通勤路を走って、ノリッチの町を離れた。イギリスで旅行をして家に帰るとき、ノリッチの市境にある[Welcome to Norwich. A Fine City]の標識まで来ると、ホームに帰ってきたという安心感に包まれたものだった。今度はこの標識にそっと別れを告げて、長い帰国の旅がはじまった。
コーチはノリッチを出発したあと、幹線道路から離れてノーフォークの村々、町々を巡っていった。小さな村、町からコーチに乗る人々をピックアップするためのものであったが、私にとってはノーフォークとの別れを惜しむためのプレゼントのように感じられた。周りの風景と調和のとれた石造りの家々、なだらかに続く丘陵、ノーフォークの田園は、2年前に上空から見たのと同じく、夢のように美しかった。そして、ちょっと涙が出た。
最後の町、ニューマーケットは、サラブレッドの町だった。町中に馬を走らせるためのグラウンドがあり、至るところに馬が歩いていた。ここはお世話になった大学のスタッフのモーリンの両親が住んでいる町でもあった。モーリンはまさに私のイングランドの母であった。これからモーリンの笑顔とも会えないのだと思うと、また一つ涙が出た。モーリンはイングランドで私がトラブルに巻き込まれたとき、いつもしっかりと話を聞き、受けとめてくれた。モーリンに話をすることで、私はトラブルの解決策を見出していった。そして、すべてのトラブルに向き合うことで、納得のいく解決に導かれていった。私の心のなかに生きることへの大きな自信が芽生えていった。モーリンの存在がなかったら、私のイギリス生活は決してこのように深い喜びに包まれたものではなかっただろう。よい出会いに恵まれて、私は幸せ者だと思った。
ニューマーケットを離れるとコーチは幹線道路に戻り、一路スタンステッド空港に向かった。数日後、スタンステッド空港が雪のために閉鎖されたというニュースを知ったのは無事に帰国してからのことだった。私たちは、間一髪で足止めに遭わないで済んだ。スタンステッド空港で3分の1ほどの乗客が降り、また同じだけの乗客が乗って、コーチはヒースロー空港へと向かって再出発した。
ノリッチからロンドンへと向かう幹線道路は、何度も走った懐かしい道路だった。12月にブライトンのアイヴァーとメアリーに会いに出かけた帰りには、車両火災の事故に遭遇し、ちょうど1時間、街灯もなく、真っ暗なハイウエーで立ち往生するというアクシデントもあった。ロンドンでもノリッチでもない寄る辺ない異国の場所で、何一つ情報はなく、いつになったら動けるかわからない状態のまま待っていた時間は何とも心細いものがあった。ガソリンもちょうどノリッチに帰り着くぐらいしかなく、エンジンを切った車内は侘びしく寒かった。車中での夜明かしさえ覚悟した頃、前方の車がゆっくりと動き出した時は、ほんとうに一安心したものだった。暗闇のハイウエーに閉じこめられて、ちっぽけな、寄る辺ない自分を突きつけられたあの夜の思い出、そのときの身体感覚が蘇る暇もなく、コーチはあっという間にその場所を走り去った。
ヒースローに到着し、チェックインまで2時間ベンチで時間をつぶした。チェックインを済ませたあと、空港の待合室で休んだ。そこでUSAからボランティアでスリランカに向かう人々と話をした。これが最後の英語での会話となった。帰りの全日空は行きのKLMよりもずっとサポーティブで有り難かった。ただ、乗客のほとんどが日本人だった。一度だけ行ったことのあるお客のほとんどが日本人であったロンドンの三越や日本料理店とも重ねながら、日本のビジネス、日本の社会が内向きであることを感じた。ヒースロー空港内のハロッズはもうイギリスではなく、日本人ツアー客があふれる日本だった。何だか悲しい気持ちがわき上がってきた。もうノーフォークは遠くになってしまった。
午後7時過ぎ、全日空機はロンドン・ヒースロー空港を離陸した。約12時間のフライトののち、無事成田空港に着陸した。成田からスーツケースを宅急便で送り、別送品の手続きを済ませると、高速バスで東所沢に向かった。東京はビルが乱立する大都会であり、バスに乗る人々は皆無口であった。ちょうど夕暮れにさしかかり、首都高の渋滞のなか、私たちは夕闇に包まれた。もう出発してからほぼ24時間が過ぎていた。3月2日の夜である。高速バスは無事に東所沢に到着し、そこからタクシーで自宅に帰った。2年間、私たちの自宅はノリッチのフラットだったので、帰ってきたというよりも新しい次の家に到着したという感じだった。これからはじまる生活のことを思うとドッと疲れが沸いてきた。
しかし、何はともあれ、無事に戻ってきてしまった。日本という磁場の上で、次の生活がはじまることになる。この2年間がどのような意味をもったのかは今はまだわからない。これからの生活のなかで試されていくことになるだろう。寒波のヨーロッパから引き揚げを完了して間もなく、東京でも雪が降った。引き揚げで10キロ体重が減っていた私は、抵抗力もなく、再び風邪をひいてしまった。モノは何でもあるけれども一番大切なものが見あたらないこの国でこれからどのように生きていけばよいのだろう。私は重い気持ちのなかにいた。
帰国してほぼ3週間、この間、私は九州に行き、名古屋に行ったあと、東京でゼミの学生たちと再会した。内向きに閉ざされ、厚い雲が立ちこめているかのような印象を受けた東京から、日本語、英語、ハングル、中国語の車内放送が特急電車に流れる九州に行き、心が広がるような思いをもった。イギリスといっても、ロンドンとノリッチでは全く違うように、日本といっても、一括りにはできないのだと感じた。そして、東京に戻り、学生たちの話を聞き、困難な時代にあって一人ひとりがその“希望”を探し求めて格闘していることを知った。見つけたいものが見あたらないと嘆くのではなく、その種を見出し、水をやり、養分を注ぎ、育てていくことが、まさに私たちの仕事なのだと思った。今は、9分の不安の向こうに1分の希望を見ながら、この文章を書いている。
一夜明けて、インターネットでClassic FMのウェブ・サイトにアクセスして、懐かしい音楽とナレーションを聴きながら、心が癒される気持ちにひたっている。この感覚はまさにfeel at homeである。いろいろ書いてきたけれども、今の私はおそらくホームシックにかかっているのだろう。しかしながら、イギリスでは一度も経験することがなかったホームシックをなぜ17年も住み続けた東京で感じるのか。とても不思議に思うのである。
2005/2/1(Mon) <もうすぐ帰国>
2年という時間は決して短い時間ではなかったはずだが、光陰矢の如し、あっという間に帰国の日が近づいている。イギリスのノーフォーク地方に到着した時、すべての景色が新鮮であり、すべての体験が新鮮であったように、もうすぐここを去ることを思うと、車窓からの景色がまた違ってみえる。
2年間の滞在もまた一つの歴史である。私たちが2年間イギリス・ノーフォークに滞在していた間にも、ノーフォークの風景は大きく変わりゆこうとしている。2年前、ノーフォークに到着した時、人々がスマートであることに驚いたことを思い出す(ここでのスマートというのは日本語のスマートで太っていないという意味である)。欧米人というと、アメリカ人のイメージを強く刷り込まれていたのか、きっと太っている人が多いだろうと思っていた。しかしながら、イギリス人の多くはスマートな体型だった。ふくよかな人々はもちろんいるのだが、いわゆる肥満という人々は少なかった。ところが、2年が経ち、街中、スーパーマーケット、レストランで、太った人々を見かけることが多くなった。大学のスタッフとも、この話をした。イギリスでも肥満が大きな社会問題になりつつあるのだと、キャロルは言った。
2年前、ノーフォークに到着した時、真っ先に車を購入した。ヨーロッパを車で駆けめぐるのが夢だったからだ。結局、車で大陸に出かけることはなかった。しかし、日常の足として、旅行の命綱として縦横無尽に活躍してくれた。車はイギリス生活になくてはならないものだった。だが、車をめぐる状況も2年間で変わってきた。2年前に、車に乗り始めた時、イギリス人のマナーのよさに感嘆したものである。この「Daily たまのさんぽみち」にも書いたことだが、イギリスのドライバーたちはよくルールを守ったし、支線からの合流ではよく道を譲ってくれた。それから2年が経った。もちろん、今もルールを守る人々が大多数であるのだが、マナーの悪い車に時々出会うようになった。先日も70マイルでバイパスの走行車線(二車線の左側)を走行中に、男女4人がふざけながら乗っている車が、まさにギリギリで追い越し車線から私の目の前に割り込んできた。私のアイポイントからすると、危うく接触するぐらいの距離だった。これだけではない。ほかにもマナーの悪いドライバーに遭遇することが何度かあった。
私は、街のほぼ中心部に住んでいて、大学は郊外にある。だから、通勤は、混雑とは逆の方向で、昨年度はほとんど渋滞に巻き込まれることはなかった。しかし、交通量が増えたのか、今年度は中心部を抜けるところで渋滞に巻き込まれることが増えてきた。クリスマスの頃から私は通勤路を変更した。距離は長くても中心部をできるだけ回避して郊外を走るルートを選択するようになった。昨年の春までノリッチに住んでいたメアリー(私のスーパーヴァイザー・アイヴァーの奥さん)も、ノリッチの交通渋滞は年々悪化していると話していた。
2年前、ノリッチには、古い建物がたくさん残っていた。かつての倉庫で今は使われているのかわからないような建物が街の中心部にも残っていた。今、ノリッチは建築ラッシュである。経済が好調で不動産の価格が上がっていることもある。街の中心部を流れるウエンズン川の両岸には、新築のフラット(マンションのこと)が建築中であり、シティーセンターでは再開発が行われており、大規模なショッピングセンターがつくられる予定である。また、アンサンク・ロードというシティーセンターと大学を結ぶ通りでは、テスコという24時間営業のスーパーマーケットが進出しようとしており、街の商店街は反対運動をしている。アメリカ的なグローバリゼーションの波は、確実にイギリスの地方にも押し寄せてきている。
それでも、ノーフォークのイギリス人はやはりノーフォークの人々なのだと思うこともある。先日、大学のスタッフで友人のジョーが私たちを新居に招いてくれた。ジョーはノリッチを少し離れたノーフォークの田舎に新居を購入したのである。ジョーからのメールには、とても寒いからしっかりと着込んでくるようにという注意書きがあり、私はエスキモーのコートを着ていくというジョークのメールを返していたのだが、家の中だからそう寒いわけはないと、いつものように私はたかをくくっていた。ところが、ジョーの家はすごかった。まずそこまでの道が悪路でジープがほしいぐらいだった。そして、到着してそこにあったのは、私の少年時代の父の実家のような古い納屋のある家だった。
