Daily
たまのさんぽみち
2002/3/29(Fri) <英語0点>
2月に起きた水漏れ騒動で、今、私の家はひっちゃかめっちゃか。その中で、よくぞ「ベトナム・カンボジア紀行」がんばりましたと、自分で自分をほめていたところ、同居人から「あのプロローグって一体何?」と一言。「えっ?」とあわてる私に、「プロローグって、これからはじまりってことでしょ。これからもう一度、はじめるつもり?」と同居人。あー、やってもた。相変わらず横文字に弱い私、「エピローグ」と書くはずが、「プロローグ」と書いてしまい、まさしく双六のふりだしに戻ってしまった。さらに、同居人、「カンボジアでは、あやしいマッサージまであんなに詳しく書いていたのに、ベトナムの扱いは一体何?」と、満身創痍の私に追い打ちをかける。「マッサージの恨みは大きい」というのは、冗談として、たしかに私としても、カンボジアと比較して、ベトナムの扱いはちょっとあんまりかと思わざるを得なかった。(ほぼ同じ長さの時間を過ごしたわけですから)
というわけで、あっさり、同居人に組み伏せられ、3/27の(完)を(未完)として、「プロローグ」の言葉通りに、これからもう一度、ベトナムをゆっくりとめぐることにいたしました。ただし、紀行のみというのは、つらいので、ときどき、紀行をはさむというかたちで、夏頃までかけてベトナムをのんびり綴りたいと思います。皆さん、英語はよくよく学んでおきましょう。でないと、紀行文を最初から書き直すはめになります。ではまた。水漏れ後始末の現実に戻ります。
2002/3/27(Wed) <ベトナム・カンボジア紀行(52)>
(51) プロローグ
ベトナムでは、このあと、2人の友と出会った。どちらも親切で、いろんな話をしたり、食事やコーヒーショップに連れていってくれたりした。彼らとの出会いは、今回の私の旅の宝であった。彼らを通して、ベトナムの人々がフレンドリーで正直であることを知ることができた。
カンボジア紀行でも書いたけれども、ベトナムでは二度、マッサージを受けた。ベトナムのマッサージは、カンボジアのマッサージとは違い、あやしくない文字通りのマッサージであった。ベトナム人の友人が連れていってくれたマッサージ店では、洗髪やひげ剃りもしてくれ、さっぱりすることができた。店では日本の10年ほど前の歌謡曲が、リメイクされて流れていて、とても懐かしかった。街角で出会ったベトナム人の友人は、おいしいベトナム風お好み焼き(これも米粉でできている)をごちそうしてくれた。
世の中はぼったくる人ばかりで満ちあふれているのではなかった。知り合った友人のバイクに乗り、さっそうと夜の街に繰り出した。結構、危険だったのかもしれないが、信じた人間にだまされるのなら、それはそれで仕方がないと思うのが、自分の生き方だ。そして、そう思ったときには、不思議とだまされることはないものだ。その代わり、心にほんの一抹でも迷いがあるときには、うかつに動かない。こうした自分の感覚と人の温かさを頼りに、1週間、いろんな人々と出会ってきた。カンボジアとベトナムで過ごしたわずかな日々は、生きる喜びと感動に満ちあふれた時間だった。怒りや悲しみもあったけれども、喜びも深く、すべてが生きているという感覚に溢れていた。
1週間の旅を終えて、私は日本に戻った。関空から羽田に戻り、東京の山手線に揺られながら、私たちの住む社会は、なんと生気のない社会かと身体で感じた。安全で守られている。しかし、生きている喜びや悲しみの感覚が人々の身体から伝わってこない。住んでいる町に戻り、道を歩いていると、車の穏やかさに不思議な気分になった。カンボジアとベトナムでは、道を歩くのはそれだけで命懸けのたたかいだった。しかし、日本に帰ると、ぼーとしていても道を歩くことができる。家に帰ると、同居人から顔つきが少し精悍になったと言われた。
それから、しばらくは、日本語をうまくしゃべることができなかった。なぜか日本語をしゃべろうとすると、九州弁になった。16年前に東京に出てきて、メッキのように身につけた標準語と呼ばれることばがはがれおちたのかもしれない。それでも、1日も経つと、標準語という日本語を回復した。そして、わずかの間だけ私に宿った精悍な顔つきも、いつものようなにこやかなつくり笑顔に変わり、今日もいつものように仮面をかぶって仕事にいそしんでいる。(完)
