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たまのさんぽみち
2003/4/28(Mon) <ヘイ!ジュード>
イギリスに来てから、イギリスに来たという雰囲気を盛り上げるために聴きたくなったのがビートルズである。たしかに日本人には全く会うことのない(今のところ)正真正銘の異国に来ているわけだが、家族で来ているし、船でえっちらこっちら来たわけでもなく、空をひとっとびでやってきた(とはいっても15時間ぐらいかかったが)ので、どうも遠い国にやってきたという感じがしない。というわけで、せっかくの異国暮らしでもあり、イングランド・ムードを高めようと近くのスーパーマーケットでビートルズのベスト盤を購入してきた。ところが、ビートルズはすばらしいのだけれども、高校時代にビートルズにはまっていたこともあり、その時代が想起されるだけで、さらにイングランドの雰囲気は遠くに去っていってしまった。考えてみると、雰囲気が感じられないことこそが、まさに今、異国で生活しているということなのかもしれない。
さて、ビートルズのナンバーでは、レット・イット・ビーやイエスタデーなどが人気の曲だが、ヘイ!ジュードもまた根強い人気を誇る曲である。ヘイ!ジュードは「くよくよするなよ、彼女をものにしろよ、いつかいいことあるさ」という感じのマイノリティーへの応援歌である。ユダヤ人の友人に捧げる歌だったといわれている。この曲は、ビートルズのナンバーの中でも、「ひとりぼっちのあいつ(Nowhere man)」と並んで、異国でバスの乗り降り一つに苦労している私の心に、とくにしみいる曲の一つである。(Nowhere man はベスト盤には入っていないのだ。残念!) さて、家族連れでやってきた私にとって、人生がままならないからといって、ヘイ!ジュードのように「彼女をものに」したりすれば、さらに事情はややこしくなるわけであり、そういうわけにはもちろんいかない。となると、代わりに(!?)ゲットするものといえば・・・、そう、車である。(なんのこっちゃ)
というわけで、今日は車の購入記である。イギリス行きが決まってから何とか現地で車に乗りたいと考えていた私は、到着後すぐに中古車ディーラーをまわりながら、車を品定めしていた。いつかヨーロッパに住むことなったらヨーロッパ車に乗るというのが、実は私の隠れた夢だった。車種はBMWか、PEUGEOTのどちらにすることを決めていたが(イラク戦争のいきさつもあり、ドイツ車かフランス車という選択しかないのだ)、やはりイギリスでもBMWは高く、あっさりとPEUGEOTに落ち着いた。そして、いろいろ検討した末、PEUGEOT206XLというコンパクト・カーを購入することにした。
日本では新車の95%がオートマチックといわれているが、イギリスではほとんどの車がマニュアルである。私は日本でも残り5%のマニュアル派だったので、イギリスでもマニュアル車大歓迎と張り切っていたら、たまたまちょうど条件がぴったりあった車がオートマチックであった。ディーラーには、同じPEUGEOT206でマニュアルの車があと3台あったが、2台はマイレージ(走行距離)が長すぎて、不安があったし、残るもう1台は新車同様だったが、雨が降ったら勝手にワイパーが作動するといった余計なものがついていて値段が高かった。そういうわけで、消去法で、オートマティックのPEUGEOT206XLが残った。マイレージも短く、妥当な値段だった。
オートマチックであることと、目立たないシルバーであることがちょっと気に入らなかったが(ご存じのように私は日本では黄色い車に乗っていた)、4ドアであり、後部座席にヘッドレストがついているのが気に入って、銀色のプジョーに決定し、デポジット(予約金)を払った。ところが、そこからが長い道のりだった。
イギリスで車を買うのは簡単である。少なくともイギリス人とEUの人々にとっては。車を決めて、保険に入って、税金(MOT)を払えば、それでおしまい。お金さえあれば、何てことはない。ローンだって簡単に組める。しかし、私にとっては思わぬ難関が待ち構えていた。一つ目は、お金の問題だった。これは私が日本人であるということよりも、私の準備の甘さに起因していたことだが、一言でいうとお金がなかった。クレジットカードと銀行のインターナショナル・カードで何とかなると考えていて、TCや現金はほとんどもってこなかったのだが、クレジットカードには一ヶ月の支払限度額があり、インターナショナル・カードには一日の引出限度額が決まっていた。
ここからの話は、私の日記にしては珍しくためになる話なので、イギリスに旅したり、イギリスで生活したりする可能性のある人にはじっくり読んでほしいのだが、田舎町に行くなら、自分がどんなクレジットカードをもっているかたしかめておく必要がある。私のつれあいは、JCBのクレジットカードをもっていた。昨夏のヨーロッパ旅行では、問題なく使えたので、今回もこのカードをもってイギリスに来たのだが、ほとんどの店でJCBカードは使うことができない。ときたま高級店で使うことができるのを発見するが、スーパーマーケットなどの生活必需品を取り扱う店ではまず使えない。これは生活する者にとって致命的である。ヨーロッパ旅行は日本の旅行会社のツアーで、有名な観光地を巡る旅だった。だから、JCBでも問題なく使えた。しかし、観光地ではない町で生活するとなると事情は違っていた。
不運なつれあいに対して、私のクレジットカードはたまたまVISAであった。このVISAこそは万能のカードであった。ノリッチに来てから、クレジットカードの使える店でVISAが使えない店にはまだ遭遇したことがない。VISAとMASTERは、かなりのところで問題なく使えるようである。次に通用するのがAmerican Express。こちらはカード社会。バスやタクシーは別だが、ほとんどの買い物はカードでできる。私たちが泊まったB&B(日本の民宿のようなもの)でも、クレジットカードで支払いができた。しかしながら、ここもVISAかMASTERに限られていた。
さて、私のクレジットカードはかなり強力なカードであったが、カードには支払限度額というものがある。クレジットカードでたいした買い物をすることのない私のような人間は、日本ではほぼ問題は生じず、気づきもしないのだけれども、外国で車のような高価なものを購入しようとするとき、この支払限度額がネックになる。イギリスに銀行口座をもっていないのだから、ローンを組むこともできない。一括払いになると、支払限度額ではねられる。私の場合、日本のカード会社に何度か電話で連絡をして、支払限度額を引き上げてもらった。しかし、200万円を希望すると、160万円が許可されるというように、なぜだか少しずつ値切られて、必要な金額まで支払限度額を引き上げるのに二回の交渉が必要だった。もし外国に行かれることがあるならば、出国前に、クレジットカードの支払限度額を確かめて、必要ならば引き上げる手続きをしておくことをお薦めする。
お金の問題はこうして何とかクリアーしたが、次に保険の問題が生じてきた。私の運転免許証は、日本の免許証と日本で発行した国際免許証である。旅行ならば、これで何の問題もない。国際免許証で保険付きの車を借りることができる。しかし、車を購入するとなると事態が違ってくる。ほとんどの自動車保険会社が、イギリスの免許証か、あるいはEUの免許証をもっていることが保険加入の条件だというのである。ここでの選択肢は、日本の免許証をイギリスの免許証に書き換えるか、あるいは国際免許証で加入できる保険会社を探すか、いずれかということになる。日本の免許証をイギリスの免許証に書き換えるとすべては解決するのだが、この手続きは結構面倒くさい。日本で戸籍謄本を入手し、イギリスの日本大使館で翻訳証明を作ってもらうなどのプロセスが必要になる。イギリスに長く滞在するのであれば、こちらがベターなのだが(例えば、保険の無事故割引も今後有効になるし、身分証明書にもなるらしい)、日本の免許証を没収されて、帰国後にもう一度イギリスの免許証を日本の免許証に書き換えなければならない。一時帰国のときに日本で車の運転をしようと思えば、こちらで国際免許証を発行してもらう必要があるというから、なかなかややこしい。
というわけで、電話ではらちがあかないので、何度も郊外のディーラーまでバスで通ったり(車のディーラーというのは都心にはないものだ)、ノーフォーク訛りの英語に苦戦しながら、交渉をしたりして、車問題で相当消耗していた。インターネットでいくつかの保険会社に当たってみたけれども、「うちではイギリスの免許証か、EUの免許証をもっている人しか扱っていません」とけんもほろろだった。
このようにじっさいに暮らしてみると、思いもかけない困難に直面することがある。これは準備不足のせいとばかりは言えない。たとえば、『地球の暮らし方 イギリス編』には、JCBカードでも問題なく使えるということが記されている。だから、昨夏の旅行の経験と重ねて、つれあいがこれで大丈夫だと考えたのはもっともなことである。しかし、『地球の暮らし方 イギリス編』は日本人滞在者の多いロンドンの情報を中心につくられている。だから、どんな情報社会であろうとも、地域ごとの個別な事情は、自分たちで探るしかなく、不都合があったら、そこで何らかの対応をしていくしかないのである。さて、ここから話は、私の車物語に転じる。
保険という岩石にぶつかり、このまま車購入が座礁してしまうのかと思った先週の金曜日、国際免許証のままでの車購入をほとんどあきらめながら、ディーラーを訪ねた。セールス・ディレクターのスペンサーは忙しそうに、そこら中を歩きまわっており、私とほとんど目をあわせようともしない。「やっぱりダメだ」と私は思った。スペンサーを呼び止めると「あと10分」と一言返しただけで、彼は別の顧客との交渉に出かけた。またもや待たされることになった。イギリスに来て、待たされてばかりの人生だが、これがイギリス流のやり方なのか、あるいは異国人だとなめられて待たされているのか、この区別がつかずに気持ちがおさまらない。せめて、一言、どういう状況なのか、伝えてくれたら、こちらも待ちようがあるのにと思いながら、スペンサーの帰りを待った。
状況が好転する可能性はほとんどないとあきらめていた。私の常識では、もし段取りがうまくいっているのであれば、最初に会ったときに笑顔で会釈するはずだ。そして、「うまくいったぞ!」と言うはずである。しかし、スペンサーは渋い顔をしていた。私は、このディーラーでずいぶん待った。今日だけでなく、その前の週も、2時間ほど待たされたこともある。そのときは、苛立つ気持ちをおさえるために、手紙を書いた。手紙を書いている間は、自分が待たされていることを感じることがなく、心が和んだ。しかし、手紙を書いていると、好きで待っているかのように思われて、いささか腹が立ったこともある。今日はもう手紙を書く元気もなく、ぼんやりととりとめもないことを考えながら、スペンサーを待っていた。
すると、スペンサーが戻ってきた。彼は「ケン、いい保険会社を見つけたぞ!」と親指を立てて、私のところにやってくる。ディーラーの近くの保険会社が引き受けてくれたという。さらに、日本で準備していた「無事故証明書(わずか2年のもの)」の割引も効くというのである。私の顔は一気に明るくなった。そして、£459(約9万円)という日本では決して安くない保険料が、少しも高いとは感じられなかった。
このあと、保険の手続きに行き、保険会社のスタッフとスペンサーを見ながら、地獄に仏とはこのことだと思った。イギリスでは自動車の強制保険というものはない。だから、逆にすべてのユーザーが任意保険に加入しなければならない。結局、これこそ強制保険なのだが、こうした仕組みだからこそ、任意保険に入れないということは、車をもてないということなのである。任意保険にはいろんなグレードがある。第三者への補償のみのもの(サード・パーティ・オンリー)から、盗難・損傷もケアする総合保険(コンプリヘンシブ)まで。私が入ったのは、総合保険だった。EU全域で通用するようである。
スペンサーは「今日、おまえはバスでやってきたが、車で帰ることができるぞ」という。思わぬジェットコースターのような展開に、私は驚いた。保険のあと、税金の手続きにも行ってくれて、すべての支払いが完了すると、何と銀色のプジョーはめでたく私の所有となったのである。思わぬ展開であったので、道順のシュミレーションをしておらず、ディーラーから自宅のガレージまでどうやって帰ったらいいのか、わからなかった。正直に道がわからないと話して、地図で説明を受け、スペンサーに見送られながら、ディーラーをあとにした。スペンサー、ありがとう! ボロボロ(感涙)
車に乗ったときの感動は、言葉には言い表せない。念願のプジョーということもある。しかし、それだけではない。英語もできない、イギリスのルールも知らない、ちっぽけな東洋人である、まさに三重苦のような私が、人並みにイギリス人と渡り合える場面が訪れたのだ。車の運転なら、どこだってその本質は同じだ。しかも、イギリスは右ハンドル、左側通行である。ウインカーとワイパーの位置が逆なので、ときどき曲がり角でワイパーを回してしまうが、そんなことはたいしたことではない。プジョーを軽やかに走らせながら、余裕しゃくしゃくに街を見渡したとき、私は悲しいバスの物語のショックから完全に立ち直っていた。これは、少年時代に一番腕力のなかった自分が、実は一番将棋が強いことがわかり、まわりに一目置かれたとき以来、ほぼ28年ぶりの立ち直りだった。
翌日、私はつれあいを誘って、Great Yarmouthという海岸までドライブに出かけた。イギリスの道路は、日本人には驚くべきスピードで車が行き交っている。一般道路で100km出しているのに、私の車が一番遅く、どんどん右側の車線を後方の車が追い越していく。帰って交通法規の本を眺めていたら、片側二車線の一般道路の制限速度は70マイル(112q)なのだそうだ(制限速度の表示がない場合)。片側一車線の中央分離帯がない道路でも制限速度は50マイル(80q)で迫力満点である。