父の実家は、納屋があり、土間があり、竈(かまど)があるという典型的なかつての農家だった。しかし、今は普通の家になっている。住んでいた人々にとっては、かつての農家は寒いし、メンテナンスに手間がかかるし、難儀することが多かったと思うのだが、少年だった私としては、納屋に釣り竿があり、すぐ前の堀(クリーク)で釣りができるのは最高のアウトドアであったし、土間の竈で餅米を炊き、餅つきをするのは楽しみであった。沼で木製の盥(たらい)に乗って菱(ひし=沼や河川に自生する植物でクリのような実がなり、食べられる)をとるのもエキサイティングだった。しかしながら、農家の継ぎ手が次第にいなくなるとともに、沼は埋められ、納屋は取り壊され、土間はなくなり、堀は分断されていった。少年だった私にとっては、父の実家が普通の家に変わっていくことは寂しく、残念なことであった。
1970年頃まで日本の各地に存在し、急激に消えていったかつての農家の家屋。この家屋そっくりの家がノーフォークの田舎に忽焉と姿をあらわしたのである。もちろん、そっくりとは言え、日本の家屋とイギリスの家屋は違う。例えば、日本の家屋は、引き戸であるが、イギリスの家屋は開き戸(ドア)である。ジョーのうちも玄関はモダンなドアである。
ドアを開けて中にはいると廊下があり、すぐ左手にリビングルームがある。このリビングルームには、オープンファイアーの暖炉がある。ジョーによると、これがこの家の唯一の暖房であるとのこと。実は、赤ん坊のジョージの部屋とジョー夫妻の寝室にはヒーターがあるのだが、客間や家族が普段過ごす部屋では暖房があるのはここだけなのである。このリビングルームは、秋に訪ねた湖水地方のニアソーリーにあるヴィアトリクス・ポターの仕事場であったヒル・トップの雰囲気であった。このあと、暖房のないダイニング・ルームに招かれて、そこで食事をしたのだが、あまりの寒さに、私はそそくさと暖炉の前に逃げて、薪をくべた。いつものようにたかをくくっているわりに、一番寒がりなのである。これはたしかに、かつての父の実家の寒さだった。ひとことエクスキューズをさせてもらうと、寒くないようにコートを着ていたのである。しかし、イギリスでは家に入ったらコートは脱ぐことになっているようであり、家の中に入ったらすぐさまジョーにコートをとられて、どこかに隠されてしまった。そうして、間もなく私は寒さに耐えられなくなったのである。たしか、かつての父の実家ではジャンバーを着て背中を丸めてコタツに入っていたような記憶がある。これこそ文化なのだろう。人間の場合、文化は寒さ暑さにおかまいなく、人間の自然の欲求を縛るのである(日本の夏の電車とビルの異常な冷房を思い出してほしい)。
さて、暖炉というのも、実をいうと、私の夢の一つであった。こうしてヨーロッパを車で駆けめぐることに続いて再び夢が登場すると、私は夢が多いというか、夢ばかり見ているというか、現実逃避の傾向にあるというか、いろいろと自分に突っ込みたくなるところだけれども、それはさておき、煙突のあるオープン・ファイアーのうちに住むというのは、昔からの夢であった。ところが、ジョーの家で、オープン・ファイアーというのは極めて効率の悪い暖房であることを教えられた。薪がすごい勢いで燃え尽きてしまうのである。薪ストーブならば、空気の量を調節することで、薪を少しずつ燃やすことができる。しかし、オープン・ファイアーでは、薪はいくらあっても足りはしない。夢と実用はなかなか両立しないのである。
イギリスのほかの人々と同じように、ジョーはくまなく家をすべての部屋を案内してくれた。トイレもバスルームも物置も見せてくれるのがイギリスの人々である。日本の場合、たいてい開かずの間があり、どこの家にも見てはいけない部屋というものがある。しかし、イギリス人には秘密というものがないのか、あるいは秘密は地下の隠し部屋に隠しているのか、すべての部屋を見せてくれるのである。ジョーの家は、前の住人が1980年代に改装した部分と、この家が建てられた時代からの部分が混在しているのだが、この家が建てられたのは16世紀のはじめであるという。またもや中世の登場である。16世紀からの納戸を見せてもらい、ジョーの新居の半分がかなりの手を入れないと生活を営むことができないものであることを知った。日本でいうならば、畳がはがされて、その下が剥き出しになっているような状態なのである。ジョーは5年かけて、この家を改修すると言う。おそらくDIY(日曜大工)で。5年後にもう一度見に来てほしいと言われた。ジョー夫妻は5年間は確実に退屈しないはずである。
日本ならば、このような家の売買が成立するとは考えられない。土地の売買は成立するにしても、備考欄に「古屋あり」と記されて、古屋の解体費用がかかるため、値引きの対象となるはずである。しかしながら、イギリスでは16世紀の家が価値をもち、売買されて、建て替えることなく、自分たちで修理することによって住み続けられているのである。16世紀というと、グローバリズムだと騒いでいるアメリカが建国されるよりはるか昔のことである。アメリカをつくったのもイギリス人であると考えると、何とも言い難いところがあるが、イギリスの人々に残っている変わらないものを追い続ける精神は、見事なものである。
というわけで、2003年春から2005年冬にかけて、私はイギリス・ノーフォークに住んでいた。高校時代に‘一期一会(いちごいちえ)’ということばを教えていただいた。ノーフォークとの出会いもまた‘一期一会’だったように思っている。なぜならば、私はノーフォークに住みたいと思ってここを訪ねたのではなく、ただアイヴァー・グッドソンがここにいたから、ノーフォークに来たのだから。逍遙の研究者であるアイヴァーは、しばらく前までアメリカ・ニューヨーク州のロチェスター大学にいた。そして、昨年の夏からイギリス・サセックス州のブライトン大学に移った。アイヴァーがノーフォークにいたのはほんのわずかの間だった。この運と縁が私をノーフォークに導いてくれた。私にとってノリッチは見知らぬ街だった。ノーフォークは見知らぬ場所だった。しかし、今では大切な第二の故郷となった。思うに、私のノーフォークでの経験は、おそらく私の頑固さに拍車をかけることになっただろう。変わらないものを追い続けるイギリス人の精神に出会ったことで。しかし、自分の頑固さを人に押しつけることはしないだろう。いろんな人々の生き方があることを知ったことで。高校時代に‘和而不同(わしてどうせず)’ということばを教えていただいた。これが私の帰国してからの生き方になることだろう。
おそらくこれがイギリスからの最後の通信になると思います。Dailyたまのさんぽみちとは名ばかりの更新の少なさにもかかわらず、このコラムを訪ねてきて読んでいただき、ありがとうございました。とりわけ、東京経済大学の同僚の先生方、学生の皆さん、私の「自己本位」の二年間を支えていただき、ありがとうございました。
2005/1/1(Sat) <新年>
新年、あけましておめでとうございます。台風、地震と災難続きだった日本列島、そして年の瀬にはスマトラ島沖の地震と津波(英語でもTsunamiというのだとこの時始めて知った。言葉は互いに交流し合っているのである)、世界中で苦しみの中にある人々に思いを馳せ、生きていること、そして生かされていることの有り難さを見つめ直すことが行われている。津波では、スウェーデン、ドイツ、イギリスをはじめとしてヨーロッパの人々も数多く命を失い、行方不明になっている。イギリスでは、被害者のために祈る黙祷があった。私の周りの多くの人々が、支援のための呼びかけをしている。ボランティアと共感の精神からは学ぶべきことが多い。
2004年は明るい年とは言い難かった。私はこの間、ほぼイギリスに滞在していて、日本での災害と事件とその報道、雰囲気を経験していない。しかしながら、インターネットの時代、日本の“報道”についてはだいたいのことは知っている(リビアにいる叔父が大牟田での一家殺人事件を知っていたことに祖母は驚いていたらしい。しかし、今はそのような時代なのである)。情報が世界を駆けめぐる時代である。しかしながら、私も含めて、今の時代の人々がかつての時代の人々とくらべてほんとうに知るべきことを知っているのかと言えば、はなはだ心許ない。イラクで起こっていること、パレスティナで起こっていること、日本の人々の心の中で起こっていること、隣の家で起こっていること、パートナーの心の内などなど、知らないことだらけである。そもそも日本の人々の心の中で起こっていることも一括りにはできないわけであり、情報があふれる時代だからこそ、今やるべきことは、身近な人々の思いを聞き取り、発信していくことではないか。こうした思いから、池澤夏樹さんもフランスに移住し、フランスの地方都市の人々の暮らしを発信することを決意したのだと思う。 池澤夏樹さん『異国の客』
さて、12月にスーパーヴァイザーのアイヴァー・グッドソンに会うために、南東イングランドのブライトンを訪ねた。ノーフォーク・ノリッチから渋滞もふくめて片道5時間の旅であった。イギリスではアウディやVW(フォルクスワーゲン)など作りのしっかりした車が好まれる。公共交通機関には信頼がなく、無料の高速道路網が発達しているので、得てして車で長距離を走ることが増える。したがって、走りの確かな車が必要なのである。この辺りの事情は、池澤夏樹さんが描写しているフランスの都市近郊の車事情とは明らかに違う。同じヨーロッパといっても、フランスとイギリスでは違うのである。さらに同じフランス、イギリスといっても、都市部と郊外では全く違う。ノーフォークは車で走るには天国のようなところだけれども、イギリス全土がそうかと思いきや、湖水地方に出かけたときは、ロンドンとバーミンガム、マンチェスター、リバプールを結ぶ幹線道路のM6を走って、トラックの多さに驚いた。トラックが三車線をふさぐこともあり、小さな私の車では怖かった。