* この長い旅行記を最後まで読んで下さった方々、ほんとうにありがとうございました。旅の思い出は何ものにも代え難い人生の宝です。皆さんもぜひ、私の旅よりもっともっと濃い旅に出かけて、自分だけの旅行記を綴って下さい。そうした旅行記を、いつの日にか読ませていただけることを楽しみにしております。
1月以降、さまざまな出来事が起き、自分としても日々新しい経験を重ねる中で、淡々と旅行記を書き綴るのは、かなり忍耐のいることでした。何度も挫折しそうになりましたが、時々いただく励ましの言葉が支えになりました。なかでも「自分も一緒に旅しているようだ」というメッセージは、とても嬉しかったです。長い旅(いや、旅より長い旅行記)におつき合いいただき、ありがとうございました。
2002/3/26(Tue) <ベトナム・カンボジア紀行(51)>
(50) ストリート・ファイト
ふたたび行きに立ち寄ったホーチミン空港へ戻った。カンボジアの旅があまりにも楽しかったので、ベトナムの旅は不吉な予感がしていた。そもそも行きの飛行機でベトナム人のスチュワーデスは不機嫌だったし、空港の免税店ではチョコレートを買ってぼったくられている。最初にカンボジアでおいしいクッキーを食べてしまったので、あとはろくでもないものが残っているのではないかという感じがしていた。そして、この予感は、ある意味で図星だった。
ホーチミン空港では、ヴーさんがプラカードをもって迎えに来ていた。前から言っている通り、今回のパッケージについている送迎であり、空港−ホテル間のアクセスに気遣う必要がなかったので助かった。ホテルは、ドンコイ通りにあるボンセンホテルというスタンダードなホテルである。フロントの対応は今一つだったが、部屋はそんなに悪くはなかった。しかし、ただでは済まなかった。
ホテルに着いたあと、ちょっと用事があり、一度出かけた。帰ってくると、キーがない。身体中を探したけれども、キーは見あたらない。部屋のキーは、内側のポチを押して、閉めるタイプのものである。キーを部屋の中に閉じこめた可能性がきわめて高かった。
私は、フロントに行き、部屋をあけてくれと頼んだ。フロントの男性は、どこかに電話をかけ、すぐに行くと言った。そして部屋の前で待つように行った。私は部屋の前で待った。しかし、10分待っても誰もあらわれなかった。私はもう一度、フロントに行った。フロントの男性は、再び電話をかけ、すぐに向かうから部屋の前で持つようにと行った。私は部屋の前で待った。しかし、10分待っても誰もあらわれなかった。私はもう一度、フロントに行った。フロントの男性は、うるさい客だ、何で待てないのだという顔をして、いかにもめんどくさそうに電話をして、すぐに行くから部屋の前で待てと言った。私は部屋の前で待った。
ここは日本ではなく、ベトナムである。さすがに部屋の中にはエアコンがあるが、廊下は蒸し風呂のように暑かった。さらに、夕暮れ時である。私は少しでも明るいうちに町に出て、町の様子を知っておきたかった。少しでも明るいうちに食事に行きたかった。はじめて来た町である。危険だともいわれている町である。真っ暗になってから出るのでは、身動きがとれない。ここでの30分はかなり大きかった。私は相当、いらついていた。そして、さらに10分経っても、誰もあらわれなかった。
私はフロントに行った。ついに怒った。フロントの男性に、ホテルをキャンセルするから金返せ、と怒鳴った。すると、これまで一度も動かなかったその男が、合い鍵をもって、いそいそと私の部屋に向かうではないか。そして、男は部屋を開けた。鍵は部屋の中にあった。用が済むと、フロントの男は、一言もいわずに立ち去ろうとした。私は「ちょっと待て、一言も謝らないのか」と肩をつかんだ。そして「悪いと思っていないのか」と。すると、男は言った。「ああ、ちょっとだけ、だけど、おまえはたった3分しか待っていない」。私はキレた。
