Daily
たまのさんぽみち



  2002/7/30(Tue) <カンボジアからの手紙>

 昨日、見慣れない筆跡のエアメールがメールボックスに入っていた。差出人名をみると、ソン・ヤンとある。カンボジアのホテルマン、ヤンからの手紙だった。手紙では、ホテルを辞める決心を固めたということが綴られていた。ホテルのロビーの椅子をベッドに24時間働きづめの生活はもう限界だった。ヤンは勉強する時間がないことを嘆いていた。ホテルマンの生活にこの先の展望はない。しかし、問題は次の仕事である。ホテルを辞める決意をしても、次の仕事のあてはまだないという。
 ヤンの手紙を読み、一気に世界のもう一つの現実に引き戻された。ありあまるモノに囲まれている私たちの社会がある一方で、勉強したくてもできない人々が生活する社会がある。
 手紙が来たちょうどそのとき、私は水上勉の『飢餓海峡』を読んでいた。この小説には、わずか四十数年前、日本列島でも同じように今日を生き抜くのにギリギリの人々があふれていたことが記されている。ヤンに電話をかけてみた。しかし、電話はうまく通じなかった。手紙の消印をみると、7月2日となっていた。ヨーロッパからの手紙も5日で届くのに、この手紙は消印からもう30日ほども経っていた。
 *(表紙の花は、「デジタルカメラで撮った壁紙用の花の写真集」のHPより転載・感謝!)






  2002/7/26(Fri) <引っ越し>

 引っ越しののち、空き教室を仮研究室として一夏過ごすこととなった。昨日、ようやく仮研究室に荷物がやってきたので、本日、パソコンのセッティングをしていたら、ネットワークの設定のところで、パソコンがフロッピー・ディスクを要求するではないか。そんなモノ、どこかの段ボールの底に眠っていて9月まで出てきやしないよと、少々ムッとしながら、スキップを繰り返し、クリックする。それでも、再起動すると、無事にネットワークにつながっている。よくわからないのだが、まあ一安心といったところである。
 話は変わるが、卒業生から「先生の車、片方のヘッドライトが消えかかっていて、バイクと間違われて危ないですよ」と言われ、またある学生から「後ろのブレーキランプが片方しかついていませんよ」と言われ、さすがのメンテナンス嫌いな私もこれはヤバイと、昨日、カーショップなるものに出かけた。すると、そこの店員さんに「余計なことかもしれませんが、このタイヤ、ヤバイですよ」と言われる始末。たしかにタイヤの側面がひび割れていて、今にもバーストしそうな雰囲気。一昨年の夏合宿でオーバーヒートした車を思い出し、これはヤバイかと、タイヤも交換するはめになった。安物買いの銭失いとは、まことに的を射たことばであった。しかし、この車で、名古屋と新潟(塩沢)まで往復した。よくぞ、バーストしないでくれたと心の中で感謝。
 まとまりのある話を書こうと思ったが、まとまりのない頭の中を反映して、まとまりのない話になった。それでは、暑さの中、どうぞよい夏休みを!(表紙の花は、Flower Portrait ProtfolioのHPより転載・感謝!)






  2002/7/22(Mon) <全英オープン>

 先週末、やっとこさで研究室の片づけを終えた。積み上げられたダンボールを前にして、達成感に身を打ち震わせたが、2ヶ月後、このダンボールを開封し、再び逆の作業をやらなくてはならないということに気づき、寒気に身震いを感じた。
 さて、片づけ作業のあと、夢中になっていたのが全英オープンゴルフである。今年は、マルちゃんこと、丸山茂樹選手の快進撃というビッグニュースもあった。しかし、たとえ日本人選手の活躍がなくとも、なぜか全英オープンゴルフには心を奪われ、毎年ほぼ欠かさず、TVにしがみついている。(家にTVがあった時期のみ)ちょうど、私の仕事のシーズンが一区切りを迎える時期であるということもあるが、スコットランドの厳しい気候の中で行われるゴルフの祭典は、大自然の中での人間の弱さと、それゆえに輝く人間の神々しさを教えてくれ、私の胸を打つのである。
 今年の全英オープンは、特に心に残る大会となったが、最初のドラマは三日目に生まれた。穏やかな天候が激変し、雨風が吹きつける最悪のコンディションの中で、上位選手たちは揃ってバタバタとスコアーを崩していく。年間グランドスラムの快挙に王手をかけたあのタイガー・ウッズがプロに入ってはじめての81というスコアーを叩くなど、あまりにも過酷な一日だった。あらゆる選手がボロボロになる中で、ボロボロになることを耐え忍んだ選手たちだけが、四日目のファイナルで栄冠をめざす舞台にとどまった。丸山選手もその一人だった。
 四日目は、三日目とうってかわって穏やかな好天だった。いや、穏やかすぎたといってもいい。昨日が冬であったとすれば、最終日は夏だった。ぐんぐんと気温が上がり、長袖の丸山選手は明らかに暑そうだった。四日間で四季があったというほどのスコットランド・ミュアフィールドの七変化だった。2位に3打差をつけてスタートした南アフリカのアーニー・エルスにとって有利な条件は揃っていた。宿敵タイガー・ウッズの戦線離脱、最終日に大ブレークしたエヴァンズの土壇場での失速、最終18番ホールでのエルキントンのバーディパットのミス、優勝を意識した丸山の10番からの失速。さまざまな要因が絡んで、絶好のコンディションにもかかわらず他の選手のスコアは6アンダーまでしか伸びなかった。
 アーニー・エルスのスタート時のスコアは5アンダー。このコンディションであれば、7アンダーを超えることは決して難しいことではなかった。実際、エルスは一時8アンダーまでスコアを伸ばし、栄冠は手の届くところにきたかに思われた。ところが・・・
 ボギーのあと、ショートホールでグリーン脇からのアプローチが向こう側にこぼれ、さらにアプローチが寄らず、ダブルボギー。一気に5アンダーまで落ちた。しかし、ここから1つ拾って、6アンダーでホールアウト。なんと4人によるプレーオフとなった。四日間72ホールの死闘を演じて、全く同じスコアが4人。何とも言いようのないドラマだった。
 4人は4ホールを競った。4ホールで唯一人バーディーがなかったのがエルスだった。常識であれば、4人のプレーオフでノーバーディで勝てるわけがない。ほかの3人がバーディーをとっているのであれば尚更のことだ。ところが、2人の選手が2つボギーを叩いた。最終ホールまで1アンダーと栄冠に一番近い位置にいたフランスのレベもまた最後にボギーを叩いた。エルスは、ノーバーディで、レベとの最終決戦に突入した。
 エルスがアイアンで会心のティーショットを打つと、レベはドライバーをもち、リスク覚悟で渾身の力をこめた。ボールは無情にもフェアーウエイ・バンカーにつかまる。万事休した。エルスが2オンすれば、栄冠はもうエルスのものだった。しかし、人の心は弱いものだった。目の前に栄冠がチラついたエルスは、2打目をグリーン横のバンカーに叩き込んだ。難しい場所。勝負の女神はレベに微笑んだ。レベはバンカーから強気で前を狙い、フェアーウエイをキープすると、第3打でグリーンをとらえた。次は、エルスの番だった。
 エルスのバンカー・ショットは、エクセレントだった。柔らかく、正確だった。191センチの長身を窮屈そうにかがめた構えからすくい上げた一打は、最後に見せたパーフェクトなショットだった。レベがパーパットを外し、ボギーでホールアウトしたあと、エルスは1メートルほど残ったパットを沈めた。プレーオフ5ホール目のパーだった。我慢に我慢を重ねたアーニー・エルスは、プレーオフすべてパーで全英オープンの栄冠を獲得したのだった。その線の細さとギリギリでの持ちこたえがあまりにも神々しかった。






  2002/7/17(Wed) <習慣>

 夏とともに更新のペースが落ちていて、ほぼ週刊ペースになっている。何事も習慣だとは思うが、せめて終刊にならないように細々とつないでいくのがやっとこさである。この夏、研究棟の改修があるので、研究室の引っ越しをしなくてはならないのだが、日頃の行い(いや、整頓)が悪いせいか、ものすごく時間がかかる。片づけの作業に入ると、やりっぱなしの仕事の山にいやおうなく直面させられ、これまで迷惑をかけてきた人たちの顔が浮かんできて、反省することしきりである。
 この1週間、引っ越し作業に加えて、授業の〆の飲み会、ゼミのプレ合宿、卒業生の授業参観などがあり、ほんとうにバタバタしていた。しかし、その合間に、引っ越し作業で発見した昔の学生のレポートなどを読み、何かしらうるっときたり、その成長に目を細めたりすることもあった。こんなことをしているから片づけも進まないのだけれども、これも自分であるから受け入れていくしかないかとも思い、また明日からの片づけに向かおうとしている。






  2002/7/11(Thu) <暑い暑い>

 台風一過の晴天。台風とともに南国の夏がやってきたようでやたらと暑い。今日は補講のあと、学生たちと国分寺を散策しようと考えているが、この暑さだと卒倒する者が出はしないかと少々心配である。
 人の心配はともかく引率者が卒倒していては話にならないので、帽子を買ってきた。帽子は好きでいろんなところで衝動買いをするのだが(ベトナム・カンボジアでは3つ買った)、ヘンなものばかり買うので、日常生活で使えるものはほとんどない。というわけで、まあ日頃使えそうな帽子を手に取ったが、Mでは入らない、Lでも入らない、仕方がないのでLLを買った。今流行らない頭でっかちというヤツだ。頭に釣り合うボディーがあれば、185センチはあるスラッガーになれたのにと思いつつ、LLの帽子(ハット)をかぶって、国分寺散策に出かけるのであった。






  2002/7/8(Mon) <シャガール展>

 土曜日、上野の東京都美術館でシャガール展を観た。日曜日までということもあって、会場はとても混んでいた。入場制限が行われており、整理係の人が15分待ちの立て看板をもっている。これはいかん、レストランで食事をしながら人が減るのを待つかと思ったが、レストランも階段まで行列だった。そこで、どうせならぶのなら、展覧会のほうがましと、シャガール展の最後尾にくっついた。
 山口の萩で美術館に入ったとき、お客は私だけかと思うほどすいていた。客よりスタッフのほうが明らかに多いので、これでどうやって運営しているのかと心配になったほどだ。これと比べて、東京のシャガール展があまりにも賑わっているので驚いた。実物を観たのははじめてだったが、シャガールの世界は、子どもの無意識をえぐり出すような迫力があった。シャガールは、普通の人間が観てしまったら気が狂ってしまうような世界を生涯観つづけた画家だったのだろう。色彩のあざやかさもほかに類がなく、ならんで観ただけのことはあった。
 その日の夜、とある会合で、入場制限の話をしたところ、15分、20分待ちなど、東京では珍しいことではないと言われ、またまた驚いた。さらに、家に帰ったら、同居人に「雪舟展」はもっと混んでいて、満員電車なみだったと言われた。そういえば、今朝、人々の通勤時間帯に車で大学に向かったら、15kmの道のりに1時間15分かかった。山口では1時間15分あれば70km走れた。何かヘンなのかもしれない。






  2002/7/4(Thu) <後日談>

 賞味期限の後日談。HPを見た同居人は、ギョッとしたとのこと。あのヨーグルトは同居人が買ったもので、ずっとちらちらと冷蔵庫を見ては気になっていたらしい。しかし、触らぬヨーグルトにたたりなしとばかりに、捨てることもなく、1ヶ月が過ぎ去っていた。まさかあのヨーグルトを、それも3つも食べたとは、と唖然としていた。
 そして、一方の私は、最近、いろいろと同居人に罪をなすりつけていたこともあり、賞味期限切れのヨーグルトを見て、犯人は自分に違いないと勘違いして、あわてて食べてしまっていた。またまた勘違いであった。気をつけよう、勘違い。気をつけよう、食中毒。7月の標語でしたとさ。ではまた。






  2002/7/3(Wed) <賞味期限>

 冷蔵庫をのぞいていたら、3つがパックになったヨーグルトが出てきた。賞味期限をみると、6月7日と記されている。ほぼ1ヶ月過ぎている。6月は、同居人も私も忙しく、ついついヨーグルトの救出に手間取ってしまった。もうほかにはないかと、冷蔵庫を見たら、もう1つヨーグルトが出てきた。こちらの賞味期限をみると、6月28日と記されている。5日ほど過ぎている。さて、それから私が何をしたかというと、6月7日という賞味期限が記されていたヨーグルトを3つ胃袋におさめた。おかげでお通じがよくなったが、ほかには何ごともなく時は過ぎ去った。賞味期限も、人間の身体もあんがいしぶといものだ。