途中でガソリン(こちらではpetrol=ペトロルという)を入れたが、かなり高い。ほぼリッター150円。セルフで後払いのシステムになっている。自分で適当な分量入れたあとに、レジに行って、お金を払うシステムである。お金を払わないで逃げても捕まるぞ、と注意書きがしてある。
周りにつられて、私のプジョーも疾走したので、ほぼ30qあるGreat Yarmouthまであっという間に到着した。この街はよくあるタイプの、趣味の悪いリゾート地だった。ちゃちいバーやカジノ、ゲームセンターがあり、ハンバーガー屋さんやソフトクリーム屋さんの出店がある海辺の三級リゾート地。どこにも同じような街はあるものだと、つれあいと笑った。彼女によると、幼い頃に海水浴に行った若狭湾がこんな感じだったという。私はこんないわゆる三級リゾート地は映画でしか見たことがない。
しかし、海は感動的だった。目の前に広がる海が北海だと思うと、はじめてイギリスまでやってきた実感が沸いてきた。砂浜の海岸だったけれども、波は激しかった。波打ち際に(モン)モン・サンミッシェルなる石の城を作ろうとしたが、満ち潮であり、波の力には勝てず、(モン)モン・サンミッシェルはあとかたもなく、朽ち果てた。しかし、(モン)モン・サンミッシェルを作ろうとした苦闘が、わずかばかりでも地形に影響を与えたことはたしかで、私たちの仕事とはこのようなものなのだろうかと、ふと思った。
車をもち、私はもはやノリッチで一番弱い人間ではなくなった。これから私の行動には自由が増し加わり、これまでよりさまざまなことをスムーズに運ぶことができるようになるだろう。しかしながら、これから「自由」な行動を楽しむこと以上に、「不自由」であることの苦しさを感じ、これまで生きてきて、育っていく中でくぐってきたマイノリティーの経験を思い返すことができたことのほうが、私にとって意味のあることだったように思う。マイノリティーであった時代に、最も強く思ったことは、些細なことがとても大きな意味をもつということであった。例えば、コピー屋のおばさんがフレンドリーであったこと、散髪屋のスチュワートがとても真摯で上手に切ってくれたこと、大学のキャンパスでうさぎをみて、心が和んだこと、こうした些細なことが、うまくいかない日々を生きていた私の大きな支えになったのである。
イギリスでの生活も第二幕に移ろうとしている。
2003/4/24(Thu) <悲しいバスの物語>
昨日は研究室でEメールの返事を書いたりしていたら、帰りが遅くなり、バスに乗り間違えるというおまけまでして、かなり情けない思いをした。とにかく、ノリッチのバスはわかりにくい。同じ25番のバスが駅に行ったり、反対に郊外の病院に向かって疾走したりする。
自宅に帰ろうと駅行きの25番バスに乗ったはずが、黄昏のカントリーサイドに向けてバスが疾走し始めたときには青くなった。周りを見渡すと、誰も乗っていない。少年時代以来の情けなさであった。どんどん大学が、そしてCity Centerが遠くなっていく。愛想の悪そうなバス運転手だったので、いろいろ話をするのも面倒くさく、同じ25番だから乗っていれば、そのうちブーメランのように戻ってくるだろうと、居直っていたら、郊外の病院について、運転手が降りろ(いや、何を言っているのかはわからなかった)と怒鳴っている。こんなところで降ろされてもどうにもならないものだから、運転手のところに行き、I mistake. I want to go to railway station. sorry, sorry.とか何とかしゃべって、「そうか、そんなら乗ってろ(これも何と言っているのかはわからなかった)」みたいな返事をもらい、何とか強制下車は免れる。
情けない気分で、ノリッチの日暮れを眺めながら、バスにぽつねんと乗っていると、いにしえの漱石の気持ちがわかるような気になる。しかし、明治の昔に、しかもおそらく不平等条約の時代に、船で何ヶ月もかけて“洋行”に踏み切った漱石の気持ちなど、ほんとうのところわかるはずもなく、『地球の歩き方』ならぬ『地球の暮らし方』などというあんちょこが出ている時代であっても、バスに乗り間違えたりするものだと思いつつ(そんな悠長なことはもちろんバスの中では思ってもおらず、今勝手に物語を創出しているのであるが)、バスが先程、私が乗車した大学構内のバス停に戻ってきたのを見て、私はすべての事情を理解したのであった(すべての事情を理解したと思っていたのであった)。この25番のバスは、駅→大学→病院→大学→駅というルートで走っているのである。だから、大学では駅行きの25番に乗らないと延々と病院にまで連れていかれることになるのだ。この仕組みを理解し、とにもかくにも大学まで戻ってきたことに安堵しつつ、バスに揺られていたところ、ルールに厳格なはずのイギリスのバスの運転手が停留所でないところで急にバスを停止させるという事件に遭遇した。
すわ、何事かと思っていると、一人の男が乗り込んできて、お金を払うことなく、運転手と親しそうに話をしている。見ていると、どうも運転手の友だちのようなのだ。この運転手、さらにもう一人、街を歩いている女の友だちを発見し、これまたバスに乗せて、話し込んでいる。無銭乗車の二人とぺちゃくちゃしゃべりながらいい加減に運転している運転手を見ていると、こちらが必死になってバスに乗っているのに、何だおまえらのふざけた態度は、とわけのわからない怒りがこみあげてくる。
それでも駅に向かってバスは走り、あとわずかで駅だ、これで一安心というところで、何ということか、運転手は無銭乗車の二人と楽しそうにしゃべりながら、猛然とスピードを上げ、駅を後ろに残して、走り去っていく。またもやられたか! 今度は、一体どこに連れていかれるのか。スコットランドか、アイルランドか、あるいはグリーンランドか。とんでもない話だ。このバスは一体なんなのだ。と真剣に大いにあせり、バス・ストップのボタンを押して、逃げるようにバスから飛び降りる。駅からぶっとばしていたので、かなり駅から離れてしまった私は、「あの野郎、オレは駅に行きたいのだと言っていたのに、黙って駅をすっとばしていきやがって、なんて奴だ」と腹が立ち、そこらの草木に八つ当たりしながら、弱い人間こそが八つ当たりをするのだという事実をまざまざ思い知らされ、草木にしか八つ当たりできない自分の情けなさに悲しくなる。この悲しさは、少年時代、アパートの遊び仲間で一番弱かったにもかかわらず、その遊び仲間にひっついていくしかなかった悲しさ以来、ほぼ30年ぶりの悲しさだった。
さて、九州出身者に多い瞬間湯沸かし器タイプの私である。そうであるから、この物語がただの悲しみの物語で終わるはずがないことは皆さんもご承知の通りである。草木に八つ当たりしながらも、もうあのクレイジーバスで郊外の収容所に連れていかれることはないという安堵感から少し冷静になった私は、今後の教訓のために駅のもよりのバス停の場所と名前を確かめておこうと考えた。そして、さきほどあのクレイジーバスがすっとばした駅近くのバス停をじろじろと眺めてみた。ところが、何とそこには25番の名前はない。そうだったのか! ここで私は今度こそすべての事情を理解した。このバスは駅前の通りをすっとばし、ぐるっとまわって裏側の道路から駅に向かうバスだったのだ。さきほどすべての事情を理解したというのは間違いだった。まだまだ理解していなかった事情があったのだ。世界は広い。海は広いな、大きいな。「どんな大きな空よりももっと大きな空がある(谷川俊太郎)」 あはははは。ちょうどそのとき、向こう側からさきほどまでいにしえのタイガー・ジェット・シンなみの悪役だった運転手が25番のバスを操縦しながらあらわれた。
こうして、私の悲しい物語は終わりを告げた。これがただ大学から自宅までバスで帰るという、日本ならおそらく小学生でもできる行為に付随する物語だと思うと、さらに悲しくなるが、悲劇こそ最も喜劇的だということで、さまざまな場所で新しい生活に苦労している同朋に、この物語を捧げたい。(おわり)
2003/4/23(Wed) <旅と生活>
また1週間が経った。ノリッチに着いて2週間。まるで赤子が世界に適応しようともがくような日々だった。はじめの1週間はまだ旅だった。楽しいこと、珍しいことに満ちて、ワクワクする、そういう毎日だった。旅人だから自分が奇妙な存在であることも気にならない、そういう時間だった。
次の1週間は生活への過渡期だった。住居を定め、電話等の手続きをして、生活必需品を準備して、住民税のことを問い合わせたり、諸々の手続きを行った。一つひとつのことがとても難しかった。日本であれば、一日に五つも六つもできるはずのことがこちらでは一つ二つしかできない。例えば、午前中は市の庁舎に行き、住民税のことを尋ねるだけで終わるという具合である。それだけではなく、一つのことをしただけでグッタリと疲れる。旅と生活は違うのだということを思い知らされた。
異国の暮らしの難しさに直面したこの1週間。それでも、私のノリッチでの生活には終わりがある。永住するわけではなく、いつかは日本に帰る。難民として国を離れ、異国に定住しなければならない人々の苦労を思った。1日と1週間は違う。1週間と1ヶ月は違う。1ヶ月と1年はまた違う。1年と3年は違い、3年と10年も違っていて、10年と一生は違う。こうしたことをこの1週間、ぼんやりと考えていた。
旅から生活に変わろうとしている今、ここイースト・アングリア地方は新緑の季節になっている。緑の芝に覆われたキャンパスがとても美しい。いよいよ研究生活のスタートである。
2003/4/15(Tue) <ノリッチより>
こんにちは! ご無沙汰しています!
4月8日にオランダ・アムステルダムを経由してイングランド・ノリッチに到着し、ほぼ1週間がたった。小型のプロペラ機で北海を渡って、ノリッチ入りしたときは、さすがに身が引き締まる思いだった。そして、B&B(Bed & Breakfast=日本でいう民宿のようなリーズナブルな簡易ホテル)に滞在し、街を歩き、家を探し、大学を訪ね、一日一日この街を知っていき、ようやく本日、イングランドに入ってはじめてネットに接続した。
イングランド南東部にあるノリッチの街は、人々がとてもフレンドリーで、サイズ的にも私にはちょうどよく、ほぼ1日にしてピタッと適応している。(ロンドンに行ったこともないのに、ロンドンにしなくてよかったね、と勝手に喜んでいる。そう、実はノリッチどころか私たちがイギリスを訪ねるのもはじめてだったのだ。)このノリッチの街は東洋系の人々が少ない街で、まさにアングロ・サクソンの故郷のような街である(ノリッチのあるイースト・アングリア州は、西方のアングロ人たちの地という意味)。しかしながら、排他的なところは微塵もなく、これまでのところ、出会ってきた多くの人々が快く私たちを受け入れてくれている。
日本(東京)にいたときには、人にぶつかっても謝りもしなかったり、狭い道で相手が通り過ぎるのを待っていても会釈一つしなかったり、というような、英語でいうとrudeな、日本語でいうと礼儀作法のなっていない人々に、しばしば気分を害していたものだが、こちらでは今のところ、そんなことは一度もない。みんなよく挨拶をするし、にっこりと微笑むし、しばしばsorryということばを交わし合う。日本で手にする旅の本には、しばしば、日本人はすぐに謝るのに対して、欧米人は自分の非を認めない、すぐにsorryなどとは言わないように、というようなことが書いてあるが、私の印象では、日本人のほうがずっと謝るべきところで謝らないような気がする。このノリッチの街の人々の気配りは、私たちにはとてもうれしく、もうすでにこの街が大好きになっている。
こちらは今週からイースター(復活祭)の休暇に入るが、日本では、新学期。毎年、4月になると倒れそうになる私にとっては、新学期のあわただしさを逃れて、ノリッチに来ることができたのは、大いなる僥倖であった。そして、快く送り出してくれたのは、日本の人たちなので、こんなところで、あまり日本の悪口は書かないでおこうと思うのだった。しかしながら、お互いに気を遣い、気配りをし、礼儀正しく生きることは、気持ちよく生活し、それぞれが自分の課題に向き合う上でとても大切なことだ。私は英語のスピーチやリスニングは不得手なはずだったのに、こちらでの英語でのコミュニケーションより、日本人スタッフとのやりとり(航空会社やカード会社との)のほうでずっと徒労感を感じるのは一体なぜだろう? 私たちの社会のコミュニケーション不全は、もしかしたら異常なことで、ちょっとマズイのかもしれない。
情報から遮断された1週間を送って、情報の渦を泳ぎまわることよりも、フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションを大切にすることが、人間が人間らしく生きる上でより大切なことだと思わされ、何だか身体中から元気がわき出ているのであった。さてこのあと、どういうリバウンドがやってくるのか? 乞うご期待! (ちなみに、せっかく国外研究という不接続が許される時間をいただいたので、これを台無しにしないためにも、ノリッチからは気が向いたときにしかHPを更新しないことにしています。ですから、「ほぼDaily」にはならないと思われます。あしからずです。)
それでは、皆さん、くれぐれもお身体をお大事に、はりきりすぎない4月をお過ごし下さい。ただし、にっこりとあいさつをして下さいね。私が帰ってきたときに驚くほどのスマイルで!
2003/4/7(Mon) <出発>
では、これから出発します。家が見つかり、落ち着いたら、また何かご報告いたします。皆さんの新年度のスタートがいいものでありますように!
