Daily
たまのさんぽみち



  2002/12/29(Sun) <年の瀬>

 今年もまた1年が終わろうとしている。数字がすべて変わる1999年、新しい世紀に変わる2000年、ワールドカップの年に変わる2001年とここ数年の年の瀬は、賑やかだった。しかし、2002年の年の瀬は淡々と暮れようとしている。これからはほんとうに終わりなき日常のはじまりなのだろう。世紀末、新世紀のお祭りのあとで、日常をどのくらい生き生きと生きることができるか、今、1日1日の黄昏を惜しみながら、ぼんやりと考えている。
 そして、今日は、今年の4月に巣立っていった卒業生たちと新宿で飲んで、たくさん話をしました。みんなそれぞれの世界でもまれて、ひとまわりもふたまわりも大きくなっているようで、たのもしく感じました。私にとっても、彼らと話をすることで自分の今を確かめることができ、1年のしめくくりとしてよい一日になりました。
 おそらく今日でホームページも今年の仕事納め。1年間、ありがとうございました。寒さがこたえる年末です。どうかお身体にお気をつけてお過ごし下さい。しっとりした年末、年始を!






  2002/12/25(Wed) <旅のこと>

 旅に出るたびに、「なぜ私は旅に出ているのだろうか?」と思う。旅に出るたびに、いつも「旅なんてしなけりゃよかった」と思う。ひとりぼっちの孤独。産まれたばかりの赤ん坊のように深い寂しさに包まれる。それでも、その深い闇を突き抜けると、一筋の光が射し込んでくる。今回は、飛行機からみた南の空に輝く星々。温かいものが自分のなかに生まれてくる。そして、新しい自分と出会い、それからようやく、私の旅がはじまる。







  2002/12/23(Mon) <帰還>

 しぶとく無事生還いたしました。再びベトナムへの旅でした。ベトナムの食は抜群においしく、生きることを堪能してきました。ベトナムに生きる人々のエネルギーはほんとうに魅力的です。バイクが激しく往来する街で、一瞬一瞬を思いっきり生きたあと、帰りの飛行機の中では虚脱感とさびしさでいっぱいでした。何か今の日本では、生きることがややこしくねじ曲がっているような気がします。生きることはいつの時代も確かに苦しいことだけど、それは本来的には決してややこしいことではないと思うのです。工業廃水と生活排水でコーヒー色に汚れたサイゴン川に裸で飛び込み、泳ぐ子どもたちの姿に、人間としてのたくましさを感じました。そして、これから日本で考えていくための材料をたくさんいただきました。
 世界は今、大きな渦の中にあります。グローバリゼーションの進行は、ベトナムにいても痛切に感じられます。私はグローバリゼーションとは、生きることの経験の希薄な北(先進国)の人々が、濃密な生を生きている南(途上国)の人々の生活に一方通行的に大きな影響を与えている状態を指すものと考えます。ここに対話をつくることができなくては、私たちの未来はもはやないのかもしれません。北と南の関係は、まさに学校、教室の教師と生徒との関係、社会における大人と子どもとの関係とパラレルなものでしょう。北は南を指導するのではなく、対話の場として自らを開いていかなくてはならないのです。
 ここ数年、日本ではナショナリズムが盛んに煽られていて、世相の不安がナショナリズムに力を与えていますが、ナショナリズムは問題の解決につながりません。もはや世界はあまりにも分かちがたく相互に依存し合っているからです。同時に、北と南、またさまざまな地域、国々の差異を考慮しないインターナショナルの思想もまた現実離れであり、問題の解決にはつながりません。北が北という立場から見えてきたもの(近代という壮大な実験の行き詰まり)から目をそらすことなく、南との対話の場を創り出すこと、この道にしか希望はないように思います。
 人生の課題を与えてくれる“旅”と“出会い”にいつも感謝します。この夜、エジプト・ルクソール(かつての古代エジプトの都・テーベ)のテロ事件で愛する人たちを失った家族たちのドキュメンタリーを観ました。“旅”をこよなく愛する私は、“旅”(それも新婚旅行でした)の途上で命を失った人々と突然の喪失に苦しみの人生を送る人々の姿にただ涙するしかありませんでした。苦しさの中にありながら、外国の遺族たちと手をたずさえながら、二度と惨事を繰り返さないために、人々の記憶を刻む慰霊碑の建立に向けて尽力する遺族の人々の姿は、心を打つものがありました。テロとのたたかいは厳しいたたかいです。決して敵を特定して爆撃すれば事足りるというような安易なものではありません。自らの経験の希薄さに気づかず、知らず知らずのうちに人々の生を圧迫している自らを見つめる、内なる自分とのたたかいでもあります。直接には何の罪もないのに悲しみのどん底に突き落とされた遺族の人々が、そこまでたたかっているのです。せめて遺族の人々の祈りに心を合わせたいと思います。人々にかけがえのない経験と心の交流を与える“旅”が安心して守られる、そういう世界を育んでいく、その一点をめがけて学んでいきたいと思っています。






  2002/12/17(Tue) <出航>

 昨日で年内の講義、ゼミナールが終了。夜はゼミの打ち上げで盛り上がりました。それでも例年よりはボルテージが低かったかもしれません。ある学生から「先生は、私のお父さんに似ている」と言われ、少々ショックでしたが、もう若くはないってことでしょう。さて、シーズンが一段落ついたところで、今年もまたちょっと出かけてまいります。よく出かけるやっちゃなと思われそうですが、どうも私は旅をしないと生きていけない人間のようなのです。おそらく日頃は一番あとまわしにしている自分自身へのケアと対話のために出かけているのだと思います。今回もまた生還をめざしてがんばります。それではまた来週お会いいたしましょう。






  2002/12/13(Sat) <朝焼け>

 夕焼けをみることはときどきあるけれども、朝焼けをみることはそう多くはない。しかし、今日はめずらしく早起きをして、家の前の雑木林の向こうに広がる朝焼けをみた。冬の朝、心打たれる朝焼けだった。枕草子の「春は曙」に「冬はつとめて」というくだりがあるが、まさに冬の朝はすばらしい。冬の朝のすばらしさに出会うと、早寝早起きの生活にあこがれるのだが、毎日の中には今日のような見事な朝焼けの日もあれば、どんよりした曇りの日もあるし、雨の朝もある。どんな朝でも、新しい一日のはじまりとして喜ぶことができる自分でありたい、と思いつつ、やっぱりどんよりした日にはうっとうしくなる自分自身を受け入れようかなとも思う。どうかよい週末を!






  2002/12/12(Thu) <半月>

 東の空には半月がひっそりと輝いている。ふと昼間でも大空の向こうには無数の星が照り輝いているのだなあと思う。目に見えるものしか気づかないけれども、目に見えないものが大切な何かを支えている。
 さて、中島みゆきの「誕生」はやはり力がありました。学生たちとともにしみじみと聴き入りました。中島みゆきの歌を聴きながら、「弱さ」の「強さ」のようなものを感じました。そして、「弱さ」の「強さ」こそが人間のほんとうの力ではないかと思うのです。「強さ」の「強さ」を追い求めると、人間はダメになるように思うのです。アメリカという国が魅力的な国であり得たのは、その歴史的な「弱さ」のゆえに、民主主義を確立し、多様な人々の共存を求めてきたからではないかと思います。伝統という「強さ」をもたなかったからこそ、アメリカは「自由」「平等」という価値を求め、世界中に共存の一つのデザインを発信してきたのだと、私は考えます。イラク攻撃を行うかいなかは、アメリカが、そして世界が、「強さ」の「強さ」を求めるのか、「弱さ」の「強さ」を選択するのか、その分かれ道だと、私は思います。
 野坂昭如が描いた「蛍の墓」の世界。あの戦争に踏みにじられる中での人間という存在の圧倒的な「弱さ」を見つめることが、私たちを救うのではないかとふと思っています。アメリカに住む人々が夜の星であるならば、イラクに住む人々は昼の星なのかもしれません。私たちにとって目には見えないけれども、そこには同じように重い、日々の生活、家族への愛があるにちがいないのです。






  2002/12/11(Wed) <誕生>

 「空の鳥」と来れば次は「野の花」と行きたいところだが、「野の花」に関連する話が思い浮かばないので、別の話題で。年末のNHK紅白歌合戦に中島みゆきが出場するというのが話題になっている。中島みゆきといえば、テレビ出演をかたくなに拒み続けている歌姫として有名だが、いよいよ登場するらしい。私はここ数年、紅白歌合戦に飽きていたところだったが、中島みゆきが出るとなると、心も揺れ動く。中学以来の中島みゆきのファンで、彼女の歌にはしんどいときに何度も何度も救われてきたからである。
 さて、これから行う「生徒指導論」の授業で、中島みゆきの「誕生」を聴こうと思っている。ここ数年やっている取り組みであり、命の重さ、出生の喜び、「性」と「生」の深さ、人間の根源的な受動性などを学ぶために、この歌は格好の教材なのだ。大学の授業として、私が一番心に残っているのは、東京経済大学「現代社会と人間」で歴史学の牧原憲夫先生が行われた「出生前診断と人間の生の受容」(このタイトルは私が勝手につけたもの)の授業である。この授業で、私は「誕生」を聴き、涙がボロボロと流れた。知と情がみごとに統合され、学生たちを大きく揺さぶったあのときの授業は、私の授業の偉大なるモデルとなっている。
 中島みゆきは暗いという人がいる。そう言う人は、どん底から見上げた星空の美しさを知らないのだと思う。私は高台よりも窪地が好きであり、窪地から見た世界にしばしば感動する。そして、生きている喜びを感じる。中島みゆきもまたいつも人生の窪地に立って、人間への応援歌を発し続けてきた。この中島みゆきが、TVという高台にのぼることで何が変わるのか。ちょっと不安でもある。でも、きっと一時の祭りのあと、彼女はまた窪地に戻り、応援歌を歌い続けることだろう。






  2002/12/10(Tue) <空の鳥>

 昨日は寒くて一日凍えていたのだが、今朝は青空が空いっぱいに広がり、こころなしか心も伸びやかになったような気がする。そういえば、今日は鳥の姿をいつもよりしばしば見かけるし、鳥のさえずりがそこら中に響き渡っている。あまりにも早く訪れた雪の日のあと、一生懸命、餌を探しに出てきているのだろうか。ところで、雪の間、鳥はどこに身を潜めていたのだろうか。






  2002/12/9(Mon) <雪や、こんこ>

 朝起きて、家の前の雑木林を見ると、ここは北海道かと見まごうばかりの銀世界がひろがっていた。ちょうどスタッドレスのタイヤをノーマルのタイヤに買い替えたところだったので、車は断念して、バスと電車での通勤になった。東京では珍しく、朝になり、日中になっても雪が降り続いているものだから、電車のダイヤは乱れ、大学まで来るのが一苦労だった。
 雪と寒さに身体を震わせながらも、ダイヤの乱れにホッと落ち着く自分がいることに気づいた。急いでいるのだけれども、不思議とあせりは感じられない。そんなに世の中、思う通りにはならないんだよ。雪なのだから仕方がない。そういう声が耳元でささやいてくる。
 なぜか、南の国の人々が、どんなに厳しい生活の中でも、必ず昼寝をし、どんなに貧しい生活の中でも、結婚式を盛大に祝っていたことを思い出した。私たちは、彼・彼女らを怠け者と言う。そして、怠けているからいつまで経っても貧しいのだと言う。しかし、彼らは暑い地域で生きる自分たちの身体のことを熟知している。そして、生きる目的は何かということを的確に掴んでいるのである。
 雪には勝てない。克服するのも立派である。しかし、もう十分克服し続けてきたではないか。ときには、受け入れてみるのもいいのではないか。雪にも、台風にも勝てない生き物である自分たちのことに気づいて、弱っちいことを前提として世界をデザインするならば、もっと生きることを楽しめると思うのだ。
 私がくだらないことを書いている間も、校務職員の方は図書館前の雪をスコップで掻き出し続けられています(研究室の窓より)。ただただ頭が下がります。こうした人の労苦の上に私たちの歩みがあるのですね。雪が降るたびに、はしゃいでのんきな文章を書いている自分とは大違いです。また、除雪やダイヤ調整に汗を流されている交通関係の人たちにも頭が下がります。ごくろうさまです。






  2002/12/6(Fri) <孤独>

 昨日の毎日新聞夕刊に、今別れたばかりのカップルが携帯電話で「元気?」と話していることについてのコラムが掲載されていた。このコラムを書いた記者は、常日頃から記事からうかがえる他者への想像力の豊かさに敬服している記者である。コラムを読んで驚いたのは、彼が携帯電話をもっていないということであった。私のような職種ならともかく、新聞記者であって携帯電話をもたないというのは、スゴイとしか言いようがないと思う。彼はいつもは公衆電話で連絡をし、公衆電話がないときには携帯電話をもっている人に借りるそうである。
 彼はコラムに次のように記していた。人は孤独によって鍛えられ、自己を形成する。恋愛はそのための大事な機会である。なのに、のんべんだらりとつながっていては、どうして人になり得ようか。我慢こそが人を育てるのだ。と
 短いコラムだったが、深い感銘を受けた。そして、彼の記事のすばらしさが、厳しい自己との対話の中で生まれているのだということを知った。さらに、我が身を振り返り、私に「我慢」することを教えてくれた学生たちのことを思った。
 一方で、他者に愛された安心感が前提として存在しなければ「孤独」になることも難しいのだということも思った。あるいはコラムに書かれたカップルは、今、将来の「孤独」に備えて、幼子(おさなご)のようにつるみあっているのかもしれない。他者への想像力が膨らむことは、自分を平安にすることだとも思った。






  2002/12/4(Wed) <イヴァン・イリッチ>

 トルストイの作品に『イヴァン・イリッチの死』という小説があった。大学時代、教育学の授業で読んだ本だった。そして、しばらくして同名のイヴァン・イリッチという著名な教育思想家がいることを知った。カソリックの司祭でもあったイヴァン・イリッチは、『脱学校の社会』『脱病院化社会』などの著作を通して、現代文明に対して鋭い批判を突きつけていた。「学校があるから人々は本来的な学びから遠ざかる」というイリッチの批判は、教育学にも多大な影響を与えた。そして、私の思想形成においてもイリッチの影響は大きかった。『脱学校の社会』のあと、イリッチの思想は、学校を否定する考え方から学校を人々の学びのつなぎ目として組み替える考え方に転回していき、私も全く同じ軌跡を歩んだ。
 イリッチの著作の中では、教育についての著作以上に、私たちの暮らしを見つめ直した『生きる思想』(藤原書店)に私は最も惹きつけられた。イリッチは、人々が住まう家が規格品(ガレージ)となることが、本当に進歩と言えるのかと問うた。また、人々が集い、遊び、生活の場とした路地が、ただ効率的な移動のための道路となることが、はたして人間の豊かさを生み出すのかと、読者に問いを突きつけた。『生きる思想』はとてもわかりやすい本で、今の暮らしを見つめ直すいくつもの手がかりを与えてくれた。
 そのイヴァン・イリッチが12月3日76歳で亡くなった。1980年代には沖縄や水俣を訪問したこともあり、日本とも深いかかわりがあった。深い人類愛と明晰な論理を兼ね備えたたぐいまれな思想家だった。






