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たまのさんぽみち



  2003/7/31(Thu) <17番ホール>

 今朝も時々晴れ間が見えるけれども、曇り。暑さも落ち着いてきていて、私たち日本から来た人間には、ちょうどいい感じである。日本の夏は地獄の釜のような暑さで、何もすることができないのだけれども(だからこそ、あのクラーの効いた部屋で冷たいものを飲みながら高校野球を観るのが至福なのだ → 高校生たちには、こんな怠け者の大人たちのダシにされないように、ほどほどにがんばってほしいものだが、あの雰囲気は高校生に無理をさせるだけのものはある)、こちらは、自宅にも、研究室にもクーラーはなく、一応、車にはエアコンがついているのだが(ヨーロッパ大陸の車なので)、ほとんど使うことはない。地獄の釜もきついけれども、冷房の冷蔵庫の中もまたきついので、こうして、ナチュラル・エアーの夏を過ごせるというのは、ありがたいものである。(今夏は、日本もナチュラル・エアーの冷夏のようですが)
 さて、7月も今日で終わり。あっという間の7月だった。7月の目玉は何といっても全英オープンで、あの文章を書いたあと、きちんと読者に伝わらなかっただろうなあという忸怩たる思いをもちつづけていたのだが、昨夜、いろいろと整理をしていて、全英オープンの貴重なデジカメ写真があることを発見。加工して、百聞は一見に如かずの17番ホールを作成してみたので、ぜひとも見ていただきたい。同時に、ノリッチ絵日記にSandwichを追加しました。
 では、さよなら、7月、Welcome、8月!

  “ノリッチ絵日記(サンドイッチ)”のページはここ

  “17番ホールの地図”のページはここ







  2003/7/30(Wed) <続ブレア>

 今朝も曇り。肌寒い風だったが、朝、ちょっと近くのお店に出かけて、戻ってきたときには暑くなっていた。しかし、再び、昼には肌寒くなり、山の天気のような東イングランドの夏である。
 ちょうどこの天気と同じように、トニー・ブレアも、どちらに転ぶかの正念場に立たされている。今朝の記者会見では、イラク戦争で、サダム・フセインが大量破壊兵器を所有していなかったことと、デビッド・ケリー氏の死についての質問を受けていたが、これに対して、トニー・ブレアは、イラク戦争は正義の戦争だったと信じている、後世の人々もそう判断するだろう、と答えにならない答えを返している。
 そのあと、ブレアは、話題を転じて、自分の在職期間に、イギリスの経済、教育、福祉がどのように改善されたかをつらつらと語り、イラク戦争のことばかりにこだわらずにこうした内政で評価してほしいと述べている。7月の外遊に出かける前は、イラク戦争の功績を世界で演説し、戦争処理のイニシアチブを発揮することで、国内での不人気を挽回しようともくろんでいたはずなのに、大きな方針転換である。
 これに対して、メディアは、首相は犯罪者の数が減っていると力説しているが、凶悪犯罪の数はむしろ増えている、とつれないコメントである。いずれにしても、デビッド・ケリー氏の死の謎の調査報告が、ブレアの政治生命を左右することは間違いないようである。







  2003/7/29(Tue) <トニー・ブレア>

 今朝は曇り。雨か、晴れか、どちらに転ぶかわからない雲行きである。今年の7月のノーフォーク地方は、こちらの人々によればunusualなことに好天続きだったが、イギリスの首相トニー・ブレアにとってはどしゃぶりの日々が続いている。
 イラク開戦時の情報操作をめぐって、これまでも首相・政府とBBC放送との間の対立関係が続いていたのだが、7月15日に参考人として国家で尋問されたデービット・ケリー博士が、その直後の18日に遺体で発見されるという事件が起こったことで、ブレア首相へのイギリス国民の信頼は地に墜ちている。
 ロイター通信によると、英紙デーリー・テレグラフに掲載された世論調査では、調査に応じた人の47%が、ブレア首相を信じない、と答えている。“政府には欺瞞と(世論)誘導の文化がある”との意見に賛成した人は全体の68%に上っている。
 8月1日から国防省顧問兵器専門家だったデビッド・ケリー氏の自殺の背景を調査する特別調査委員会が活動を開始とのことだが、首相が一度失った信頼を回復するのは簡単なことではないだろう。ラジオのニュースでは、毎日のようにブレア首相の名前が流れている。残念なことにきちんと聴きとることは難しいのだが、ブレア首相が窮地に立たされていることだけはわかる。
 労働党のニューリーダーとして華々しく登場し、イギリス国内での人気も高く、その後、イラク戦争の鍵を握ることになったトニー・ブレア。だが、戦争への無理な参加とアメリカへの従属を通して、民の信を失いつつある。これからしばらくイギリスの政局は大きく揺れるだろうし、世界の情勢を左右するファクターになることだろう。英連邦(コモンウェルス)、EU(ヨーロッパ)、英語圏(アメリカ)という三つの世界への強いつながりをもつイギリス。ブレアの時代には、英語圏(アメリカ)との関係に傾斜することが多かった。これからは確実にEU(ヨーロッパ)との関係がより重くなってくるだろう。







  2003/7/28(Mon) <秋空>

 夏の好天が続き、そのあと、しばらく夕立が激しく降り、週があけたら、今日は空が秋空にかわっていた。さわやかで肌寒いような朝。夏至から1ヶ月が経ち、もうずいぶん日暮れが早くなったような気がする。調べてみたら、ノリッチの日没は、午後8時55分。明らかに10時頃まで明るかった6月下旬、7月上旬とは違ってきている。イングランドでは、秋の訪れも早いのかもしれない。開放的な季節もあとわずかで、あとは我慢の日々になるのだろうか。
 週末は、どしゃぶりで、夜の街を徘徊する若者たちも、いつもよりおとなしかった。しかし、いくらどしゃぶりでも、多くの人々は傘をさすこともなく、走りもしない。一体どうなっているのだろうかと思う。またどしゃぶりでも、目の前を流れるウエンズン・リヴァーの水かさはほとんどかわっていないようだ。このノーフォーク地方全体がぺっちゃこだからだろうか。普段から川はどちらに向かって流れているのかわからないような感じである。
 もう一つ、こちらではじめて写真を現像したのだが、ミディアム・サイズというのに、日本のキング・サイズの二倍ぐらいの大きさだった。私ははじめ大きくて喜んでいたのだが、収納はどうするの?と言われて、たしかに、と困った。そして、これからはスモール・サイズにしようと思った。それでもまだ大きそうだ。ところで、サイズが大きいのはともかく、写真の粒子が粗いのが気になった。もちろん、大きく引き延ばせば、粒子も粗くなるはずだが、サイズ以上に粒子が粗いように思えるのである。こちらでは、いろんなことが日本以上にアバウトなのかもしれない。アバウトなことが楽なこともあれば、アバウトなことが気になることもある。この微妙な違いが、風土、そして文化なのだろう。
 アバウトが楽に感じるときは、こちらに長くいたくなるし、アバウトが気に障るときは、こちらに住んでいることが面倒になる。こうした感覚を繰り返しながら、ほぼ4ヶ月が過ぎ去っていった。7月もあとわずかである。






  2003/7/25(Fri) <雨>

 ノリッチは朝から久しぶりの雨が降っている。アイルランドからの雲が東イングランドにかかってきて、今週末は天気が崩れるそうである。7月第二週からの真夏の天気も一段落つこうとしている。イギリスでは、7月の平均気温が一年中で最も高いので、もう一年で一番暑いシーズンは終わったことになる。これからはじわじわと時間をかけて凍えていくばかりである。
 さて、今朝、大学に到着し、教育学部の扉から建物に入ろうとしたところで、その脇にあったごみ箱の中から、妙なものが出てきている。そいつは、りすだった。ここ2週間ほど、暑さの中で、日中、りすやうさぎを見かけることがなくなっていたのだが、涼しくなったので餌を探しに出てきて、迷い込んでしまったらしい。ごみ箱から出てきて、きょろきょろしていた。こちらでは、うさぎのほうが用心深く、りすのほうがおまぬけである。
 日本は雨が多く、冷夏のきざしが見えるそうですね。日本のお米が無事に育つことを祈っています。ではよい週末を!






  2003/7/24(Thu) <Thursday>

 今日は木曜日、Thursdayである。ところが私はこの木曜日が大の苦手である。木曜日はセミナーがあったり、お楽しみがあったり、楽しい一日なのだが、問題は木曜日の発音である。私のThursdayはどうもSaturdayに聞こえるらしい。何かの予約をしようとして、予約の日がThursdayだったりすると、一苦労することになる。“Please book next Thursday.”というと、“Sure, next Satueday, All right.”という返事が返ってくる。Thの発音をきちんとすることができないので、どうもコイツはSaturdayと言いたいのだろうと受け取られているようなのである。
 曜日すらなかなかうまく言えないとは、ほとんど幼稚園のレベルである。ちょうど先ほども研究室に電話がかかってきて、何が何だか聞き取れなかったのだけれども、“オスマン”ということばだけは聞き取れたので、“オスマンはいない”と言うと、“いや、違う”と言われる。そして、“じゃあ、受話器をおけ(hold on)”と言われたように思われ、沈黙になったので、“何だったんだ、今の電話は”と思いながら、受話器をおこうとしたが、“ちょっと待てよ、受話器をそのままにしていろ(hold on)”と言われたのではないかとふと思い直し、そのまま受話器をもっていたら、受話器からオスマンの声が聞こえてきた。オスマンが交換手に取り次いで電話をかけてきたのである。当然、オスマンはここにいないわけだ。
 あとで辞書で調べてみると、“hold on”には「つかみつづける・(電話を切らないで)待つ」(ランダムハウス英語辞典)という訳がつけられている。そう言われてみれば、なるほどなのだが、私の語感では、“on”と言えば、置くという条件反射。“hold up”と言われるならば、決して受話器を置くことはないのだが、それでは銀行強盗だ。
 全英オープンのあと、月曜日、火曜日と取り憑かれたように観戦記を書いていたが、同居人からも厳しい評価である。ベタで長すぎる。読みにくい。はい、ごもっとも。あわよくば、スポーツ・ライターに転身しようかと思っていたが、これで無理だということだけはよくわかった。そういう意味では、全力をふりしぼって、挑戦し、挫折することはとても大切なことだ。そうしないと、自分という存在について、いくつになってわからないままだ。これを書いている最中に、エリトリアのテクリブが日本人のMA(修士課程)の学生を私に紹介しようと連れてきた。2年間ここでみっちり学び、来週帰国するというその学生は、2年間のサバイバルの体験を一生懸命話して去っていった。彼にとってこの2年間の経験は人生の大きな宝になることだろう。「青年よ、さわやかに敗れよ」。松ヶ丘高校の大滝修先生から聞いたことばである。竹内常一さんが國學院大学の教育実習生たちに送ったことばだそうだ。敗れてはじめて人間は成熟するのだろう。破竹の勢いでゴルフ界を席巻したタイガー・ウッズも、壁にぶつかって、いよいよこれからである。いつの日か円熟したタイガー・ウッズに再会してみたい。そのとき、彼は今よりもさらに輝いて見えることだろう。






  2003/7/21(Mon) <全英オープン観戦記>

 (プロローグ)
 行ってきました。念願の全英オープン。7月20日の早朝4時半にノリッチの自宅を出て、イングランドの南東の端にあるサンドイッチに向かい、最終日の激闘を観戦ののち、無事、帰還したのが深夜の12時半過ぎ。日付はもう21日に変わっていました。まさに長い長い一日でした。おそらく一生に一度だけ、この目で見、身体で感じてきた“つわものどもの夢(のあと)”。テレビで観ているときとは全く違った現実がそこにはありました。この濃密で、いまだまとまりをもたない一日の経験を、メディアに氾濫する物語に出会って、見失ってしまわないうちに、純度の高い状態で、ここに綴っておこうと思います。なお、執筆のさいに、参照したデータは、私自身の観察、記憶のほかに、現地のロイヤル・セント・ジョージで購入したOfficial Programme & Information Guide and Tee Times、そしてThe British OpenのWeb Siteから入手した今大会のプレーヤーたちの公式記録です。各ホールの概要についてはOfficial Programmeを参照しました。3日目のアベレージ・スコアはInformation Guide and Tee Timesに拠っています。さらに各プレーヤーのスコアについては公式記録と照合し、なるべく正確であるように努めました。各ホールのプレーヤーのプレーの詳細については、すべて私自身の観察と記憶に頼っていますので、正確でない記述や記憶違いが含まれているかもしれません。それも含めて、一人の物好きな人間からみた2003年全英オープンゴルフ最終日の“主観的現実”として、この長い物語におつきあいいただけますと幸いです。なお、かなりの長文になることが予想されますので、一度に通読ではなく、分割して読まれることをおすすめいたします。では、長い一日の物語のはじまりです。


 7月20日の深夜から未明にかけて、ノリッチは激しい雷雨にみまわれた。自宅の寝室で、叩きつける雨の音を記憶しながら、ウトウトと浅い眠りの中にいた私は、4時の目覚ましで重い身体を起こした。それから、軽く身支度をしたのち、4時半に自宅を出る。ようやく雨が上がったノリッチの朝、厚い雲のために空はまだ薄暗く、車もまばらだった。イースト・アングリア大学で研究室をシェアーしているマレーシアからのDr.オスマンをノリッチ市内で拾って、一路、ケンブリッジ方面へ向かう。ケンブリッジとノリッチを結ぶ国道A11を走るのは、この1週間で3往復目である。ノリッチからほぼ南西の方角にあるケンブリッジに向けて走ったあとは、A11から高速道路M11に入り、次はロンドンの東部をめがけて、ひたすら南下する。そして、M11がロンドン環状線のM25にぶつかったところで、ロンドン・ヒースロー空港とは反対側の東向きのレーンに乗り、ロンドンと海の間の狭い空間をくぐり抜ける。
 厚い雲は抜けて、イングランドの朝の日射しが戻ってきた。いったん、西に向けて走っていた車は、M25から東に進路を変える。朝陽に向けて、車はM25をかけぬける。日射しが強い。サービス・エリアで朝食をとり、眼鏡をサングラスに変えたあと、テームズ河の河口にかかる巨大な吊り橋を渡る。高くなった橋の中央部からは、右手に大ロンドン、左手にイングランド東海岸が一望の下に見渡せる。朝の日射しに映えて、海岸の街並みがまるでミニチュアのように輝いている。
 大都市ロンドンと東の海にはさまれた狭い空間を抜けると、今度はM25からA2(途中からM2)に左折し、大陸への玄関口であるドーバーに向けて、ひたすら東へ東へと走る。2003年の全英オープンの開催地は、大陸への玄関口であるドーバーからほど近い、サンドイッチ(Sandwich)である。サンドイッチはイングランドの南東部に突き出た海辺の町。ノリッチもサンドイッチと同じようにイングランドの最果ての東に位置している。しかしながら、グレートブリテン島は、ロンドンあたりでくびれているため、ノリッチからサンドイッチへは真っ直ぐに南下することはできず、一度、西側に迂回した上で、再び東に向けて走らなくてはならないのである。このノリッチ(Norwich)とサンドイッチ(Sandwich)は、綴りをみてみると何だか少し似ている。そういえば、イングランドの東海岸には、このほかにイプスウイッチ(Ipswich)、ハーウイッチ(Harwich)といった町がある。このウイッチ(wich)ということばは、海や水といったものと関係がありそうである。
 さて、すべての道路が幹線(とりわけ、M2は大ロンドンとドーバーを結ぶイングランドの大動脈で、時々片側4車線もある)ということに加えて、日曜日の早朝ということもあり、ドーバーまでは快調に進んだ。これならば、8時30分のスタート(当日、8時のスタートに変更されていたようだが)に間に合うのではと安心した途端、サンドイッチまであと11マイルというところからノロノロ渋滞に巻き込まれる。いつもながら、詰めが難しい。やはり、何事も甘くはなかった。
 全英オープンでは、パーク&ライド(郊外の巨大な特設駐車場に車をおき、そこから二階建てのバスで観客をピストン輸送するという方式)で大量の観客に対応しようとしているのだが、パークの入り口がまだまだ見えない地点から車が数珠つなぎになっている。ふとガソリン計を見ると、1/4ぐらいまで減っている。渋滞でガソリン切れになっては洒落にもならないと、アイドリング・ストップしながら、パークまでノロノロと進む。後ろをみると、さらに渋滞の数珠は長くなっている。ようやくパークが左手に見えてきた。丘陵のすそ野がすべてパークになっており、巨大な自動車展示場が数十個結集しているようでまさに壮観である。もうすでに雲霞のような車がそこにはあった。渋滞をノロノロと進み、何とか車をパークに止めたあと、今度はピストン輸送のバスも渋滞する。結局、会場に到着したのは10時をまわっていた。ドーバーまでの約200マイルを3時間で走ったのに、最後の11マイルに2時間が費やされた。(しかし、この行きの渋滞はまだ朝飯前のものだということに、帰りになってようやく気づかされるのであった)
 渋滞はあったけれども、サンドイッチの町は、緑の丘陵と青い海と赤と白のかわいらしい家の造りが見事に調和した町であり、全英オープンはなくても(いや、全英オープン(の渋滞)がなければ)、ぜひとも観光に訪れたい町だった。この町は古い時代の街並みがそのまま保存されている町で、道路はとても狭い。バスが2台すれ違うにもとにかく難儀する。町の道路は、一方通行並みの狭さである。同時に、ヨーロッパへの玄関口ドーバーから至近距離にあり、ロンドンからのアクセスもいいときている。このように今年の全英オープンゴルフは、渋滞の条件を見事に揃えているわけだが、それでもこのサンドイッチを開催地のリストから外すとか、せめて区画整理でもして道路を拡張するといった、何らかの手だてをこうじることもなく、バスのピストン輸送(しかも、ピストン自体が渋滞するという何ともスローなピストン)という原始的な方法によって、この問題に立ち向かおうとするところに、イギリス人のすごみが感じられる。これでなければ、伝統と文化を守ることはできないのだ。すばらしい頑固者たちである。

 さてさて、ノリッチを出てから5時間あまり、ようやく到着した全英オープンの会場は、サンドイッチにあるロイヤル・セント・ジョージ(Royal St George's)である。まず簡単にコースについて説明しておこう。ロイヤル・セント・ジョージではじめて全英オープンゴルフが開催されたのは、1894年のことである。日清戦争と同じ年なのだから、この歴史と伝統には驚かされる。それからこれまでに12回のジ・オープンがこのロイヤル・セント・ジョージで開催されている。セント・アンドリュースやミュア・フィールドといったほかの全英オープンのコースと同じように、このコースもリンクス(海岸にあるゴルフ・コース)である。おおむねフラットなコースで、大きな傾斜はない。さらに、コース内にほとんど木がないというのも特徴である。海岸の砂丘に、何とか芝とすすきだけが生えている、そして、そこをゴルフ場にした、というようなコースである。スコットランド海岸のコースと比べると、緯度が低いこともあり、天候は穏やかである。セント・アンドリュースのように、夏でも冬の風が吹きつけることはおそらくない。比較的穏やかな気候のためであろうか、前回、ロイヤル・セント・ジョージで開催された1993年の全英オープンでは、グレッグ・ノーマン(AUS)がトータルで267という好スコアを出して、優勝している。このスコアは、1892年に全英オープンが72ホール制を採用してから現在までの最も低いスコアーとなっており、ロイヤル・セント・ジョージは、汚名返上のために、格段にコースを難しくして、今大会を迎えている。
 それでは、コースの全長、各ホールの特徴を簡単にみておこう。

HoleYardsParHoleYardsPar
14424104144
24184112423
32103123814
44975134594
54204145505
61723154754
75325161633
84554174284
93884184604
Out353436In357235
Out353436
Total710671


 全長7106ヤード(約6498メートル)のパー71のコースである。ゴルフを少しでも経験した人ならわかると思うが、7106ヤードというのは半端な距離ではない。しかもパー72ではなく、パー71である。とりわけ、11番ホールの242yard Par3というのはショート・ホールとしては例がないような長さであり、アマチュア・ゴルファーならばドライバーを使っても届くか届かないかの距離である。さらに13番、15番、18番ホールは、それぞれ459yard、475yard、460yardのPar4であり、第一打を相当いいポジションにつけない限り、ショート・アイアンで第二打を打つことはできず、バーディを狙ってとるのは難しい。表をみてわかる通り、前半の9ホール(Front nine)はPar36で3534yard、そして後半の9ホール(Back nine)はPar35で3572と、後半がParの数値が低い上に、距離は長くなっている。後半でスコアをあげることは至難の技で、前半でつくった貯金をどこまで失わないで済むかの勝負になる。さらにこの数字にはあらわれていないが、コースには106のバンカーがあり、プレーヤーをまさしく奈落の底に突き落とす。(現実にこのバンカーが勝負の明暗を分かつことになった)。またフェアーウエイが狭いのも特徴でその幅はわずかに25yardから30yardである。私が見た限りでは、多くのコースで、フェアーウエイが両脇のラフより盛り上がっており、実際の幅はもっと狭いように思えた。フェアーウエイにボールを止めるのは至難の技なのだ。そして、こうした数字にはあらわれていないが、フェアーウエイの両側にはバンカーよりもおそろしい長い長いラフが待ち構えている。