2003/4/4(Fri) <カウントダウン>
出発までカウントダウンとなった。同居人が今週月曜日までみっちり仕事が入っていたこともあり、まじめに準備を始めたのは数日前。「世界は一つ、人類はみな兄弟」(なつかしの日本船舶振興会)、イギリスなんて日英同盟の頃からのお友達さ、とたかをくくっていたところ、旅行と生活は違うという現実に直面し、次から次へと準備の課題が浮かび上がってきている。新聞をみると、イラク戦争のほかに、香港・広東で何やらの感染症が流行っているとのこと、渡航に向けてまったく気分は盛り上がらないが、出発日だけは近づいている。
向こうに行っても、住む家がないのが少々リスキーだけれども、やはり最後は、「世界は一つ、人類はみな兄弟」という幻想に逃避して、これからもリスキーな人生を歩んでいこうと思うのだった。しかし、ご存じの通り、私は口で言っているわりには、リスキーでも何でもなく、ただの安全パイな人間なので、どうぞご心配なく。イギリスに行ったら、少しは軽口がへるだろうか。
春になり、清瀬の野の花は今が旬。庭もいぬのふぐりや紫の花(アオイスミレかな?)がキラキラと輝いています。では。
2003/4/2(Wed) <渡航間近>
渡航間近、ようやく尻に火がついてから、準備を始めている。どうなることやら。17年前、大学進学のため上京する折、東京での生活の準備をしなければならないのに、ほっぽり出して遊び回っていた私は、母親から怒られていた。あのときは、「うるさい!」と思っていた私だったが、今考えてみると、私の泥縄のほうがたしかに悪い。泥縄病はいまだ快癒していないようである。せめてこれからきちんと準備をしようと思いつつ、このようにネットの更新をして、現実から逃避しているのであった。ではまた。
2003/3/30(Sun) <反戦一行詩>
爽やかな日曜日。今日は清瀬市の野球大会に出場。ヘロヘロ球で最後まで投げきったけれども、明日の朝が怖い。立ち上がることができるだろうか。そして、明日は大学のゼミナールの選考。ここまでかかわって、4月からは新しい先生にバトンタッチ。4月からもゼミナールが続くことが、私にとってはとても嬉しいことである。イギリスと日本で、それぞれ切磋琢磨してまた再会する日を心待ちにしている。
さて、ネットを通して呼びかけられていた「反戦一行詩」に多くの若者からのメッセージが届いていることが、毎日新聞の記事として掲載されていた。「言葉で綴る千羽鶴」と題されたこのページには、1分間に数件のメッセージが今もなお届いている。こうしたメッセージを読むと、多くの人々が戦争に痛みを感じていることが伝わってくる。何度もいうが、21世紀の人類の課題は、共存・共生であり、大量殺戮・独り善がりではない。共存・共生のためには、強者の弱者に対する想像力と、異質なものに対する忍耐と寛容が求められる。
誤爆、長期化、さまざまな情報が流れている。どれもニュースはブッシュ・アメリカの楽観的かつデオドラントな(無臭の)戦争イメージを裏切る報道ばかりである。いくら最新鋭の兵器の皮をかぶっても、戦争の正体は、人と人との殺し合いであり、民間人と軍人の区別など、いったん戦争が始まれば、つけることはできないことが、あらわになっている。「反戦一行詩」は、ことばの力と人々のつながりが、人間にとって限りなく大きなものであることを教えてくれるようである。
「言葉で綴る千羽鶴」
2003/3/28(Fri) <忘却しない>
ここ数日、不眠の夜が続き、いよいよ危険信号(なんの?)かと思っていたが、今日、久しぶりに眠ることができた。眠れない夜が続くと、眠れることをありがたさがわかる。きっと毎晩、バタンキューで眠れる人は、それが当たり前と思っていることだろう。同じように、爆弾が降ってくることもなく、燈火統制を受けることもなく、安心して床に就くことができる私たちの社会も、これが当たり前だと思っているが、失われたときにはじめて、このことのありがたさをに気づくことだろう。あるものは当たり前だと思い、ないものについて不平不満を言う、ご存じのように、これが私の浅はかなところである。
さて、戦争の法則について、いろいろと考えてみた。そこで気づいたことであるが、戦争を始める者は、必ず次のように言って戦争を始める。「この戦争はすぐに終わる」。もちろん、「戦争は早期に終結する」だとか、「緒戦で敵を圧倒する」だとか、「クリスマス(あるいはイースター)は家族で過ごせる」だとか、文言にはさまざまなバリエーションがあるが、「この戦争は長くなる」と言って侵略戦争を始める者は、まずいない。ところが始まると、責任者は次のように言う。「この戦争は思ったよりも長引きそうだ。」第一次世界大戦が始まったとき、ドイツ軍の兵士もフランス軍の兵士も2週間ほどでかたがつくと思い、戦場に向かったという(『映像の世紀』より)。ところが文字通り泥沼の塹壕戦が続き、悲惨な長期戦という結末になった。同じように、今度の戦争でも、アメリカ軍の増強は決定し、すぐには終わらない気配である。もちろん、どのような結末になるかは、私は「国際関係論」のズブの素人であり、わからない。しかし、人々を戦争にいざなっていくときの指導者の言説の変化という点では、今回の戦争は今までの戦争と同じ流れを受け継いでいることは確かである。
忘却したくないと思う。直接には何もできない私が、何かできるとしたら、ブッシュのことばと行いを忘却しないことだ。ビン・ラディンを捕捉するためにアフガニスタンを攻撃したはずのブッシュが、ビン・ラディンのことはうやむやなまま、アフガニスタンを放置し、人権侵害の問題にしてイラクを侵攻したアメリカが、パレスチナでのイスラエル軍の蛮行を支持しているという矛盾。戦争とは、忘却をめぐる闘争なのかもしれない。空襲に遭い、家と家財道具を焼かれた私の祖母が、徹底した反戦思想をもっているのは、五十数年前のことを未だに忘れていないからである。
2003/3/27(Thu) <春の嵐>
春の嵐ですね。段ボールを抱えて、大学のキャンパスを歩いていたら、よろめいてしまいました。出国まであと10日ほど。今日は、向こうで必要な文献の荷造りです。あわただしい日々が続いております。みなさまもお元気で!
2003/3/23(Sun) <見たくない>
先日、友人から電話があり、戦争が始まってからというもの、新聞やニュースなど見たくない気分だという。私も同じ気分だったのだが、なぜそうなのか、そのときは説明がつかなかった。そして、今日、テレビをつけると、どこもかしこも戦争三昧、軍事オタクのような連中が出てきて、何か「国際関係論」について講義をしようとしている。もう気分が悪くなって、どこか戦争以外の番組はないかと、高校野球やサザエさんをぼんやりと見ていた。
こんなご時世に、戦争報道から逃避して、高校野球やサザエさんを見ている自分とは何だろうと、少し自責の念にかられながらも、考えていたところ、次の池澤夏樹さんの文章に出会い、「そうだ! 友人や私が感じていた戦争報道についての重苦しい気分の原因はこれだったのだ!」と合点がいった。そして、私たちは、戦争の報道をあえて見ないということが、あるいは見るときは用心深く視点に自覚的になりながら見ることが、大切なのだと悟った。以下に池澤さんの文章を転載する。
新世紀へようこそ 097
戦争が始まった
戦争が始まりました。
ぼくたちは長い間、希望をもって戦争を始めさせない
よう運動をしてきましたが、開戦は止められなかった。
戦争はなかなか正当化できないものですが、しかしこ
れほど明快に理不尽な戦争もありません。
国連は認めていないし、アメリカとイギリスの政府に
賛同する国はごく少ない。アメリカを除くどこの国でも
反対派の国民の方が圧倒的に多い。
査察は続いていたし、イラク側は協力的だった。ブリ
ックス氏はまだまだ査察を続けるべきだと言っていた。
こうならないよう動いてきた世界中の人々が落胆し、
憤慨していることでしょう。ぼくもその一人です。
しかし、戦争が始まったからと言って、戦争に反対す
る理由がなくなったわけではありません。むしろ逆なの
です。これから本当にたくさんの人が死にます。早く止
めさせるにはやはり戦争反対の意思表示をしてゆくしか
ない。
今まで以上に力を出さなければならない。
なぜこうなってしまったのか、国連のことを少し考え
てみます。
アメリカは、フランスが拒否権を行使すると言ってい
るから決議案を撤回したと言っています。まるで言うこ
とをきかないフランスが悪いみたい。
国連ができた時、一国の勝手な欲望から戦争が始めら
れないよう、安全保障理事会という制度が作られました。
主だった国の合意のもとに国際社会を運営してゆく。拒
否権というのはそのための最後の歯止めであり、合意が
ないことの表明です。
今回のイラク攻撃を国連は認めなかった。安保理の中
間派6か国、いわゆるミドル・シックスはさまざまな圧
力を受けながら、よく踏みとどまりました。フランスが
拒否権を使う場面はたぶんなかったでしょう。
だからアメリカは国連を回避した。あるいは無視した。
そして戦争を始めた。
つまり、アメリカは世界を私物化した。
日本政府はたぶん困っています。国連重視とアメリカ
との協力の二本を外交の柱にしてきたのに、その二つが
分裂してしまった。国連を捨てるというのは外交方針の
重大な転換です。本来ならばたくさんの論議が必要なは
ずですが、小泉首相が口にしているのはすり替えロジッ
クばかりで、まともな説明になっていない。
経済的に多くをアメリカに負っているトルコやメキシ
コでさえ賛成しなかったのに、日本はアメリカを支援し
ている。これは自主性を欠くだけでなく、非常に危険な
ことだと思います。
イラクの人々をサダム・フセインの圧制から解放する
ための戦争であるとアメリカは言いはじめました。
たしかに、ある国で一部の国民が極端に不当な扱いを
受けたり、つぎつぎに虐殺されたりしている時、国際社
会はそこに介入すべきだという説があります。旧ユーゴ
スラビアの内戦の時はこの理由によって国連軍が武力を
行使しました。
しかしそのためにはどの段階で介入すべきか周到な議
論が必要ですし、現実にはそれでもなかなかうまくいか
ないようです。まだ歴史が浅いし、試行錯誤が必要なの
でしょう。
この問題については最上敏樹氏の『人道的介入』(岩
波新書)が詳しいので読んでください。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/400430752X/impala-22/
いちばん大事なところを引用します――「もし加害者
への攻撃が許されるとすれば、それは現に虐殺がおき
(ようとし)ており、かつ、加害者に攻撃を加える以外
に手段がない場合に限られる。それも国々が勝手な判断
でおこなうのではなく、国連のような世界的機関の集団
的な判断に基づく、集団的な措置でなければならない」。
いずれにしても今のイラクは「人道的介入」を必要と
するような事態ではありません。それが必要なのはイス
ラエルの方です。
まして、国連がそれを認めていないのにアメリカが勝
手に他国の国民を「解放」するのは、武力による内政干
渉すなわち侵略です。
メディアに言いたいことがあります。
アメリカ軍の動きを報道することを控えてください。
飛び出すミサイルや、離陸してゆく戦闘機、したり顔で
成果を説明する司令官、これらは戦争ではありません。
戦争とは破壊される建物であり、炎上する発電所であ
り、殺された人々、血まみれバラバラになった子供の死
体です。水の出ない水道、空っぽの薬箱、売るもののな
いマーケット、飢えて泣く赤ん坊、それが戦争の本当の
姿です。そちらを映すことができないのなら、戦争を報
道することなど最初から諦めてください。
今の段階で攻撃側の動きばかり伝えるのは、この道義
なき戦争に加担することです。
政治家でも軍人でもないぼくたちは、この戦争がイラ
クの普通の人々にとってどういう現実であるか、それを
想像してみなければいけないと思います。
戦争が始まりました。
戦争に反対しましょう。
(池澤夏樹 2003−03−20)
2003/3/20(Thu) <ニューヨークより>
ニューヨーク在住のゼミ卒業生よりメールがあったので紹介します。
ついに始りましたね、
今世紀まず最初の、
しかし歴史的愚行が。
ぼくも本当に国際関係を教える先生達に同情します。
「なんでもありです」
これで講義は終了ですね。
簡単でいいかもしれないけど。
こんな数行で、みごとなコメントを書いてしまう若者のセンスにただただ感嘆するばかりです。
2003/3/19(Wed) <野球も消える>
東京ドームで行われる予定だったメジャー・リーグ開幕戦が、アメリカのイラク侵攻確定とともに消え去った。イチロー選手は、そのうっぷんをオープン戦での満塁ホームランで晴らしたけれども、楽しみにしていた日本のファンとしては無念さが残る。ほんもののメジャー・リーグを見ることができる千載一遇の機会とばかりに、チケット予約の日にコールを繰り返したが、回線が混み合ってゲットできず。インターネットのオークションでも値がつり上がっていたので、ひどく落胆している人たちがいることだろう。
もちろん、最新鋭の兵器で爆撃を繰り返されるイラクの市民たちの苦しみとくらべるならば、メジャー・リーグを観戦できないことぐらい大した問題ではないのだが、のっぴきならない事態とは思えないのに、敵・味方・傍観者、さまざまな人々のくらしを蹂躙する今回の決定は、無念の極みである。イラクの市民にとっては、負けても地獄、奮戦してもさらに地獄、八方ふさがりである。さらに、借金まみれのアメリカが、戦後処理をどのようにつけるのか。世界は今、見通しのないアリ地獄に突入しようとしている。