  2002/12/3(Tue) <感動と教養>

 しばらく前の教授会で、敬愛する同僚の徐京植さんが教養教育について話された。私なりに理解したことを記すと次のような話であった。
 「教養教育改革が叫ばれているが、教養は何かと考えるとこれは私たちにとっても難しい問題である。ただ、学生たちに教養をつけるようにといくら言っても、教養をつけられるものではない。教養を求めるには、まず感動が必要である。教養の厚みと深みからにじみでる人間理解、世界理解の豊かさに打ち震えるような感動を経験してはじめて、人は教養を必要と思い、教養を求めるのである。まず私たち教員が感動しているか、そして教養を切に求めているか、そこから振り返って見つめてみたい。」
 もちろん、私は徐さんの話を聴いて感動し、このようなことばを自分の中から自然に発することのできる教養を求めたいと切に思ったのであった。
 そして、昨日のゼミナールを迎えた。そこで、発表された作品も個性豊かで見事ならば、それに対する学生たちのコメントもインタビューの語り手と作品の作り手の思いを汲みとった卓抜なものであり、私はただただ感動し、黙るしかないという経験をした。もちろん、このような場は1年にそう何回もあるわけではない。しかし、この経験は、ここにはたしかに教養につながる感動が生まれる土壌があると確信させるに十分なものだった。
 私は自分の仕事の意味をまだまだわかっていない。しかし、自分の目の前で起こる出来事を見ていると、そこには私というちっぽけな人間の意図や思いをはるかに超えた大海原が広がっているように思える。大海原をどこまで行けるか、それはわからない。しかし、この感動は、小さな舟で大海原に漕ぎ出す勇気を与えてくれたのだった。






  2002/12/2(Mon) <JUST SYSTEM>

 寒かった11月が去り、早くも12月が訪れた。2002年という年もあと1ヶ月を残すのみとなった。研究室の窓から見える紅葉もほぼ散ってしまい、図書館前の噴水がくっきりと見渡せるようになった。噴水のまわりのベンチに集う学生たちも何か落ち着いた感じがする。しっとりとした冬のはじまりである。
 さて、とある事情から新しいパソコンを買って、トラブルに遭遇した私であったが、一ついいことに出会って、感激した。というのは、昔から愛用していたジャストシステムのワープロソフト一太郎のver.9が新しいOSであるWindows XP上でも使えるということがわかったからである。
 ご存知のように、パソコン業界、ソフトウエアー業界では、OSが代替わりする度に、前のヴァージョンの製品は使えなくなるということがしばしばある。このことによって、消費者は否応なく新しい消費を余儀なくされ、業界は潤うことになっている。つまり、いつまでも使い続けられる製品を提供し、新しいOSにも対応できるサポートをすることは、会社の利益という観点からみると、マイナスのことになる。
 ジャストシステムの一太郎は、マイクロソフトのワードにほぼ市場を席巻され、厳しい状況に置かれている。これはワードが使いやすいということよりも、誰もがワードをもっているからワードじゃないと不便だというところからきている。
 さて、一太郎はこの次のヴァージョン(来年2月発売予定)でver.13になる。つまり、私が使用しているver.9というのは4世代、いやまだ13は出ていないから3.5世代前の製品ということになる。だから、新しい製品を売るためには、ver.9を過去のものとするために、Windows XPには対応していません、とすればいいのである。
 ところが、ジャストシステムのホームページには、ver.9をWindows XPで問題なく使えるようにするためのモジュール(修正のソフトのようなもの)が無料で提供されている。だから、ユーザーは長い期間にわたって、愛用したヴァージョンを使い続けることができる。
 こうした企業の取り組みに出会うと、私のようなハートで感じるユーザーは、次もジャストシステムの製品を購入しようと考える。巨人マイクロソフトとの競争は厳しいかもしれない。しかし、地道な取り組みを見ている人々はいる。大きいこと、力の強いことにものをいわせて、やりたい放題やっていると、それもちゃんと人々は見ている。巨大に見えても、信を失えば、瓦解するのはあっという間かもしれない。歴史は、冷徹に、そして必然的に行き着く場所に私たちをいざなっていく。






  2002/11/29(Fri) <抱腹絶倒>

 XPパソコンはOSを再インストールして、同じソフトを以前とは違う順番で入れてみたところ、問題なく動いている。順番を変えただけでうまくいくなんて、ハイテクのはずなのに何ともローテクな解決法である。授業を行う上でも、資料を配布する順番が決定的だったりするが、いずこの世界も順番とは大切なものかもしれない。しかし、いつもこんな風に適当にごまかして、深く掘り下げようとしないところが私のいい加減さである。
 さて、今日の本題に入って、ゼミについて。来週のゼミ生の発表「恩師へのインタビュー」を読んでいて、笑いがとまらない。インタビュアーの学生と先生がボケとつっこみという感じで会話がめちゃくちゃおもしろいのである。笑いは心を癒してくれるもので、何とも楽しいインタビューをありがとう!という気分である。人に笑いを与えてくれるのはとても大きな才能であり、賜物である。いつもはどんな指導をしなければいけないかと身構えながら、身を固くして、学生の発表原稿を読んでいる私の身体は、このゼミ生のインタビューで一気にほぐされてしまった。やはり楽しむことが何事につけても原点ですね。ほんとうにかなわない。






  2002/11/28(Thu) <XP>

 昨日のゲスト講演はとてもいいものになりました。学生たちに、そして私に、自分らしく生きることの大切さを教えていただき、感謝の気持ちでいっぱいです。
 さて、人が生きるということを励ますメッセージをもらってルンルンと帰って、わけあって新調した仕事用パソコンにソフトをインストールしていたところ、突然、「予期しない問題が起こりました。ふにゃらら」というメッセージが出現した。私は、何一つ「予期しない」ような操作はしておらず、だた動作が確認されているソフトを入れただけであった。なのに、ひどいことにどのソフトを立ち上げても「予期しない問題が起こりました。ふにゃらら」というメッセージが出て、パソコンが凍りついてしまう。何度リセットをかけても同じである。全く「予期しない」事態である。
 新しいパソコンには、Microsoft Windows XP ProfessionalというOSが搭載されている。マイクロソフト社が、安定性のあるOSとしてしきりに宣伝しているものである。しかし、私にとっては、これまでのWindows95や98ですら経験したことのない、ひどい事態だった。マイクロソフトに苦情をいうのも面倒くさいので、再フォーマット、OSの再インストールをしてはじめからやり直すことにした。マイクロソフトもあれだけ世の富を一人占めしているのだから、もうちっとましなものを出してほしいものだ。もしかしたら広告費にしかお金を使っていないのではないかと疑念がよぎる。どのパソコン雑誌を読んでもXPは称賛されていますものね。
 昨晩から今朝にかけて、たっぷりとマイクロソフトに時間を奪われた。そして、今、6年前の古いパソコン(Windows95搭載/Pentium 133MHz)で文章を書いている。これで何一つ不自由はない。新しいものがすぐれているとは限らない。しかし、世の流れには逆らえない。新しいソフトやハードが新しいOSにしか対応しなくなると古いOSは陳腐なものとなってしまう。こうしてどんどん古いものはあとに置いていかれる。というよりわざわざ新しいものを古くしていくことが今の社会の自己運動のようでもある。
 新しいブッシュが古いブッシュよりいいのかわるいのかわからない。新しいミサイルが古いミサイルよりいいのかわるいのかわからない。新しいパソコンに向かう今の学者たちが古い原稿用紙に向かった学者たちよりいい仕事をしているのかどうかわからない。と、ブツブツ言っている暇があれば、古い学者たちのように仕事に向かえばいいのに、ともう一つの自分がつぶやいている。






  2002/11/27(Wed) <悪夢三本>

 何ということか、悪夢を三本立てで見てしまった。悪夢は一本でも十分なのに、よりにもよって別のテーマの悪夢を三本立てで見るとは・・・
 おかげで朝起きたら、かえって疲れていた。いや、書いているうちに思い出した。三本立てではなく、四本立てだったことを。トホホホホ。目が覚めているときは一本立ての授業すら四苦八苦しているというのに、夜になると何とイマジネーション豊かな頭なのでしょう。
 これから授業、ゲストの方のお話が聞けるので、とても楽しみです。では。






  2002/11/26(Tue) <国会見学>

 今日は朝から国会とやらを見学してきました。地下鉄の永田町駅から地上に出ると、そこは別世界です。以前に青山通りで人種が違っていたお話をしましたが、永田町も人種が違います。生臭い匂いのする(スミマセン)背広姿の男性が早足に歩いています。国会議事堂と議員会館が並び立つ間の道を、ノーネクタイの私は、すごすごと歩いておりました。
 第二議員会館とやらに入りますと(* 議員会館とは、国会議員の仕事場所、大学の研究室棟のようなものです。議員になると一人一室が与えられます。各党の会議室のような部屋もあります。内部には、売店、喫茶店、食堂、そして何とJTBもあって、ちょっとした地下街のようになっています。地下街というよりも病院のような感じでもありますが。)待合室にはタバコの煙がもうもうとしています。自動販売機の缶ジュースはなぜか10年前のお値段の100円でした。ちなみに、議員会館は三つありまして、第一と第二が衆議院議員のための会館、そしてもう一つ参議院議員会館というものがあります。第二議員会館は三つの会館の真ん中に建っています。
 今回の国会見学は、ひょんなことから議員さんのつてでの見学でしたので、ほとんど禁区はなく、くまなく議員会館と国会を見てまわることができました。議員会館の地下2階から地下道を通して国会に突入しました。多くの議員がこの地下道を通って登院しているそうです。登院というからには、黒塗りの車で表玄関に乗りつけないと格好がつかないものですから、TVの映像ではそういうイメージが流れますが、これは少数派だそうです。地下道の近道を通って裏口から行ったり来たりしているから政治家は裏でコソコソやるのが上手だという案内の秘書さんの話でした。
 さて、地下道を通っていきますと、バッジをつけた議員さんたちとすれ違います。そうです。今は国会会期中。1時から本会議で採決が行われますので、ほとんどの議員さんがここに集まっているのです。やっぱり生の議員さんたちは迫力がありました。なんといっても何万、何十万の人たちに自分の名前を書いてもらっている人たちですから、そうそう柔な人はいません。身近に見ますと、修羅場をくぐってきたという風格が漂います。どんな修羅場であるのかは定かには知りませんが。秘書さんからは、議員を見つけて、指さして呼び捨てにして騒いだりしないようにという注意を受けましたが、そんな人がいるのですね。失礼なことです。
 国会の内部に入りますと、議員専用のエレベーターがあります。ここには一般人は乗れません。しかし、隣に同じ仕様のエレベーターがあり、それに乗って2階に上がります。国会議事堂はご存じのように真ん中に三角屋根があって左右対称のつくりになっています。真ん中の屋根が興味深いところですが、ここはほとんど使われておらず、向かって左が衆議院、右が参議院となっています。衆議院と参議院は全く別々の組織らしく、ここで働く人たちも国会に勤めているわけではなく、衆議院に勤めているか、参議院に勤めているか、だそうです。見学も国会見学ではなく、衆議院見学か、参議院見学であって、私たちは衆議院議員の紹介でしたから衆議院見学ということでした。つまり真ん中から右側には足を踏み入れることはできないわけです。
 驚くべきことに、私たちは衆議院議長の応接室、それから第一委員会室に入ることができました。応接室ではわずか十数分前まで、議長とアフガニスタンからの来客の面談が行われていたそうです。議長席に座ることも可能でした。つい忘れていましたけど、私たちの国は国民主権、つまり民の国なのですね。だから、国会議事堂も人々にひらかれているわけです。また第一委員会室とは、どなたもご存じのはずの予算委員会などの質疑が行われる会議室です。ここでもどの席に座ることもできました。思いのほか、狭い空間だったので驚きました。TVはさまざまなものを身近に感じさせるとともに、手の届かないもの、遠く離れたものに感じさせる効果をもっていますが、実際に見てみますと、国会で論戦しているところってこんなところか、ふーんと感じさせてくれ、ぐっと政治と自分との距離が近くなるから不思議です。
 さて、一つ入ることができなかったのは、国会の本会議場です(このほかにも天皇の休息室などもある)。ここに入るためには、衆議院の職員になるか、内装・電気の工事屋さんになるか、それとも選挙で当選するか、いずれかの方法が必要とのことでした。厳重な鍵がかかっています。しかし、ときどき人が出入りするときにチラチラと中が見えまして、実は狭いということがわかりました。500人ほどの人を収容するにはちょっと狭く、長い会議はお気の毒という感じです。
 ぐるっと廻って、お食事の時間がやってきましたので、国会食堂で幕の内弁当を食べました。メニューにはさまざまな定食、寿司などもあり、お味もまずまず結構なものでした。議員さんに話をうかがうと、国会議事堂付近はコンビニもなく、仕事が夜戦に入ると大変だそうです。一番近いコンビニで往復30分かかるとか。規制緩和、内需拡大で国会議事堂前にコンビニを新設してもらいたいものです。きっと繁盛間違いなしだと思います。あと余談ですが、大学で教授会が延びたときには、たこ焼きの出店があればなあと思います。まあ、たこ焼き屋やおでん屋まであったら、いつ会議が終わるかわかりませんので、ないほうが無難なのかもしれませんが。
 お腹いっぱいになったところで、本会議10分前のベルがなりました。いよいよ本会議の傍聴です。カメラ、所持品をロッカーに預けて、エレベーターで4階に上がります。傍聴券の注意事項にいきなり「異様な服装をしないこと」とあります。「異様な服装」とはなんぞやと思いつつ、「不体裁な行為をしないこと」ということばが続いて目に入ります。国会にも意味不明な校則があり、日本の校則とはなかなか根深いものであることを知りました。管理教育下の中学校入学式のような緊張感をもって、傍聴席に入りました。
 ちょうど本会議開始の時刻、議員さんたちはほとんど集合しています。上から見ていますが、おお、土井たか子さん、海部俊樹さん、海江田万里さん、綿貫議長、知った顔が並んでいます。ちょっとミーハーになった気分です。議員の席順は慣習として、一番前に1年生議員、そして当選回数・年齢が若い順に座り、後ろに万年議員となっています。まるで中学校か、高校の席順のようです。
 議長の開会宣言のあと、高円宮死去の黙祷があり、続いてワンギリ法案の採決が行われました。一人の議員さんがワンギリ法案の趣旨説明をしている間、会議場は私語の真っ盛りです。もちろん、多くの議員さんたちは議決をするためではなく、情報交換のために出席しているわけですから、これは当然のことかもしれません。(大学の講義でも、学生は情報交換のために出席しているので、私語をするのはしごく当然のことだ。その彼・彼女らにどう話を聞いてもらうかが大学教員の腕の見せどころだという見識ある話をしてくれた同僚がいました。)つまり、ほかの議員さんに聴かせるような演説ができる議員さんは卓抜した力量をもっていると考えていいでしょう。議員さんたちに対しては、あまり無理なことをこちらも要求しませんので、ぜひ自分たちの姿を顧みながら、教育についての法案を審議していただきたいと切に願うばかりです。
 さて、ワンギリ法案の趣旨説明が終わると、議長が「採決を行います。異議ありませんか?」と発言、「異議なし」と全員一致で瞬く間に可決されました。今日の審議はこれだけということで、国会は終わり。わずか5分ほどの政治ショーでした。できれば、もう少し見ていたかったのですが。知っている議員さんたちを探す暇すらありませんでした。残念。
 再び議員会館に戻って、議員さんの仕事部屋を見せていただいて、帰路につきました。帰りには、議員会館の待合室は人であふれかえっています。どうも地方からの陳情団のようです。外に出ると、空気はおいしく、国会議事堂と銀杏の木が青空に映えていました。あんなこもった空気の中で仕事をされている議員さんたちを少し見直しました。そして、陳情、陳情で利益誘導の政治屋を育てるのも、国民の平和と安全を守り、公正な社会を築く政治家を育てるのも、私たち国民のありようだということを思いました。幸いにして、今の日本国は、日本国憲法に守られ、国民主権が保証されています。世界には、国会があってもそこに国民がアクセスできない国がたくさんあるにちがいありません。国会は、私たちのもの、そして公共のものだという意識を実感できたこと、これが今回の国会見学の大きな収穫になりました。長いレポートを終わります。






  2002/11/25(Mon) <夢見心地>

 朝から一日バタバタしていて、今ようやく一息つけた。只今、午後7時46分。週末は、近くのスーパーに買い物に出かけて、ふらふらと具合が悪くなり、それから断続的に寝ていた。うまいところに勤労感謝の日があって、あの祝日がなければ、今頃、風邪で寝込んでいたにちがいない。今年は風邪の訪れも早いようである。
 22日の夢から醒めてもまだ夢見心地の私だが、皆さんも風邪など召されないように、しっかりと栄養と休養をとられますように。というわけで、今日はこの辺で、また明日!






