Daily
たまのさんぽみち
2003/12/30(Tue) <さよなら2003>
いよいよ2003年もあとわずかになった。暮れも押し迫ってイランの大地震という大きな災害のニュースが入ってきた。そして、富める国での狂牛病。私たちの周りには、まだまだ人類の知恵と尽力によって立ち向かわなくてはならない問題がたくさんある。イラクに軍隊を送ることを断念し、イランに救援を送ることが、私たちの未来にともしびを灯すことになるのではないだろうか(日本からイランへの救援の人々が到着したというニュースがあった)。イギリスで私の周りの人々がそのように考えているように、日本でもおそらく多くの人が同じように考えていることだと思う。
今、世界では、一番富める国が貧しい国々を攻撃し、混乱に陥れている。そして、戦争特需のため、テロ不況に沈んでいた一番富める国の航空機業界は大きな利益を上げている。人の生き血を吸って繁栄するおぞましい社会がそこに見え隠れする。悲しいことに、今回の一連の動きには、共存を探る努力すらどこにも見ることができない。
イギリスに来て、ムスリムの人々と出会う機会が多くなったが、少なくとも私が出会った人々は、その多くが親しみがもてる人々だった。私には、外国の人々と出会って、親しくなったり、ケンカしたりした経験が少々ある。先進国だけではなく、東南アジアの諸国でも人々に出会ったし、大学内だけではなく、街角でも出会ってきた(過去のDaily たまのさんぽみちのベトナム・カンボジア紀行を参考のこと)。その結果、どこの国の人々にも、イヤな奴もいれば、とびきりいい人もいるという、とてもシンプルな回答を得ている。そして、イヤな奴だと思っていた人とも、よくよくつき合ってみるとなかなかいい人だったりして、自分の人をみる目の浅さに恥じ入ることが何度もあった。もちろん、やっぱりイヤな奴だと思うこともあった。(こんな場合、相手からも同じように思われているのでしょうが) いずれにせよ、相手とコミュニケーションをはかり、共存を探る努力をしてみてはじめて、相手をみる見方が深まっていった。あるときは、相手とコミュニケーションするだけでは不十分で、相手のバックグラウンドである歴史を知ってはじめて、何かがわかったこともある。
恥ずかしながら、自分のものさしで人を測って、あとでそのものさし自体が歪んでいることに気づき、恥じ入ることもしばしばだった。これは外国人に限ったことではなく、身近な人々や大学の学生に対しても何度もあった。このように間違いが多く、頼りない私であるから、自分のものさしで一番富める国を断罪することは到底言えるわけもなく(といいつつ、やっぱり間違いの多い私は何度も言ってきたような気もしますが(苦笑))、おそらく私のものさしのはるか及ばない深い次元で、一番富める国は中東の平和と人々の幸せを願っているのだろうと信じたいと思っている。同じように、日出る国の首相がわざわざ同国人を英霊に仕立て上げるためや、派兵の既成事実を作り“実用的な”軍隊を準備するためや、あるいは内政の矛盾を外に向けるために、イラク派兵を急いでいるのだろうとは到底言えるわけもなく、おそらく私のものさしをはるかに超えた高い次元で、世界の平和に貢献したいと願っているのだろうと信じたいと思っている。
信じたいと思っているのだけれども、一つだけ疑問に思うことがある。なぜ一番富める国も、日出る国の首相も、自分のロジックとは違う他者とコミュニケーションをしようとしないのかということである。私の経験では、他者とコミュニケーションをしないことには、自分のものさしをチェックすることは決してできなかった。自己と他者を二者択一のどちらかの答えに無理矢理収斂させることではなく、問いそのものを組み替えることがコミュニケーションの目的なのだということを他者とstruggleすることを通して知った。しかし、今、世界ではコミュニケーション、ディスカッション、他者の話を聴くことが不在のまま、他者不信と暴力の応酬が渦を巻いている。人類はコミュニケーションの能力を授かったのに、それを用いることもなく、泥沼で餓鬼のようにstruggleしていることが、残念でたまらない。
私にとって、2003年はイギリスで世界各地の研究者たちとともに学ぶことができ、今まで以上に数多くのコミュニケーションを重ねることができた実り多い年だったけれども、これに反比例するかのように、世界のコミュニケーションが貧しくなり、硬直化してきているようで心が痛むことも多い年だった。2004年はアテネのオリンピックもある。コミュニケーションでもう一度人の輪を作りたい。言い古されてきたけれども、「1人はみんなのため みんなは1人のため」はすばらしいセリフだ。大量殺戮兵器の力よりも、カメルーン代表をまちつづけ、日本列島に感動を呼び起こした中津江村の人々が示してくれた、素朴なコミュニケーションの力を信じたい。おそらく今年最後のコラム。今年もおつき合いありがとうございました。では、皆さん、よいお年を!
2003/12/23(Tue) <ホワイト・クリスマス>
クリスマスを目前にして、外は牡丹雪が舞っている。イギリスに来てはじめての雪である。雪の中、食糧品を買いに近くのスーパーに出かける。雪の中、子どもたちははしゃいでおり、大人にも、近くの川で吹雪の中、釣りをしている人もいる。ほんとうにいつも感心するのだが、イギリスの人々は寒さと雨風に強い。
さて、寒さにも風雨にももちろん弱い私は、スーパーまで往復しただけで冬山を縦走した気分。暖かい部屋で身体を温めてホッと一息ついている。屋根に積もった雪も眺めながらの、ちょっとだけのホワイト・クリスマス。皆さまもどうぞよいクリスマスをお迎え下さい! 戦場にいる人も、平和の中にいる人も、苦しみの中にいる人も、喜びの中にいる人も、お互いへの想像力を育みながら。
2003/12/19(Fri) <クリスマス前>
12月も後半に入り、街はクリスマスの雰囲気に包まれている。ノリッチのシティ・センターでも市庁舎が三つのイルミネーションでライトアップされて、夢のような世界である。さすがはキリスト教の長い伝統のある地域ならではと思うところだが、このようにクリスマスで街中が飾り立てられるようになったのは、ここ数年のことらしい。「伝統」ということばには何かしら人々を納得させるものがある。だが、たかだが数年間の「伝統」もそこら中に転がっている。「伝統」ということばにも注意して向き合わなくてはならないようである。
さて、イラクでフセイン大統領が生け捕りにされたらしい。アメリカではブッシュ大統領への支持率が何ポイントか上がったとか、日本では自衛隊派遣への追い風になると捉えているとか、ブッシュ大統領から小泉首相への連絡はなかったとか、さまざまなニュースが目に入ってくる。しかしながら、フセイン大統領が捕まったにしろ、開戦の理由だった大量殺戮兵器はイラクのどこからも見つかっておらず(アメリカ国内にはそこら中に配置されているはずだが)、アメリカの侵略を正当化できるものはどこにもない。もちろん、たとえ大量殺戮兵器がイラク国内で見つかったとしても、侵略戦争は正当化できない。もしこれが正当化できるのであれば、世界一の大量殺戮兵器保持国が攻撃を受けた9・11ニューヨーク・テロもまた正当化される。ニューヨーク・テロを正当化できない私たちとしては、アメリカの侵略も正当化することはできない。これはあまりにも分かりきったことであり、だからこそ、世界中の多くの人々が反戦運動に参加したのである。
しかし、世界はもう2003・3に戻ることはできない。歴史の歯車は、片方にしか回らないのだから。これからはただ、強い者は何をしてもよいという「伝統」をどうやったら断ち切ることができるのか、を考えるしかない。
イギリスは穏やかな冬空である。日本の秋の空のように雲が高い。では、よいクリスマスを!
2003/12/10(Wed) <マルタ島の砂>
霧に包まれている。イギリスらしい天気。それでも底冷えがするというほどではなく、暖かい。異例の暖冬ということで、私はとても助かっているが、エリトリアからやってきたテクラブの家族たちは、イギリスの寒さに参っているとのこと。暖冬とはいってもさすがにアフリカとイギリスでは大違いである。
さて、私はUEAのCARE(イーストアングリア大学の教育研究所)のアカデミック・ビジターの中ではかなり長く滞在しているほうであり(そのわりに英語ができないのは悲しいことですが)、多くの国のアカデミック・ビジターは数ヶ月で去っていく。というわけで、ルームメイトがしょっちゅう変わり、その都度、新しい環境が居ながらにして準備される。しばらく前までは、研究室にスパニッシュの香りが漂っていたのだが、彼女らが去って、次にやってきたのはマルタ島からのポールだった。何はともあれ地中海のムードはいまだに続いているということになる。さて、このポールは日本に来たこともあるというので、私もマルタ島についてちょっと調べてみようと思っていたら、日本史の図表の中に「日本艦隊地中海出動1917.2」というものを発見した。第一次世界大戦で、日本軍は当時の英領マルタ島に艦隊を派遣していたのである。マルタ島には、59名の日本兵士の戦没者の碑もあるとのこと。
日清戦争から第二次世界大戦までの日本は、世界中に戦争による痕跡を残してきた。第二次世界大戦から現在までの日本は、世界中に自動車や電気製品、経済協力、さらに人々のつながりという痕跡を残してきた。そして今、再び戦争による痕跡を残す曲がり角を曲がり、いつの日かそれがブーメランのように跳ね返ってくるのをただ座して待たなくてはならないのか。どこまで道理が通らない道を突き進んでいくのだろう。冬至も近い。
2003/12/8(Mon) <メメント・モリ>
12月8日、真珠湾攻撃、日本の開戦記念日。鬼畜米英という勇ましさが数多くの日本人、そしてアジアの人々、欧米の人々を死に追いやることになった日。英国に暮らしていると、英国人は鬼でもなく、私たちと同じただの人間であることがよくわかる。これは英国人だけではなく、どこの人間も同じことだ。痛いことは痛く、苦しいことは苦しく、悲しいことは悲しい。いろんな地域、国から来ている人たちと出会ってわかったことは、根っこの部分では、人間は同じだということだ。
アメリカ軍がアフガニスタンの機銃掃射でボール遊びをしていた9人の子どもたちを殺戮したというニュースが流れている。幼いいのちを断ち切られた子どもの痛み、そしてこれからもずっと続くであろう親の痛みは、どこの国でも、どこの社会でも同じことだ。そして9人の罪のない子どもたちを殺戮し、その家族を不幸のどん底に陥れたという業は、もしこのことをきちんと向き合うならば、心ある人間が耐えうる重さではないということも。