2003/3/18(Tue) <戦争でさえない>
週末、学生たちとゼミの飲み会を行い、家に辿り着いたときには、東の空が薄明るかった。いつまで体力がもつやらと言い続けて、6年目、いよいよダメのようだ。まだ後遺症が残っている。
さて、前回のタイトルの通り、「あそび」歩いていたところ、ブッシュ大統領が最後通告を突きつけるというのっぴきならない事態にことは進んでいる。本日、午前10時からのテレビ演説を聞いたけれども、そこには自国を相対化した世界観はどこにもなかった。ただ、油田を破壊しないようにというイラク国民への呼びかけだけが、この戦争の真意を物語るようであった。
戦争の前にはある種の危機感が世界を覆うものであるが、今回の戦争は、わざわざ世界に危機を創り出す人類史でもまれな愚挙である。戦争が硬直した局面を打開するための一つの政治の延長であるとするならば、今回の戦争は戦争でさえない。次の選挙のためかもしれないし、それに関連して石油の利権のためかもしれないが、どちらにしても世界の人々が直面している課題に逆行した反動としか言いようがない。
戦争が一つの国際政治の形態ならば、戦争は双方の主張のギャップを暴力によって解決しようとするものである。こうした戦争の愚かさも、現代を生きる私たちは誰もが知るものである。だが、今回の戦争は、主張のギャップが何なのかもわからなければ、力の差もあまりにも明白で、勝ち負けもはじまる以前からわかりきっている。つまり、リンチである。戦争は人間を傷つけるが、リンチはそれを取り巻いている者たちも無力感におとしめる。世界のリーダーが反人間的な行為に邁進することの人間社会に与えるダメージはあまりにも大きい。油田より大きな人間の尊厳、誇りがそこにはある。イラクの人々のいのちだけではなく、世界中に住む私たちの人間としての尊厳、誇り、情感が奪い去られようとしている。この戦争は、これまで知っている戦争でさえ、ない。
2003/3/14(Fri) <あそび>
今日より文体変更。「です・ます」の柔らかい文体だとかえって「くだらない」話を書きづらい。「戦争」は危急の課題だけれども、「あそび」がないと自分が面白くなくなる。「あそび」のない単調な「まじめ」さに縛られることこそが、時代のペースに乗せられているといえるのかもしれない。「ウオッシュレッ党」を書いていた頃のウイットある文章を取り戻したい。
さて、いつものように我田引水的に話が始まって、今日は「あそび」の話。イギリス行きを前にして、楽しみにしていることがある。もちろん、それは研究三昧の生活であるが(笑)、もう一つはゴルフである。全英オープン・ゴルフの大ファンで、真夜中にテレビにしがみつき、なみいる名選手たちがリンクスの厳しいコースにうなだれる姿を、よだれをたらしながら見続けてきた。名選手の好プレーに感動するというよりも、この日のために人生を賭け、鍛え上げた強者たちが、海風の吹きつける難コースにはじきとばされるシーンに、人間のちっぽけさとそれゆえの神々しさに心が釘付けになったのである。力でねじふせるものが勝つのではなく、自然の気まぐれに痛めつけられ、おのれの矮小さに気づき、謙虚になったものだけに勝利の女神がほほえむ、これが全英オープンを特徴づけている。
イギリスに行ったら、何としても実現したいことが、全英オープンを直に見ることである。2003年度のジ・オープンの舞台は、サンドウィッチ。ゴルフの聖地・センドアンドリューズやミュアフィールドといったスコットランドのコースではないのが何とも残念だけれども、サンドウィッチ片手にサンドウィッチのコースを、ゴルフ解説の青木功さんのうしろあたりをうろうろしながらついていく予定なので、テレビをご覧のかたはぜひとも私の姿を探してほしい。
もちろん、イギリスに行ったら、見るだけではなく、実践を試みるつもりである。何事も実践が私のモットーだからである。ただ、帰ってきて、ゴルフばかりがうまくなり、ゴルフ留学したのではないかと言われないように、控えめにうまくなっておくことにしたい。
2003/3/13(Thu) <花>
まもなく私とともに渡英する同居人が、たくさん花をもらって帰ってくるので、家中が花にみちてあざやかです。花を入れる花瓶がほしくなったので、ホームセンターに行きましたが、ホームセンターは面白い。日々のくらしがちょっとした工夫で楽しくなり、心地よくなるような品がいっぱいあります。ついでに(いえ、これが本来の目的でしたが)、ちょうどいい信楽焼の花瓶もありました。
2003/3/11(Tue) <ドル安>
去る夏休み、ヨーロッパに旅行したとき、1ユーロはだいたい117円ぐらいでした。これに対して、1ドルは120円ぐらいで、ヨーロッパはアメリカよりもちょっと安そうでいいね、と思っていた記憶があります。ところが7ヶ月経ち、次の夏のヨーロッパ旅行のパンフレットをパラパラと読んでいますと、昨年より1割ほど高い料金設定になっています。為替レートをみますと、1ユーロが130円とか129円となっています。ずいぶん高くなりました。4月からヨーロッパに行くことを考えると、ちょっとがっかりです。しかし、イギリスはユーロではありません。ポンドです。しばらく前にポンドはいくらぐらいかなと思って調べたところ、1ポンド200円とあり、げっ高いと驚きましたが、今は下がって1ポンド187円ぐらいです。
経済学者でもないのにお金の話から入りましたが、昨年の8月からユーロは円に対して1割ほど高くなっているのですが、ドルは現在117円で8月より安くなっています。この7ヶ月の相場の動きをみていると、とても面白いことがわかります。イラクへの侵攻に積極的なアメリカ・ドルが安くなり、反対しているフランスとドイツのユーロが高くなっているのです。そして、アメリカと一蓮托生のイギリス・ポンドも近頃、安くなっています。お金の動きほど、正直なものはないと言われますが、「有事のドル」ということばは昔のものとなり、今回の有事はアメリカ・イギリスにとってマイナスの材料ではあっても、プラスの材料ではないと、投資家たちは見ているようです。
まだあとに引き返すことはできます。シアトル・マリナーズの日本での開幕戦もぜひ観たいです(もちろん、TVで、ですが)。自滅してしまうには、アメリカという国が育ててきた文化はあまりにももったいないです。
2003/3/10(Mon) <税金はどこへ?>
どうしても、どんな屁理屈をつけても、戦争をしたいブッシュ・アメリカのようです。ここまで道理を曲げて、一体このあと世界はどうなるのだろうかという暗澹たる気持ちになります。さらにはらが立つのは、私たちの税金がアメリカの軍艦のオイルとして湯水のように注がれていることです。資金繰りがたいへんな中小企業の事業主さんがたくさんいる中で、もうすでに100億円をこえるオイルがアメリカ軍に注がれています。社会のため、人々が心豊かな生活を送るためと思えば、税金も喜んで払いますが、イラク攻撃に荷担するためには一銭なりとも払いたくはありません。
理屈などどこにもなくて、ただ自分のやりたいようにやりたいだけ。見たくないものにはふたをして、見たいものだけを見るというのでは、もはや人間の社会ではありません。国際関係論の講義をされている先生方に同情します。こんな不条理がまかり通る世界で、どんな講義をすることができるのでしょう。少なくとも、こんな身勝手な人間は、人間社会の中では必ずはじきだされてしまいます。人間の倫理とくらべて、国の倫理はなんと劣ることでしょう。
しかし、望みを捨ててしまったら、身勝手な連中の思うつぼです。大きな力の前に何もできなくても、私たちはこの目で見て、この耳で聞き、それを記憶にとどめ、書き記すことができます。長い長い時間がかかるかもしれませんが、人間が生きている限り、非道を葬り去ることはできません。
2003/3/7(Fri) <雨>
雨です。天気が荒れています。さすが3月といった雰囲気です。渡英まで1ヶ月です。わさわさしていますが、急がばまわれということで、あわてずたゆまず歩いていこうと思っています。さて、次はどんな1年になりますことやら。お身体に気をつけて!
2003/3/5(Wed) <寒の戻り>
朝起き2日目です。今朝は3月とは思えないような寒い朝でした。清瀬の小径では、水たまりががっちんがっちんに凍っています。畑には霜柱が立っていて、小学校時代の冬を思い出しました。子どもは目線が低いから、地上にあるいろんなものが見えるものです。違った目線をもつ人たちが、相互に対話できるような関係を、どうやって作っていくことができるのか、これから考えていきたいと思います。お互いの足の引っ張り合いではなく。ではまた。
2003/3/4(Tue) <逆風>
最近、眠れないようなことが続くので、いっそ早く寝ることにしました。すると、さっと眠れて、さっと早起きできるではありませんか。強風の中を駅まで歩いて、本日、大学一番乗りでした(ただし、教員の中で)。しかし、一番乗りとはしゃいでいても、その前に門をあけ、研究棟の扉をあけて、一日の準備をして下さっている方々がおられるわけで、まったくもって頭が下がります。世の中、ままならないことが多々がありますが、順風で足をすくわれることはあっても、逆風で大ケガをすることはないわけで、ぼちぼち歩いていきたいと思います。
さて、読売新聞によると「イラク軍スポークスマンは3日、同国南部の飛行禁止区域を監視飛行中の米英軍機が2日夜にバスラ県の民間施設を空爆し、民間人6人が死亡、15人が負傷したと発表した。」とのことです。そもそもこの「飛行禁止区域」というもの自体、アメリカがイラクの領空に勝手に設定したものですが、そこを米英の爆撃機が飛行し、しばしば空爆しているわけです。いつ使うかわからないイラクの大量殺戮兵器とやらと、今現在、殺戮を繰り返している米英の爆撃機、果たしてどちらがより危険なのでしょう。
ところで、中学校の社会科では、国というものについて学びます。国を成り立たせている三大要素は、領土があり、国民がいて、主権があるというものだそうです。領土に伴い、領海(もちろんない国もある)や領空(すべての国にある)もあります。そして、お互いに不可侵の取り決め、つまり勝手に相手の庭に入るのはやめようねという取り決めをしているのが国際社会です。この取り決めは、今、世界のリーダーによって破棄されつつあります。
もちろん、破棄する側にも、理屈がないわけではありません。「民主主義」が守られていない、「人権」が侵害されている、「自由」が脅かされている、アメリカは常にこうした理由づけを行うことで、自らの戦争を正当化してきました。たしかにこの理由づけも一概には否定できません。あまりにもひどい状況が内部で進行しているとき、外部からの介入なしには問題は解決しないからです。この論理でアメリカ軍が他国に介入する場合には、国連をほぼ歩調を合わせることができました。この論理についても批判的に吟味する必要はありますが、現在のイラク攻撃をめぐるブッシュ・アメリカの理屈は、もう一つ次の段階に入っているように思われます。
「フセイン大統領が統治するイラクという国家が存在するかぎり、アメリカ人の安全が脅かされる」というのが現在のブッシュ・アメリカの論理であるように思われます。おそらくアメリカでは、アラブ関連のテロで亡くなる人よりも、アメリカ人の銃によって亡くなる人のほうがずっと多いでしょうから、この論理は論理というよりも信念といったほうがいいでしょう。さらにいえば、2001・9・11のテロとフセイン・イラクの関係についてもはっきりしておらず、イラクとアメリカ人の安全の間には何の関係もないかもしれません。逆に「アメリカがイラクを攻撃するならば、アメリカ人の安全はさらに脅かされるだろう」という論理のほうが妥当性をもつような気もします。
ゆがんだ信念を生み出したものは、9・11以降の「傷」と「恐れ」だと思います。「加害者」が死刑に処せられたところで、被害者の遺族の傷が癒えることはないといわれます。ましては冤罪ででっち上げられた「加害者」を血祭りにあげたところで、何が得られるというのでしょう。「傷」と「恐れ」につき合うのなら、いくらでも惜しみません。しかし、血祭りに荷担することは、ごめんこうむります。
2003/3/3(Mon) <3月>
3月になりました。今日は雛祭り。しかし、国分寺の空は暗雲がたちこめています。天気が崩れそうな気配です。出国まであと1ヶ月ほど。ほとんど準備は進んでいませんが、そろそろまじめに準備をしなければなりません。次の1年はどんな1年になりますことやら。
さて、雨が降ってきました。イギリスの天気のような(一度も行ったことがありませんけど)、雨模様です。外国に行って何が変わるやら。外国に住んでみると、日本に帰りたくなくなる人と帰りたくなる人にわかれるとのことですが、私は一体どちらになるのでしょう。いろいろと期待はありますが、プロ野球の選手たちをみても、イチローはどこへ行ってもイチローだし、新庄はどこへ行っても新庄なので、やっぱり地球の裏側までいっても自分からは逃れられないのではないかと思っています。ただ、自分のまわりにこびりついたコケを落とす機会にはなるでしょうし、日常から遮断されることで自分と向き合うことはきっと増えるでしょう。それでも、また私らしく新たなコケをたくさん生やすにちがいなく、また別のわずらわしさをつくるにちがいないので、やっぱりどこに行っても同じなのかもしれません。
それでは、よい3月を!