  2002/7/1(Mon) <宴のあと>

 横浜での決勝戦、ブラジルとドイツ、南米と欧州の強豪のはじめての対決、最高のシチュエーションで最後の試合は行われ、そしてワールドカップは幕を閉じた。苦節を乗り越え、名実ともに世界のスーパースターの仲間入りをしたロナウドと、最後のわずかのミスに泣いたカーン、虚飾をすべて取り払った真剣勝負には、心打たれるものがあった。
 そして、一夜明け、6月も終わり、ワールドカップも終わり、雨の月曜日。宴のあとの虚脱感が身体にまとわりついている。以前から楽しみにしていた日韓のワールドカップは、期待以上の面白さと充実感を与えてくれるものだった。日本代表ばかりに大騒ぎをしている感のあったNHKの放映とはズレて、日本中にはさまざまな国を応援するサポーターがいて、社会の成熟を感じることができた。日本代表でも楽しめたけれども、韓国代表の快進撃でも楽しめ、カメルーンと中津江村のほのぼのエピソードでも楽しめ、ベッカムのカッコよさでも楽しめ、カッコいいとは言い難いカーンのカッコよさにも感動し、ブラジルのファンタスティックなサッカーにも感動し、去りゆくジダンの後ろ姿に思わずほろりとした。このようなさまざまな楽しみ方を、私たちがいつの間にか身につけていたことが思いもかけない気づきだった。少なくとも私の中では、日本代表が負けても、ワールドカップへの関心は冷めることはなかった。
 夢を見たあと、再び終わりなき日常がやってくるけれども、おそらくこれまでの日常とは違ってくるだろう。ほんものを見たという感覚は、どこか深いところで私たちの社会のものの見方に影響を与えたに違いないと思うからだ。テレビの放映で、スタジアムからの映像に感銘を覚えたが、スタジオの映像に切り替わると失望を感じることが多かった。そして、これまでのメディアを通した私たちのものへの触れ方は、スタジオからの映像そのものだったと気づかされた。生の体験に出会い、自分でその重さを感じ、その感動をことばにするのではなく、使い古された解説のことばをただなぞるだけの触れ方、こうした触れ方からは私たちの経験、学び、ことばは生まれてこないだろう。
 ワールドカップを通して、私たちが感じとったスタジアムの迫力は、おそらく私たちの経験のありようを大きく変えていくに違いない。宴は昨日で終わったけれども、宴のあとからが宴の意味がほんとうにかたちになっていくのだ。






  2002/6/29(Sat) <蹴球>

 昨日、会議中に腕時計を見たら、6月27日(Tue)となっている。2100年まで正確な曜日を刻むといううたい文句の時計だったのにわずか数ヶ月で狂うとは何てこったといらだつ。そして、試行錯誤して曜日を直そうとするが、直し方がわからず、これまた曜日一つ直すことができないとは何てこったといらだっていたところ、基準時計がロサンゼルス時刻になっていたことに気づく。アメリカ西海岸ではまだ昨日(今日からみると一昨日)だったのだ。基準時計を東京に戻すと、あっさり曜日は6月28日(Fri)となった。またもやおっちょこちょいだった。だいたい私の場合、いらだったときの3回に2回は私の勘違いであり、責任は自分にある。いろんな人に迷惑をかけてきたと改めて思う。今更ではあるが、穴があったら入りたい気分である。
 さて、ワールドカップは佳境にさしかかっているが、大学も前期の第4コーナーにさしかかり、最後の締めが待っている。ということで多忙なときを過ごしていて、ほぼDailyのはずがときたま更新になってしまっている。蹴球というタイトルでサッカーについて何か書こうと思ったけれども、頭が働かないので(現在、2時22分、2が揃った!! さっき帰宅したばかり)、また今度! おやすみなさい。






  2002/6/25(Tue) <進撃>

 ワールドカップでは、韓国が準決勝進出と破竹の快進撃を続けている。日本を破ったトルコもまた準決勝に進出し、欧州と南米の独占状態であったワールドカップサッカーで明らかな異変が生じている。トルコは地区予選では欧州に所属するが、トルコ人は欧州人ではない。したがって、純然たる欧州(とは一体なんぞや?)からの四強進出チームは、わずかにドイツだけ。このことがイタリアをはじめとするヨーロッパ列強のいらだちを生んでいるようである。
 イタリアからFIFAへ40万通に上る韓国戦の判定への抗議があったというので、イタリア対韓国の試合をビデオで観たが、明らかに試合内容は韓国が押していた。ゴールと思われるプレーが取り消されたスペインはともかく、イタリアの不平は言いがかり以上の何ものでもないだろう。判定への抗議というなら、ドイツ対アメリカの試合では、アメリカの選手の決定的なシュートがドイツの選手の手でかき出されているし、伝説となっているマラドーナの神の手をはじめ、これまでにもいくつもの誤審があった。サッカーのようなスピーディなスポーツでは誤審がつきものであり、審判の肉眼をあざむくことさえも、選手の技術の高さとして、さらにはチームの試合運びの巧妙さとして、高く評価されてきたはずなのだ。
 それが今回、突然の“正義”のお出まし。もちろん、この“正義”を額面通りに受けとるわけにはいかない。ということで、人種差別という視点が持ち出される。黄色人種に真剣勝負で負けたということを認めることができないのだ。だから、イタリアは負けを否認し、審判のせいにしようとしているのだ、と。しかしながら、誰が大騒ぎしているのかをよく見てみよう。大騒ぎの最初の人物は、イタリア・セリエA、ペルージャのガウチ会長。いわずとしれたサッカーで大儲けをしている人物だ。中田英寿選手をトレードして一体どれくらい儲けたことだろう。ガウチ会長だけではない。大金が動くサッカー界では、放映料も桁違いに跳ね上がっている。多額の出費によって放映権を獲得したイタリアのテレビ局、欧州のテレビ局にとって、欧州チームの成績は死活問題なのである。
 サッカーの放映権は、先物取引のようなものである。自国の成績がわかる前に購入しなければならない。好ゲームだったセネガル対トルコの準々決勝だが、このカードに欧州の人々がどれだけ盛り上がったことだろうか。イタリアは韓国を下せば、次はスペイン、そして次はドイツ、最後には(おそらく)ブラジルが待っているはずだった。これらのカードが組まれれば、イタリア人がどれだけワールドカップに熱中したことだろう。そして、テレビ局がどれだけ潤ったことだろう。このように考えると、イタリアの怒りは、人種差別でもなく、金にまみれたサッカー商人たちの生死のかかった地点から生まれていると推察できる。サッカー商人たちはメディアを握っているから、メディアを通してプロパガンダ(宣伝)をすることができる。そして、不当な判定というイメージを植えつける。そのときに、“正義”をてっとりばやく手に入れるには、人種差別的なイメージも喚起させるのも有効な手段だろう。
 イタリアは第三国での韓国との再戦(リベンジ)を希望しているとのこと。たしかに仇敵との再戦ができれば、放映料の一部を取り戻すことができるだろう。しかし、たかがサッカー、球蹴りなのだ。世界中がお祭りに酔いしれればよい。お祭りは俗世の損得を忘れるところに醍醐味がある。こうしたお祭りで儲けて、一生を楽に過ごそうなんていう考えがあまりにもせこい。サッカーの収益金は、サッカーで使ってしまおう。世界の子どもたちにFIFA公認のサッカーボールをプレゼントする。こうなると、アディダスはほくほくだろうが、まあそれはそれでいい。






  2002/6/21(Fri) <学校>

 午前中、実習校を訪問して、午後、授業を行うような忙しい日々が続いている。しかしながら、このような生活をしながら気づいたことなのであるが、私は学校というものが好きなのだ、そして、授業というものが好きなのだ、と。実習生の授業は荒削りではあるけれども、そこには権威的なものがないから、子どもたちのつぶやきが沸き上がってくる。実習生の真摯な態度への応答でもある子どもたちのつぶやきは、教室を生き生きとした空間に変えていく。こうした場を共有できたとき、何かしら大きな幸せを感じることができる。
 学校を好きだと書いたけれども、私は子どもだった頃、学校を好きだと感じたことはほとんどなかったし、授業を好きだと感じたこともほとんどなかった。だけど、今、学校という場をいとおしく思い、授業という場に大いなる可能性を見ている。今日は越後湯沢。今日で6月の教育実習行脚の旅が終わる。






  2002/6/18(Tue) <帰京>

 大学時代の北海道自転車旅行、結婚式、新婚旅行など、要所要所で必ず雨と遭遇してきた雨男の私だが、なぜか今回の列島縦断の旅では、雨と無縁だった。台風4号とは新幹線ですれ違い、列島のほとんどが雨に見舞われていたとき、ぽっかりとそこだけ晴れていた山口の日本海側にいた。ホテルで火事騒動があり、あわやという場面もあったけれども、またもやしぶとく生還。列島各地の学校にて実習生たちも大いに健闘していて、嬉しいかぎりであった。仕事の合間に、山口県の長門市・仙崎の海と、萩の屋敷に、心落ち着ける場所を見つけ、そこで長い時間を過ごした。そこにたたずみながら、旅とは、自分にとって特別な場所を探す営みではないかと思った。ガイドブックを手がかりにし、そこをなぞりながらも、人気ナンバーワンのスポットを超えて、自分にとってオンリーワンの場所を見出すこと、これが旅の楽しさではないかと思う。外は雨が降っている。






  2002/6/9(Sun) <出立>

 6月とは信じられないような爽やかな日曜日だった。清瀬からは西の空にくっきりと富士山が浮かび、台風一過のような青空が広がっていた。柳瀬川のほとりを歩くと、そこはバーベキューを楽しむ家族連れでにぎわっていた。ふと、あのときのおたまじゃくしはどうなっているのだろうかと思い立ち、以前この欄でも紹介した「緑の森博物館」まで足をのばした。
 残念ながら、そこにはかえるたちはいなかったのだが(おそらく夜になると鳴き声とともにあらわれるのだろう)、おたまじゃくしと小魚、ざりがに等が棲息していた。緑の空気をいっぱい吸って帰宅。そして、明日からの旅支度。今回はパソコンを置いていくことにした。旅の手触りを求めて。とくに楽しみなのは、山口・長門市仙崎。金子みすずのふるさと。私にとっては高校1年の3月以来の長門路になる。
 というわけで、1週間、HPの更新はお休みです。メールの返事も1週間後になります。それでは、ワールドカップ熱にお気をつけて、お過ごし下さい。






  2002/6/7(Fri) <縦横無尽>

 梅雨のような5月が去って、爽やかな6月がやってきた。ワールドカップは梅雨の時期で心配されたけれども、これまでのところ、ほとんど雨の影響はないようだ。爽やかな6月というのも何かヘンだけれども、何にしても気持ちのいい季候はありがたい。
 来週は列島縦断の旅。とはいっても、ひたすら西へ向かうわけなので横断というべきだろうか? アメリカ大陸なら東西は間違いなく横断、しかし、細長い日本列島では縦断というのがふさわしい気がする。広辞苑によると、縦断とは「たてにたちきること。/たて、または南北の方向に通りぬけること。」とあり、横断は「横に断ちきること。/横または東西の方向に通過すること。」とある。これによれば、横断が正しいようだ。しかし、私の言語感覚では、山形から宮城に抜けるのは横断でも、東京から佐世保に向かうのは横断とは言えないような気がするのだが、皆さんはいかがだろうか?
 東京湾に手をつけてから長崎で東シナ海に手をつけるまで歩いていけたら素敵だな、なんて思っているのだけれども、品川あたりで行き倒れになるのが関の山なので、電車での旅になりそうです。それでは、ごきげんよう!






  2002/6/5(Wed) <日が長い>

 ワールドカップが面白いので身がもたない。いろいろぶつくさ言いながらも、昨晩、日本VS.ベルギーの試合をテレビで観戦。後半のドラマチックな展開にもう娯楽の域を超えて、終わった頃にはへとへとに疲れていた。それからクールダウンするのに数時間。昔から興奮しやすいたちだったけれども、相変わらず悪癖が残っていた。あんなに面白いものがあるのに、大学では授業なんて、学生も、そして教員も気の毒だ。
 ワールドカップ・サッカーは究極の娯楽、いや、娯楽を超えて麻薬といえるかもしれない。世界公認の麻薬にひたりつつ、どこかは醒めていたいものだ。さて、今日は醒めたニュースを二つ。
 一つ目は、防衛庁の個人情報リスト作成問題について。報道によると、「自民党の国防部会、安全保障調査会などの合同会議が4日午前、党本部で開かれ、防衛庁の個人情報リスト作成問題が取り上げられた。森岡正宏衆院議員が「リストを作るのがなぜ悪いのか。むしろ、なぜ情報が(マスコミに)漏れたのかが問題」と発言すると、出席していた伊藤康成・防衛事務次官は「『漏らしたやつが悪い』というのは、まさにその通りです」と応じた」とのこと。自らの権力の行使に敏感であるべき、政府・行政の人間の人権感覚がこんなものであるとは情けない。メディア規制法の前に、政府・行政を規制する法案の作成が急務ではないか。
 二つ目は、右翼の街頭宣伝車問題について。毎日新聞の報道によると、「日本道路公団(JH)管理の高速道路で右翼関係者の街宣車が、正規の半額近い軽自動車料金で通行しているケースが全国的に常態化していることが4日、JHの調べで分かった。JH関西支社は、大阪府内の料金所で5月、街宣車3台が軽自動車分の料金しか払わなかった場面をビデオ撮影するなど、近畿2府4県内の料金所で同様の被害について確認し、近く被害届を提出する。JHはこれまで街宣車を事実上優遇してきたことを認めている」とのこと。右翼関係者によると「国のために右翼をやっているという理由で、街宣車は10年以上も前から軽自動車の料金で高速道を利用してきた。何ら抵抗されることはなかった。(公団側は)黙認してきたはずだ」と証言しているらしい。
 一体、この国はいつの時代のどこの国かという疑問が湧いてくる。さらにこの問題が持ち上がったのが「5月20〜24日の国際捕鯨委員会(IWC)総会に合わせ同18〜19日、山口県下関市に全国から集まった街頭宣伝車約100台が、正規より安い高速道路料金しか払わなかった」ことがきっかけというのも驚きである。街頭宣伝車に囲まれちゃあ、国際捕鯨委員会総会が成功するわけないか。さらに値切った街頭宣伝車では、迫力も薄れる。いやはや、日本代表の熱狂的なサポーターでもちゃんと入場券代を払って、スタジアムに入っているのに。いや、お金を払っても入れない人だって、またお金を払って国立競技場で応援しているのに。
 祭りの夜に、祭りの裏で起こっている醒めたニュースを二つほど。ピッチの上の選手にばかりフェアープレイを求めるのではなく、ピッチの上の審判にばかりフェアージャッジを求めるのではなく、ピッチの外でもフェアープレイ、フェアージャッジを求めていきましょう。ああ、6月は日が長い。