 さて、これ以上の専門的な解説は、専門家に任せることにして、観戦記を進めよう。Dr. オスマンとともに会場に到着した私がコースで最初に行ったことはトイレを探すことだった。親切な会場運営のおじさんが、親切かつ丁寧に教えてくれたのだが、私の発音だと「トイレはどこですか?」というような簡単な質問でも、“Pardon?”と必ず一度聞き返されるのが、悲しいところである。しかし、こんなことで落胆しているわけにもいかず、トイレを済ませて、準備万端の私は、気力充実、はりきって、プレーヤーとともに18ホールを2回まわろうと意気込んだ。
 ご存じのように、ゴルフのトーナメントの決勝ラウンドでは、前日までのスコアが高い順に(ゴルフではスコアが低いほうが上位なので、最下位からということになる)プレーをスタートする。したがって、アーニー・エルスやタイガー・ウッズなどの皆さん(私も)お目当てのプレーヤーが登場するのは、午後からであり、午前中は今大会は低迷しているプレーヤーのプレーを楽しむことになる。もちろん、低迷しているとはいえ、全英オープン・ゴルフの決勝ラウンドまで残っているプレーヤであり、そんじゃそこらの低迷とはわけが違うのは、いうまでもない。たとえば、セベ・バレステロス、ホセ・マリア・オラサバル、ジャスティン・レナード、ディビッド・デュヴァルといったそうそうたる面々も、予選ラウンドですでに姿を消している。そして、昨年来、私がイギリスでプレーを見るのを楽しみにしていた丸山茂樹選手も、1日目に83という惨憺たるスコアを叩き、このロイヤル・セント・ジョージにはもういない。(どこかに隠れているかもしれませんが)。
 そういうわけで、私は午前中に(優勝)“圏外”のプレーヤーとともに、ロイヤル・セント・ジョージのコースを楽しみ、午後、“圏内”のプレーヤーとともに、全英オープンゴルフの優勝争いのドラマにしびれようともくろんでいた。ところが、同伴したDr. オスマンは、「おまえは若いからいいが、オレは歳で、そんなには歩けない」とのたまう。ゴルフをやっているのだから歳も何もないだろう、オレが往復運転しているんだぞ、と心の中で思うのだが、ここはイギリス人を見習って、ぐっと我慢する。たしかに、7km近いコースを2回歩くということは(各コース間の移動もふくめると)、15kmぐらい歩くということである。そして、早朝からかなりのドライブをしてきており、さらに(これこそが問題なのだが)、終わったあと、ノリッチまで帰らなければならない。私は、彼の言うことももっともだと思い直し、17番ホールのバックスタンドの最前列で、プレーヤーたちがやってくるのを待つことにした。これが10時半過ぎであった。
 ほとんどすべてのホールのグリーン後方に、バックスタンド(緑色の階段席)が特設されている。バックスタンドは座って快適に観戦できるので、午後になると観客たちで埋めつくされる。しかしながら、午前中はバックスタンドに座っていても手持ちぶさたなので、結構、まだまだ空席がある。前半の9ホールはもうすでにプレーがはじまっているので、ほぼ満席となっており、最終18番ホールは特別なので埋まっていたが、後半の残りの8ホールにはまだゆとりがあった。もちろん、プレーヤーが到着すると、どのバックスタンドもほぼ満席になるが、誰でも見たく(ほしく)なるときには、もう手遅れなのであり、まだ誰もが見たく(ほしく)ないときに動くというのが、人生の鉄則でもあるので、無人の17番のコースを前に、ぼんやりとサンドイッチの青空を見ながら、歩かないゴルファーのDr. オスマンとともに座っていた。
 この17番ホールのバックスタンドは北側を向いている。そのために、日射しも照りつけてはこない。当日のサンドイッチは、好天で、日射しはかなり厳しかった。途中、風が吹くことはあったが、日射しはずっと照り続けていた。こちらは緯度が高いのだけれども、日射しは日本と同じか、それ以上に厳しい。たとえば、カンボジアのような南の国に行くと、あまりにも暑いので、日中、長い時間、外に出ているのは不可能なため、そう長く日射しにさらされることはない。これに対して、イギリスでは、日射しは強くても、気温はそれほど上がらないので、長い時間、日射しにさらされても熱射病になるということはない。そして、そのために、逆に、長い時間、肌が陽にさらされ、日射しにやられてしまう。全英オープンのカメラマンたちは、焦げるように日に焼けていた。北国の日射しは、恐ろしいのである。
 カメラマンといえば、現場で見ていて、テレビで見ているのと最も大きく違ったのは、カメラとそれを担ぐカメラマンを見ることができたということであった。テレビカメラは大きくて重い。あれは下手をしたら20kgぐらいあるかもしれない。カメラマンはあのカメラを肩にかついで、7キロのコースを歩いている。ゴルフはどこにボールが飛んでいくかわからない。カメラを固定するわけにもいかない。だから、結局、人間がカメラを担いで、プレーヤーとボールを追いかけるというローテクに頼らざるを得ない。日本のテレビ局のカメラマンもいた。あれは過酷な仕事だった。手足は真っ黒でふくらはぎはパンパンに張っていた。スタッフの苦労は並みではないと思った。さらに日照りに加えて、雷雨でもあれば、どんなにか大変なことだろう。
 もう一つ、特設のバックスタンドの建設のことも思った。当然、この大会のために、バックスタンドはつくられている。ゴルフ場はフラットではなく、足場は悪い。もし、バックスタンドが倒れるようなことがあったら、恐ろしいほどの被害が考えられる。バックスタンドを建て上げた職人の人たち、総動員の町のポリスマン、ほかの多くのスタッフの人々、ものすごい人々の支えによって、この世界的なイベントが支えられているのだということを、この現場に来て感じた。
 さて、バックグラウンドから無人の17番ホールをぼんやりと眺めながら、一つのホールを見続けて極めるのと、全部のホールを巡るのと、どちらが全英オープンに深く迫ることになるのだろうかと、これまたぼんやりと考えていた。とにかく、どちらにせよ、自分が楽しいと思えるような観戦をすればいいではないかという結論が出た頃、予想していたよりも随分と早く最初の組が17番ホールにやってきた。8時スタートの第1組が到着したのは、11時頃だった。コースの距離の長さ、プロとしての読みの時間などを考えると随分と早い。全体としての印象だが、世界の一流のプレーヤーたちは総じてプレーがスムーズで、動作に弛みがないと感じた。
 この17番ホールは、428yardのPar4。前日のデータを見ると、平均ストロークが4.17。ボギーが16人でダブルボギーが1人であるのに対して、バーディはわずかに5人。決して易しくはないというデータが出ている。第1組の2人のプレーヤーは、第一打をともにラフに入れたのだが、第二打できっちりグリーン、あるいはその周りまで運び、パーをセーブした。彼らのプレーをみていると、この17番ホールがさほど難しいホールには感じられなかった。
 最初の2人がグリーンに到着したとき、バックスタンドからは拍手が起こり、プレーヤーは帽子を少し持ち上げて挨拶をした。その仕草が何ともさまになっていた。ゴルフとは球を打つだけではなく、コースをまわっている間のすべての振る舞いなのだと、このとき思った。そして、ここを訪ねる観客は、プレーだけではなく、プレーヤーの振る舞いを見るために、ここまで足を運んでいるのである。
 さて、第1組が姿をあらわしてから、第2組が到着するまで、長い長いインターバルがあった。その時間を利用して、私が、このロイヤル・セント・ジョージのコースで唯一、コースの研究を深めた17番ホールについて説明をしたい。このコースの特徴は、狭いフェアー・ウエイと、傾斜のあるグリーンにある。フェアー・ウエイがどのくらい狭いのかは、最初の10人のプレーヤーのうち、フェアー・ウエイをキープしたのはわずかに1人しかいなかった、という事実が物語っている。狭い上に、フェアー・ウエイが、ティー・ショットの方角と平行に走っていないので、第一打をフェアー・ウエイに乗せるのは、至難の技である。このホールは、軽い左ドッグレッグ(ティー・ポジションから向かって左側になだらかに曲がっていること)である。そして、問題のグリーンは、横長であり、幅はあるが、奥行きは短い。奥行きが短い上に、グリーンの手前側(アプローチする側)は深く傾斜しており、ボールがグリーンの前方に乗れば、フェアー・ウエイまで転げ落ちるようになっている。この傾斜はグリーンの向かって右側が深く厳しく、左側が浅く緩やかになっている。つまり、奥行きは右側がより短いのである。そして、ピンの位置は右側のやや前方にある。つまり、ピンの前2メートルでボールが止まったら、フェアー・ウエイまで転げ落ちるし、ピンの前2メートルでボールが弾んだら、バックスタンドまで飛び込んでしまう。バーディをとるためには、第一打でフェアー・ウエイを確保して(しかも300yard近く飛ばさなくてはならない)、ショート・アイアンでバックスピンをかけてピンのところでジャストにボールを止めるか、あるいは、ロング・アイアンの低いボールで、フェアー・ウエイからちょうどグリーンの傾斜を転がりのぼるように加減して、のぼりきったところでとまるボールを打つか、そのどちらかしかないのである。(もう一つ、グリーン左側の比較的乗せやすい場所に2オンして、ロング・パットを沈めるという方法もある。しかし、誰一人、わざわざ左側を狙うプレーヤーはいなかった。左側には深いバンカー2つと浅いバンカー1つがあり、そこにはまったらトラブルになってしまうのと、グリーンには微妙な傾斜があり、パッティングは難しく、3パットの危険すらあるからである)
 ちょうどバンカーの話をしたが、グリーンのまわりには、5つのバンカーが取り囲んでいる。右に2つの深いバンカー、左には1つの浅いバンカーが前方にあり、グリーン横に2つの深いバンカーがある。もちろん、降りていくための階段つきのブリティッシュ・バンカーである(日本のバンカーとはまったく別物である)。話はそれるが、このブリティッシュ・バンカーは、アマチュア・ゴルファーがプレーする一般のコースにもあって、アマチュアがそこに打ち込むとそれこそ文字通り、どつぼにはまる。そして、フェアー・ウエイの両脇にもきちんとバンカーがプレーヤーを待ち受けている。そして、もう一つ、ラフの話をしておこう。イギリスのゴルフ場のラフは、短いラフ(日本と同じようなもの)と長いラフがある。フェアーウエイを取り囲む長いラフは、簡単にいえば、ススキの野原のようなものである。ここに打ち込んでしまうと、ボールを探すのだけでも一苦労だし、クラブにすすきが絡みついてきて、打つのはさらに難しい。アマチュアでは、一度すすきのに足を踏み入れてしまったら、ただそこから脱出するだけでもそう簡単なことではない(札幌の同名の地名とは関係ありません。念のため)。
 この全英オープンでたたかっているつわものたちは、こうしたコースと格闘しているである。さてさて、コースの説明をしているうちに、ようやく次の組がやってきた。この組もラフからの第二打である。深いラフから打っているので、スイングの軌道もあまりスムーズではないし、ボールの軌道もあまり感心しない。低く曲がったボールがこちらに向かって飛んでくる。もしプロの凄さを見たいのであれば、整備されたコースで行われる日本のトーナメントを見るほうがいいだろう。私は実際に見たことはないのだが、おそらく日本のトーナメントでは、プロの正確無比なショット、パットを見ることができるだろうと思う。日本の多くのコースは、箱庭のように、見事に手入れされているからだ。これに対して、全英オープンは、プロの卓越した技術を見る場ではなく、世界の一流プロですら、苦しみ、もがかなくてはならない、人間のはかなさともろさ、そしてそれゆえの尊さを見る場であるように思う。第2組のプレーをみても、世界の一流プロの凄さは感じられず、彼らの何が卓越しているのか、わからないままだった。
 上記の17番ホールのさまざな罠や仕組みも、すべてを見たあとに、理解したことであり、最初は17番ホールのどこが難しいのか、わからなかった。グリーンが傾斜しているところはトリッキーだが、ほかは何の変哲もないホールに見えるのだ。Dr. オスマンに「今日、何人のプレーヤがこのホールでバンカーに入れると思うか?」と尋ねたところ、彼は「ノーバディ(誰も入れない)」と返答した。世界の一流のプロだから、幅広いグリーンの両脇にあるひどいバンカーになど、入れるわけがないというのがその理由だった。私は、最初7人と適当に自分の意見を言ったが、オスマンの話を聞いて、一流プロが入れるわけないよなと説得された。ところが、このあと、魔女にさそわれたかのように、一人また一人と一流プロが入れるはずのないバンカーにひきこまれていった。おそらくテレビで観ているアマチュア・ゴルファーの人たちは、一体このコースのどこが難しいのか、わからないと思われていることだろう。そして、自分がプレーしても、パーか、あるいはボギーがとれるんじゃないかと思っている人も少なからずいることだろう。これに対して、全英オープンでたたかった経験をもつ解説の青木功さんは、言葉を尽くしてこのコースの隠された難しさを伝えていることだろう。フェアーウエイから打つことが許されるならば、たとえ残り200yardの距離があっても、決勝ラウンドまで残っているプレーヤーたちは、誰一人、両脇のバンカーには入れることはないだろう。しかし、あのすすきのラフから打って、ボールをコントロールするのは並大抵なことではないのだ。
 さて、第2組に続いて、第3組が登場した。ご存じ、マーク・オメーラ(USA)の登場である。拍手もひときわ大きくなる。帽子を軽く上げての挨拶もさまになっている。やはり知っているプレーヤーを間近で見ることができるというのは楽しい。こちらは何といっても一列目のかぶりつきである。しかも、ピンの目の前に位置どっている。SS席である。奥行きのないグリーンなので、プレーヤーとはほんのすぐの距離である。ゴルフについていろいろと考えるのもいいが、やはりポピュラーなプレーヤーを見るのは楽しい。ミーハーである。オメーラは、まさしく温厚そうなおじさんという雰囲気だった。
 しばらくパーが続いていたが、左側のバンカーにつかまったプレーヤーがついにボギーを叩いた。さすがにここまで残っているだけあって、バンカー・ショットは見事だったのだが、2メートルほどのパー・パットを外したのだ。何の変哲もないパー・パットに見えたが、入らなかった。そして、次にはじめてフェアー・ウエイの抜群の位置をキープしたプレーヤーが、ショート・アイアンでピンそば1メートルにピタッとつけた。フェアー・ウエイからのショット、バンカー・ショットを見ていると、ここに集まっているプレーヤーたちが実はどんなにすごい技をもっているのかを垣間見ることができる。しかし、それ以外のプレー、たとえば、ラフからのアプローチ、グリーン上でのパットを見ていると、彼らが、うまいのか、下手なのか、ほんとうのところ、わからないほどだ。それだけ、コースがちょっと見ただけではわからない罠に満ちており、トリッキーなのだろう。
 さて、ピンそば1メートルにつけたプレーヤーがグリーンにあらわれると、拍手はひときわ大きくなった。そして、観客の誰もが今日はじめてのバーディに出会えることを確信した。アマチュアでもまず入るような1メートルのパットなのだから。しかし、次の瞬間、そのプレーヤは天を仰いだ。1メートルが入らなかったのである。プレーヤーの落胆が伝わってきた。WHY? プレーヤと観客の気持ちは同じだった。わずか1メートルの何の変哲もないようなバーディ・パット。だが、それが入らなかった。そして、数組後、まったく同じ位置から別のプレーヤーがパー・パットを打つ場面があった。彼もまたさっきのプレーヤと同じように外し、同じように天を仰いだ。
 そのパットのラインは、ちょうど私の座っていた位置とピンの線上にあった。私の視点からみても、あのラインはどうしてもほぼストレートに見えるのである。しかし、実はかなり厳しい下りのスライス・ラインでボールは大きく右に転がっていく。さきほどのプレーヤーたちは2人とも同じようにカップの前をボールがかすめて、右にそれていったのである。そして、そのまた数組後、日本の片山晋呉選手がほぼ同じ位置からパットを打つ場面に出くわした。2人の失敗を見ていた私は、「左を狙え、そのラインは思ったより曲がるぞ」と心の中でつぶやいた。片山選手は慎重にアドレスした。足のスタンスがこれまでの2人の選手より左を向いていた。そして、ボールは真ん中からホールに吸い込まれていった。彼のラインの読みは一流だった。しかし、そのパットがボギー・パットであったのはちょっと残念なことであった。
 時間を戻そう。7組目か8組目あたりに、友利選手がやってきた。異国にいると日本人選手を応援したくなるものである。(いえ、異国にいなくても日本のテレビの前ではにわかナショナリストになり、日本人選手を応援していますが)。心の中でここまで残った健闘をたたえ、17番ホールの成功を祈った。しかし、ガムをかみかみプレーしている、その姿にはがっかりさせられた。リラックスのためかもしれないが、私たち観客は、プレーだけではなく、立ち振る舞いもふくめて、選手たちを観察し、魅了させられている。もちろん、ファンのためにプレーするのではないという考えもありうるだろうし、それぞれのスタイルもあるだろう。私の美的な感覚を他者に押しつけることはできない。規則違反でもないのだから。だた、私にとって、ガムをかみかみ全英オープンをプレーするのは美しいとは思えなかった。それだけのことである。友利選手は、第二打を右の深いバンカーに入れた。そして、バンカーショットは上手だったが、2メートルほどのパー・パットを外して、ボギーとなった。バンカーショットには惜しみない拍手が送られていた。
 いよいよ、この17番ホールの物語の一人の主役がやってきた。ご存じ、グレッグ・ノーマン(AUS)である。ノーマンは、1993年、前回、このロイヤル・セント・ジョージで行われた全英オープンの覇者であるとともに、熱情的な性格、彫りの深い端正な顔立ちから、多くのファンを魅了している。ノーマンが第一打を打ち終えて、こちらに向かってくると、バックスタンドはもうキムタクを待つファンのような、異様な雰囲気に包まれた。ノーマンは第一打を好位置にキープし、そこからグリーンを狙って第二打を放った。ピンそばでバウンドしたボールは無情にも弾んで、グリーンを超えて、バックスタンドまで転がり、何と私の座席のすぐ前で止まった。第一打がよかったためのトラブルだった。ほとんどのプレーヤーは、第一打でラフにつかまっているので、もう直接、ピンは狙わない。しかし、ノーマンのポジションはあわよくばバーディを狙えるポジションだった。そして、打球は一直線にピンに向かった。だから、今、ノーマンのボールはピンの真後ろに位置どっている私の目の前にある。ナイスショットとミスショット。ほんの紙一重だった。
 ノーマンが仏頂面でグリーンに上がってきた。バックスタンドからは割れるような大拍手である。ノーマンのトラブルとはおかまいなしに、観客はノーマンの登場というだけで興奮し、盛り上がっている。ノーマンはますます仏頂面になる。しかし、仏頂面するとさらに格好よくなる。だから、バックスタンドはさらに盛り上がる。もう処置なしである。服の着こなしのセンスもいいし、高い帽子(ハット)も似合っている。男である私も、しびれるように格好がよく、ハンサムである。ほんとうに格好よすぎる。
 さて、興奮を鎮めよう。プレー中のボールはプレーヤーしかさわってはいけないことになっている。というわけで、このバックスタンドの目の前までノーマンはやってくる。SS席が真価を発揮するときがやってきた。ドキドキした。ノーマンは、私の真下にやってきて、かがんでボールをつかむと、すばやく立ち去り、ドロップ・ゾーンで、ボールをドロップした。(バックスタンド下に入ったボールはそのままでは打てないので、別の場所でドロップすることが許されている。)ノーマンと至近距離にいたのは、ほんの数秒のことだったが、その身体からはオーラが漂っていた。もちろん、彼にはほとんど優勝の可能性は残されていないのだが、プレーに対する意気込みは明らかにほかのプレーヤーたちとは違っているように思われた。この日のノーマンは、ここまで5バーディ、1ボギーでこの日だけでスコアを4つも上げていた。彼は残されたほんの0.1%の可能性に向けて、全力をふりしぼっていた。ドロップの場所についても彼は入念に検討を行った。時間を十分にかけて、彼はボールをドロップした。少し転がってボールは止まったが、そこは難しいポジションだった。ノーマンのドロップは、とてもフェアーだった。高い位置からドロップしたので、ボールはグリーンの反対側に転がることになった。次のアプローチは難しかった。しかし、アイアンをもったノーマンは、難しいアプローチを見事に決めて、アイアンをバッグの中に叩きつけるように、投げ入れた。第三打目のアプローチの成功よりも、第二打目のショットのミスに、憤りを感じてるようであった。そして、これまた2メートルほどのパーパットを、これまた今までのプレーヤーと同じように外して、ノーマンは彼にとって不本意であったであろう17番ホールを大いに盛り上げ、熱情的に去っていった。パットのラインを読むときのズボンを上げる仕草、そして、すべての立ち振る舞いにおける、ノーマンの卓越した格好よさは、私の脳裏に焼きついている。
 ノーマンの次の組に、日本の片山晋呉選手が、日本のテレビ局を引き連れながらやってきた。ノーマンの美しさを見たあとで、オレンジのシャツとカウボーイの帽子の組み合わせは、お世辞にも、格好いいとは言えなかったけれども、プレーには見るべきものがあった。ラフからの第二打がグリーンまで届かずに(ここまで届かなかったのははじめてのケースだった)、パワーの違いを感じさせられ、次の50yardほどの第三打もわずかに短く、グリーンの傾斜につかまって、フェアー・ウエイに逆戻りしてしまったが、そこからパターで坂を上り、難しいラインを沈めて、何とかボギーで逃れた。最終日はここまで1アンダー、そしてこのバギーでイーブン。18番もパーで最終日イーブンでフィニッシュということで、大いなる健闘といえるのではないだろうか。最終的には、片山選手は9オーバーで34位タイという成績だった。
 午前中は風もほとんどなく、とてもいい条件だった。ノーマンをはじめとしてスコアを上げる選手が多かった。しかし、昼過ぎになってから、風が強くなってきた。そして、あやしげな雲が空にたちこめてきた。風雲を感じさせるような雲行きであった。私たちは、片山組まで見届けてから、この17番ホールのSS席を手放すことにした。17番を掘り下げるだけでは、何だか全英オープンに来た気がしないし、せっかくだから、このコースの全体も見てみたいと思ったからである。そして、練習グリーンを見ながら、軽い食事をして、午後の観戦に備えた。練習グリーンまわりには、お目当てのタイガー・ウッズを一目見ようとする人々が集まっていた。