2003/2/27(Thu) <花粉>
今年もつらい時期がやってきました。花粉症のシーズン到来です。朝の新聞では多摩地方の花粉は「とても多い」。イラストが涙を流しています。私も涙を流しています。ああ、かなしい。
私は今まで生きてきて、自分なりにいい加減だけれどもまじめに生きてきて、わかったことが一つだけあります。それは人間とはもろい生き物だということです。中島みゆきの「瞬きもせず」に「ああ、人はけもの、牙も毒もトゲもない ただ 痛むための 涙だけを もって生まれた 裸すぎる けものたちだ」という一節があります。この歌のように、人間はもろく、弱いものです。そして、もろく、弱いからこそ、協同し、協働しながら生きてきたのです。この人間がもし、何か勘違いをして、自分たちが強く、一人で生きられるものだと考えたら、そこには大きな落とし穴が待っているように思われます。
私は花粉ひとつに、ぐしゅんぐしゅんしてしまうような弱い人間です。同じように、どんな人間も鋼鉄の弾をはじき返すことはできないし、ミサイルが飛んでくればふっとびます。私はわざわざ死ぬとわかっているところに行きたくはないし、痛いことはイヤです。そして、弱さを克服しようとも思いません。強さ(弱さを認めないこと)が人類を滅ぼすことはあっても、弱さが人類を滅ぼすことはないかと思うからです。
フランスの国会が与野党ともに大統領の反戦姿勢を支持しているのに対して、イギリスの国会では与党の分裂が深刻になっています。力で理をねじふせる方法は必ず行き詰まります。ブッシュ大統領は「イラク攻撃が始まった場合、米国はイラクの油田を早急に破壊行為から保護する」と宣言したそうです。強盗が「住居侵入した場合、自分はこの家の財産を早急に(家主の)破壊行為から保護する」といっているようなものです。盗人たけだけしいとはこのことでしょう。どこをどう考えてみても、この道理を曲げたら、私たちの社会の前提は瓦解します。アメリカに必要なことは、世界を支配することではなく、世界に対する関心でしょう。日頃、関心をもつことなく、何かあると攻撃し、支配しようとするのではお話になりません。同じように、私たちももっともっと他者に対して、関心をもち、関心を持ち続けていかなくてはならないのだと思います。北朝鮮、イラクの問題に遭遇し、騒ぐことによりも黙ってじっと関心を持ち続けていくことの大切さを思わされます。
2003/2/26(Wed) <ご無沙汰>
「ゼミ冊子」を書いて以来、ほぼ1週間更新できずご迷惑をおかけしました。m(_ _)m
先週はとにかくバタバタしていた週で、ほぼ毎日深夜帰宅。中学校で授業をするなんていう企画も入れたりして、寝不足の上、冷や汗までかいて、いつまでもつかと思っていたところ、過密のスケジュールの中に無理やりはめこんだ九州への帰省で、風邪をひいてしまいました。しかし、ちょうどいいときに風邪をひいて、ぼけっと犬のさんぽやら、軽い運動やら、身体と気持ちを楽にして、ただいま帰京(いえ、帰・清瀬)したところです。まあ、本年度はここまで風邪も押してやってきましたから、上出来だと、自分をほめております。それにしても、九州は暖かかったです。南に面した部屋は、ゆであがるほどでした。もちろん、ちょうど私の帰郷が暖かい日々に当たったようですが。
さて、この間、あまり新聞も読んでいなかったのですが、たまたま眺めた朝日新聞の記事によると、アメリカのマスコミがフランス攻撃を盛んにやっているということです。アメリカのマスコミ、ジャーナリズムから直接得た情報ではないので、何とも言えませんが、「ノルマンディーの恩を忘れたのか」というのはあまりにもあほらしすぎます。そこまでいうなら、アメリカが当時の超大国イギリスを相手に独立戦争を戦っていたときに、フランスがアメリカを支援したことまでいわなければなりません。たしかかつてのフランス革命の英雄ラファイエットも、義勇兵としてアメリカに渡っていたはずですから。
私たちはもはや部族社会に生きているわけではないのですから、「恩」とか「義侠」とかいっている場合ではありません。悪の枢軸などという無理な道理を通し、世界地図を善と悪の二色刷でうめつくすパースペクティブ(ものの見方)は、これまで人間が英知を合わせて創り上げてきた社会をおとしめ、人々の暮らしを危険にみちたものにするように思われます。私もまた表層的なインフォメーションしか発信できていない、単純な構図しか提供できていないという忸怩たる思いをもちながら、これを書いていますが、ただものごとには○か×があるだけではなく、厚みや深み、奥行きがあり、ある場合にはこちらのほうがずっと大切であるということを訴え続けていきたいと思っています。そして、厚みや深み、奥行きを探っていくこと、これが学ぶという営みであるような気がしています。学びから切れたメディアは、ただただ恐ろしいです。
2003/2/20(Thu) <ゼミ冊子>
今年も手作りのゼミ冊子が完成しました。本原稿の打ち出し、誤字脱字のチェック、印刷、仕分け、製本といった行程に分かれて、手作業で行う協働の「ものづくり」は、とても楽しいものです。手作業ゆえの失敗やつまづき、滞りなどがありますが、こうしたトラブルをいろいろと話し合いながら解決していくプロセスがまたたまりません。生きるたのしさというのは、完成されたものにあるというよりも、試行錯誤しながら他者との対話の中で自分の力量を育てていくプロセスの中にありそうです。今年も読み応え十分のゼミ冊子です。必要な方はご一報下さい。
2003/2/17(Mon) <デモ>
日曜日、世界中でアメリカ(ブッシュ)の戦争に反対するデモが行われたようです。なぜアメリカ(ブッシュ)と書くかと申しますと、NHK7時のニュースで放映されたオーストラリアでのデモで、インタビューされていた男の人が、「ブッシュの戦争に断固と反対する」と答えていたからです。テレビのテロップには、「アメリカの戦争」という字幕が流れていましたが、彼はたしかに「ブッシュの戦争」と語っていました。ニューヨークでも10万人規模の反戦デモが行われました。9・11の傷を受けたニューヨークでさえ、反戦デモが起こるということは、この戦争が「アメリカの戦争」ですらなく、アメリカ人もふくめた人類を敵にした戦争であることを物語っています。毎日新聞の日本のスイッチでも、戦争にGO!は9%に過ぎず、91%が対話による解決を望んでいるという数字が出ています。
この戦争は、人種間の対立でもなく、宗教戦争でもありません。そもそもイラクという国家、あるいはフセインという政治家は、アラブの中でも宗教分離を最も進めた国家、政治家の一つであり、イスラム原理主義とは対極に位置づいているといっても過言ではありません。同じように、ブッシュという政治家は、西洋文明の教養的伝統、キリスト教の寛容の精神から最もかけ離れている政治家の一人です(と、私は思います)。アメリカは、多民族国家であり、あるいは建前にしろ、多様な生き方、信条が認められている国です。この建前はアメリカという国家を統合する重要な装置として働いてきたはずです。ところが、ここに人種対立、宗教対立を自らもちこむならば、論理的にはアメリカは内側から瓦解するしかありません。今度の戦争の愚かさが、こうしたところからもうかがえます。
世界各地のデモをみて、私の感じている納得のいかなさを世界中でこんなにも多くの人たちが共有しているということを知り、気持ちが熱くなりました。何とか4月までもちこたえられるならば、開戦を回避する可能性がひらけてきます。愚か者に人類を滅ぼされたくはありません。戦争回避まで、アメリカ製品不買運動でもやってみますか?
2003/2/15(Sat) <一命>
昨晩から体調があやしいのですが、よろよろともっています。最近は、なぜだか体調が国際情勢と連動していて、アメリカのイラク攻撃が避けられないような雲行きになると体調が悪くなり、フランス・ドイツなどが戦争回避で盛り返すと体調も持ち直すという状況です。今朝から不調でしたが、毎日新聞の夕刊一面に「イラク査察 当面は継続」という見出しに続いて「仏独露中など主張」という文字があり、これを見て、身体が少し元気になりました。というわけでパソコンに向かっています。
さて、読売新聞の記事によると、「太平洋上空、医師・看護師ら連携プレーで1歳児助かる」というニュースがあります。要約すると次のような話です。ロサンゼルス発成田行きの大韓航空の機内で、在日韓国人女性の子どもである女の赤ちゃん(1歳2か月)の容体が悪化、命が危険な状態になりました。乗り合わせた日本人看護婦が救護にあたるも容体はさらに悪化、太平洋のまっただ中、近くに着陸できる空港もなく、万事休す事態に追い込まれました。ところが、ここで機長は付近を飛行中のロサンゼルス発仁川行きの航空機と連絡、機内に乗り合わせていた韓国人医師が日本人看護婦と無線で交信し、意識不明の赤ちゃんへの応急処置を行い、一命をとりとめたとのことです。
太平洋上の日韓のコミュニケーションが一人の赤ちゃんの命を救ったというこのニュースに、私たちの心は温められます。幼子を抱え、絶望の淵に立たされたであろう母親、そして懸命に手当をした看護婦、限られた時間と資源の中で最善を尽くした機長、適切な指示を送った医師、そして通訳として働いた人たち、赤ちゃんの無事を祈ったであろう乗客、こうした一人ひとりの人間としてのすばらしさが、この一つの記事から読みとれます。
私たちは一人の赤ちゃんのいのちを守るために団結する温かい心と強さをもっています。同じように、イラクの無辜の人々のいのちを守るために何かほんの些細なことしかできないかもしれないけれども、自分のできることをしていきたい、と思います。そして、こうも思います。私たちはみな自分から生まれてきたのではなく、地球上に産み落とされてきた人間です。この愛する地球に対して、手前勝手なことをする権利のある人間なんてどこにもいません。
毎日新聞の「メディア欧州通信」にフランスには「犬を殺したいと思ったら、狂犬病だから、と言えば良い」という諺があるという話が載っていました。どんな教訓を導き出す諺なのだか知りませんが、「人を殺したいと思ったら、悪の枢軸だから、と言えば良い」という風潮にあらがうためには、「人が人を殺すことを認めない」ことを自分自身の内側からしみじみ感じていく、そしてそのことを日々の生活のなかに編み込んでいく、こうしたことが大切なのではないかと思いました。
2003/2/12(Wed) <緊迫>
世界の情勢は緊迫してきています。フランス、ドイツにブッシュ・アメリカが「古い欧州」という非難を浴びせると(アメリカのすべてが今のアメリカとは思わないので、ブッシュ・アメリカと呼びます)、フランス、ドイツはかつてのアメリカの仇敵ロシアと連係、さらに中国もこれを支持しています。簡単にいえば、国連の安全保障理事国五カ国のうち、イラク攻撃に積極的なのは、当事者のアメリカとイギリスだけ、あとのフランス、ロシア、中国は反対のスタンスです。つまり、第二次世界大戦の戦勝国が真っ二つに割れているわけです。
この亀裂のまま、ブッシュ・アメリカが突き進むならば、21世紀は20世紀の二の舞になる可能性があります。これからしばらくの間、国際政治の舞台から目を離せません。焦点は、プライドの高いブッシュ・アメリカのプライドを損なうことなく、どうやって振り上げた腕を下ろさせるかにかかっているように思います。今日も入試です。雪が降る寒い日になっています。
2003/2/11(Tue) <くだらない話>
朝からくだらない話で失礼します。ただいま、入試期間中です。今年もまたいつものように(昨年は車通勤でしたので、2年ぶりに)、駅から大学への道を歩いておりました。すると、いつものように受験生向けのアパート情報誌を配布していますので、いつものように受け取りました。以前、この欄で書きましたが、チラシ・情報誌の配布のアルバイトをしている学生から、あれはとにかく誰にも配っているのだ、と言われましたので、おぢさんにも配ってくれるのね、と思いつつ、受け取っておりました。
ところが、大学に向かう坂道で、情報誌を渡され、受け取ったところ、「がんばってください」と声をかけられるではありませんか。そして、坂道を登り終わったところでも、また別のアルバイトから「がんばってください」と一言。さらには、校内に入って、本学のアルバイト学生から「教室の案内図です」とご丁寧に紙切れを渡してもらいました。
最近じゃ、みんな挨拶上手になって、おとなたちにも「がんばってください」と言ってくれるようですが、喜んでいいのやら、悲しんでいいのやら・・・ これでも勤めてから6年の歳月が経ちました・・・ 毎年恒例のくだらない話を書いたあとで、せっせと解答用紙とにらめっこしに出陣です。緊迫した国際情勢のなか、くだらない話で失礼いたしました。(昨日の補足、フランス・ベルギーだけではなく、ドイツもNATOで拒否権を発動したとのことです)
2003/2/10(Mon) <別の風>
接続できない状態が続いていたYahoo! BBですが、「この度サポートをさせていただくにあたりまして、弊社でお客様の接続状況を調査しましたところ、通信が正常に行われている形跡を確認いたしました。」というメールが来て、確かめたところ、あら不思議、接続できました。ずっと接続できなかったことはたしかであり、この一文を突きつけられても、釈然としない気持ちは残ります。あとはどんな対応をしてくれるのか、これからのYahoo! BBとの交渉の結末がみものです。
さて、アメリカがどうしてもイラクを攻撃するという雲行きに、暗澹たる気持ちでいましたが、今日の毎日新聞の夕刊には、アメリカとは違う別の風が世界には吹いていることが記されていました。フランスとドイツが戦争回避に向けて、新たな提案を準備しているようなのです。さらには、NATOの協力を取りつけたいアメリカに対して、フランスとベルギーが拒否権を発動、事態はアメリカの意のままにはいかない雲行きです。もちろん、フランスもドイツもベルギーも、ただ人道的な観点から戦争に反対しているわけではないでしょう。国内に多くのアラブ系の人々が住んでいること、石油資源の安定供給のこと、ほかにもさまざまな国益が絡んでいることも考えられます。だけど、そうであっても、一部の者の利益のために道理も何もなく突っ走る大国に対して、別の風を運んでくるのは、大いに評価されることです。アメリカに言いなりのイギリスのブレア首相に対しては、イギリス国内でも批判が相次いでいて、支持率は急低下しています。今のアメリカにはついていけない、そう思う人々が少しずつ増えてきているようです。
国際政治が人道という観点だけで動くものではないとしたら、自らの不利益について黙っていない、きちんと主張するということがとても大事になります。そのためには、もちろん、自分より弱い国にだけではなく、強い国に対してモノを言える状況があることが大切です。弱者が自らがこうむる不利益についてモノを言うことができれば、強者がはなはだしい不公正を行うことはできず、結果として人道は守られるからです。
フランス、ドイツ、ベルギーが戦争に反対するのは、まず第一に自らの国益をそこなうからです。安定した社会システムを築いているこれらの国々にとって、砂漠の中で戦争をしても、何も得るものはありません。中東の大した軍事力ももたない国は脅威でもありません。逆に戦争によって失うかもしれないものはたくさんあります。戦争が始まれば、国際政治の力関係からアメリカの側につかなくてはなりません。そうなると、国内のアラブ系住民、労働者の反発を受けるのは必至です。国内の統合は揺るぎ、その信頼の回復には大きなコストが必要となります。さらには、石油の安定供給も脅かされます。