  2002/6/4(Tue) <ハレとケ>

 幼い頃を思い出してみると、そこには淡々とした日常の原野が広がっていたような気がする。もちろん、幼い子にとって、毎日はドラマであり、日々、自分にとっての大きな発見があったにちがいないのだが、自分の外側には淡々とした世界が広がっていた。1980年代、そして1990年代に入り、淡々とした日常に騒々しい祭りがわが物顔に侵入してきた。世界がメディア化されてきて、イメージ化されてきたのと歩を合わせるように、過剰な祭りとドラマが日常を侵食しているように思われるのだ。
 おそらく生と死の肌触りが生活から消え去り、働く喜びがルーティン化された労働に取ってかわられ、日常が限りなく希薄化していることが、過剰な祭りとドラマを求めるようになったのだろう。祭りは一生に一度のことと人々を煽る。しかし、私たちが生きているこの日常もほんの一こまもまた一生に一度っきりのことである。その日常をていねいに生きていけばよい。日本VS.ベルギー戦の視聴率はおそらく60%を超えるだろう。しかし、その時間も淡々と日常を支えてくれる人々が数多く存在している。喧騒の中にあっても、その人たちに向けるまなざしをもちたい。






  2002/6/3(Mon) <6月>

 終わらないのではないかと心配した5月がついに終わり、6月に突入した。ワールドカップはお家芸のチケット騒動も始まり、ピッチの外でも盛り上がっているようだ。前々から狙っていたイングランドVS.スウェーデン戦は期待通りの好ゲームとなり、スタンドから観ることができなかった不運を嘆いたが(チケットを申し込みながらも、登録番号を控えるのを忘れて、当たったのか当たらなかったのかさえも迷宮入りしてしまったのである)、試合が終わると、混雑の中で家路につかなくてもいい幸運を喜ぶような日和った人生を生きている。
 視聴率の予想では、日本VS.ロシア戦は68%にも到達する勢いだという。日本のサッカーファンの人数からすると、これは明らかにバブルである。バブルを信用していない私からすると、怖いのは宴のあとである。ワールドカップの盛り上がりが、サッカー、そしてスポーツへの親しみにつながっていくのか、それとも、サッカー熱は瞬く間にさめるのか。
 私が望んでいるとは、立派なスタジアムができた自治体では、ワールドカップのあと、ぜひとも、そのスタジアムを子どもたちや地域の人々に開放してほしいということである。エムボマが、ベッカムが、バティストゥータが、駆けまわった同じピッチに立つこと、これは子どもたちにあこがれを喚起させるだろう。県大会を勝ち抜いた者たちだけがピッチに立てるなど、みみっちいことはやめよう。すべての小学生がスタジアムでボールを蹴ったり、ごろ寝をしたり、芝生のありを観察したり、ゴールポストで懸垂をしたり、できるようにしてほしい。もちろん、一校につき一日でよい。無条件に子どもたちにワールドカップの土を、芝を味わってもらいたいのだ。一粒の種をまくこと。これは68%の視聴率よりもずっと大事なことである。






  2002/5/30(Thu) <マラドーナ>

 いよいよワールドカップの開幕が明日に迫ったが、1982年スペイン大会から見続けてきた私が最も愛する選手は、アルゼンチンのスーパースター・マラドーナである。育ちのよさと風格を感じさせるブラジルのジーコとは対照的に底辺からのしあがってきた暴れん坊のマラドーナに、なぜかしら私は親近感を抱いた。1982年スペイン大会では相手チームの厳しいマークにあって、キレるわ暴れるわで散々だったFWのマラドーナが、1986年メキシコ大会ではMFとして一回りも二回りも大きくなって戻ってきた。イングランド戦での神の手のゴール、7人抜きのゴールで世界中を驚かせたのは、この大会であった。アルゼンチンを優勝に導いた小さなスーパースターはキラキラと輝いていた。
 さて、このマラドーナが日本に入国できずに悲しんでいる。薬物使用の前歴があるからである。日本というのはすばらしく潔癖な国のようで、国民の税金を私物化しているムネオ議員は議員であり続けても、薬物使用の前歴のある人物は入国できないようである。素人考えでは、入念な持ち物検査をして薬物を持ち込ませなければ、何ら問題はないように思われるが、断固たる対応にはおそらく深い深いわけがあるのだろう。そのマラドーナは、日本入国ができないことを悲しみ、「誰も殺したりしないし日本の法は守る。原爆なんか落とさない。日本を守るためなら(原爆を落とした)米国の選手の入国を禁じるべきだ」と叫んでいるらしい。私にとっては、消費者金融のCMにさわやかに登場する紳士・ジーコよりも、悪態をつくマラドーナのほうがずっと人間らしいと思うのだが・・・






  2002/5/29(Wed) <原風景>

 風邪をひいてしまったけれども、ワールドカップとほぼときを同じくして教育実習シーズンが幕を開けた。ワールドカップと教育実習が重なるとは何とも悲しい限りだが、私のような怠惰な人間にとってワールドカップと夏休みが重なればどうなるかは一目瞭然なので、忙しい季節にイベントが来たこともよしとしよう。それはともかく、月曜日ゼミが終わったあと、風邪を連れて羽田空港へ。JALの最終便で大分に向かった。
 ANAのコンピュータ・トラブルなどもあり、40分遅れのフライトで、気流も悪く、風邪のせいでもあったのか、うまく耳抜きができず、耳が痛くなった。しかし、学生が空港まで迎えに来てくれ、一気に疲れも吹き飛んだ。そこで次の日に備えて早く寝ればいいところを、またもや話し込んでしまい、翌朝はつらかった。それでも、国東半島の空気はおいしく、夜空もきれいで、気持ちが和んだ。学校を訪問し、そこでも懐かしい高校生たちと出会うことができた。私たちの時代と同じような高校生たちがそこで学んでいた。
 昼過ぎの飛行機で帰京し、わずかな旅は幕を閉じた。実習生はほんとうによくがんばっていた。しかし、私にとっては、自分自身に重く大きな問いを突きつけられる旅となった。16年前、私は自分が受けてきた教育への怨念をもって、故郷を去り、上京した。そして、「勉強」文化とあらがう学びを続けてきたつもりだが、自分の中に巣くっている「勉強」文化があまりにも根深い上に、「勉強」文化のあとに来るはずの「学び」の文化のイメージがあまりにも微(かす)かなのである。
 私が国東半島で感じた懐かしさは、私の育った文化に対する懐かしさでもあった。そして、私は自分がディアスポラ(=故郷喪失者・二重生活者)であることを改めて感じた。私は共同体の懐かしさに身を委ねることもできない。しかしながら、同時に、インテリゲンチャの文化である「学び」の文化にすんなり入ることもできない。私には、このどちらかに属することによって安定するという道はなく、これらの2つの文化を行き来しながら、そのしんどさに耐え、生きていくしか方法はないのである。このディアスポラのしんどさを自分の強さにできるか、それともディアスポラなこうもり(=ご都合主義者)に終わるかは、これからの自分の歩みにかかっている。






  2002/5/27(Mon) <背景>

 これからいよいよ多忙な生活が始まるというときに、風邪をひいてしまった。まさにスタートの前にこけた感じである。スタートの前にこけるといえば、ワールドカップ期待のスターたちが軒並みこけている。イングランドのベッカムに続いて、フランスのジダンも怪我ということで、最高の試合を期待する者たちにとっては、寂しいかぎりである。
 ブラジルの10番を背負うリバウドは、代表チームで常に批判の矢面に立たされてきた。ペレやジーコといったこれまでの10番と比較されながら。このことはもちろん、ブラジルの10番に対する人々の期待のあらわれでもある。ところで、リバウドは「Number誌」のインタビューにおいて、過密スケジュールの中で最高のパフォーマンスを発揮することがとても困難になっているという趣旨のことを述べている。人々は試合の内容、結果を気にする。しかし、どこにも選手のスケジュール、おかれた背景について気にする人はいないと。
 土台となる生活、ゆとり、準備期間がなければ、高いパフォーマンスは生まれない。サッカーの商業主義は、その結果としてスーパースターを失うという大きなパラドックスを抱え込んではいないだろうか。ワールドカップ開幕まであと4日である。







  2002/5/24(Fri) <カンシン>

 更新が滞っていて、申し訳なし。我慢比べのシーズンに差し掛かってきた。これから教育実習の巡回の季節、来週は通常のスケジュールの中に大分への往復を入れなくてはならず、しんどい。もちろん、学生の実習を見ることと、さまざまな学校を訪問することは楽しみであるが、強行軍を乗り切るのは、身体(と心)との闘いである。今回の遠征の移動距離は、ざっと見積もって4000km超、ちょっとした旅である。
 疲れているながらも、昨日の総合演習の学生の発表が面白かったので、機嫌は悪くない。学生の発表に一喜一憂している場合でもないが、これからの教育を担う学生たちがいいセンスを見せてくれることは、大きな喜びである。なぜならば、子どもの学び、若者の学びは、これからの社会を築く希望だからである。「ものごとを変える、変えることができる、という意志と希望を失ったとき」、教育は抑圧と馴化の行為の手段になると、パウロ・フレイレは言っている。生きるということ、学ぶということは、ただ今ある世界に適応していく営みではない。よりよい世界を目指し、よりよい自分を目指し、よりよい他者との関係性をめがけて、挑戦していく試みである。だから、学びが適応と同義になったとき、学びはよどみ、社会もよどんでいくのだと思う。そう考えているから、学生には大いに物事の意味をずらし、場所を再定義し、果敢に挑んでもらいたいのだ。よどみにあらがって生きていくために。
 本を読んでさっぱりわからなかったといった学生が、最もその本の深い理解を示してくれた。わかったようにふるまうこと、無理矢理わかろうとすること、こうした行為より、わからない自分を偽らずに、そのわからなさを深めていくことのほうが、ずっと面白く、意味がある。こうしたことに私が気づくようになったのは、つい最近のことであり、大学生でもう気づいている学生たちを素直にすばらしいと思う。私は鋭いことばをもたず、ただ学生に感心する教員である。そして、他者に対して関心をもち、他者に感心する人間であり続けたいと思っている。他者の歓心を買いたい下心を諫めつつ。






  2002/5/20(Mon) <誤爆>

 土曜日の毎日新聞の記事によると、アフガニスタンで行われた結婚式に、アメリカ軍のヘリコプターが爆撃を加え、死者10名が出たとのことである。結婚式の祝砲を攻撃と勘違いしたアメリカ軍による誤爆だったそうだが、とんでもない事件であることは間違いない。
 しかしながら、ひじょうに気になるのは、アメリカサイドからの報道の大きさに対して、アフガニスタンの犠牲の報道の小ささである。例えば、炭素菌の事件のときは、新聞一面で大きな報道がなされ、日本の郵政省も警戒態勢をとった。しかしながら、今回の結婚式の誤爆という、人生最大の喜ばしいイベントに集った人々を大いなる悲劇に突き落とすような非「人道的」な事件は、小さく国際面で扱われたに過ぎない。いや、今回の問題はまだ報道をされただけましであり、報道をされない「誤爆」がいくつも存在することは容易に想像できる。この明らかな非対称。
 もし、アメリカ本土で自爆テロが起こり、結婚式に列席していた人々が10名が亡くなるという事態が発生したら、どうなっただろうか。おそらくテレビでは何度も何度も、その映像が繰り返し流され、人々が深い悲しみにくれ、大統領が力強く、この非「人道的な」事件を憤り、「正義」のために報復を誓うシーンが映し出されることだろう。
 非対称な私たちの認識を、少しでもバランスのとれたものに回復にしていくこと、これがうめき声を上げている人々の苦しみを最小限のところでとどめる道だろう。さまざまな場所から命懸けの発信をして下さる方々に感謝するとともに、小さな気づきをそのままにせず、発信していくことが大切であると、今思っている。