 1番ホール、選手の名前が呼ばれると、大きな拍手が沸きおこり、ここから18ホールの旅が始まる。全英オープンのスタートは、スキーの滑降のスタートに似ていた。ティーの周りを観客がびっしりと取り囲んでいるので、アマチュアのゴルフのように大空に向かってボールを打つというより、スタート・ポジションから目標に向けて、球を打ち出すという感じである。それぞれのホールで、最短距離、最適なコースを探しながら、ゴールに向かう。これもスキーの滑降的である。近道をしようとして、コースアウトすることもあれば、緩く攻めすぎて、スピードダウンすることもある。自らの力とコースの難しさのバランスの上で、最善の道を選んでいく。あるいは、最悪の道だけは選ばないように配慮していく。これが全英オープン・ゴルフである。
 午後2時に35組目(終わりから3組目)のガルシア(Spain)がスタートした。私たちもガルシアとともに1番ホールをスタートした。これから18ホールの旅に出発である。

 【1番ホール 442yard Par4】
  歩いてみるととにかく長い。そして、フェアーウエイは狭い。黒山の人だかりである。その中をたくましくプレーヤーたちは自分とのたたかいに集中している。それにしても、人が多い。1番ホールのグリーン脇まできて、やはりどうせ混むのなら、ここはタイガー・ウッズとともに18ホールをまわってみようとミーハーな方向へ考えをシフトして、ガルシアとは1番ホール限りでさよならした。そして、1番のグリーン脇で36組目(最終組の一つ前)のタイガーを待ち受けた。この組は、タイガー・ウッズ(USA)とヴィジェイ・シン(Fiji)、今をときめく限りなく豪華な組み合わせである。
 この2人を実際に見たときの印象について、まず書いておこう。もちろん、テレビでは2人とも何度も見ているが、実際に見るのは始めてであった。第一印象は、2人とも身体が大きくて、美しいというものであった。ヴィジェイは、タイガーよりももう一回り大きいように思えた。どちらも褐色の肌が全英オープンの青空に映えて、身のこなしもさまになっていた。ヴィジェイの白黒の横縞のシャツ、そして、タイガーのトレードマークにもなっている紫のシャツと黒のズボン、2人とも自分のウエアーが似合っているのだ。英雄たちを前にして、もうゴルフのややこしいことは忘れて、ミーハー状態だった。
 1番グリーン、2人はこの長いミドル・ホールを難なく2オンして、バーディを狙ったが、ともに外して、パー。とりわけ、タイガーのバーディ・パットは短かったので、タイガーの落胆は大きいように思われた。1組前から張っていただけに、かなりいい位置どりができていて、1番ホールから2番ホールに選手が向かう道の最前列に、私はいた。タイガーは目の前50センチを通っていったのだが、1番のバーディ・パットを外したことを落胆がありありと表情に出ていて、ほとんど泣きそうな顔をしていた。そのとき、私は、彼の顔は勝者の顔ではないと思った。一方のヴィジェイは、パーでのスタートに晴れやかないい顔をしていた。私は、このヴィジェイこそが、おそらく今日の勝者になるのではないかと思った。しかし、私の予想は半分はあたり、そして半分ははずれることになった。
 タイガーとヴィジェイの後ろを、青木功さんが通っていった。テレビで観るときとは違う、シリアスな表情だった。仕事に向かうときの、そして、荘厳な勝負に立ち会うときの顔だった。一行は、2番ホールに向かった。

 【2番ホール 418yard Par4】
  ゴルフのトーナメントの全体像を見るのであれば、テレビに勝るものはない。テレビは、現場にいる者の誰もが持ち得ない神の視点をもって、最も都合のいい映像をお茶の間に提供してくれる。ゴルフのトーナメントの現場は、言うなれば、象の身体の一部をさわって、その全体像を想像するようなものである。これは、サッカーや野球の観戦とは全く性質が違う。サッカーや野球は、現場にいることで、むしろゲームの全体像を見ることができる。テレビでは、野球の場合、投手と打者の勝負が中心になるし、サッカーでもボールをもった選手の動きが中心になる。これに対して、現場では、野球の場合、ボールとは関係のない野手、走者の動きをつかむことができるし、サッカーでは全体のポジショニングやボールをもっていない選手の働きをみてとることができる。どちらも、現場にいて、決定的なシーンを見逃すということはあり得ない。だから、現場に立ち合っていれば、ルポを書くのは、比較的、難しくはないといえる。
 ところが、ゴルフは全く事情が違う。現場にいれば、たとえば17番のことしか知らないとか、タイガーの組のことしか知らないというように、知り得る情報が限られてくる。そして、いつどこで決定的な出来事が起こるかは、誰にも予期できない。そうであるから、一人のルポを読むよりも、テレビを見ているほうが、ずっと全体像についてつかめるはずである。しかし、それでも、現場の微妙な風の動き、選手の心理状態、コースの性質、といったようなものについては、現場からのほうが奥行きをもってつかむことができる。さらに、ゴルフには、さまざまな視点から多様な物語が生まれ得る。優勝したプレーヤーからみる物語もあれば、ほかの一人ひとりのプレーヤーからみる物語もある。野球やサッカーは、どうしても語られる物語は、勝ち負けに収斂されるけれども、ゴルフは勝ち負けもふくみながら、優勝者以外の物語もそれぞれにドラマティックである。もちろん、野球やサッカーでも、それぞれの選手たちがそれぞれのドラマを生きている。しかし、そうしたドラマは、選手の舞台裏というかたちではドラマティックに語られることがあるけれども、勝負やゲームを描写していく上では、些細なこととして切り捨てられがちである。そして、実際に、これらのゲームにおける一人ひとりの物語は、それが勝ち負けに直接つながったものでもないかぎり、語られるのにはそぐわないのである。
 これに対して、ゴルフは、このゲーム自体、多元的な現実である。そして、一つの物語に収斂することがない性格をもっている。一人ひとりの個性あふれるプレーヤーが、自らの物語を編み出すために、自己と厳しいコースに極限まで向き合い、最終的に語り継がれるドラマを生み出していく。全体像も面白いが、一人ひとりのプレーヤーにこだわり、そこから見えてくる世界、さらには一つの場所にこだわり、そこから見えてくる世界を見つめてみるのも、またゴルフの面白さに迫る一つの方法であるように思う。
 さて、2番ホールに戻ろう。1番ホールで最もいい場所に陣取っていたので、次のホールではいい場所を確保するのが難しかった。前のホールでうまく見ることができなかった人は、先回りして次のホールで場所を確保する。このため、ほぼ1ホールごとに、いい場所が確保できる。これも現場の一つのリアリティである。2番ホール、どちらもチャンスがあったが、ヴィジェイがバーディー・パットを沈め、ウッズはパー。ウッズのバーティ・パットとともに、ミーハーな観客たちは3番ホールのティに走っていったのだが、ヴィジェイは落ち着いてバーティ・トライを決めた。ここに残った観客からは大いなる拍手がある。ヴィジェイはトータルのスコアをイーブンとして、チャンピオンシップの期待が高まる。

 【3番ホール 210yard Par3】
  ショート・ホールであり、人々の山はさらに大きくなる。トーナメントの全体像どころか、このホールの全体像さえ見えない。グリーン近くに待っていると、2人のボールが転がってくるのがわかる。長く難しいショート・ホールだが、どちらもバーディ・チャンスをつくり、パー。とくにヴィジェイは惜しかった。ちなみに、このホールはバンカーがない。だが、オーバーしてしまうと、バンカーよりリカバリーが難しい深いラフに覆われた砂丘があるとのことである。

 【4番ホール 497yard Par5】
  ヴィジェイは2打目を左に曲げてしまい、木の下の難しい場所に。ちょうどその近くにいたので、私はそのボールの近くまで寄っていく。ヴィジェイは、難しい体勢から丁寧にフェアーウエイに出す。10〜20yardぐらいのショット。トラブルに遭ったら無理はしないところがさすがである。その次のヴィジェイのアプローチはものすごくいいアプローチだったようで、観客たちが大いに沸く。しかし、私の位置からはホールは見えない。そのままホール・インしたのか、惜しくも外れたのか、わからない。しかし、次のパットの構えに入ったので、入っていないことを知る。タイガーは2オン。バーディでイーブンとなる。優勝者がこの組から出るような雰囲気に、観客たちも盛り上がる。このホールの途中で、同伴のオスマンとはぐれる。本気で見るなら、人と一緒に歩いているようなところではない。観戦も一つのたたかいだ。

 【5番ホール 420yard Par4】
  あまりの観客の多さに、5番ホールは一体どこなのか、コースを見失う。コースの地図は必携である。仕方がないので、別のホールで別の組のプレーを見る。全く全体像を失っている。その間に、ヴィジェイとタイガーはさらにバーディを重ね、1アンダーとする。いい場面を見ることができなかった。

 【6番ホール 172yard Par3】
 このホールも記憶がとんでいる。このホール、ヴィジェイはバーティで、2アンダーとする。タイガーはパーで、1アンダー。この辺りに、複数のホールを見渡すことができる丘があり、人々がそこに鈴なりになっている。暑さ、寒さどちらに転ぶかと心配していたら、暑さに転ぶことがわかったので、長袖のシャツを脱ぎ捨て、Tシャツ一枚になる。よりにもよって、大牟田の大蛇山(夏祭りのキャラクター)のTシャツだ。TVに映ったら、大受けしそうだ。しかし、コースを埋めつくしているこの群衆である。TVに映るというのは杞憂だろう。

 【7番ホール 532yard Par5】
 ヴィジェイ、タイガーともにロングヒッターだから、チャンス十分のホール。しかも、ロングコースなので観戦ポイントが多くて、見やすい。さらに観客たちも疲れてきたのか、明らかに1番、2番ホールの頃とは数が違ってきている。かなりの脱落者が出たことだろう。わが同朋のDr. オスマンもその一人である。(帰りの車で尋ねたところ、私とはぐれたあと、屋内の全英オープン・キャラクターグッズ売場などにいたらしい。)。私は、人垣をかきわけながら、観戦スポットを探りあてて、次に向けて走る。これは楽なことではない。明らかにゴルフをしているほうがゴルフ観戦より楽である。もちろん、ここのプレーヤーたちのようなプレッシャーの中でのたたかいは別だが。周りをみていると、観客は、アマチュア・ゴルファーよりもミーハーな若者が多いような気がする。ラフから続く“すすき”がツルツルと滑って、坂道を下りるのが大変である。転んでしまったら、そのまま下まで草スキーで転げ落ちて、これが一番楽だということに気づく。全英オープンだから入場を断られたらまずいとスラックスをはいてきたが、ジーンズか、半ズボンで十分だったようだ。そういえば、日本のテレビ局のカメラマンも半ズボンとTシャツだった。プレーヤー以外はスタイリッシュではいられない。
 ところで、このロングホールの第二打を間近から見る。ヴィジェイとタイガーがホールアウトしたあとになって考えてみると、この辺りこそ、2人の最も輝いているときだった。2人だけでなく、7番ホールも海沿いのホールで穏やかな青い海を従えた輝いたホールだった。このホールがとても気に入ったので、ここでそのまま次の最終組も見ることにした。最終組では、昨日までのトーナメントリーダーであるビヨーン(Denmark)も快調にスコアを伸ばしているようである。ビヨーンはこの7番ホールでも、バーディをとり、3アンダーとスコアを伸ばした。一方のタイガー、ヴィジェイもともにバーディでウッズは2アンダー、そしてヴィジェイは3アンダーまでスコアを伸ばした。栄冠は、誰の上に輝くのか。ビヨーンか、ヴィジェイか、それともタイガーか? 気持ちのいい青空とコバルト色の海が広がっていた。

 【8番ホール 455yard Par4】
  タイガー、ヴィジェイともにトラブルに遭い、ボギー。7番ホールから移動すると、トラブルに遭っているような雰囲気だけが伝わってきた。何が起こっているのかは見えない。ヴィジェイは2アンダー、ウッズは1アンダーとなる。

 【9番ホール 388yard Par4】
  素人目ながら、今日のタイガーのティー・ショットでは、肩の力が入っているような印象を受ける。あんなにパワーがあるのだから、力を抜けばいいのにと思うが、それが一番難しいことだ。タイガーのプレーの節々に、思うようにいかないもどかしさとあがきといらだちのようなものを感じる。一方のヴィジェイは安定している。さきほども記したように、イギリスでもタイガーの人気は圧倒的で、追っかけのミーハーたちは、タイガーがホールアウトすると、ヴィジェイのパットが残っているにもかかわらず、次のホールの位置どりのために、走り出すということを繰り返している。したがって、ヴィジェイのプレーにも影響が出て、いろいろと苛立つこともあると思うのだが、そうしたものを表にあらわすこともなく、落ち着いたプレーを続けている。コルセットという異名をもつバンカーに囲まれた9番ホールをともにパーで切り抜け、タイガーとヴィジェイそれぞれ1アンダーと2アンダーで前半の9ホールを終了した。

 【10番ホール 414yard Par4】
  ボードを見ると、2組前のカーティス(USA)というプレーヤーがスコアを伸ばしている。スコア・ボードには5アンダーという数字が出る。3アンダーのビヨーンがカーティスを追いかける展開。さらにヴィジェイは2アンダー、タイガーは1アンダーで追いかけているが、今一つ精彩を欠いている。逆転で栄光をつかむには、あと一歩スーパープレーがほしい。全体像が見えない中で、ほかのホールが沸いている。カーティスの組だろうか。後半のスタートの大切なホールで、ヴィジェイとタイガーはともにボギーで、それぞれスコアーを一つずつ落とす。ヴィジェイは1アンダー、タイガーはついにイーブン。いよいよカーティスの背中は遠くなった。しかし、実は、カーティスの背中は決して遠くはなかったのだ。決してそんなに難しくはないはずの10番ホールでのボギー。振り返ってみると、ここのボギーが2人にとってほんとうに大きかった。

 【11番ホール 242yard Par3】
  グリーンそばの見やすい位置を確保する。26yardも伸ばされたpar3のコース。3日目の平均ストロークは3.44。パーとボギーが36人ずつで並んでいる。バーディはわずかに3人。タイガーのボールは見事に1オン。一方のヴィジェイは少しオーバーしている。何番ウッド、あるいはアイアンを使っているのか、そういうことは現場からは全くわからないが、この距離をピタッと合わせてくるのはさすがである。242yardの距離の上に、五つのバンカーに囲まれているホールだったが、危なげないティー・ショットであった。ヴィジェイの返しのアプローチは見事で、タイガーのバーディ・パットはかなりショートしたようである。一日を通して、タイガーのショットは安定していたが、パッティングはかなりの乱調のように見受けられた。このホールでは珍しく、そのくらいの精細さでプレーを確認することができた。タイガーとヴィジェイはともにパーでスコアは変わらず。いいポジションを確保できたし、次の組のビヨーンが優勝争いに絡みそうだったので、そのままグリーンそばで最終組のティーショットを見る。こちらもナイス・オンだった。ビヨーンもパーで3アンダー。
 この長いショート・ホールでここまでトーナメント・リーダーを走ってきたカーティスはバーディを奪っていたのだが、観戦していたときはそんなことを知る由もなかった。さきほどの歓声は、カーティスのバーディに向けられたものだったのかもしれない。ただ、カーティスは、11番バーディの快挙のあと、12番、14番、15番でボギーを三つも叩き、奈落の底へと転がり落ちはじめていた。そして、2アンダーまで後退。かわりに、最終組のビヨーンが3アンダーでトーナメント・リーダーに躍り出た。そして、タイガーとヴィジェイにもチャンスがめぐってきた。この急展開は、あわだたしくボートの名前を入れ替えている係員の様子から確認することができた。

 【12番ホール 381yard Par4】
  11番ホールでゆっくりしていた私が12番ホールに進むと、ヴィジェイとウッズはまだ第二打の地点にいた。このホールは、3日目の平均ストロークが3.99。5番ホールとともにアンダーパーの比較的やさしいホールだった。バーディがほしいところだったが、ヴィジェイとウッズはともにパー。トーナメント・リーダーのビヨーンとの差は、ヴィジェイが2打、ウッズが3打。残りホールが一つひとつと少なくなっていく。

 【13番ホール 459yard Par4】
  12番ホールをほとんど見ることができなかった私は、13番ホールのティーショットを間近で見た。タイガーのスイングに力が入っていると強く感じたのは、ここでのことだった。この長いミドル・ホールをタイガーはパーで切り抜けたが、ヴィジェイはここで痛恨のボギーを叩いた。ヴィジェイ、タイガーはともにイーブンで並んだ。このボギーは、ここまで明らかに優勝の可能性のあるプレーを続けていたヴィジェイにとって、あまりにも痛いものだった。

 【14番ホール 550yard Par5】
  次の14番ホールは、最後のロング・ホールだった。残りのホールの難しさを考えるならば、スコアを上げるおそらく最後のチャンスといえるだろう。コースの中ほどにスエズ運河(Suez Canal)と呼ばれている水路(Stream)がある。水路は、ここ1週間ほどの好天のためか、干上がってしまいそうな感じだった。そういえば、例年、全英オープンには、悪天候がつきものである。天気が変わりやすいのがイギリスの特徴であるからだ。しかも、コースはすべてリンクスで、海岸に位置している。だから、悪天候こそが全英オープンといっても過言ではない。ところが、今年は、先週からの好天続きで、土地が乾ききっている。砂ぼこりがひどく、帰ったら、身体中砂まみれだった。額をティッシュでぬぐったら、砂がべっとりとついて真っ黒になった。そのくらい、コースは乾いていた。だが、この好天候の中でも、なかなかスコアは伸びない。何というコースなのだろうか。
 このロングホールでは、さすがにロングヒッターの2人だけあって、2人とも力を発揮した。ヴィジェイはバーディを奪い、スコアを1アンダーに戻した。タイガーもバーディで久しぶりに1アンダーとした。グリーン周りは人だかりでほとんど見えなかった。ただ歓声だけが2人のプレーを物語っていた。

 【15番ホール 475yard Par4】
  15番ホールは少し思い出に残るホールとなった。タイガーはティーショットを完璧な位置にキープして、フェアーウエイから第二打でグリーンを狙った。ところがそのショットがグリーンを大きくオーバーして、バックグラウンド下まで転がったのである。どうやったら475yardを2打でオーバーしてしまうのか、ボールが前に飛ばない私としては、教えてほしいぐらいだが、タイガーとしては大きなトラブルでそれどころではないことはもちろんのことである。18番ホールに近づくに連れて、ギャラリーが増えて、どうにもこうにも観戦が難しくなってきたので、グリーンの後ろをまわって次のホールで待ち構えようと、グリーン後ろをすりぬけてようとしたところ、グリーンとバックスタンドの間には、トラブルに向き合っているタイガーがいて、そこで足止めをくらうことになった。メジャー大会の宿命なのかもしれないが、こうしたトラブルのときにも、アイアンを振り回せば、当たるようなところに観客が覆い被さっている。誰だって自分のトラブルにはひっそりと向き合いたいだろうに、衆人環視の中、トラブルに向き合い、それを打開しなければならないのがプロの宿命である。タイガーの表情を至近にとらえられる場所からタイガーの顔を見つめながら、こうした舞台でたたかっているプレーヤーのシビアさをひしひしと感じた。私たちはプレーをみているだけではなく、プレーを通して人間をみている。とりわけ、ピンチに立たされたときの人間の振る舞いを。だから、ただの玉入れ競技であるゴルフがあんなにも面白いのである。タイガーのリカバリー・ショットは見事なものだった。ボールがどこにいったのか、私は知らない。しかし、観客の歓声、そして打ち終わったあとのタイガーの表情から、そう感じた。そして、パッティングを待たずに、私は16番ホールに向かった。
 ところが、しばらくして背中から観客のため息が聞こえてきた。タイガーはあのパッティングに失敗したのだ。私はそう悟った。タイガーは再びイーブンとなった。3アンダーのビヨーンとは3打差。これでほぼタイガーの優勝の可能性はなくなってしまった(とそのとき私は思った)。あのフェアーウエイからの第二打がすべてだった。好位置だからこそバーティを狙いにいって、ボギーにしてしまったのだ。17番のグレッグ・ノーマンと同じだった。どちらも強く攻めて、グリーンをわずかにオーバーし、バックスタンドまでボールが転がり、見事なリカバリーを見せながら、惜しくもボギーとなった。このとき、私は自分自身が、今年の全英オープンにおけるタイガーの最期に立ち合ったと感じた。攻めながらの失敗は、敗北ではなく、プレーヤーとしての一つの宿命である。ただ惜しむらくは、前半のパッティングのフィーリングであった。前半にもう少し貯金があったら、無理に攻める必要はなかった。普通のコースとは違って、ここのコースには、攻めてくるプレーヤーをもてあそんで奈落の底に突き落とすような恐ろしさがある。イギリスという国、イギリス人がそうであるように、ひたすら我慢が求められるコースだった。
 ウッズが2度目の全英オープン覇者の道を断たれたのとちょうど同じ頃、優勝戦線を決定づけたように思われる2つの出来事が起こっていた。一つは、ダークホースとして前半戦を盛り上げたカーティスが17番でもボギーを叩き、1アンダーまで後退したことである。一時は5アンダーまでスコアを伸ばし、全英オープンの栄冠をつかみかけたカーティスだったが、12番から4つもスコアを落とし、18番を残して、優勝はほぼ絶望的となった。もう一つは、最終組のビヨーンが14番でバーディをとり、4アンダーまでスコアを伸ばしたことである。
 前半戦の早い時期から、今年の全英オープンのタイトルはビヨーンとヴィジェイによって争われるのではないかという予感をもっていた。間近に見たタイガーの顔は勝者の顔ではなかったし、前半の9ホールを突っ走っていたカーティスはどこかで息切れがするだろうという気配があった。どちらも全体像をみての判断ではなく、その現場に立っての予感であったが、逃げるビヨーンをヴィジェイがどこまで追うことができるか、これが勝負の分かれ道だという雰囲気があった。ときどき、いい観戦スポットが得られたときに、タイガー、ヴィジェイ組に引き続いて眺めていたビヨーンのプレーは安定していたし、ヴィジェイのプレーにも安定感と力強さがあった。だが、この時点で、ヴィジェイは1アンダー、ビヨーンは4アンダー。ほとんど勝負は決したかに思われた。昨日までのトーナメントリーダーであるビヨーンは1番でボギーを叩いたものの、2番、4番、7番でバーディを奪い、他はすべてパーをキープしている。安定感は抜群であった。
 ボードの数字がビヨーンの4アンダー、ヴィジェイ、カーティスの1アンダー、タイガーのイーブンを表示した時点で、帰りの渋滞に巻き込まれる前に、帰ってもいいかなと思った。おそらくDr. オスマンと一緒にいたならば、彼をさそって、ここでロイヤル・セント・ジョージ・ゴルフコースをあとにしたことだろう。しかし、私は4番ホール辺りで彼とはぐれていた。彼をおいたまま、一人で車で帰るわけにもいかなかった。勝負が決した今、人混みの中、タイガー、ヴィジョイについていくのも面倒になった。ふと我に返ったら、お腹が空いていることに気づいたので、近くの出店でフライド・ポテトを買って、15番ホールのグリーン脇のすすきのに座って、食べた。ここでも、私の“Fried Potato, Please”は“Pardon ?”と聞き返された。少々落ち込みながらも、ほしい食べ物を手に入れるという目的は達したので、間もなく栄冠を手にするであろうビヨーンがプレーを続けている15番コースの傍らで、私は、熱い熱いフライド・ポテトを頬ばっていた。そして、これがこの日の私の最後の食事となった。
 Dr. オスマンとはぐれたことは、私にとっては僥倖だった。ここでロイヤル・セント・ジョージを離れたならば、あとでどうしようもなく後悔したことだろう。なぜならば、今年の全英オープンが決したかに思われたこの15番ホールは、実は、ドラマの終わりのホールではなく、ドラマの始まりのホールだったからである。