では、日本はどうでしょうか。この戦争が国益に通じるでしょうか。EU諸国と同じように、ほとんどの国民にとって失うものが多いと思われます。厳しい財政事情のさなかにもかかわらず、アメリカから軍事費の負担を求められます。また、石油備蓄がほかの国々よりも弱いですから、経済生活も危機にさらされます。道義なき戦争への怒りから、報復テロが頻発すれば、旅行業界、航空業界は大打撃で、消費も冷え込みます。(国内の温泉はちょっと潤うかもしれませんが)これまで良好だったアラブ諸国との関係も悪くなります。ほとんど何もいいことはありません。
そうであるなら、日本の国益を考えるべき政治家は(私は地球がこんなに狭くなっている時代に政治家は国益だけを考えているようではダメだと思っていますが、国益一つ考えられないようではもっとダメだと思っています)、自らの立場から意見を主張すべきなのです。でも、主張できないのです。なぜならこれまで外交を自分のあたまで考えてこなかったからです。アメリカべったりでやってきたからです。
フランス、ドイツがモノを言えるのは、これまでの外交で築いてきた信頼関係やEUというつながりがあるからです。どちらか一国だけならば、おそらくモノは言えません。同じように、もし日本が東アジアに外交を通した信頼関係を築いてきたならば、国益をそこなう戦争に対して、モノを言うことができたでしょう。韓国、中国、日本とさまざまな利害対立はあっても、今回の戦争に対して、一致して異議申し立てをする、そのような関係があれば、世界は全然違ってくるでしょう。小泉首相には、ブッシュ・アメリカの国益でしかない、靖国神社参拝に固執するのではなく、せめてアメリカにすべてかけている保険をリスク分散型にするくらいの視野をもってほしいものです。
政治的な話はこれくらいにして、小さなクラスの平和のためにも、世界の平和のためにも、弱者が自分の不利益に対して声をあげることを励ましていくことはとても大事です。自分も声をあげ、人の声にも耳を傾ける。それだけで世界は全く変わってくるのです。
2003/2/7(Fri) <素朴な目>
更新をさぼってすみません。今もなお自宅のYahoo! BBは不接続のままでありまして、手厚いサポートはこちらの問い合わせメールののち2週間ほど経ってから、わかりきった回答をよこしてくるだけです。というわけで、更新は大学でするしかなく、ほかの仕事で手一杯のときは、見送るしかない状態です。
さて、この間、私は『イラクの小さな橋を渡って』と『戦争中毒』という二冊の本を読みました。どちらも読みやすい本で、すぐに読んでしまうことができます。後者は、アメリカ合衆国の歴史を辿りながら、アメリカの歴史がいかに侵略と戦争にまみれたものだったのかを明らかにし、その根っこにゆがんだ選民思想があることを指摘しています。もちろん、この見方は、アメリカの一つの側面を照射したものに過ぎませんが、戦争の歴史という観点からアメリカをみることで、情報操作にだまされない眼をもつことができます。前者の『イラクの小さな橋を渡って』は、池澤夏樹さんが彼自身の目で見たイラクの人々の暮らしを綴ったものです。同じ旅をする人間として、私は池澤さんの素朴な目に共感を覚えます。
新聞やTVなどのマスメディアは、私には難しすぎます。昨日、NHKのニュースでは、アメリカのパウエル国務長官が国連安全保障理事会でイラクの大量破壊兵器開発に関する「新証拠」を開示したことを延々と流していました。今朝の新聞にもこの「新証拠」のことがことこまかく掲載されていました。しかし、私には、パウエル国務長官が示している「新証拠」なるものがほんものであるのかどうか確かめるすべはありません。さらに、「新証拠」があるからイラクを侵略してもかまわないという論理が、どうしてもわかりません。新聞やTVの人たちは、この論理があっという間にわかってしまうほど、頭がいいのでしょうが、私にはどうしてもわからないのです。
これに対して、池澤さんの文章はわかります。池澤さんはイラクの市井の人々の暮らしを見、人々から話を聞き、街の姿を見、文章として綴っています。そして、そこから出た結論は、次のようなものでした。(1)イラクは経済制裁のため、強制的に鎖国状態におかれ、人々の生活水準は10年以上前の状態にとどめられていること (2)したがって、巨大なアメリカ軍が侵攻したらまたたくまに破壊されるであろうこと (3)もし侵攻があれば、死ぬのはイラクの“ふつう”の市民であること (4)イラクの“ふつう”の市民とは、反米主義者でも、テロリストでもなく、私たちと同じように日々の暮らしを少しでもよくしようと支え合って生きている人たちであること (5)結論として、アメリカがこれらの人を殺す理由はどこにもないこと
私には新聞やTVで報じられる難しい話はわかりません。はなからわかる気がないのではなく、聞いても読んでもどうしてもわからないのです。ベトナム戦争のとき、ベトナムの人たちについて、メディアではどんな話が語られていたのでしょうか。おそらく世界中を共産主義で染めてしまう陰謀をもつ蛇のような共産主義者たちと語られるか、あるいはその裏返しである不屈の魂をもつ英雄たちと語られていたのではないかと思います。しかし、私がベトナムを訪ねて見たのは、日々の糧を得るために労苦しながらも、おいしい食事と人とのつながりを大切にする“ふつう”の人々の群れでした。もちろん、戦争から20年以上経っているということもあります。それでも、アメリカはあのベトナム戦争ときちんと向き合い、総括したのでしょうか。私たちは、ベトナム戦争ではじめてアメリカは負けたと言います。しかし、多くのベトナム人にとって、あの戦争は決して勝利なんかではありません。国土をめちゃくちゃにされ、人々は虐殺され、その挙げ句に、アメリカは正式な謝罪も賠償もしないままのうのうとしています。さらに、アメリカと断交したままでは、経済復興もままならないから、アメリカと和解することになり、その資本とともに消費文化が入ってきています。このため、ベトナムでは、ベトナム戦争をたたかった古い世代と、アメリカ消費文化になじみつつある若い世代の断絶は大きな問題です。ほんとうなら、アメリカが引き受けなくてはならない苦悩を、被害者が引き受けさせられる。とんでもない話です。
さらに、ベトナムの話を続けます。ホーチミンシティには、戦争にかんする記念館がいくつかあります。しかし、それらの記念館を訪れるベトナム人はほとんどいません。もちろん、日々の生活だけで精一杯ということもあります。しかし、それ以上に、戦争のことは思い出したくもないというベトナム人がおおぜいいるのです。このことからも、ベトナムは勝利したというのは、まったくもっていい気な第三者のみかたであることがわかります。
私は、国際政治についてまったくの素人です。しかし、素人だからこそ素朴にギモンをもちます。一昨年のアメリカによるアフガニスタン侵攻の理由は何だったでしょうか? 思い出してみて下さい。ニューヨーク9・11テロの首謀者といわれたオサマ・ビン・ラディン氏の身柄を拘束することではなかったでしょうか。この目的は一体果たされたのでしょうか? 果たされていないはずです。たしかブッシュ大統領はオサマ・ビン・ラディン氏を捕捉するか、殺害するまで手をゆるめないと息巻いていたはずです。しかし、アフガニスタン侵攻はいつの間にか終わりました。ということは、アフガニスタン侵攻のほんとうの目的は、テロリストの捕捉ではなく、何か別の目的があったというみかたができます。今度も、「大量破壊兵器」がキーワードですが、もちろん世界一の「大量破壊兵器」開発国はアメリカですし、中東には「核兵器」をすでに所有しているイスラエルという軍事大国もあります。さて、アメリカの目的は「大量破壊兵器」でしょうか? 戦争についての情報と接するときは、ものわかりがよく、すぐにのみこんでしまうよりも、わからない、“がんこ”な頭でありつづけることが大切であるようです。
最近、いつも私の頭に浮かんでくる、一つの寓話を最後に載せます。ヤクザのちんぴらがボスに呼び出されました。そのボスはちんぴらに向かってこう言います。「キサマ、わかってんのか。最近、いやに反抗的じゃないか。オレに歯向かおうとかげでコソコソしているのは知っているぞ。今度、事務所まで出てこい。わかったか! そのとき、何かオレに危害を与えるものをもっていたらぶっ殺すぞ。」ちんぴらは追いつめられました。そして、考えました。「ボスはどうにもこうにもオレのことが気に入らないらしい。すっぱだかで事務所にいって謝るか。それとも、どうせ逃げることもできず、殺されるのなら、ナイフ一本胸ポケットに隠していて、せめて一刺し気概をみせて死ぬか。」 ちんぴらはかつて別の組のちんぴらともめたときに、ボスから拳銃をもらっています。そのときの経験から、ボスが自分の思い通りにことを運ぶためにはどんな手段でも使う人間であることを知っています。一度、ボスににらまれたら、もうこの世界では生きていけなくなることも知っています。さて、あなたがちんぴらだったら、はだかで事務所に行くでしょうか? それともナイフをもって行くでしょうか? あるいは、あなたが第三者だったら、八方ふさがりに立っているちんぴらを助けますか?
2003/2/4(Tue) <足元>
立春です。まだまだ寒いですが、これから暖かくなると思うと、少しワクワクします。江戸時代に隠れキリシタンを探す手がかりとして、多くの人々とは逆に、寒くなる時期に喜び(クリスマス)、暖かくなる時期に悲しむ(イースター・復活祭)というのがあったそうです。しかし、それでも、私はキリシタンもまた暖かくなる時期には喜んでいたのではないかと思います。
さて、スペースシャトルの事件をきっかけとして、守旧派の私の頭をよぎったのは、宇宙に手を出す前に地球上でやらなくてはならないことがたくさんあるのではないか、という素朴なギモンです。二酸化炭素による地球温暖化、オゾン層の破壊、環境ホルモンの問題といった地球環境の問題、さらには、いまだに続く紛争、貧困、差別といった人間社会の問題、こうした問題が私たちの前には山積しています。スペースシャトルで宇宙に出かけ、戻ってくるという神業からみれば、オフィスで浪費されるコピー紙をどうしたら減らせるかを考えることはずっとずっと簡単なことであるはずです。
ふとあることを思い出しました。その昔、母から「本ばっかり読んでいないで、部屋を片づけなさい」と怒られたことを。そうです。自分の足元を見つめ、片づけるよりも、次から次へ新しい本を読んでいるほうがずっとラクなので、本を読むことに逃避していたのです。足元のことを見つめることは、人間にとって、あるいは一番難しいことかもしれません。それでも、二酸化炭素の排出規制さえ同意できない国が、たとえ火星に行ったって、冥王星に行ったって、私は感心いたしません。地球の裏側のことがいろいろ気になるようですが、その前にちょっと自分の国のお片づけでもしようではありませんか、アメリカさん。だいぶ約束手形もたまっているようですし・・・
2003/2/3(Mon) <墜落>
今日は節分です。先日、スーパーでついつい「鬼の面」つきの落花生を買ってしまいました。「鬼は外、福は内」とシンプルにやっていきたいところですが、一番怖いのは自分の心の中にある「鬼」なのかもしれません。昔の人たちは、そのことがわかっていたからこそ、あえて「鬼」とのたたかいを象徴的に演出したのだろうと思います。そして今、「鬼」を追い出すよりも「鬼」と共存するありようを模索していくことが、時代の課題なのではないかと、私は思っています。
さて、アメリカのテキサス州にて、スペースシャトルが墜落しました。その昔にスペースシャトルに宇宙への夢を託していたかつての天文少年の一人として、この事故には大いなる痛ましさを感じました。テレビや新聞で事細かく7人の乗組員のライフヒストリーが紹介されると、その遺族の悲しみ、本人の無念がありありと感じられてきます。感動の再会を目前にして、人間としての絶頂期にあった肉親を失った遺族たちの悲しみの深さは、いかばかりのものでしょうか。おそらく私の想像を絶するものでしょう。
私の思考は、さらに続きます。この7人と遺族の悲しみに共感できるアメリカの人々ならば、おそらく同じような悲しみのどん底に突き落とされるであろうイラクの人々の悲しみにも共感できるはずである、と。7人の人々には、それぞれかけがえのないライフヒストリーがありました。そして、私たちはメディアを通してそのストーリーと彼・彼女らにつながっている人々の姿を知ることができました。そして、同じようにアフガニスタンの、イラクの、パレスチナの人々にも、かけがえのないライフヒストリーとつながっている人々がいるはずなのです。ただ、私たちが用心深くしていないと、彼・彼女らの声と姿を見失ってしまいます。なぜならば、彼・彼女らの痛みを伝えるメディアがより小さいものだからです。
スペースシャトルはもう墜落してしまいました。時計の針を逆に回すことができない以上、乗組員のいのちを救うことはもうできません。しかし、イラクとの戦争はまだ始まっていません。ちょうど原爆が落される以前のヒロシマ、ナガサキのように、無辜のいのちを救うことは可能なのです。7人の人々の痛みがわかる人たちならば、国土を破壊され、その何十、何百倍もの人々が殺戮されるときの痛みがわからないはずはありません。
旧約聖書のヨナの話を思い出します。預言者ヨナは、ニネベの町に行き、この町があと40日で滅ぼされるという神の知らせを告げます。この知らせを聞いたニネベの人々は、これまでの行いを悔い改め、何とか破滅を逃れようと神に許しを乞います。すると、悪の道から立ち返る努力をしている人々をご覧になった神は、ニネベを滅ぼす計画を思い直しました。ところが、ヨナは自分が人々に告げた通りにならないのが面白くありません。そこで神は、ヨナが強い日射しを遮るために用いていたどうごまの木を枯らしてしまわれます。ヨナは暑さに我慢ができず、文句たらたら大騒ぎをします。すると、神は、ヨナを次のように諭されます。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅んだこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」(新改訳聖書 旧約聖書ヨナ書4章10-11節)
戦争ではない事故によって失った7名の人をこんなに惜しんでいる私たちが、大きな国・イラクに住む人々を惜しまないでいられるでしょうか。ましては神は、「右も左もわきまえない」人間をさえ憐れんでおられるのですから。
2003/1/31(Fri) <さよなら1月>
昨晩は学生たちと飲んでおりました。やるべきことがたくさんありと言いつつ、二次会まで行ってしまい、さらにやるべきことの借金をためこんでいます。とほほのほです。ついに1月が終わってしまいました。いけない。ネットに愚痴は書くまいと思っていたのですが、ついぐちぐちやっています。誰だって忙しい日々を過ごしているはずです。そして、その息抜きにこのページを読んでくれているにちがいありません。そこでぐちぐちやられたら、イヤになるに決まっています。
大変失礼いたしました。そして、ありがとうございました。忙しいなかにも、世知辛いなかにも、一つでも心温まる話を書こう、思いを書こうと考えていた初心を思い出しました。1月、風邪もひかずに、まっとうできたことを感謝します。そして、昨日、私を温かく送り出してくれた学生たちに心からお礼を言いたいです。それでは、皆さん、よい2月を!