  2002/11/22(Fri) <夢>

 おかげさまで、今年も無事に歳を一つ重ねることができました。また来年一つ歳を重ねることを目標に生きていきたいと思います。
 さて、今日の、ちょうど私が生まれた明け方頃、一つの夢を見ました。それは、私がイスラエルのテルアビブ大学を訪れている夢でした。もちろん、私はかつてテルアビブ大学に行ったことはありません。そして、テルアビブ大学という大学が実在するかどうか、それも知りません。しかし、それはたしかにテルアビブ大学でした。
 私はツアーに参加しており、そのツアーでは厳重な注意がありました。それは決して集団から離れてはならないというものでした。集団から離れて、一人ぼっちになった途端に、テロリストに狙われ、殺される。まさにそこはそういう場所でした。大学のキャンパスは、コンクリート打ちっ放しのグレーに覆われ、殺伐としていました。そして、至るところに欧米系の人々の上半身がおかれています。テロリストに殺され、胴体をまっぷたつに切られて、そこにさらしものにされているのです。男性もいれば、女性もいます。ゾッとするような光景でした。
 怖いもの見たさでツアーに参加した私でしたが、これはとんでもないところに来たと後悔しました。これまでの旅で経験した怖さとまったく質の違う怖さがそこにはあったのです。テロに怯えながら暮らすということはこんなことかと愕然としました。そして、安全地帯の遠くからテロと戦争について語る自分の認識は、当事者の心の怯えをすくいとることがまったくできていなかったと思いました。
 あちらこちらに漂う血と死の臭いにこの世の地獄を感じ、立ち尽くしていた私は、何ということか、集団からはぐれてしまいました。胴体をまっぷたつに断ち切られた人間たちの運命が次は私の運命となるのです。言いようのない怖れが私のなかから沸き上がってきました。
 まずは建物の中に入ろうと、灰色にくすんだ建物の中に身を隠しました。どこから敵が襲ってくるかわからない状況は、表現しようもなくきついものでした。一つの部屋の中に、人が一人入ることができるぐらいの丸い穴を発見しました。ここを探されれば殺されることはわかっていましたが、ほかに隠れるところもなかったので、私はその穴の中に深く潜みました。そして、しばらくすると、明るい通りに出ていました。助かったのです。

 これは私の夢です。夢分析を受ければ私の心の問題としてこの夢は扱われるかもしれません。しかし、朝起きて、新聞に目を通したところ、エルサレムで自爆テロが起こっているではありませんか。少女らもふくめて10名の死者が出ているとあります。そして、シャロン首相は、報復だと叫んでいます。もちろん、自爆テロ自体もイスラエル軍の侵攻に対する報復として行われています。荒れ野をイメージする私たちの印象とは違って、ガザ地区といった主にパレスチナ人が住んでいる地域は、人口の密集地域です。さらに申しますと、ユダヤ教(キリスト教)対イスラム教、ユダヤ人とアラブ人といった対立図式は何とも杜撰(ずさん)なものです。イスラエルに住んだ経験のある方にお尋ねしたところ、イスラエルの教会にはアラブ人のクリスチャンがたくさんいるそうです。荒っぽい対立図式の中で、そのような人たちはどんなにか心を痛めながら、また現実にも幾重もの差別と排除の中で暮らしておられることでしょう。
 私は凶弾に倒れたイスラエルのラビン首相を愛します。ラビンは軍人でありながら、暴力で問題を解決しようとすることの愚かさと悪循環に気づき、粘り強い対話をもってパレスチナに平和を築こうと尽力します。その血の滲むような努力は、イスラエルのナショナリストによって断ち切られましたが、その思いはたしかな水脈を保っています。世界は、テロリストと報復者で構成されているわけではない。そんな単純なものではない。自爆テロに最愛の子どもを奪われながらもシャロンの報復に反対しているイスラエルの人々、そうした人たちの思いに頭を垂れながら、心を寄せたいと思っています。






  2002/11/21(Thu) <洗脳>

 久しぶりに時事問題について。北朝鮮の拉致問題で「洗脳」ということばが使われている。拉致された人々が、北朝鮮という国家の教義・価値観を刷り込まれたということを指すのであろう。たしかに一つの価値観、しかもそれが独善的であり、他者の存在を顧みないものであれば、そこから解き放たれることは大切なことであると思う。しかしながら、「洗脳」ということばが語られるときの文脈で気になることがある。というのは、「洗脳」ということばが使われるときの前提にあるのは、自分は正しくて、相手が誤っているという世界認識のように思われるからである。
 私たちの社会もいくつもの問題を抱えている。例えば、南北問題、環境問題、戦争という問題。今、私たちが安価な紙を大量に使用することが外国の森林を破壊していることにつながったり、ファミレスで安価でおいしいエビを食べることが外国の人々の生活基盤を蝕んでいたり、さまざまな問題がそこにはある。たしかに一つの価値観だけに覆われるのではなく、異なる考えを表明する自由が法によって守られている点において、私たちの社会は評価される。しかし、私たちが日々接している情報は、異なる考えを育む点においてほんとうに偏りがないと言えるだろうか。
 他者を非難するときに、ちょっとばかりでも自分にもそんなところがないのかどうか不安になる、そういう慎ましさが結構大切なのではないかと思うのである。






  2002/11/20(Wed) <50000感謝>

 50000カウント・ゲットのメールがゼミ生からやってきました。愛用の品を「粗品」としてプレゼントすることにしました。惜しくもはずれた方、申し訳ありません。さて、紅葉が鮮やかな今朝でした。今秋は急激に気温が下がったため、山間部のようなみごとな紅葉が武蔵野でもみられます。東京経済大学の南斜面・東斜面の木々はとてもみごとです。緑に包まれたキャンパスは、気づかれにくいけれども、学びを育む大きな財産だと思います。では






  2002/11/20(Wed) <間もなく50000!>

 1997年から5年あまり続けてきた“Internet たまのさんぽみち”だが、間もなく50000カウントを迎えようとしている。遅々とした歩みだったが、私の拙い文章を読んでいただき、ときには温かく、ときには厳しく励ましのことばをかけて下さった読者の方々には、感謝の思いでいっぱいである。これまで“Internet たまのさんぽみち”で綴ってきたのは、失われた二十代を取り戻すための三十代前半の私の悪あがきであったが、これからは三十代前半の悪あがきをまとまったかたちに創り上げていくことが私の仕事になると思う。50000カウントを踏んだ方には、記念の粗品を進呈したいので、ぜひともご連絡下さい。自分で地雷を踏まないように、しばらくはアクセスを控えておきます。三十代前半もあと二日。では。






  2002/11/19(Tue) <銀杏の輝き>

 東京経済大学には、銀杏の木がある。この季節、銀杏はキラキラと黄金色に輝き、あまりにも見事である。秋の陽の光にはじけ、風にゆれる銀杏の姿は、1年間のクライマックスでもある。しかし、この銀杏も冬の間はハゲハゲで、夏もひたすら茂っているだけ。パッとしない長い時間をためて、この季節にこれでもかとばかりに輝くのである。
 心に突き刺さるような銀杏の輝きを思い起こしながら、淡々とした日常の偉大さに改めて気づかされている。長い人類の歴史を通して、人の人生もまた大いなる日常に包まれたものであっただろう。凡々とした日常がなければ、ほんものの輝きは生まれ得ないものである。






  2002/11/15(Fri) <大人の背中>

 子どもは大人の背中を見て育つとは、よく言い当てたことばである。テレビでワイドショーに釘付けになっている大人が、子どもに「勉強しなさい」といってもなかなか効き目はないだろう。言っていることよりやっていることを見抜く、これが子どもである。
 さて、時事通信のニュースによると、私語を注意された国会議員が逆ギレし、注意した議員に殴りかかろうとしたという。以下にこのニュースを引用しよう。

 「衆院国土交通・法務委連合審査会で15日、私語を注意された自民党議員が逆上、注意した民主党議員に詰め寄り、乱闘寸前までいく騒ぎがあった。別の自民党議員が止めに入り事なきを得たものの、民主党の佐藤敬夫国対委員長は同日、中川秀直自民党国対委員長に対し、口頭で抗議した。
 関係者によると、質問中の加藤公一氏(民主)が、私語をしていた橘康太郎氏(自民)に注意。これに腹を立てた橘氏が、質問終了後、別室に移った加藤氏に「話していたのはおれだけじゃない」と詰め寄った。
 抗議を受けた自民党側は、週明けに中川氏が橘氏から事情を聴いた上で対応を検討する方針。橘氏は記者団の質問に「何もない」とぶぜんとした表情で答えたが、“逆ギレ”された加藤氏は「腹の虫が治まらない」と、橘氏の謝罪を求めている。」

 国民の代表である国会議員である。ただただ情けないというしかない。そして、最高に情けないのは「話していたのはおれだけじゃない」というセリフである。「・・・オレだけじゃない」「・・・なんでオレだけ」。これは多くの教師たちが子どもたちから発せられることばの中で最もがっかりするセリフの一つである。主体として責任を引き受けることができない人間の物言いだからである。
 私は教育の課題は、世界に向き合い、他者に向き合い、自分に向き合い、主体として責任を引き受ける人間に育つことではないかと考えている。「おれだけじゃない」という政治家たちが、人類の知的財産の上に成立している「教育基本法」を改正するに値するのかどうか、顔を洗って、鏡を見て、考え直してほしい。
 しばらく前、講義中に二度も私語を注意する機会があった。注意された学生は「今度から態度を改めます。変わった自分を見ていて下さい。」とレポートに書いてきた。そして、それから一度も私語をしていない。大人の背中を見ながら生きている若者たちだが、彼らのほうがずっと大人のようだ。
 ちなみに、私語を注意した加藤公一さんは私の選挙区の1年生国会議員で、立派な方である。毎週毎朝、駅前に立ち、人々に自分のことばで語りかけ、圧倒的に組織力でまさる対立候補をのりこえて、当選した。まさか組織をもたない加藤さんが当選するとは思っていなかったので、やっぱり人々は見ていないようで見ているものだと感心したものだった。“私語”を注意した加藤さんもまた一人の大人である。






  2002/11/14(Thu) <経験>

 昨日、生徒指導論の講義では、ゲスト講師として新座北高校の金子奨先生に来ていただいた。教室はいつもは顔を見せない学生たちもやってきて、あふれんばかりであり、寒くなりつつあるこの季節にもかかわらず暖房がいらないほど熱気がただよっていた。そして、金子先生の定時制高校から現在の赴任校に至る18年間の教職生活の歩みに聴き入っていた。
 学生たちのレポートを読むと、彼・彼女らが、わずか1回90分の出会いの中で、一生懸命に金子先生という存在を読みとっていることが伝わってくる。そして、異口同音に記しているのが、「経験」というものの重みについてである。金子先生は、18年間、生徒たちと真っ正面から向き合い、生徒の一つひとつのことば、疑問を受けとめ、それに応答すべく全力を尽くしてきた先生である。常識によりかかることを極力避け、生徒たちとの間で日々生まれる「出来事」そして「経験」から自分の「ことば」を立ち上げてこられている。したがって、その「経験」にはたしかな重みがある。学生たちはこの重みをしっかりと受けとめているようであった。
 若者たちが大人の話を聞かなくなったと言われて久しいが、一方で彼・彼女らは猛烈に大人の話を求めていると、私は感じている。彼・彼女らが厭うのは、大人の「説教」「命令」の言語であり、大人の「経験」の言語には渇望しているのである。「経験」の言語が語られているとき、そこにたどたどしさがあっても、彼・彼女らは次のことばを待っている。なぜならば、言葉と言葉の間(ま)にも、「経験」が滲み出しているからである。間がもたないという感覚の蔓延は、プログラムされた言語に日々侵されているゆえの事態であり、「経験」の言語においては「間」こそが最も雄弁であり、間がもたないという感覚が生まれようがないのである。
 日本社会には真の意味での「経験」がないと言ったのは、哲学者の森有正だった。「体験」をどこまで遡っても「関係」までで終わってしまうと、森有正は『生きることと考えること』の中で述べている。「体験」を深い自己内対話によって咀嚼することによって生まれる「経験」。「経験」のことばを大人たちがもてるかどうかが、「教育」という関係性が成り立つかどうかの鍵であろう。






  2002/11/13(Wed) <オフィス・アワー>

 本年度から東京経済大学では、オフィス・アワーというものが正式に始まった。オフィス・アワーとは、学生たちの履修等の相談に応じるために、週に一コマ研究室での個人面談を行う時間である。ところがオフィス・アワーを開始してから、この時間に学生たちがさっぱり来なくなった。他の時間には、学生がしばしばやってくるのだが、オフィス・アワーには来ないのである。あるいはオフィス・アワーは、めずらしく教員が研究している時間であって、この時間には来てはいけないと勘違いしているのではないかと、いぶかしく思った。そこで、このわけは何だろうか?と「わからないことは学生に聞く」という格言(?)通りに、他の時間にやってきた一人の学生に「どうしてオフィス・アワーに来ないの?」と尋ねてみた。
 すると、彼は「えっ、オフィス・アワーに来ていいんですか?」と驚く。こちらも驚いて「来ていいから、オフィス・アワーだろう」と答えると、彼は「オフィス・アワーには人がたくさん来ていて、会ってもらえないと思っていた」と言う。なんという裏の裏を読んだような行動のパターン。たしかにややこしい世の中だけど、大学ぐらいシンプルにやりたいものだ。ただいま、オフィス・アワーの時間。研究室には静寂がただよっている。






  2002/11/11(Mon) <老い>

 土曜日、大学の介護等体験の事前指導で学生たちとともに特別養護老人ホームのスタッフの方の話を聴いた。現場の話は具体性に富み、かつ重みがあった。話の中で、現在、80代から90代の人たちが子育てに奮闘したり、社会でいた時代はどんな時代だったか想起してみようというものがあった。電車のキップも窓口で声を出して購入し、もちろんパソコンや携帯はなかった時代である。時代の激流と、その中で老いを迎えることの大変さに改めて気づかされた。今のコンビニ(便利な)社会は、さまざまな生活の知恵を生かす場の少ない社会である。お年寄りがその力を発揮することが難しい社会である。
 お話をしていただいた方は学生たちに「皆さんが老年期を迎える60年後の社会を想像してごらんなさい。その頃には人類は普通に月に行っているかもしれません。月に行くキップをどうやって買うのか、まごついているかも」という話をされた。私もまた60年後の社会を想像した。しかし、人類が月旅行をする社会は想像できなかった。荒れ果てた社会の中で自分たちの力で生きる厳しさを骨身にしみた若者たちが、生活の知恵ももたず、ただ途方にくれる老人たちに一瞥もせずに、黙々と土に鍬を入れている、そういうイメージが浮かんできた。さて、60年後の世界はいかに。