イギリスを走っているフランス車である私のプジョー206は、町乗りにはきびきびしていていい車なのだが、コンパクトで長距離を走るにはいささかきついものがある。もう一度イギリスで車を買うことがあるならば、おそらくアウディA4クラスの車を買うだろう。イギリスの道路事情はフランスの都市近郊的というよりむしろドイツ的なのである。(車のスピードというと速度無制限のアウトバーンのあるドイツを想起するが、平均速度が最も速いのはフランス、スペインだそうだ)話は戻って、私のスーパーヴァイザーのアイヴァーの愛妻メアリーの車はVWのゴルフ。彼女は、ブライトン近郊の田舎道を、驚くべきスピードでかっ飛ばしていた。日本ならば30q/hあるいは20km/h制限になるだろうと思われるすれ違いさえ難しいような田舎道を50マイル(=80km/h)でかっ飛ばす。だから、こちらでは車には、走る曲がる止まるの高い性能が求められる。日本を席巻しているミニバンなるものはほとんど見かけない。女性ドライバーメアリーはゴルフをかっ飛ばし、私はもう後部座席で「命がありますように、アーメン!」の世界である。馬車の伝統は還暦にほど近い女性ドライバーにもたしかに受け継がれているのである。日本のミニバンはおそらく駕籠(かご)の確かな伝統に違いない。
さて、アイヴァーの新居は、ブライトン近くの小さな村のコテージ。藁葺きの雰囲気のある家屋であった。なかに入るとさらに雰囲気があり、歴史のあるB&Bのようである。もとからある本邸に新しく作られた別邸がつなげられている構造であるのだが、この本邸は天井が低く、コンパクトな東洋人である私の頭でもつっかえそうになるほどである。暖炉には火が煌々と燃えている。「雰囲気のある家ですね」と言うと、アイヴァーからはこの建物は13世紀から脈々と引き継がれているのだという答え。13世紀!卒倒しそうになった。あとで建物についてのドキュメントで調べたところ、15世紀につくられたとあり、アイヴァーの話とどちらが正しいのかはわからないのだが、13世紀だったら鎌倉時代、15世紀だったら室町時代の応仁の乱の頃である。こんな歴史のある家に今現在、人が住んで、生活を営んでいる。私にとっては想像し難い歴史の重みであった。しかしながら、13世紀というのは別格としても、18世紀、19世紀ぐらいの建物ならば、ノリッチにも至るところに転がっている。そして、転がっているだけではなく、人が住んでいる。父祖から受け継いだ家というわけではなく、不動産屋を介して、人から人へと受け継がれるかたちで。地震がなく、石造りの家が基本ということもあるが、使い捨ての国とは生活の土台が大きく違うのである。
生活を見直していきたい。新しい年を迎えるにあたって、心からそう思う。新しいもの、奇をてらったもの、流行、話題を追いかけていくのではなく、ほんとうによいものを長い時間をかけて育てていくようなありかたに。情報化社会とは、情報が私たちの外側から絶え間なく内側に侵入してくる社会のことである。しかしながら、私たちにとってほんとうに大切なものは、私たちの内側にあるセンサー(感性)であり、この感性はさまざまな人や文化との交流を通して、時間をかけて育てなくてはならないものである。見せかけの豊かさにまどわされることなく、アイヴァーの家のような受け継がれゆく器としての文化、そして共同体を育てていくことがこれからの私の課題となるだろう。
2004/12/1(Wed) <年末>
先週末、今度こそはほんとうに同室者のスティーブがオーストラリアに一時帰国したことで(フライト+乗り継ぎで26時間の長旅らしい)、1ヶ月の静かな時間がおそらく保証されることになる。おそらくと書いたのは、まだ何が起こるか油断がならないからである。この大学の研究スペース難は深刻な事態であり、博士課程の大学院生の研究室はまさにタコ部屋状態である。大学院生といってもほとんどが各々母国では専門職に就いていた人々であり、この研究環境はシビアであると思う。スタッフはいいけれども、スペースは論外というのがこの大学のありようである。
不思議なもので、第一印象というのは、何か本質をついている場合がしばしばある。1年8ヶ月前にイングランド東部のノーフォーク州ノリッチ空港上空からノーフォークの景色を眺めたとき、何と美しい風景だろうかと息をのんだことを思い出す。ノーフォークの美しさは、イギリスの田舎の美しさそのもので、このあと1年8ヶ月ここで過ごしながら、この美しさは色褪せることなく、ますます愛着が湧き上がってきている。ノーフォークの田園風景は、ちょうど現代の商業看板などの対極にある地味な色の美しさである。基本色となっているのは、柔らかな緑と土の色、それからブロード(湖沼)の深い青である。脳に刺激を与えるのではなく、心をゆったりとした気持ちにさせてくれる色彩である。この夏、ヨーロッパでも風光明媚な場所であるスイスを旅し、戻ってきたときに、ノーフォークのかけがえのない美しさを改めて認識した。心をゆったりとさせてくれる色彩としては、ここを超える場所を知らない。
ノリッチ空港に到着し、タクシーで予約していたB&Bに向かう頃、すでに黄昏時だった。1晩寝て長旅の疲れを癒し、B&Bのフルイングリッシュブレックファーストを食べると、作った人の気持ちが感じられるようなおいしさだった。イギリスの食事は不味いという評判があるが、私は同意しない。この秋、湖水地方のB&Bで味わったディナーとブレックファーストも家庭的な温かい食事だった。第一印象通り、ずっとイギリスの食事は決して悪くない。場所さえきちんと選ぶならば。そして、何か1960年代的な懐かしさを感じさせるようなテイストが感じられる。スローライフが生み出す温かみを伴ったテイストである。
B&Bのフルイングリッシュブレックファーストを食べて元気が出た私は、さっそく街(シティーセンター)に出かけた。人口十数万の都市にしては不似合いなほど、街は人々で賑わっており、活気と楽しさにあふれていた。そして、生まれてはじめて訪れたこの街だったが、ここに来ることにして正解だったと思った。ここで生活をしたら、生活をすることが楽しくなるだろうと思った。仕事のための生活、研究のための生活、○○のための生活ではなく、生活すること自体の楽しみ、これを感じることができるだろうと感じた。
あとで知ったことだが、ノリッチのシティーセンターには中世から続いている市場(マーケット)があり、テントに屋台のまるで東南アジアを連想させるような市場が今もなお活気にあふれており、人々で賑わっている。私もデイバッグを£5(約1000円)で買った。少しのお金でも人生を楽しめる、そういう市場である。そして、ここは中世の昔から人々が集まってくる場所であったのだ。今もノーフォーク地方各地から人々が買い物にやってくる。
街に元気をもらった私は、午後から郊外の大学に向かった。シティーセンターから6qほどの道のりを歩いた。大学にはあまりていい印象をもたなかった。案内図はわかりづらかった。歩行者用の道路はなく、危険極まりなかった。建物はバリアフリーではなく、整合性がなかった。しかしながら、スタッフ(モーリン)は親切で、心細かった私を安心させてくれた。
そして、1年と8ヶ月が経った。大学のカーパーク問題は、nightmare(悪夢)だと人々の間で悪評高い。午前9時を過ぎると、カーパークは満杯になり、駐車できなくなる。授業に遅れないように学生が空いているスペースに駐車すると、即クランプ(車留め)をつけられて、罰金を課される。たとえカーパークが満杯でも、一度カーパーク内に入ると自動的に駐車料金が課金される仕組みになっている。しかし、ほんとうに満杯なのかどうかは、入ってみないとわからない。満杯だった時にはコッシィのパークアンドライド(郊外の大型駐車場に車を止めて、バスで都心に入るというイギリスの交通システムの一つ)を使用するようにということだが、大学からコッシィのパークアンドライドまでドライブして、そこでバスを待ち、大学に戻ってくるには小一時間かかる。そこは高速道路を使うぐらい離れている場所なのだ。さらに、研究スペース問題も、度重なる引っ越し問題も、nightmareである。はじめに感じた通り、大学は何ともnightmareな場所だった。
ここを去るとき、おそらくnightmareも含めて、すべてが懐かしく感じられるだろう。あと3ヶ月、ノーフォークを去るのは寂しい限りであるけれども、夢はいつかは醒める。ただ後悔のないよう、そしてできるならば大学についての印象がcreativeなideaが生まれた場所としてポジティブなものになるように、残りの日々を生きたいと思う。では、よい年末を!
2004/11/1(Mon) <冬時間>
イギリスでは長かったサマータイムが終わり、昨日からグリニッジ標準時に戻った。これで日本との時差はこれまでの8時間から9時間になる。サマータイムのほうがずっと長いのだから、これからの時間を冬時間と呼べばいいのにと思うのだが、これからが標準時である。何はともあれ、日暮れが急に1時間早くなるので、大学からの帰路もとっぷりと日が暮れるはずで、わびしい冬の訪れである。昨日は残念ながら真夜中0時の時報を聞きそびれてしまった。日曜日になったところで午前0時が2回続いたはずだけれども、起きていたにもかかわらず、すっかり忘れてしまっていた。残念至極。昨年は1時間得した日に、時計合わせに1時間かかって収支がゼロになったのだが、今年は時計の取扱説明書をもっていたので20分ですんだ。それにしても、取扱説明書つきで20分かかるとは、何とまあという話で、私の理解力のなさを差し引いても、いろんな性能がついているものというのは不便なものだ。針だけの時計ならば、きっとボタンを引っ張って、ぐるっと長針を一回転、そしてボタンを押して30秒ですべては完了だろう。何だか、必要ではないもの、いらないものばかり身につけて、自分を重くして、ややこしくしているような気がする。おそらく今の社会全体も同じようなものだろう。テロリストを作って、テロリスト対策をして、何ともまあ忙しいものである。忙しいけれども、将来に展望がないというのがこれまた残念至極なところである。
さて、妄言はさておき、イギリス生活は油断も隙もならないのだけれども、今日もまたサプライズな事件が起きた。先週、オーストラリアに帰ったはずの同室者のスティーブがいきなりあらわれたのである。武者修行のように入れ替わり立ち替わり同室者がやってきては去るという、居ながらにして世界一周旅行をやっている私のイギリス研究生活であるが、先週、スティーブが去り、ようやくクリスマスまでの平安な日々が与えられるものだと思っていたところ、そうそう人生は甘くなかったのである。ここで数えてみたところ、これまでの同室者は10名。ただ運命に身をゆだねている私の歩みである。少しは品性が練られたであろうか。そう願いたいものである。イギリス・ノーフォークは今日は曇り。朝からずっと曇りで雨も降らない不思議な日である。11月は曇りのスタート。ではよい11月を!