2003/1/30(Thu) <ネット不接続>
インターネットの不具合について書きましたが、悪いことばかりではないようです。最近、明らかに早く寝床に就くようになりました。ネットは24時間営業ですから、いろいろと調べものをしたり、よからぬものにはまったりします。しかし、ネットが不調だと、帰ってから新聞を読んで、あとは寒いので寝るぐらいしかなく、健康的な生活です。思わぬ効果がありました。いろいろとうまくいかないほうが、ましになることが多いようです。それくらい、人間の脳、といいますか、私の脳は、道を誤りやすいものなのでしょう。
さて、何をしているというわけでもありませんが、毎日やるべきことがたくさんあり、追いつかないような状態です。バーチャルなネット世界だけでなく、実世界でもしばらく不接続状態となり、自分の仕事にこもる必要がありそうです。そういう意味でも、今度のイギリス行きは楽しみですが、ブツブツ言いながらも、こうしてネットに文章を掲載し、接続したがる自分って一体何なのでしょう? 接続中毒かもしれません。ちなみに、自宅の私の部屋は、接続コードが入り乱れていて、同居人からは“電脳”部屋と呼ばれています。
2003/1/29(Wed) <日射し>
強い冬型の気圧配置に包まれ、寒い一日ですが、日射しは確実に強くなっています。風が遮断される車内にいると、強い日射しでぽかぽか陽気です。一年でも一番寒い季節の今ですが、明らかに次の季節のきざしが見えます。季節と同じように、一番苦しいように見えるときに、もう回復の光が準備されているのでしょうし、一番強いように見えるときに、次の試練が待ち受けているのでしょう。『平家物語』の「諸行無常」のような話です。
さて、しばらく前から困っていることがいくつかあります。1つは以前にも記したガス湯沸かし器の件。何度、修理を依頼しても、なかなかうまくいかない状態でしたが、何と前回はさらにひどいことに、修理のあと、水漏れで廊下が水浸しになるという事件がありました。同居人によると、どうも修理のあとでネジが一本あまっていたとのことです。まるで私の日曜大工のようなレベルの話です。
もう1つは、Yahoo! BBの不具合です。10日以上前から突然インターネットへの接続ができなくなりました。いろいろ試行錯誤してみましたが、どうにもお手上げ状態なので、サポートにメールを送っていますが、なしのつぶて状態です。今回のケースは、Yahoo! BB側の問題としか考えられないのですが、釣った魚に餌はやらないとばかりに、サポートはありません。池袋駅構内や新宿駅近くを歩くと、Yahoo! BBの無料キャンペーン・セールを大々的にやっており、新規客の確保に向けて熱心に活動しているようです。しかし、サポートはざるといいますか、誠実さのかけらも感じられない論外な状態です。
この2つの話に共通する問題は、仕事の誇りが一体どこにあるのかという問題です。誇大広告でも何でもいいから、売れればよく、あとは野となれ山となれでは、あまりにも情けない話です。消費者として困るというよりも、人間としてこういう社会、あるいは仕事のありようは、まったくもって気に入りません。おそらく、大量消費、大量廃棄型の社会が、メンテナンスという熟練を要する大事な仕事を逼迫し、人間力の衰退を招いているのだと思います。何にしても、広告だけで実体が伴わない社会は、あまりにも脆い社会です。
せめて、これらを他山の石として、私たち大学人としては、見てくれのいい大学案内誌、あるいはカリキュラムの表紙作りに力を注ぐのはほどほどにして、大学にやってきた学生たちとどのような濃い学びの時間を過ごすことができるのか、あるいは彼・彼女らが必要なときにどれだけのサポートを準備することができるのか、を第一に考えていくことを肝に銘ずることにいたしましょう。
2003/1/28(Tue) <待った>
毎日新聞の一面には、「イラク攻撃、3月に最後通牒」というような見出しが踊っていました。もし3月に攻撃が行われれば、その後、報復、あるいは便乗のテロが頻発することが考えられます。4月に渡英する私にとって、まさに「やめてくれー!」と叫びたい状況です。日本の世論調査では、アメリカのイラク攻撃に反対する人々が80%を占めるという数字が出ています。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争といった一連の戦争と比較してみても、今度の戦争ほどわけがわからないものはありません。もちろん、道理のある戦争のほうが、道理があるだけにさらに悲惨なものかもしれないわけですが、といって道理のない戦争が、許されるわけではありません。植民地支配の愚かさを突きつけられ、民族や人々の自立を人類の課題として追求している時代にあって、世界一エネルギーを浪費し、世界の富を一手に集め、世界一飽食に満たされている国が、月に20ドルから30ドルの賃金しか得ることができない人々の住む国を攻撃することは、どのようにしても正当化することはできないことでしょう。アメリカという国が道理を外れていくことで、敗戦のあと、私たちの国がアメリカから贈られ、戦後をかけて曲がりなりにも育ててきた民主主義と人権まで色あせてしまうことが、とても残念でたまりません。
2003/1/24(Fri) <海外へ>
池澤夏樹さん、田原総一朗さん、田中宇さんなど、作家・ジャーナリストたちがイラクを訪れています。そこで彼らがみたものは、悪の枢軸ということばとは程遠い、幸せを求めて日々を生きている「普通の」人々の姿だったようです。ベトナム戦争では、多くのジャーナリスト・写真家たちが戦場の姿を映し出してくれました。ところが、湾岸戦争から、戦争は映像の中のゲームとなり、人々の生きる姿、苦しむ姿、死にゆく姿を突きつけられる機会は失われていきました。しかし、再び、心ある人々は、戦場をつくらないために、戦場になる前の町を訪れ、私たちにメッセージを与えてくれています。昨日発売された『イラクの小さな橋を渡って』(文・池澤夏樹/写真・本橋成一 光文社)は、昨年11月にイラクに滞在した2人の作品です。「自分と家族と隣人たちが安楽に暮らせるように地道に努力すること。それ以外に何があるか。まだ戦争は回避できるとぼくは思っている」という池澤夏樹さんのことばは、一人の人間のありようとしてズシリと訴えてきます。巨大な力が渦巻いていても、その力は人間が生み出しているもの、絶望に陥らないことがいかに大切なのかを、池澤さんは身をもって示してくれています。
出不精な私も、一昨年ぐらいから、少しずつ外の世界を歩き出すようになりました。そして、今度の4月から1年間の予定でイギリスでの生活を送ることになりました。国外研究というありがたい制度のおかげです。新しい1年間、外の空気を吸って、「頭が固く」視野の狭い私の中に、少しでも幅の広いものの見方を育てることができれば、と思っています。イギリスに行くからには、アメリカ、そしてイギリスのイラク攻撃は、決して他人の問題ではありません。イギリスでも今、世論は反戦に向かっています。もしここでアメリカのイラク攻撃を世界の世論がくい止めることに成功すれば、世界の潮流は確実に変わるはずです。1つの成功体験は、大きな自信につながります。1990年代以降(あるいは1970年の学生運動の挫折からかもしれません)私たちは何だか無力でした。大きな流れは止めることができないという無力感の中で、狭い可能性の中から自分たちの生き方を探してきました。しかし、自分たちのありよう、意識、行動が、大きな社会の動きに影響を与えることができると体感することは、明らかに生き方を変えていきます。そういう意味でも、イラク攻撃に対してはあらがっていきたいですし、万が一攻撃が始まっても絶望に陥らずにあらがいつづけていきたいと思います。
2003/1/23(Thu) <シャーベット>
大学は試験シーズンに入りました。試験さえなければ、大学は学生にとって天国のようなところでしょうが、そうそう生きているうちから天のみくにに入ることはかないません。キャンパスでは、青息吐息の学生たちが、寒さの中、白い息を吐きながら歩きまわっております。
さて、学生たちの試験シーズンは、私たちにとっては一年間の仕事をしめくくる時期です。一年間の教育実践をまとめたり、授業の資料の整理したり、学生のレポートを読んだり、評価をしたり、振り返りの仕事が待っています。片づけたり、ケリをつけるのが苦手な私にとって、厳しい仕事ですが、避けることはできません。私もまた、青息吐息で整理に向かっています。
さてさて、今日、東京では朝から雪が降り始め、清瀬ではあっという間に森が北海道に様変わりしました。「おお、いい感じ」と思っていましたら、昼から雪が雨に変わり、街中がシャーベット状態になっています。東京経済大学は坂道が多いので、スリル満点です。足元に気をつけて、歩いていきたいと思います。
2003/1/21(Tue) <頑固者、その後>
今年もなんとかかんとか授業を完走することができました。猛者たちは勝負を競うのでしょうけれども、私のような非力なものにとっては完走だけが唯一の目標であります。1年間の授業が終わると、ホッとした気持ちが生まれます。大相撲の屋台骨を背負っていた貴乃花関ほどではなくても、誰もが自分なりの重荷を背負って生きているにちがいありません。
さて、同居人に「オレって頑固者かなあ、どう思う?」と尋ねてみたところ、「う〜ん、頑固者って感じはしないよね。私はあなたの頑固な部分は見ていないのかも」という返事。「でも、○×先生からも言われたしね」と言うと、「でも、頭が固いっていうのと、頑固っていうのはまた違うでしょう」と言われ、またもや納得。「そうだよねえ。どちらかというと頑固者っていうより、変節漢って感じだよね」と私がもちかけると、同居人は「ぎゃはははは!」と大笑い。
ヘンなところで受けてしまいましたが、私としては、「あの人は柔らかいのだけれども、芯はしっかりしているよね」と言われるような(というよりこのことば通りの)人でありたいのですが、どうも「頭が固い(のに)変節漢」というあべこべな人間であるようです。どこでどう間違ってしまったのでしょう? 今年のNHK青年の主張(こんな名前でしたっけ?)でグランプリを受賞した25歳の元暴走族の若者が、「現実をみるのが一番大事」というありがたいメッセージを送ってくれましたが、「ぎゃははは」な現実から次の1年をスタートしたいと思っています。
2003/1/20(Mon) <頑固者>
「世の中はいつも変わっているから頑固者だけが悲しい思いをする〜」というのは、中島みゆき・往年の名曲、「世情」の一節であります。激動の世の流れに適応できない「頑固者」に対してさえ、中島みゆきは温かいメッセージを送ってくれています。さて、先日、小学校時代の同級生(イギリス在住)からありがたいメールをもらったのですが、小学校時代の私は、「頑なに自説を曲げな」い人間だったそうです。自分の自分自身の過去に対するイメージとはかなり違うのですが、ひとはよく見ているものですから、そういう人間だったのでしょう。
ところで、2年ほど前のゼミ選考のとき、選考される側の学生の一人が「先生は一言でいったらどんな性格ですか?」と鋭い質問を放ったところ、当時のゼミ幹事が熟考して、慎重にことばを選んだ末、「頑固ですね」という一言。やはり、ひとはよく見ているものだと思いますが、幼い頃からずっと私の底流には「頑なさ」が流れているのでしょう。ちなみにこの質問を放った学生は、卓抜したライフヒストリーの作品を仕上げて、のちにゼミの幹事に選ばれました。彼には本質を引き出す力が備わっていたのでしょう。
かつて、大学院修士課程時代に、指導教官から「君は頭が固くて、教養がない」と言われたことがあり、まさにその通りですと一言もありませんでした。(不思議なものでほんとうにその通りだなあとただ納得してしまったのです。おそらく他の人から言われたらムッとしたと思いますが。)この2つはいまだに私のテーマであり続けています。この中で、「教養」は一夜にしてなるものではありませんが、せめて「頑な」ではなく、他者の声に耳を傾けることができる人間であろうとこころがけることは自分の努力でできるような気がします。
小学校、大学院、そして今と、3人のありがたい人たちから揃って「頑固者」の称号をいただきました。頑固な自分はおそらく生涯変わらないでしょうが、せめて「頑な」な心をくだいて、従い、仕える自分でありたいと思っています。さて、今日で今年度のすべての授業が終了します。あとひといきです。
2003/1/17(Fri) <失われる人間力>
忸怩たる思いの翌日は、光が射してきました。昼の授業でも、学生たちが奮闘し、さすがの発表をしてくれ、夜のゼミナールでは、ゼミ卒業生も訪ねてきて、6年間の第二部高井良ゼミナールの幕を閉じました。二部(夜間部)はすでに募集停止がはじまり、来年度は4年生のみになります。とりわけ二部の学生たちに育てられた私にとっては、寂しいかぎりですが、今年で二部の高井良ゼミナールは終了することになりました。しかし、はじめての高校非常勤講師、はじめての教員採用試験合格者がともに二部から出るなど、二部のゼミナールはとても元気でした。ハチャメチャな教師のために、学級崩壊寸前の時代もありましたが、二部のゼミナールの学生たちはいつまでも心に残る学生たちでした。
さて、私の家では、昨年から給湯器の調子が悪く、何度も何度も修理に来てもらっています。そして、専門家がみても原因がわからず、またも持ち越しになりました。かなり困っているのですが、それ以上に私にとって残念なことは、給湯器を自分で直せないことです。かつて石炭でお風呂を焚いていた時代、あるいは時々出かける北海道にある子どもの森の五右衛門風呂では、自分の力で不具合を直すことができた(できる)のです。しかし、今ではブラックボックスだらけ、自分の生活の不具合を自分で直すことすらできません。人間としてあまりにも脆いと感じました。今日も新聞折り込みのチラシには最新式のマンションのPRが入っています。とことん便利、快適さを追求した暮らしの場、もちろん、ある部分には、あこがれを感じますが、同時に、私たちはどこへ向かおうとしているのだろうか、どんどん無力になっているのではないだろうか、と疑念がよぎります。自分のまわりのことを自分で解決していくことによって得られる喜びと自信、これは人が生きていく上でとても大事なことであるように感じています。
2003/1/16(Thu) <日はまた昇る>
昨日、6年目の講義が終わりました。まだゼミナールや少人数の講義は残っていますが、メインの講義は昨日が最終回でした。6年目ぐらい最終回はしっかりとしめようと思ったのですが、まだまだ自分の力不足を突きつけられるようなしめくくりになりました。最後まで時間内にまとめることができず、忸怩たる思いです。6年という歳月に対して、自分の遅々たる歩みがもどかしいかぎりですが、それでも一つ区切りです。爽快な区切りではなく、忸怩たる区切りであったことが、何とも悔しいかぎりですが、これも一つの課題として受け止めていくしかないのでしょう。
冬の寒さのさなかですが、大学のキャンパス内の木々は、もう春の芽が一斉に膨らみ、次のシーズンに向けてスタンバイしています。そうそう、昨日のキャンパスからみる夕焼けは何ともまあ見事でした。苦しいとき、どうして自然の回復力や美しさはかくも心に染み込んでくるのでしょう。また、新しい夜明けがやってきました。
2003/1/15(Wed) <夜会>
私が尊敬してやまない中島みゆきが偉大な記録を達成しました。1つは、「地上の星」がオリコン・ヒットチャートで第1位となったことです。なんと発売から130週での頂点到達ということで、驚きます。2年半以上の歳月をかけて、辿り着いたというストーリーは、中島みゆきの息の長い歩みを彷彿とさせます。これ以前の記録は、1976年の都はるみの「北の国から」の44週といいますから、まさに驚くべき記録です。
もう1つは、1970年代、1980年代、1990年代、2000年代と4つの時代にわたって、ヒットチャート第1位の曲を生み出したことです。1977年の「わかれうた」の第1位は、ファン歴22年の私でさえ、リアルタイムでは知りませんでした。1981年の「悪女」は、中学時代に大好きだった曲で、すさんだ中学時代、中島みゆきの澄んだ歌声に支えられました。1994年の「空と君とのあいだに」と1995年の「旅人のうた」の頃は、私はほとんど歌謡曲を聞かなった時期で、この2曲は就職してから何度も何度も聴きました。
このように私がまだガキだった頃も(今もガキだという声もささやかれますが、それはさておいて)、すさんでいた頃も、有頂天になっていた頃も、悶々としていた頃も、雨の日も、風の日も、中島みゆきは曲を作りつづけ、メッセージを送りつづけていたのですから、言いようもなく偉大です。地味なファンとしては、あまりにも脚光を浴びることを寂しくもありますが、彼女はまた淡々と歌いつづけるでしょうから、これからもずっと地味なファンをつづけていきたいと思っています。
いつの日か、中島みゆきの「夜会」を訪ねたいのですが、その日を夢見ながら、今は一人、研究室にて「夜会」をつづけています。火曜日のさんぽを綴るはずが日付が変わってしまいましたので、水曜日のさんぽになりました。
2003/1/13(Mon) <Nowhere Man>
ビートルズのナンバーに「Nowhere Man」という歌があります。「ひとりぼっちのあいつ」という日本語訳のタイトルがついた歌です。私がこの歌がとても好きでした。
今日は成人の日です。十数年前の成人の日、当時、世田谷区にひとりで住んでいた私は、世田谷区民会館で行われた巨大な成人式に出席しました。たしか当時、世田谷区は日本の中でも20歳人口が多い自治体の一つでありまして、世田谷区民会館は多くの晴れ姿の男女でにぎわっておりました。
さて、先日、一人の女子学生が研究室を訪ねてきまして、話をしていますと、家が世田谷区だと言います。世田谷区のどの辺りかと尋ねると、世田谷区民会館の近くだというので、彼女に、私が十数年前そこで成人式に出席した話をしました。すると、彼女は「先生も世田谷区の出身なんですか!」と言いますので、「いや、違うよ、地方から出てきてそこに住んでいただけだけだよ。ひとりで成人式に行ったんだよ」と答えました。彼女は「先生って、変わっていますね」と一言。やっぱり自分は変わっているのかなと今更ながら思いました。
話は戻って、私の二十歳のころ、世はバブルの真っ盛り、皆さんビシッとした服できめていました。DCブランドといった(未だにDCって何のことやら知らないのですが)ことばが飛び交う時代でありました。こんな中で、なぜか私は何とスーツ一つもっていなかったのです。スーツをあわてて買ったのは、大学4年の教育実習のとき。母校のガイダンスでスーツとネクタイ着用のことと言われて、こりゃいかんと買いました。ちなみにそのときのスーツは今ではあまりにボディー・コンシャスすぎてもはや着ることはできません。あのころは、私もスリムだったのです。それはさておき、スーツ一つもっていなかった私は、ジーパンにジャケットで成人式に出席したのです。
この話、何度か書いているような気もするのですが(もう健忘症がはじまっているようです)、当時「オレはオレ流の生き方をする」、「他人がどうであろうが知ったことじゃない」と息巻いていた私でしたが、実際に、晴れ着で埋め尽くされ、幼なじみ同士が楽しそうにはしゃぎ、語らう式に出席して、大変情けない(みじめな)気分になりました。オレは一体何でここにいるのだろうという気持ちが襲ってきて、自分の弱さをつくづく思い知らされました。頭で思っていた以上に、心は弱かったのです。このときの気持ちと、ビートルズの「Nowhere Man」の歌詞が、私の中では重なってきこえてきます。
田舎に帰って幼なじみと成人式に集うことも是とせず、かといって成人式なんて知ったことかと居直ることもできず、ふらふらと成人式を訪れ、「Nowhere Man」である自分自身を突きつけられる。あまりにも私らしいエピソードだったように思います。それでも、こんな私でも、こうして生きています。成人式おめでとう!