  2002/11/8(Fri) <プレゼント>

 誕生日のプレゼントに何がほしいかと尋ねられ、考えてみるが、ほしいものは何一つ頭に浮かんでこない。ほしいといえば、「明晰な頭脳と屈強な身体と寛容な心」であるが、いずれもプレゼントしてもらえるような代物ではない。必要なものはプレゼントを待たずに買っているし、ほしいものと言われても見つからないのである。
 さて、「この国には何でもある。…だが、希望だけがない。」ということばは、村上龍の『希望の国のエクソダス』の中の一節である。おそらく「何でもある」からこそ「希望」がないにちがいない。人は欠けているからこそ、その欠けた部分を回復することを渇望し、自分を賭けてたたかう。もし「何でもある」ならば、自分を賭けることはバカバカしいことになる。でも、少し考えてみよう。ほんとうに何でもあるのか。子どもたちが生き生きと学べる学校はあるのか、子どもたちが虐待を受けず健やかに育てる家庭はあるのか、市民の思いが政策として実現されるような政治はあるのか、真面目にがんばっている人が報われるような仕組みはあるのか、ちょっと思いつくだけあげても、「欠けている」であろうものはたくさん見出せる。そう考えてみると、「何でもある」と思っている人は、「知的想像力がない」ということになる。
 誕生日のプレゼントを思いつかないのも、私の「知的想像力」の欠如だろう。おそらく周りの人たちから見れば、「先生なんだから、もっとパリッとした服を着ればいいのに」とか、「破れている靴下みっともないから、ちゃんとした靴下買えば」とか、私に「欠けている」であろうものはたくさん見出せるにちがいない。
 「欠けている」ものこそ、「希望」であるという深遠な真理を発見したところで、誕生日のプレゼントの話に戻ることにしよう。今回の誕生日のプレゼントには、「くつ下」を買ってもらうことにしよう。「くつ下」をぶらさげておけば、今度はサンタクロースが「明晰な頭脳と屈強な身体と寛容な心」のプレゼントを入れてくれるかもしれないしね。そんなことはないか。






  2002/11/7(Thu) <色づく>

 ほぼ一夜にして研究室の窓から見える木が色づいている。11月に入って冷え込みの厳しい日が続いたからだろう。学園祭が終わり、あとは冬に向けて淡々とした日々が続く。淡々としながら身が引き締まっていく晩秋という季節。また一年、年輪を重ねることになる。
 さて、毎日新聞夕刊に連載されていた4コマ漫画「まっぴらくん」が47年間の幕を閉じることになった。作者の加藤芳郎さんは、かつてNHKのクイズ番組「連想ゲーム」(もう若い人たちは知らないか?)の白組リーダーを務めていた人物である。当時、私はヘンなおじさんという認識しかなかったのであるが、「まっぴらくん」執筆についての加藤さんの回想を読み、心を打たれた。彼は47年間「まっぴらくん」の執筆のために、夕方6時半から9時半までの時間、机の前に向かい続けた。そのため、夜間の外出もままならなかったとのこと。この時間、描けない描けないという地獄の時間を耐えたあと、8時半すぎにアイディアがひらめくのだという。そして、一気呵成に描き上げ、原稿を提出。彼の47年間の毎日はこのようなものであった。
 47年間、とてつもない読者を抱える新聞の4コマ漫画を描き続けるというのは、どんなにか重圧だったことだろう。そして、日々、厳しい自分とのたたかいが繰り広げられていたにちがいない。このたたかいの成果が、仕事に疲れた人々を和ませ、微笑ませる毎日の作品につながっていたのである。加藤さんが「連想ゲーム」でとぼけたヒントを出しながら、心の中では明日の作品への重圧とたたかっていたと思うと、人を見る目をもっと深く育てていかなくてはならないと自戒させられる。目の前には、晩秋のどんよりとした雲が広がっている。だけど、そこにはもう春の芽が生まれつつあるのかもしれない。






  2002/11/5(Tue) <秋はゆうぐれ>

 日が暮れるのが早くなった。東京では5時を過ぎるともうとっぷりと日が暮れる。この週末は学園祭休暇で、のびのびと羽根を伸ばせるかと思いきや、野暮用で日が暮れた。土曜日には、知人の結婚式があり、青山に出かけた。薄々気づいていたことであるが、青山通りを歩きながら、私はここを歩く人種ではないと再認識した。私にはやはり柳瀬川のほとりや国分寺の湧水の小径があっている。しかし、東京に出てきたときは、メディアのイメージ、ブランドで都心に憧れたものだった。だけど、人間はイメージだけで生きるではなく、肌触りで生きるということにあるときから気づき、多摩で生活することになった。いや、多摩(=清瀬)に住むようになってから、自分の肌触りを取り戻したと言えるかもしれない。
 私のこれからの仕事は、先を急ぐ仕事ではなく、失われたものを取り戻す仕事になるだろう。「北の国から」がそうであり、拉致された人たちとその家族がそうであり、私たちの社会のほんとうの課題がそこにあるように。






  2002/11/1(Fri) <松井選手>

 プロ野球巨人の松井秀喜選手が大リーグ行きを決意したという。私にとって松井選手は人間として尊敬していた人物の一人だった。誰だって自分が打ちたいに決まっているのに、高校時代から敬遠の連続にも、感情をあらわにすることのない松井選手の器量の大きさは、並みではないと思っていた。そして、ドラフト会議でも、選り好みする選手たちの中で、愚痴一つ言わず、自分の運命に従い、巨人に入団した。入団後もずば抜けた実力をもちながらも、なかなか4番を打つことができず、実力相応の待遇を得られることがなくても、ただ淡々と自分に向かい、人々の期待を常に上回る実績を重ねてきた。なかでもすごいのは、四死球が多い中での連続出場である。彼は自分をことさら主張することもなく、ただ行動によって、結果によってあらわし続けた。私は巨人ファンではなかったが、松井選手の打席だけは応援した。試合結果のいかんにかかわらず、その一打席だけで私の目を釘付けにしてくれたのは、少年時代のヒーローだった王選手以来のことだった。
 気配り豊かで、周りを思い遣る気持ちも人一倍強かった松井選手が、メジャーに挑戦するという。この決断はどんなにか苦渋のものだったのだろう。私も松井選手の心のやさしさは、大リーグ行きの断念につながると思っていた。しかし、心のやさしさに心の強さがまさった。考えてみると、松井選手ははじめて自分の我を通したということができるだろう。この決断に対して、心から祝福を送りたい。巨人のため、日本のプロ野球のため、もう彼は十二分に貢献し、尽くしてきた。これからは巨人のため、日本のプロ野球のためではなく、自分のために全力を尽くしてほしい。そして、そのことこそが、混迷を深める日本社会に生きる私たちにほんとうに勇気を与えてくれるのだと、私は思う。ありがとう! 松井選手。そして、よい旅立ちを!






  2002/10/30(Wed) <学園祭>

 今年もキャンパスは学園祭の季節になった。今年、東京経済大学には、テリー伊藤がやってくるらしい。北朝鮮拉致問題真っ盛りの時期に、何ともタイムリーなゲストである。(テリー伊藤は『お笑い、北朝鮮の研究』(だったっけ?)の著者である)学生たちのセンスもなかなかいい。
 学園祭と言えば、徹夜したり泊まり込みをしていた学生時代のことを思い出すのだが、学園祭は学生のためだけではなく教員のためのものでもあることを教員になってはじめて知った。教員にとって学園祭というのは砂漠を歩いていよいよへばった頃にあるオアシスのようなもので、何ともありがたいものである。高校時代の恩師は、秋の体育祭の時期に、花巻の宮澤賢治記念館を訪ねていたものだったが、恩師の授業は絶品だった。おおらかさは人を育てるものである。そういえば、体育祭なんてバカバカしくてやってられないという友人は、体育祭の時期、映画館に入り浸っていた。そういうことを許容する学校だった。私は祭り好きで張り切っていたけれども、まつろわぬ者たちを許容するまつりは、また格別だった。
 まつりに踊り狂う者も、まつろわぬ者も、二度とは帰らぬこの秋のひとときを格別に味わってほしい。






  2002/10/29(Tue) <温かさ>

 学生のレポートを読みながら、その温かさに驚かされることがある。もちろん、自分自身の体温との差が温かさを感じさせるのであり、これは同時に私の体温の冷たさのあらわれでもある。自分自身の過去を振り返ると、トゲトゲしい感情が自分の底に吹きだまりのように沈澱していた。トゲトゲしさにふれないようにすれば、当たり障りのないことしか表現できず、何ものかがトゲトゲしさにかすると、否定的な1つの見方しかできなくなった。そのような自分から見ると、自分の底まで降りながら温かいことばを紡ぎだしてくる学生たちは、スゴイの一言に尽きる。おだてているわけでも、媚びているわけでもない。ただ、自分のもっていない何かをもっている他者に対して、敬意を表しているだけのことである。
 私の見方は、明らかに大多数の大人たちの見方とズレているにちがいない。おそらく長い間、自分の中に貯め込んできた体温の低さが、私の見方の土台にある。また、体温がどんどん低くなってきた時期に構築された世界観、大人観が、非常に歪んだものだったのかもしれない。それでも、一本のレールに乗れば人生は事足りると考えられていた時代と比べて、今の若者たちはその内面において懸命に生きていることは間違いないと思う。ただその内面を外の行動に結びつける架け橋が見つからないだけなのだ。
 外の行動に結びつかない内面には意味はないという見方もある。結果がすべてという見方だ。だが、何らかの手がかりがあれば、内面で蠢いているさざ波は大きな力になるという見方もある。そして、見えないものを育てるのが大切だという見方もある。足りないものを指摘する方法もある。そこにあるものに気づかせる方法もある。生きる方法、学ぶ方法はさまざまである。






  2002/10/28(Mon) <二分法を超えて>

 東京は秋晴れの快晴である。10月もあと数日を残すのみとなった。そして、この月もいろんな出来事があった。身近なところでは、前回も書いたように、日々の仕事を通して、教える側と学ぶ側の関係性を固定し、教える側が100で学ぶ側がゼロであることを前提とするあり方から、誰もが自分自身の中にある理論をもっており、その理論を明るみにし、向上をめざして対話を行うというあり方への転換が、教える側の成長につながることを体感したということがある。そして、遠いところでは、バリ島でテロが起こり、モスクワで劇場が占拠され、ともに多数の死者を出すという出来事があった。さらには、日本でも1人の国会議員が凶刃に倒れた。そして、どういう国民の審判が下されたのか訳のわからない統一補選が終わった。
 身近なことがらと遠いことがら。関係のないことのように思われるが、鏡として考えることもできるようでもある。テロは対話のない状態、あるいは対話の破綻を意味している。9・11、そして9・11以上にアメリカのアフガニスタン空爆以来、世界中で対話が破綻している。多数派と少数派がいる場合、多数派が聴く耳をもたなくては、対話は成立しない。つまり、強者は自らが強者であることを自覚し、強者であるがゆえに周りを踏みつけにしていないかという倫理をもつことが求められる。しかしながら、誰もが被害者となり、それゆえに世界を構成する主体であるという認識をもてなくなり、世界は脆弱さをあらわにしている。
 教育において、サービスを提供する側とサービスを受ける側という二項対立的な関係性が貧しいものであるのと同じように、社会においても、コントロールする側とコントロールされる側という二分化された関係性は脆弱性を孕んでいる。テロルはこの脆弱性を突いてくる。これに対抗する手段は、コントロールを強化することではなく、現在、二分化された社会のいずれの側にも一人ひとりの主体性を育てていくことにより、二分化された垣根を内側から破っていくことだと、私は思う。
 二分化された垣根は内側から破るものであり、外から取り外すものではない。外から取り外してもそこには無秩序と混乱が生まれるだけである。日本の学校について言えば、偏差値教育批判とその後の偏差値追放がその良い例である。何一つ変わらず、混乱だけが増し加わった。変わるためには、内側から破らなくてはならない。そして、内側から破る力をためるものは教育である。そういう意味で、プログラム化された「教育」とはおさらばしたい私だけれども、異文化・異世代の対話の中で人が育つという「教育」の力には大いなる期待を寄せている。






  2002/10/26(Sat) <ほんの少し>

 次の予定が迫っているので今日はほんの少しだけ。「臨床」とは癒す側−癒される側、あるいは教える側−学ぶ側の関係性を固定的なものとするのではなく、その関係性を揺さぶりつつ、その場から学び合い、育ち合う関係を生み出すもの、そういう実感を自分自身の大学教育の実践を通して感じつつある。ああ、もう時間だ。ではまた来週!






  2002/10/25(Fri) <テロル許すまじ>

 国会議員の石井紘基さんがテロルの凶刃でその命を奪われた。政治家の不正、政官財癒着の問題にメスを入れていただけにその筋からの犯行なのかもしれない。残念至極なことは、国民のために働いている稀有な政治家こそがテロルの対象になりやすいことだ。安全な社会を築くことには莫大なコストと日々の信用を生み出す地道な実践が必要である。しかし、これを脅かすのは容易である。テロルは卑劣であり、そこには寸分の言い逃れの余地もない。
 国会は一致団結して、テロルに立ち向かってほしい。まずは犯人の捕捉と徹底した背後関係の究明が求められる。ここで働かずして何のために警察があるのか。そして、このテロルが政治的な背景をもっていた場合には、各党に以下の措置を求めたい。党利党略の補選は、仁義として行わない。補選では、石井さんの政治理念の継承者を対象とした信任投票を行う。そして、これをテロルが起こったときの貴重な前例とする。
 殺したもの勝ちで済まされるものか。史実としては異論はあっても民主主義の一つの精神とされた「板垣死すとも自由は死せず」の精神を生かすためには、テロルでは何一つ得るものがないということを、国会の総意で示さなくてはならない。政治家は、自らの危機として受けとめてほしい。テロルは民主主義と私たちの社会に対する冒涜なのだから。1人の(政治屋ではない)政治家を失うことは国民にとっての計り知れない大きな損失である。せめて命だけでも助かっていればと残念無念である。合掌。






  2002/10/24(Thu) <和而不同>

 かつて通っていた高校に「和而不同(和して同せず)」という文字が入った額があった。通勤途上、NHKラジオで国会中継を聞いていた。「付和雷同」というか、尻馬に乗ったような野党の追及と、ずらしたりすかしたりしている閣僚答弁が延々と続いていた。「付和雷同」はその場しのぎにはなるけれども、長期的に力をためることにはつながらない。
 これに対して「和而不同」は穏やかで大騒ぎはしないのだけれども、自分のあり方を保ち、迎合しないという構えである。今日は何を書こうかとノートパソコンの前に向かったら、ふと「和而不同」ということばが浮かんできた。17、8年も前の学校での日常生活がこうして自分の中に沈殿しているのだから、教育というものは深遠である。






  2002/10/23(Wed) <祝!純くん>

 「北の国から」で共演した黒板純くんこと吉岡秀隆さんと、結ちゃんこと内田有紀さんが12月7日に富良野の教会で結婚式を挙げるとのこと。仲人は脚本家の倉本聰さんというのだから、「北の国から」の話なのか、現実の話なのか、わからなくなるようなドラマチックな話である。
 「北の国から2002遺言」を観て、結ちゃんに魅せられた私は、純くんが結婚するならこの女性しかないと思っていた。ところが、ドラマの中だけでなく、ブラウン管を突き破って、現実の2人が結婚するというニュースを知り、何だか嬉しくてたまらないのである。
 「北の国から」はドラマのようであり、ドラマを超えた何かのようでもあった。もちろん、純くんは吉岡秀隆さんとは別人なのだけれども、純くんのキャラクターは明らかに吉岡秀隆さんからにじみ出しており、また純くんを演じることが吉岡秀隆さんのキャラクターを育てていった。そして、最終回で、はじめて「逃げずに」向き合った純くんとともに歩くスタートラインについた女性が結ちゃんであり、その2人を演じた2人が結ばれた。「北の国から」は役者とともに視聴者を育ててきたドラマであり、このドラマの帰結が2人の結婚となったことが、「北の国から」を応援し続けてきた私にとって、何とも言えず嬉しいことなのである。
 何を言っているのだがよくわからない文章になったが、何はともあれ、おめでとう!これからも山あり、谷ありの人生を「逃げずに」歩んでいってほしいと思います。おそらくこの結婚の証人は、全国に数千万人はいる「北の国から」のファンだと思いますので。