 【16番ホール 163yard Par3】
  私がこの日の夕食になったフライド・ポテトを食べ終わったとき、タイガーとヴィジェイは16番ホールを終え、17番のティーに向かっていた。ここでもタイガーを間近に見たが、今日一日納得のいくプレーではなかったであろうタイガーの表情は冴えなかった。あとで知ったところによれば、タイガーも、ヴィジェイも16番ホールはともにパー。3日目のアベレージが3.00でバーディが11人というチャンスのあるホールでスコアを回復することができず、もう優勝は厳しい状況であるように思えた。だが、このとき、タイガーはイーブンで、ヴィジェイは1アンダー。あとになって考えるならば、2人とも、まだあきらめてしまうスコアではなかったのである。しかし、4アンダーで快走するビヨーンが最終組にいる。17番ティーに向かう2人の表情は険しかった。
 タイガーやヴィジェイが厳しい表情になるのも無理はなかった。トーナメント3日目、ビヨーンは、前半9ホールを34、後半9ホールを35のトータル69という好スコアーでラウンドしている。しかも、スコアだけではなく、内容が安定している。前半9ホールは1イーグル、1バーディ、1ボギーであり、多くのプレーヤーが悪戦苦闘している後半9ホールをすべてパーでまとめている。前日、ビヨーンは18ホールで1つしかボギーを叩いていない。この日も14番までボギーは1番の一つだけである。ビヨーンのプレーを考えると、スコアを落としたとしてもおそらく1つ、したがって、優勝ラインが3アンダーより下になることは考えにくかった。そうなると、現在、1アンダーのヴィジェイは17番、18番で連続バーディの離れ業を達成しない限り、プレーオフに残ることはできないし、イーブンのタイガーにはチップイン・イーグルとバーディという奇跡の組み合わせが必要だった。
 ところが、タイガーとヴィジェイが16番を終えた時点で、この2人にわずかな可能性の光が射し込んできた。ビヨーンが15番でボギーを叩いたのである。私はそのときフライド・ポテトを食べていたので、どうやってボギーになったのか、知らないけれども、タイガーが終戦を迎えた同じ15番のグリーンで、ビヨーンの歯車がわずかに狂いつつあったのである。しかし、まだ3アンダー。2位とは2打差で、残り3ホール。このボギーはトーナメントの大勢には何の影響を及ぼさないように思われた。
 ここまで追いかけてきたタイガーとヴィジェイとは、ここでさよならをして、ビヨーンの優勝を見届けようと考えた私は、16番のグリーンに向かった。人垣の向こうからだったが、グリーンとその周りを見渡すことができるいいポジションを確保した。そして、ビヨーンのティーショットのあと、観客のどよめきが聞こえた。ビヨーンのショットがグリーン右のバンカーに入ったのである。風雲急を告げる出来事だった。私はフェアーウエイの左側から観戦していた。ビヨーンがバンカーに入ると、ほとんど姿が見えない状態になった。17番の経験から、あのバンカーは、身体が沈んでしまうような深いバンカーであることが想像できた。ピンの位置はグリーンの右側だった。打ち込んだバンカーのすぐそばである。さすがにビヨーンだけあって、距離はピタリと合っているから、ピンまでの距離は短い。しかし、距離が短いからこそ、深いバンカーからのショットは厳しくなる。それでも、17番では私がみたすべてのプレーヤーは、深いバンカーから一打でリカバーしていた。このトーナメントにはそれだけの技術と力をもったプレーヤーが集まっている。ビヨーンもまたこのピンチを切り抜けるにちがいなかった。
 ビヨーンがそのとき、何を考えていたのだろうかと思うことがある。14番ホールで4アンダーとして、2位と3打差をつけたとき、15番ホールで3アンダーになったとき、そして16番ホールのティで、さらに“あの”バンカーに身を沈めながら。
 163yard Par3のこのホールは、世界のトップ・プレーヤーにとって決して難しいホールではないだろう。難しいホールがひしめくこのロイヤル・セント・ジョージの18ホールの中では、16番のランキングは14。つまり、易しいほうから5番目と認定されている。たしかに強風が吹き荒れる日には、この距離といえども、思わぬ牙をむくこともあるだろう。しかし、このとき、空は青く、風も穏やかだった。3日目、16番ホールのプレーヤーたちのスコアは、11人がバーディ、54人がパー、9人がボギー、そしてダブルボギーが1人というものであった。ボギーよりバーディが多く出るホールは、このロイヤル・セント・ジョージにはほとんどない。4つのショート・ホールのうち、この15番だけである。当地で開催された1981年の全英オープンでは、このホールで2つのホールインワンが出ている。その一つが、9番アイアンを使ってのものだというから、ショート・アイアンで臨めるこのホールは、一流のプレーヤにとって、むしろ自家薬籠中(じかやくろうちゅう)にできるホールであるといえるだろう。そのホールでトーナメント・リーダーのビヨーンが、昨日も1人しか出ていないダブルボギーを叩くとは、誰が想像したであろうか。
 観客が固唾(かたず)をのんで見守る中、バンカーに深く沈んだビヨーンがスイングしたウエッジから白球は舞い上がった。舞い上がったというよりもふわっと浮き出てきたといったほうがふさわしいかもしれない。私の目からはっきりと白球が見えた。そして、その白球はバンカーから出て、いったん、グリーン、あるいはグリーンエッジに転がりながらも、その傾斜を越えることができず、再び逆戻りしてバンカーに帰っていった。無情だった。観客のどよめきは高まった。次はもう三打目である。
 テクニックのあるビヨーンは、おそらくグリーンエッジぎりぎりにボールを出して、ピンにぴたりとつけようとしたのだろう。このホールでパーを得るために。このホールをパーでしのげば、17番か18番のどちらかでボギーを叩いても、2アンダーで栄冠を手にすることができる。あるいは、ビヨーンには前の組をいくタイガーとヴィジェイの存在が気になったのかもしれない。17番か18番のどちらかでバーティをとれば、ヴィジェイは2アンダーとなる。そうなると、3アンダーを維持しなければならない。プレーヤーたちは、自分のプレーに集中しているので、そうした計算をすることはないのかもしれない。しかし、3打差がついた時点で、私が早く家に帰りたいと思ったように、ビヨーンにも18番までの計算が見えたかもしれない。16番のティーで、このホールさえパーで切り抜ければ、全英オープンの栄冠を手にすることができるという思いがわずかでも脳裏をよぎったのかもしれない。こうしたことはすべては私の推測でしかなく、その真相はビヨーンの胸の中だけにある。
 三打目となり、ビヨーンはさらに追い込まれた。そして、二打目と同じように、グリーンエッジぎりぎりをねらって、ボールを打った。さきほどと同じようにふわっと浮き上がった白球は、芝生の上をはねると、さきほどと同じように力なくバンカーに吸い込まれていった。ビデオを巻き戻してみているような感じだった。まさにどつぼにはまってしまったのである。
 しかし、ビヨーンはさすがだった。これで同じ場所から三打続けて打つことになるビヨーンは、このホール四打目となるショットを、これまでと同じようにグリーンエッジぎりぎりをねらって打った。今度のボールは、これまでよりやや力強く上がり、グリーンエッジを越えて、ピンそばに転がっていった。固唾(かたず)をのんでなりゆきを見守っていた観客たちからは大きな拍手が送られた。しかし、その拍手にはどこか思わぬ展開への興奮が感じられた。ビヨーンは見事に1パットで白球をホールに沈めた。だが、そのとき、すでに五打目を数えており、このホール、ダブルボギーとなった。
 ビヨーンは1アンダーとなり、この時点で、ヴィジェイ、カーティスと並んでしまった。周りの人々は“プーレオフだ”と口々に呟き、色めき立っていた。早朝の4時から起きて、運転と歩きっぱなしの私は、“プレーオフだけは勘弁してくれ”と心の中で思った。プレーオフにでもなったら、いつになって帰ることができるかわかりはしない。家でテレビを観ているのだったら、何ホールでもプレーオフ歓迎なのだけれども。

 【17番ホール 428yard Par4】
  いよいよ私は、午前中ずっとそこにいて、そして、こよなく愛した17番ホールに戻ってきた。最終組でトーナメント・リーダーのビヨーンとともに。午前中に17番ホールのバックスタンドに座っていた頃は、すべてがのどかであった。しかし、今は、勝負の分かれ目である。
 魔の16番のグリーンを離れたあと、私は17番のグリーン近くに場所を確保しようと走った。すると、黒山の人だかりがあって、身動きができない。ここは勝負所なので、たとえ、黒山だろうが、白山だろうか、構ってはおられず、人の山の中を潜り、かきわけて、突破すると、その向こうにもう一つの人垣がある。そこはプレーヤーが17番グリーンから18番ティーへと向かう通路であり、さよならしたはずのタイガーとヴィジェイとまたもはちあわせることになった。間近からみた、タイガーとヴィジェイの表情は、ほとんど地獄のようであり、凍てついていた。17番で何が起こったのかは、誰にも聞かずとも明らかだった。2人はこのホールでともにボギー。ビヨーンが16番でどつぼにはまっている間に、してはいけないおつきあいをしてしまったのである。タイガーはついに1オーバー、ヴィジェイはイーブン。いよいよ崖っぷちである。
 タイガーとともに観客の一部が18番に流れたので、絶好の観戦スポットを確保して、ティーショットを打ち終わったビヨーンの第二打を待った。ビヨーンと1日目・2日目を盛り上げた同伴のデービス・ラブ三世(USA)は、ともにまずまずのティーショットで、二打目に入った。二打目のボールはどちらも微妙なポジションに飛び、グリーン左側の手前のフェアーウエイ上でボールは止まった。2オンならず。これまでの経験でいくと、パーがとれるかどうか、かなり微妙なポジションだった。
 おさらいになるけれども、17番グリーンは、前方がフェアーウエイに向かって傾斜している。つまり、浅くグリーン・オンしたボールは、傾斜に負けて、フェアーウエイに押し戻されるようになっている。この傾斜は、グリーンの右側で勾配がきつく、左側でゆるくなっている。そして、傾斜の稜線が右側でより奥に、左側でより手前になっている。したがって、左側のグリーンそばのフェアーウエイからピンを狙うとき、ほぼ稜線に沿って、ボールを流し込まなくてはならず、とても難しいアプローチが求められる。傾斜は必ずのぼりきらなくてはならず、その上で、傾斜をのぼりきったところで、ボールが止まらなくてはならない。のぼりきる前に失速すると、再びフェアーウエイに逆戻りである。のぼりきっても弾みがついていれば、ボールはピンの奥まで転がり、そこからは難しいラインが待ち受けている。
 午前中に観てきたプレーヤーたちのうち、ビヨーンと同じポジションからピンを狙ったプレーヤーたちは、パターで転がして、ボールに稜線をのぼらせるというストラテジーをとっていた。だが、ビヨーンはウエッジを握って、ピン・ポイントで山の頂上にボールを止めた。芸術的なアプローチだった。16番ホールで失敗をしたけれども、プレーオフはすぐそこまで迫っていた。
 バックスタンドの最前列に位置どっていたわけではないので、ビヨーンのボールがピンからどのくらいの距離にあったのか、正確なところはわからない。また、そのラインがどのようなラインであったのか、それも定かではない。しかし、私が立っていたグリーン右側の前方から見た限りでは、ボールはピンから1mほどのところまで寄っているように思われた。完璧なアプローチだった。私の気持ちは17番グリーンを離れて、18番に向かっていた。さらに、プレーオフ。たしか全英オープンのプレーオフは1ホールごとのサドンデスではなく、4ホールのトータルスコアで争われるはずである。4ホールで決まらなければ、それからサドンデスが始まる。今日中に、ノリッチに帰ることができるだろうか。あるいは、明日の明け方になるのではないだろうか。私の頭の中では、そうした思いがぐるぐるとまわっていた。そのとき、ビヨーンのパターから放たれたボールは、当然そうであるべきようにホールに沈むことなく、あってはいけないグリーン上にとどまっていた。芸術的なアプローチはこのパットにより意味のないものとなった。朝から何度も見てきた1mのパットを外す光景。デジャ・ヴュ(既視感)で頭がクラクラした。

 【18番ホール 460yard Par4】
  17番グリーンから18番ティーに移動する通路ではじめてビヨーンを間近に見た。ビヨーンの顔は蒼白だった。ヴィジェイ、タイガーも凍てついていたが、ビヨーンの表情はもう一つ温度が低く凍てついていた。先の17番は運命のホールとなった。14番のグリーンで4アンダーに到達していたビヨーンが17番を終えて、すべての貯金を使い果たし、イーブンになっていた。まだ一打差でプレーオフの可能性は残されていたが、蒼白なビヨーンの表情のどこにも希望は見出せなかった。18番は難しいホールだが、比較的フェアーウエイは広く、ラフも浅いので、3日目は8人がバーディを出している。バーティでカーティスに追いつくことも数字の上では不可能ではなかった。しかし、この時点で、バーディが出るとはとても思えなかった。明らかにすべてがもう終わっていた。18番で何が起こったのか、私は知らない。ビヨーンとラブ三世が第二打を打った時点で、フェアーウエイが開放され、私たち観客は、あたかも暴徒のようにフェアーウエイになだれ込んだ。二重のフェンスを乗り越える勇気と気力と体力があったならば、フェアーウエイ最前列から、ビヨーンの最期を見届けることができただろうが、その力はもはや私には残っておらず、開放された入り口にまわってフェアーウエイに入ったので、人垣でグリーン上のビヨーンのプレーを見ることはできなかった。
 それでも、18番グリーンですべてが終わったことは、私にも感じられて、人々の様子から、どうも勝者が一人だということも伝わってきた。132回の歴史を重ねた全英オープンの栄冠がカーティスという若者の上に輝くことを知った。あの難コースをカーティスだけが唯一のアンダー・パーでまわることに成功した。並みいるプレーヤーたちが悪戦苦闘した中で、4日間をたたかっての1アンダーでの優勝は、大いにほめたたえられるべきものであろう。
 しかしながら、私にとっては、今日の主役はビヨーンだった。そして、もう一つの主役は17番ホールだった。ビヨーンはトーナメント・リーダーとしてのプレッシャーの中、タイガーやヴィジェイの追撃の中、自分のペースを崩さずに14番ホールまで完璧なゴルフをした。そして、栄冠がその頭上に輝くと誰もが確信したそのとき、1860年から続く全英オープンの歴史の重みの前に、敗れ去っていった。16番から3つのホールをやり直せるとしたら、おそらくビヨーンは10回のうち、9回は悪くてもプレーオフに残るスコアを出すことができただろう。しかし、残りの1回が出てしまうところに、この全英オープンの恐ろしさがある。そして、ビヨーンがそのくじを引くことがなかったならば、12番ホールから17番ホールまでにスコアを4つ下げたカーティスこそがそのくじを引く役回りになったはずだ。彼もまた12番ホールから17番ホールまで6つのホールをやり直せるとしたら、ここで4オーバーも叩くことは10に1もないだろう。3日目には、この6つのホールで2アンダーを出しているのだから。全英オープンでは、勝者よりも敗者のほうがその存在が際立っている。なぜならば、勝者は最も幸運な敗者であるに過ぎないから。不幸な敗者であるビヨーンこそが、今年のジ・オープンをまさしく体現しているように思われるのである。
 もう一つの主役である17番ホールでは、ここに出てきたグレッグ・ノーマン、友利勝良、片山晋呉、ヴィジェイ・シン、タイガー・ウッズ、トーマス・ビヨーン、そしてベン・カーティスという面々が、揃ってボギーを叩いた。バックグラウンドから漠然とみている限り、何の変哲もないコースにみえるこの17番。アマチュアでもボギーならばとれるのではないかと思わされるそのやさしそうな微笑み。そこに大きな落とし穴が待ち構えているというところに、この全英オープンの恐ろしさが凝縮されていた。


 (エピローグ)
 つわものどのの夢のあと、表彰式があり、18番のフェアーウエイから表彰式に立ち合ったあと、帰路についた。そして、そこからが私にとってはほんとうのたたかいだった。パーク&ライドが効率的な輸送方法とパンフレットには書いてあったけれども、そこで行われている輸送方法は効率的だとはとても思えなかった。二階建てのバスでピストン輸送するとはいえ、15万人と予想されている観客を輸送するには、バスでのピストン輸送はあまりにもお粗末過ぎた。一台で100人弱、パーク&ライドの利用者が10万人弱としても、バスは1000往復しなければならない。もちろん、バスは一台ではないが、あの狭いサンドイッチの町をバスが1000往復すれば、いくら日の長いイングランドでも日が暮れる。しかも、行列がバス乗り場から会場まで連なって、ほとんど身動きがとれない状態なのに、バスは座席の数以上は乗せず、空席を一つずつ数えて、人を乗せている。こんな非効率な方法なのに、イギリス人たちは、クレーム一つ言わずに、辛抱強く待っている。日本ならば、待ちきれずに罵声が飛び交うかあるいは将棋倒しになるところだろうが、押してくる人もいないし、割り込む人もまずいない。日本でも、かつて鬼畜米英などとのたもうて、世界を敵にまわして蛮勇を奮っていた時代があったが、こんな我慢強い人々を相手にたたかって、勝てるわけなどないと、骨の髄まで身にしみて感じた。
 結局、バスに乗るまで牛歩の歩みで、バスに乗っても渋滞して、車に乗っても渋滞に遭い、サンドイッチ付近を脱出したのは、午後9時過ぎだった。それから、意識も朦朧となりながら、朝、来た道をノリッチまですっ飛ばしたのだが、自宅に着いたのは午前12時半過ぎ。よくもまあ意識朦朧の中、ドーバーからノリッチまで辿り着いたと、自分自身に感心し、憐れみ深い神に感謝しながら、かなり遅めの夜食を食べ、それからシャワーを浴びて、ロイヤル・セント・ジョージの砂を落とした。ようやく寝室に入ったとき、朝、目覚ましで起きてから、ほぼ24時間が経っていた。この1週間の走行距離は1360km。生きて帰れたことが何よりであった。銀色プジョーくんの働きにも、ただただ感謝! もう一生に一度で十分だと思えるこの長い長い一日だった。






  2003/7/18(Fri) <一年で最も暑い日>

 日本から家族がやってきて、久しぶりに同居人以外と日本語で話をすることになった。思い切って、ロンドンのヒースロー空港まで車で迎えに行き(片道3時間・約250km)、これが私のはじめてのロンドン体験となった。ヒースローは警戒していたよりも警戒もなく、第3ターミナルのGATEは小さかったので、待ち合わせもスムーズだった。第3ターミナルの到着GATEは、まるでスター誕生のような観音開きの自動扉から、入国審査を終えた人々が一人ずつ出てくるという仕掛けになっており、なかなか感動的であった。そこで30分ほど、人々の人生模様を眺めていたのだが、家族との再会に身体中で喜びをあらわすアフリカンの人たちの姿は、とくに胸を打たれるものがあった。さまざまな地域からの飛行機が到着するたびに、違った人種、民族の人々が降りたってくる。そして、それぞれに特徴がある。世界にはいろんな人たちがいて、その人たちがそれぞれいろんな思いをもって、ここにいるのだということを考えさせられる時間だった。そして、歩き方、目線の動かし方だけで、日本人だとわかるのは、何だか不思議だった。空港には、今や、昔の停車場のような旅情がある。人が出会い、行き交う場所は、しみじみとさせられるものである。そして、私も自分の家族を迎え、そこから3時間のドライブでノリッチ(日本のガイドブックには、ノーリッジと書いてあるようです)に到着した。
 そして、3日間、ノリッチ、ノーフォーク地方を巡って、今朝、ケンブリッジの駅でロンドンに向かう家族を見送って、ノリッチに戻ってきた。ケンブリッジからノリッチへのA11の国道(制限速度70マイル=112キロ)からの風景は、あまりにも見事で、青空と沸き立つ白い雲が帯状に重なって、夏のイングランドの美しさを映し出していた。ノリッチの自宅に戻り、新しい日常がまたはじまろうとしている。イギリスは今、一年でおそらく最も暑く、最も美しい季節を迎えている。






  2003/7/14(Mon) <晴天続く>

 こちらにしては異常なくらい安定した晴天が続いている。ちょうど梅雨明け十日(とおか)のような真っ青で突き抜けるような空である。週末には、新しい市長がやってきたとのことで、お祭りがあり、花火が上がっていた。こちらは暗くなるのが遅いので、花火も遅く、10時半頃から始まるのである。その代わりに、花火はあっさりと15分ほどでおしまいになってしまった。というわけで、花火の音にいそいそと準備をして、外に出たときに、ちょうど終わるというタイミングのよさであった。結局、窓から花火を見ていた隣人に、花火の様子を聞いて、星を眺めて帰ってきた。さすがに北極星が高かった。
 花火の音につられて、外に出かけた気分は、「ふるさとの訛りなつかし」の気分だった。同じ週末の騒々しさでも、祭りの日の騒々しさは、なんだか許せるというか、気にならないものである。これも自分の底にある体験のゆえであろうか。今週は来客があるので、久しぶりに生活に日本が入ってくることになる。来客までこの晴天はもつのだろうか? よい1週間を!