イギリスのニュースでは、日本が第二次世界大戦以来、はじめて、大規模な軍隊を海外に派遣しようとしているという報道がなされている。治安は乱れ、反英米意識も高まっているイラクは全土が戦場であり、テロリストの格好の活躍の場所である。今回のアメリカの戦争は、これまでの動乱を収めるための戦争という大義名分を根底から覆し、戦争こそが戦場を生み出すのだということを世界中に示してくれた点において、画期的なものであった。戦争が戦場を生み出し、戦場がテロリストに栄養を与えている。こんな場に勇ましく出て行ってはいけない。
勇ましい連中は、往々にして自分のしでかしたことの後始末さえできない。こんなことは人生を生きていれば、自明のことではないか。自分自身を省みても、自分の勇ましさでどんなに多くの人々に迷惑をかけてきたことか。勇ましくなくてもよい。慎ましさこそが自己、そして他者との豊饒な関係を育てるのではないか。メメント・モリ 死を忘れるな。そうでなければ、これまで無為に死んでいった人々の死が、それこそ無意味になる。
今朝は、冷え込んで、車のフロントガラスがびっしりと凍っていた。クリスマスも近い。ようやく冬の訪れである。
2003/12/2(Tue) <12月>
あっという間に12月である。悲しい戦争の最中にイギリスに渡ってからもう8ヶ月。戦争は終結したというけれども、アメリカ軍の死者は11月が最も多かったとのこと。テロとの闘いだと勇ましいけれども、イラクに住む人たちにとっては、国土を蹂躙した米英軍とその同盟者たちもまた、テロリストと何の違いがあることだろうか。すべきではなかった戦争のために、日本のまだ若い人々が亡くなり、国内では大騒ぎになっていることだろう。この痛みが、戦争への荷担につながるのではなく、戦争の張本人と一線を画すことにつながっていかなくては、何にもならない。自衛隊はイラクに行ってはいけない。池澤夏樹さんがメーリングリストの中でいみじくも言っていたけれども、若い人々が殺される危険もさることながら、戦後58年間、職務で人を殺すことを認めなかったことを、私たちは誇りとすべきである。この歯止めは何としても守らなくてはならない。戦争の張本人に無理強いされても、あなたの国のデモクラシーから学んだ憲法があるからできません。ただそれだけのことだ。残念ながら、世界の明日を左右する立場にいるその人は、本嫌いらしいので、おそらく58年前のことなど頭の片隅にもないのだろうけれども。
昨年の秋、池澤さんはイラクを訪ねて、本を緊急出版した。そして、アメリカがイラクを攻撃する理由はどこにもないという結論に至り、もしアメリカがイラクを攻撃したら、イラクの人々は必ず今より不幸になるだろうと予言した。1年が経ち、事態は、池澤さんの警告の通りに推移している。「圧制から解放されたはず」のイラクでは、開戦の理由であった大量破壊兵器はどこにも見つからず、「解放軍」であるはずの米英軍は住民の不信を受け、「戦争終結」のあとにより多くの死者が出て、外国から割り込んできた人々も、もとからそこに住む人々も明らかに不幸になっている。イスタンブールでは、イギリス領事館とHSBC銀行がテロの標的となり、多くの人々が犠牲になった。私事だが、HSBC銀行は、イギリスでの私のメインバンクであり、私が出会ったスタッフの人々はみな親切で、何度も助けられ、温かい気持ちをもらっていた。米英軍がイラク侵攻しなければ、HSBCの人々も犠牲になることはなかっただろうと思うと、やるせない気持ちになる。
2001年に21世紀が始まったとき、戦争の世紀であった20世紀を過去のものとして、次は、暴力をにくみ、さまざまな人類と地球の課題に、人類の知恵を結集する新しい世紀にしたいという願いを、多くの人々がもっていたと思う。しかし、暴力の応酬、しかも、圧倒的に優勢なマンモス国家と、絶望的な憎悪をもつテロリストたちとの非対称な闘い、が新しい世紀の幕開けだった。だけど、まだリスタートすることはできる。もう取り返しのつかないこともある。それでも、これ以上進んで、さらに取り返しのつかないことにはしないという勇気が必要だ。2004年からのリスタート。いや、2003年12月からのリスタート。いつからだってやり直すことはできる。突き進むのは勇気のように見えて誰だってできることだ。見直し、やり直すことがほんとうの勇気なのだと、私は思う。イギリスの冬の太陽は、昼でも夕日のように低い。
2003/11/25(Tue) <チューニング>
日本からのメールによると、南極での皆既日食がテレビ中継されたとのこと。南極でみる日食はどんなにかすばらしいことだろうか。さて、こちらは毎日が日食のようなもので、夏の間あれほどお目にかかったお日様はどこへ行ってしまったのか、ずっと曇りの天気が続いていた。しかし、昨日、久しぶりに青空が広がった。久しぶりの日射しは、何ともうれしいものである。
さて、今日は悪夢にうなされて朝から頭痛がする。その悪夢とは、コンサートでギターを弾きながら歌うことになっていたのだが、ギターをジャランとならしたところ、全くチューニングが合っていなかったというものだった。ああ、悪夢。それから、観客に平謝りでチューニングをして、歌い始めようとしたら、今度は声がかすれて出ない。冷や汗たらたら、でありました。
朝起きてみたら、ほんとうに喉が痛かったので、夢の原因は、いつもより温度を上げたままにしていた暖房にあったようだが、何はともあれ準備不足は夢の中でさえも身体に悪い。講義も、セミナーも、コンサートも、事前にしっかりチューニングをして、リハーサルをした上で臨みましょう、という警告だったのかも。では、皆さん、いい夢を!
2003/11/21(Fri) <晩秋>
もう晩秋というのに、ノリッチは暖かい。下着を合わせて3枚で十分。セーターを着るともう汗ばんでしまう。これもまた異常気象の一つのようであり、今年は特別に暖かいと、こちらのティーチャー・トレーナーが話してくれた。しかし、天気はずっと曇っている。真っ青に晴れわたり暖かいように思える空の下、その実肌寒かったり、いかにも寒そうな曇天の下、思いのほか暖かかったり、まだまだ視覚と体感温度が一致しない。そのくらい、日本とは気候が違うのだろう。今は、いかにも冬空の灰色の雲の下で、暖かい秋を過ごしている。それでも、しばらく前から日没は3時台になり、ずいぶん夕方が早くなった。
今日もセミナー。今週もまた人々のコメントに感心することしきりである。今週は先週出されていた宿題をうっかり忘れていて、準備なしでセミナーへ。コーディネーターのアンナがやさしいので、発言を求められることもなく、助かったが、一番英語のできない私が一番不勉強では話にならない。戦争で家族と離れ離れになり、それを案じて研究どころではないはずのエリトリアのテクラブがしっかりとメモを準備して、出席しているのを見て、ただただ我が身を恥じるばかりだった。
来週のセミナーは、私のスーパーヴァーザーのアイヴァーのプレゼンテーションである。次こそ、ポジティブなコメンテーターの末席に加わりたいものである。日本は三連休とのこと、よい週末を!
2003/11/14(Fri) <コメント>
こちらは木曜日の昼3時を過ぎたところ。朝は雲一つない青空だったけれども、今は厚い雲に覆われている。天気のせいか、もう夕暮れという雰囲気。しかし、気温は思ったほど寒くなく、日本の晩秋よりあるいは暖かいぐらい。紅葉の葉っぱも、かなり粘り強く残っている。9月にもう紅葉は始まっていたのだが、今も黄色い葉っぱが残っている木々もある。サハリンと同じ緯度とは思えないような気候である。
今日はセミナーが3つ。人々のコメントを聴きながら、感心することしきり。ポジティブで、発展を促すコメント。コメンテーターの身体も柔らかい。リラックスできている。子どものように柔らかい。
週末から11月も後半に入る。相変わらず遅々とした歩みながらも、病気もせずにここまで来ることができたことに感謝。では、よい週末を!
2003/11/11(Tue) <さらばシルビア>
穏やかな天気が先週の金曜日まで続いたあと、重い曇天が続いている。イギリスらしからぬ持続的な天気である。しかし、今にも雨が降りそうな空模様にもかかわらず、雨が降らずにもちこたえているところは、さすがは辛抱強いイギリスである。もちろん、イギリスの天気とイギリスの人々を、自己流につなげて好き勝手なことを言っているだけである。どんな天気であれ、イギリス人は我慢強いという結論に到達する。何はともあれ、天気の話は、重い筆をスタートさせる点火装置として最適である。学術論文も「この論文を執筆したのは、雪に閉ざされた北国のコタツの中だった・・・」とか、「私はこの論文を、海辺の別荘で、コバルトブルーの海とそこでたわむれる若いカップルたちを眺めながら、自分もその輪に加わりたいという誘惑とたたかいながら、書き上げたのであった・・・」というふうに始まると、楽しいのだけれども。
それはさておき、今日はルームメイトのスパニッシュ・レディ、シルビアの送別会である。短い時間だったが、スパニッシュのシルビア、そしてラリーとは気が合って、イギリスの陰鬱な天気の下、楽しい時間を過ごすことができた。私の性格からか、こちらに来てから、スパニッシュ、イタリアンといったラテン系の人々とは、よく気が合っている(と、自分では思っている)のだが、出会いがあれば別れがもれなくついてくる。これまでスパニッシュと研究室でラテン音楽を楽しんだりして、つらく苦しい?研究生活の一時のオアシスのような日々を過ごしてきたのだが、冬を目前にして、スパニッシュ・レディーズが「Adios(アディオス)!=さよなら!」と去っていくと、これからまたさらにイギリス生活の陰鬱度が増してくる。
社会科学の世界では、イギリスの経験論、ドイツの観念論と言われるけれども、考えてみると学問は陰鬱な気候とともに立ち上がってきたようである。陰鬱な季節を生き抜くことで、果たして私の中にも学問らしきものが立ち上がってくるのだろうか? ところで、送別会の食事は、これまでイギリスで食べた外食の中で最もおいしいものだった。パリの一流レストランに匹敵するぐらいの味である(行ったことはありませんが)。イギリスの田舎の村に、予想だにしない、おいしいレストランがある。学問もまたこのようなものかもしれない。注意深く、身近なところに目を凝らし、耳を澄ましてみると、何か大切なものが見えてきたり、聞こえてきたりするかも。
では、よい1週間を!