2004/10/11(Mon) <おみやげ>
10月になり、新年度が本格的に始まった。私にとっては、こちらに来てから3度目の新年度になる。1度目は自分がイギリスに到着した昨年の4月、2度目は昨年の9月、そして3度目が今年の9月である。これまでの2度の新年度とは違って、あと5ヶ月ほどで帰国が決まっているので、セミナーに参加していても、もはや心は新入生の気分というよりも、去りゆく老兵の気分である。それでは、老兵なみに経験を積んだのかと問われると、何とも心許ない限りだけれども。今はエクセレントであることよりも不様でも完走することを生きる課題として、ただその一点をめざしている。
“我慢”が大切だと学生に教えられて、ずっと“我慢”について考えてきたのだけれども、小さい時に我慢をし過ぎると、大人になってから我慢できなくなるのではないと今、思っている。子どもはいろいろと試行錯誤することで、時には痛い目に遭いながら、自然の摂理を学ぶのであり、我慢をし過ぎると自然の摂理を学ぶチャンスを失い、すべてが自分を不当に縛るものに思われてくるのである。“我慢”は大人が辛抱強くするものであり、子どもには不当な“我慢”をしなくてもいい環境を準備してあげたい。イギリスに来たとき感じたように、規則とは自分たちを守るためのものであり、不当に縛るものではないという規則についての理解が共有されるためには、規則は自然の摂理とつながっていないといけない。子どもに不当な“我慢”をさせる社会は、必ず秩序の崩壊を生み出し、解体する。これをさらに不当な“我慢”で解決しようというのは、見当違いもはなはだしい。
イギリスで何を学んだかと聞かれたら、“我慢”を学んだと答えるだろう。他者に押しつけられる子どもの“我慢”ではない、自ら引き受ける大人としての“我慢”。大切におみやげとして包んで帰りたいものである。
2004/9/24(Fri) <過剰適応>
雨のAugustのあと、Septemberは爽やかな滑り出し。イギリスでの最後の夏を名残惜しみながら、残り少ない夏の日射しを楽しむことができた。そして、9月の中旬からは、ラジオの天気ニュースからもChilly(肌寒い)ということばがしばしば流れるようになり、冷たい雨とともに、イギリスのよい季節は去っていったように思われる。
さて、このような天気なのだけれども、多くのイギリス人は冷たい雨の中でも、傘をささない。傘をささないどころか、雨が降り始めても、走らない。それだけではなく、雨の中、悠々と立ち話などしている。あるいは両生類なのかと思わされるほど、不思議な人たちである。このような不思議な人たちに囲まれて、1年半ほど生活をしてきた私は、いつの間にか、不思議な人たちの仲間入りをし始めている。雨が降っても以前のようには傘をささなくなったのである。
ところで、先日、冷たい雨の中、傘もささずに、半袖のポロシャツで外に出かけたことがあった。そして、「おっと、オレもいつの間にか、イギリス社会に適応しているわい、わっはっは」と機嫌よく同居人に話しかけたところ、「今日のような寒い日は、イギリス人だって長袖を着ているわよ、あなたみたいなのを、“過剰適応”と言うのよ」と言われて、ぐうの音も出ない。同じ適応といっても、イギリスに住んでいたら、イギリス人並みに英語がうまくなったみたいな適応(あり得ない)だったり、さらにイギリス人以上に英語がうまくなったというような過剰適応(ますますあり得ない)は喜ばしいことだが、そのような困難な道を前にするとおじけづいて、簡単なところから真似していくのが人間(私)のストラテジー(方略)としてあるようだ。
さらに、イギリス人の話の進まなさも大したもので、水道、電気、給湯器、いろいろと不具合があることが多いのだが、これらの不具合が1回で改善されたためしはほとんどない。だいたい1日するとまた不具合になり、再度、修理人がやってくるのだが、もちろん、謝ることもなく、悪びれることもなく堂々としている。あるときに至っては、今日の朝来ると電話をしておいて、家が見つからなかったといって、そのまま帰ってしまうし(家を探せなかったら、電話をすればいいだろう)、あきれてものが言えない状態である。過剰適応である私は、この辺りのずぼらさにも上手に適応して、上手ないい加減を身につけたいものである。
読者の中には、もうあんたは十分にいい加減なので、それ以上いい加減になってどうすると思われる人もいるかもしれないが、これでも結構、生真面目な私なのである。願わくば、今のいい加減なところと生真面目なところがちょうど逆になってくれるとありがたいのだが、そこがなかなか難しいところである。
最後に、Anyway イギリス人はとても親切である。とりわけ、よい水脈(人脈)にあたると、そこに連なる人々は、すばらしく親切で、高潔な人となりにただただ敬服するばかりである。こういうところにこそ上手に適応して(学んで)、おみやげとしてもって帰りたいものである。それでは、よい秋を!
2004/8/20(Fri) <雨のAugust>
日本の皆さま、お久しぶりです。ほぼ4ヶ月ぶりの更新となります。今夏、日本は記録的な暑さと風の便りに聞いていますが、イギリス・ノーフォーク地方は雨の多い夏です。時々、サンダーストーム(雷雨)が地面を叩きつけ、台風のような激しさに驚かされることがあります。しかし、これも長続きしないのがイギリスの特徴で、しばらくするとまるでさっきまでの豪雨はウソだったかのような顔をして晴れ間がニョキニョキとあらわれてきます。不思議なことは、豪雨でも町が洪水にならないことです。目の前を川が流れていますが、雨が降ってもそんなに水かさは変わりません。ノーフォークはぺちゃんこなので、雨が降ってもその辺に水たまりができるくらいで済むのでしょう。
大学では、3度目、あるいは4度目の研究室の引っ越しをしました。流浪の民の生活です。2年目の滞在のためのビザの延長問題では、ここに綴り切れないほど、苦労しました。多くの人々の支えがあって、延長が可能になりましたが、この国の対応には憤りを感じることもありました。それにしても人生において大切だと思うのは経験の力です。私のような凡庸な人間にとっては、経験からしか想像力は生まれ得ないもののように感じるのです。憲法9条を守る九条の会の鶴見俊輔さんは、太平洋戦争の折、アメリカ留学中でした。英語でモノを考え、もちろん日本の戦争に賛同してはいませんでした。ところが、敵国人ということで収容所に入れられ、捕虜交換で日本に送られ、徴兵を受け、南洋に出征します。そこで隣の軍属が捕虜の殺戮を命じられます。戦後、自分に降りかかったかもしれないこの経験について考え続け、「『私は人を殺した 人を殺すことは良くない』と一言で言えるような人間(に)なりたい」という結論を導き出したといいます。
鶴見さんが日本に戻ったのは、負ける時には負ける側にいたいというぼんやりした哲学的信条からだったと言います。戦争を知らない私は、鶴見さんの経験に圧倒されます。心がしんとします。負ける時には負ける側にいたいという、経験に寄り添う構えに、人間存在の光を見ます。経験は想像力を生み出します。想像力は他者への配慮を生み出します。他者への配慮は成熟した人間であることの証です。私が心配していることは、今の社会の仕組みは、経験しない人々が経験と格闘している人々の成長を妨げるようにできているのではないかということです。野球と格闘をしたことのない人間が「たかが選手」と言い放ち、知と格闘したことのない人間が研究者や教師をコントロールしようとする、さらには知と格闘したことのない研究者や教師がクライアントや子どもたちをコントロールしようとする、こういう仕組みについて危惧しているのです。
こういう意味で、私は「何でも見てやろう」と言った小田実さんの精神に共感するところがあるのです。自らの経験の貧しさを知って、「何でも見てやろう」「経験してやろう」と意気込んで旅に出る若者に、共感するところがあるのです。この夏、私はスイスのブライトホルン(4146m)に登頂しました。アルプスの4000m級の山で最も容易なブライトホルンさえも、雪山はじめての私には簡単な仕事ではないことを経験しました。一緒に登ったスイス人のおばあさんが何と74歳であり、これが人生最後の登頂になるだろうと語られた時には、いとおしさでいっぱいになり、山頂で抱き合って喜びました。世界には、名も知られていないけれども、70歳をこえてなお、4000m級の山に挑戦する人もいます。「何でも見てやろう」「経験してやろう」というのは、人に物語るためではなく、ただ自分という存在のためです。自分という存在の限界を知り、謙虚になるためです。「何でも見る」「経験する」ためではなく、自分が見ていないこと、知らないこと、経験していないことがいかにたくさんあるのかに気づくためなのです。経験はどこまでも豊かに求めながら、しかし同時に自らの経験を絶対視することなく、見つめ直す省察も求められます。おそらく一人での省察だけではなく、他者との対話を通した省察が。こうして省察もまた新たな経験をかたどります。また、しばらくお休みします。季節が変わった頃、お会いしましょう。お元気で!