  2003/7/11(Fri) <卒業式>

 昨日はずいぶんキャンパスが賑やかだなと思っていたら、なんと卒業式だった。考えてみると9月入学の国だから、この時期に卒業式があるのは当然なのだろうけれども、夏のキラキラとした太陽の下の卒業式は、何だか不思議である。ガウンに博士帽(あれのほんとうの名称は何というのだろう?)をかぶった老若男女の学生たちがキャンパスにあふれていた。教育学部でも、60歳を過ぎたジョンが見事、博士号を取得! みんなに祝福されていた。学ぶに遅すぎるというときはないのだと思わされる。ジョンははにかみながらもとても幸せそうだった。
 今週に入ってから、暖かい天候が続いている。昨日は汗ばむ陽気だったが、30度を上回ったようだ。いよいよ夏の到来である。






  2003/7/9(Wed) <夏めく>

 七夕を過ぎて、少し夏めいてきた。今日は、朝から少し暑い。半袖でちょうどいい気候である。ミネラルウオーターの水がおいしい。
 さて、こちらの水についてだが、実はかなりおいしい。硬水で、日本の水とは成分が違うのだけれども、水道の水でも沸かすとおいしく飲める。ミネラルウオーターはスコットランドの地下水。スコットランドの地下水はミネラルウオーターとして世界中で上々の評判なのだそうだ。
 今日は香港からの研究者を迎えて、ランチタイム・セミナーである。ランチをもちよってのセミナーらしい。そういえば、今日は、大学のキャンパスに、司祭様ご一行のような仰々しい服を着た人々がいて、回り道をするはめになった。あれは一体誰だったのだろう? 3ヶ月経ったけれども、外界で起こっていることは1/3ぐらいしかわからずに、それでも何とか生きている。最近では、キャンパスで道を聞かれることも多くなった。では、お元気で!






  2003/7/7(Mon) <七夕>

 七夕の今日、こちらはようやく天気が回復しつつある。からっとした夏晴れとは言い難いが、それでも、1週間ぶりに半袖のシャツを着ての出勤である。こちらに到着して、明日でちょうど3ヶ月。いいことばかりでもなく、わるいことばかりでもない、そんな当たり前の日々である。
 昨日は、アイヴァーに教えてもらったWAITROSEというスーパーマーケットを探検したのだが、そこは古い街並みの煉瓦づくりの建物にそのままスーパーマーケットが入っているという何とも趣のあるお店だった。ノリッチのあるイーストアングリア地方は、毛織物産業で一気に栄えて、産業革命とともに一気に衰退した地方である。そのために、中世の街並みがちょうど冷凍されたかのように残っていて、タイムスリップしたような気持ちにさせられる。
 ちょうど私が生まれ育った大牟田市も、炭鉱で栄えて、エネルギー革命とともに一気に衰退した町であった。私が生まれた頃にはもう人口の減少が始まっていて、私は、衰退していく街に育まれながら、その少年時代を送っていった。衰退していく街というのは、過去の遺産で施設や交通などが比較的充実しているため、案外悪くないものである。かつて大牟田が栄えていく時代には、人々の増加に施設や環境が追いついていかなかった。それは叔父、叔母たちが生きた時代である。そして、私と同世代でも、首都圏などのベッドタウンに住んでいた人々は、同じように人々にもまれながら、前に希望を抱いて生きていたはずである。
 こうした人々とは違い、私は、衰退する街の中で、将来に希望をはせるというよりも、過去をいつくしむような心性を育みながら、生活をしていた。あるいは、あの後ろ向きのありようは、高度経済成長の光とバブル経済の幻のあと、折り返し点を曲がったように思える日本社会の今をさきどりしていたのかもしれない。
 私は、東京に出て、滅び行く長屋の都営住宅(清瀬の写真を参照のこと)に住んだ。自分の中にある何かが滅び行く1960年代を探していたのかもしれない。そして、イギリスに渡り、ノリッチという中世が冷凍された町に住んでいる。こうやって、自分の歩みをトレースしてみると、何だか一つの筋のようなものが見えてくるから不思議である。
 ノリッチは、中世を保存した町だが、人々の生活は決してよどんではおらず、生き生きとしているように思える。かえって、再開発中のアメリカナイズされつつある駅付近に、よどみの兆しを見られるように思う。後ろ向きであることは、よどみを意味しない。炭鉱の遺産を残し、大学は教養の場としてこだわりをもちつづける、それこそがいつの日かの再生の礎になるのではないだろうか。今必要なのはおそらく「改革」ではなく、耐えることだ。「痛み」ではなく、目に見える結果(前進)があらわれないことに。衰退した町の夜空は、星が美しい。






  2003/7/4(Fri) <雨が続く>

 雨が続いている。こんなに天気が連続して悪いのはこちらに来てはじめてのことである。一旦、半袖にしていたシャツを再び長袖に戻している。少し肌寒い日々である。
 さて、昨日のセミナーでは、いつもより長いコメントをして、冷や汗ものだった。日本でもコメントをしているうちに何を言っているのかわからなくなることがあるが、どこにいっても同じことだということがよくわかった。日本語できちんとコメントをできる人は英語でもコメントできるはずなのであり、日本語できちんとコメントできなければ英語になったって同じことなのである。しかし、コメントを重ねながら、研究の問いを深め、お互いの思考をブラッシュ・アップしていくというセミナーの場は、ありがたいもので、2時間の英語でのセミナーは疲れるのだけれども、それは心地よい疲れである。みんな、ポジティブなコメントが上手なので、こちらで鍛えられて、なんとかポジティブ・コメンテーターの仲間入りをしたいと思うのであった。
 インド料理はおいしかった。私が頼んだメニューは当たりだった。解読できないメニューを眺めて、「よし、これにしよう!」と決めた決断がいいほうが転んだようだった。なかには、ケーキのように甘いおかずや目の玉が飛び出るようなピリ辛の一品があったようだから、そうしたものに当たらなかったのは幸運だった。こちらに来ても、相変わらず運だけで生きているようである。ただ運だけで生きている人間の問題は、再現性がないことである。次に同じものを頼めないのである。スタッフのモーリンは、インド料理のベテランにきちんと尋ねて、そのおすすめを食べたらしい。やはり、人間はこうでなくてはいけない。何はともあれ、これがこちらに来てはじめての本格的な外食だった。(これまではケンタッキーと学食のみ!)
 ところで、ようやく慣れてきた大学の研究室だが、8月15日に引っ越しをしなくてはいけないことになった。流浪の民の厳しい現実である、とまた己の悲劇を捏造したくなるところだが、引っ越しをしなければならないのは私だけではない。教育学部のスタッフのほぼ全員が引っ越しをするのである。そして、昨日、引っ越しの理由を聞いて、ほんとうにたまげた(ぶったまげた)。教育学部の財政難のため、今までのスタッフの部屋をいくつかほかの学部に賃貸することになったためだというのである。一番しわ寄せをくっているのは、国外のドクター・コースの研究生たちで、エリトリア人のテクリブは2人部屋が6人部屋になるといって嘆いていた。とにかく総量が縮小される中での引っ越しだから大変である。それにしても、部屋を賃貸ししなければやっていけないとは、あまりにもひどすぎる。タコが足くって生きているようなものではないか。ここは国立大学である。
 独立行政法人化が断行された日本の国立大学の行く末もまた、このような地点なのだろうか。では、よい週末を!






  2003/7/3(Thu) <インド料理>

 今朝も天気がぐずついている。7月になって梅雨入りした感じである。考えてみると、梅雨がないといわれている北海道でも、一つ天気が崩れると、7月、8月に梅雨のような天候になることがある。こちらの夏もちょうど同じような感じなのかもしれない。まさしく梅雨空である。
 さて、今日はこれからセミナー。夏休み前の最終回である。最終回の打ち上げということで、終わったあと、インド料理を食べに行くらしい。インド料理ははじめてなので、どんなものなのか、ちょっと楽しみである。話は変わるが、こちらの家の建てつけと修理はかなりいい加減である。シャワーの調子が悪くて(お湯が出ないとかではなく、シャワーのホースがこわれかかっている)、何度か修理がやってきたが、とてもいい加減な仕事で、また別のところがおかしくなるということの繰り返しだったので、ついにしびれを切らした同居人が自分で直してしまった。同居人の腕にも感心したのだが、同時に修理人のいい加減さにも負けず劣らず感心した。こちらはそのくらいいい加減である。
 セミナーの時間になった。ではまた!






  2003/7/2(Wed) <7月>

 7月になった。日本では7月になると梅雨明け、そして夏休みとウキウキしてくる頃だけれども、こちらは7月に入ってから梅雨のような天気である。ケンブリッジから来ているクリスティアンが言うには、これがイギリスの7月の“ふつう”の天気だそうで、ちょっとがっくりくる。天気予報によると、明日あたりまでぐずつくらしい。それでもさすがにイギリスだけあって、どんよりとした天気も一日中は続かない。月曜日もかなりうっとうしい天気だったが、それでも、夕方には一瞬晴れ間が見えた。(しかし、そのあと、どしゃぶりになったのですが) 雨の憂鬱さも日本とは少し雰囲気が違うようである。
 さて、イギリスでは、ウインブルドンで全英オープンテニスが開催中である。テレビがないのでほとんど知らないのだが、ネットを見ていると、シングルスの日本の選手はベスト16までで終わったようである。なかなか日本の選手の活躍は難しいなあと思うところだが、実は、地元イギリスの選手たちも日本の選手たちに負けず劣らず苦戦しているそうである。なんと男女合わせてベスト32まで残った選手がわずかに1人。その虎の子であるTim Henman選手は、イギリス中の声援を背中に受けながらも、ちょうど今、クオーターファイナル(ベスト8)で惜しくも敗退。彼を応援していたスタッフのモーリンはがっかりしている。
 こちらのラジオでは、ウインブルドンはここイギリスで行われているのに、なんでこんなにイギリスの選手が活躍できないのだと日々嘆いている。そういえば、ゴルフのマスターズ・トーナメントをB&Bのテレビで観ていたとき、ヨーロッパの選手たちが活躍できていないと、イギリスのBBC放送は嘆いていた。日本からみていると(私のようながさつな人間にとっての話で、丁寧なファンの人々は別ですが)、テニスもゴルフも、欧米の選手たちの独壇場のようにみえるのだが、イギリスからみると、イギリス人が活躍できないのが気になるわけで、このように視点を移動させてみるということは、なかなか面白いことだと思った。
 本場イギリスも苦戦していることを思えば、ベスト16に2人も残った日本の女子テニスは、十分立派だったということができるだろう。そうそう、ウインブルドンといえば、伊達公子選手が女王グラフをあと一歩まで追いつめながらも、雨のため中断を余儀なくされ、惜しくも敗れ去った日のことを思い出す。あの雨がなければ、伊達選手は間違いなくグラフを倒しただろうし、あるいはウインブルドンの栄冠を獲得したかもしれなかった。しかし、あの雨こそがウインブルドンであり、イギリスである。雨には逆らえないということがわかっているイギリスの選手でさえ苦戦しているウインブルドン。そこに挑戦している選手たちはすばらしい。しかし、こんなコラムを書いている私は、おそらくこのコラムを読んでいるであろう日本の人々よりも、ウインブルドンのことを知らない。(日本にいたときのほうが見ていましたね、きっと)。では、ウインブルドン・ファンの皆さん、夜更かしに気をつけて!






  2003/6/30(Mon) <雨の月曜日>

 今日で6月が終わる。日本では6月が終わるというのはしみじみうれしいことだったけれども、こちらではもう3ヶ月が過ぎたということで何とも残念である。
 今朝は雨がしっかり降っている。こちらとしてはめずらしく日本の梅雨みたいなどんよりとした天候である。この分だと、ほぼ一日雨が降り続くかもしれない。雨の月曜日は、どこにいても憂鬱なものである。






  2003/6/27(Fri) <大人数学級>

 昨日は爽やかなカラッとした青空だったが、今日は少し蒸し暑い。木曜日はセミナーの日(日本でも、今年のゼミナールは木曜日のようです)である。昨日のセミナーは、エチオピアからの研究者が大挙して押し寄せて、不思議な盛り上がりを見せた。サウジアラビアの研究者が、英語教育の教師たちの悩みとして、35人〜45人というクラスサイズの問題があるという話をしたところ、エチオピアの研究者が「なんで35人〜45人のクラスサイズが問題なのだ」と言う。そもそも、質的研究の問題関心としては、人々が主観的に何を問題にしているかを解明することに焦点があるわけであり、「なんで〜が問題なのか」といわれても困ってしまうのであるが、それはともかく、エチオピアの研究者は「エチオピアでは100人以上のクラスサイズなんてざらにある。120人、130人というところだってある。35人〜45人なんて、まったくもって小さなクラスサイズじゃないか」とまくしたててきた。
 明らかに研究発表の本題とはズレていたのだが、私は日本の戦後すぐの大人数学級のことは耳にしたことがあるが、それでも70、80人というサイズだったように記憶しているので、120、130人というクラスサイズには全くもって驚いた。ものおじすることのないエチオピアの研究者たちを見ていると、さすがに120人の中でもまれてきただけのことはあると感心させられた。一昔前の街でたむろしていたあんちゃんのような風貌をしており、すごみもある。
 何はともあれ、こちらのセミナーに出席して、感じていることは、異文化の人々が一堂に会する学びの力のすごさについてである。もちろん、研究発表には当たり外れがある。すばらしい研究もあれば、首をかしげたくなるような素朴な研究もある。しかし、どのような研究発表であれ、ディスカッションはいつも面白い。それぞれが自分の経験について話をするだけでも、まさにその話は生きた学びのマテリアル(題材)であり、自分の経験を振り返るきっかけになる。もちろん、司会を務めている講師のアンナの献身的な働きと知性がこのセミナーを支えているのだけれども(彼女は毎週、セミナーの長い長いスクリプト(記録)をメールで送ってくれるのだ)、異文化のもつ力がこの場をアクティブなものにしているに違いない。
 エクセレントでなくても、ユニークな存在であれば、共同体のなかで他者と育ち合う存在であれるということを、こちらのセミナーで学んでいる。このセミナーで感じている空気をたくさん吸って、いずれは日本のゼミナールにももちこんでみたいと思っている。






  2003/6/25(Wed) <青空>

 今日は朝から爽やかな青空がひろがっている。朝方、燦々と太陽がまぶしかったので、目を覚まして、時計を見たところ、まだ6時前。また布団をかぶって、寝てしまった。夜がほとんどない日々である。先週末、指導教官のアイヴァーの自宅にディナーに招待されたので、出かけたところ、広いガーデンつきのすごい豪邸で、話も盛り上がり、おいとましたのは12時前だった。はじめて、深夜のノリッチをドライブしたのだが、何だか12時前でも真っ暗ではないような感じで、日本の8時か9時ぐらいの微妙な明るさが残っていた。
 アイヴァーのうちを訪ねて思ったことは、生活の質の豊かさである。ガーデンで採れた野菜を食べ、20畳ほどもある広い書斎で研究し、世界中の逸品が並んでいるリビングで語らう。こうした豊かさは、人間の厚みや深みを育てる。アイヴァーはさすがにライフヒストリアンと思えるほど、聴き上手なのだが、あの懐の広さと生活の質の豊かさは、間違いなく地下の水脈でつながっているにちがいない。
 先週の木曜日のセミナーは、ノルウェーの研究者のライフヒストリーの発表。94歳のインフォーマントに12時間ぶっ続けのインタビューをしたというから驚く。ご老人はまったく疲れを見せなかったそうである。明日のセミナーは、サウジアラビアの研究者の発表である。ここにいるだけで、日本にずっといたのでは一生かかってもなかなか会えないぐらいの、世界の国々の人々と会って、交流できるのが嬉しい。そして、どこの国に人間だからどうということはなく、どこの国の人間でも親切な人間もいれば、そうでない人間もいる。さらに、親切ではないと思っていた人間が、実はやさしい人間だったりすることもあれば、ほんとうにいけすかない人間であることもある。それはどこの国でも同じことだ。違うことばをしゃべっていても、わかり合える人間もいれば、同じことばをしゃべっていても、わかり合えない人間もいる。そういうあたりまえのことが、あたりまえにわかってくる。これが異文化で暮らすということの意味なのだろう。
 昨日、ある事件のことをより詳しく知りたくて、日本のネットの掲示板を眺めていたら、気持ちが悪くなった。あのモノローグ的、観念的、病理的言説のたれながし。そして、他者性のなさ・・・ 現実はもっともっと豊かで、柔らかく、いいものなのに・・・ 学びの中に、生活の中に、相互性を取り入れていかないと、この流れに歯止めをかけることはできないだろう。
 そのあと、気を取り直して、私の尊敬する同僚の仕事をネットで検索してみようとしたら、ネットの中にその人の仕事を見出すことはできなかった。そして、そのとき、ネットはまさに擬似空間でしかないという、これまたあたりまえのことが、すーっと自分の中に落ちてきた。ネットの中には見出せなくても、よい仕事をしている人たちはたくさんいる。これまた尊敬するある中学・高校の現職の先生から、ネットで調べるようになってから、子どもたちの自由研究の質がガクンと落ちている、という話を聞いた。人間同士の出会いには、肌触りがある、厚みがある。もちろん、肌触り、厚みを生み出そうと格闘しているネットのサイトもたくさんある。しかし、ネットの言説が、主体と切り離され、無責任なものになりがちなこともたしかである。
 ネットにこのようなことを書くのも、何だか自己矛盾しているような気がしないでもない。はじめて外国生活を送るにあたってネットの情報に大いに助けられたこともたしかである。私がここで書いたのは、ネットにも両義性があるという、ただそれだけの話であるような気もする。しかし、ネットの両義性を読み解くためには、その前に必ず厚み、深みがあるものと出会い、肌触りを感じるという経験をもつことが不可欠である。この経験をおろそかにすると、ネットの負の側面が私たちの暮らしに襲いかかってくるような気がする。逆説的なようだけれども、ネット時代だからこそ、体験すること、失敗すること、経験としてつかむこと、実物と出会うこと、ほんものと出会うこと、壁にぶつかること、こうした試行錯誤がきわめて大事になっているように思うのである。ヴィゴツキーやデューイが再評価されていることの背景には、こうした時代のうねりがあるのだろう。






  2003/6/23(Mon) <どしゃぶり>

 昨日、夏至を迎えた。さて、日本の夏至の夜はどうだっただろうか? 星空が戻ってきただろうか? さてさて、イギリス・ノリッチの夏至の夜は、どしゃぶりだった。まるで台風かと思うくらい、こちらとしては珍しい激しい雨が地面を叩きつけていた。こんな雨の中でも、傘を差さないで歩いている人たちがいる。何とまあたくましい。これじゃあ、バスが水をぶっかけても、しらんぷりしているわけだ。
 以前に書いていたトラブルのその後だが、バス会社は一言も謝ってこない。二回メールを送ったにもかかわらず。私の服もとうに乾いてしまったので、これ以上、バス会社とやり合う気力もうせて(瞬間湯沸かし器なのだ)、そのままにしている。しかし、イギリスのバスに対する私の印象が悪くなったのは確かで、これはイギリスのバス会社にとってあまり得なことではないだろうと思う(実は、執念深いのだ)。一方で、自宅の階下の騒音は、明らかに改善の兆しがみられる。ときどき、突き上げるような音楽が響きわたるが、それでも常識的な時間の範囲に収まるようになった。午前1時にライブ演奏が始まることはなくなった。かなりいいことである。
 そういえば、先週末あたり、向かいのアパートで深夜大騒ぎのパーティーが開かれていた。どこかで祭りでもあっているのではないかと思うような大音響で、上下の階の住人にとっては災難だったことだろう。向かいはかなり離れているのだが、にもかかわらず、すごい音だった。それでも、怒鳴っている住人はいないので、こちらの人はおおらかなのか、あるいは耳が遠いのか、ほんとうのことはよくわからないのだが、不思議な人たちである。
 このコラムを書いているうちに、どしゃぶりだった空から日が射してきた。こんな天気だから、人々はケロリとしているのかもしれない。それでは、よい1週間を!