2003/11/6(Thu) <鬼ごっこ>
「11月になって、天気は荒れてきた」と書いた途端に、4日の火曜日は暖かく穏やかな一日だった。長袖シャツで外を歩くと汗ばむほどの季節はずれの陽気。これから3、4日間は暖かい日々が続くらしい。よくわからない天気である。
ところで、最近、私は、自分の遠近感に問題があることに気づいた。例えば、地図を見てから、目的地に行こうとすると、ほんとうはまだまだ目的地まで距離があるのに行き過ぎてしまったのではないかと思ってしまったり、この辺りまで飛んだはずだとゴルフのボールを探していると、ずっと手前のところに転がっていたり、どうもひどいのである。
この遠近感のなさは、私自身の知覚と身体と外の世界とが微妙に(かなり)ズレていることに起因しているように思われる。もちろん、知覚と身体と外の世界が一致するということはあり得ないわけで、そこに到達点を設定することは意味がないのだが、自分のズレにもっと意識的になったほうがいいと、思った。こうしたズレを自分に教えてくれるものは、夢中になって取り組むことができるさまざまな遊びであり、人は遊びがなければ、ズレの存在にすら気づかずに、ただ行き詰まっていくのだろうと、また思った。
<遊び>が<勉強>と対置される学び観は、ある意味では、絶望的なくらい、貧しいものであると、<遊び>の達人でもあるジョン・エリオットのことを思いながら、考えている。
と、ここまで書き終わって、一息つきに階下に出たところ、うら若き乙女たち(女子学生のことです)が鬼ごっこをしていているのに遭遇して、何ともまあびっくり。きゃあきゃあと騒いでいるわけでもなく、楽しそうに、そしてまた真剣に鬼ごっこをしている。私はただただイギリスの人々の底力を感じた。大学で真剣に鬼ごっこができれば、きっと拒食症も減るだろうに。いえ、学生ではなく、教員こそ、「教育改革」の今こそ、鬼ごっこかもしれませんが。
2003/11/4(Tue) <11月>
11月になって、天気は荒れてきた。小さな嵐のような雨と風。それでも1日続くことはなく、夕方になると何事もなかったかのように晴れ間がのぞいたりする。すると、雨後のタケノコのように、人々が外に出てくる。こちらの人々は我慢強いのだけれども、それは雨も長続きはしないということを経験で知っているからではないだろうか。
日本の人々も我慢強い。しかし、それは雨は降り止まないという諦念から来ているように思う。今は、あきらめを仕方がないものとさせるような厚く重い雲が社会全体にたちこめているようでもあるけれども、その雲の向こうにはたしかな一筋の光があると、私は感じている。
新しい月が始まる。
2003/10/31(Fri) <6万カウント突破>
今日もぐずついた天気。10月もこれで終わり、いよいよ明日からは11月である。早いものでこちらに来てもう7ヶ月も経ったことになる。
そして、ついに6万カウントを突破! 糸井重里さんの「ほぼ日」にははるかに及びませんが、かなりうれしいかも! ありがとうございます。 ヽ(^o^)ノ ドーモドーモ
週末は、日本から大学の同僚の先生が訪ねてくる予定。プレミア・リーグへの移籍交渉、あるいはFA宣言、そしてメジャー・リーグ移籍のひきとめ工作かしらとドキドキしますが、もちろん、これは妄想でありまして、「もう日本の大学に戻っても、おまえの研究室はないぞ」という通知をもってくるのかもしれません。やっぱりドキドキ。
6万カウントを突破して、しばし白昼夢にひたっておりますが、この辺りでまた現実に戻って、つたない自分と向き合わなくてはなりません。では、よい週末をお過ごし下さい。
2003/10/29(Wed) <6万カウント間近>
朝から雨の水曜日。冬時間になって一気に1時間も日暮れが早まったこともあり、何だかわびしい気分である。しかし、あと2ヶ月もすれば、冬至を過ぎて、また一日一日、日は長くなる。いつまでもいいことばかりもないけれども、いつまでも悪いことばかりもない。光が影を生み出し、影が光を生み出す。これが人生の一つの側面である。
さて、1997年に東京経済大学に赴任してからはじめた<Internet たまのさんぽみち>も7年目を迎えた。そして、あと数日で6万カウントというところまで到達した。これも私の拙い文章ととりとめもない話に辛抱強くつき合って下さっている皆さまのおかげである。ただただ深く感謝するばかりである。6万カウントに当たった方には、ささやかながら自筆のノリッチ絵はがきを送りますので、お名前とご住所を明記の上、<たまのさんぽみち>の表紙にあるメールアドレスまでメールを送って下さい。惜しかった!という方にも、前後賞がありますので、遠慮なくお知らせ下さい。
話は変わって、昨日、5ヶ月間、同室だったマレーシアのオスマンが去っていった。入れ替わり立ち替わり、世界各地からVisiting Scholar がやってきて、共同生活をするという経験は、それなりにシビアであるけれども、居ながらにして旅のようで、ついつい引きこもりがちな自分の何かを育てているような気がする。学校もまた人生という旅の一つの宿のようなものであり、安心できる一夜の宿を提供することが自分自身の仕事なのではないかと思っている。
2003/10/27(Mon) <25時間>
昨日、イギリスではサマータイムが終わり、冬時間(通常のグリニッジ標準時)に戻った。サマータイムの期間のほうが長いのだから、何だか不思議な感じでもある。さて、昨日の日曜日は、朝寝坊して起きたにもかかわらず、1時間、時計が逆戻りしてくれて、とっても得した気分だった。9時に起きても、8時! というわけで、1日が25時間の楽しい日曜日だった。不思議なもので1日が25時間だと、いつもよりずいぶんいろんなことができる。毎日が25時間だったらいいのに、と思いつつ、きっと25時間が当たり前になれば、次は25時間をだらだらと過ごすだけだろうと思い直す。滅多にないことだからいいのである。
こうして充実した日曜日だったと、気分良く夜を迎えたところで、日本からもってきた腕時計の夏時間設定を通常に戻そうとしたところ、取扱説明書を日本においていたので、どうやったらいいのかわからないという事態に遭遇した。機能が増えれば増えるほど、扱いはややこしくなるというのが世の常である。この腕時計も、世界各地の時刻を簡単に参照できるという機能に惹かれて、買ってみたものの、この機能が逆に面倒を生み出している。針だけのアナログ時計だったらたったの30秒で修正できたところだった。(もちろん、黙って取扱説明書をもってくれば済む話ですが・・・)
というわけで、いろいろといじりながら(全部のボタンを押したらすべてリセットされてしまった)、マニュアルを忘れてきた自分のことは棚に上げて、この腕時計のインターフェイスの悪さをぼやきつつ、1時間の格闘ののち、ようやく夏時間を通常時間に戻すことに成功した。せっかく1日が25時間になったのに、1時間を時計の時刻合わせに費やしてしまい、結局、1日24時間ということに帳尻が合ってしまった。しめしめと思っても、そうはうまくいかないのが人生だ。
新しい1週間がはじまった。よい1週間を!
2003/10/24(Fri) <食>
一日一日寒くなっている。そして一日のうちに何度も目まぐるしく変化する天気。再びイギリスの天候が戻ってきた。朝は爽やかな秋晴れだったのだが、昼過ぎからどしゃぶり、そして今は何事もなかったかのように穏やかに晴れ渡っている。油断も隙もありはしない。
話は変わって、こちらにはチーズおろしというものがあって(日本にもあるかもしれない)、簡単に粉チーズなどを作ることができるのだが、まぬけなことに、チーズおろしで右手小指をおろしてしまい、流血の惨事。おろされた小指が痛々しい。思わぬところに危険は転がっているものである。皆さんも気をつけましょう。さて、こちらのチーズはおいしい。チーズに限らず、牛肉、豚肉、鶏肉と食材はとてもおいしいので、ついつい食事づくりには力が入る。鶏ガラからつくる無添加ラーメン・スープもかなり食べられる水準になりつつある。出発前に、外国生活の秘訣として「よく食べ、よく寝て、よく出すこと」というアドバイスを、ネパールで2年間の海外青年協力隊を経験した朋友からもらったのだが、イギリス生活で最も危ぶまれた「食」が予想をはるかに上回っているというのは、ありがたいかぎりである。この週末も指を食材にしないように気をつけながら、食欲の秋をクリエートしたいと思っている。では、よい週末を!
2003/10/20(Mon) <Rainbow>
週明けはイギリスらしい天気雨。「日が照りながら雨の降る、アイルランドのような、田舎へゆこう」という歌を思い出す。窓から外をみると、空には見事な虹がかかっている。幅、長さともにスケールの大きな、立派な虹。
虹につられて、重い腰を上げて、大学に向かうと、再び天気雨。フードで頭を覆って、雨の中を歩く。傘をささないのがイギリス流。天気がコロコロ変わるので傘をさすのも面倒なのである。研究室に着いて、ホットチョコレートを入れて一息つこうと思ったら、空襲警報のようなサイレンがなりひびき、みんなと一緒に外へ。火災の避難訓練だったようだ。
朝の天気雨から厚い雲が空を覆い始めて、鬱陶しい天気だなと思いながら、少しでも研究室を明るくしようとブランドを開けたら、今度は光が射してきて、まぶしくなった。今夏の異常気象の好天も終わり、イギリスらしさが戻ってきたのかもしれない。賑やかな、新しい1週間のはじまりである。
2003/10/17(Fri) <Presentation>
怒濤のような1週間の次の1週間は、さらに激しかった。なぜだかわからないけれども、10月はセミナーが目白押し。まさに学びの秋を満喫させてもらい、ありがたいかぎりだが、1週間に五つもセミナーがあるのはさすがに厳しい。しかも、一つのセミナーでは“はじめての”英語でのプレゼンテーションを私がやることになっており、これに加えて英語のクラスが三つあって、ジェットコースターのような1週間だった。
昨日は、Professor John Elliott(ジョン・エリオット)の芸術的なスピーチのセミナー。ただただ惚れ惚れするばかりだった。昨年定年を迎えたというのに、老いは微塵だに感じられず、アクティブで、アグレッシブで、さらに説得力あふれるトークに、聴衆はぐいぐいと引き込まれていく。各1時間半の2回のセミナーがあっという間と感じられるようなセミナー。さすがは教育学における事例研究の旗手。教養の厚みの違いにまさにしびれた。遠い目標が、闇夜のかすかな光のように、遙か彼方に浮かび上がった。
そして今日、ジョン・エリオットのスピーチの余韻が残る教育学部で、私の研究発表。ドキドキした。しかし、始まってみると聴き手にも恵まれ、話は膨らみ、とても充実した2時間が流れた。小さなセミナーだったが、私がぼちぼちと考えてきたことが諸外国の人々にも通じることがわかり、何とも言えない喜びが沸き上がってきた。
同じ日に、インターネットのニュースで、松井秀喜選手の所属するヤンキースが延長戦の末、レッドソックスを下したことを知った。そして、松井選手がことばにできないほどの喜びをあらわしていたという報道に接した。もちろん、世界の最高峰で活躍している松井選手を引き合いに出すのはおこがましいことであるが、達成感ということでは、そこには同じ喜びがあると思った。私は英語が苦手で、自分が外国で研究発表をする日が来るとは思ってもいなかった。しかし、今回の経験を通して、自分で限界を設定してそこにとどまるのではなく、自分の壁に挑み、そこを突き抜けるときの喜びは何者にも代え難いのだと実感した。そして、次はより大きな教室でのセミナーが待ち構えている。週末は疲れた身体を休めて、また少しずつ歩いていこうと思う。今日はこちらに来て一番の秋晴れ(心も空も)、いつもこんな天気ではないけれども、こういう日もあって、生きている。では、よい週末を!
2003/10/15(Wed) <怒濤(改)>
怒濤のような1週間が過ぎて、頭がオーバーヒートして週末は体調をこわしていた。こちらに来てからはじめての風邪のようなもの。理由ははっきりしている。先週、新しいクラスやセミナーが始まって、さらにいきなり英語でディープな研究の話をすることになって、もともと容量の小さな脳が沸騰してしまったのである。
しかし、週末休んで、また身体も、頭も回復。いつも思うことだが、人間(生命)の回復力はすごいと思う。10月に入って、4月とほぼ同じぐらい、新しい出会いやさまざまな刺激が再び怒濤のように押し寄せてきている。やはり新年度というのは大きなうねりのようなものである。このうねりを受けとめつつ、うねりに適度にさらわれながら、次の自分を創っていかねばならない。ああ、しんど。
今日は、大学の学科対抗の男女混合バレーボール大会。以前からメールがまわってきていて、出てみたくてウズウズしていたものの、やるべきことが山積している現状と、どん底にある体調を鑑み、我慢していたのだが、当日の朝、大学に出勤すると、「男が1人足りない。SOS!」のメールが入っている。これは仕方がないと(心のことばで翻訳すると、待ってましたとばかりに)参加することにした。かつて鬱々としていた大学院時代はソフトボール大会を楽しみに生きていたのだが、結局、どこにいてもやっぱり同じことをやっている。どこに行っても、自分からは逃れられないものだと、再び思う。
さて、バレーボール大会は、さすがはイギリスと思わせるような、かなりいい加減なものであったのだが(練習すらなく、いきなりゲーム、さらにデタラメな順序でサーブを打っている)、プレーはともかく、別のところに収穫があった。ほとんど初めて会ったチームメイトと話をしているうちに、その中の一人が大変興味深い実践をひらいている小学校の先生であることを知り、教室見学の道がひらけてきた。そして、世界はひょんなところからひらけていくのだということを再認識した。
こうしてまたもや寄り道を楽しみ、自分の好きなことは大いにやるべきだと自分の生き方を無理矢理正当化しつつも、今度はひらけた世界を大切に育てていくことがこれからの私の課題だなと思いつつ、この文章を書いている。
金曜日の夜は、心身ともに、苦しさで息も絶え絶えだったけれども、火曜日には光が見えている。苦しさもきちんと通過しないと光は見えない。そして、光も育てていかないとほんとうの光にはならない。いつもそうなのだけれども、これからである。よい1週間を!