  2002/5/18(Sat) <当落>

 昨日、ワールドカップ日本代表のメンバーが発表された。これまでがんばってきたにもかかわらず、惜しくも選ばれなかった選手のことを思うと、たしかに気の毒に感じられる。だから、多くの人々やメディアが選考に対して、異議申し立てをしているようである。私も、おそらく自分自身が仕事をはじめる前であれば、メンバー選考についてきっとあれこれ言ったことだろう。そして、いろんな厳しい批判も、これが日本のサッカー文化を育てていくものであるならば、もちろん避けるべきものでもない。
 しかし、思うのだ。選んだトルシエ監督にかかった重圧は想像を絶するものではなかったかと。ほぼ4年間、選手たちとともに時間を過ごし、たたかってきたトルシエ監督にとって、23名を選ぶというのは、決して楽な仕事ではなかったはずだ。だから、私は、選考結果をあれこれ批評する前にトルシエ監督の重圧について記した毎日新聞の記者に、大きな感銘を受けたのである。あるいは、毎日新聞が、積極的に署名記事にチャレンジしていることが、このような記事を生み出したといえるのではないだろうか。
 サッカー日本代表をトピックとする掲示板を読んだ。そこには匿名の暴力が氾濫していた。匿名の暴力は決して責任をとらない。弱い者の暴力である。もちろん、応援していた選手が選ばれなかったことに対する悲しみを表現することは誰にもはばかることはない。しかし、脅迫、攻撃をするのは、悲しみに向き合えない心の弱さであることをわきまえなくてはならないし、メディアがこうした感情を煽るのは一種の犯罪であるということを心に止めておかねばなるまい。
 もう一つ、最近のNHKのニュースをみて、繰り返し繰り返しある映像が流されていることに気づかされた。中国・瀋陽の日本総領事館内連行事件の映像である。ヒューマニズムに訴えかけてくるような強烈な映像である。しかし、これまで日本政府は諸外国からの亡命者にやさしい対応をしてきただろうか。つい先日も、アフガニスタンからの難民を強制送還したこともあったではないか。なのに、なぜ、ここでいきなりヒューマニズムをかきたてる映像が登場するのか。もちろん、この映像が頻繁に流されるのには、ある意図が背景にあると考えることができるだろう。それはおそらく、これから審議される有事法案等にもつながっているだろう。毎日新聞によると、小泉首相は、総領事館内連行事件の民主党調査団について、「日本側の非をあげつらって駄目だ、駄目だと言うのは、あまりにも自虐主義じゃないか。」と強い不快感を示したそうである。あら、小泉さん、日本政府のあれもこれものほころびと、自らの支持率の低下を、ナショナリズムの高揚でごまかそうというの? 誰も非をあげつらうつもりもない。ただ、民間にこれだけ苦しみを強いているのだから、税金もらっている人たちも当たり前に働いて下さいと言っているだけ。いや、当たり前に働くことさえも望みません。せめて私たちの生活をぐちゃぐちゃにすることだけは、勘弁願います。






  2002/5/14(Tue) <野いちご>

 庭に生ゴミを埋めに行ったところ、小さな庭に野いちごがたくさん成っていることに気がついた。前の都営住宅の庭は、生ゴミで堆肥をつくり、夏野菜を育てることができるまで土壌が豊かになった。しかし、今のマンションの庭は、もともと芝生だったこともあり、下に砂利が敷き詰められていて、土の改良が遅々として進まなかった。さらに、庭の前に森があるので、日が射さず、野菜をつくっても挫折し続けてきた。そのような庭であるから、あきらめつつあったところ、野いちごと野の花が咲くしっとりした庭になっているではないか。何かしんみりと喜びが湧き上がってきた。






  2002/5/13(Mon) <中庸>

 総合演習で学生たちと映画『12人の怒れる男』を観た。1957年の作品。一人の少年の有罪と無罪をめぐって、12人の陪審員たちが論議する物語である。有罪になると、少年は死刑となる。人の生死がかかった陪審であるが、はじめ大多数の陪審員はむしろ傍観者的であった。それが一人の男の異議申し立てにより、事件が細やかに再現され、これまでの論証が覆されていく。その過程で、個々の陪審員の個人史が浮き彫るというドラマである。
 この映画では、ほとんど一つの部屋しか出てこない。登場人物もほぼ12人の男だけである。さらにモノクロである。したがって、映像効果で何かドラマチックなものが表現されるわけでもなく、細やかなシーンを丁寧に観る力が問われる。細やかなシーンを丁寧に観ると、この映画が実に繊細に作り込まれていることがわかる。登場人物のちょっとした仕草(例えば、鼻をこすったり)がしばしば筋立てを支える働きをしている。
 だが、学生たちには細かい読みとりは難しかったようで、「一人になっても自分の意見を貫かなくてはいけないということを学びました」というような「固い」コメントが多かった。きっと学生たちにとっては、学校という場は自分の感覚よりも、そこで求められる「固い」正答を優先させなくてはならない場所なのだろう。例えば、「扇風機のファンが動きはじめてから、人々の雰囲気は変わった。やっぱり暑いとまじめに考える気はしない」といった素朴な意見も大いに歓迎なのに。「固い」正答とひっちゃかめっちゃか(何でもあり)の現実、これらに股裂かれた学生たちの今は、きっと苦しいものではないかと思う。この中間に、中庸としてのものの見方を育てていくことが、私たちの仕事になるのだろう。






  2002/5/9(Thu) <パレスチナから>

 イスラエルの自爆テロ事件で、アメリカのブッシュ大統領は「あきれてものも言えない」と言ったとか言わないとか。ところで「あきれてものも言えない」のもとの英語は一体何だったのだろうか? 少し調べてみたが、見つからなかった。翻訳でニュアンスが変わることもある。
 9・11以降、世界は明らかに変わりつつある。他者への想像力が曇り、国家のエゴが剥き出しになり、国家暴力が平然と行われるようになってきている。世界のリーダーだったアメリカが、テロという犯罪に対して、報復というカードを切ったために、イスラエルも同じロジックであとにならっている。今、イスラエルのラビン首相のことを思い起こす。もともと軍人でありながら、中東和平の困難な道を歩み、暗殺された偉大なラビンのことを。ラビンは狭き門をくぐろうとした勇気ある人物だった。シャロンとブッシュの組み合わせは、最悪だ。
 テロは断固許せない行為である。しかし、テロに報復という手段で立ち向かえば、両者が同じ次元に立つことは明らかである。それだけではない。もしテロに対して、国家暴力をして立ち向かうならば、国家暴力のほうがより巨悪になると言わなくてはならない。なぜならば、テロはたとえ個々にとっての義ではあっても卑劣な犯罪と見なされ、「テロ」と名づけられた時点ですでに正当化に失敗している。しかし、国家暴力は卑劣な犯罪でありながらも、「テロ撲滅」などの名目での正当化を伴う。正当化された犯罪は剥き出しの卑劣な犯罪より歯止めがかからないのは当然であり、より悪の次元に落ちる。
 かなりの長文になるけれども、知人からイスラエル・パレスチナをこの目で見て、レポートしてくれたメールが届けられたので、掲載したい。日本の戦後処理とパレスチナの戦後処理を同列に扱っている部分は、荒っぽいと思うけれども、現場からの貴重な発信なので、ぜひとも読んでいただきたい。


3月5日から23日までイスラエルーパレスチナに行っていました。 9月のテロ事件のあと、もうパレスチナ問題を無視できない時が来たと 私の中で認識していたのですが、実際にはほとんどその事には触れず テロという言葉に人々が必要以上に敏感になる中で、テロ撲滅の名の もとに戦争そのものがどこか正当化されていく風潮に非常に危機感を 覚えました。

また西欧文化や情報は普通に入ってくるのに対し、アラブやイスラムについて ほとんど情報がないまま、イメージだけが先行している中で、各地の紛争や テロ事件は減る様子もなく、この先アラブやイスラム社会を理解することなしに どんな解決も共存もありえないという気持ちが強まりました。

そんな中イスラエルが、(予感はあったのですが)アメリカと同じ理由を掲げ パレスチナへの侵攻に力を入れ始めました。

出来事としてのニュースは分かりますが、その実態は、日本でテレビや新聞を いくら読んでいてもつかめるものではありませんでした。 私自身、ユダヤ人のこともパレスチナ人も、彼らが朝御飯に何を食べているのか すら知らなかったのですから、この問題について自分なりに分析するための 自分の言葉も経験も持ち得ませんでした。

イスラエルの主張は不透明に感じるものが多く、視点がいつも一つに留まって いたのとパレスチナ側の主張や映像が、イスラエルと同じレベルで 流されることはほとんど無く不満に思っていました。

それなら自分で見てこよう。何もジャーナリストや専門家だけが現場を見る ものとは決まっていません。なかなか届かない情報を指をくわえて待って いるのはもうやめたっと思い,もともと行くつもりだった旅行を 取りやめてパレスチナに向いました。

けれども私がパレスチナ入りした頃は、それまでで最も緊張が高まり始めた時 でした。日本にいるとテロリストや紛争の話ばかりしか届かないパレスチナの 人々と、直接関わって彼らの本当の姿や人々の暮らしぶりを知りたいと 思っても、被害の状況など今起きていることを自分の目で見たいと思っても、 何のグループにも所属していない私が自治区や難民キャンプに行くことは とても難しく思われました。

それでも諦らめきれずUNRWAや国連など公の機関を訪ね歩く一方で、 市民レベルで活動しているさまざまな人を一人一人伝っていくうち、 最後に行き着いたのがNGO団体であるGIPP−PNGO (パレスチナのための草の根運動の会)でした。

PNGOは活動の一環として、なるべく多くの人たちに直接現場を見てもらおうと ナブロスのフランス人女性クロードとラマラのパレスチナ人女性ルナッドが ヨーロッパ方面中心にインターネットで呼びかけていたのです。

それに応えてやってきたフランスのお母さん達の団体8人と、私も一緒に ウエストバンクを廻ることしました。

そして地元のNGO―GIPPの協力の下,自治区のうちのナブロスと、 ジェニン、トウルカレムの難民キャンプや村を訪ねました。

イスラエル側の被害状況や主張が次々と報道される一方で、 パレスチナ側の取材や中継がイスラエル兵の封鎖によって制限され なかなか実態がつかめないことに疑問を持ち、それなら自分の目で 見てこようとここにやって来たことで私たちは共通していました。

ナブロスの知事や、ジェニン、トウルカレムの難民キャンプのリーダー達も 村の人々と共に私たちの訪問を待ち構えてくれていました。

そしてイスラエル軍による占領で被害にあった場所を訪ね歩き、 夫を殺された人や家を焼かれて泣いているお婆さんなど、 一人一人から直接話しを聞いてまわりました。

そこで実際に私が目にしたことは、自分の目で見た後でも信じられない ことばかりで人が人に対して本当にこんなことが出来るのかと、 何度も自分の目や耳を疑いました。

けれども、これは現実として受け止めるしかなく、きちんと他の場所へ 伝えるべき重要な出来事であるという思いがつのっていきました。

この頃もイスラエル軍は、自治区を次々に封鎖占領し、毎日のように ヘリコプターでの空爆と戦車での破壊や爆撃を繰り返していました。

占領は、いつも真夜中に始まりました。 一つの自治区や難民キャンプを、数十台、時には数百台もの戦車で 取り囲み、外部からの進入も一切出来なくなります。

そして必ず行われるのが「テロリスト狩り」と称された14才から50才までの 男性の連行です。 連行された男性は全員目隠しと手錠をされ、服も全部脱がされて腕に 番号を振られます。 イスラエル軍のバスに乗せられ連れ出される映像が、 最近CNNでも流されました。

トウルカレムでは、女子小学校も爆撃を受け、そこが投獄場所として 利用されていました。

トウルカレム難民キャンプのリーダーと投獄され出てきたばかりの ジャマール・イッサさんの話によると、3月8日真夜中過ぎ、キャンプ は60台の戦車と4機のヘリコプターに囲まれたそうです。

ジャマールさんは、明け方の3時半に30人のイスラエル兵に 家を取り囲まれたました。

以下彼の話。

「私の捜索という名目で、イスラエル兵たちはまず両隣の家を取り壊し はじめました。 6時になる頃玄関がノックされ私がドアを開けると、数人の兵が入って来て家族を 一つの部屋に集めました。 私たちの見ている前で家の中のものを破壊し、目の前に3時間座り込みました。 その間ずっと「ここは俺達のものだ!」と怒鳴ったり叫んだり、私を殴ったり しました。

そして私は外へ連れ出されました。他にもたくさんの人が連れ出されていました。 みんな目隠しと手錠をされ裸でキャンプの女子学校に連れて行かれました。 しばらくするとバスが何台もやって来て私たちはフワラというナブロス付近の イスラエル領に連れて行かれ、囚われている間は腕を縛られ立たされたまま 殴られたり叫ばれたりし水も食料も与えられませんでした。その日連行された 男は400人にのぼり、今も100人以上が拘束されたままです。」

今回は6日で戻ってきましたが、これまでも何度も投獄され家を 取り壊されています。

なのに彼は私の方からこのことを聞き出すまで、自分からは 何も言っていませんでした。

この話を聞いたのは、トウルカレムの人々に招かれて町の小さなレストランで 昼食を食べているときがきっかけになりました。

その時わたしは、たまたま6人のPLOのメンバーに囲まれて座っていました。 彼らはとてもシャイで、礼儀正しく、冗談ばかり言っていました。 そして私が日本から一人で来ていることにとても驚いたり、丸い目で日本のことを いろいろ尋ねたり、どんどん食事をすすめてもてなしてくれるのでした。

けれども私がチキンのおかわりを、もうおなかいっぱいだからと笑って断ると、 周りの人がみんなでそのチキンをジャマールさんのお皿にのせて 「おまえは牢獄から出てきたばかりで栄養つけなくてはならないから もっと食え食え!」と冗談を言ったりしていたので投獄の事実を知り、 食後に話を聞かせて下さいと頼んだのです。