  2002/10/22(Tue) <聴くこと>

 今年のゼミは雰囲気がいい。この理由の一つは、ゼミの選考を学生に任せたことにあるだろう。教師(私)は、話をすることができる学生に目が行きがちだが、学生たちは違う。聴くことができる学生たちを選んでいる。聴くという営みは、場を支える大きな営みである。目には見えないけれども、聴き手の質というのは、コミュニケーションにおいて決定的なことなのである。
 教師の仕事は、声を上げ、生徒たちを引っ張っていくものだという根深い先入観がある。しかし、ゆったりとした時間の流れる空間を創ることができる教師は、聴き上手な人である。また、聴き上手な学生は、ハッとさせられるようなやわらかい教師−子ども関係のある教育実習を営むことがある。
 聞き分けのない子どもから、聞き分けのある大人へ。これが成熟の一つのはっきりとした道筋なのかもしれない。私たちがこれまでの歳月をかけて創り上げてきたゼミは、“聴く”ゼミなのだということに改めて気づくことができた。






  2002/10/21(Mon) <月曜日の朝>

 先週末、ゼミの資料を自宅にもって帰るのを忘れて、大学に置いたままだったので、月曜日に朝早く出勤して予習をしようといつもより早く家を出た。朝早ければ道は空いていて、スイスイと大学まで行けるかと思いきや、これまでで最高の渋滞に巻き込まれて、とんだ目算違いだった。東京の朝の渋滞や恐るべし。私の朝早くというのは、人々の“普通”ということをすっかり忘れていた。
 月曜日の雨の朝、誰もが重苦しさを抱えているにちがいないけれども、通りを急ぐ人々の姿からは、それぞれがそれぞれの持ち場でたたかっている様子がうかがえて、清々しさを感じた。さて、これからどんな1週間が待ち受けているのだろう。






  2002/10/18(Fri) <昭和40年代>

 新聞は昭和40年代に突入した。私が生まれた時代である。だが、昭和40年代に入ると、“生活”の価値が徐々に希薄化していくのを感じる。“ゴツゴツ”した人間の生き様が次第に均質化していくのがこの時代だったのかもしれない。
 しかし、学生たちと深くつき合ってみると、今の時代にあっても、“ゴツゴツ”した自分を大切に心の奥深くにしまっている学生たちがいることに気づかされる。“透明化”の圧力に抗して、“ゴツゴツ”した自分を守るために、はりねずみのように生きてきた自分の過去を振り返る。そして、今、自分を振り返り、学生たちを見つめると、教育改革に最も必要なことは、はりねずみのはりを引っこ抜くことでもなく、ひっぱがすことでもなく、“ゴツゴツ”した自分をそのままさらけ出せるような空間づくりではないだろうか。
 そのためには、せめて自分(=大人)がまず“ゴツゴツ”生きていくことだろう。といいつつ、ご存じの通り、私は全然“ゴツゴツ”していませんが。それでも、気持ちだけは“ゴツゴツ”と、張り切りすぎて電信柱にぶつからないように歩いていきたいものです。






  2002/10/17(Thu) <昭和30年代>

 仕事の関係で、最近、昭和30年代の新聞を読んでいるのだが、そこから感じられるのは、敗戦からまだ十数年しか経っていないという緊張感である。戦争の記憶が人々の心に刻み込まれ、それがどうしても守らなくてはならない一線のようなものを生み出している。おカネ、栄誉、立身出世、世間体、こうしたものよりも大切な“生活”の価値が、ある広がりの中で共有されていた時代の空気を感じることができる。こうしたとき、新聞に没入しながら心が穏やかになり、新たな力を得る自分に気づくことがある。
 先を急ぐのもいいが、ときには立ち止まって、一昔前を振り返ってみるのも、心の平安に欠かせないことかもしれない。






  2002/10/16(Wed) <仕事>

 事(こと)に仕(つか)えると書いて仕事。一つの事に仕えることで人間は自分を育てていくのだろう。多くの人が「自由」をもてあましている時代。これからは生涯をかけて仕えるに値する事を探ることが課題になってくるのだろう。根無し草の「自由」であることよりも、自分固有の「仕える事」に捕らえられているほうが、ずっと自由であり得る。そして、自由を奪うものへの抵抗の拠点ともなり得る。






  2002/10/15(Tue) <新聞のない朝>

 新聞のない朝はすばらしい。沈思のときがずっと続くから。新聞のない朝は重苦しい。さまざまな世事で心をまぎらすことができないから。新聞のない朝は始動が早い。時間をつぶすものがないから。新聞のない朝は自分自身を読むひととき。それでも、なぜだか新聞をとっている。






  2002/10/11(Fri) <祝砲>

 「自由」の反対を「束縛」と考えると、どこまで「自由」を求めても「自由」にはなり得ない。そのような問いかけを、ある高校の先生からいただいた。尾崎豊が求めた「自由」もまたそのようなものだったのではないかと。
 尾崎豊の「卒業」には、「一つだけわかっていたこと、この支配からの卒業」という一節がある。同世代の荒れた学校を生き、荒んだ心を共有していたものとして、「卒業」は共感できるものだったが、この一節はどうしても腑に落ちなかった。「支配からの卒業」なんてものがあるのか? そして、「支配からの卒業」がわかっている(自明の)ことなのか? 私にはどうしても理解できなかった。
 「自由」の反対は?と私が尋ねられたら何と答えるだろうか。「自分に囚われた状態」だろうか。「自」分の理「由」にしがみついた状態だろうか。(今の人々が追い求めている「自由」を「自」分の理「由」と指摘したのは、私の先輩である) 少なくとも、今、私が「自由」の反対として想起するものは、「支配」でも「束縛」でもない。
 他者との関係の中にある自分を受け入れ、そこでの自分の立ち振る舞い、ありようを考えるとき、少なくとも「自分に囚われた状態」より「自由」であるように思える。おそらく人が「仕事」をするのは、他者との関係の網の目の中に「参加」するためであり、そのことによって自分に「制約」をかけ、「自由」を求める運動に入るのだろう。「自由」とはおそらく受動的なものなのだ。
 ここまで書いたところで朗報! たった今、電話がかかってきて2年前の卒業生が東京都の教員採用試験(小学校)に合格したとのこと。すごくセンスのいい、しかも根性のある女子学生だったので、喜びもひとしおでありました。一昨日、昨日のノーベル賞にも増して、私にとってはうれしく、またおめでたい話でした。この欄を読んでくれている学生諸君にも、ぜひともあきらめずにチャレンジしてほしいと思います。では、今日はこの辺で!






  2002/10/10(Thu) <碧空>

 秋晴れである。爽やかな秋の日。10月10日は晴れの特異日と言われていて、晴れる確率が高いそうである。そして、その言われの通りの青空。東京オリンピックと相まって、この日が「体育の日」であったことには明らかな意味があったのに、経済効果なるもののために、10月10日の「体育の日」は失われてしまった。人々の生活のリズムにもなっている祝日を、安易に動かすことは慎んでほしいところである。まあ「体育の日」なんて命名は、ちょっと押しつけがましいので、「緑の日」があるのなら、「青の日」に変更してもらいたいというのが個人的な意見である。ただ、同じ理屈で、人々の生活のリズムになっている祝日の名前をそうそう安易に動かすことは慎んでほしいという反論があるだろうから、この話はこの辺にしておこう。
 さて、二日続けて日本出身のノーベル賞受賞者が誕生して、驚いている。昨夜、小柴先生と同じ宇宙線研究所に勤める友人に、「ノーベル賞、おめでとう!」と電話をかけたところ、「オレじゃないよ」と言われ、「でも、同じプロジェクトやっていたんでしょう」と尋ねると、「いや、隣の研究室だった」という返事。悪いこと言ってしまったかなと思っていると、「今日もう一人、ノーベル賞とったらしいよ」という話。「えっ」とはじめ冗談かなと思っていたが、なんと受賞されたご本人も「ドッキリ」かと思っていたらしい。田中さんはまだ43才というから驚きであり、近い世代としてうれしさもある。(最近、近い世代のニュースといえば、情けない犯罪ニュースばかりだったから)
 ところで、楽しかったのは、小柴先生について記してあった昨日の毎日新聞の記事である。受賞の喜びの瞬間がたいそう詳しく書いてあるなと思ったところ、ここ15年間、ノーベル賞の発表の日は、記者たちと自宅で待っているのが恒例になっていたという。普通だとピリピリしそうなところだが、15年間も記者たちを自宅に招き、発表の日を楽しんでいたというところに、小柴先生の鷹揚さがうかがえる。この2人の受賞が子どもたちの科学へのあこがれを生み出し、学ぶことの楽しさが広がる契機になればと、思う。






  2002/10/8(Tue) <コスキン>

 秋になると、福島県川俣町というところでコスキン・エン・ハポンというフォルクローレのフェスティバルが開かれる。南米アルゼンチンでひらかれているコスキン音楽祭の日本版で、全国から100を超えるグループが参加し、演奏を楽しむ。最近では参加グループが増え、明け方まで演奏が続くこともある。大学時代に民族音楽のサークルに入り、フォルクローレにはじめて出会い、仲間たちとコスキンに出場するようになった。そして、なぜだか、大学を卒業してからもしぶとく出場を続け、メンバーの増減はあっても一昨年まで15年連続で出場してきた。だが、昨年、エントリーして練習までしたのだが、直前で都合がつかず欠場、そして、今年はエントリーもせずに欠場となった。
 10月は私の仕事にとっても繁忙期の一つで、コスキン出場(とそのための練習)は負担だったけれども、欠場するとなると心にぽっかり穴が空いたようである。フォルクローレとその仲間たちとの出会いは、明らかに私の人格形成のある部分を担っていた。閉ざされた心に感情の表出の喜びを教えてくれたのは、フォルクローレだった。
 今や仲間たちの誰もが働き盛りになった。今しかできないことにそれぞれ力を注く時が来たのだろう。20年後に再び出場できるように、今を重ねていきたい。






  2002/10/7(Mon) <雨のち晴れ>

 家を出るときには激しい雨だったが、大学に到着すると青空が見えていた。もう東の空にも秋晴れの空が広がっている。昨日、ゼミ生が多く所属するラグビー部の試合を観戦してきた。試合といってもスタジアムではなく、大学のグラウンドだから、見ている方が試合の流れとともに移動することができて、臨場感あふれる時間だった。ラグビーの試合を生で観たのははじめてのことで、その迫力に圧倒された。この日のために練習を重ねてきた学生たちがたのもしく見えた。終了間際のペナルティーキックで惜しくも試合には敗れたが、何ら価値を損なうものではなかった。






  2002/10/5(Sat) <教育実習講義>

 今日から3年生向けの教育実習講義がはじまった。まず第一回は今年教育実習を経験した4年生の体験談である。いつも学生のことばに感心するのであるが、今年は学生の構えにも感心した。講義の依頼に対して二つ返事の快諾、そして臆することのない話。学生の向き合う構えは、私たちに凛とした気を与えてくれる。一方で、この貴重な学びの機会を無断で欠席する学生もいた。向き合えない自分と向き合う勇気を!






  2002/10/4(Fri) <ドン・キホーテ>

 セルバンテスの『ドン・キホーテ』は、さまざまな読みを可能にするすぐれたテクストである。かつて大学院時代のゼミで、この『ドン・キホーテ』を読んだことがあった。レポートで私が「ドン・キホーテ的な生き方の現代的な意味」について書いたところ、指導の先生から「ドン・キホーテを称賛するあなたの文章とあなたの生き方が全く違う」と笑われ、私も苦笑しながらもいたく傷ついたことがある。
 誰にでも心の底で思ったように生きることができない時期はあり、文章と表面的なありように亀裂を孕むことはある。逆にいえば、文章と表面的なありようの亀裂は、人の成長の機会であり、少なくとも笑うべきことではない。
 私が「ドン・キホーテ」を愛するのは、ルードリッヒ2世を愛するのと同じ理屈であり、失われた世界をいつくしむ心から出たものである。真剣に「後ろ向き」なありようを追求する人々へのいつくしみでもある。といって、指導の先生を責めるつもりも毛頭なく、ただ人の心の奥底はどんな偉大な先生でもわかりはしないというだけのことである。
 三池争議のとき、行動隊長を務めた河野昌幸さんは、負けることはわかっていたけれども、それでも行動隊長を引き受けたという。ここにも真剣に「後ろ向き」なありように自らを捧げる人の姿がある。勝つことを信じ、勝つためにたたかった人以上に崇高な何かを、私は河野さんの生き方に感じるのである。
 歴史の証明が100年後、200年後に行われるとしたならば、「勝ち組」「負け組」なんてことばはあまりにも皮相すぎるものではないか。『ドン・キホーテ』の作品に戻るならば、ドン・キホーテの生き方と、ドン・キホーテを笑うことで空虚な自分たちを満たしていた貴族たちの生き方と、どちらが後世への遺産となったのか。これは一目瞭然だろう。忙しい時代だからこそ、『ドン・キホーテ』を読むひとときをもって、明日の仕事に向かうゆとりをもちたいものである。






  2002/10/3(Thu) <ルードリッヒ2世>

 ドイツに行ったとき、私が最も楽しみにしていたのがノイシュバンシュタイン城である。ディズニーランドのシンデレラ城のモデルになったこの城は、今や世界的な観光地となっており、ミーハーなものは嫌いなはずの(ほんとうは好きなのかもしれないが、いちおう嫌いなフリをするはずの)私の行動パターンからいえば、避けなくてはならないモノなのだが、なぜだか行く前からとても惹かれていたのである。
 白鳥城といわれる城のフォルムの美しさもさることながら、この城を築いたルードリッヒ2世の生涯が私を惹きつけたのだろう。1845年、ドイツの南部のバイエルン国王の王子として生まれたルードリッヒは18歳で王位に就く。だが、その頃、ドイツでは北部のプロイセンがドイツ統一に向けて着々と準備を整えていた。近代化と帝国主義の競争がいやおうなくドイツ地方にも押し寄せた19世紀半ばにあって、ルードリッヒはあたかも本から出てきた「ドン・キーホテ」のように、中世の宮廷文化にあこがれ、ひたすら城を築くことに全精力を注ぎ込んでいく。バイエルン王国の財政は破綻した。そして、メルヘンの世界に迷い込んだルードリッヒは、渾身の力作ノイシュバンシュタイン城にはわずかな間しか滞在することなく、1886年、近くの湖で溺死体として発見された。
 時代錯誤のメルヘン王・ルードリッヒであるが、この後、プロイセンの富国強兵路線を突き進んだドイツ帝国は、二度の世界大戦の主役となり、ヨーロッパ全土を焦土と化すとともに、自らも破滅することになった。そして、21世紀に入った今、ルードリッヒが築いたノイシュバンシュタイン城は、世界中から観光客が訪れるドイツの貴重な観光資源になっている。
 ここからは私のメルヘンであるが、ルードリッヒは20世紀のヨーロッパの悲惨な運命をどこかで感じとっていたのではないかと思うのだ。そして、近代化と帝国主義の競争から降りて、ひたすら中世のメルヘンに逃避し、そのイメージを城というかたちで世に残したのではないかと。
 私の研究室には、ノイシュバンシュタイン城で手に入れた城のポスターが飾られている。






  2002/10/2(Wed) <台風考>

 台風が、まるで黒船のように、みごとなコントロールで東京湾を直撃した。台風と聞くと、つい気分が高揚して、ちゃんと来てくれるかと気になり、仕事が手につかない私である。黒船がやってきたとき、気もそぞろな塾生たちを叱りつけ、淡々と講義を行ったといわれている福沢諭吉の真似は、とうていできそうにもない。
 それにしても、NHKの7時のニュースで台風情報を延々とやっていたのには驚いた。東京だって日本の一地方だろう。東京に拠点をおいているメディアにその感覚はあるのだろうか。東京に台風がやってきた頃、九州は快晴だったらしい。快晴の九州人は、延々と30分以上も東京の台風情報を見せつけられたことになる。逆を考えてみるとこの異常さがわかる。九州に台風上陸だったら、せいぜい5分ほどやって次のニュースだろう。沖縄だったらニュースにさえならないかもしれない。この前の沖縄の台風、あれはとてつもなくすごかった。沖縄の上空でほとんど停滞しており、ほぼ一昼夜にわたって猛威をふるっていた。あの台風こそ、7時のニュースを潰してでも放映すべき(放映するに値する)台風だった(と、私は思う(笑))。今回の台風は、あっという間だった。激しい風雨が吹きつけた時間よりNHKのニュースのほうが長いくらいだった。
 そうそう、沖縄よりもっとひどいこともある。中国や朝鮮半島にそれた途端に、報道がプツンと切れることだ。この前の九州をかすめた台風は、朝鮮半島で猛威をふるっていた。台風被害がもっと詳しく報道されていれば、小泉首相の北朝鮮訪問のさいも、私たちは拉致事件以外の情報を複眼的にもつことができた(かもしれない)。何はともあれ、地球の裏側のことまで詳しく報道するのは現実的ではないだろうけれども、気にしはじめた台風ならば、最後までつき合うぐらいの感覚をもちたいものだ。国境を越えた途端に関心をなくしてしまうメディアの感覚からは、地球市民は育たないだろうから。ちなみに今回の台風、東北、北海道、サハリンでの被害を心配しています。りんご農家、大丈夫かな?