先日、このような文章を気持ちよく書いたあとで、またもやCar Park絡みの情けない事件に巻き込まれ、再び落ち込んでいる。ああ、しんど。やっぱり人生ままならないものだ。(15日 大幅修正)
2003/10/8(Wed) <聴く>
ちょうど半年前、成田を出発して、長い長い一日を過ごしたのち、同じ日の夜、ノリッチに到着した。不安な見知らぬ土地で、はじめて泊まったB&Bの主人がとても親切だったので、ホッとしたことを覚えている。誰もがはじめは、初心者マークであり、そこでどのような人に出会うかが大きな意味をもっている。生まれてくるときもしかり、学校に入るときも、会社に入るときも・・・ 親切にされると、次に親切にしようと思うから、親切の連鎖はとても大切だと思う。
前からずっと言っていることだが、人間を強いものだと考えて、成り立っている仕組みは、無理があり、脆いと思う。弱いものでも何とか生きていけて、そして弱いからこそ感じることができることが大切にされる、そういう仕組みをつくっていかなくては、がんばれば、がんばるだけ、人を押しのけて、孤立していくという社会が生まれることだろう。といって、これががんばることを否定するありようになってはマズイわけだし、いずれにしても、人を否定しなくても、自分が自足して存在できるようなありようと、そしてやわらかな人の人とのつながりをつくっていくことが、大切なのだろう。
こちらに来て、人種は違っても、人間はあまり変わらないということを思うことが多い。寒いところに放っておかれたら、泣きそうになるし、暖かいところで温かいものを食べるといい気持ちになる。それは、イスラエルの人々も、パレスティナの人々も同じはずである。刺々しい雰囲気の中でずっと過ごしていれば、刺々しい人間になるだろうし、ゆったりとした雰囲気の中で育まれていれば、大らかな人間になるだろう。そういう意味で、福岡の小学校教師によるいじめ訴訟に500人以上の弁護団が結成されたという話に、ある違和感を感じた。もちろん、教師によるいじめなどもってのほかであることは言うまでもないわけであるが、教師を叩く前に、どのような経緯でこの教師が明らかに異常とも思えるような人格を形成されていったのかを解明することが求められるであろう。はじめから異常人格だったのであれば、教員を採用する側に責任があったということになり、途中から異常人格になったのであれば、そこにはどのようなプロセスがあったのかを明らかにする必要が出てくる。そして、今の学校や研修のありようの中に異常人格を生み出すようなものであれば、そこを変えていくことが求められる。とにかく、500人以上の弁護団には糾弾よりまず理解を深めていくことを求めたいものである。
コミュニケーションの時代となり、理解はますます大きな意味をもってきている。こちらでさまざまな人々と会う中で、聴くことのできる人間になりたいという気持ちがますます強くなっている。次の半年間、何を聴くことができるだろうか。
2003/10/6(Mon) <clamp>
こちらに来て6ヶ月になる。しばらく前まではこちらの生活にもずいぶん慣れて、安定期に入っていたのだが、新年度が始まって、またもやてんやわんやの生活が始まっている。英語のクラスが始まったり、セミナーが再開したり、図書館がトラブル続きだったり、大学内で車をclamp(辞書で調べて下さい)されたり、毎日がエキサイティングである。ようやく静かな生活になったかと思ったところで、そうは問屋が卸さないと、新たな試練が始まる。人生とはまさにこのようなものである。
さて、イギリスにいると、ときどきよくこんなメチャクチャなことをやっていて暴動が起こらないものだと感心することがある。一つは図書館のコピー機である。ほとんどのコピー機にはout of order(故障中)の貼り紙がしてある。そして、ほんのわずかのコピー機に人々が行列をなしている。そしてそのコピー機でジャーナルをコピーしたところ、黒いインクが付いて、terrible(ひどい=こちらで毎日のように使っていることば)仕上がりである。黒いインクの付いた用紙をスタッフに見せて、とてもsoftにクレームしたところ、少ししかない機械を多くの人間が使っているからこうなるんだ、毎日のように技術スタッフが来ている、とまるでこちらが悪いかのように逆ギレされてしまった。いつもならば、ここで瞬間湯沸かし器が沸点に達するところだが、ここではこのくらいで怒っていては、私の大事な瞬間湯沸かし器がout of orderになりかねないので、ほかの故障までこちらのせいにされないうちに早々に退散した。
これは序の口であって、次はCar Park事件に遭遇した。イギリスのバスがterribleなのは前にも書いた通りだが、UEA(University of East Anglia)は郊外の大学である。鉄道のアクセスはなく、バスに乗るか、さもなくば車に乗って通勤・通学するしかない。ところが、教育学部が資金難のために部屋を賃貸したのに続いて、大学がおそらく資金難のために、突然9月から全スタッフ・全学生から1回毎の駐車料金を徴収すると決定した。おい、ここはディズニーランドじゃないんだぞ。なぜきちんとした公共交通機関が存在しない大学で、スタッフから毎回駐車料金をとるのか、まったくcrazyだと、思ったが、これはまだ序二段だった。先週の水曜日、Car Parkがfull(満杯)だったので、これまでfullのときに合法的に駐車していたoverflow car park(超過したときの駐車場)に駐車して、仕事を終えたのち、さあ帰ろうと車のところまで行ったら、窓ガラスに貼り紙があり(This car is clamped!)、前輪がガッチリと留め金で固定されている。なんてこった! 守衛所に出頭すると、いきなり罰金£15払えと言う。さすがにこのときは大事な瞬間湯沸かし器を70℃ほどで使用することになったが、あきれ果てた。I don't understand!というとThis is rule!という。こんなアホなルールがどこにあるか!
Car Parkの使用料金を徴収し、これまで満杯のときには使えていたoverflow car parkに駐車している車からは罰金をとる。一体どうすればいいのだ。(今日もCar Parkは満杯で−午前中、別の用事があって遅くなるとほとんど満杯である−何とかキャンパス内にスペースを見つけて駐車しているのだが、またclampされていないか心配である)
厳重なレジストレーションの負担をユーザーに強いたわけだし(いろいろと書類が必要だった)、レジストレート(登録)している車が駐車できないというのは、どう考えても明らかに管理者の責任である。それなのに、大学内でclampされ、罰金を請求される。こんなことがまかり通っているのだから、あきれる。それにしても、こちらの人々は我慢強い。どこにも暴動が起こるような気配はない。こちらでは、Customers are always right!(お客さんは神様です)の日本とは違って、スタッフ、管理側が非を認めることはまずない。だが、人々はあまり不満をもらすこともなく(いろんなところで小耳にははさみますが)、生活している。考えてみると、一昔前の日本のようである。
あるいは、Administrators and Workers are always right!(管理者・スタッフはいつも正しい)というシステムが、働く人々のストレスを軽減しているのかもしれず、何がいいのかは、そう簡単にいうことはできないが、イギリス生活では忍耐が鍵となっている。それにしても、三段目の次、幕下あたりではどのような事件が待ち受けているのか、今から戦々恐々としている。どうぞお手柔らかに! よい1週間を!
2003/10/1(Wed) <10月>
ついに10月に突入した。下半期の始まりであり、気持ちはあせる。しかし、あせったところで石につまずいてこけるのが関の山なので、あせるのは止めることにする。今週は、雨の天気予報だったが、晴れている。朝から身体がぐったりと疲れていたのだが、図書館で少し居眠りをしたら、回復した。図書館も、新学期ということで学生であふれ返っている。研究環境は悪化しているのだが、日本にいたときの経験から、もうしばらく辛抱すれば、学生たちは減っていくはずなので、そうなれば、試験期間まで再び平和な日々がやってくるにちがいない。大学というところは、学生がいなければこんなに平和なところはないようなところなのだが、肝心の学生がいなければ、大学は成り立たない。教員にとって、学生は喜びの源であるとともに、ストレスの源でもある。どちらもともに抱えていくことなしには、教師の仕事は成り立たない。どこにいても、何をしていても、都合のいいことばかりあるわけなどないのだ。
というわけで、今日、英語のクラスのレジストレーション(履修登録)を行った。芋を洗うような混雑で辟易し、また若い人々とともに、自分の劣等感と向き合わなくてはならない現実にうんざりしたのだが、そう逃げてばかりいるわけにもいかない。列に並んでいると、英語の先生の写真が壁に貼ってあったり、大学の日本人のメーリングリストがあったりして、なかなか貴重な情報を得ることができた。やはりあせって急いでいても仕方がなく、じっくり待たされていることにも案外いいことがある。英語の先生の顔写真を見ながら、この人はやさしそうだなとか、ちょっと敬遠のフォアーボールかとか、考えながら、時間割を組むための基礎情報が獲得された。そもそもコミュニケーションの土台であることばに難があるものだから、先生に恵まれないと悲惨なことになる。日本でも同じだろうが、イギリスでも人によって大きな差があり、涙が出るほど親切な人から、はり倒してやりたいような人まで、バラエティにあふれている。そして、前者のほうが圧倒的にありがたいのだけれども、どちらかも学ぶべきことがあるのもまたありがたい。
さて、本題に入ろう。英語のクラスのレジストレーションのために試験を受けたとき、これはヤバイと思った。なぜならば、試験の内容はほとんど文法の問題だったからである。私は日本で生まれ、育った人間である。そして、入学試験を受けて、大学に入っている。そうであるから、当然のことながら、文法はわかる。しかし、文法のレベルと、ヒアリング、スピーキングのレベルには、相当のギャップがある。ここでは、文法の試験だけで英語のクラスが振り分けられる。何というあらっぽさかと思いながら、試験を受けながら、ものすごいことにはじめて気がついた。“そうか! 試験というのは、わかっていることはできることという前提でつくられているものなのか!”と。これは大発見であった。つまり、文法の試験がわかるということは、その文法を使うことができるということが前提となっているのである。しかしながら、私は、仮定法の問題が出れば、それを解くことはできるけれども、生まれてこのかた、英語の仮定法を使って人としゃべったことなどありはしない。現在完了、過去完了の問題が出れば、それを解くことはできるけれども、現在完了はともかく、過去完了なんて使ったことはおそらくない。とにかく、前提とは全く違う学びをしているのである。私の学びが悪いのか、それとも、前提が悪いのか、それはわからないけれども、もっと豊かな学びがあったはずと、自分のこれまでの学びをちょっぴり残念に思った。
ところで、今日、結果がわかったのだが、私が心配したほどには文法のスコアも突出していいわけでなかったが(喜んでいいのやら悲しんでいいのやら)、スタッフから「おまえはアドヴァンス・クラスだ」と言い渡された。ここで、アドヴァンスとは何だと辞書を引いてみると(もちろん、これは作り話ですが)、「他の人[もの]より進んだ,時代に先駆けた」とランダムハウス英語辞典のadvanceの形容詞用法の[4]項にある。どこをどう考えてみても、「他の人より進ん」でいるとも思えないし、さらに「時代に先駆け」ているとはなおさら思えないので、「これは文法だけの試験で、私の発音、スピーキングはどう考えても、アドヴァンスではない」と、一生懸命、私はスタッフに抗弁した。すると、スタッフからは「その通りだ。おまえの発音とスピーキングはアドヴァンスではない」とあっさり同意され、これまで喜んでいいのやら悲しんでいいのやらだったが、アッパー・インターミディエイト・コース(並の上?)に入れてもらえることになった。
私のこれからの英語勉強仲間を紹介すると、なぜだかこれからの英語コースよりも試験のスコアがとても気になるらしい人(from China)と、試験はボロボロでもオープンな性格ですばらしいプレゼンテーションができる人(from Spain)である。世界のさまざまな学びの文化がそこから透けて見えて面白い。
2003/9/30(Tue) <モグラ>
新しい1週間が始まった。週末は少し天気がぐずついていたのだが、月曜日は日本の秋晴れのような天気。季節は前進するだけではなく、一進一退しながら、少しずつ冬に近づいていく。月曜日は、スタッフの一人が誕生日ということだったので、久しぶりに人々と一緒にお昼ご飯を食べに出かけた。緑の芝生に青空が美しく、とても気持ちが良かったのだが、芝生をよく見ると、あちらこちらに土の塊がある。「あれは何だ?」と尋ねてみたら、「モールだ」という。芝生のアンダーグラウンドにはモグラがいるのだそうだ。あまり役に立たないと思うけれどもと一言ことわって、「モールは、日本語ではモグラっていうよ」と言ったら、みなさん律儀に「モグラ、モグラ」と復唱してくれている。みなさん語学に堪能なので、やはり語学の習熟は地道な訓練によるものだと深くうなずかされる。
当初の予定である1年間の折り返し点を迎えた。一方では、どこに行っても、自分からは、そして人生からは逃れられないのということを強く突きつけられながらも、もう一方では、シンプルな生活のなかで、時間をかけて、これまでに失ってきたもの、見失ってきたものを探す旅をさせていただいている。相変わらず、遅々とした歩みだけれども、もっと遅々とすることを恐れることなく、学んでいきたいと思っている。こちらの人々は、ほんとうにいろいろと遅い。(食べるのは相変わらず私が一番遅いのですが)。それでも、社会のシステムはきちんと動いている。急がばまわれとは、昔の人はよく言ったものである。
2003/9/26(Fri) <塞翁が馬>
こちらに来てから、ほんとうによいばかりでもなく、といって悪いばかりでもない、まさに塞翁が馬のような生活が続いている。昨日はなかなか最悪な日で、朝からどんよりとした冬空で寒風が肌を刺すようであったから2枚ほど重ね着をして大学に来たら、午後から急に暖かくなるし、図書館で本を読んでいると、隣の机の学生たちがスナック菓子を食べながら、ずっとおしゃべりをしているし、図書館に入ることができずにまごまごしているものだからサポートしてあげたのにお礼一つ言わないルードな若者に苛つき、帰路はマナーの悪いクルマに蹴りを入れたくなり、いったん帰ったあとに、夕方から出かけた別の会合では、ノーフォークなまりの英語がほとんど理解できずに、みんなが笑っているところでみじめな気分になり、こうやって書き連ねていくと、何というわけもないのだが、情けない一日だった。もちろん、仕事が進まないということもあり、苛ついているわけですが。
ところが、悪いことのあとは、いいこともあるもので、今日は朝から探していた人々をつかまえることができ、事例研究の勉強会の仲間に入れてもらい、やきもきしていたクルマの駐車のレジストレーション(登録証)が到着し、さらに、今までアップル・コンピュータしか使えないと言われていたUEAのプリンタで、はじめてプリント・アウトすることに成功した。こちらもまた、こうやって書き連ねていくと、何というわけでもないことなのだが、私にとって、明日にでも帰りたいと思わせる(もちろん、帰ってもつらい人生を待っているわけですが)暗雲を吹き飛ばすに値するものであった。
新年度になって、大学の環境は悪化の一途を辿って、しばらく気が滅入ることが多かったのだが、今日はありがたい日だった。何せ半人前の身なので、2日で1日分ぐらいのペースで考えていくのが、ちょうどいいのだろう。何事も自分が思ったようにはいかない。これが人生である。「塞翁が馬」の話は、とても好きな話だった。負けるは勝ち、勝つは負け。何事にも裏と表があり、両義性がある。スカッとしない人生だけれども、これがよりまっとうであるような気がしている。
これから長い冬だが、冬に鍛えられて少しは我慢強い性格になって、日本に帰りたいものである。1年の折り返し点に来ている。日本の秋は美しい。長い暑さを乗り越えて、日本はこれからがいい季節。私たちはこれからは辛抱の季節。では、よい週末を!