  2003/6/20(Fri) <季節外れ>

 おそらく日本では、うじうじとした梅雨空の下、たくましく人々が生きているであろう今、私はイングランド・ノリッチにて、からっとした6月晴れの下、うじうじと今年二度目の花粉症に悩まされている。花粉症など一年で一度で十分過ぎるくらいなのに、ありがたいことにここ数日来、強風が吹き荒れ、私の目は腫れ、喉はいがいが、鼻はぐずぐずしている。これで秋にオーストラリア旅行など企画すれば、一年に三回も花粉症になったという伝説をつくることができそうだが、こんな伝説をつくったところで仕方がないので、今のところオーストラリア旅行は計画していない。何はともあれ、こんな北のさいはてまでやってきて、花粉症になるとはまったく想像だにしなかった。思わぬところに、落とし穴があるものである。
 さて、そろそろ夏至だなと思いながら、今年の夏至は何日だろうかとネットで検索したところ、「夏至の夜、みんなでいっせいに2時間だけ電気を消しませんか?」というキャッチフレーズの「100万人のキャンドルナイト」というサイトを発見した。イギリスにいるのに、Yahoo!Japanで検索しているのが何とも情けないところであるが、何はともあれ、電気を消すというのは、楽しいものである。“100万人のキャンドルナイト”のページはここ  私の個人的な趣味としては、「痛みに耐えてがんばろう」というような精神主義よりも、こうした後ろ向きな脱力系試みに、何かしら今後の可能性を感じる。
 思えば、幼少の頃、当時はしばしばあった停電というものが何とも楽しみであり、停電のときに、ローソクをつけて、そのまわりにたたずんでいると、何だかそのときだけ家族が家族のようであったことを思い出す。大きなカタストロフィー(破局)は、あまりにも犠牲が大きいのだが、小さなほころびは、協同と協働、そして物語を生み出すように思うのだ。こちらの生活では、さまざまな品々は、結構つくりが甘く、ほころびが目立つ。靴下の品質は悪いし、家の建てつけもかなりあやしい。それでも、人々は結構楽しく暮らしているようにみえる。やはり、いい加減がちょうどいい加減なのかと思いながら、夏至間近の、長くて、しかし、あっという間に過ぎ去る毎日を過ごしているのでありました。ご自愛下さい。






  2003/6/18(Wed) <フットボール>

 今日は朝から曇りの天気、少し肌寒い。天気予報によると、今週末は天気が崩れるとのこと。6月もまた晴れたり、曇ったり、雨が降ったり、せわしない気候が続くようである。
 さて、こちらイングランドのスーパースター、ベッカム“様”が日本を訪れているとのこと。日本訪問とレアル・マドリードへの移籍が重なったということで、いろいろと大騒ぎなことだろう。先日、マンチェスター・ユナイテッドのサッカーボールを購入したばかりの私としては、ベッカム“様”の移籍は、残念なところだが(ほんとうのことをいうと、あまり残念でもないのだが)、新天地でも“華”を咲かせてもらいたいところである。
 さてさて、サッカーの日本代表が、コンフェデレーション・カップのため、海の向こうのフランスに来ているらしい。今日は、ニュージーランド戦ということで、プジョーを飛ばして、冷やかしに行きたいところだが、もちろん、そんなに近くもなく、おまけに時間もないので、断念・・・(断念+・・・というほどまじめに行こうと考えてもいませんでしたが)。
 ところで、ここからが本題なのであるが、6月といえば、イギリスは全英オープン、ウインブルドンの季節。しまった、またもや話題を違った方向に迷走させてしまったが、そのウインブルドンが終わると、次のイベントといえば、そう、またもや全英オープンである。今度は、テニスではなく、ゴルフの全英オープンの開幕。そして、ついに念願の全英オープン・ゴルフのチケットをゲットしてしまいましたぞ! しかも、ファイナル(最終日)! あと1ヶ月と2日ありますが、大興奮ものであります。というわけで、全英オープンをめざして、この1ヶ月、精進を重ねていこうと思っておりまする。日本で梅雨のしとしとのなか、うじうじと生きている(例年の私のことですが)みなさんも、どうか夏休みをめざして、ご精進下され。(途中から興奮のあまり、奇妙な文体になりました ペコリ)






  2003/6/17(Tue) <ヘアーカット>

 少し髪を長めにしていたのだけれども、スポーツをするときに邪魔なので、思い切って短くすることにした。というわけで、今朝は、美容院に行くことにした。いまだに英語で電話をするときには大変緊張するのだが、何とか予約をして、お店に向かった。こちらに来てから二回目のトライである。
 さて、ヘアーカッターの名前は、スチュワート。中古車のディーラーのスペンサーからこの店のことは教わった。スペンサーの旧友かと思っていたところ、スチュワートがスペンサーの店でBMWを購入したことで知り合いになったということらしい。思わぬところから人脈は広がっていく。
 そして、このスチュワートが妙齢で(?)、ハンサムで、格好いいし、親切で、腕もいいときているから、この店は大繁盛している。私が、最初にこの店に来たのは、ノリッチに到着してまだ間もない、何もかもがうまくいかなかった時期で(バス事件のあたりを参照のこと)あった。車の購入がうまくいかずに、ノリッチの英語もわからずに、情けない気持ちでいたときに、スチュワートの店で髪を切ってもらったことは天の助けのようであった。もちろん、スチュワートの英語もわからなかったのだが、彼は一生懸命に私の言うことに耳を傾け、そして、髪質の違うはずの東洋人の髪を、日本でもいまだかつてこんなにうまく切ってもらったことはないというくらい上手に、しかも、私のイメージ通りに切ってくれたのだ。あのヘアーカットで、私の髪だけではなく、私の心もぐんと軽やかになり、それから車の交渉もトントン拍子に進んでいったのである。
 改めて、髪を切るという職業のすばらしさと大切さを教わった出来事であったが、今回も、スチュワートは申し分なく、イメージ通りのショート・ヘアを創ってくれた。どこで学んだのかを尋ねたら、ロンドンで4年間修業をしたという。ここまでいうと大げさかもしれないが、スチュワートの腕と精神は、まさに一つの芸術(art)であるように思われる。あの空間にたたずんでいると、何か人間の生き方を教えられるような気持ちになる。スチュワートが、自分の腕と精神の卓抜さに気づかず、朴訥に仕事に向かっていることが、あのような空間を生み出しているのだと思う。
 ハンサムで、格好よく、親切で、仕事が丁寧で、腕もいいスチュワートが、自分で洗髪からブローまでやってくれて(日本では、洗髪は見習いが担当することが多いように思う)、その上、紅茶まで出してくれる(これはアシスタントが入れてくれる)サービスの代価が、わずか£12(2400円ほど)である。もちろん、英会話のレッスンももれなくついてくる。東京にこんな店があったなら、3ヶ月待ちになるかもしれない。
 外は昼前から雨がぱらついてきた。暑さも一段落である。






  2003/6/16(Mon) <エンジョイ>

 こちらは日本以上の車社会である。自転車も車両と見なされ、車道を走らなければならないので、乗るのはちょっと怖い。さらに、大学まで歩いていこうとすると、構内のあるところまでは歩道もなく、危ない。つまり、基本的な設計が、車か、バスでやってきて、駐車場やバス停から歩くというふうに造られているので、歩いてアクセスすることは考えられていないのである。これが今考えてみると、到着当初、歩いてキャンパスに来たときに、おっかなびっくりだったことの原因だった。原因というのはあとでわかるものであり、そのときはただサバイバルするだけで一生懸命なものである。私は知らないところに来たら、まず歩くというのをモットーとしているが、場所によって歩くだけでは解決できないところもあるものだ。歩く前に、立ち止まって考えたり、人に尋ねたりすることが大切なのかもしれない。
 さて、車で大学に行く生活なので、どうしても運動不足になる。というわけで、週末はマンチェスター・ユナイテッドのサッカーボールを買って、近くのイートン・パークに遊びに出かけた。イートン・パークはサッカー場を10面ぐらいとれるほどのほんとうに広い芝生の公園なのだが、そこにカップルが3組ほどしかいない。カップルは日なたでごろんと肌を焼いている。オーストラリア並みの人口密度である。サッカーボールと戯れて、気持ちよかった。こんな環境でサッカーができるならば、どんなにかサッカーが上手に、いや、楽しくなることだろう。イートン・パークには、チップ&パターのゴルフのショート・コースもある。ボールにあたらない、ホールアウトする前に日が暮れそうな人々が、ほんとうに楽しげにゴルフにいそしんでいる。こちらの人々は、人生を楽しむのがほんとうに上手だなと、感心させられるひとときだった。
 週末は、最高の天気。そして、月曜日になって、少し蒸し暑さを感じさせるような天気になっている。もうしばらく前からダウンジャケットはクローゼットの中で、半袖シャツ一枚で生活している。6月はイギリスを訪ねるにはとてもいい気候なのかもしれない。






  2003/6/13(Fri) <夏晴れ続く>

 昨日は一時雲が広がってきたけれども、午後からまた青空が広がり、珍しく一日天気がもった。そして、今日もまた碧空が広がっている。しかし、昨日の涼しい晴れからこころもち暑い晴れに移行しているようである。ところで、昨日から花粉症がひどい。イギリスは花粉症がないと聞いていたけれども、それはスギ花粉症のことであり、私のように花粉症が市民権を得ていなかった時代からの根っからの花粉症人間は、至るところに花を嗅ぎつけて、発情(いや、発症)するものだから、手に負えない。6月、7月はヨーロッパでは花が美しい季節である。どこにいっても、美しい季節には、悩みがついてまわる。これもまた人生なのかもしれない。では、よい週末を!






  2003/6/12(Thu) <涼晴>

 今日は、さわやかな風に碧空が広がる、こちらでは最高の天気。夕方までもつかどうかわからないけれども、何となくもつような感じがする。2ヶ月住んで、こちらの天気の雰囲気が少しずつつかめてきた。晴れにも二種類あって、一つは暑い晴れで、もう一つは涼しい晴れ。気持ちがいいのは何といっても、後者の涼しい晴れであり、この爽やかさはなかなか日本の平地で経験することはできない(上高地ぐらいまで行けば別なのだろうが)。そして、日本に住んでいた私たちにとって、天気の視覚と触覚を一致させるのがなかなか難しく、室内から窓を通して、空を見ただけではどんな気候なのか、わかりにくい。日本の関東以南では、6月に空が真っ青に晴れ渡っていれば、暑くなるものと相場が決まっているが、こちらでは太陽がギラギラと輝き、真っ青に晴れ渡って、ひんやりすることがある。4月の到着当初に、ダメージを受けたのは、この天候の視覚と触覚の不一致のためだった。これはいい天気だとはりきって出かけた途端に、身体の芯まで凍てつくような冷たい空気にやられたのである。
 イギリス人はあいさつで天気の話をするとよく言われるが、まさに意味がある。天気が一日の気分、生活を決めてしまうような強大な影響力をもっているのである。合理主義の精神が、お天道様には逆らえないという気分から生まれたというのも不思議な感じがするが、そういうものなのかもしれない。人間の気持ちなんて、お天気次第だという、人間の精神への懐疑的思考が、合理主義の精神を生み出したのかもしれないのだ。現代は合理主義の時代と言われるけれども、国内で1人の感染者も出ていないSARSで大騒ぎというのも、あまり合理主義とは言えないのではないかと、疑問に思うのであった。
 と言っているうちに、空は雲が広がってきた。やっぱりいいことも長続きはしないものだ。






  2003/6/11(Wed) <無題>

 今日は、雨が降りそうで降らない奇妙な天気。まあこれこそがイギリスらしいという感じもするが、空はあやしい雲行きである。しかし、こんな雲行きで一日が始まっても、夕方になるとさわやかな青空が広がったりするものだから、ケ・セラ・セラ、人生、悪いことばかりじゃないよ、という気分になる。同時にいいことばかりでもないのだけれども。こうした気候って、きっと人間の気質に大きな影響を与えるのだと思う。
 同室のマレーシア人のオスマンは、アメリカで修士号を取得し、イギリスで博士号を取得したという強者である。まわりには、インターナショナルに生きて、学んでいる強者たちがわんさかいる。生活するだけであっぷあっぷな私としては、こうした強者たちに囲まれて、さらにあっぷあっぷするだけであるが、それもまた面白い。
 さっきからくしゃみが出ている。どうも(何の花かは知らないけれども)花粉症のようだ。どこに行っても人間はそうは変わらない。そうは変わらない自分という枠の中で、どこまで育てあげていけるか、だろう。また新しい一日がはじまっている。






  2003/6/10(Tue) <クラシック>

 やはり天気は長続きしない。昨晩遅くから雨がぱらつき、空はどんよりと曇っている。さて、こちらに来てから、テレビも新聞もない生活を送っている。テレビのない生活は、日本でもしばらく経験していたのだが、新聞もない生活というのは、ほんとうに久しぶりのことである。情報からはきっと取り残されているのだろうけれども(SARSのこともほとんど知らないのだ)、世の中には知らなくてもいいことがあふれているので、情報に振り回されることがなく、気持ちがいい。大学の少人数の授業でも、ほとんど新聞を読んだことがないという学生が(これは一般的には大学生のくせに、と怒られることですが)、妙に核心をついた発言をするので面白いと思ったことがあるが、あるいは情報から遮断されることで自己内対話がきちんとできていたのかもしれない。
 テレビも新聞のない中で、ラジオは重宝している。こちらのラジオ局は充実していて、BBCだけでも4チャンネルか5チャンネルある。さらに、民放のクラシック専門のチャンネルがあって、一日中、クラシックの名曲が流れている。あまり難しいクラシックではなく、チャイコフスキーやモーツアルトなどのよく知っている曲(くるみわり人形やアイネ・クライネ・ナハトムジークなどなど)が流れてくるので、とてもうれしい。考えてみると、こちらではクラシックというのは、そのまま古典なのであり、別におハイソなものでもなく、今につながっているのである。
 ドライブしながらクラシックのチャンネルを楽しんでいるように、社会科学の古典を楽しむことができたら、こちらに来たことの意味は十分にあると思うのだった。夏至まであと10日あまり。西と東から日が射す明るいフラットの我が家では、寝る時間がなくなりそうである。真っ暗な時間は6時間もあるだろうか? きっとそんなにない。5時間ぐらいかも。冬至になると、これがひっくり返ると思うと、ゾッとしますが。
 関東も梅雨入りとのこと。お身体に気をつけて!






  2003/6/9(Mon) <ラブリー>

 月曜日。今朝は透き通るような青空が広がっている。さわやかな風とともに、ラブリーな天気である。こちらに来て、驚いたのが、ラブリー(Lovely)ということばの使われ方である。日本にいるときは、たとえば、かわいい赤ちゃんをみると、ラブリー(愛らしい)というのだと思っていたが、こちらでは、ラブリーが至るところで使われている。天気はもちろんのこと、いい週末を過ごせば、ラブリーだし、さらに、レストランでお金を払うと、ラブリーと言われる。ランダムハウス英語辞典で調べてみると、「{主に英}(感謝の意で)うれしい」というのがある。アメリカではこんなにラブリーを使わないのかもしれない。
 ノリッチに到着して昨日でちょうど二ヶ月。ちょっとずつ街は暖かくなってきた。






  2003/6/5(Thu) <爽風>

 予想通り昨日の雨は夕方には上がって、昨夕はみごとな夕焼けだった。夕焼けといっても9時過ぎ。8時半のドライブでは、点灯する必要もない。夏至が近くなって、思いっきり昼間が長くなっている。イギリスは大陸とくらべると、時差が1時間あるおかげで、これでも暗くなるのが早くなっている。夏のドイツ・フランスは10時近くまで明るいのだが、ドイツ・フランスの10時はイギリスの9時である。同じ時差であれば、こちらは10時半頃まで明るいことになる。
 さて、今日は久しぶりのとてもさわやかな天気。吹きそよぐ風が、何とも気持ちよく、心が洗われるようである。北海からの風なのだろうか、気温は低い。ではまた。






  2003/6/4(Wed) <実習のころ>

 日本の梅雨に合わせたかのように、外はしとしとと雨が降っている。4月は比較的穏やかで、5月は激しい天候がしばしば見られたが、6月になってから雨模様である。それでも、こちらは一つの天気がそんなに長続きすることはないので、この雨も夕刻には上がることだろう。
 さて、6月といえば、日本では教育実習の季節である。この時期に列島を行脚するのを楽しみにしていた私としては、学生たちの興奮と感激の体験の場に居合わせることができないのが、何とも残念であるが、おそらく学生たちはそれぞれに自分の課題と取り組みながら、密度の濃い2週間(あれっ、今年から3週間、4週間の実習もあったような・・・)を過ごしていることだろう。楽しみである。
 中国の天安門事件から今日でちょうど14年目を迎えたというニュースがあった。思えば、私が高校で教育実習を体験したのは、天安門事件の最中か、あるいはその直後のことだった。ちょうど中国の古代史を担当していたので、天安門事件の話にふれたような記憶がある。あのころはまだ1980年代で、世の中はバブルに踊っていた。思えば遠くに来たものだ。
 新しい同室者のオスマンがやってきた。トルコからやってきたような名前だが、マレーシア人である。研究について話をしたら、めちゃくちゃ面白かった。あまりにも面白いので、もったいなくて、ここには書かないのだけれども(ケチだなあ)、世界は私たちの先入観を超えて、すごい速度で動いているということを実感することができた。
 やはり異国なだけあって、新しい状況が、毎日のように押し寄せてくる。面倒くさがりの私にとっては、まるで幼稚園にはじめて入園したときのような、日々新しい状況が津波のように押し寄せてくるというシチュエーションは、まさに面倒くさいのであるが、この面倒くささも慣れると結構、教養小説(ビルドゥングス・ロマン)か、あるいはファイナル・ファンタジーのようなロールプレイング・ゲームのように(やったことはないのですが)、面白いといえないこともないのである。
 新しい状況に向き合っている(であろう/そう願いたい)実習生たちに、エールを送りたい。






  2003/6/3(Tue) <さらば、マイケル>

 明日、マレーシアから新しいVisiting Professorが来るというので、これまで同室だったマイケルが引っ越していった。マイケルは1ヶ月前に大騒ぎをしながら、彼の山のような荷物を運んできた。これは賑やかなルーム・シェアーになると覚悟していたところ、マイケルは、それからわずか2回ほどしか、あらわれることなく、それも一度もここで研究らしきことをしたことはなく、去っていくことになった。
 カンボジアで知り合ったアメリカ人の奥さんとの間に、マーガレットというかわいい女の子がいて、しかし、2人は別れてしまい、今はアメリカにいる娘のことを話すときは涙ぐむマイケルは、なんとも性格のいい青年だった。このマイケルが去っていき、研究室はまたわずかな間の静寂を取り戻した。
 さて、次の登場人物は一体どんな人物だろうか? また新しい人物と渡り合っていくことが、ともすれば面倒くさくなってひきこもりがちになる私にとっては、面白く、意味ある経験になることだろう。
 今朝は、大学内の歩道を歩いていて、ご存じのように私の仇敵であるバスに、何と水をぶっかけられるというアクシデントに出くわした。水たまりをよけることなく、減速もせずに、はねちらしたために、私の左半身はずぶぬれになったのである。もちろん、私は頭に来て、バスをにらみつけたが、バスはそのまま去っていった。私は、ずぶぬれの身体のまま、憤懣やるかたなく、バス会社に謝罪を要求するEメールを出すことにした。キリスト教徒の端くれである私だが、「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出す」精神には、あまりにも程遠く、それ以前に、まず「右の頬を打たれたら」、まず痛いと声をあげるというところから私の存在を確かめていこうと思っている。
 さらに、自宅では、真夜中に信じられないような騒音を出す階下の住人(と思われる)問題にもかかわっている。最初はこれがイギリス・スタンダードかと思ってもいたのだが、しばらく経過するうちに、どこのスタンダードだろうが、人の生活を妨害する権利は誰にもないのであり、なぜこのことに堪え忍んでいなくてはいけないのかと思い、騒音というデリケートでない人間が生み出すデリケートな問題について、デリケートに闘争をしている。(家主・管理会社を通して)
 さすがに権利の章典を生み出した国だけあって、日本ではわがままと思われがちな権利ということばが、ただ単に人間がお互いに気持ちよく生きていくために誰にも備わっているものという感覚で、すっーと自分の中に入ってくるので、こうした営みにつながっていくのだろう。しかし、人間にとって自分の権利を主張することはそんなに簡単なことではないから、権利は人からサポートされなければならない。バスの泥はねも、階下の騒音も、はじめに思い切って話した人が、それは解決すべき問題だとサポートしてくれたから、次のステップに進むことができたのである。もし、そんなことたいしたことない、と一蹴されたら、次に進むことはとても困難だっただろう。
 そうなると、人々の生活を守るのは、他者への関心ということになる。誰だって自分は大事だ。そして自分のことにかまけていたい。しかし、他者への関心を失っていくということは、自分自身の生活と権利を危うくすることにつながるのである。私が日本社会に対して最も心配していることの一つは、他者への関心の衰退にある。インターネットで知り合って一緒に死んでしまうのはもったいない。せめて一緒に死のうとしている人がどんな人なのか、関心をもって、準備してきた練炭を囲炉裏において、囲炉裏端でその人生の物語を聴いてほしい。そうしたら、きっとどこかに一筋の光が見えてくるにちがいない、と私は思う。ライフヒストリーの方法論についていろいろとこちらで学んでいる。でも、何よりも大切なことは、他者への関心である。他者の人生の豊かさを知り、その豊かさがどんなに多くの人々とのかかわりによって編み出されているのかを知り、同じような豊かさが自分の生にもあることに気づくこと。これをゼミ生が経験できるならば、もう十分ではないか。
 囲炉裏の火を消さないように、今年は浅井先生にライフヒストリーの小部屋をお願いしている。今週は、新座北高校の金子奨先生が囲炉裏端に来て、話をして下さるらしい。私はそこにはいないけれども、ただそのことを思うだけで、楽しみである。