  2002/9/30(Mon) <ハンドベル>

 ハンドベルという楽器がある。鈴のような楽器で1つの楽器で1つの音しか出すことができない。しかし、大勢で奏(かな)でると、美しい音色の曲が生まれる。ほんもののハンドベルはものすごく高価なのだが、少し小さなミュージックベルだと手頃な値段で購入できる。子どもたちにミュージックベルを教えてみたら、いつもはあまり関心のなさそうな子どもたちも、とても熱心に演奏していた。
 北海道の合宿を終えて、最初のゼミを迎えた。学生たちに合宿の感想について話をしてもらったところ、みんなと一緒に作業をしたという経験がとても新鮮だったようだ。大根の収穫を行ったのだが、1本1本の大根がハンドベルのような音色を思い起こさせた。
 考えてみると、今の社会の中で、どこを向いても、不景気だ、不況だ、競争に勝ち抜かなくてはと絶えずせきたてられる声が聞こえてくる。このような中、競争よりも協働が求められる、あるいは競争の中にも協働の喜びがある農業体験が、もう一つの生きる原理を教えてくれたように思うのだ。
 競争、競争というけれども、これで人間の質が向上しているかというと、私の個人的な感覚では、どうもそうではないように思える。きちんと人の話を聞くことができない店員、人と呼吸を合わせることができない社員、こうした人々に出会うたびに、ほんとうに“競争”なるものが人間力を育てているのかと、はなはだ懐疑的にならざるを得ない。これに対して、協働の喜びを知った学生たちは明らかに成長している。今、私たちの社会に求められているのは、自己責任という名のヘボな独唱を強いることよりも、ハンドベルの合奏の喜びに参加する機会を準備することではないだろうか。






  2002/9/28(Sat) <同じ釜の飯>

 NHKのドキュメント人間で、救急医療の最前線で格闘する一人の医師の姿が映し出された。彼の名前は荒木尚さん。私の高校時代の同窓生である。高校時代にはふくよかだった頬が清冽に研ぎ澄まされ、日々向き合っている仕事の凄まじさを物語っていた。そのセンターには、毎日、平均7人の生死の境をさまよう重症の患者が運び込まれるそうである。不慮の事故で生き死にギリギリがかかった患者とその家族を前に、即時の判断と選択が求められる救急医は、過酷な労働のため働き手が少ないという。荒木さんは、患者の生死にかかわる仕事の重責を前に、ただ「誠実」だけが自分のできることだと語っていた。「誠実」ということばは、高校時代の恩師がよく語っていたことばで、荒木さんはまさにこのことばを自分の血とし、肉としているように思われた。
 昨日、この欄に、北海道白老町の老夫婦の事件を記したあと、ニュースキャスター・鳥越俊太郎さんの「あのくさ、こればい」をのぞいてみたら、何と同じ事件が取り上げられている。鳥越さんは、日本の「家族」「夫婦」のあり方という視点から、9時間半にもおよぶ怒りがどのようにして蓄積されてきたのかということを推察されていた。私の視点とはまた違った角度からの分析だったけれども、数ある事件の中から同じ事件にアンテナが動いたということに奇遇を感じた。鳥越さんもまた(一度もお会いしたことはないのだが)私の高校の大先輩である。
 あまり同窓というのでつるむのは好きではないのだけれども、同じ空気を吸うということは影響力のあることだと思った。学校がもし教育力をもつとしたら、その源泉は管理や決まり事、あるいは洗練されたカリキュラムなどにあるのではなく、場の力、場の空気にあるのではないだろうか。先日の教育方法Uの授業で、「授業を成り立たせるために必要なものは?」という問いに対して、「学べる空間」という素敵なこたえを返してくれた学生がいたが、尊敬できる先達、同朋と同じ空気を吸うことができたことに何となく感謝している。






  2002/9/27(Fri) <なすりつけ>

 毎日新聞の記事に「「北海道白老町の無職、堀川市郎さん(74)が全身に暴行を受け死亡した事件で、道警苫小牧署は25日夜、堀川さんの妻、瞳容疑者(71)を傷害致死容疑で逮捕した。瞳容疑者は21日に「夫が5〜6人の若者にたたかれた」と通報していたが、調べに対し「過去の愛人問題や酒の上での暴力などで苦労させられた恨みがあった」などと容疑を認めているという。
 調べでは、瞳容疑者は21日午前11時ごろ、同町萩野の自宅で、堀川さんと夫婦げんかになり、同日夜までの間、殴る、けるなどして、全身打撲による心不全で死亡させた疑い。瞳容疑者は約9時間半近く、一方的に暴行していたと供述しているという。
 瞳容疑者は当初、「夫は近くの生協前の自販機でジュースを買おうとした際、金目当ての若者に襲われたと言っていた」と説明。しかし、同署は(1)生協前などに争った跡がない(2)目撃者がいない――など不自然として瞳容疑者から任意で事情を聴いていた。最近、夫婦げんかが絶えなかったという。」というものがあった。

 なかなか激しいご夫婦だったようだが、初出の記事では「金目当ての若者たちの凶行」ということが無批判に掲載されていた。「北海道白老町」とある。私の頭の中では、「ああ、今や北海道の田舎でも若者たちは荒れているのか。それも複数でご老人を襲うとは何とまあ卑劣な犯罪であることか。若者擁護派の私だけれども、考え方を改めなくてはならないのかもしれない。」といったような思考がかけめぐった。ところがこの事件の正体は、日本の「若者」の問題ではなく、日本の「家族」の問題だった。そして、最も注目すべきと思われることは、おそらく“普通の”おばあさんであっただろうこの容疑者が、罪をなすりつけるのに「若者」を選んだことである。
 この“普通の”おばあさんは、きっととっさに「若者」を思いついたのだろう。だが、罪を人になすりつけようとする卑劣さとともに、その対象を「若者」にしようとする精神は、日本社会の精神そのものではないか。教育改革国民会議は、若者に奉仕活動を義務化することを考え出した。しかし、これは本末転倒であり、ほんとうの問題は、日本の大人が成熟のかたち、あるべき社会のデザインを示すことができていないことにあるといえるだろう。成熟のイメージのない社会で、どんな希望をもって若者に生きろというのだろうか。成熟のイメージのある社会、例えば、職人の世界、技の世界では、若者は驚くべき輝きをもって仕事に打ち込んでいる。若者に必要なものはイヤなことをムリヤリやる我慢ではない。ああいう大人になりたい、こういう社会を築きたいという成熟のイメージであり、それがあってこそ下積みを耐える我慢が生まれるのだと、私は思う。
 “普通の”おばあさんがやってしまった“なすりつけ”、そしてこれを検証もせずに発表、報道した“普通の”大人たちの“誤報”、この裏には見逃すことのできない偏見が潜んでいる。そして、次世代の社会の担い手に対するこの偏見は、放っておけば、将来、私たち自身の首を絞めるものとなるだろう。






  2002/9/26(Thu) <朝の訪問客>

 授業が始まった。一日にして疲れが身体全体を襲っている。この先が思いやられる。さて、昨日、研究室にやってきた学生は、「大学の先生って、好き勝手なことをしゃべっていられていいですねえ。オレも大学の先生になろうかな」とのたもうた。「あはははは」。若いっていいねえ。先が見えないから人間は先に進めるのであって、先が見えたら進む勇気なんてどこからも生まれないでしょうね、きっとどんな仕事であっても。
 さて、今朝は、新研究室にめずらしい訪問客があった。鳩である。ハトさんは、私がノートパソコンに向かっている、ちょうど目の前に降りたってきて、ガラス越しにこちらをジロジロと見ている。あんまりジロジロと見ているものだから、こちらもジロジロと見返したら、向こうもキョロキョロしながらも、近寄ってくる。というわけでガラス1枚を隔てて、急接近と相成ったわけだが、いろんな訪問客がやってくる「大学の先生」って仕事は、そう悪くもないかなと思わないでもない(四重否定)今日この頃である。






  2002/9/25(Wed) <出帆>

 今日から後期の授業がスタート。東京はちょうど秋風が心地よい時候になり、学びには最適なシーズンを迎えている。夏は飛び回り、秋に腰を落ち着けるというのは、気候に合った生活の様式だと思われ、今夏は酷暑を避けることができ、ありがたかった。
 さて、さまざまな出来事の中に、社会の変化を感じることがある。その一つが今回の北朝鮮・拉致事件での家族の方々の徹底追及ぶりである。家族の方々は外務省からの説明に納得することなく、被害者の足跡、事実の解明を求めている。これまでの日本社会だと、世間というシステムがあり、お上のいうことにはあまり逆らわずに、また責任の追及においても“なあなあ”で済ませようとする傾向が強かったように思う。
 ところが、今回の事件では、事実の解明への強い意志があらわれている。事実の解明への強い意志として思い出すのが(映画『ゆきゆきて神軍』)である。この映画は、一人の日本軍の兵士の奇妙な死の真相をあきらかにすべく行動する奥崎謙三を追った鬼気迫るドキュメントである。
 私はずっと知りたいと思っていることがある。戦病死したといわれている祖父のことである。祖父は召集を受け、1945年3月に横須賀で亡くなっている。身体があまり丈夫ではなかったと聞いていて戦病死ということに対して何となく納得していたが、30代の働き盛りの人間がそう簡単に死ぬわけがない。また、身体があまり丈夫でない人間に対して、死に至るような訓練を強いたとすれば、十分な犯罪である。
 こうしたことは、日本中に転がっていることだろう。そして、みんなが堪忍しながら、自分の胸だけに納めて、戦後を懸命に生きてきたことだろう。しかし、私たちの社会にも“なあなあ”では済ませたくない心が育ってきたのではないだろうか。小泉首相の北朝鮮訪問をきっかけとして、韓国でも拉致事件の家族らが声をあげはじめたという。この波紋は、決して小さいものではない。(同時にこの事件に便乗する輩については、鳥越俊太郎さんの“あのくさこればい”も参照されたい)

  あのくさこればい






  2002/9/23(Mon) <秋雨>

 東京は雨の日曜日になりました。このところ週末は天気がぐずつくことが多いようです。日本列島の西の九州から東の東京に出てきて、最も季節の違いを感じたのが9月でした。列島の東は、秋雨が多く、梅雨よりもこの時期のほうが降水量が多いそうです。一方、列島の西は、梅雨には大雨が降りますが、秋は比較的に天気がよく、高温です。おそらくオホーツク海の高気圧が関係しているのだと思いますが、秋雨が降るごとに夏が遠ざかり、秋が近づいているような気がします。
 昨夜、卒業生と久しぶりに電話で話をしました。語彙がなく「がんばってね」としか言えない私に対して、彼は「先生はがんばりすぎないように。「いい」加減でお願いします」と涙が出るようなありがたいことばをかけてくれました。ことばを紡ぐことの大切さをひしひしと感じています。






  2002/9/20(Fri) <秋日和>

 秋風が心地よい季節になりました。昨晩は自転車での帰宅の道中が肌寒く、しばらく前までの夏の暑さとは別の世界でした。本日、大学の後期の授業が始まりました。長いシーズンですが、いつものように完走をめざしてぼちぼちいきたいと思います。






  2002/9/19(Thu) <戻り入居>

 夏の間、改修していた研究室の工事が終わり、先日、新しい研究室が始動した。壁と床がリニューアルされ、面積が1.5倍になった研究室はかなり快適で、気分一新といったところである。どうも貧乏性な人間で、新しいところに住むと何だか悪いような気がしてしまうのだが、やはり必要な快適さはパワーを生み出す。貧乏性の根底にあるのは、貧しい人々がいる中で、自分だけが心地よい暮らしをするのはおかしいのではないかという、旧左翼的な発想であるが、これでは連合赤軍的な隘路に入り込むような気がする。あさま山荘に立てこもった連合赤軍のメンバーが町に降りたとき、あまりの悪臭から正体がばれて警察につかまったという話があるが、臭ければ世のためになっているというわけではない。人間には自らの幸福を追求するという権利、いや義務があり、同時に、他者の幸福を踏みにじるべきではないという義務がある。自らの幸福を追求することを悪と糾弾し、その生を他者の手段とすることを強要するとき、全体主義の不幸が訪れるのである。これは右・左を問わず同じことである。
 小泉首相が北朝鮮を訪問した。そして、拉致事件というパンドラの箱を開いてきた。8名の死亡という事実は、小泉首相もおそらく青天の霹靂だったことだろう。わかっていれば、その発表の場にノコノコと出向いていくわけがないからである。行方不明の子どもらを待ち続けていた家族の方々はまことに気の毒であり、言葉もない。首相が訪問するとなれば、何らかの勝算があるにちがいないと思われただろうし、当日朝の家族の方々の表情は希望にあふれていた。そして、あの結末。希望を与えられただけ残酷であった。
 夜わずかな時間テレビを観ただけの私にとっても、この結末は酷く、眠れないようなものであった。家族を理不尽に失い、そして希望を持ちつづけ、裏切られる。このことはかくも苦しいものであるのか。当事者の無念にくらべれば、ほんのほんのわずかであるが、想像することはできる。
 そして、角度を変えれば、朝鮮半島から強制連行されてきた人々の家族も、同じような思いをもったはずなのだ。この事件から学ぶべきことは、北朝鮮憎しという感情でもなく、どっちもどっちという居直りでもなく、人々に対して理不尽に加えられる国家暴力を許すべきではないということだと、私は思う。
 拉致された日本国籍をもつ人々が北朝鮮に国家暴力を加えられたのと同じように、北朝鮮の体制に反対を唱える北朝鮮の人々もまた国家暴力を加えられてきた。また、工作船に乗っていた工作員たちも自らの幸福を追求することを許されず、海の藻屑と消えていった。彼らもまた国家暴力の犠牲者であると言えるだろう。引き揚げられた工作船には乗員の居住空間すらなかったと言われている。
 植民地支配の時代に、朝鮮半島では多くの人々が血を流し、自由を奪われている。この“償い”というものが、金正日の独裁と北朝鮮の国家暴力を存続させるための“経済援助”になるとしたら、朝鮮半島の人々は二度にわたって、日本に侵されるということになるのではないか。“経済援助”は、北朝鮮の国家暴力の存続を許さないということとセットで行われなくてはならない。日本人拉致だけでなく、北朝鮮に住む人たちにも、想像力を働かせたい。なぜならば、彼らは監獄の中におり、私たちは監獄の外にいるからだ。監獄の外にある者たちの無関心は、監獄の中にいる者たちの絶望に通ずるということである。そして、この関係はいつ逆転しないとも限らない。
 新しい研究室から東の空に月が見えている。北朝鮮の人々も同じ月を見ていることだろう。今は快適な新しい研究室が監獄とならないためにも、国というフィクションとそこに生きる人々を分けて見つめることの大切さを深く考えていきたいと思う。