2003/9/23(Tue) <嵐>
日本でも台風のシーズンだが、こちらも到着以来はじめての嵐である。厚い雲が空を覆って、雨が窓に叩きつけている。9月に入ってずっといい天気が続いていたのだが、これで少し様子が変わるだろうか。秋分を過ぎると、長い長い冬の始まりである。
昨日は、香港料理店に行った。アイヴァーお薦めのお店で、とてもおいしい。中華料理を食べる度に、中国人はスゴイと思う。世界中、どこへ行っても、中華料理ならば、外すことはない。イギリスだとか、アメリカだとか、料理があまりおいしいとはいえない国々が、覇権を握っていることが、世界の不幸の一つの原因かもしれない。人に幸せを与えるのは、勝ったり押さえつけたりすることよりも、おいしいものを作ったり、すばらしい絵、心にしみいる音楽を人々に残すことではないかと、思う。そういう意味で、勝ったり負けたりすることが宿命の仕事に向き合いながら、自費で「勝ち組 負け組 なんてないで!」という全面広告をスポーツ紙に掲載したという星野監督は、やっぱりエライと思う。
世界各地からいろんな人が来ているので、いろんな国のことを知る。悲しくなって眠れなくなることもある。しかし、苦しみの中で強く生きている人々に出会い、勇気を与えられる。世界は、一人の人間の脳の中より、新聞の記事よりもずっとずっと広く、多様である。日本を離れて、貴重な経験をさせてもらっていることに感謝しながら、嵐の月曜日を過ごしている。
2003/9/20(Sat) <セミナー再開>
今日は少し暑いぐらいの好天。このところずっと好天が続いている。コンピュータ・エンジニアのピーターによると、9月のこの好天はunusualなのだそうだ。7月の炎暑といい、unusualなことばかりなので、何がusualで、何がunusualなのか、わからなくなる日々である。ともかく、青空は一日をはじめるエネルギーになり、ありがたい。
さて、夏休み中はお休みだったセミナーが今週から再開された。今日はスペインからのpre-school education(0歳から6歳までの保育・教育)の報告。報告者があまり英語になじんでいなかったようで、スペイン語まじりの英語というよりむしろ、英語がたまにまじっているスペイン語での報告であり、聞き取るのは、なかなかハードだった。しかし、スペイン語に較べると、さすがに英語のほうがよくわかるので、何だかいつもより英語が聞き取れたような気がした。10階から下を見たあとで5階から下を見ると低く感じるのと同じようなものだろう。きっと調子に乗って飛び降りると、たぶん死んでいる。
さて、英語はさっぱりの私だけれども、大学時代に、いろんな言語の(超)初級を学んでいたことが最近役に立っている。何せ、新しい同室はスペイン人と中国人。英語では教育学部で間違いなく下から5本の指に入る(そう威張ることでもない)私だが、スペイン語や中国語がほんの少しでもわかる人はそういない。なかでも、スペイン語は、大学時代には南米の民族音楽(フォルクローレ)のサークルに入っていて、そこでボーカルなどをしていたものだから、単語は結構わかる。これがコミュニケーションに役立っているから面白い。今日のスペイン語も全然やっていない人よりほんのわずかだけわかるような気がした、というわけで、何はともあれ、芸は身を助けるとはよくいったもので、今日は英語コンプレックスから少々解放された1日だった。
しかしながら、セミナー司会の2人のUEAのプロフェッサーが、スペイン語をほとんど英語と同じくらい見事に操っているのには、ただただ脱帽した。やはり、言語はきちんとものにしてようやくものの役に立つのであり、私のような浅い学びでは、旅では何とかなっても、生活や研究ではほとんど用をなさないということも実感した。大学の新学期が始まったのにともない、英語のクラスにも出てみようと思っている。一からやり直さなくてはならないことばかりである。よい週末を!
2003/9/16(Tue) <ブリックリング・ホール>
肌寒くなってきている。今朝は図書館で半袖シャツの中に両腕を入れて凍えていた。もう長袖にしなくては。日曜日に久しぶりに車に乗って出かけたら、もう紅葉である。黄色くなった街路樹の中にはすでに落葉のはじまった木々もあり、日本との季節の違いを感じさせられた。ずっと謎だったことは、こちらには蚊がいないということなのだが、やはり微妙な(あまり微妙でもない)気候の違いが、蚊を住めなくさせているのだろう。おかげで芝生の上で寝転がっていても、安心である。日本のいた頃は、蚊との格闘で睡眠不足になった日もしょっちゅうあったことを考えると、ありがたいかぎりである。
日曜日は、ノリッチから車で30分ほどのイギリスのナショナル・トラストの一つであるブリックリング・ホールに出かけた。17世紀はじめ、ちょうど日本でいうと関ヶ原合戦の頃に創られたお屋敷で、ベルサイユ宮殿を彷彿とさせる庭園が併設されている。お屋敷の内部は、寝室、応接間、控えの間、そして図書室、資料室とあり、充実している。図書館、資料室が充実しているのは、このお屋敷を建てた人物が裁判官だったからで、個人の蔵書としてはイギリスでも指折りのものだったらしい。一つの部屋が東京の我が家がすっぽりと入るサイズであり、圧倒されながらも、雑巾がけが大変だったにちがいないと心配にもなった。建てるのはともかく維持していくのはそれ以上に大変なものである。イギリスのナショナル・トラスト運動はちょっとえらいかも。
昨夏、ドイツのヴュルツブルグのレジデンツとフランスのベルサイユ宮殿を見たのだが、このブリックリング・ホールも建物と庭園の造りが極めて似ている。どこがどこを真似たのかわからないけれども、ヨーロッパはやはり似ている。有無をいわせないようにつくりこんでいる。ところで、ブリックリング・ホールの庭園には、樹齢数百年と思われる立派な木が、登って下さいといわんばかりにそこにあったので、何にでも引き寄せられる私は、裸足になって登りはじめた。しかし、最初のトライでは、無様にもズルズルと滑り落ち、いつもは寛容な同居人からも「他人のフリをしていよう」と逃げられてしまったが、懲りずにもう一度挑戦して、木の上の(高所恐怖症なので低いところですが)気持ちよさを楽しんだ。おそらく私だけではなく、幾何学模様のつくりこまれた庭園に息がつまって、木の上で昼寝をした使用人たちがきっとこれまでにいたことだろう。
もうすぐ秋分。これからは日本よりも短い昼間になる。よい1週間を!