ブライトホルン↓
2004/4/13(Tue) <2年目のリスタート>
戻ってきました。昨年と全く同じ日に。今朝のノリッチは雨でしたが、昼になって明るい日射しが研究室に射し込んできています。相変わらずのイギリスのお天気です。日本からの長旅は、ロンドン・ヒースロー空港に降りたって、その日にノリッチまで車を運転して帰るという強行軍で、はっきり言って疲れました。しかも先週の木曜日、イギリスはちょうどイースター連休の前日で、道路は行楽地に向かう車で大渋滞。私は1ヶ月ぶりでイギリスのスピードに不慣れなまま、日本時間で午前1時から午前5時までの間、「外は明るいよ、夜じゃないんだ」と自分をだましだまし、何とかノリッチまでのドライブを無事終えました。ようやく辿り着いたノリッチでは、突然の土砂降りの雨と、駐車場のゲートが開かないという手荒い歓迎を受けました。今年もまた、波瀾万丈の日々が待ち受けているようです。
何はともあれ、無事にノリッチに戻ってくるというミッションを達成したわけで、ほんとうにホッとしています。身体の中には、まるでたまねぎのように、疲れが何層にも溜まっていますが、こちらで生活していく中で、少しずつ回復していくことでしょう。
ようやくイギリス生活2年目のスタート地点に立つことになりました。もう再延長はないので、今年はほんとうに最後の年になります。日本に一時帰国して、私の学びと経験がまだまだであることを痛感しましたので、もう1年チャンスがあることはほんとうにありがたいことであると心から思っています。
これまでイギリスからの日記を読んでいただきまして、ありがとうございました。わけあってしばらくホームページの日記を休刊します。長くとも1年後には、再会(再開)できることでしょう。2004年度の皆さまの歩みが実りあるものになることを祈っています。それではしばらくの間、失礼いたします。
2004/3/9(Tue) <出発>
イギリス・ノリッチの朝は快晴です。これから日本に向けて出発します。といいつつ、日本到着は明後日になりますが。車でノリッチを出発し、ヒースロー空港近くのホテルで1泊するLong and Winding Roadなのです。昨日はぼんやりとイギリスから日本まで歩いて行ったらどのくらいかかるだろうかと考えていました。ロンドン・ヒースローから東京・成田まで時速1000キロ近いジェット機で12時間のフライトなので、約10000キロとして、一日30キロ歩けば、ほぼ1年で到着する計算になります。もちろん、途中で盗賊団に遭遇したり、山脈にぶつかったりして、そんなに簡単に辿り着けるとは思えませんが、国境がなければ不可能な距離ではありません。おそらく国境で思考が制限されている現代の私たち以上に、昔の人々は軽やかに越境していたにちがいありません。きっと古代にも、中世にも、東へ東へどこまで行けるだろうかと挑戦した人たちがいたことでしょう。さて、いよいよ出発です。日本での更新はおそらく難しいでしょう。というわけで、See you later in April! では、よい春をお過ごし下さい。
2004/3/6(Sat) <Road Tax>
金曜日は忙しい日だった。来週に帰国を控えて、いろいろと手続きに抜かりはないかと調べていたら、自動車に必ず貼り付けておかなくてはならないRoad Tax(道路税)のディスクの有効期限が2004年3月31日までとなっていることに気がついた。このままだとヒースロー空港までの行きは問題ないけれども、4月のヒースロー空港からノリッチまでの帰りのドライブが違法になってしまう。まさに行きはヨイヨイ、帰りはコワイである。しかも、大学のCar Parkを巡るやりとりで、fine!(元気だよ!/すばらしい!)ということばがfine!!(罰金!!)に聞こえてしまうほど、もう十分散々な目に遭っている。他者にどんな事情があろうが、ルールはルールだとして従わせるのは、まさに大英帝国以来の伝統なのだろうが(それならば自分たちももう少し国際社会のルールを守ってほしいものであると一言いいたくなるのだが=イラク戦争→しかし、自衛隊の派遣でイギリスの無法をとやかく言いづらくなったのが悲しい=それでもいいますけどね)、私の脆弱な英語力と立場と論理でイギリスのポリスとくだらない勝負をしてもとうてい勝ち目はないので、新しい魔法のディスクを手に入れる旅へと旅立つことにした。
イギリスの法律では、道路税のディクスが有効期限切れの場合、20万円ものfine(罰金)を支払わなくてはならない。全くもってかかわりになりたくない話である。ところで、Road Taxを払うのにはまずMOT(車検)の証明書と保険証書が必要である。というわけで水曜日にDealerに出かけて(久しぶりに昨年の4月にお世話になったCar Dealerのスペンサーと再会した。彼はなかなか親切であった。)、MOTの予約をする。
そして、金曜日の朝、車をDealerに持ち込んで、まず車検を無事を終える。続いて保険証書も準備して、よしとばかりにPost Office(郵便局)に出かけた。こちらでは自動車関係の多くの手続きはPost Office(郵便局)を通して行うことになっている。ところが窓口の担当者は、ディスクの有効期限がまだ残っており、15日前からしか次の道路税の支払いはできないという。さすがは融通の利かないイギリスである。こうした事態になることは1年間のイギリス滞在経験からほぼ予測できたことだったが、私もfineを払うわけには行かないので、拙い英語ながらも、来週に外国に出かけるので、15日前までは待っていられないこと、ヒースロー空港のlong stayに車を駐車して、4月に戻ってきたときに乗るので、4月にノリッチに戻ってから支払うわけにもいかないことを、一生懸命に説明した。イギリスでは、遠慮しているとほとんどの場合、相手は何もしてくれないので(そしていきなりfineになるので)、気持ちをぐっと強くもって、今日、道路税を支払う以外に方法がないことを伝えた。すると、窓口の担当者から、ここでは小さなPost Officeでそうしたこみ入ったことに対応できないのだけれども、大きなPost Office(日本の本局のようなもの)で事情を話せば、きっと力になってくれるだろうという回答をもらえたので、いったん自宅に戻って体勢を立て直したあと、シティ・モールにある大きなPost Officeに出かけることにした。
自宅で昼食をとって、気持ちを落ち着けたあと、再度出陣! 日本では当たり前にできることもこちらではなかなか大儀なこともしばしばある。Handicapがあるということはそういうことなのである。日本にいたとき誰もが同じように自分の前提でできるはずだと思っていたのではないかと深く自戒しながら、Post Officeまでの道を歩く。こちらの道を歩いていると、イギリスの道路がいかに歩行者のことを考えていないかがわかる。道路が車を前提として作られているから、車をもっていないというのもHandicapを意味している。信号は少なく、歩行者用の横断歩道もまれである。ときどき存在する歩行者用のボタン式信号でも青信号が終わるのがものすごく早い。ときどき道路をよろよろとお年寄りが渡っているのに遭遇する。ルールの国は半面ではかなりの弱者切り捨ての国でもあるのだ。
さて、久しぶりになかなかものごとがうまくいかない悲哀を味わいながら、シティ・モールのPost Officeに辿り着いた。どうなることやらと心配したのだけれども、ここでは、運良く、親切な窓口の人に当たった。その人がこちらの事情をしっかりと聞いて受けとめてくれ、DVLA(Driver and Vehicle Licensing Agency=イギリスで自動車関連のことを一手に扱っているところ)宛に早期納入を依願する手紙を書いてくれた。(こちらでは決められたルールと違うことをしようとすると何とも一つ一つが仰々しいのである。) この親切な窓口の人のおかげで、無事にRoad Taxを支払い、念願の魔法のディスクを受け取ることができた。しめてMOT(車検)£40.75+Road Tax(道路税)£110=£150.75(約3万円也)。
この手続きに費やした時間は、途中の体勢立て直しも含めて、約6時間。税金を、しかも、早めに支払うために、なぜこんなにもハードルがあるのだろうかと思いつつ、ロールプレイング・ゲームでももっと時間がかかるのだろうし、無事にミッションを達成したし、まあめでたしとこれ以上は考えないことにする。何はともあれ、最後の親切な窓口の人は、一日の右往左往とHandicapの苦しみを一気に払拭してくれたわけであり、どんな時代、どんな場所であっても、弱者に対する親切というのは、最高の徳の一つであると深く肯きつつ、4月にイギリスに来て以来、親切にしてくれた人々への感謝を思い起こしながら、今年度最後になるイギリスでの週末を迎えている。
来週はいよいよほぼ1年ぶりの日本です。今は自分に対する要求水準を下げて、1ヶ月後に無事にイギリスに戻ってくることだけを目標にしています。そうもいかないでしょうが、日本で会う皆さん、どうかお手柔らかにお願いいたします。では、よい週末をお過ごし下さい。
2004/2/27(Fri) <Tea Party>
今日は大学で親しくしているジョーのマタニティー・リーブ(産休)祝いのTea Partyに出かける。Tea Partyといっても大学のセミナー室で開かれている飾り気のないもの。覚えておられる方もあるであろうか、UEAに到着した頃、大学のスタッフにとっては息抜きの時間であり、そして私にとっては試練の時間であるティータイムのことをこのコラムに記したことがある。このティー・タイムのちょっと豪華なものである。(ちなみに、私は、このティータイムの試練にはとうに挫折してしまって、ほんのときたましか顔を出さないようになっていたのだが)
さて、今日のTea Partyでも、先日の誕生会でも感心したことだが、こちらでは大学の間のスタッフのつながり、関係が絶妙なのである。もたれ合うようなところはないのだが、お互いに支え合うことはいつも大切にされている。その底には、職場を居心地のよい場所にしていきたい、そして人生の重要な一部である仕事をできるだけ楽しいものにしていきたいという思いが流れているように思われるのである。ジョーのマタニティー・リーブはTea Partyに参加したスタッフたちに祝福され、ベビーの誕生とSeptemberの復帰が待ち望まれたあと、またさりげなく散会した。今、イギリスにおいて政府主導で行われている大学改革はかなり問題を孕んでいるように思われるのだが、現場のスタッフたちの緩やかな連帯と賢いしたたかさがこの場を守っているように思われる。
今週の半ばには、大学職員によるストライキも行われたようだし、これまでの大学のありようを公共空間として守り抜くのは決して簡単ではない状況にあるようだ。私は、大学のもっているおおらかさ、寛容さが、行き詰まった社会に穴をあけたり、組み替えたりする可能性をもっていると信じており、じっさいに、私がこちらに来て1年間で育て、育てられてきた人々との関係は、私にとってはもちろんのこと、日本とイギリスという二つの社会、そしてこれ以外のいくつもの社会にとっても、大きな宝であると確信している。これも考えてみると、さらにもう1年の国外研究を認めてくれた東京経済大学の寛容さと、言葉のハンディキャップをもつ私をメンバーとして受け入れてくれたUEAのCARE(←Centre for Applied Research of Educationの略、いみじくも今私の考えていることの軸にあるケアと重なる)の寛容さという、二つのgenerousによって支えられていることに気づかされる。
しばらく前に偉大なる研究の先達であり、今は同じ職場(東京経済大学)で仕事をするという僥倖にあずかった石井寛治先生の仕事についてもっと知りたいと思い、ネットで検索したことがあった。すると、石井先生の近著である『日本流通史』(有斐閣、2003)の質の高さを絶賛するとともに、このような著書をまとめる機会(1年間の国内研究)を提供している東京経済大学を高く評価しているHPに出会った。このHPを作成していたのは、某公立大学の先生であり、近年の大学「改革」の渦中におられるようであった。研究にもさまざまなかたちがあるのだが、決められた目標に向けて進められるものばかりが研究ではない。目標自体が深化し、変わっていくこと、これもまた研究のもっている醍醐味であり、現状を打開していく力ではないかと思う。こうした研究プロジェクトを支えるベースにあるものは、何よりも寛容さである。どんなすぐれた教師も、研究者も一人で屹立した山の頂に到達したわけではなく、多くの先達、周りの人々に支えられ、励まされて、そこに至っている。自分が登るもよし、裏方として人を支えるもよし、どちらもやるのもよし。人間の生きることの意味は、こうしたプロジェクトに自分なりのしかたで参加することにあるのだと、私は考えている。一時帰国まであと10日あまりである。では、よい週末を!