  2002/9/16(Mon) <共学>

 シリアスな話から内輪ネタに急転回して恐縮だが、実は私は男子校の出身である。小学校、中学校は地元の公立に通っていたが、高校は私立の男子校に通った。9年間、いや幼稚園から入れると12年間、男女がだいたい半数ずつの空間に身をおいていたので、男しかいない男子校にじっさいに行ったときのショックは言葉にできないほどだった。「オレの青春を返せ!」と叫びたいような気分だった。“ハイスクール”に女子がいないのは致命的である。そして、「共学にしろ」という空しい叫び声を上げながら、それからの3年間、娑婆に出られる日を指折り数えながら、自分の選択を呪っていた。
 さて、先日、高校時代の恩師より手紙が来た。何とそこには「とうとう女子を入れることになりました。ちまたでは大はしゃぎです」とあるではないか。「ガガーン!悔しい!!!!!」
 もう20年ほど前のこととは言いながら、「もっと早くしてくれよ」とつぶやいている自分がいた。それにしても、後輩のためにこの僥倖を素直に喜べばいいものの、何と私の心のさもしいことか。いや、あるいは戦前・戦中に学校に通った人たちも、戦後教育をみて同じように思ったかもしれない。
 この文章を書きながら、高校時代に私が考えていたことをふと思い出した。それは「女子がいなくて、男子だけなのは明らかに間違っている。男子だけの世界に生きていても、世界の半分しか認識したことにはならないではないか」というものだった。もちろん、女子と一緒にいたいがための屁理屈のようなものだったが、思い出してみるとなかなかいい線いっている。
 今の問題に引きつけていえば、私の感覚は「アメリカからの情報だけでは、世界の半分(もちろん以下)しか理解したことにならないではないか」という感覚だったのではないだろうか。
 母校も共学になるということだし、そろそろ同窓会にでも出席しようかな。なんてもちろん、ウソだけど、あの下ネタだらけだった弁論大会が今後どうなるのか、気がかりである。それから、これまで気楽に足を運んでいた母校に、これからも気楽に足を運んでいいのだろうかと思うようになったのは、なぜでしょうか。






  2002/9/11(Tue) <9・11以降>

 2001年9月11日の衝撃は忘れることはできない。「破滅」と「暗黒」の時代を予感させた。しかし、その直後の世界中の人々から寄せられたアメリカへの同情とテロリズムへの異議申し立ては、ほのかな「希望」を感じさせるものだった。ところが、その後、テロリズムに対して「報復」という名の戦争を仕掛けたアメリカの行動には、「絶望」を感じた。悲惨の満ちた人類の歴史の中で人々が粘り強く育んできた一筋の光を、「暴力」で踏みにじるものだったからだ。
 坂本龍一は“9・11”によって新たな事態が生じたのではないという。ただ“9・11”によって世界のありようが明るみに出されただけだ、と。強者が弱者を滅ぼす世界のありようは、近代500年をはるかに超えて、ホモ・サピエンスの歴史にさかのぼると、坂本は言う。
 種族が相争う時代から何も進歩することなく、強者が弱者を滅ぼし続けているのだとしたら、そして、このことが進歩だと思い続けているのだとしたら、おぞましい結末が待っている。はたして人類にとって強さとは今もなお無条件に価値あるものであり続けているのだろうか。強さは諸刃の剣であり、それを外に向けたら周りを威圧できるが、おのれに向けたら破滅を招く。航空機もまた強さ(速さ)=文明の象徴であったが、おのれに向かったとき破滅につながった。
 あらゆるものには両義性がある。いいことばかりのものなどない。携帯電話は便利だが、使い方によっては凶器に早変わりする。原発は驚くべきエネルギーを生み出すが、事故があれば破滅が待っている。すばらしいテクノロジーは、同時に恐るべき武器に早変わりする。これはおそらく鋭利な石器を作った人類が、その道具を同胞に向けたとき、ものすごい力を発揮することに気づいて以来、共通していることだろう。
 これからの人類の課題は、いかに滅びまでの道をゆるやかに歩むかの一点にかかっているだろう。“延命”こそが課題であり、そのためには、これまで培ってきた科学技術のある部分を断念することが求められるだろう。まずは“核兵器”“原発”を断念すること、これがイラクを攻撃する前にやるべき課題にちがいない。坂本龍一の“非戦”の思想は、人類の今後の課題として的確である。「暴力」「力」への断念こそが、新しい知恵を生み出すからである。そのためには、まず世界が対話できるような仕組みを確かなものにしていかなくてはならない。
 “9・11”以降、私たち人類が生き延びていくための方法は、「力」にはない、「科学技術」にもない。ただ、「力」を断念し、「科学技術」のある部分を断念する決断と英知にある。今、私はそう思っている。






  2002/9/8(Sun) <北の国から終章>

 週末、「北の国から2002遺言」を観ました。感動したのは最後に流れたテロップ。キャスト、スタッフが星の数ほどもいて、この作品が大勢の人々によって支えられていることを改めて知りました。「2002遺言」から登場した結ちゃんこと、内田有紀の好演にも魅了されました。これまでカラリオのCMしか知らなかったのですが、内田有紀は素晴らしいの一言に尽きます。これまで北の国からを支えてきた並みいる名優たちに一歩も引けをとっていないと感じました。よく見ると、内田有紀は、「北の国から1987初恋」で登場したれいちゃんこと、横山めぐみ系であり、純は紆余曲折の末、初恋の人にたどりついたという言えるかもしれません。
 途中、ぶつくさ言っていたこともありましたが(私)、21年間のドラマというのは限りなくスゴイと思います。かつて、気難しい藤田省三が(私が大いに尊敬している思想家ですが)、黒板五郎という人物の造型について、大いなる賛辞を送っていたことを思い出します。「快楽の全体主義」という社会風潮に抗いながら黒板五郎が歩いたこの21年間、私は純と同じように、いや純とは全く反対に、現実とかけ離れたスーパーマンになっていく黒板五郎に(黒板五郎の造型に)反発をいだいたこともありました。しかし、最終章、孫の快を溺愛する凡庸な黒板五郎に、心からいとおしさを感じました。
 「北の国から」は、国民的な文化の財産だと思います。こうしたドラマを、人物をどのくらい造型できるのか、そして共有できるのか、そうした視点から国の豊かさを計る、そんな物差しがあってもいいのではないかと思います。ありがとう! 「北の国から」






  2002/9/4(Wed) <旅は道連れ>

 9月1日から4日までの北海道・美瑛町合宿からちょうど今帰ってきました。みっちり農作業をして、観光もして、夜も体育館で運動をし、飲むという“欲張り”合宿でしたが、一人の離脱者も出すことなく、ほとんどトラブルもなく、帰還することができ、ホッとしたの一言です。(まだ帰宅中の学生もいると思うので、安心するのは早いですが)
 一日に数十回のトラブルを経験し、その過半数が私の計画性のなさに起因していた前回の北海道合宿から3年、今回の合宿を笑顔で終えることができたことは、筆舌に尽くしがたい喜びでありました。ご存じのように、私は自分勝手な人間で、気の向くまま、風の吹くまま、一人旅なら「トラブルもトラベルよ」とばかりにホイホイと珍道中をくりひろげますが、集団をまとめることは大の苦手と来ています。この性格の欠陥がモロに出たのが3年前の北海道合宿。そして、この3年間、自分の欠陥を補うにはどうしたらいいか、いろいろ試行錯誤しながら生きてきました。
 そして、この夏、再び北海道へ。私の欠陥を直す鍵は、「対話」にあるということで、独断専行を慎み、学生と「対話」をしながら合宿を作っていこうと考えました。その結果がこの合宿でした。仕事に就き、一つのことを成し遂げることがこんなにも難しいのかということを思い知り、そして一つの壁を学生たちとともに突破しました。次にも壁は待ち受けています。しかし、壁を“ともに”乗り越えたという体験は、たしかな感覚として身体の中に息づいています。私は、今年の学生たちとともに、そして3年前の学生たちとともに、壁を乗り越えたのだと思っています。
 人生という旅もまた、幾多の山々を“ともに”乗り越えていくものではないかと、考えています。旅は道連れ、世は情け。そして、次の旅へ。終わりなき旅。






  2002/8/30(Fri) <北の国から>

 9月1日からゼミ合宿で北海道・美瑛町を訪ねる予定である。農業体験と農家の方々との交流が主な目的であるが、富良野が近いということもあって、『北の国から』のロケ地を訪ねてみようという話になった。『北の国から』のロケ地を訪ねるのであれば、ドラマをはじめから観ていこうということで、何軒かのビデオ屋を訪ね歩いたが、見事に貸し出し中である。
 『北の国から 〜遺言〜』の放映を前に、同じようにビデオを観ておこうという人たちが多いのだろう。『北の国から』のロケ地を訪ねてみようと思ったときは、そろそろほとぼりも醒めただろうからいっちょう行ってみるかというつもりだったが、図らずも流行に乗ることとなった。それでも何とかビデオを入手して、夜になると『北の国から』の世界にひたっている。
 1981年の『北の国から』はやっぱりいい。絶妙な子役に恵まれたということもある。純も、蛍も、泣かせるし、存在感がある。子どもの心が描けている。そして、子どもは親だけでなく、たくさんの大人に見守られながら、たくさんの大人から養分を吸い取り、成長していくのだということに改めて気づかされる。
 『北の国から』の物語でもそうだが、子どもは大人のことばを聞いて生きているわけではない。ことばの向こうにある大人の人間としてのありようを聴いている。私もまた、子どもだった頃、聞き分けのよい(私の言うことに賛同してくれる)大人よりむしろ、立ちはだかってくるがこちらを子ども扱いしない大人を好ましく思ったことを思い出す。一緒に『北の国から』を観ながら、私が「子どもはつらいよ、大人に丸め込まれるもんな」と言うと、同居人は「子どもだからだまされることがある。でも、子どもだからだまされないこともある」と言った。「なるほど」と思った。子どもは経験が薄いが、生きる勘はまだ痩せ細っていない。
 美瑛合宿は新しい試みである。事故のないように祈り、気をつけて行ってこようと思う。ブラウン管の中の『北の国から』とはまた違う「北の国」が、私たちの前に待ち受けていることだろう。






  2002/8/29(Thu) <嫌われる理由>

 その昔、『愛される理由』という本が出てベストセラーとなったが(著者が離婚するというオチもついた)、アメリカが「嫌われる理由」について気にし始めているらしい。
 毎日新聞の記事によると次のように記されている。

 「米国務省のバウチャー報道官は28日、世界に広がる反米主義の実態と原因を探るため、9月5、6日に米国内外の専門家約20人を集めて研究会議を開くと発表した。米政府当局者約50人が傍聴し、外交政策に反映させるという。このところ、「超大国の身勝手」と非難されることが目立つ米国だが、「嫌われている」という自覚や悩みもあるようだ。」

 身長190センチの無双の猛者も悩んでいるらしい。また、次のようにも記されている。

 「報道官は「いくつかの地域で人々が米国を嫌っている原因、理由」を理解することの必要性を指摘。当局者が会議を直接傍聴するだけでなく、情報調査局が会議後にまとめる分析も反米主義への対策の手掛かりになると語り、特に広報部門などで役立つだろうと期待を示している。」

 おのれを見つめ直そうとするところが何ともアメリカらしいと言えるが、「嫌われていること」は「広報部門」のイメージ戦略でどうこうすることでもないだろう。アメリカが「嫌われる理由」を分析するために、別に専門家を20人も集める必要もない。ただ、被害妄想の加害者という自己像を受け止めれば済むことだ。
 世界環境会議に出席し、二酸化炭素の排出量を取り決めた京都宣言を批准し、パレスチナの和平に尽力し、イラク武力攻撃を思いとどまるならば、いつでもアメリカを支持する準備はできている。あなたは思っている以上に強いのだ。あなたのくしゃみで弱い者たちは皆吹き飛んでしまうのだ。そのことを自覚していただきたい。






  2002/8/28(Wed) <チャップリン>

 帰国してからチャップリンの映画に夢中になっている。『犬の生活』『モダンタイムズ』など、弱者・貧者に温かいまなざしを注ぐチャップリンの映画は、殺伐とした時代にあって心を和ませてくれる。「泥棒にも三分の道理」とは、日本の見事なことわざであるが、誰だってわずかな道理にすがって生きている。わずかな道理こそが人間が人間である所以でもあろう。だから、そのわずかな道理を否定されるならば、牙をむくしかなくなる。泥棒の道理をホイホイ認めようなんて言う気は毛頭ないが、そのわずかな道理から泥棒が自らの良心に気づき、また泥棒以外の人も泥棒も自分も同じ人間であることに気づけるような関係性は大切にすべきことではないだろうか。
 コミュニケーションを暴力によって切ること、これは被害者に怯えを与える。そのために、暴力を行う側が強者であると思われ続けてきた。たしかに、コミュニケーションを暴力によって切ることは、より権力のある側のみがもつ特権である。一般に、子どもは大人に対して、コミュニケーションを暴力によって切ることは難しい。しかし、大人が子どもに対して、コミュニケーションを暴力によって切るのは、家父長制の下ではしばしば行われてきた。だが、今、DVなどの問題が明らかにされる中で、暴力に依存する者の弱さに光があてられようとしている。
 個人の問題と同じことが国や政治組織のレベルでも言えるだろう。コミュニケーションを暴力によって断ち切ることは、犯罪である。コミュニケーションへの努力を諦めたとき、そこはもう戦争への一里塚であるといえる。
 人類が人類を滅ぼし尽くすだけの暴力(=兵器)を手にしたとき、暴力は、人類の可能性を広げる手段ではなく、人類にとっての最大の敵になったはずである。ところが、イラク攻撃に向かう現在のアメリカの姿は、人類がこれまで培ってきた営為を台無しにするかのようである。第三者から見れば、アメリカは190センチの大男のように強く、パンチを喰らったら頭が吹っ飛びそうなほどの凄みがある。一方のイラクは、そこらの悪ガキにすぎず、できることといえば窓ガラスに石を投げつけるくらい、のように思える。どこにも、アメリカが顔色を変えてイラクを攻撃しなければならない理由など見あたらないように思える。
 アメリカが暴力に依存すればするほど、私たちはアメリカのDV男的弱さを見ることになるだろう。依存症から立ち直るには、気づきが必要である。しばしば気づきはどん底経験によってもたらされるという。しかし、地球は、アメリカのどん底経験まで待っていられないだろう。それにベトナムでアメリカはどん底を見たはずではないか。
 戦争に向かう時期、そして冷戦の時期、アメリカは喜劇王チャップリンを嫌い、迫害した。チャップリンの映画には、複眼鏡が備えられていて、そこからは多様なものの見方が可能であったからである。アメリカの正義とチャップリンの映画は相容れないものだった。そして、今、単眼鏡で世界を覆うことを意図しているブッシュ大統領に、チャップリンの映画を捧げたい。(ささげつつ!)