2003/9/9(Tue) <天高く>
久しぶりにヘアーカッターのスチュワートのところに出かけた。スチュワートはバイクで時速180マイル(288キロ)出したことがあるそうだ。後輪だけで時速130マイル(208キロ)で数マイル走ったこともあるとのことで、全くもって恐れ入る。スチュワートに東京で店をもったらきっと繁盛するよって、言うと、でも、テナント料も高いだろ、という返事で、そうだね、ノリッチにいたほうがいいよ、東京じゃ180マイルどころか、時々自転車に追い越されるぐらいだから、という話でまとまった。そして、いつものように爽やかさを分けてもらい、カットとおいしいティーを合わせて£12を支払って、店を出た。
こちらに来て、ずっと一つの大学にいるわけだけれども、同室者が入れ替わり立ち替わりやってきたり、去っていったり、そして研究室が代わったり、まるで旅をしているような感じである。そして、先週、大学の秘書のニッキーが去っていって、今週、スペインから二人がやってきた。今度はスペインの男たちがやってくると聞いていたので、どんなラテン系だろうかと身構えていたところ、何とやってきたのは女性だった。日本の大学で個室の研究室を与えられ、“坊ちゃん”として守られていた頃とは違い、ここでは流動する状況の中で人々と折り合って生きていく力が求められている。
ところで、今度のスペインの二人組、何と私と同じ程度の英語力で、ここに来てはじめてのお仲間である。何せ、マレーシアンにしても、サウジアラビアンにしても、ほとんどネイティブと見まがうばかりの英語力なので、情けない思いをすることしきりであったが、今度ははじめてこちらが教えることもあり、ちょっと気分も楽になっている。次は、また今週末、中国からニューカマーが来るとのこと。一体、収容能力もないのに、この大学はどうなっているのかと思うところだけれども、どんなところでもそれなりに生きる楽しみがあるというのも面白い。
外は宇宙まで届くような青空。決してこんな日ばかりではないが、ときにはこんな日もあって、そして生きている。
2003/9/4(Thu) <停電>
爽やかな秋。朝晩は肌寒いぐらいである。短い秋を楽しみたい。11月になるとかなり陰鬱になるとのことだから。
さて、二つ前のコラム<ロンドン大停電>が消えている。ふとしたはずみでどこかに消え去ってしまった。仕方がないので、もう一回、書くことにしよう。
実は、ロンドン大停電の日、同居人がロンドンの大英博物館に出かけていた(これははじめて明かす話)。同居人はノリッチから列車でロンドンのリバプール・ストリート駅に到着、それから地下鉄を乗り継いで、大英博物館を見学ののち、再び地下鉄を乗り継いで、リバプール・ストリート駅に到着。そして、地下鉄の階段を上がったほぼ直後に、地下鉄へ通じる通路のドアが閉められたらしい。人々がごった返しはじめたし、列車も混乱していたようなので、何かが起こったことには気づいたようだが、停電だとは気づかなかったとのこと。それからずいぶん遅れた列車に乗って、途中もずいぶん遅れながら約45分遅れでノリッチに無事到着した。
ところで、イギリスの列車は停電がなくても、しばしば遅れるものであり、これまでの乗車では6〜7割の確率で遅れており、同居人もまたいつものように遅れているのだろうと思っていたらしい。だから、次の日にロンドンが大停電で、地下鉄に閉じこめられた人々が出たこと、そしてその時間とニアミスで危機一髪だったということを知り、2人して驚いたのである。ロンドンの地下鉄は東京の地下鉄よりも圧迫感があり、密閉されているように感じられるので、あの中で閉じこめられたら、かなり大変だったにちがいない。危ないところだった。
さて、今夏はニューヨークとロンドンで大停電、まさにイラク、パレスティナに大停電どころか大混乱を引き起こしている張本国の総本山での出来事だから、自業自得だといいたいところだが、我が家にやってきた同居人の知人がニューヨークで、そして同居人がロンドンで、それぞれ大停電に遭遇しているので、そうも言えない。報復は誰に降りかかるかもしれず、そして報復はやはりむなしいのである。それでも、報復するしかない痛めつけられた人々のうめきと叫び。せめて私たちにできることは他者への関心を持ち続けることだろう。
話は戻るが、この夏は停電の当たり年であった。しばらく電気を消して、自分の心と向き合うようにという戒めだろうか。私も充電にイギリスに渡ったはずが、つい調子に乗って放電ばかりしている。これではせっかく与えてもらった機会をほんとうに生かすことはできないと思い、再び停電、ときどきロウソクの光に戻ろうと思う。更新のペースを落とします。では。
2003/9/2(Tue) <9月>
今週から9月に突入。こちらはいよいよ新年度である。ここまではウオーミングアップのようなものでこれからがいよいよ本番となる。といって、あせったところで急に変わることなどできないわけだから、これまでのようにぼちぼちと歩むことしかできない。
昨晩は、自宅の窓からみる火星が美しかったので、郊外で星を眺めようと、夜中に車でグレートヤーマウス(東海岸の町)方面に向かった。東京にいたときは夜10時というのはありふれたものだったけれども、イングランドの田舎の夜10時はもう真っ暗闇な異界である。車を止めて、空を眺めると、あふれんばかりの星が輝き、天の川がくっきりと見えた。火星のことはもうほとんど忘れて、満天の星をうっとりと見上げた。
これから始まる。星はそう告げているように思われた。
2003/8/28(Thu) <火星>
火星が大接近とのことである。昨夜、郊外にでも出て、火星を眺めてみようかと思ったのだが、空は曇っていた。日本からとイギリスからとどちらが火星に近いのだろうか? おそらく宇宙の距離からすると、その差は、ほとんど関係ないくらいなのだろう。
こちらに来てもうすぐ5ヶ月、いろんなことが日常という風景の中に収まってしまうようになってきた。そして、いよいよこれからである。ひたすらカメのような歩みをめざしつつ、現実には、カメに及ばない歩み−昼寝をしているカメのよう−というところが悲しいところでありますが。
今日は曇りのノリッチです。
2003/8/27(Wed) <青空>
昨日の厚い雲と涼しい風でいよいよ夏も終わりかと思っていたら、夕方から青空が広がり、夏の風が吹きはじめた。今朝も夏空である。こちらの天気は、一日の変化は激しいけれども、四季の変化はそれほどでもなく、日本のように、秋風が吹いて、秋になるということもない。個人的には季節の区切りをつけるのが好きなのだが(たとえば、ああ、もう夏も終わった。いよいよ学びの秋だ、とか)、まだこちらでは季節の境界線がつかめないでいる。
ここしばらく、円高が進み、レートがいいので、イギリスの銀行口座に少しお金を移しておいた。£1=¥200を突破したときは青くなったけれども、£1=¥185になるとずいぶん生活が楽である。イギリスでは消費税(すべて内税)が17.5%ということもあり、結構物価が高い。しかし、EUになってから、ずいぶんヨーロッパからの流通が盛んになったようで、一昔前のガイドブックに書いてあるようなモノ不足はない。なにせ、『地球の暮らしかた』には、包丁がないからもってくるようにというアドバイスがあったもので、これは大変とスーツケースに包丁をしのばせて、やってきましたから。しかしながら、どこのスーパーにも、包丁はきちんと揃っておりました。
最近、週末の昼ご飯は、ロンドンの中華街で見つけた上出来の麺と、鶏ガラを煮込んだスープで、自家製ラーメンを楽しんでいます。イングランドのDIYな生活です。では、お元気で!
2003/8/26(Tue) <厚い雲>
週末はほぼ好天だったけれども、ウイークデーに入ってまた厚い雲が空を覆っている。8月も今週を残すのみとなった。月曜日はバンクホリデーでこちらはお休み。ということで火曜日からのスタートである。
日曜日は、気分転換に近くのイートン・パークに出かけたのだが、そこでアマチュアのサッカーの試合をやっていたので、観戦した。こちらのサッカーのレベルは高く、ボールの扱いがとても上手なことに感心した。その一方で、野球らしきものもやっていたのだが、こちらはテニスボールをテニスラケットで打つという何とも微笑ましいものだった。しかし、男女混じって楽しめるルールであり、みんな楽しそうだった。
さて今日は雨が降るだろうか? よい一週間を!
2003/8/22(Fri) <アンバランス>
珍しくどんよりとした雲が広がっている。ノーフォーク地方は雨が少ないところらしく、総じて天気がいい。グレートブリテン島は、おおまかにいうと、西海岸が温暖で雨が多く、東海岸が寒くて乾燥しているようである。だから、ノーフォーク・ブロード(湖沼地帯)の観光パンフレットには、こちらは湖水地方(イングランド北西部にある国立公園)より日照時間も長く、雨も降らないから、ヴァカンスには最適よ、という比較広告が掲載されていた。
ところで気になるのは、イラクとパレスティナの情勢である。アメリカとイラク、イスラエルとパレスティナの関係が全くの相似形をなしていて、どちらも富める国が貧しい国を攻撃し、窮鼠とされた人々が自爆テロを起こすという悪循環が繰り返されている。アメリカという国を生み出し、育てたのもイギリスならば、イスラエルという国を生み出し、パレスティナの紛争のもとを作ったのもイギリスである。こういうかたちで括るのはあまりにも乱暴なのかもしれないけれども、火種の張本人の子孫たちが、快適なヴァカンスを送り、火種を投げつけられた子孫たちが、人間として生きる権利を奪われ、尊厳を奪われているというのが、今の世界のアンバランスであるというのは認めざるを得ないだろう。
情報が氾濫している今の時代だが、私たちはほんとうに隣人の苦しみを知ることができているのだろうか。何もできなくても、せめて知ろうと努めることは、後世の人々に対する、人間としての責任ではないだろうか。熊本日々新聞は、中東・パレスチナで取材を続けているフリージャーナリストの小田切拓さんの講演(8/20)を次のように掲載している。
「小田切さんは、「パレスチナの各都市は、イスラエルが建設しているフェンスで囲まれ隔離されようとしている。住民もイスラエルに懐柔されたスパイが増え、隣人も信用できないような心理的にも分断された状態」と現地映像も交え紹介。
「パレスチナ自治政府とイスラエルが六月に合意した新和平案では、二〇〇五年までのパレスチナ国家樹立をうたっている。しかし、こうした分断によって、独立した国家樹立は大変困難な状況だ」と述べた。
その上で「最新兵器を持ち経済力もあるイスラエルに対し、パレスチナはほとんど丸裸状態。和平協議も対等な交渉とはとてもいえない状況であることを知ってほしい」と訴えた。
イラクで国連のスタッフが亡くなったことを深く悼むとともに、そこに渦巻く人々の怒りと悲しみの向こうにある苦しみにただただ痛みを感じます。ではよい週末を!
2003/8/20(Wed) <おとな>
今朝はさらにもう一段肌寒くなった。もう秋が近いのかもしれない。しかし、こちらは日本のようには四季がはっきりしていないらしいので、あるいはこのままじわじわと冬に向かっていくだけなのかもしれない。
ところで、ニューヨークにいる卒業生から「なぜ先生になったのか?」という、とても難しい、しかし、私自身、多くの先生たちに聞いて、それを仕事にしている問いを投げかけられて、ずっとどのように答えようかと考えていた。自分のなかには、いくつもの答え方があるような気がしているのだが、その一つはやはり尊敬できると思ったはじめての大人が先生だったということだろう。もちろん、進路の選択というのは、川の流れのようなもので、自分の思いだけではなく、なりゆきというのも必ずあって、一つ一つの出会い、出来事と向き合ったり、向き合えなかったしていたら、いつの間にかこういう場所に来ていたというのが正直なところである。しかし、きっかけといえば、あこがれをかきたてられる、またこういう生き方をしたという思いをかきたてられる対象として、一人の先生がいたということだろう。
私がそのときに感じた「あこがれ」、「こういう生き方をしたい」というのは、大人として、さすがというか、だてに長い時間を生きているわけではないと思わせる、経験の厚みをもっているということであった。つまりは、生涯学び続けるというか、成長し続ける姿に、これこそ大人だという感銘を受けたのである。
職業に就く以前の人間にとって、職業そのものを知ることはなかなか難しい。だから、その職業に就いている人間を通して、その職業の一端を垣間見、職業へのあこがれをもつことになる。当時の私にとって、職業というのは、人生の一つの下位領域であり、最も大切なことは人生を十分に生き切ることであった。そして、教師という職業は、私が自分の人生を創造する支えになるものであると思われた。ライフスタイルの観点からも、仕事内容の観点からも。
しかし、職業も生き物のようなもので、人生と同じく日々課題を突きつけてくる。だから、以前私が考えていた職業は人生の一つの下位領域という考え方は少しシンプル過ぎていて、職業には否応なく人生を変えていくデーモンのような力があるように、今は思っている。わかったことは、少なくとも、教師という職業は、私が二十歳頃までに掴んだ「人生とはこういうものだ」という感覚の中に、おとなしくおさまるようなものではなく、その人生観を厳しく問うものであるということである。そして、こうした気づきは、私がずっと行ってきている研究の枠組みに、大きな影響を与えているのではないかと思われる。
だから、私は「人生とはこういうものだ」と常識をなぞる教師はとても嫌いだし、そう言う大人も大嫌いなのだ。さらに、自分自身の中にそういう大人を見るとき、耐えられない絶望に襲われる。毛嫌いをしているということは、自分自身の中に根深くそういう性質があるということでもある。生きるということは自らの「人生とはこういうものだ」をつねに突き崩し、新しい深みをつかんでいくことであるように思っている。
自分に問いを突きつけてみて、「なぜ先生になったのか?」という問いは、あまりにも厳しい、危険な問いであることが実感できた。
ところで、陰鬱な話ばかりを並べてきましたが、先生をやっていると面白いこともあります。思いもよらない学生の反応が返ってきて、爆笑したり、どうにもならないと思っていた学生が大化けしたり、それぞれの学生にそれぞれの深みがあることをちょっと知ることができてしみじみしたり。なかでも、苦心して教材、カリキュラムを開発して、学生に大受けしたりすると(滅多にあることではありませんが)、かなり幸せです。
どうも教師という職業は、自分とその仕事を掘り下げていくインナーワークと、他者とつながり文化を育てていくインターパーソナルワークの両方が必要な仕事のようです。答えになったでしょうか? Yくん
2003/8/19(Tue) <タコ部屋>
今朝は肌寒い。早朝は快晴で、そのあと不穏な雲行きだったが、また回復して青空が広がっている。新しい研究室は、4人部屋だけれども、前より明るくて、快適である。しかし、ドクターコースの院生の部屋は、ほとんどタコ部屋状態で、気の毒である。5人が小さな窓が一つしかない狭い部屋におしこまれている。世界各国から研究に来ている学生たちである。学生といっても、私よりも年長者が多い。イギリスの教育改革の結果がこれである。スタッフの温かさと親切に助けられてはいるが、教育、研究環境は、かなりお粗末といわなくてはならないだろう。長い目でみたときに、この大学で進行している、タコ足生活、タコ部屋生活が、イギリス社会全体のためになるのかどうか、かなり疑問である。日本も、経済が厳しいことは承知の上だが、教育研究費、そして留学生へのサポートはケチらないでほしい。これは将来への意味ある投資でもあるからだ。
いつのまにやら、8月も下旬にさしかかっている。夕暮れがずいぶんと早くなった。
2003/8/18(Mon) <白鳥>
先週半ば頃から、一時期の暑さは峠を越して、イングランドのusualな夏が戻ってきた。半袖だとときどき風がひんやりと感じられる気持ちのいい夏である。週末は、イングランドのフットボールのシーズンが開幕し、ノリッチも賑やかだった。残念ながら、今はプレミア・リーグから降格して、1部リーグに位置しているのだけれども、ノリッチにもフットボールのプロチームがあり、市民に愛されている。試合の日になると、黄色いユニホームを着たファンたちが、長蛇の列で楽しそうに歩いている。ちょうど私たちの家がスタジアムの近くなので、窓から人々の様子が見える。一度、見てみようと思って、5月だか6月だかにスタジアムに足を運んでみたのだが、チケットは完売だった。とても人気があるのだ。
開幕戦とあって、フットボール・スタジアムは満席だろうから、私たちは車で10分もかからないCountry Parkを訪ねた。ここもまたブロード(湖沼地帯)の一部であり、護岸工事のしていない川、湖とたわむれることができる。川では、カヌーを楽しむ人々、ヨットを楽しむ人々、そして岸の芝生では、ゆったりと休日を楽しむ人々がいて、ゆるやかな時間が流れていた。川には、白鳥がいて、羽を広げたり、毛繕いをしたり、さまざまな姿態を見せてくれた。エサをもらえると思ったのか、私たちの目の前でいろんな動きのサービスをしてくれたのだが、あいにく白鳥にあげられるようなものは何ももっていなかった。羽を広げた白鳥は、とても立派だった。また黒い足にはしっかりとした水かきがついていて、これもまた立派だった。
また新しい一週間が始まる。お元気で!