  2003/6/2(Mon) <どしゃぶり>

 週末はまたとないほどの好天だったが、月曜日になり、どしゃぶりである。明け方から雷がゴロゴロとなり、バケツをひっくり返したような雨が降ってきた。日本にも季節はずれの台風が上陸したようだが、こちらも梅雨末期の豪雨のような天候である。
 今日は大学にお弁当をもってきた。大学の食堂も感じがよく、味もまあまあなのだけれども、あまりリーズナブルなお値段とはいえない。(私が愛用しているセインズベリー会館というところのレストランで“スペシャル”というメニュを食べると£3.5ぐらいする。“スペシャル”というのは、ターキーのカツレツや鱈のフライのようなメインディッシュにポテトとグリーンピースがついたもの。)というわけでお弁当である。
 最近、ユーロやポンドが円に対して、ひたすら高くなっていて、何とも悲しい。先週末は£1=195円まで到達、ユーロは140円を突破して、円の価値がこのまま地に落ちそうな雰囲気だった。おそらく日本では、ドルとのバランスで報道されることが多いだろうから、円安とは認識されていないだろうけれども、ヨーロッパでは明らかに円安である。日本と同じ感覚で生活をしようとすると、£1=195円のレートはちょっとつらい。たとえば、こちらのガソリンは、1リットル73.5ペンス(かなり安いところで)であり、日本円に換算すると143円である。円が強くて£1=160円だった頃は、117円ぐらいでまあ妥当なのだが、140円〜150円となると、日本の1.5倍という感じになる。
 日本の預金をおろすときは、いつおろすかで、お金の価値が変わってしまう。こうした情報にさとくなることが、ちまちまと倹約するよりも効果があるというのも、何か悲しいことである。まあ、結局は、全体で帳尻があっていれば、それでいいのだろうけれども・・・こちらの生活は、外食・ホテル・家賃など、日本より少し高めかな、というところである。






  2003/5/29(Thu) <ゼミ>

 木曜日はセミナーに参加することになっている。2週目の今日は、何とか昨日の夜までに論文を読み、予習を終えて、出席する。2回目だと、かなりリラックスできる。今日はディスカッションが中心だったが、何とか発言もできて、まずまずの進歩だった。不思議なもので、専門分野での英語は全部はわからなくても、だいたい雰囲気はつかめるものである。状況がかなりオープンである日常生活での英語の使用のほうがずっと難しい。だいたい雰囲気をつかむと、今度は、どこに行っても同じような自分の壁にぶつかるのだと思う。
 セミナーに参加していると、なぜだか気持ちがワクワクして、いつの日か、外国の大学でプロフェッサーとして働けないだろうかという夢が膨らむのだけれども、落ち着いてみると、そこに至るまでにはあまりにもたくさんの段階をクリアーしなければならないことに気づく。そう思うと、結局のところ、やるべきことは、自分の仕事を地道に掘り下げていくことでしかなく、ほかのことはすべて結果でしかないという、これまた妥当な結論に到達する。
 もうすぐ5月が終わる。日本ではなかなか終わらない5月がこちらではあっという間に過ぎ去っていく。今は、5年ぐらいこちらで学んでいたい気分である。(この気分も日替わりメニューのようなものである)






  2003/5/28(Wed) <今日は暑い>

 “ぬるい”と書いた途端に、反撥するかのように、今日は暑い一日である。しかも、雨が降らない。イギリスらしからぬ天気である。
 5月ももう残りわずか。月のはじめに、大騒ぎしながら私の研究室に引っ越してきたマイケルは、すごい荷物を運んできたのに、あのあとちっともやってこない。おかげでずっと私は一人部屋なのだが、彼の代わりに私が彼の娘の写真を見つめるはめになった(ちなみに8歳くらい)。6月になるとどこからの国からVisiting Professorが来て、マイケルは立ち退かなくてはならないはずである。彼は一体どうしているのだろうか?
 9時半頃まで薄明るい。だいたい暗くなったらほぼ寝ている毎日である。今日はこちらに来てはじめて暑いと思った一日だった。






  2003/5/27(Tue) <暖かくなる>

 土・日・月と三連休で、今日から新しい1週間がスタート。このところ、ほとんど毎日、一日のうちのどこかで雨が降っている。まだダウンジャケットを手放すことはできないけれども、少しずつ暖かくなっているような気がする。
 日本だと5月になると、急激に暑くなる日があったりするが、こちらの初夏は、ほんの少しずつ、何となく暖かくなっているような気がするという程度である。おそらくこのまま、だらだらと夏に突入するのだろうが、暑くなるというよりもぬるくなるという程度なのかもしれない。
 昨晩、こちらのラジオのトップニュースでは、日本の東北地方の地震が報道されていた。地震はこわい。どうぞお気をつけてお過ごし下さい。






  2003/5/23(Fri) <成長>

 キャンパス内で綺麗なお嬢さんに場所を尋ねられて、見事に教えることに成功した! これで私もイースト・アングリア生活・超初心者を卒業できるかな、とちょっと嬉しい気持ちになった。少し遡って、昼のカフェテラスで、珍しく声をかけられたので(いつもは一人で食べている。これが今の私には面倒くさくなくてちょうどいいのだ。なぜならば、英語をしゃべったり、英語を聴いたりしていると、食事ができなくなる。一生懸命しゃべったり、聴いたりしなければならないからだ。)、研究者同士で会話をしていたのだが、私が話していたユングの話を、聞いていた人が別の人に話したところ、なぜかテーマは日本の労働組合についての話に変わり、次は、私が一生懸命に日本の労働組合の現状について説明をするはめになった。ところが、話をしているうちに、実は、労働組合についての話をはじめた彼が、最初の彼女のユングといったことばをユニオンを間違っていたことが判明。2人ともイギリス人で英語のネイティブ・スピーカーだったものだから、大爆笑になり、私も、イギリス人でも聞き違えることがあるのかと、妙な自信が沸き上がってきた。
 といいつつ、今、私は中学校1年生の教科書を読みながら、英語を一からやり直しているところである。中学校1年生の英語でさえ結構身についていない自分の姿に愕然としながら・・・。一からやり直しが何と多いこと・・・トホホホ。次の月曜日はバンクホリデーでお休み。では、皆さん、よい週末を!






  2003/5/22(Thu) <セミナー>

 4月8日の渡英以来続いてきた日本人と会っていない記録が今日途絶えてしまった。記録はいつかは破られるものであり、途絶えるのも仕方がないが、1ヶ月半にわたって、日本人と会っていなかったというのも不思議な感じがする。しかしながら、こうやって日本語で文章を書いているし、日本のホームページを見ることもできるし(福岡ダイエーホークスが首位を走っているのも、阪神の快進撃も知っているのだ)、といった具合で、今ひとつ不接続を徹底できていないのが現状である。ここでの自分のあり方を見ると、誰のせいにもできない、中途半端な自分の姿が映ってくる。これからも往生際悪く、中途半端な自分を引きずって生きていくしかないのであろう。まあ、いいやと思う。
 さて、今日ははじめてこちらのセミナーなるものに出席した。先週から博士論文の執筆者を対象としたセミナーが始まっているのだが、先週はちょっと用事があり、出席できなかったので、今週がはじめての出席となった。いつもながらのことだが、はじめてのことに挑戦するときは、何かどきどきする。自己紹介なんてやるはめになったのでなおさらである。日本の大学のゼミでは、学生にこんなに緊張することを強いていたのかと、今更ながら新しい発見をした。
 セミナーは日本の大学とは比べものにならないほど、インターナショナルな顔ぶれが揃っている。私の隣の席で仲良くなったのが、テクリーブで、彼はエリトリアから来たのだという。エリトリアってどこ? 寡聞にして私はエリトリアを知らなかった。私は生まれてはじめて、自分のその名前を知らない国から来た人に出会ったのだ。日本の田舎で育って、さらに知識先行型の私にとっては、地理で国々の名前を覚えるほうがずっと先行して、そこに国の人に会うのはずっとあとから起こった。だから、予備知識がないところで何かが起こることに弱いのであるが、いきなり知らない国のテクリーブが隣である。彼は、アフリカの地図を書き、エチオピアの北側にあるエリトリアについて丁寧に説明してくれた。私の頭の中では、エチオピアの北側はエジプトだった。家族をエリトリアにおいての3年間の滞在ということだ。えらい。
 サウジアラビアからは以前からの知り合いである○○××のほかに、白頭巾をまとった女性が来ていて、彼女は“教師のストレス”について研究しているところだという。サウジアラビアでも“教師のストレス”が問題になっているのだ。それなのに、なぜいまだに日本では教師の仕事は楽だなどという表層的な理解が幅をきかせているのだろう。それはともあれ、マレーシアからも以前からの知り合いである□□△△(ヒーシャム)のほかに、ハリムという日本語もできる調子のいい男と、アザマハンというアメリカで7年も学んでいて、イギリスは退屈だとのたまう女性がいて(私はこの退屈さがちょうどいいのですが)、一大勢力となっている。さらには、タンザニアからの黒人女性(とても面白いコメントをするのだ)、メキシコ人の髪をカールした女性(とても鋭いコメントをするのだ)、どうみても日本人にみえる台湾人女性のジーン(これはイギリスでの芸名らしい)などがいて、日本にいた頃とはまるで違う環境に目を丸くしたのである。
 さて、ここで私は加藤周一ならば、隣のテクリーブとは○○語で話をして、白頭巾の女性とはアラビア語で、マレーシアのヒーシャムとはマレー語で話をするところなのだが、残念なことに私は加藤周一ではなく、英語のリスニングもおぼつかないただのKENなので(KENというのは中学1年の英語の教科書に出てくると決まっているのだ)、発表者のクリスティンのまくしたてる英語に、目を丸くしながら、集団の最も後ろからゼイゼイと息も絶え絶えについていくという経験を、またもや余儀なくされたのである。
 これで日本の私のゼミのように、一人一人にコメントを求められることがあれば、恐怖だったが、ここではそんなことはなく(こういう経験をすると、学生にやさしくなれそうな気がする)、何だか充実したような気分を頂戴して、ゼミ室をあとにした。しかし、なんだかんだいっても、こちらの大学はおおらかであり、異文化にひらかれている。異文化にひらかれているということは、さまざまな思考のスタイルが認められているということである。そうした雰囲気がキャンパスを覆うと、知的な営為はとても活性化される。これは見習わなければならないように思った。ではまた、今日はこの辺で。






  2003/5/19(Mon) <ブロード>

 昨日、ノーフォーク地方にあるブロードと呼ばれる湖沼地方に出かけた。ノリッチからだと車でわずか30分ほどでブロードに辿り着く。ノーフォーク地方は、ちょうど九州の国東半島のように、グレートブリテン島の東側にくっついたまるっこい膨らみなのだが、なぜだかその地形は真っ平らである。だいたい、日本では丸い形をした半島には、その真ん中に山があると決まっているものだが、その日本的な常識に反して、このノーフォークは丸いけれども、低地が広がっている。この低地では、牛や馬や羊が放牧されていたり、大規模な農場が営まれたりしていて、のどかな風景がどこまでも続いている。そして、ところどころに湖沼地帯があるのだが、その中でも規模の大きい、最も有名なものがブロードである。
 かつて、大陸からノーフォークを侵略したバイキングは、船をもって、ブロードに入り、村や町を襲撃したと言われている。そのくらいノーフォークは大陸から近いところにあり、ブロードは海岸近くから内陸まで複雑な水路をかたちづくっている。一段下がった道路から見ると、まるで目の高さに水面があるように思えるブロードの湖沼は、さすがに迫力があった。波はほとんどなく、穏やかな水面がゆったりと広がっている。ただ、この自然よりも驚いたのは、美しい別荘が建ち並び、プライベートの舟が水面をゆっくりと動く、この風景の優雅さであった。プライベートの舟には、キッチンもついていて、まるで動く別荘のようである。こちらの金持ちは、ちょっと格が違うと思った。
 水辺の別荘地を巡りながら、子どもの頃、自分の舟をもつ生活にあこがれたことを思い出した。しかし、別荘や舟などもったら、片づけなくてはならない場所が増えるだけだと思い直し、やっぱり分相応に働いて、ときには旅に出るのが一番というあまりにも妥当な結論に到達して、ノリッチのフラットに帰った。さあ、月曜日、また新しい一週間のはじまりだ。






  2003/5/16(Fri) <海苔>

 日本から海苔が送られてきたので、大学にもっていって、人々に見せた。スタッフのモーリンは、味付け海苔のパックを見て、モバイル・フォンかと思ったらしい。どうもこちらでは、海苔は奇妙きてれつな食べ物のように見えるらしい。モーリンは、モバイル・フォンのような黒い物体に恐れをなしていたが、何とかがんばって1枚食べることにした。しかし、どうも「魚臭く」て大変だったという感想だった。日本に住んでいる多くの人々は、海苔を食べて、魚臭いとはおそらく感じないわけで、どちらかというと寿司では海苔は魚臭さを消すために使われているようなものなので、この味覚の違いを興味深く思った。
 ところで、イギリスの食事だが、日本で言われているほどまずくはない。食材がよく、薄味なので、悪くない。ターキーのフライやチキンの丸焼きなど、かなりいける味である。でも、外食は高い。ノリッチの街を探検していたら、あやしげなジャパニーズ・レストランを発見。メニューを眺めていたら、国籍不明のスタッフが、気まずそうに私たちのほうを見ていた。勧誘もされなかったところを見ると、どうもほんものの日本人に来てもらってはヤバイようである。あやしげな焼鳥(てりやき)や寿司が高い値段で並んでいた。この街では、ケンタッキー・フライド・チキンに長蛇の列が並んでいる。これだけで、こちらの外食事情はだいたい推測できるだろう。
 外国暮らしとなると食生活のことをいろいろと心配して下さる方も多いが、私の場合、間違いなく日本での生活よりも数段グレードの高い食生活をしている。こちらでは、有り難いことに、つれあいが専業主婦業に励んでくれているということがもちろん第一の理由であるが、日本の頃とは違って生活のリズムがいいこともある。そして、食材はおそらく日本よりずっといいので(しかし、同時にいたむのも早いらしい)、料理人の腕さえあれば、見事な食事が食卓に並ぶのである。(感謝!!!)
 というわけで、日本には何でもあるけれども、おいしいものを食べる時間とそのための生活のリズムがない(もちろん、これは私の場合)ということを考えながら、海苔をパクついている。






  2003/5/15(Thu) <規則>

 規則(ルール・きまり)ということばに対して、皆さんはどのような印象をもたれるであろうか? 日本にいたとき、私はこのことばに対して、ネガティブな印象をどうしてもぬぐえなかったし、講義で学生の意見を聞いても、押しつけられるものとしてマイナスのイメージを伴う場合が多かった。
 規則は、権力のある者(強い者)が権力のない者(弱い者)に守らせるものというのが、日本にいたときの私の肚の底でどうしてもぬぐい切れない思いであった。
 しかしながら、こちらで一ヶ月あまり生活をして、規則とは、キリスト教の「自分がしてほしいように他人にしなさい」、あるい儒教は「己の欲せざるところ人に施すことなかれ」を体現したものだということが、自分の中にスーッと入ってきた。
 例えば、イギリスの道路には、ラウンドアバウトなるものがある。基本的に、イギリスの道路には交差点というものはなく、信号もまれにしかない。その代わりにあるものがラウンドアバウトで、これはちょうど駅前のロータリーのようなものである。道路が交差するポイントには、こうしたロータリー状のラウンドアバウトがあり、日本でいう左折の場合には、90度、直進の場合には、180度、右折の場合には、270度ぐるんとまわって、放射状に飛び出していくのである。(これは文章で表現されても理解するのはなかなか難しいかもしれないので、わかりにくい場合は、ラウンドアバウトで検索して、図解しているページでイメージを確かめてほしい)
 このラウンドアバウトは、信号機もいらないし、経済的で理にかなっているのだが、これが機能するためには、危険な割り込みを決してしないための規則(ルール・きまり)を誰もがまもる必要がある。この規則(ルール・きまり)はただ一つ、「右側からくる車が優先である」ということなのだが、こちらではこの規則がみごと(=美しい事という漢字をあてたくなるように)に守られているのである。
 私は、自分でいうのも何だが、おとなしい性格で(異論があるかもしれないが、ともかく)、危険な運転をするようなタイプではない。日本では、無理な割り込みなど、まずしない、平均よりおそらく安全運転で規則を守るドライバーである。さて、この私が、先日、少しの間隔があるから大丈夫だと思って、右からの車が見えたにもかかわらず、ラウンドアバウトに突入したところ、周りの車から一斉にクラクションを鳴らされたのである。こんなことはこちらではじめての経験だったのだが、この経験を通してわかったことは、こちらでは優先権のある車を妨げるような運転をすることは、とてもとても嫌われているのである。
 日本でラウンドアバウトになったとしたら、おそらく気の弱いドライバーはいつまでたってもラウンドアバウトに突入することができないにちがいないと思う。イギリスでは、「右側から来る車が優先」というこの一点が、まさに「自分のしてほしいように他人にしなさい」の原理により守られているので、このシステムが成立しているのである。
 これ以外にも驚いたことは、こちらの車は、黄色でとまることである。日本でも自動車学校では黄色はとまれと習う。そして、そのように解答しないと筆記試験には合格しない。だが、現実の道路では、黄色でとまっていたら、後ろの車から追突される。私は東京で車の運転をしていたとき、「ああ、黄色だ、赤だ、でも行っちゃえ」と交差点を突っ切ってから、バックミラーでうしろをみたら、後ろの、その後ろの、そのまた後ろの車までついていたというような出来事が、何度もあった。規則はあるけど、そんなものは誰も守っていないし、真面目に守っていれば、バカを見る。これが日本の社会である。
 さらに、ほかの例を挙げよう。車に乗る人間の誰もが知っているように、日本で40キロ制限の道路で40キロで走る○×はいない。いるとすれば、自動車学校の教習車ぐらいである。だから、通勤途上で教習車が前をチョロチョロしているのを見かけると、「ああ、なんという不運!」という気持ちになる。見晴らしのいいどう考えても、60キロでスムーズに行けるような道路でも40キロ制限である。そして、ときどき、ねずみとりなるスピード違反の取り締まりをやっていて、運の悪いドライバーがつかまることになっている。ここでも問題となるのは、規則よりも「運」である。
 まだまだ、例を挙げるとしたら、きりがない。東名道の日本坂の渋滞のとき、登坂車線から追い越し、割り込みをする車があとをたたなかったこと、小金井街道の西武新宿線踏切前の左折専用レーンから直進割り込みをする車に、毎朝、いらだらされていること(あまりにもローカルな話題ですみません)、車について考えるだけでも、日本には「規則」が意味をなしておらず、「正直者が損をする」事例がそこら中に転がっている。そうであるから、日本社会に住んでいる中で、規則を自分のためのものを感じるのは、とてもとても、それは困難なことである。
 だが、イギリスに来たら、わずか1ヶ月で、規則はオレをいじめるためのものではなく、オレが気持ちよく生活するためにあるのだ、ということを実感できたのである。それもこの公理が、自分の中ですとーんといったのは、研究室の机の前でもなく、パソコンに向かってのことでもなく、車に乗ってノリッチのシティ・センターのラウンドアバウトを気持ちよく走ったあと、次の交差点でほかの車の通過を待っているときだったのだ。そのくらい、こちらでは、規則が机上のことではなく、生活の中に根ざしているのである。
 タクシーの運転手も、トラックの運転手も、ヤンキーの兄ちゃんも、誰もが規則を生きている社会と、限られた正直者だけがストレスを抱えながら規則を守っている社会と、どちらのほうが、学問をするということと生活をするということがつながりやすいのかと考えると、暗澹たる気持ちになる。
 もちろん、別の視点から眺めてみるならば、規則を守るというような悠長なことができるのは、経済的にも、社会的にも豊かな社会であるからであり、こうした豊かさはポスト植民地主義の下での南の国々の犠牲によって成り立っているという考え方もできる。たしかに、ベトナムやカンボジアでは、のんきに規則を守っている場合ではないような、生活にことかく人々がいて、ある意味何でもありの状態である。それでも、何でもありのように見えて、何かしらのたしかな秩序と人々同士の紐帯はあり、それが社会を支えている。一方の日本は、人々の紐帯は薄れていきながら、規則もあまり守られない、そういう宙ぶらりんの状態にあるように思われる。経済的な豊かさは、規則と人間との関係を直接変えるものではなかったのである。そうであるから、このパラグラフの最初の文章で述べた見方は、あまりにも単純であるということができる。
 まだ1ヶ月あまりの滞在である。ここで結論を出すことはできないだろうし、そうする必要もないだろう。しかしながら、こちらに来て、よかったと思えることは、学ぶという営みが机の上だけではなく、車の中や、ティータイムや、至るところに転がっていることである。これが異文化に出会い、そこで暮らすということなのだろう。