どこを訪ねても、占領の方法は同じやりかたでした。 シャロン首相は「テロ対策」と銘打って行っていますが、 実際には学校や病院も爆撃を受けていました。 完全に封鎖し人々を閉じ込めて、男達を連れ出して無抵抗の状況を 作り出していっせいに攻撃をするのです。

ですから、もちろん政府関係の建物や警察署などはめちゃくちゃに 破壊されていました。 そしてたくさんの人が殺されています。 武器も押収していきます。

彼が連れ出された3月8日、トウルカレムでは17人が殺され100人以上が 怪我をしました。 封鎖されたキャンプの入り口では、救急車の進入が戦車によって阻まれ、怪我人を 運び出すことも出来ません。 今月に入って国連が、救急活動の妨害に対して非難をしていましたが、実際には 妨害だけではなく、救急車も爆撃を受けています。 トウルカレムでは、救急車が正面から銃撃され運転手の頭が半分吹き飛び、 アシスタントは入院、もう一台は戦車に直接追突され、グシャリと潰れていました。 この追突の瞬間を捉えた写真をある女性がたまたま撮影し、エルサレムポストにも 載りました。

ジェニンでは、救急車が戦車によって爆撃され、救急センターのデイレクターが 殺されました。センターの方にその時の写真を見せてもらいましたが、頭や顔まで 真っ黒に焼け焦げた姿には面影など何も残っていません。 彼は、9才の女の子を救出に向う途中でした。 けれども救出を待ったまま、その女の子も亡くなりました。もちろんそうなることを 狙って、救急車を攻撃してくるのです。 彼らの意図はテロの撲滅ではなくて、パレスチナ人の撲滅であることがだんだん 分かってきました。 うすうすは気づいていましたが、本当にこの現代社会で、民主主義を唱えている国が 総力を尽してそんなことが出来るとは、どうしてもイメージできませんでした。

私たちは、殺されたデイレクターの家族も訪ねましたが、力なく肩を落としている 年老いた彼の母親にかける言葉もみつからず、ただ手を握り、見つめあうのが 精一杯でした。私は悔しくて背中が震えてしまいました。

ジェニンキャンプでもUNRWA(パレスチナ人のための国際支援団体、 日本もたくさん援助している)の女子小学校を訪ねましたが、もちろん戦車によって 爆撃を受け校庭も校舎も銃弾の跡で穴だらけでした。 フランス人たちは、イスラエルに対して請求書を送ると言っていました。 そして、一番援助している日本の政府は、抗議をしないの?と言いました。

ある女の子が、私にノートを見せてくれました。 彼女のノートは、銃弾を受けびりびりに切り裂かれていました。 そしてその裂け目の間に、まだ弾丸がくいこんだままでした。 彼らは、授業中の小学校を銃撃したのです。たくさんの子どもが殺され 怪我をしています。 もちろん、病院へ運ぶどころか、助け出すことも阻まれます。 助け出そうとするものは容赦なく撃たれてしまうのです。 この日UNRWAのジェネラルデイレクターが駆けつけて キャンプに入ろうとしましたがイスラエル兵はそれも拒みました。

このジェニンキャンプは、わずか1平方kmの土地に15000人もの難民の 人々が肩をひしめきあって生活しています。 皆1948年以降、イスラエルにより土地を奪われ難民となった人々です。

3月4日に占領侵攻され、同じようにたくさんの人が殺されましたが、ここでは 死体をキャンプの外にある墓地に運ぶのを、イスラエル兵によって阻まれました。 それで仕方なく、キャンプの中の可能な場所に埋めて人々はお墓を作りました。

ところがそのすぐ後イスラエル兵は、戦車やブルドーザーでそのお墓を掘り返し 破壊していきました。 私は、掘り返されてまだ間も無いそのお墓の、写真を撮る他に何も 出来ませんでした。

フランス人の母親達が帰国した後、私は一人でベツレヘム、 そしてガザにも行きました。 ウエストバンクの状況を見て、ガザはもっと悲惨であろうことが予想できたので どうしても行く必要がありました。

一人で行動しないように言われていたので一緒に行く人を探しましたが、 見つけることが出来なかったので仕方なくあちらのNGOオフィスの住所 の書かれたメモを一枚もって一人で行きました。

ガザは、エルサレムから車で一時間半程南に走ったところにあります。 朝一番に乗合タクシー(セルビスと言って時間で走るのではなく、 同じ方向に向かう乗客が集まり車がいっぱいになったら出発します。) に乗り込んで待っていましたが、予想通り一人のお客も来ないので、 一人乗りタクシーで向いました。こんな時にガザに行く人などいる訳も ありません。

ガザの入り口は、イスラエルに完全に制圧され大きなターミナルができています。 まるで空港のような厳重なチェックを受け中に入らなくてはいけません。 占領時でなければ外国人である私たちはチェックさえきちんと受ければ たいていは自由に出入りできますが、パレスチナ人は自由に出入りができません。 物資の出入りもイスラエル軍にコントロールされています。

その日ターミナルには、イスラエル兵達と私の他は誰もいませんでした。

さて、ガザの南北を走るメインロードはかつては三本ありましたが、今では 一本しか使えません。 後の二本は、入植者「セットラー」(植民地政策でパレスチナ自治区に不法に建てた 家に住むイスラエル人達のこと)のための専用道路として、獲られてしまっていま す。

パレスチナ人は残りの一本の道路しか使うことが出来ないのですが、それさえ 南北の中間地点カラーラが封鎖されたり、開いていてもイスラエル兵の審査を 受けなくては通れません。

いわゆるチェックポイントです。

今は占領のことを取り上げられることが多いのですが、占領時でなくても実は チェックポイントによるこの封鎖こそがパレスチナ人の生活に壊滅的な打撃を 与えています。

これにより観光客はもちろん人の流れも物資の流れも制限され、街は活気を失い 人々の心は荒んでいきます。

生活に使う水と、病院では特に酸素や輸血用の血液が深刻に不足しています。 農作物の収穫期には、収穫のために農場へ出るのを故意に阻まれ作物が 腐るまでそれは続きます。ですからガザでは、世界一の人口密度にまで 追いやられた狭い土地の中で農場や牧場を確保し、自給自足に近い生活を 強いられています。

しかしガザ国境付近にイスラエルは公害を伴う工場を建設し、その環境汚染が 深刻とも言われています。内部で収穫した食物や水が汚染されていることを みんな分かっていながらどうすることもできないと言います。

特にイスラエルのデイモナ工場による空気汚染で、ガザ南部国境付近にあるク ザール村では、主に子どもとお年寄りに背中に異状を来たし、立つことが できなくなる障害が多く見られると聞きました。真偽のほどは分かりませんが、 私はその症状を持つ6才の女の子とお婆さんに会いました。

閉じ込められたコミュニテイと汚染のため、ガザでは障害を持った子どもの 出生率がひときわ高いそうで、訪ねた家のほとんどに障害を持った子どもが いました。

クザール村で起きた3月8日の占領時、家族が三人殺されたというお宅を 訪ねました。 殺されたのは、ハリード・カデイアさん、カハリードさん、ムハマードさんの三人で この夜、残された家族が全員広間の床に座り、ハリードさんのお父さんに当たる カマールさんが私にその時の話をしてくれました。

「3月8日のことでした。 真夜中過ぎのことです。パレスチナの救急車が村に入ってきました。 けれども中から出てきたのはイスラエル兵士たちでした。 そして村は70台の戦車に囲まれていました。ここは農場地帯だったので 見晴らしがよくほとんどの人は村から逃げることは出来ませんでしたので、 家の中に逃げ込みました。 だから殺すのにたやすかったのです。 彼らは5つの家を選び入ってきました。何故ならそれらの家は高台があり 村が見渡せたからです。彼らは犬も連れていました。 家に入ると彼らは男達に服を脱ぐように言いました。そして腕を後ろに縛り 目隠しをしました。 家族を一つの部屋に入れ二人の兵士は銃を女と子どもに向けていました。 戦車は村の全域を占拠していました。 そしてイスラエル兵士はモスクに入りスピーカーを使って、外に出てくるように 叫びました。 武器や銃を使わないとも言いました。 アラビア語で言いました。

それで人々は外へ出ました。東から37台の戦車、10台の装甲車、 3台のバスが入って来ているのが見えました。 次の瞬間、全てが砲撃を始めました。女、子ども、犬、豚もヤギも撃ちました。 ハリードは足を撃たれました。 まだ生きていたので助けようとしました。 けれども私の目の前で、戦車が彼を轢いていきました。 そして彼の頭や顔や胸はすべて潰れ、道には形も何も残りませんでした。 彼を助けようとするものは容赦なく撃たれました。

私は泣き叫びました。 それを止めようとして走ってきた親戚も撃たれて死んでしまいました。

ムハマードは20発も撃たれましたが、まだ息はありました。 けれども誰も助けることも病院に連れて行くこともできませんでした。 何故なら村の入り口で、救急車も何も入れなかったからです。 たくさんの人が怪我をしましたが血が足りなかったのでみんな死んで しまいました。

ただ殺されたのです。私たちは兵士でもないし何でもありません。 ただ来て殺したのです。殺して出ていったのです。捜査などありません。

言い忘れましたが、ガザ南部のソルジャーもその夜殺されました。 彼はここで何が起きたのか見に来たのです。そして足を撃たれ病院に運べず 死にました。(救急活動ができないので)足を撃つだけで十分殺せるのです。

その夜18人が殺されました。たった二時間の間に。今は100人以上の人が ナーサルホスピタルにいます。

どのパレスチナ人の家もみんな同じです。農場も壊していきました。」 (実際の死者は16人そのうち5人がパレスチナ警察)

殺されたハリードさんは結婚したばかりで、家には奥さんと生れて20日目の 赤ちゃんが残されていました。

その小さな小さな赤ちゃんを腕に抱いて、私は怒りと無力感にうちのめされて いました。

この他にも話しはたくさんあります。ありすぎて書ききれません。 もちろん関心をお持ちの方には積極的にお話ししますので声をかけて下さい。 写真もありますのでお会いしてお話するのでも結構です。

デ・アル・バラという北部の地域に散布された毒物とその影響を受けているという たくさんの妊婦さんや子ども達のことも気になっています。

どの話も裏付け調査が必要なのですが、クザール村を訪ねたのは夜九時を廻った後で したし 翌日は午前中にはガラーラのチェックポイントが閉まってしまうからと、 駆け足で学校と病院をまわり、皆に背中を押されるように北へ向いました。 何故こんな状況なのにパレスチナで出会った人達はこんなにも暖かいのか、 私を守ろうとするのか持っているものを分け与えようとするのか、 何故私だけが別の世界へ逃れていけるのか 虚しい気持ちいっぱいでエルサレムに戻りました。

けれども、クザール村の話があまりにひどく、さらに何処の新聞社のアーカイブを 調べてもその事に触れていなかったので、すぐにパレスチナの人権団体と、 その時日本で執筆中だった広河隆一さん(パレスチナ問題について35年間 取材やさまざまな活動を続けているフォトジャーナリスト、現在はパレスチナで 取材中)にメールをしました。 翌朝すぐに広河さんから電話がかかって来て、これは大変なことだから、 パレスチナ側だけでなくイスラエル側のジャーナリズムにも伝えた方がいい と言われ、ハアレツ・デイリーの編集者エウードさんを紹介して下さいました。 エウードさんはその日すぐにテルアビブから、エルサレムまで駆けつけて くれました。私は、聞いたことをそのまま話しました。

彼はすぐに再調査のための人を送ってくれました。私も一緒に行きたかったけれど、 出国前日だったので後はお任せすることにしました。

日本に戻ってから、村で殺された総数にずれがあったものの残念ながら その出来事が事実であったことを知りました。

さてパウエル長官がいよいよイスラエル入りしシャロン首相と会談しました。

ずっとイスラエルを支え、大変な軍事国家に育て上げたアメリカの国務長官が仲介に 入るのですから、パレスチナの未来にとって本当に明るい選択肢をきちんと用意して くれるのかとても不安です。

シャロン首相は一部撤退を行いテロ根絶を訴えながら、その傘下で、パウエル長官が イスラエルにたどり着くまでの間に駆け込み的に攻撃の手を強め、特にジェニン キャンプで大変な殺戮を行い、今現在も続けています。 外部からの進入は、取材陣でさえ一切出来ないということがどういうことか 私にははっきりとわかります。 ほんの一月前会って、一緒にたくさんの話をした一人一人のあたたかい眼差しが 私の頭を廻っています。その人たちの身の上に今起こっていることを思うと 本当に胸が張り裂けそうで、何も手につきません。 あの時もジェニンキャンプは大変な打撃を受けていましたが、そんな状況の中で 人々は木々をきれいに刈り込み、花の手入れをし、コーヒーを飲みながら穏やかに 家族や友人達と過ごす時間を楽しんで、私たちと目が合うと「ウエルカム!」と コーヒーを差し出したり、笑いかけたりしていました。 難民キャンプの子ども達が、うれしそうにニコニコ私たちの後についてくるのですが フランス人の女性がチョコレートを差し出すと、控えめな声で「ノーサンキユウ」と 丁寧に断るのです。 私がこれまで他の経済的に貧しい国で出会った子ども達のことを考えると、 これは相当なことだと思いました。 日本の子どもだって、差し出されたチョコレートを「結構です」と丁寧に断れるとも 言えません。 彼らは、何もかも失っても、誇りは失っていませんでした。 それはイスラムの精神と、パレスチナの母親の教育の水準の高さによるものだと どのパレスチナ人に会っても感じた今回の新しい驚きでした。

その人たちを、今次々に殺しているのです。そして誰にも止めることができない なんて。 これだけ国際社会の目が光っていながら、何故こんなことが続けられるのでしょう? どうして誰もそこへ派遣しないのでしょう? 私が特使だったら、まずそこへ向うでしょう。不当な制限を解き事実を見る でしょう。特使の権限は、そのためにあるんじゃないのですか?