2003/8/15(Fri) <引っ越し>
イースト・アングリア大学での研究室の引っ越しが終わった。こちらの引っ越しは、日本からみると、かなりいい加減で、システマティックとはとうてい言えない。試行錯誤してみて、ありゃ、あれがない、これがない、という感じで、いきあたりばったりにやっているという感じである。しかし、こちらの人々は、粘り強いし、あまり気にしないところがあるので、これでもそれなりに成り立っているところが面白い。
私の新しい部屋には、本棚がなかった。正確に言うと、本棚はあったのだが、ほかのスタッフの本で埋まっていたのだ。ほかのスタッフの本を詰めて、私の本の空間を作ろうかという話にもなったが、遠い本棚は使いづらいので、私はそれを断り、机の上に本棚を作ることにした。ちょうど、引っ越しで不要なファイル・ケースがゴミとして出ていたので、廃品利用ということで、小さなのこぎりとペンチを使って、ハンドメイドのブックスタンドが完成。なかなかいい出来で満足している。それにしても、のこぎりやペンチ、ドライバーがすぐに出てくるところが、さすがはDIY(Do it yourself)の国。こちらでは、DIYのお店が発達していて、誰もが日曜大工をやっている。そして、そのレベルが高い。一方で、業者のレベルが低いので、もう自分でやっちまえという感じになる。人々の工作のレベルが高いから、業者のレベルが上がらないのか、あるいは業者のレベルが低いので、人々のレベルが高くなるのか、卵が先がにわとりが先か、わからないけれども、素人は手を出すなという日本とはかなりの違いである。
私がファイル・ケースの金属の留め金を外そうと四苦八苦していたところ、これを見かねた大学の女性スタッフがちょちょいのちょいと、問題解決をしてくれた。私は、金属の留め金を外すというストラテジーしか思いつかなかったのであるが、彼女は、金属の留め金を内側に折り曲げるという新たなストラテジーを開発したのである。このとき、私は、イギリスの教育というか、学びは、かなり深いと感じた。ストラテジーを自分たちで工夫していく力、これこそまさに生きる力であり、生きた力なのだが、それが鍛えられているように思われたのである。一見すると、こちらはいきあたりばったりで、効率が悪いように思われる。確かに、そういう面はある。しかし、いったんうまくいかなかったとき、いったんトラブルにはまったときの対応の深さには、驚かされるものがある。
昔、父が「家を自分で建てたら、ほんとうに自分の家という気がするだろうな」とポツリと話していたのを思い出す。北の国からのように、自分で家を造ることができたら、これもまたすばらしい人生だろうが、さすがに凡人にはそこまでの時間と技術とゆとりはない。こちらの人たちは、家の外枠は100年も200年も前の煉瓦造りのものを使い、内側は自分たちで工夫している。これは仕事をもち、生活のある人々にとって妥当な仕事量であるといえる。自分の衣・食・住を自分で創り出していくということは、人間をエンパワーメントすることである。逆にいえば、衣・食・住をすべて外注しているということは、自分の力を剥奪されているということにもつながる。
妻は「古屋を買って、いろいろと工夫したい」と言う。楽しそうな試みである。かつて私たちは古い木造の都営住宅に住んでいた。そこでは庭に小屋を建てたり、トマトを植えたり、いろんな工夫の余地があった。先日、北海道の森から、イギリスの私たちのところに本が送られてきた。『森(←ほんとうは木に水に土)に生きる』徳村彰・杜紀子(雲母書房)、『森に学ぶ』徳村彰(雲母書房)である。かつて東京経済大学のゼミ合宿でも訪ねたことのある北海道・滝上町・滝西にある森(熊出沢という、ほんとうに熊が出ることもあるらしい)では、おじじ(徳村彰さん)が自分の力で丸太小屋を建てている。身体の芯から温まる手作りの五右衛門風呂もある。自分の力で、そして人との協働の力で、生活の質を高めていくこと、これこそ生きる喜びである。
2003/8/14(Thu) <イラクのこと>
久しぶりに自分の外側に目を向けて: 連日のように、“戦争が終わって、悪の枢軸フセイン帝国が駆逐され、平和が訪れたはず”のイラクで、米兵・英兵がイラク国民との紛争で命を落としているという報道が流れている。
報道のニュース・ソースは、ほとんどが西側のメディアである。にもかかわらず、報道は“被害を受けている”米兵・英兵に同情的ではない。たやすく推測できることは、一人の米兵・英兵の死の向こうには、それをはるかに超えたイラク国民の死とその生活への抑圧があるということである。
“戦後”になり、“残念ながら”、池澤夏樹さんが警告していたことの正しさがはっきりと示されている。それは、戦争によって、イラクに住む人々の多くは以前よりも不幸になったということである。同時に、故国を離れて、イラクで若い命を落とすことになった米兵・英兵もまた、不幸である。そもそも先進国内の第三世界というべき貧困という不幸が若者たちを軍隊にいざない、彼らはイラクに送られてきたわけであるが、まだ英米の若者たちは軍隊に入るかどうか、わずかながら“選択の余地”はあった。だが、イラクに住む人々は、イラクに生まれてきたというだけで、“選択の余地”はなく、戦闘に巻き込まれている。不幸の重さを比較するのはナンセンスかもしれないが、イラクに住む人々の不幸はさらに重い。
池澤夏樹さんのルポルタージュによると戦争の前、イラクには十分な食料と子どもたちの笑顔があったという。そして、“正義の戦争が終わった”今、そこには怒りと絶望が充満している。無秩序が横行している。
イラクが混迷すればするほど、戦争に反対していた人々の懸念が正しかったことが証明される。しかし、この証明は、イラクに住む人々の取り返しのつかない痛みを通して、行われるのである。こうした証明はもういらない。侵略兵の“米英軍”は即時撤退し、たとえば国連をベースとして、イスラム社会に理解ある人々を中心とする支援組織を派遣する等、何らかの代替措置をとらなければ、不幸のベクトルは変わらないであろう。
一人の米兵・英兵の死の向こうにあるものをみるとき、戦争がもたらした無法と不幸のはなはだしさに、憤りと悲しみが沸き上がってくる。以下は、田中宇(たなかさかい)さん国際ニュース解説からの抜粋です。
「7月27日、バグダッドのマンスール地区(かつての高級住宅街)で、米軍
の部隊が一軒の家を襲撃した。その家にサダム・フセインが隠れているかもし
れないという情報に基づいて襲撃したと報じられているが、実際のところその
家にはサダムはおらず、それどころか米軍が周辺を通るイラク人の自動車に警
告せず無差別発砲したことから、一般市民に数人の死者が出る結果となった。
この日の襲撃に際し、米軍部隊は75人でやってきて、問題の家のまわり道
を封鎖した。ところが、その家が面している表通りを何十メートルかにわたっ
て封鎖したものの、表通りに交差するいくつかの細い脇道を通行止めにしなか
った。そのため、何も知らずに脇道から表通りに出てくる自動車があり、米軍
はそうした車の一台に対していきなり乱射した。その車(トヨタ)に乗ってい
たのは近所の一家だったが、3人が死亡、1人が重傷を負った。車には30カ
所近くの弾痕が残っていた。」(情報源−ニューヨーク・タイムズ)
「これと前後して、表通りを封鎖した地点でも、事情を知らずに接近してきた
何台かの乗用車に米軍が乱射した。そのうち一台は炎上し、乗っていた2人が
焼死した。別の車は発砲されて向きを変えて走り去ろうとしたが、米軍はそれ
を追いかけて発砲し、運転手を殺した。いずれも、米軍は接近してくる自動車
に対して警告を発せず、突然発砲して一般市民を殺害した。また米軍は死傷し
た市民を病院に運ばずに放置した(近所のイラク人が病院に運んだ)。これら
のことから、この日の事件は多くのイラク人を激怒させた。」(同−ガーディアン)
「これと前後して、北部の町モスルでも、モスクに行こうとしていた群衆を米
軍が通行止めにして、怒った群衆が投石したところ、米軍が群衆に向かって乱
射する、という事件が起きている。(同−ワシントン・ポスト)
また、ゲリラ掃討を目的に米軍が一般市民の家庭を襲撃し、その家族の男た
ちに手錠をかけ、捜索の結果、彼らがゲリラではないと分かっても、そのまま
手錠を外さずに米軍が立ち去ってしまったり、家族がタンス預金として隠して
いた現金を「テロ資金の疑いがある」と称して持ち去ったりするケースが、イ
ラク全土で相次いでいる。(同−エコノミスト)
2003/8/13(Wed) <訂正>
猛暑のパリでは、50名以上の死者が出ているとのこと。それにしても、パリで観測史上はじめての熱帯夜を記録したというのだから、ヨーロッパ人がいかに暑さに慣れていないのかがわかる。日本では、25℃の夜なんてかなり涼しいうちである。
さて、8月10日付と11日付のコラムで、37.1℃の最高記録の話とその訂正を行ったが、実は10日の話が間違っていなかったことが今朝、判明した。この問題のややこしさは、イギリスでは8月10日に三度(みたび)、観測史上最高気温が更新されたというところにあった。まずグレーブセンドで“37.1℃”を記録し、次にヒースローで37.9℃を記録し、さらにグレーブセンドで38.1℃を記録したらしい。10日のラジオ・ニュースでは、最初の“37.1℃”の話をしており、どうも間違っていなかったようである。
では今日はこの辺で!