2004/2/24(Tue) <Weather & Climate>
日曜日はプロフェッサーのジョン・エリオットとお出かけ。一日のうちに夏のような日射しがあり、秋のような穏やかな空があり、にわか空がかき曇って、雪があり、霰(あられ)があるという激しい日だった。私が「イギリスの天気を読むのは難しい」と言うと、プロフェッサーは「不可能だ」との答え。イギリス人にとってもイギリスの天気は予測不可能なものらしい。しかし、ラジオのニュースでは毎正時、Weather Forecasts(天気予報)が流れている。
「今日は一日のうちに四季があるような日だ」と言うと、ジョンは「イギリスにあるのはWeatherだけで、Climateはない」というお答え。まさに。日本のような一年を通じて変わりゆくClimate(気候・四季)ではなく、天気のきまぐれでどの季節にも飛んでいくWeather(天気)があるだけなのだ。これで思い出したけれども、昨夏の猛暑の中でも、突然ウインドブレーカーなしにはしのげないほどの寒さがやってきたことがあった。12月に夏のような天気(weather)があれば、7月に冬のような天気(weather)がある。しかし、平均してみれば、12月には冬のような天気の割合が多く、7月は夏らしい天気の割合が多い。これがイギリスの気候(climate)であるようだ。
さて、今日の天気は、Weather Forecastsでは雪と出ている。どうなるのだろうか?
2004/2/22(Sun) <閉ざされてゆく>
土曜日は、一時帰国のときに日本で取得する予定のイギリス滞在ビザについて調べていた。昨年(2003年)の11月13日からイギリスのビザ発行のシステムが大きく変更されたため、これまでは必要がなかった入国ビザの申請をしなくてはならなくなったからである。半年以内の観光であれば、日本のパスポートをもっている場合、これまで通りビザなしで入国できる。しかしながら、半年以上の滞在になると、とても面倒なアプリケーション・フォーム(申請書類)への記入とかなり高いビザ発給手数料の支払いが必要になるようになった。昨年の4月に来たときは、パスポートとこちらの研究機関(UEA=イーストアングリア大学)からのインビテーション(招聘状)を空港の入国審査のときに見せるだけで、12ヶ月滞在のスタンプを押してくれて、すべてが終了だったから、随分と敷居が高くなったことになる。
今回、滞在ビザが新たに必要になった国々をみていると、日本のほか、香港、マレーシア、シンガポール、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、南アフリカ、アメリカ合衆国、韓国である。この国々を列挙すると、大英帝国のかつての植民地、コモンウエルズの国々が並んでいることが一目瞭然である。(例外は日本と韓国、これらは名誉コモンウエルズという位置づけだろうか) つまり、今回のビザ取得システムの変更は、イギリスがこれまでの三つのつながり〜アメリカ合衆国との関係、大英帝国時代のコモンウエルズ諸国との関係、そして現在大きくなりつつあるEUという関係〜の中で、EUとの関係を選び取り、ほかの二つの特別な関係を清算しようとする動きであると読むことができる。
さらに、学術研究者の扶養家族についての条項として、英国の公立学校に通わないことという規定が加わった。かつて稲垣忠彦先生が国外研究中に自らの子どもたちの学習経験も交えて『子どもたちからの学校―イギリスの小学校から』(東大出版会)という著書を出されたのだけれども、このような交流がもはや期待できないということは何とも残念なことである。今回の変更で、イギリスと日本の垣根は明らかに高くなった。日々の生活を通して、人と人との交流が国と国との壁を柔らかいものにしていくという実感を得ている私としては、寂しい限りのことである。
アプリケーション・フォームを埋めながら(この作業でほぼ2日、そして日本で申請書の提出と面接でおそらく2日、東京経済大学からいただいている貴重な国外研究の時間が失われることになる)、「テロリストのグループに入ったことがあるか?」などというあまりにもバカげた質問に呆れている。(テロリストがこんな質問にYesのチェックをするわけなどないだろう) 他者の存在を知らないエリートの人々が、垣根をこえて出会おうと努力してる人々を規制しているのだとしたら、あまりにも情けないことである。私たちはノリッチに住み始めてから、イギリスの人々によって親切やさまざまなケアといった大きな大きなプレゼントを得ている。しかしながら、すでにここに住んで、しかもかなり高い住民税も納めているのに、「外国人は来るな」というような扱いを受けると、イギリス政府には不信感をもってしまう。人々が日々の実践で重ねている徳を、政府が台無しにしているとしたら、何とも残念なことである。これから国と国との垣根が高くなっていきそうな予感に大いなる危機感を感じている。そして、ゆりかごから墓場までと言われていた、イギリスの福祉、そして公共空間が失われていくさまを、残念に思っている。
(*** 以上のイギリス・ビザをめぐる情報については、英国大使館・イギリス外務省などで調べることができます。またこのコラムは、こうした情報を提供することが目的ではないので、イギリス・ビザ情報については上記のサイト、あるいはほかのサイトにお問い合わせ下さい。私にメールをいただいても返事はしかねます)
2004/2/17(Tue) <ペラペラ>
また新しい1週間がやってきた。ふと気がついてみるともう2月も半分以上過ぎている。昨年の4月にイギリスに来てからもう10ヶ月が経過している。1年も外国暮らしをすれば、英語もペラペラになるだろうという相変わらずの楽観的見通しをもってやってきたのだが、現実はそんなに甘くはなく、ペラペラのはじめのペの左半分ぐらいの状態である。結局のところ、イギリスに来て得たものは、日本語が下手になることだけだったのだろうかと悲しく振り返ると、はじめから日本語も下手だったじゃないというつぶやきが聞こえる。
何はともあれ、あと1ヶ月もすると、ほぼ1年ぶりに日本の土を踏むことになる。また4月にはイギリスに戻ってくるのだけれども、1年ぶりの日本からはどんな印象を受けるのだろうか? 楽しみであり、またドキドキである。 今週はあまり書くことがない。天気はほぼ曇りの毎日。ではまた!
2004/2/9(Mon) <誕生会>
2月になって一日一日と日の長さが回復していることが感じられる。週末には自宅の西側の窓から夕陽が差してきた。冬の間は西の窓から日が差すことはなかった。朝起きるのもずいぶん楽になった。立春を過ぎて、たしかに春がcoming soonになってきた。
さて、先週の金曜日、用事があって、久しぶりにランダン(ロンドン)に出かけた。電車が快適なのだが、朝早い便だと往復で68ポンド(約14000円)もするので、コーチ(バス)で出かけた。往復14ポンド(約2800円)也。こちらはずいぶん安い。この安さはおそらく高速道路が無料であるためだろう。高い電車でもこれまでのところ70%ぐらいの確率で遅れるものだから、安いバスだと100%遅れるだろうと覚悟していたところ、行きも帰りも時間通りのピッタンコ。しかも、運転手さんが時間に間に合うように、制限速度30マイルの道を、私の体感60マイルでぶっとばしている。どうもこれはこれまで私が経験してきたイギリスとはまるで違っている。イギリスという国も一筋縄ではいかない、なかなかややこしい国だということがよくわかった。10ヶ月住んで少しはわかったつもりになっていたのだけれども、まだまだわからないことばかりである。異文化というのは奥が深い。
さてさて、ロンドンの地下鉄はほぼ2分おきにやってくる。こちらも故障が多いのだが、順調に走っているときには、電光掲示板にGood Serviceという案内が出る。こうした電光掲示板があることすら、電車が時間通りに走るのは当たり前である日本からすると驚きだが、時間通りに走っているのがGood Serviceというのも愉快である。せめてNormal Serviceだろうと思うのだが、Good Serviceとすまして自称しているところがさすがはイギリスである。このくらいサービスを提供する側がふてぶてしくなることができれば、我慢強い人々が増えることだろう。
今日はスタッフのモーリンの誕生日。大学のスタッフで近くのレストランまで昼食会に出かける。誕生会では、偉大なプロフェッサーであるジョン・エリオットによる、モーリンの業績をたたえる演説があった。原稿3ページにわたる大スピーチに人々は沸いた。残念なことにこの記念すべき大スピーチを私は半分ぐらいしか理解できなかったのだが、モーリンの業績の中に「KENのCAR PARK(駐車場)のFINE(罰金)を帳消しにした」というのが加えられていて、爆笑をさそっていた。あれはまさしく偉大な業績だった。誰にでも適切な気配りのできるモーリンは、まさしくたたえられるべき偉大なスタッフである。こうした人々に包まれて、私は間もなくイギリス生活2年目のシーズンを迎えることになる。ただただ感謝である。
ではよい1週間を!
2004/2/2(Mon) <2月>
2月になった。朝は雨の月曜日だったけれども、さすがは長持ちしないイギリスの天気である。昼前には、まぶしい日射しが南から照りつけている。ずいぶん太陽が高くなったことを感じる。まだまだ寒いけれども、もうすぐ立春。太陽はもう冬と春の中間地点まで戻ってきているのだ。
イラクでは、昨年、アメリカ兵が19人も自ら命を絶ったとのこと。異常である。自ら死を選ばざるを得ないほどの苛酷な状況がそこにあることが推察される。1頭の狂牛病の牛で大騒ぎする私たちが、19人の自死、さらにはもっと多くの戦争の犠牲者のことに無関心でいられるのはなぜだろう。私たちとは“関係ない”からだろうか?