ジャーナリズムを含む、他のものの進入を一切阻む理由として、パレスチナ人が 爆弾を抱えイスラエル兵も10数人死に、危険だからだと発表していますが、 ちょっとでもジェニンの人々の立場に立てば、閉じ込められた世界の中で、 救出の可能性を全て絶たれた絶望的な状況を想像できるはずです。 これは本当に恐ろしい出来事です。

ただ死を、破壊を、すべての物の喪失を待つばかりの彼らの恐怖心や絶望感は、 計り知れません。 わたしも居たたまれない気持ちで何日も眠れずにいます。 家族を殺されたり自分が無駄に殺されるのならばと、最後の抵抗の手段として 爆弾を抱えてイスラエル兵の到着を待つのはむしろ当然ででしょう。 ほかに何が出来るというのでしょう。 今ジェニンの人々をそこまで追い込んでいるのは、他でもないイスラエルなのです。

ラマラの友人からの電話だと、死者は7〜800人に達し死体も運びだせず腐乱し 始めているということです。 広河さんのホームページで公開されている記事によると、未確認情報では死者は 1000人に及ぶとも言われています。 イスラエル兵は、ここで起こっていることを国際社会が見たら決して許さない だろうと恐れをなし死体をブルドーザーで埋め、清掃を始めているということです。 ブルドーザーで!彼らはゴミではありません。 けれども、ブルドーザーでの清掃行為そのものが、死体の数の多さを物語って います。ジェニンでのこれらの行為は、イスラエルに今後何年も重い十字架と してのしかかるでしょう。

テロ根絶を理由に占領地からの撤退を拒んでいるシャロン首相ですが、今の状況の もともとの原因は、イスラエル側のオスロ合意に違反する圧倒的な占領と 植民地政策、そして一昨年のシャロンによるアル・アクサ神殿訪問にある事を 忘れてはなりません。

アルアクサ神殿は、毎週金曜日にイスラムの人々がお参りに来るとても 大切な場所です。 そこにシャロン首相は警察を伴って入り込み、抗議のために立っていた パレスチナ人に発砲、翌日は金曜日でしたが、シャロンはさらにそこに 軍や警察を送り込みお参りに来た人たちに無差別に発砲、パレスチナ人に とって最も神聖な場所で死傷者を出し流血の事態を引き起こすという 大変な挑発行為を行ったのです。その事に抗議して始まった民衆運動が、 今回のアル・アクサ・インテイファーダです。

シャロンはその民衆蜂起を「テロ」と位置づけ、封鎖占領を繰り返してきました。 また、かつてのレバノンキャンプでのパレスチナ人大虐殺を指揮した張本人も このシャロン首相に他ならないのです。

そして現在まで圧倒的な経済力と武力で主張を押し付け、パレスチナ人の 基本的な人権、生きる権利、自由、生活を国を挙げて奪ってきました。 物資や人の流通を不当に阻み、教育を阻み、救急活動までも阻止してきました。 民主主義を掲げている国がです。 どんな政治的主張があるにせよ、それが正しくても間違っていても、とにかく今すぐ 占領を やめて欲しいと強く思いました。 けれども大きな銃の前で、私だって何も言えなかった。 暴力の前に、自由な言葉や心の行き交いをねじ伏せられるということの 私の初めての体験でした。 家族や自分の命、生活、家が奪われる人々の思いは計り知れません。

もちろんパレスチナ人も必死で抵抗しています。 主な武器は石、銃などですが、軍を持たない彼らは自爆という武器が 精一杯であり、最後の手段なのです。 けれども私が見たほとんどのパレスチナ人の本当の抵抗は、爆撃されても家族が 殺されても、壁の無い外から丸見えの部屋でコーヒーを入れ、翌日から仕事に戻り、 もくもくと瓦礫を片付け、冗談を言って笑う。人を受け入れもてなし、花の種を植え る。 人としての尊厳を失わず誇り高く生き続けユーモアを忘れない、そんな精神的抵抗で した。 本当にみんなよく我慢しています。 そしてそれこそがイスラエル兵を焦らせヒステリックにさせているというのが、援助 に 駆けつけているたくさんの、ヨーロッパ人を中心とする外国人たちとわたしの間での 共通 の認識でもありました。

何故国際的な協議の場やジャーナリズムでは、占領(虐殺)とテロ(一つの爆弾)を 同じ天秤にかけるのでしょう? 圧倒的な武力の前で、一つの抵抗も許されないというのでしょうか? もちろん市民を狙った自爆行為を、私も受け入れることはできません。

けれども外国から特使が来るとなると直前に、シャロン首相は必ず挑発行為を 繰り返してきました。 そして今回もパウエル長官がイスラエル入りする直前にジェニンでの大量の殺 戮を行いとうとうキャンプのリーダーを殺しました。 この行為は確実にパレスチナ人の抵抗運動を引き起こすでしょう。

わたしは、今起きていることは戦争ではなく、迫害と虐殺だと認識しています。

そしてもしもこれを今国際社会に止めることが出来なかったら、私たちは歴史の中で ホロコーストから60年たったこの時代に、私たちの時代に、もう一度同じ過ちを 今度はユダヤ人の手で犯してしまうことを許してしまうことになるのです。 それは同時に、私たち自身の過ちにもなります。

さらに、テロ行為を理由にアラファト議長率いる現在のパレスチナ政府を「悪」と 位置づけ排除したのち、アメリカやイスラエルにとって都合のいい政府を送り込み、 都合のいい和平をどさくさに結ぶ。そんな骨抜きパレスチナ建国の懐疑心が 止みません。

アメリカがとった、アフガニスタンや戦後の日本の国作りと同じシナリオを見ている ようで身震いがします。素人感覚の考え過ぎだといいけれど。

それとも追いつめるだけ追いつめて、パレスチナの人々に、明日のパンのための あきらめに近い和平を強いるのでしょうか?

50年近く戦ってきた彼らの長い長い苦しみはこれからも続くのでしょうか?

明日(4月14日)パウエル長官とアラファト議長が会談します。

森沢典子

追伸

一緒にウエストバンクをまわったフランス人のクロードは、今もアラファト議長が 軟禁されている場所で外国人30人ほどと共にイスラエル兵からの盾となり、 議長と寝食を共にしています。
また私の話を聞いて、国連事務所の東間史帆さんがPNGOのような組織を ずっと探していたとよろこんで下さって、二人でラマンラのオフィスに訪ねたの ですが、今はさっそく日本からの視察ツアーを企画しています。

また、エルサレムに助っ人で飛んできた朝日新聞社の特派員の方たちにも PNGOの活動のことを史帆さんが伝え取材が入り、今週新聞で大きく取り上 げられました。

さて、私自身ですが、今後どのような活動が可能か考えています。
再来週は母校の青山学院女子短期大学で学生さんにお話する機会をいただ きました。 児童文学者で恩師でもある清水真砂子さんがすぐに自分の授業を提供して 下さったのです。 私から話を聞くことを「贅沢なこと」と表現し、受け入れて下さったこと 本当に感謝しています。
明日は、渋谷で10代〜20代の人たち中心でやっているピースウオークの 中心メンバーと会います。
何かほかに方法や機会があったら、是非ご助言下さい。

森沢典子






  2002/5/8(Wed) <おたまじゃくし>

 掃除づくしのGWであったけれども、最後の6日、ふと思いたって、埼玉県入間市にある緑の森博物館に出かけた。道路が渋滞するかと思いきや、連休最後の日というのがよかったのか、自宅から30分ほどで到着。そこは、湿原と森が広がる別世界であった。散策しながら、木の名前当てクイズをしたが、同居人がわずかに一つ正解しただけで、私は全滅という惨憺たる状況だった。いかに土と緑から切り離された生活をしているのかを突きつけられる思いだった。かつて、理科の授業や生物の授業でならった木の名前は、一体何だったのだろう。ただただ暗記しているだけだと、私のようになるのだ。ご用心!
 それでも、木の名前はわからないながらも、木々の間を歩くことの楽しさは味わうことができた。土も落ち葉のマットの積み重なりのためか、とても柔らかく、歩いていることそのものが心地よかった。湿地の池には、おたまじゃくしもたくさん泳いでいた。池の下流では、おたまじゃくしの子ども(?)が折り重なって、息絶えていた。おそらく、人(おたま)口が密集し、エサか酸素が足りずに、事切れたのだろう。ちょうどそのとき、一匹のおたまじゃくしが、大きな池から今にも下流に流されそうなところにいた。下流にいけば、同じ運命になるだろう。ああ、おたまじゃくし。君の運命はいかに。
 ところが、そのおたまじゃくしは、直観で何かに気づいたのか、流れの弱い岸にしがみつき、そこで力をため、あらんかぎりの力を出して、上流に向かって泳ぎ始めたのだ。驚くべき力であった。泳ぎ切って、危機を脱したおたまじゃくしを見て、心が熱くなった。私たち人間には、この池の全体像が見える。しかし、おたまじゃくしには今の自分の周りしか見えない。なのに、このおたまじゃくしは、危険を察知し、適切な行動をとることに成功した。生き物には、すごい力が備わっているものだ。
 群れて死にゆくおたまじゃくしと、一匹で生に向かって全力で泳ぐおたまじゃくし。森は黙って、私たちを見ていた。






  2002/5/4(Sat) <GWは大掃除>

 日本ではなぜか年末に大掃除をやることになっている。しかし、年末は寒い。そして、休みも短い。また季節の変わり目でもない。年末の大掃除は、心情的にはよいのだが、現実には不合理である。そして、GW。行楽地は人々でにぎわう。たしかに季節は最高である。しかし、GWは掃除をするにもいい季節である。布団も干せるし、冬物の洗濯(私がしているわけではありませんが)にもちょうどいい。普段さぼっている(これは私のこと)家のメンテナンスをするには、絶好の季節である。というわけで、私は、たまりにたまったリビングの食卓の上と、水漏れ事件以来、同居人の部屋にお世話になっていた諸々の荷物の片づけに取りかかった。片づけをしていると、多くの人たちに不義理をしたり、やるべきことを棚上げにしていたことに気づかされる。自分の人間としての欠陥を突きつけられるのは苦しいところであるが、それでも部屋が片づいたときは何ともうれしいものである。渋滞とも無縁だし、お金もかからない。(それどころかなくしたお金を拾うことができるかも!?)GWは大掃除といううるわしき習慣を世に広めていきたいものである。






  2002/5/2(Thu) <ああ、野中町>

 ここ数日、新聞を見ると陰鬱である。新聞にはだいたい暗いニュースが多いので、いつも陰鬱だけれども、ここ数日はとくに陰鬱である。というのも、保険金殺人の話が載っているからである。そう、あの元看護婦による完全犯罪を目論んだミステリー小説のような事件である。なぜあの事件をみると陰鬱になるかというと、容疑者たちが住んでいた高級マンションの所在地が福岡県久留米市野中町であり、そこには私が通った高校があるからである。そして、ちょっと前に大騒ぎになった北九州市のとんでも男女(=夜逃げ屋・結婚詐欺・児童虐待ほか)もまた久留米の高校の出身だったのである。さらに、彼らはみな40前後でほぼ同世代である(私とではなく、彼・彼女ら同士)。報道をそのまま信じるならば、彼・彼女らは人としてかなりのロクでなしだが、これだけのロクでなしが同じ地域から産出されたということに、何か偶然ではないものを感じる。
 明治の昔、女工たちは、野麦峠を越えて、信州へと過酷な労働に赴いた。現代の過酷な労働を担っているはずの看護婦たちは、友人の夫を殺し、野中町のマンションを購入した。さらに、友人をゆすった。何とも悪辣な事件。しかし、私には何となく察しがつくのだ。小学校のいじめグループがそのまま40になったら、あのようなことをするだろうと。悪辣というよりも幼稚な、そしてその幼稚さに誰一人気づくことなく、40になったという情けなさ。ただ、自らの犯罪に煩悶し、自首してすべてを明らかにした一人だけが、わずかに救いであるが。これまでにたくさんの大人が、そしてたくさんの人々が彼・彼女らのまわりをすれ違っていったことだろう。誰かがあの幼稚さに気づかせることはできなかっただろうか。ああ、野中町。






  2002/4/30(Tue) <かたち>

 先週末は教え子の結婚式で、名古屋の熱田神宮へ。祭司さんに続いて、新郎・新婦がうねうねと神社内を練り歩く、本格的な神道式の結婚式。私もうしろにくっついて歩いたが、楠の新緑があざやかで、春風がとても心地よかった。やはり氣合の入った結婚式というのは、見応えがある。及び腰で物事に向かうよりも、引っ込みがつかなくなるぐらい大見得を切って、あとは大見得に引っぱられながら生きていく、これも一つの生き方なのだと思う。
 末永く一人の人と睦び合うのは、不自然なことだとある人は言う。しかし、人間にとって自然とは一体何だろうかと、ふと思う。あるいは、人の気持ちはうつろいやすいことをかつての人々はよくよく知っていたからこそ、契りをかたちにしたのではないだろうか。かたちにも魂のこもっているかたちと、かたちだけのかたちがある。その人の魂が宿っているかたちと、人に魂を強制するかたちがある。かたちをただ水に流すだけでも、かたちを礼賛するだけでも、私たちは救われない。
 春の陽の包まれながら、若いふたりの氣合の入ったかたちにふれ、彼らの末永い幸いを確信したのだった。温かい家庭をとか、添いとげるとか、そういうものを超えた、かたちだけではない幸いを。おめでとう!