2003/8/12(Tue) <ゆうぐれ>
今週の金曜日に、研究室の引っ越しである。昨年も東京経済大学で研究室の引っ越しがあったのだが、今年もまたイギリスで引っ越しで、引っ越し続きの人生である。しかし、今回はさほど荷物が多くないので、引っ越しそのものは楽である。しかしながら、引っ越しに伴うやりとりは、英語であり、なかなか面倒である。先ほども引っ越し担当のスタッフが研究室を訪ねて、いろいろと話をしていったのだが、どうもよく聞き取れない。4ヶ月が経ち、5ヶ月目に入ったというのに、この進歩の遅さは残念である。面倒になって、11時のティー・タイムをさぼっていたことのツケが出ているのかもしれない。自覚的に学ばないと、どうも楽なほう楽なほうに逃げてしまっていけない。これではせっかくイギリスまで来た意味がない、と反省しきり。
さて、まだ昼は長いのだけれども、もうすごい勢いでゆうぐれが早くなってきている。9月の秋分の日には昼と夜の長さがフィフティ・フィフティに戻らなければならないので、こんな勢いなのだろうが、数日ボッーとしていると、10分から20分ぐらい早まっているような体感である。
灼熱の夏は、昨日でほぼ収まり、今日はまずまずの夏である。4月から8月まではおおむねイギリスの爽やかな気候と長い日の恩恵にあずかってきた。クッキーの缶からおいしいクッキーをまず食べたので、これからどんなクッキーが出てくるのか、お楽しみである。そもそも夜型人間なのでイギリスの長い夜を楽しめるかもしれない、と、かすかな希望と大きな不安。では、また!
2003/8/11(Mon) <38.1℃>
やはり英語の聞き取りが甘く、37.1℃というのは1990年に観測されたこれまでのイギリス観測史上最高気温だったようで、昨日は、ロンドン・ヒースローで37.9℃、そしてイングランド南東部のケント州・グレーブセンドで38.1℃を記録したらしい。こうして、“めでたく”イギリス観測史上最高気温は更新されたわけである。
今日も暑い一日になりそうである。ではまた!
2003/8/10(Sun) <37.1℃>
こちらは暑くないと一生懸命言い張っていたのだが、今朝のラジオ・ニュースによるとイングランド南部の気温は、37.1℃まで上がっているとのこと。いよいよ危険水域に入ってきた。もうこれはヨーロッパではないかもしれない。たしかに昨日の日中、運動をしていたら、あまりの暑さにへばってしまい、いよいよ体力の衰えかと思っていたのだが、あるいはただ暑かっただけかもしれない。
日本であれば、37.1℃の日に外で運動をしようという気持ちにはとうていならないものだが、こちらは天気良さそうだな、ちょっと身体を動かしてくるかという気分になる。37.1℃でも10℃でも、ほとんど空の感じが同じなのだ。しかも、湿度が低いものだから、最初のほうは暑いという感覚すらない。しかし、しばらくすると、身体がじりじりと焦げてきて、何かヤバイのではないかという気になり、木陰に入ると、そこは涼しい。
さらに日本であれば、37.1℃の日にクーラーなしで過ごすのはかなり厳しいのだけれども、こちらは家にいて窓を開けていれば、何てことはない。やはり、頑固者の私は言い張るのだけれども、日本のほうがずっとずっと暑い。
何やかにやと負け惜しみを言っているのだが、一生のうちそう何度も経験できないであろうせっかくのヨーロッパで迎える夏が、史上最高(気温)の夏とは、何ともついていない、ともいえる。まあ、おまえの日頃の行いの報いだと、日本から笑ってやって下さい。日本は今週はお盆の週ですね。帰省の方はどうぞ道中気をつけて。ふるさとでいい思い出を。では、よい一週間をお過ごし下さい!
2003/8/8(Fri) <レ・ミゼラブル>
炎暑の中、行ってきました、London Palace TheatreのLes Miserable!
大学時代に、ヴィクトル・ユーゴーの岩波版原作(翻訳)を読んで、涙し、同じ大学時代に、帝劇で上演された日本版を二度観劇して、またまた涙した私にとって、本場ロンドンのパレス・シアターでレ・ミゼラブルを観るのは、長年の夢でありました。
さてさて、ノリッチの田舎のねずみの私にとって、大都会ロンドンに出るのは大仕事。評判通り、イギリスの列車は遅れるし(線路が伸びているのかどうだか知りませんが)、これに加えて、地下鉄まで遅れて、その上に、冷房のない地下鉄は蒸し風呂状態。ほうほうのていで地下鉄を降りて、ピカデリー・サーカスの駅から地上に上がると、そこはロンドンの中心地。写真を撮って、中華街に向かい、久しぶりの東洋食を食べ、ようやくひと心地がつきました。それから、中華街からほど近いパレス・シアターに到着すると、まさにそこはレ・ミゼラブルのための劇場です。外観からも雰囲気たっぷりでありました。
劇場の中に入り、プログラムを購入して、座席に向かいます。座席はドレス・サークル(中二階のようなもの)の6列目中央。役者さんの視線がちょうど向かうポジションで、かつての帝劇の最も安い席とは雲泥の差(あのころは貧乏でありました)です。しかも、このパレス・シアターは帝劇よりずっとずっと小さく、やはりミュージカルも演劇の一つであるからには、こうしたサイズがベストだと思われました。座って開演を待っていると、オーケストラの生演奏とともにいきなりミュージカルが始まりました。前置きがなく、本題に突入するイギリス式にはびっくりさせられましたが、これぞプロフェッショナルという感じです。
劇の内容は、と申しますと、一人ひとりの役者さんの動き、歌、そしてコーラス、大道具、小道具、照明、オーケストラと、すべてがすばらしく、英語はほとんど聞き取れなかったものの、凝縮された3時間があっという間に流れました。なかでもとりわけ、ファンティーヌとエポニーヌの演技は泣かせるものがありました。また、主役のジャン・バルジャンもよかったのですが、それ以上に存在感があったのがジャベルでした。彼の中の正義に従って、ジャン・バルジャンを執拗に追い続けたジャベル。追跡の中で、人間存在の深みを知り、おのれの正義に疑義が生じたときに訪れるジャベルの最期。このジャベルを、役者のMicheal McCarthyは濃く深く表現してくれました。この役者さんは西郷どんのような大柄で濃い顔立ちでそもそも存在感十分だったのですが、音量と表現力豊かな歌声にもしびれました。
さらに、このミュージカルの楽しみの一つである、テナルディエ夫妻の悲しいほどのあさましい滑稽さも、もう最高です。盛り場、ダンスパーティでの踊りとコーラスには、笑い転げるとともに、すべてがハートに訴えかけてきて、涙がボロボロ出ます。
3時間のミュージカルが終わり、拍手喝采が鳴りやまない中、役者さんたちはキラキラと輝いていました。私も、昨夏のルーブル、オルセー美術館で巨匠の絵画を観て打ち震えたとき以来の、人間の築いてきたものに対する、はかりしれない重みと荘厳さを突きつけられ、このミュージカルにかかわったすべて人たちに深い敬意を感じていました。
評判通りのイギリスの列車は、帰りもまた遅れました。劇場の熱気がレールを伸ばしたのでしょうか。昼間の公演(マチネ)でしたが、ノリッチに帰り着いたときには、イングランドの長い日がとっぷりと暮れていました。人間が築いてきたはかりしれない重みと荘厳さに対して、“この私”は、何を応答できるのか、レ・ミゼラブルは今も頭の中に渦巻いています。
2003/8/6(Wed) <熱帯>
日本からのメールによると、今夏のヨーロッパは猛暑続きで大変らしい。ヨーロッパの一角に住んでいるはずの私が、ヨーロッパからずいぶん離れているはずの日本から、こうした情報を受け取る。そして、もしや暑いのではないかと思い、どこに暑さが転がっているやらと、キョロキョロしながら探す。そして、そうそうこんなところに転がっていた。やっぱり今夏のヨーロッパは記録的な猛暑なのだと確認する。これこそ、まさに情報化社会の何たるかをみごとにあらわしている。
というアホな前置きはさておき(もちろん実話ですが)、今夏のヨーロッパは猛暑続きで大変らしい(あはは、また繰り返している)。このように人ごとのように書いているのは、そもそもノリッチという街は、ヨーロッパのなかでも北にあるイギリスの、その中でも最も寒い東海岸に位置しているので、こちらで記録的な暑さといわれても、九州育ちの夏には滅法強い私にとっては、あまりどうってことはないからである。
しかしながら、日本からの情報に刺激され、耳を澄ましてラジオを聴いていると、スペインやフランス、イタリアでは大変な猛暑だというニュースが流れている。また暑さでレールが伸びて、鉄道のダイヤが乱れているというニュースも流れている。そして、旅行はとりやめたほうがいいとか、熱中病にならないように気をつけろとか、昼間は外に出ないようにとか、さまざまな注意が行われている。私は、暑さでレールが伸びるなんて、アホなレールやなあ、と笑っているが、雪が降って東京で大騒ぎしているのと同じよ、こちらの人たちは暑さに慣れていないのよ、と賢い同居人に諭され、ふ〜ん、そうかなあ、と思う。しかし、日本用のレールとヨーロッパ用のレールなんてあるのだろうか? 日本はあの暑さの中でも、レールが伸びちまったなんていう話は、あまり聞いたことがないのだが。
さて、今日は日本にいたら、私立大学連盟の教職員野球大会に参加したであろう日。東京経済大学は初戦突破できただろうか。健闘を期待しているとともに、不在のときに快進撃されるのもちょっと複雑という心情。しかしながら、あの夏の日本のグラウンドの暑さにくらべたら、ノリッチの暑さは大騒ぎするほどのものではない。朝晩は、窓をあけると涼しい、ときにはちょっと冷たい風が流れてくる。それでも、同居人は家でレールのように伸びているから、やっぱり暑いのかもしれない。
何はともあれ、地中海あたりでヴァカンスでも、とか考えなくてよかったと思いながら、中くらい暑いノリッチの夏を過ごしております。明日はちょっとお楽しみ。また明後日にレポートします。
2003/8/4(Mon) <夏休み>
8月に入り、大学のスタッフも夏休みに入った人が多くなったようで、今朝は駐車場がずいぶん空いていた。それでも、こちらの大学の人々はフレキシブルに夏休みをとることができるようであり、9月になって夏休みをとるスタッフもいる。
で、私はといえば、ずっと夏休みのようで、またずっと仕事をしているような生活を続けている。こちらに住んでいること自体、一つのヴァカンスのようなものだから、どこかに長期間出かけるということもなく、この辺りをウロウロしているだけである。日本にいたときは、イギリスに行ったら、この夏休みはドーバー海峡をわたってヨーロッパ一周だ!と意気込んでいたけれども、現実にはずいぶんとおとなしい生活をしている。
さて、今日は快晴。爽やかな気候である。しばらく日本の秋雨のような天候が続いていたけれども、再び夏が戻ってきたようである。ところで、おとなしい私とは対照的に、私のスーパーヴァイザーであるアイヴァーは8月中旬から世界中を巡るとのこと。アイヴァーは旅人である研究者なのだ。ゆったりとしているがいつも動いている。アイヴァーがいるうちに、いろいろと尋ねることを済ませておかなくては・・・ というわけで、仕事に戻ります。では、よい1週間を!
2003/8/1(Fri) <8月>
今日から8月。朝から雨が降っていて、空が重い。こちらの曇り空はときどき重く、昼間なのに暗く感じることがある。雨が降ると、半分ぐらいの車は点灯する。そのくらい雨になると空は重くなる。しかし、晴れ間が出ると、一挙にまぶしくなる。なぜだかわからないのだけれども、日本以上に明るさと暗さのギャップが大きいような気がする。このギャップが人の精神に影響を与えるのだろう。雨が降ると、人々の表情も曇りがちである。
研究室の窓からは松の木のような木が見える。ふと自分が外国にいるのが不思議な気持ちになる。それでは、よい週末を!