  2002/8/27(Tue) <交通事故>

 昨日に引き続き、交通事故関連のニュースの話題。

 本日の毎日新聞のニュースによると、日本の交通事故には次のような特徴があるという。

 「警察庁によると、日本では交通事故の死者数の約41%が歩行者や自転車利用者。米国約13%、フランス約14%、イギリス約29%に比べ格段に割合が高い。特に歩行者の死者の半数以上が自宅近くで事故に遭っていた。」

 つまり、日本では、自動車が歩行者や自転車利用者をはねる事故の割合が、諸外国とくらべてはるかに高いというのである。つまり、自動車対自動車という対等の関係で事故が起こっているわけではなく、自動車対歩行者・自転車という不均衡な力関係で事故が起きているということになる。
 これに対して、国土交通省と警察庁では、次のような対応に着手するという。

 「このため、両省庁は「車中心」から「人中心」の道路環境をつくるため、人身事故の発生割合が高い住宅地や商業地の約1〜2平方キロを同エリアとして指定する。エリア内では、路側帯を拡幅し、最高速度を規制するほか、歩行者と車両の通行を時間的に分離する「歩車分離式信号」、歩行者を感知した場合は横断歩道の青信号時間を延長する「歩行者感応信号機」などの整備を進める。」

 こうした取り組みは、ぜひともやっていただきたい。私たちが支払っている税金は、何よりも私たち市民の安全を守り、その生活の質の向上のために使われるべきである。記事には「人身事故の2割削減を目指す」とあるが、こうしたところは遠慮せずに「8割」削減を目指してほしい。
 変わるために必要なことは、やりやすいところから着手するのではなく、やらねばならないところに着手することだと思う。皆さんも、すでに安全そうな道を何度もほじくり返す一方で、危険な道を放っている光景をご覧になられたことがあるだろう。また見通しのいい、少しスピードを上げたくなる、とても事故の起こりそうにない道路で、ネズミ取りに遭われたこともあるかもしれない。そうした道路は見通しがよい上に、都合よく警察が隠れるちょっとした場所があったりするものだ。つまり、取り締まりをやりやすい道路である。この一方で、ここでスピードを上げたら危ないぞと思われるような道路で、取り締まりを見かけることは滅多にない。
 やりやすいところからではなく、やるべきところから着手する。やるべきところ(必要なこと)を一番知っているのは、ユーザーであり、市民である。私は、毎日、自動車通勤をするようになってから、どこの道路がどのように危険で、どこの信号機の時間設定がどのように渋滞を生み出しているのか、恐ろしくわかるようになった。きっと、宅急便配達などで地域をまわっている人たちは、ものすごい量の有用な情報をストックしていることだろう。その一方で、いくら有能な道路設計担当者であっても、すべてを見越して適切な設計をすることは到底無理だとも思った。道路も生き物であり、机上の計算だけではつじつまが合うわけがないからである。設計して、施工するまではまだ第一段階、それから実際に運用しながら改善し続けていかなくてはならない。後者のほうがずっと大切なことであるように思われるのだ。
 もちろん、この話は、自分にも返ってくることである。私は、自分がやれる角度(=やりやすいところ)から授業を設計する。しかし、やるべきところ(必要なこと)を一番知っているのは、学び手である。学び手の経験と気づきをすくいとりながら、私は自分の授業についての改善を行う。私の力量の足りなさから(=アナロジーとしては資金不足)、すべての意見を反映させることはできないだろう。また、学び手の意見が誤解に基づいていることだってあるだろう。そうしたときには、専門家としての見識をもとに、学び手に説明する責任もあるだろう。いずれにせよ、専門家が知を独占し、大衆はそれに従えという時代は終わりを告げていると、私は思うのである。
 肝炎で生命の危機に立った知人がいた。彼は渾身の力でさまざまな療法を探し回り、ついに肝炎を完治させることに成功したという。これはたまたまだったかもしれない。しかし、自分の生命を守りたいという気持ち、あるいは家族の生命を守りたいという気持ち、これは何にも増して強いものだ。この強い気持ちが、しばしば正答に辿り着くというのは、当然考えられるこである。最近、医療ミスが続出している。これも専門家としての傲りが、当事者の強い気持ちをおろそかにした結果ではないだろうか。これからの専門家は、教祖(カリスマ)ではなく、つなぎ手(コーディネーター)としてその力を発揮することが求められているのではないだろうか。もはや「民は愚かに保て」では、社会に未来はない。






  2002/8/26(Mon) <危険運転>

 世の中、納得のいかないことはいろいろあるけれども、気になっているのが交通事故関連のニュースである。
 数日前、次のようなニュースが流れた。

「静岡県警島田署は21日、同県島田市本通6、運転手、Y容疑者(31)を殺人未遂の疑いで逮捕した。調べでは、Y容疑者は同日午前5時半ごろ、同市相賀の県道で大型ダンプカー(約12トン)を時速80キロで運転中、後続車がいるのを知りながら急ブレーキをかけ、後続の同市神座、パチンコ店員、Sさん(20)のワゴン車を自分のダンプに追突させた疑い。Sさんは脳挫傷などで意識不明の重体。調べに対し、Y容疑者は「Sさんが事故現場の数キロ手前から追い越そうとパッシングやあおりを繰り返していたのでやった」などと供述。同署は、ダンプに追突すれば車の運転者が死ぬかもしれないと同容疑者が認識していたとみて、殺人未遂を適用した。事故後、Y容疑者は「事故を起こし、1人けが人がいる」と自分で110番した。現場は幅6メートルの片側1車線で、追い越し可能な直線道路。(毎日新聞)」

 こういっては何だが、Y容疑者の気持ちはよくわかる。「片側1車線の追い越し可能な直線道路」で、「パッシングやあおりを繰り返」されては、身の危険も感じるだろうし、「ふざけるな」という気持ちが生まれるのは、しごく当然なことである。そして、ブレーキを踏んだところ、後ろの車は止まれずに激突。この記事を読むと、Y容疑者は、自ら110番して、適切なアフタケアーをし、取り調べに対して正直に経緯を話していることが伝わってくる。ところが、これに対する警察の処遇は、何と「殺人未遂」である。取り調べでY容疑者は一瞬「死んでしまえ」と思ったとか漏らしたのかもしれない。だが「死んでしまえ」と思うことと「殺人」の間には大きな開きがあるだろう。そして、いつもは加害者に大甘に思える警察が、被害者が事件をきっかけをつくったと思われるこの事件で、なぜだか「殺人未遂」という最も重い罪を適用している。

 続いて、本日のニュースである。

 「栃木県警栃木署は25日、乱暴な運転を注意されたことに腹を立て歩行者3人をはねたとして、同県栃木市大宮町、会社員S容疑者(26)を傷害の疑いで緊急逮捕した。調べによると、S容疑者は同日午後7時30分ごろ、同市大宮町の市道で乗用車を運転中、前から歩いてきた男性会社員(29)に「危ないな」とすれ違いざまに大声で言われたことに立腹。車を後退させて、男性と、一緒に歩いていた妻(25)、姉(28)の3人をはね、それぞれに4週間から2週間のけがを負わせた疑い。現場は歩道のない幅約6メートルの道路。男性らは近くの祭りに行く途中だった。(読売新聞)」

 祭りに行く途中の道路で、身の危険を感じるような乱暴運転をされたとき、一言注意するぐらい、人間として当たり前のことだろうし、いやむしろ市民としてやるべきことだといえるだろう。実際、私は、狭い道での自動車の乱暴運転には、しばしば「危ないな」では済まないぐらいのきつい注意を繰り返している。自転車2人乗りを居丈高に注意する一方で、自動車の乱暴運転に注意したことをかつて一度も見たことのない警察の代わりに。ところが、このニュースでは、「危ない」運転をして、「危ないな」と言われたことに憤激したS容疑者が、なんと3人をはねるという暴挙に出ているのである。男性会社員たちは、どんなにか恐怖を感じたことだろう。生きた心地はしなかったのではないか。ところが、これに対する警察の処遇は、何と「傷害罪」である。確か「傷害罪」とは、街角で一発殴られるのと同じ罪ではないだろうか。

 車で人を轢こうとし、実行すれば、これは明らかに「殺人未遂」である。鉄の塊で、生身の人間を襲うのであるから。私ははっきりいって日本社会で生きることが怖い。マナーの悪い人間に対してちょっと注意すれば、いつ殺されてもおかしくないような社会であるからだ。そして、そうやって殺されても、明らかに殺され損な仕組みになっている社会であるからだ。こうした社会をつくっているのは、市民の安全を守るためではなく、国家のメンツを守るためにある“法の番人”たちの仕組みなのではないかと思う。

 車で威嚇することは、重大な犯罪である。威嚇される側が守られなくてはならないし、威嚇する側は厳罰を受けなくてはならない。こうした当たり前のことすらなし得ない社会にあって、どうやって子どもたちを正しく育てたらいいのか、私には毛頭わからない。






  2002/8/25(Sun) <時差ボケ>

 ヨーロッパに向かって出発したのは、8月6日・日本時間11時半。フランクフルト空港に到着したのは、同日・現地時間16時半でした。時差が7時間ありますので、日本時間では23時半ということになります。なんやかんやあって、ホテルに着いたのは、19時ぐらい。日本時間では真夜中の2時頃です。朝型人間にはつらい一日だったようですが、夜型人間の私にとっては、ようやく元気が出始めるといった感じで、それからフランクフルトの街を散策、オープンカフェで紅茶とケーキを味わいごきげんでした。ホテルに戻って22時頃(ヨーロッパは夜10時近くまで明るいのです)に就寝。日本時間では明け方の5時頃です。そして、朝は爽快な目覚め。一日で時差を克服(?)しました。
 ところが、日本に戻ってからは大変です。ヨーロッパ時間に過剰適応してしまい、以前より激しく夜中に目が冴えわたります。私にとって時差がマイナス7時間というのは、あまりにもちょうど都合がよかったのです。一日が31時間になりますから。一方で、帰りのプラス7時間は、17時間で一日を終えなくてはならず、適応に失敗してしまいました。いっそ帰りは西回りにして、シアトルあたりでマリナーズ観戦でもして戻ってくれば、バッチリだったのでしょうが。






  2002/8/16(Fri) <華の都>

 生まれてはじめてヨーロッパに行ってきました。帰国途上の飛行機で日本のテレビを見ていると、NHK7時のニュースでヨーロッパ大洪水を報道しているではありませんか。スイス・ユングフラウヨッホで大雨に遭いましたが(相変わらずの雨男です)、あのときの厚い雲からの絶え間ない雨が小さな沢、そして川を通って平地に流れ込み、今回の大洪水になったのでしょう。
 ドイツ・スイス・フランスを巡る“こてこて”のツアーで、スイスでは雨と霧で一寸先は闇のような情けない日々でしたが、華の都パリには感動しました。街全体が一つの文化を形成していて、何か一つの建物を見ていても、全体に流れる意志のようなものを感じることができる、そのような都市でした。
 欧州行きを思い立ったのは、今夏、研究室が改修工事のために使えないということが一つのきっかけでした。うだるような日本の夏の中、家でバテているよりも、思い切って出かけてみようと決断しました。これまで人類が築いてきた文化の偉大さに比べて、自分という存在のあまりものちっぽけさに気づかされる旅になりました。帰ってきたら日本も少しは涼しくなってきたようです。






  2002/8/4(Sun) <絵日記>

 夏休みの宿題風に絵日記にトライしてみました。(じつは仕事からの逃避です)

 今日、教会学校できょうけつ染めを楽しみました。



 和紙を屏風折に折って、板で挟んで角を染料につけます。



 三角形で折ると次のようにカラフルな模様ができます。



これは焦げた色の和紙で作ったものです。



 染め物というと難しいかと思いましたが、幼稚園年長さん以上だと十分にできるようです。子どもたちの作品は、ハッとするような鮮やかな出来映えで、大人も顔負けでした。このあと、子どもたちは、自分たちで染めた和紙を使って、うちわを作りました。お手製のご自慢の“うちわ”でこの夏の暑さもどこかに吹き飛ぶことでしょう。
 準備をして下さった方々、ありがとうございました。まさしく失敗というもののないきょうけつ染め、楽しいですよ。子どもたちと一緒に挑戦してみてはいかがでしょうか?



  2002/8/4(Sun) <再見>

 暑かった夏だが、次は列島中がスコールに見舞われている。東北が大雨ということだったが、いよいよ日本列島も熱帯になりつつあるのかもしれない。
 さて、昨年のコラムで、ヨーロッパに行ってきたと真っ赤なウソをつきましたが(ある学生に怒られました (__))、今年こそほんもののヨーロッパへ行く予定。明日から出発です。はじめてのヨーロッパでちょっと楽しみです。またほんとかウソかわからないような文章を書いていますが、帰国までしばらくの間、更新はお休みです。今度のヨーロッパ行きがほんとかウソかは、再開後のコラムでお確かめ下さい。それでは、スコールつきの南国の夏をお楽しみ下さい。






  2002/8/2(Fri) <雷雲>

 外は雷雲が広がり、稲光が煌めいている。すんでのところで雷雨には遭わずに助かったが、ゴロゴロという音の下、早足に歩いていたときはハラハラドキドキだった。「地震 かみなり 火事 おやじ」とはよく言ったものだ。かみなりはかなり怖い。ドッガーン! 今、すぐ近くに雷が落ちた。雷さまにはくれぐれもご用心!






  2002/8/1(Thu) <遊ぼう>

 7月が去り、今日から8月が始まった。ああ、7月よ、汝はなぜかくも早足に去りゆくのか。そして、ああ、8月よ、汝はなぜいつも7月よりも早足なのか。
 いつまでも終わらなかったような気がする5月と6月に比べて、あっという間に7月が過ぎ去った。この歳になっても夏休みの宿題に追われている。8月は少し出かけたりもするので、私に残された時間は少ない。
 先日、ある学会に参加して、今、小・中・高の教育現場では、「仕込みの時間なしに、料理を出せと言われている」ような状態であるという教師の方々の話をうかがった。雑務と「勤務をしています」という書類作り等のために教材研究をする時間がないという。
 あるところで、「大学の先生っていいですね。同じノートで何年も講義しているっていうじゃありませんか」と言われた。思わず、「あなたがおやりになったらいかがですか」とかつての千葉すずのようなことばを返そうと思ったが、大人げないと思い、ぐっとことばを呑み込んだ。
 私の高校時代の恩師は、午前2時に起きて、生徒たちの文章を添削している。恩師の家には、1万冊近い本が並び、床が今にも沈まんとしている。
 一流のラーメン屋さんは、各地をまわって一流の食材を集め、研究を重ね、お客の身体とこころに沁みいる一杯のラーメンを作っている。誰も、ラーメン屋さんがきちんとラーメンを作っているかことを証明するために膨大な書類を提出しろとは言わないだろう。膨大な書類を提出させることが、うまいラーメンにありつく方法とはとうてい思えないからである。
 しかし、教育現場では、今こうしたアホらしいことがもっともらしい風をして行われている。わざわざまずいラーメンを作らせておいて、子どもたちにまずいものを食えというのでは、大人も、子どもも、気の毒としか言いようがない。
 文化の質は、どれだけ強いこだわりをもち、そしてそのこだわりを深めるための視野を広げられるかにかかっている。宿題もいいけど、おおいに遊んで、自分の視野を育てていきたいものである。教師たちよ、遊ぼう。教師たちの遊びの広がり、深みが、未来の社会の担い手を育てていくのだから。