考えてみると、世界中が複雑な糸で絡み合って、ややこしくなっているこの時代、関係あることがあまりにも多くなり過ぎている。関係の過多が“関係ない”という意識を生み出しているのだろうか。田舎者の私が東京に出てきたとき、皆さん配られるチラシを無視してトットと歩く姿に、さすが都会者は違うと感心したものだったが、今はこの意識が津々浦々まで浸透してきているようである。
こういう時代にあって、ほんとうに気が遠くなるような、地道な営みだけれども、関係の糸をほぐしていくため、自分の周りの関係を見つめ直し、お互いにとってのプラスの関係を育てるように努めることが、自分のできることの出発点であるように思う。
何だかこの時代、時代に適応しているだけでは自分が自分でなくなるような気がして、時代をこえて道をひらいていかなくては、自分の存在そのものがむなしくなるように思う。イギリスの教育社会学をリードしてきたアンディー・ハーグリーブズは、知識社会時代の教師の役割を、子どもたちに知識社会の中で生きるスキルを身につけさせるとともに、知識社会をこえる拠点になることだと論じている。使命感(ミッション)は無理な命令を遂行するときに生まれるものではなく、自らの心の芯がより大きな社会的ヴィジョンにつながるときに生まれてくるもの。アメリカ兵19人の自死、年間3万人をこえる日本での自殺、病気休職の半分をこえる教師たちの心の病、こうした問題を個人の問題(=“関係ない”)ではなく、私たちの社会のヴィジョン、人間観の問題として捉え直していきたいのである。
では、よい2月を!
2004/1/27(Tue) <閉じこもり>
人生は(私の人生は)そもそもトラブルに満ちているけれども、外国暮らしはさらにトラブルとプロブレムの連続のようなものであり、無事に1週間が終わるだけで、ふぅと一息つきたくなる気分である。今週のプロブレムは、プジョー206のリコール。これまで全英オープンのサンドイッチやランダン(=ロンドン)・ピカデリーサーカスやらに出かけ、イギリス生活の縁の下の力持ちとして働いてくれた愛車のプジョーくんに、ブレーキが効かなくなるかもしれない不具合があったとのこと。これまで何事もなかったのが幸いだったが、点検しないといけないので、今朝はプジョーの修理工場に出かける。しかし、思った以上にあっさり済んだので、大学でランチタイム・セミナーに出席することができ、幸いだった。
ランチタイム・セミナーは、EUの教師教育・教育実践の質的向上プロジェクトについて。2010年までに知識社会時代の教師、そして子どもたちの学びの質を向上させ、各々の地域の多様性を認めながらも、知識社会時代の職業教育の充実と民主主義社会を支える教養の育成をめざすプロジェクトの話を聞きながら、愛国心と宗教教育をベースとした教育基本法改正などという時代に逆行する道を歩んでいる日本とは、まさに雲泥の差だと、何だか情けなくなってきた。知識社会の時代の到来を前にして、知を否定する改革を行うことは、大きな誤りではないだろうか。地球規模で考え、異質な他者とのコミュニケーションを通してさまざまな問題を解決していかなくてはならない時代に、閉じこもっていて(国民を閉じこめて)一体どうするというのだろうか?
人生は(現実は)トラブルに満ちているので、できれば閉じこもりたくなる。だけど、トラブルとプロブレムを通して学ぶことは限りなく多い。プジョーのリコールのおかげで、また新しい道を一つ覚えることができた。そして、英語でレセプションのスタッフとやりとりし、待ち時間に806・406(ワゴン)・307SWの新車のコックピットに座ることができた。一つの経験が次の経験を導き、いろんな世界がひろがってくる。これがおそらく生きることの楽しみの原型であるにちがいない。
2004/1/24(Sat) <淡々と>
興奮状態で書いた文章というものは、深夜のラブレターのようなもので読み直してみると気恥ずかしいものである。一夜明けてみると、ウエルダンな昨日も、どん底の昨日も、もはや過去のことであり、また次の目標に向かって、淡々と歩いていくしかない。しかし、この淡々と歩いていくことがいかに難しいことであるかを知っているからこそ、淡々と歩いている人の姿を目にすると、沸々と尊敬の念が沸き上がってくるのである。
一昨日の22日は旧暦の正月、街の中華料理店にはドラゴンが飾られ、中国から来た人々は初春の訪れを皆祝っている。1年で最も日が短い時期に、クリスマスの祭りがあり、1年で最も寒い時期に、旧正月の祝いがある。こういう祝祭を生み出した昔の人々の心性は、何かわかるような気がする。淡々と一日の歩みを重ねたいと、願っている。よい週末を!
2004/1/22(Thu) <ウエルダン>
今日は少しはじけさせていただきます。イギリスのセミナーでの発表、ドキドキものでしたね。大丈夫だと口では言いつつ、身体はずいぶんナーバスになっていたのか、昨日から体調がすぐれず、夜にリハーサルをやる予定が早く休んでしまい、今度は眠れずに、朝になって熟睡する始末。発表直前までウロウロと落ち着かずに、トイレにいったり、まったくみっともない次第でありました。
しかし、発表に入るともう「まな板の鯉」でありまして、突撃するしかない。沈滞したムードから入りましたが、貧しい言語力を補うために準備した非言語ツールも大いに駆使して、1時間半の発表時間、時間短しとがんばりました。発表のみならず、ディスカッションも、温かいオーディエンスのおかげで盛り上がり、我ながら100点満点の出来。ここ数日の陰鬱が一気に晴れ渡る思いでありました。
ウエルダン。よくできました。まったくみっともない次第でありますが、自分をほめてあげたい三十ウン歳と二ヶ月のアニバーサリーでした、とさ。(と、ここまで書いたところで、メキシコからの客員研究員のジュディスがやってきて、今日の発表をほめてくれました。ボロボロ(うれし泣き)。)次に向かって、進む元気が出ましたね。がんばりましたよ、日本の皆さん。では、またまた、ボロボロ。
2004/1/21(Wed) <漱石と私>
ニューヨークに寒波が襲来しているというニュースを知ったが、イングランドは穏やかな冬である。サウジアラビアから来た研究者は、外気の寒さと室内の暑さにあまりにも差があるため、身体の調整が大変だと話していたが、日本から来た私にとっては、思ったより穏やかな気候でほっと一安心している。何せ私は、寒さは大の苦手なので(ほかにも苦手なものは多いです。まさしく“坊ちゃん”です。これは今日のテーマの方の作品でもあります)、ありがたいこと、この上ない。さらに1月に入ってから、スゴイ勢いで昼間が拡大してきているので、何だか希望が湧いてくる。コンコンコン(←希望の湧く音)。先ほど、仕事に疲れたので、ノリッチの日の出、日の入りの時間をネットから入手して、1・2月分をペロペロと眺めていた。1月1日に3時50分だった日の入りが、2月28日には5時31分になる。何という幸せ。今、日が長いことより、これから日が長くなることに喜びを感じるタイプの私なので、陰鬱な冬も冬至を過ぎれば結構悪くはないものである。
さて、イギリス、陰鬱といえば、夏目漱石。イギリスで冬を迎えることになり、何だかそわそわと漱石のことに気になりだして、いろいろと調べ始めた。そして、驚きの事実を発見する(私にとってですが)。漱石がはじめての文部省国費留学生としてロンドンに滞在したとき、なんと漱石は今の私よりも若かったのである。当時、すでに漱石は立派な英文学者だったわけであり、私のイメージの中では、どう考えても今の私より年上であるはずだった。ところが1867年生まれの漱石がイギリスに向けて横浜港を発ったのは、1900年の9月8日、そのとき漱石は33歳だったのである。漱石は、留学費の不足と孤独感から神経衰弱に悩まされながらも、2年余りの滞在を全うし、1903年1月20日に長崎港に帰着している。
漱石の時代は、おそらくロンドンも今よりもずっと寒かったのではないかと思いつつ、単身の漱石すら2年滞在したのに、家族同伴の私が1年で帰るわけにはいかないと、妙な負けず心を起こし(この文章はフィクションです。事実とは全く関係ありません)、来年度もまたイギリス暮らしを続けることになりました(この文章はほんとうです)。多くの方はすでにご存じだったかと思いますが、Web上では未発表でしたので、漱石の力を借りて、公表することにいたしました。1年ですらヨレヨレの私のイギリス暮らしがこのあともう1年となってどうなることやら・・・と、弱音を吐きたいところですが、まさに自分で決めたことですし、私のわがままで、職場の同僚、学生、そして家族には多大なしわ寄せをかけるわけですので、にこやかに、そしてつつましく、2年目に突入したいと思っています。
イギリスで暮らしていると、これまで多くの先達によって培われた友好関係が、私たちの生活を支えていることを日々実感します。「東京オリンピックのとき、京王線の布田に住む日本人家庭のホームステイさせてもらったよ」とか、「スバルのインプレッサ、最高」とか、「京都の会席料理がおいしかった」とか、いろいろ話を聞きます。友好関係は相互理解を生み出し、相互理解は他者への尊重を生み出します。こうした芽を育てていく道に進むのか、芽をつぶしていく道に進むのか、今、世界は岐路に立っているように思われます。では、よい一週間を!