  2003/5/14(Wed) <KEN>

 ちょうど今、私の指導教官のアイヴァーが研究室を訪ねてきた。そして、CYBER SPACE AND SOCIAL SPACE : CULTURE CLASH in COMPUTERIZED CLASSROOM という著書を置いていってくれた。アイヴァーは、滅多にコンピュータを使わない。フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションを大事にする人で、彼に会うと、人々はその温かさに包まれる。ゆったりとしたリズムで人の話を聴き、的確なアドバイスをひとこと返してくれる。すばらしいプロフェッサーである。
 アイヴァーは、すべての文章をペンで執筆しているとのこと。旅を愛し、家族を愛し、一つひとつのことを丁寧に生活している。こうしたゆったりとしたリズムと、自分の人生と他者の人生へのいつくしみが、彼らのライフヒストリー研究の土台にある。かくありたいと思わされる研究者であり、教師である。
 ところで、相互干渉をしない日本の大学とは違って、こちらの大学では、さまざまなスタッフや研究生が研究室を訪ねてくる。どうやら日本から新入りの研究者がやってきたようだということで、あいさつにやってくるのである。サウジアラビアから来ている○○××やマレーシアから来ている□□△△など、よく顔を出して、今度家に遊びに来ないかとさそってくれる。彼らはとてもフレンドリーで、外国人同士ということもあり、親しみがわくのだが、どうしても彼らの名前を覚えるのが骨である。そもそも私はカタカナが苦手だということもあり、漢字の名前ならばすぐに覚えるのだけれども(日本では100人ほどの受講生の名前はほとんど覚えていた)、カタカナの名前を音で聞いただけでは何度聞いても覚えることができないのだ。私の脳はかなり意味先行型なのである。
 こんな状況の中、私は自分の名前をとても重宝している。KENというのは一音節の、欧米ではとてもポピューラーな名前である。ほんとうはそのあとにICHIなるものがついているのだけれども、せっかくイギリスに脱出してきたのだから、このさい仰々しいICHIなるものは捨てちまえ、ということで、こちらではKEN TAKAIRAとして、名前にかんしては、それこそ何不自由なく、やっている。誰もがすぐに私の名前を覚えてくれるので、アドバンテージになっているのである。思わぬところで、親に感謝している。
 さて、こちらはほんとうに誰もがファースト・ネームで呼び合う。そして、この関係はいろいろと上下関係などをごちゃごちゃと考えることがいらないので、とても楽である。しかし、こちらでは、上下関係がまったくないかというとそうではない。職員にも全体を取り仕切っているフルタイムの人と、パートタイムの人があり、その働きと職能は全く違う。そして、アイヴァーにも、親しみやすいけれども、低俗なことを話しかけてはいけないような荘厳で近寄りがたい雰囲気がある。つまり、呼び名で上下関係を表現しない関係が成り立つのは、一人ひとりが実質を伴った内側からにじみ出る雰囲気を醸し出しているからなのである。
 おそらくファースト・ネームで呼び合う社会は、仕事の実質、人間のありようが厳しく問われる社会でもあるのだろう。今、私は裸のKENとなり、まずはこちらでの解放感を味わっているけれども、解放感に続くものは、厳しさであるに違いない。






  2003/5/13(Tue) <朝>

 明け方早く目を覚ましたので、6時前に自宅を出発した。こちらの大学は朝が早く、6時から開いている。5時台のノリッチの街は、車も、人影もまばらで、朝日に輝く街の緑と家々が何とも美しく、まさに「朝起きは三文の得」を実感させられたひとときであった。
 5月になると日本は(私の住んだことのある九州と東京では)陽気も暖かくなり、ときには汗ばむほどであるが、こちらはときどき、肌寒い気候になることがある。こちらの寒さは、寒いというより冷たいという感じであり、今朝もダウンジャケットを着ていたにもかかわらず、冷たいひんやりとした空気が身体を突き刺すようであった。4月のはじめに、こちらに到着した当初は、この冷たさにやられて、1時間ほどの外出でほとんど身体が冷凍食品状態になり、B&B(宿)に戻って、身体を暖めながら解凍したものだった。あの冷たさは、結構こわいものである。
 ノリッチに着いたときのもう一つの印象は、いい車が走っているということだった。十数年前にカナダを訪問したときは、ずいぶん古い車が走っているなあという印象をもち、日本はなんてきれいな新車ばかり走っているのだろうと思ったことを記憶しているが、今回のイギリスは事情が違っていた。BMWやベンツ、アウディといったヨーロッパの高級車が街中にあふれているのである。(ちなみに自宅の駐車場では、私のプジョーは両隣をBMWとアウディにはさまれている) 空港からB&Bまでのタクシーの中から車の流れを見ながら、今のイギリスは景気がいいのだなと思った。
 ところで、イギリスで走っている車のほとんどは、外車(これもヘンなことばだが、外国のメーカーが製造している車ということ)である。経験的に、最も多いのは、プジョーとボクソール(vauxhall=オペルのイギリスでのブランドらしい)であり、BMW、アウディがこれに続いている。ヨーロッパ以外では、アメリカ車はフォード、そしてフォードの車はこちらで購入できる最も安い車である。日本車は、ゴーン効果によるものなのか、NISSANが健闘していて、TOYOTA、HONDAもそこそこにがんばっている。たとえば、NISSANのマーチは、ミクラという名前で、TOYOTAのヴィッツは、ヤリスという名前で、HONDAのフィットは、ジャズという名前で、名前を変えて走っているのを、街のあちらこちらで見かける。日本車はこうしたコンパクト・カーが人気のようで、高級車はあまり見かけない。日本車はこちらでは結構高くて、ヴィッツもフィットも私のプジョー206よりも高価なのである。
 さて、こちらの道路をドライブしていると、小動物や鳥が車にはねられて絶命している姿にひんぱんに出会う。緑の草原の中に道路が作られていて、木々とふれあうほどの距離で自然を感じながら、車を走らせることは、心地よいのであるが、この心地よさと小動物の犠牲がセットになっていると思うと、心が痛んでくる。日本では、平野はほとんど開発されているし、山道は谷の上を走るような場合が多いので、小動物が飛び出してくることはそう多くはない。しかし、こちらでは、平原に道路が作られていて、ガードレールなどもないので、小動物や鳥にとっては受難である。こちらに住む人々はどう考えているのか、いつか聞いてみたいと思っている。
 外は雲一つない青空である。この青空に安心していると、瞬く間に雨や雹が降り始めるから、こちらでの生活は油断大敵である。


 やはり、どしゃぶりになってしまった。(午後2時)






  2003/5/9(Fri) <ティータイム>

 ノリッチは爽やかな天気が続いている。一時、イングランドらしい一日のうちに四季がある天候が続いたけれども、再び爽やかな初夏の日射しが戻ってきた。こちらの人たちに言わせると、この天気はちょっとおかしい(unusual)なのであって、一日のうちに四季がある天気こそがあたりまえ(usual)なのだそうだ。こんな天気のときにやってきた私たちは、異常に(unusual)運がいいらしい。考えてみると、到着してから、住居を探して、落ち着くまでの10日間、ほとんど雨に降られることはなかった。そのときはそんなものかなと思っていたが、振り返ってみると、とても運がよかった。車もなく、交通機関もうまく使えなかったあの頃、毎日のように雨に降られていたら、何と情けなかったことだろう。そして、いろんなことがスムーズに進まなかったに違いない。
 さて、こちらの大学では、午前11時からティータイムという時間があり、大学のスタッフがラウンジに集まってきて、思い思いに語らっている。私の研究室のスタッフであるキャロルが、ティータイムのラウンジに連れていってくれたことをきっかけに、私はこのティータイムに参加するようになった。しかしながら、このティータイムの参加者は、すべてが英語をネイティブを話す人たちであり、私が話についていくのは大変である。それでも、武者修行の場とばかりに、11時になったら意を決して、階段を下りて、巌流島であるところのティータイム・ラウンジに向かうことにしている。
 ほかのスタッフにとってのくつろぎの場であるティータイムが、私にとってはシビアな試練の場というのも、ハンディー・キャップをもった人間の悲しさであるが、それでも、こちらのスタッフはやさしいので、私は輪の中に入れてもらっている。私はこちらの人々のやさしさに感謝しつつも、下手な英語につき合わせていることに負い目を感じつつ、今日もティータイムを過ごしている。
 ティータイムのラウンジからは中庭が見える。芝生の中庭には、三匹のうさぎがいて、草をついばんでいる。一匹の親うさぎと二匹の子うさぎと思われる三匹は、人間がある距離まで近づくと、必ず繁みの中に隠れるのだけれども、仕草がとてもかわいいのである。とくに後ろ脚で耳をかいている(?)動作が。
 明日からウイーク・エンド、ティータイムとも、うさぎとも、しばしのお別れである。






  2003/5/6(Tue) <イラクとアメリカのこと>

 戦争のさなかに、イギリスに行くことになり、それからは生活の基盤を整えるのに精一杯で、ほとんど世界の情勢について知ることもなく、今日に至った。この欄でも以前からいろいろと書いていたし、現在もなおイラクで苦しみつつ、生きている人々がいるわけで、あれっきりにするわけにもいかないと思っていたところ、知人からのメールで池澤夏樹さんの文章が送られてきた。説得力のある力強い文章であり、国外研究先としてアメリカではなく、ヨーロッパを選んだ私の思いともどこかでつながっているように感じたので、転載させていただくことにした。

「新世紀へようこそ 100 by 池澤夏樹」


> ■新刊のお知らせ!
>
> 『憲法なんて知らないよ――というキミのための「日本の憲法」』
>  池澤夏樹著 集英社刊/1300円
>  http://www.impala.jp/century/book.html
>
>  日本の憲法を、池澤夏樹が英文による原文から日常語に翻訳した。
>  全文がすらすらと読めて、本当の意味がすっきりわかる。
>
>  同時収録のエッセイは、憲法を取り巻く事情がよくわかる。
>  まずは理解して、議論を始めよう。
>
> ■『イラクの小さな橋を渡って』(光文社刊)
>   文・池澤夏樹、写真・本橋成一
>  http://www.impala.jp/newbooks/index.html
>
>  イラクに起こった本当のことを理解するための一冊。
>
> ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
>
>
>  新世紀へようこそ 100
>
>
>  なぜアメリカは戦争をしたか
>
>
>  2001年の9月24日、つまりニューヨークとワシ
> ントンへのテロ攻撃の13日後に一回目を発信した「新
> 世紀へようこそ」もこれで100回目になりました。
>
>  振り返ってみれば、この100回はすべて世界の不幸
> についての考察ばかりでした。作家としてぼくはできる
> ことなら世界の幸福について書きたいと願っていますが、
> ここはその場ではないようです。
>
>  たぶん、不幸を論じるのは義務なのでしょう。なぜな
> らばそれは不幸な人々への関心の表明だから。
>
>  充たされた者にとっては、充たされない者の身を案じ
> るのは義務だから。
>
>  皮肉なことに、この間、ぼくが発表した文章の中で、
> 最も具体的に幸福を語ったのはイラクについてのもので
> した。
>
>  『イラクの小さな橋を渡って』でぼくは、2002年
> 11月にはイラクはぜんたいとして幸福な国であったと
> 書いたのです。
>
>  今のイラクは不幸です。
>
>  多くの死者を出し、社会システムを破壊され、先の日々
> には不安が満ちています。
>
>  しかし今のイラクについて、新聞やテレビの報道はす
> っかり減ってしまいました。
>
>  混乱と無秩序について、食糧の流通について、社会の
> 雰囲気について、知りたいことはたくさんあるのに、そ
> れを伝えるニュースは少ない。
>
>  戦争はゲームだから報道されたのか。人々の関心はそ
> れだけだったのか。
>
>  今、メディアの中には、まるでイラクが生まれ変わっ
> たようなことを言っているところもあります。
>
>  しかし、実際にはイラクは壊されたのです。水を入れ
> た壺を割れば、水は地面に流れてしまう。壺は破片とな
> って散る。
>
>  アメリカは暴力で壺を割りました。人々は破片を拾っ
> てなんとか修復しようとしています。それが今イラクで
> 起こっていることです。
>
>  博物館が略奪にあったという報せはショックでした。
>
>  あそこはぼくが好きな場所で、一日かけてたくさんの
> 収蔵品を見てまわりました。その日の興奮をよく覚えて
> います。
>
>  その収蔵品が大量に盗まれた。
>
>  ミロのヴィーナスが盗まれたらどれほどの騒ぎになる
> か。イラク国立博物館にあったのはあれよりずっと古い
> 時代の重要な遺物の数々です。それが散逸したというの
> に、かくも無関心な扱いしかないことにぼくは憤慨して
> います。
>
>  アフガニスタンで、バーミヤンの磨崖仏がタリバンに
> よって破壊された時、西側のメディアは大騒ぎをしまし
> た。とんでもない蛮行だと言いました。
>
>  しかし今回の略奪については数日に亘る散発的な報道
> の後はもう何も言わない。だれも追跡しない。
>
>  磨崖仏の爆破は政治的なメッセージでした。だから西
> 側諸国は反発した。
>
>  それとは別に、戦乱の中で、アフガニスタンの文化財
> が多く持ち出され、外国のコレクターに売られました。
> 日本に入ったものも多かったようです。
>
>  一度、個人のコレクションに入ってしまったものはな
> かなか出てきません。特にそれが盗品の場合、公共の目
> には触れなくなる。学者は研究の資料を失うし、ぼくた
> ちのようなファンも見る機会をなくす。
>
>  イラクでも、奪われたものは国外に運ばれたのでしょ
> う。普通の市民が文化財を盗むはずはない。イラク社会
> の不満分子に文化財が金になることを教え、買い取り、
> 国外へ搬出した業者がいたはずです。
>
>  イラクには厳格な文化財の輸出規制がありました。開
> 戦に先立ってアメリカの美術商たちがこの規制を撤去し
> ろとアメリカ政府に圧力をかけていたという報道があり
> ます(英ガーディアン紙 4月18日)。
>
>  盗品の行く先は先進国の富裕な人々しかあり得ない。
> 西側諸国はそういう形でまたもイラクの富を奪った。
>
>  これは今回イラクが被った不幸のほんの一例にすぎま
> せん。
>
>  それにしても、なぜアメリカはイラクを攻撃し、破壊
> したのか。
>
>  湾岸戦争の時に比べれば、国際的な支持はほとんどな
> かった。多くの国が反対し、賛成にまわった国でも、政
> 府は賛成しても国民の過半数は反対というところが多か
> った(同盟国であるイギリスでさえ、議会が開戦に反対
> する可能性はあって、そうなったらブレア首相は辞職し
> ていただろうと言われています)。
>
>  それでもアメリカは戦争をした。
>
>  その理由についてぼくたちはさまざまな憶測をしまし
> た。大きなものは二つです。
>
>  第一は、イラクの石油資源を支配下に置きたいと願っ
> ている。
>
>  第二は、アラブの盟主としてイスラエルに対抗しうる
> 最も強力な政権を倒したい。
>
>  どちらもある程度の説得力を持ってはいるけれども、
> 何か決定的ではない。
>
>  どうも心理として納得できない。
>
>  なぜアメリカは(ブッシュ政権だけでなくアメリカ全
> 体が)あんなに感情的になったのか?
>
>  理性的な説得ではなく、国民の感情に訴えたからこそ、
> ブッシュ政権はあの戦争を遂行できた。そのためにメデ
> ィアが動員され、フセイン悪魔説が広められ、アメリカ
> の崇高な使命がファンファーレと共に宣伝された。
>
>  そのけばけばしい宣伝の中で、反戦の声は抑えこまれ
> た。およそ非現実的な戦争の理由をアメリカ国民は受け
> 入れた。
>
>  となると、やはりこれは心理の問題です。
>  
>  この重大な問題について、おもしろい本を読みました。
> エマニュエル・トッドというフランスの人口学者が書い
> た『帝国以後』(藤原書店)です。人口学というのは、
> 統計的な人口動態から世界の動きを分析する学問で、ト
> ッドはソ連の崩壊を予言した人として有名です。
> http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/asin/4894343320/impala-22/
>
>  彼の説をぼくなりに要約してみます。
>
>  冷戦の頃、アメリカにはソ連に対抗して西側諸国を護
> るという使命があった。しかしソ連という敵がいなくな
> って冷戦が終わってしまうと、この使命も消滅した。
>
>  つまり、今、世界はアメリカを必要としていない(こ
> の場合、世界とは世界全体からアメリカを除いた残りの
> 部分のことです)。
>
>  それに対して、アメリカの方は世界を必要としている。
> 資源の供給地として、マーケットとして、さらに投資者
> としての世界がなければ、アメリカ人は今の生活水準を
> 維持できない。
>
>  中東の石油を輸入し、代わりにディズニー映画とマク
> ドナルドとコカコーラを売り、アメリカの国債を日本に
> 押しつけて資本を得る。
>
>  自分たちが必要とされていないのをアメリカはずっと
> 不安に思っていた。
>
>  だから必死になって自分たちの出番を作った。
>
>  世界の安全が脅かされているという冷戦時代のままの
> 図式を、オサマ・ビン・ラディンとタリバンを相手に作
> り、それが終わってしまうと今度はイラクとテロリスト
> の結びつきや大量破壊兵器の脅威を言い出した。
>
>  しかしそれが幻想であることを世界は知っていた。ア
> メリカにとって都合のいい幻想。
>
>  だから国連は動かなかった。
>  
>  では、イラクの民主化という、アメリカが最後に掲げ
> た大義はどうだったか。
>
>  アメリカが軍を動かさなくても世界は民主化されつつ
> あるとトッドは言います。
>
>  ここで彼が民主化を図る指標として用いるのは、識字
> 率の向上と出生率の低下です。
>
>  アラブ圏も含めて、いわゆる途上国では字が読める人
> が着実に増えています。字が読めれば人は知識を得るし、
> 社会全体について自分なりの判断をするようになる。
>
>  また特に女性が字が読めるようになると、その社会の
> 出生率はぐんと低下する。少なく産んで大事に育てるよ
> うになる。
>
>  一部の者が社会を自分たちの利益のために勝手に動か
> すことがむずかしくなる。これが民主化ということです。
>
>  今も例外は各地にさまざまあるけれども、それでも世
> 界は民主化に向かって着実に進んでいる。
>
>  アメリカが武力によってそれを加速する必要はないし、
> またその資格もない。今回、国連が戦争を認めなかった
> のはそのためです。だから、アメリカは国連をあからさ
> まに無視し、その権威をおとしめようとしている。
>
>  もともと国連は第二次世界大戦の戦勝国が中心となっ
> て作られた機関です。あの戦争では連合国と枢軸国が戦
> って、前者が勝った。そして、英語では国連も連合国も
> 共に United Nations です。すべての国が平等ではなか
> ったし、その影響は安保理の常任理事国の顔ぶれなどに
> 今も残っています。
>
>  その国連とアメリカの間に亀裂が生じた。
>
>  これを機に国連は戦勝国の意思の代理機関ではなく、
> 本当に世界のすべての国の考えを論じる場になるのでは
> ないか、非常に困難な道ではあるけれどもそちらへ一歩
> 踏み出すのではないか、という期待もぼくにはあります。
>
>  この一年、アメリカの帝国化が心配されました。ここ
> で言う帝国とは、直接統治以外の手段によって広大な版
> 図を支配する政治システムというくらいの意味です。当
> 然、軍事力と経済力が重視される。
>
>  軍事と経済で他を圧倒するアメリカがこれからしたい
> 放題をする。それをぼくたちは懸念しました。
>
>  しかし、トッドに依れば、アメリカの経済にはそんな
> 力はない。また軍事力もそれほどの規模ではない。今回
> イラクを敵に選んだのは、イラクならばまず負けないと
> わかっていたからです。
>
>  湾岸戦争で痛めつけ、経済制裁で国力を奪い、飛行禁
> 止区域を作って防備を骨抜きにした。アメリカ軍にとっ
> てはこれほど叩きやすい相手はいない。
>
>  だいたい、自国の若者をたくさん死なせてまで戦争を
> するコンセンサスは今のアメリカにはない。
>
>  その意味では、平和な日々の暮らしの価値を最もよく
> 知っているのがアメリカ国民であるはずです。
>
>  この常識と好戦的な使命感はなかなか結びつかない。
> 無理に結ぶためにメディアが使われた。
>
>  それでも、最も貧しい階層の若者ばかりを戦場に送っ
> たという後ろめたさは残ります。だから彼らを英雄に仕
> 立て上げる。
>
>  これから世界が相手にしなければならないのはこうい
> うアメリカです。
>
>  アメリカが背伸びをやめて本来のサイズに戻るまで、
> たくさんの困難が予想されます。
>
>  21世紀はそういう時代になるでしょう。
>
>         (池澤夏樹 2003−05−05)
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  2003/5/1(Thu) <四季>

 今朝はイギリスの病院へ登録に出かけた。出かけるときは晴れていたのだが、帰りには雨に降られた。家にたどり着いたら、大雨になり、しばらく休んでいたところ、雲一つない快晴になっている。噂には聞いていたけれども、イギリスの天気ってすごいなと思いつつ、天気も回復したので、大学に向かったら、今度は、雹(ひょう)が降り始めた。粒の大きな氷のかたまりである。あれれと、ダウンジャケットの襟を立てていたら、雹があがると再び空は快晴になり、気温も上がって、Tシャツ一枚でちょうどいいぐらいの気候になっている。
 イギリスでは、一日の間に雨があり、晴れがあり、冬があり、夏があるという感じである。飽きっぽい私としては、スリリングで楽しいのだが、サングラスと雨傘、そしてTシャツとコートを同時にもっていないといけないので、手荷物が結構かさばるのがたまにきずである。
 さてさて、怒濤の4月が過ぎて、いよいよ5月である。お身体に気をつけて!