2003/1/10(Fri) <ベトナムの学校>
昨年末ベトナム・ホーチミンシティを訪れたとき、ベトナムの学校を経験しました。大学のキャンパスで行われている英語の授業に参加したのです。そのクラスは朝の7時半から始まります。私が教室に到着したのは7時40分頃、まだほとんど学生はいませんし、先生もいません。いつも先生が遅れてくるとのことで、学生もゆっくりと登校するのです。教室は昔懐かしい木の長い机が並び、かつての日本の小学校を彷彿とさせる雰囲気です。さて、学生たちがちらほらやってきました。誰もが笑みを満面に浮かべています。いろんな顔立ちの学生がいます。日本よりずっとベトナムの人々は多様な顔をしています。ところで、8時を過ぎても先生はまだ来ません。それでも、誰ひとり苛立っている様子もありません。にぎやかにおしゃべりをしています。8時半、ちょうど1時間遅れて、先生がやってきました。人なつっこそうなベトナム人の先生です。おもむろに授業がはじまりました。
先生は熱心に、またときには私には理解できないベトナム語でのユーモアあふれる授業を展開されました。リスニングのテストなどもありましたが、学生たちは助け合いながら解答をしています。ものすごくやわらかい雰囲気で、学ぶことのよろこびが教室にあふれていました。休憩時間、私はベトナム人の先生と話をしました。彼は、将来いつの日にか外国に行き、本場の英語を学びたいという夢と、生徒たちに英語の楽しさ、学ぶことのすばらしさを伝えたいのだという熱い思いを、流暢な英語で語ってくれました。彼の英語は、いまだ外国に行ったことがないとは思えないほど見事な英語でした。さらに、彼は続けます。日本の教育はすばらしい、と。日本では生徒たちは先生を尊敬(respect)している。ベトナムでもそうなんだ。だから、自分は生徒たちがとてもかわいいし、彼・彼女らのためにがんばって教えることは自分の喜びなのだと。
1時間遅れてきた先生は、結局、1時間半ほど授業を延長し、11時半頃まで熱心な授業は続きました。途中、心に残る英語の歌をみんなで歌うこともありました。おおらかさの中で、学びの楽しさ、仲間とともに学ぶことの喜びを体感したこの時間は、私にとって言いようもなく貴重な時間になりました。
2003/1/9(Thu) <自分史>
仕事を終えて、自宅に帰りますと、1冊の本が到着しておりました。ライフヒストリー研究仲間の「自分史」です。人の「自分史」を読むのは大好きなので、早速パラパラとめくってみましたところ、とにかく面白いのです。ひとさまの苦労を面白がっているのは何とも不謹慎なことですが、彼の苦しみと葛藤を通して、「うん、うん、生きるって、こんなことだよな」とか、「そう、そう、自分もあの頃、こんなことを考えていたよな」とたくさんの共感が生まれ、深いカタルシスを感じることができたのです。この「自分史」には、3年間の浪人生活の苦しみと挫折が描かれていますが、これを読むことを通して、『浪人生のソシオロジー』(大学教育出版、1999)という彼の仕事の根底に流れているものを知ることができました。常々思っていることですが、誠実な自分語りには、いつも他者の胸を打つものがあります。それだけ人生というものは、ダイナミックでドラマチックなものなのでしょう。それはどんな人のものであれ、そうなのだと思います。ただ向き合うことさえできれていれば、人生からはいくつもの物語を紡ぎ出すことができ、そこからは生きるエネルギーを汲み取ることができるのだと思います。私よりも15歳年長の彼の「自分史」からは、大学教師を志した原点をもう一度確認し、そこから温かみのある学問を立ち上げていこうというあふれんばかりのエネルギーを感じました。私もまた15年後、このようなフレッシュな気持ちで自分と他者と学問に向かえる人間でありたいと思いました。
2003/1/8(Wed) <眠気>
そもそも私は三年寝太郎のように寝ることが大好きな人間でありますが、冬になると特に眠くなります。子どもの頃、寒い冬の朝、親に叩き起こされながら、「ああ、このまま寝ていられたら、どんなに幸せなことだろうか。もう人生を棒にふってもいいから寝ていたい」と何度思ったことでしょう。こんなに冬になると眠いとは、あるいは、ほんとうは私は“かえる”なのもしれません。何にしても、目先の欲望に目がくらむ浅はかさは、昔からのもののようです。
さて、冬になると、高校駅伝、そして高校サッカー、高校ラグビーをみるのが一つの楽しみです。いつまでもまどろんでいたい私が、日々厳しい練習を生きている高校生とその指導者の姿をブラウン管から眺めているというのも失礼な話ですが、一つのチーム、そして一人ひとりの選手たちの姿に指導者のありかたが写し出されているのを観るのは実に興味深いものです。同じ高校の駅伝選手たちの顔が似ていることを発見したのは、私の同居人でしたが、その向こうにはチーム独自の呼吸法があることが推察されました。選手は毎年替わっても、西脇工は西脇の走りをしますし、大牟田は大牟田の走りをします。また、仙台育英は監督が替わって少し様子が変わりましたが、監督の前任校の市立船橋と以前の仙台育英を併せたようなチームになりました。
また、高校サッカーでも、帝京はいつも帝京らしい勝負強いチームを作ってきますし、国見はまさに国見らしいフィジカルに強いチームを作ってきます。また、高校を卒業してから伸びる選手を育てるチームもあれば、卒業後、選手が伸び悩むチームもあります。監督が何を観ていて、またどこまで観ているのか、それが選手たちが育つ枠を作っているのでしょう。そう考えますと、自分自身の仕事のこわさを感じますが、せめてあまり害を与えない、余計なことはしない大人でありたいと思っています。しかし、それが結構難しいことなのですが。
かつて、まどろむ先生のかたわらで、学生たちが育つゼミナールがあったことを思い出しました。私にはまだまだ20年ほど早い話のようです。
2003/1/6(Mon) <仕事はじめ>
日本海側は大雪とのことですが、東京・多摩は碧空が広がっています。今年は暦の関係で、大学のはじまりがいつもよりも早くなりました。一般の人々と同じ今日からのスタートです。さてさて、新しい年の仕事はじめはどのようになることでしょうか。今日からさっそく授業があります。
そうそう、昨日、長野県安曇村の白骨温泉(しらほねおんせん)近くで、雪崩のため、数十人の人々が埋まってしまったという事件がありました。実は、私も、その埋まった一人だったというのはウソで、数年前の厳寒の季節、この同じ道路を白骨温泉まで走ったこともありました。聞き取りの対象の方が白骨温泉に住んでおられたため、この道路を走ることになったのですが、生きた心地のしない道路でした。雪の白壁のなか、見通しも悪く、車は二輪駆動の普通車で、ちょうど春からの就職が決まっていた私は、「ああ、就職を目前にしてここでホネをうずめるのか(白骨温泉ですからちょうどピッタシです)」と覚悟を決めていたところでした。聞き取りに向かっての遭難ならば、殉職ということになるのでしょうか。
幸いにして、無事に白骨温泉に到着し、聞き取りのあと、一泊の宿をちょうだいして、帰還することができました。そして、白骨温泉は秘境の温泉にふさわしいすばらしさで、食事も格別でありました。しかし、あの道の恐ろしさは、未だに脳裏に焼き付いています。そこにあのニュースでした。とにもかくにも、全員救出ということで何よりでした。救出してくれる人を信じて、今年も雪崩をおそれず、たくさんの経験を積んでいきたいと思います。これってちょっと迷惑な生き方でしょうか? ごめんなさい。
2003/1/1(Wed) <謹賀新年>
新年あけましておめでとうございます。皆さんにとって2002年はどのような年だったでしょうか? 私にとって2002年はめくるめく冒険の年でした。世界を冒険し、自分の夢の世界を冒険し、自分のこころに一つの区切りをつけました。ゲームの世界でも、冒険モノは魅惑的ですが、人生においても冒険は欠くことのできないもののようです。スポーツの世界でも、今年は松井秀喜選手がメジャーの世界へと冒険に旅立ちます。新しい世界との出会いは、いつでもほんとうにワクワクするものです。
さて、2003年、どのような年になることでしょうか。戦争の年になることは何としても避けたいものです。いつも繰り返し書いていることですが、世界は善と悪で区分できるように単純なものではありません。アラブの世界は、イスラム教一色であるように思われていますが、アラブの象徴でもあるイラクにも100万人を超えるキリスト教徒がいると言われています。また、イスラム教徒は好戦的であるようなイメージがつくられていますが、私の知るイスラム教徒は柔和で、ほかの宗教からも学ぶ謙虚さをもっています。同じようにブッシュに象徴されるアメリカ人も好戦的であるように思われますが、アメリカ人にもさまざまな人たちがいます。昨年末には、イエメンで3人の医師がテロで殺戮されました。異郷の地で志半ばにて命を絶たれた3人(男性1名・女性2名)はアメリカ人です。アメリカ人であるということで彼・彼女らはテロの標的になったのでしょう。しかし、どう考えても、彼・彼女らは、アラブの敵だとは思えません。モノとカネに満ちたアメリカを離れ、異郷の地で、貧しく医療が必要な人々のために献身的に働いていた人々にちがいないのです。しかし、善と悪に色塗りする世界では、彼・彼女らのような気高き人々が、思慮の浅い煽動者たちの犠牲になってしまうのです。
二度の世界大戦に突き進んでいった20世紀。ここでは「正義」の御旗の奪い合いがありました。これに対して21世紀は「正義」よりも「配慮」を第一とする時代になるように尽力していきたいと思っています。「配慮」のない「正義」など意味がありませんし、ただの害悪です。小さきもの、弱きものへの「配慮」に満ちた社会を築くこと、これが翻っては自分自身に返ってくることだと思います。
新年は東京では雪が降るという天気予報が出ています。雪のしんみりした新年もまた格別ですね。皆さまの2003年がすばらしい年でありますことをお祈り申し上げます。