2004/1/16(Fri) <新年セミナー>
クリスマス、新年と一時休止になっていたセミナーが再び始まった。セミナーに出ていないと、英語力、研究力が一気に減退するので、ほんとうに学び合うということは大事なことだと思う。新年になり、なぜかメンバーが大幅に入れ替わり、ちょっとした緊張感の中で、スタート。発表のテーマは、ポストコロニアリズム(ポスト植民地主義)について。まさしく旧大英帝国植民地から大勢の研究者が揃うこのUEAの状況こそが、ポストコロニアルそのものであるわけで、大いに白熱した議論が沸き上がった。
しかしながら、いつもながら複雑な気分になるのは、コロナイズド(植民地化)された地域の人々がポストコロニアリズムの問題を認識することが難しく、コロナイズした側の人々がこの問題をより認識し、言語化するのにすぐれているということである。今日も、ガーナからの大学院生が「植民地主義の何が悪い。イギリスからコンピュータやらさまざまなものが援助され、私たちの環境はよくなったではないか。大多数は喜んでいる。私にはその理論は理解できない」と息巻いていて、アイルランドの研究者が「グローバリゼーションの中でみんなが欧米のほうを向かなくてはならないようになっているのであり、大多数が本心から喜んでいるとは思えない。植民地以前のあなたの国はどうだったのか」と問い返したところ、ガーナの彼は「人々が殺し合っていた」とのことで、みんなドッと笑ってしまった。
アイルランドの研究者は、アイルランドという西欧の国でありながら、イングランドの植民地でもあるという二重の性格をもつ国を背景にしている上に、彼女が極めて反省的(reflective)な能力をもっているということもあり、主体的に自ら植民地化されていくプロセスについて丁寧に説明をしていたのだが、どうしてもガーナの彼には伝わらなかった。イギリスから贈られたコンピュータとガーナの普通の人々の暮らしの間にどのような関係があるのか。ガーナの彼がイギリスに教育学を学びに来るということはどういう意味があるのか。もちろん、私についても同じことだ。考えていくと、底なし沼にはまっていくような大きな問題がぱっくりと口をあけている。
世界はグローバリゼーションの中、産業社会を超えて、知識社会に突入している。知識社会とは、情報や知識を操ることができる人間がヘゲモニー(覇権)を得る社会のことである。イギリス、とりわけイングランド東南部は、ものすごく豊かな地域である。この豊かさとは、お金の面だけではなく、人々の暮らし、仕事のペース、休暇といったさまざまな面において、あらわれている。世界経済システム論の提唱者であるウオーラーステインの著書の翻訳者でもある川北稔氏らによるテキスト『イギリスの歴史』(有斐閣)には、イングランド東南部が、ロンドンのシティを中心とする金融資本とサービス業によってイギリス国内での優位を確立したことが記されている。マンチェスターやリヴァプールが製造業によって栄えたのと対照的である。
知識社会において、ポストコロニアリズムの言説さえも、パワー(権力)を生み出し、消費される一方で、ほんとうにこれらを必要とする人たちにとっては、理解しなければならないノルマ・義務というかたちでしか、この知識は立ち現れないのである。人々をエンパワーメントする(力づける)ための知識が、人々を序列化し、無力化するものとして機能している。大きな問題である。今、ガーナの彼は元気である。しかし、おそらく反省的な能力をこちらで身につけてしまったら、元気をなくしてしまうだろう。しかし、ただ今のように元気であっても、自他をエンパワーメントする知識には辿り着けないだろうし、彼を取り巻くジレンマを考えると、苦しい気持ちになる。
討論を生き生きと楽しむこちらの研究者たち、そして当てられませんようにと座っている(笑)私。こうしたところにもポストコロニアリズムが根深く宿っているのだろう(笑)。いよいよ来週は、私のセミナー発表である。ドキドキだけれども、研究内容においても、発表のプロセスにおいても、ポストコロニアリズムとの格闘の実践が、何だか楽しみである。
2004/1/13(Tue) <フットボール>
日本では応援している国見高校が全国選手権を制覇したとのこと、嬉しい限りである。ほんとうは天皇杯で横浜マリノスをあわやというところまで追いつめた市立船橋高校との決勝戦を楽しみにしていたのだが、何はともあれ、優勝候補できちんと優勝をなしとげた国見高校は見事である。一度、選手権の決勝戦を直に観戦したことがあるのだが、日本の高校生のサッカーはほんとうに上手いのである。個人技もあり、戦術もスペクタクルで、そのレベルの高さに大いに感動して、国立競技場をあとにした記憶がある。あのままのペースで、大人になっても伸びていったら、日本サッカー界にもロナウドやジダンが生まれるのだろうが、そうはなかなかいかないところに難しさがある。
ところで、フットボールといえば、イギリス。イギリスといえば、フットボール。フットボールはイギリスでは大人気のスポーツである。イングランド最高峰のプレミア・リーグの下には、ディピジョン1から3までのリーグがある。多くの市や町がチームをもっている。そして、プロだけではなく、公園のグランドでユニフォームを着てプレーをしているアマチュアの選手たちがまたなかなか上手いのである。近くのピッチ&パットでゴルフをしている人々を眺めていると、ゴルフはあまり上手くないのだが、ゴルフボールをひょひょいのひょいと上手にリフティング(蹴まりのようなもの)している。ああいう姿をみると、ここに住む人たちにフットボールはほんとうに根づいているのだなあと思う。
というわけで、こんなにフットボール好きな人が多く、こんなにフットボールが上手い国で、プレミアリーグの選手として活躍し、マンチェスター・ユナイテッドから得点を挙げたりしているイナモト選手って、ほんとうにスゴイのだと思う。さて、実はここまでは前置きで、これからが本題なのだが、私が住んでいるノリッチにも、ちゃんとプロのフットボール・チームがある。ノリッチ・シティという名前のチームである。ブラジルのユニホームそっくりの黄色いユニホームを着ているので、カナリア軍団と呼ばれている。そして、私が住んでいるところのすぐ近くにスタジアムがあり、試合の日になると、人々が大挙して押し寄せている。
このノリッチ・シティは、現在ディビジョン1に所属している。日本でいえばJ2である。そして、おそらく皆さんもご存じではないように、有名なチームでもない。ところが、スタジアムも近くだし、一回様子を見てこようと、これまで何度かチケット売場に出かけたのだが、今まですべて満席で一度もチケットがとれたことはない。最近、ノリッチ・シティはどうなったかとふと思い、ネットでディピジョン1の星取り表をみたところ、何とディビジョン1のトーナメント・リーダーに躍り出ていた。まだまだ長いリーグ戦だけれども、4位以内に入ると、プレミア入りだから、大いに期待がもてるということになる。ところで、先週の土曜日、スタジアムで試合があり、スタジアムからは幾多の歓声が聞こえてきた。そして、帰路に着く人々の様子を眺めていると、みんなご機嫌の様子である。これは今日も勝ったに違いないと思い、私もそわそわとネットにアクセスすると、見事に0対1で負けたと出ている。
スタジアムから帰る人々は、いつもニコニコご機嫌である。人々の様子から勝ち負けが分かったためしはない。そして、トーナメント・リーダーのときも、はじめのころディビジョン1で低迷していたときも、スタジアムは変わらずに満員だった。これがほんとうのフットボール好きの国なのだと思った。自分の町にチームがある。これだけでいいじゃないか。国見高校は私の故郷から有明海をはさんで対岸の国見町にある。1回戦で負けたって、黄色と青のストライプのユニホームを着たいがぐり頭の選手たちがボールに向かって突進していれば、それでもう十分じゃないか。人生はまだまだこれからなのである。
2004/1/10(Sat) <国際社会>
イギリスにやってきて9ヶ月が過ぎた。今日はヘアーカッターのスチュワートのところに出かけた。お客で賑わっていて、楽しみにしていた紅茶は出てこなかったのだけれども、相変わらず丁寧な仕事で、感心した。ところが、「12月に車を運転してロンドンのピカデリーサーカスまで出かけた」という話をしたところ、「ピカデリーサーカス」どころか「ロンドン」さえも通じない。9ヶ月の滞在の成果がこれではあまりにも情けない話だが、日本語で表記すると「ロンドン」ではなく、むしろ「ランダン」と軽やかに発音するほうがLondonのイギリス発音にずっと近いようである。考えてみると、こちらのラジオで流れているロマンティックなCMでも女性が「今どこにいるの?」と問いかけると、男性が「ランダン」と甘い声でささやいている。「ランダン」と軽やかに発音できるようになるまでは、デートのお誘いも難しいようだ。
ところで、こちらに来てからもYahoo!等で日本のニュースを時々見ている。なので、残念ながら不接続状態とは言えず、SMAPが紅白で大トリを務めたとか、曙がボブ・サップには負けたけれども、紅白には勝ったとか、くだらない(いえ、いえ、くだらないなんて滅相もない、立派なニュースです、どれも、はい)話を知っているのだけれども、最近気になっているのが「円高」というニュースである。たしかに1ドル106円という為替相場は、アメリカへの輸出でなりたっている企業にとっては「円高」といえるだろう。しかしながら、イギリスに住む者にとって「円高」というニュースには大いに違和感がある。というのは、しばらく前まで1ポンド180円まで上昇していたレートが、現在、1ポンド196円と、こちらでは急激な「円安」が進行しているからである。また、1ユーロも136円と空前の「円安ユーロ高」が続いている。
2002年の夏、ヨーロッパに行くために、外貨を準備したとき、1ユーロは117円、そして1ドルは120円という水準だった。このときから考えると、わずか1年半の間に、対ユーロでは16%の円の価値下落、対ドルでは12%の円の価値上昇が起こっている。ユーロとドルで比較すると、1年半前に1ユーロ=0.975ドルだったものが、現在は1ユーロ=1.274ドルで、約30%のユーロ高・ドル安である。
つまり、少なくとも日米欧まで射程に入れるならば、現在生じていることは、ユーロ高・ドル安であり、円は全くもって高くなっていないのである。このような事態が起こっているにもかかわらず、ニュースで、何のためらいもなく「円高」ということばが使われるのは、アメリカのみを海外と考え、アメリカとの関係のみを国際と当たり前のように考えていることのあらわれのように思われるのである。
国際の内実をひろげていかないと、アメリカとの関係が行き詰まったときに、いきなり反国際(=国粋主義)に陥りはしないかと心配である。アメリカとの関係も大切な国際関係の一つだけれども、イスラムとの関係もまたこれからより大きな比重を占めてくるだろう。近いアジアはもちろんのこと、まとまりゆくヨーロッパとの関係も。ほぼ60年間の平和が築いた有形無形の資産を、偏った国際観によって手放すのは、子孫に申し開きができないことのように思うのである。
2004/1/6(Tue) <ようこそ2004>
2004年が幕を開けた。私にとっては生まれてはじめて異国で迎える新年。昨年の4月にイギリスにやってきて、ほぼ9ヶ月。ずっと日本人と日本語で話をしないぞと意気込んでいたのだが、今日、大学内で日本語のロゴの入った段ボールを2つ、重そうに抱え上げようとしている人に、思わず「手伝いましょうか?」という声が出た。Can I help you? ではなく。
あちらは驚いた顔で「大丈夫です」と言葉を返し、私は「大丈夫?」と念を押して、立ち去った。9ヶ月が経ち、肩の力が上手に抜けてきたのかもしれない。
冬至を過ぎて、ほんの少しずつだけなのだけれども、夕暮れが遅くなってきている。日の出は8時過ぎ、日の入りは3時半過ぎというのが最も日中が短いときの時刻だった。これから夏至に向けて、日の入りは6時間近く伸びていく。明けない夜はないし、暮れない日もない。終わらない夏もないし、春の来ない冬もない。これからは、一日一日、日が伸びていくのが楽しみである。
今年はどんな年になるのだろうか? どんな年になろうとも、あせらずたゆまず生きていきたいものである。こんな時代からこそ。よい1年を!