  2002/4/26(Fri) <アナザワールド>

 1年前から車で通勤するようになった。だが、時々、電車で通勤することがある。飲み会があるときなどである。毎日、電車で通勤していた頃には感じなかったことを、たまに電車に乗ると感じる。私たちのまわりには、インターアクティブ(交互交渉的)ではない人たちがたくさんいるということである。電車の中で化粧をする若い女性。後ろからぶつかってきて、謝りもしない中年の男性。横からヌーボーとあらわれてぶつかりそうになる若い男性。人間の気が感じられず、奇妙なあらわれかたをした最後の男性は、ヘッドホンをしていて、恍惚の世界に入っているようであった。
 人と人と思わず遮断することが、まさに過剰な情報にあふれた現代を「生きる力」なのかもしれないが、私は情けなく思う。人間と人間が気を張って生き合い、ときには気を許し、心を許すことがあったベトナム、カンボジアでのひとときを懐かしく思うのは、決してオリエンタリズムのゆえだけではないだろう。これから懇親会(=飲み会)だ。それではまた。






  2002/4/25(Thu) <乱>

 まだ木曜日ではなく、フライングであるが、何かとんでもない事件が起こっているようだ。大阪高検における内部告発阻止の逮捕劇。私の愛読するHPの2つでまったく同じことが書かれている。

 鳥越俊太郎さん
 宮崎学さん


 これからの時代、どのような時代になるのであろうか? メディア規制ではなく、内部倫理を立ち上げていかないかぎり、私たちの前にはファシズムしかないのではないか。政治家のスキャンダル騒ぎが相次いだけれども、結局、ここで行われたことは、辻元清美氏と加藤紘一氏というハト派(=護憲派)の実力者を追い出したことだけではないか。「改革」「改革」と叫ぶ小泉首相がやったことと言えば、「靖国参拝」で「国益」をいたずらに損なったことぐらいで、次の射程は言論の統制ではないか。今回の大阪高検の事件は、ドラマよりもドラマのようであり、ぞっとする。






  2002/4/24(Wed) <黙>

 ゼミが何とかゼミらしくなった2年目、中心的な存在であった学生たちは1975年生まれだった。今年の新規の2年生は1983年生まれという。私が1967年生まれだから、最初の学生たちとのジェネレーション・ギャップが2倍に拡がったことになる。はじめの頃は、ゼミコンパでも本気で学生とやり合って、随分迷惑をかけたりしたが、今や、親がもうあきらめた頃に生まれた歳の離れた弟妹のようなもので、兄弟喧嘩をする状況でもなくなった。
 先日のゼミコンパに、4月から社会人となった卒業生がやってきた。そして、私が「A君たちの時代とくらべて、だいぶジェネレーション・ギャップがある」と言ったところ、「これからが先生の腕の見せどころですね。楽しみにしていますよ」と言う。こちらがしんどいときには、温かいことばをかけてくれ、少しゆとりができると、厳しく突き放してくれる。まったく学生というのは、ほとんどの教師よりもずっと適切な教師であるとうならされる。(もちろん、教師が適切な教師であるのはとても難しいことなのだが)
 さて、1983年生まれというのは、1997年の酒鬼薔薇聖斗事件のとき、「14歳」として騒がれ、その後、「17歳」として騒がれた世代である。彼らはマスコミや評論家から絶えず語りの対象とされ続けてきた。それだけではない。彼らのことばもまた引き出され、瞬く間に消費されていった。こう言っては失礼だが、彼らの語りが(私には)薄っぺらく感じられるのも、「黙る」時間を奪われたからなのかもしれない。これまで私は、語る機会を奪われた人々から語りを引き出すという方法論によって授業を進めてきた。もちろん、この方法論はこれからも継承されるだろう。しかしながら、沈黙の時間を大切にすること、「語り」を思いとどまること、こうした方法論が、次の世代と向き合うときに、求められるように感じている。






  2002/4/19(Fri) <鈍>

 雪原で危うく遭難を免れて、今、ここにいるわけだが、これまでのところ“運”には恵まれている。このページを愛読してくれている卒業生の一人から、「先生の特徴は、運がいいところだ」と言われたことがあるが、まさしくその通りで「運」だけで生きてきた感がある。ところで、東京経済大学を最近定年退職された先生から「研究者に必要なものは、運・根・鈍」という箴言をいただいた。これはその先生の先生だった向坂逸郎先生(よくこの人物にぶつかるのである)がおっしゃったことらしい。まず研究者はいくら実力があっても“運”がなければ、その道で職を得、すぐれたテーマを得ることは難しい。続いて、職を得ても、すぐれたテーマを得ても、根気がなければ、一つのテーマを続けることは難しい。最後に、才気煥発で目先がきくと、かえって一つのテーマを掘り下げていくことは難しい。そういう話であった。
 “運”を生かすも殺すも、“根”“鈍”にどこまで徹することができるかにかかっている。「どんどんどん どんどこどん … 」(谷川俊太郎「たいこ」より)






  2002/4/17(Wed) <雪>

 暖かい日々が続いている。暖かさの中にいるとつい忘れてしまうが、寒さは人間にとっての大敵である。実はこれまで黙っていたが、私は、この3月、北海道の森で危うく遭難するところだった。ちょうど1ヶ月前の3月17日の午前10時、北海道紋別郡滝上町滝西の徳村さん宅におじゃましていた私たちは、森の山小屋に向かって、家を出た。人数は、学生3名とここに住む小学生と屈強な青年(モアイと呼ばれている・なぜなら渋谷のモアイ像によく似ているから)に私の計6名。家を出てすぐ、道なき道を歩く人々と、道を歩く人に別れた。軽装だった私だけ道を歩くことにして、ほかの5名は道なき道に向かった。森の山小屋まで約6キロ。向こうで逢おうと約束して、私たちは別れた。
 雪山を眺めながら歩く道は爽快だった。雪原がどこまでも広がっている。牛を飼っている家もあり、北海道の広さを思いっきり感じられる道だった。ただ出発したときは暖かかったが、冷たい風が吹き始めたのが気になった。森の山小屋に行くには、小さい道に入らないといけない。小さい道に折れて、ほんのわずか進むと、そこは道なのか、道でないのか、わからない雪原の世界だった。除雪されていない道だった。ここで引き返せばよかったのだが、5人と向こうで逢おうと約束している以上、引き返すことはできないと思い、無謀にも雪原に突っ込んだ。最初は、何とか歩けたが、しばらくすると、脚がズボズボと雪の中に深く埋まる。下手をすると腰まで埋まる。100メートルが1キロにも感じられるような雪の道だった。
 もう引き返すこともできないところまで行った頃、雪が降ってきた。私は雪原の稜線に立っていた。どこにも隠れるところはない。風と雪を真っ向から受ける場所だった。雪はだんだん激しくなってきた。私は「ついにやってしもた」と思った。学生にとっては、せっかくの卒業旅行が、引率教師の遭難とあっては、とんだケチがつくことになるだろう。カンボジアでは何とか生き延びた私だが、ついにここで終わるのか、またもやとんでもない見通しの甘さだと、自分を呪った。冷や汗と熱い汗が身体からあふれた。それでも、ただただ、前進あるのみということで、とにかく進んだ。ほふく前進。まるで日本陸軍だ。ただただ、前進あるのみ。
 少し元気が出ると、道なき道に進んだ学生たちのことを思った。しかし、余裕がなくなると、人のことどころではなくなった。街に住んでいるときには忘れている自然の脅威を思い知らされた。わずか6キロの行程で死界を彷徨うことになった自分の小ささを突きつけられた。まだ雪は激しく降り続いていた。しかしながら、幸いだったのは、ブリザードにならなかったことだ。おそらく吹雪になったら、捜索隊なしには生還できなかっただろう。どこが道だか見えなくなるのだから。
 道に迷わないように細心の注意を払いながら、道を選び、歩き続けた。川を渡り、雪原を泳ぎ切り、浄水場に出た。そこでようやく土に出会った。そこから除雪されていたのだ。雪原で体力を奪われ、ぐったり疲れていたので、とぼとぼと歩き、何とか山小屋まで辿り着いた。しかし、そこには誰もいなかった。山小屋に入り、ライターで雑誌に火をつけ、服を脱いで身体を乾かした。びっしょりだった。もちろん、もう徳村さん宅に戻る体力は残っていなかった。このあと、私は、昼食なのにまだ帰ってこないという徳村さんちの「おばば」(みんな愛称でこう呼んでいる)の連絡でかけつけてくれた「おじじ」(こちらも同じ)に救出され、事なきを得た。さて、残りの5名は、雪で針路を変更し、安全なところにいた。雪の森の経験豊かなモアイのおかげであった。森に精通する人の知恵と判断力の確かさにはうならされた。
 あとで私は「おじじ」に「どうやって来たんだ?」と尋ねられた。「おじじ」は機嫌が悪かった。私が一歩間違うととんでもないことになる無謀なことをしたから当然のことである。「雪の道を歩いてきた」と答えたら、「あの道は冬は歩けない道だ。風の通り道でこの辺りでは難所で有名だ」と言われた。私は「道」と聞いて、安全と思い、歩いてきたのだが、まったくの思い違いだった。
 生還して1ヶ月経った。私は、「おじじ」がそうであり、モアイがそうであったように、ついてきた人々を「遭難」させないように、状況を見て的確な対応ができる大人になりたいと、それだけを思っている。






  2002/4/16(Tue) <風>

 風が吹き荒れている。春のキャンパスはにぎわっていて、お昼のお弁当もあっという間に売り切れていた。おかげで昼ご飯は、あんぱんだ。おっと、運動不足であんぱんまんのようになった体型をどうにかしなくっちゃ。そうそう、先日、久しぶりに友人が自宅を尋ねてきたと思ったら、「そういや、君、体型がどらえもんに似てきたね」と失礼なことを言うではないか。ちょっと前までは「のびたくん」と言われていたのに、あんまりだ。まあ、あんまり気にしちゃいないけど。
 昨日、今年度最初の授業。相変わらず入りが(も)悪い。淡々と生きて、淡々と学んでいくことができればと思うのだが、これがなかなか難しい。今年度もまた自分らしく、悪あがきの1年間になりそうである。入りにはいつも苦労する。しかし、人生においてすべてのことははじめてのことだったわけだから。今日も新しい一日に向き合っていくだけだ。






  2002/4/15(Mon) <緑>

 緑が爽やかな季節である。春の花が咲き揃い、キャンパスも華やかである。今週からいよいよ大学が本格的にスタート。新しい学生たちは一体どんなものか。気持ちを引き締めながら、楽しみにしている。






  2002/4/12(Fri) <雨>

 一雨ごとに暖かくなる季節。冬の雨が少なかった分、今春は雨が多い。潤った地面と暖かさのせいか、今年の木々は成長が早い。自宅の前の森も、新緑が生え揃っている。研究室からの景色もまるで6月のようである。16年前に東京にはじめて来て思ったことは、東京には緑が多いということだった。不思議な思いであるが、東京ではわずかの空間にも緑があり、人々が緑をいとおしんでいることが感じられた。田舎に住んでいたときは、緑はどこにでもあるような気がしていて、緑を大切にするという気持ちも生まれなかった。街はコンクリートで固められていて、街が緑と溶け合うことはなかった。何事も欠乏を知ってはじめてその価値にようやく気づくのが人間の愚かなところである。平和な時代だからこそ、焦土の中で戦争の苦しみを知った先人たちの経験に思いをはせたい。酸性雨で森が立ち枯れた欧州で、環境に対するまなざしが変わったように、絶望とどん底から学ぶ活力を自分のなかにもちたい。しっとりとした今日である。






  2002/4/11(Thu) <将来の夢>

 学校評議員として小学校の卒業式に参列した知人の話によると、小学校6年生の子どもたちの将来の夢は、男子がスポーツの選手、女子が美容師が圧倒的に多かったらしい。イチロー・佐々木・中田・小野らが海外で活躍し、カリスマ美容師がもてはやされる時代だから、これも当然といえるだろうか。
 さて、かつて私の同僚が、「リーグ戦のため教育実習講義を休ませて下さい」と申し出た学生に対して、「何もプロ野球の選手になるわけでもあるまいし、大学の講義を第一にしなさい」と諭したそうである。まさか、その学生が、今をときめく阪神タイガースのエースになるとは、そのときはもちろん誰もが予想だにしなかった。そう、その学生こそは、阪神タイガースの藪恵壱投手だったのである。(プロ野球の選手はしばしば名前の漢字が変わるからやっかいである=球団のHPで確認)
 この話は、先見の明のない私たち大人を風刺した話のように読めるが、もっと違った読み方も可能である。つまり、10年前には、プロ野球の選手になるほどの学生にも「大学の講義を第一にしなさい」と言えるほど、大学の権威があったという読みである。もちろん、ここでいう権威とは、一人ひとりの教員の権威などではなく、教員にそう言わしめ、学生にそう思わしめる場の力のことである。
 ところが、今や、大学というシステムを通過したという力よりも、大学の外で培った力が評価されるような時代が到来しつつある。だから、私たちは、自分たちの実力でその地位を勝ち取ったかのように見えるスポーツの選手や美容師たちに憧れを感じるのである。これに対して、システムを通過し、所属することによって今の地位を築いてきた人々は、既得権を守ろうと懸命にもがいている。
 それでは、現代社会で生じている葛藤は、守旧派と改革派のせめぎ合いかと思いきや、事態はまったく違っている。改革派といわれる人たちの中には、既得権を守るために改革と叫んでいるだけの人もいるし(現在の首相を見れば一目瞭然だろう)、守旧派といわれる人たちの中には、<守旧派対改革派>という図式そのものが反改革であると看過している人たちもいるだろう。
 さて、大風呂敷はこの辺にして、大学の話に戻ろう。大多数の大学生は、システムの通過と所属に懸命になっているわけでもなく、システムの外で卓抜した力を培っているわけでもない。といって、システムの所属から自由であるわけでもなく、卓抜しなければという強迫観念から自由であるわけでもない。そういう宙ぶらりんな状態におかれているわけである。(少なくとも私はそう思う)
 私たちの仕事は、宙ぶらりんな自分を持ちこたえながら、宙ぶらりんな学生たちとアクティブな学びの場を創造していくことであり、どちらかのあり方に決着をつけることではない。だから、このあいまいさに決着をつけようとする教育改革を、私は信用しない。将来、プロ野球の選手になるかもしれないし、あるいはただの誇大妄想かもしれない学生のあり方を、どちらも等価のものとして受けとめ、成長の一つのプロセスをともに生きること、これが大学教員としての私の生きる道であると考えている。






  2002/4/10(Wed) <開幕前夜>

 プロ野球は開幕し、わが阪神タイガースが破竹の快進撃だが、大学はオリエンテーション期間中である。もちろん、わが阪神タイガースというのは真っ赤なウソで、私は阪神ファンでもなんでもない。ただ、この快進撃に、雨後の筍(たけのこ)のように、あちらこちらで阪神ファンがあらわれつつあるという話を聞いたので、ちょっと便乗してみただけの話である。また、わが東京経済大学のスター・藪投手が2試合連続で完投勝利で、完全復活とのこと。こちらもまた、藪投手は私のことなど知りもしないわけであり、「わが」という接頭語をつけるのは、間違っている。ただ、ちょっと名を上げると、その人の知り合いが増え、名を下げた途端に、知り合いが去っていくのは、世の常である。いまや、辻元さんや加藤さんの知り合いも、半減したことだろう。
 さて、大学も新しいシーズンが始まる。私にとっては6年目のシーズンである。6年経って、明らかに学生との年齢の差は出てきている。これからは、世代の感性のギャップを乗り越える何かが必要になってくる。その何かは自分で見つけるしかない。6年生になった。「もう言い訳はしない」を今年のキャッチフレーズにしよう。






  2002/4/9(Tue) <寛容について>

 「寛容」ということばについて考えている。ことの発端は北海道の森の山小屋で学生に「先生は温厚じゃないよね」と言われてから。全くもってその通りなのだが、学生の一言をきっかけとして「温厚」ということばについて考えるようになった。はじめ「温厚」とは一種の性格であり、それが私には備わっていないのだと考えてみたのだが、どうもしっくりいかない。そこで「温厚」とは生まれつき備わった性格ではなく、練り上げられた人間のあり方と考えたときに、しっくりくるようになった。つまり、私は練り上げられていないというわけである。
 続いて、「温厚」から「寛容」ということばに私のフォーカスは移った。なぜならば、「温厚」な人は、かつてどこかで苦難に遭い、忍耐を経験したはずだと考えたとき、新約聖書の「ローマ書」の「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」ということばが浮かび上がってきたからである。練達とは練られた品性、すなわち「寛容」といっていいだろう。この「寛容」ということばは、私が気になっていたことばである。卑近な例では、「寛容」になれない自分に苛立ったり、「寛容」でない富める国に絶望を感じたり、あるいは「寛容」な人に頭が下がったり、「寛容」は絶えず私の意識の近くにあった。
 そして、「寛容」について考えるうちに、「寛容」なフリをして「寛容」になろうとしていた自分の姑息なやりかたに気づかされた。つまり、自分を押し殺し、擬似的な一体感を生み出し、そこに「寛容」な自分を見出そうとした姑息なやりかたに。学生の「温厚ではない」という一言は、私のあり方を厳しく問うたのであった。
 まわりの「寛容」な人々を見ると、厳しく屹立する自分の世界をもっていることに気づかされる。「寛容」な人々は、自分を見つめることにより、他者と違う存在である自己の孤独を引き受けて生きる強さをもっている。おそらく自分が他者とは違うという厳しい認識が、他者も自分とは違うという認識を生み出し、そこに他者に対する「寛容」が生み出されているのだと思われる。「寛容」とはなれ合いやもたれ合いの対極に位置する。むしろ孤独と密接なかかわりをもつ人間のあり方であることがわかる。
 私たちのまわりにはびこっているのは、エセ「寛容」ではないだろうか。さまざまなものごとを見て見ぬふりして、受け入れたふりをするエセ「寛容」。エセ「寛容」は、自己の埋没を伴うから、埋没した自己がときどき爆発せざるを得ない。スキャンダルとバッシングは、埋没した自己のガス抜きである。エセ「寛容」は、「寛容」の対極にある。
 「寛容」を生み出すのは、自己と他者への“なあなあ”のあり方ではなく、自己と他者への「非寛容」のプロセスという逆説への気づきは、おそらく否応なく、私の教育実践を変えていくことだろう。






  2002/4/8(Mon) <おはようございます>

 おはようございます。また新しい一週間が始まります。いまだ知らない自分への旅。これまで通ったことのない道がどこかにあるはず。見慣れた道にもこれまで気づかなかったものが何かあるはず。どうぞよい一週間を!






  2002/4/6(Sat) <同感>

 突然、正義漢となって政治家の不正を断罪するマスコミの論調に、ほとほと嫌気がさしていたところ、鳥越俊太郎さんのHPにおいて、私の嫌気の中身がクリアーに表現されていた。というわけで、鳥越さんのHPをぜひとも読んでいただきたい。 あのくさこればい 私たちは法(ルール)を守るために生きているのではない。私たちがよりよく生きるために法(ルール)があるのだという原点にもう一度立ち返りたい。






  2002/4/5(Fri) <説明会>

 本日、教職課程の説明会で新入生とご対面。例年出席者は150名程度なので、200部の資料を準備していたところ、学生が殺到し、増刷の50部をあわせて250部の資料が瞬く間になくなった。一体、何が起きたのか? 就職難の時代で、就職が難しい、難しいと言われて、資格をとらなくっちゃとあせっているのだろうか? 正体不明の教職バブル。来てくれる学生がいるのは、ありがたいかぎりだが、こりゃ、4月はえらいことになるぞと、今からどっと疲れが出てきている。教職はきらびやかな資格ではない。つつましい人々に来ていただくことを祈るのみである。






  2002/4/3(Wed) <入学式>

 「たまのさんぽみち」にアクセスしてみたら、まるでラーメン屋のホームページと見まがうばかりであった。自分でしたこととはいえ、表紙にデカデカと「フォー」が出てくるのは、何かしら滑稽である。そして、ふと思う。私はそもそも何屋だったっけ?、と。
 このような相変わらずくだらない、いや、シリアスな話はさておいて、今日は大学の入学式。入学式のあとのクラス会で、担任のあいさつというものを行った。実はここだけの話だが、この担任のあいさつというのが、実に苦手で、苦痛なのである。こいつは一体何なんだと思ってこちらを見ている学生の前で、自分がここに立っているのにはいかなる意味があるのかと迷いながら話をするわけだから、そもそもうまくいくはずがない。高校のようにホームルームがあるならともかく、わが大学の場合は、入学式で会って、次に会うのはうまくいって卒業式という具合だから、まさしく一期一会の世界なのである。
 さて、正直な私は(自分のことをこういうやつにかぎって、正直な奴はいないのだが)、開口一番、「皆さんと次に会うのは、卒業式になるでしょう。でも、会えるのは5人に4人ぐらいかな」とあまりにもほんとうのこと告知している。こんなことを告げるのは、こちらから私の話を聞く必要はないよと言っているようなもので、まことに愚かな話なのだが、さらに愚かなことに、「ちゃんと話を聞くように」と説教などもしている。こういうのをダブル・バインドと言って、心理学の教科書によれば、学生たちは聞けばいいのか、聞かなくてもいいのか、ジレンマに立たされるのである。と言いつつ、実際には、私には、学生たちをジレンマに追い込むほどの権力もないわけで、ただこちらの底の浅さを見透かされるだけのことである。
 しかし、この儀式を通して、さまざまなくだらないことを考えることができるので、実に苦手で、苦痛なことであっても、ほぼ毎年、担任を引き受けている。何はともあれ、大学入学おめでとう! こだわりと寛容を育てる大学生活を!






  2002/4/1(Mon) <ベトナム・カンボジア紀行(53)>

  (52) フォー・フォア

 カンボジア料理は一口も食べることができなかった私だが、ベトナム料理は食べるもの食べるもの口に合った。そのなかでも、フォーのおいしさは、今でも忘れられない。フォーをもう一度食べるためにベトナムを再訪したいと思うほどだ。
 私が行ったフォー・フォアというお店はフォーの専門店。ガイドブックに掲載されていたが、観光客向けの店というわけではなく、地元の人たちでにぎわっていた。店内は、4人がけのテーブルが並んでいる。私が座ったテーブルの横では、水槽に熱帯魚が泳いでいた。テーブルの上には、もやしやその他の野菜、バナナ、さまざまな調味料がところせましと並んでいる。いくらでも自由にとっていい。店内は混んでいて、ベトナム人のご婦人2人と相席になった。残念ながら、私はベトナム語を話すことができず、あちらも日本語、英語を話すことができなかったので、ほとんど会話はできなかったが、野菜を入れてもらったりして、いくらかコミュニケーションはできた。それでも、片方のご婦人の息子さんが日本語を学んでいるということを知った。言葉が通じなくても、これくらいのことはやりとりできるから不思議である。思い起こしてみると、大学時代に韓国を旅したとき、日本語も英語も通じない向こうの人と何日か行動をともにしたことがあったが、ほとんど不自由はなかった。もちろん、ややこしいことは通じなかったが、ともに楽しみ、生きていくのに格段ややこしいことは必要ではなかった。
 さて、フォーを食べるときは、もやしをたくさん入れるとおいしい。金物の皿に入っている野菜だが、なくなるとすぐにお代わりがやってくるから、心配はいらない。東南アジアのエスニック料理というと、何だか辛いイメージがあるが、ベトナム料理は辛くない。その上、香辛料を自分で入れるようになっているので、好みに合わせた味付けができる。私はラーメンが好物だが(ちなみに、私のおすすめは、秋葉原の“げん”と久留米の“大龍”−前者の素材を選び抜いた自然の味と後者のこてこてのとんこつが対照的でどちらもいい−)、フォーは私の主観では日本のラーメンを超えていた。白く透き通る麺に、身体にしみいるスープ。何ともごきげんな味だった。
 ところで、カンボジアでは、観光客向けのレストランと、地元の人たちが食べるお店は、完全に隔離されていた。というか、地元の人たちがお店で食べているのかどうかさえ、わからなかった。しかし、ベトナムでは、まったく違っていた。少なくとも、私が食べたお店には、ベトナムの人たちがたくさんいた。ベトナムは、カンボジアとくらべると、圧倒的に経済的に豊かな社会であった。人々が身に纏っている服、食べ物、街で売っている物、カンボジアとはまるで違っていた。ホー・チ・ミンに限っていえば、ほとんど日本と変わらないといってもいい。ベトナムとカンボジアは隣国でありながらも、全然違う世界だった。近代化の観点からみると、ベトナムとカンボジアよりベトナムと日本のほうがずっと近い感じである。
 もう一つ、ベトナムの食を支えているのは、ベトナムの外食文化である。ベトナムでは朝食から外で食べる習慣があるといわれている。だから、食事がおいしいとのことだった。日本も外食文化が盛んになり、ファミレスがいたるところに林立する時代となったが、ベトナムではずっと以前から食の分業化が進んでいた。そして、外食産業が盛んなベトナムであるが、ホー・チ・ミンでファミレスやマクドナルドを見かけることはなかった。わずかにアメリカ風のピザ屋を一軒見かけただけである。
 ファミレスやマクドナルドがないのは、ベトナム戦争以来のアメリカ資本へのわだかまりのためだろうか、それとも、人々の舌にベトナムの食への愛着が強いためだろうか。外食産業の隆盛で、家庭の味が危機に瀕していると言われている日本。しかし、外食が盛んで、なおかつ伝統の味が健在なベトナムをみると、外食文化を問題にするだけでなく、そもそもの食文化を問わなくてはならないのではないかと、ふと思った。せっかく生まれてきたのだから、贅沢ではなくても、ほんとうにおいしいものを食べて、生きていきたいものだ。食事がからだをつくっているのだから。