フロントの男の胸ぐらを掴み、「3分だと、もう一回言ってみろ」と怒鳴った。途中から英語が日本語に変わった。客といざこざを起こすわけにもいかなかったのだろう、男は顔色が変わり、狼狽していた。そして、「私は3分(three minutes)とは言っていない。(three times)と言ったのだ。three timesとはベトナムでは30分のことだ」と訳のわからない言い逃れをした。なんだこいつと思ったが、「私は合い鍵を使うことは禁じられているから、開けることができなかったのだ」と情けない声でいうので、お人好しの私(自分で言う奴にお人好しはいないのだが)は「そうか、それは知らなかった。怒って悪かった」と男の手を握り、男と別れた。結局、男は最後まで言い訳ばかりして、謝らなかった。自分の非を認めることはなく、自分を正当化するだけだった。そして、私は、生まれてはじめて、ベトナム戦争でベトナム人と戦ったアメリカ人に同情したものだった。
ごたごたがあって、外は暗くなっていた。私は、以前からベトナムに行ったら、フォーを食べたいと思っていた。フォーとは、日本のラーメンのようなもので、麺が米粉でつくられているものである。おいしいフォーの店として、フォー・フォアというお店がガイドブックに載っていたので、そこに行こうと心に決めていた。ホテルからフォー・フォアまでは2キロちょいある。暗くなったので、危険だし、タクシーに乗っていくことにした。空港に迎えに来てくれたヴーさんから、シクロとバイクとメーターのないタクシーは危ないから乗るなと言われていたので、メーターのあるタクシーを見つけて、後部座席に乗った。タクシーの中にはメーターがあってもメーターを下ろさないものがあるというので、運転手にメーターを下ろすように言って、メーターが確かに下ろされたのを見届けて、ほっと一息ついた。
ホーチミンの町はシェムリアプとはくらべものにならないほど、にぎやかだった。日本料理店、その他のレストラン、たくさんの店が並んでいた。東京と何ら変わらないほど、にぎやかな町だった。いや、人々の活気だったら東京以上かもしれない。車窓から町を眺めながら、はじめての夜のホーチミンに見とれていた。そして、ふとタクシーのメーターに目をやったところ、「68000」という数字が踊っていた。
私が乗ったとき、メーターは15000だった。15000の単位は、ドン、ベトナムの通貨単位である。15000ドンはちょうど1ドル。タクシーはホテルの前から出発して、まだ数百メートルしか走っていないのだ。なのに、68000ドンに跳ね上がっている。
タクシーの運転手には気の毒なことだったが、私の中では、ホテルの自己正当化男への怒りがまだくすぶっていた。私はいろいろ考えるよりもはやく、叫んだ。「なんだ、どうしたんだ、これはなんなんだ、ふざけるな、なめてるのか、おろせ、このインチキ野郎」後部座席から半分腰を上げて、メーターを指さしながら、大騒ぎした。よくもまあこんなに大騒ぎできるわいと自分でも思うくらい、運転手の頭越しにがなりたてた。運転手は、ほとほと手を焼いて、車を止めた。2人分の怒りですごい剣幕だったのだろう。私は、怒って、ドアをぼかんとやって、金を払わずにタクシーから去った。
私は怒っていた。ベトナムに来るなり、わずか数時間で二度まで大喧嘩をするはめになった。なんてやつらだ、このインチキ野郎と、全身から怒りをほとばしらせながら、町を歩いた。タクシーやバイクライダーが声をかけてきたが、すべて無視して歩いた。夜の町だし、どこで降ろされたのかさえわからない。かなりピンチだったが、むかついていたのでひたすら歩いた。
ひたすら歩いていると、いつものように気持ちが落ち着いてきた。喧嘩をして一人旅らしいいいムードになってきたと思った。はじめに喧嘩をしてから折り合っていく、これは悪くないことだ。気持ちが落ち着くと、周りが見えてきた。町には、バイクの洪水のように流れていた。露天もあって、人々には活気があった。たしかに危なそうな雰囲気もあったが、とどまることなく、こちらがテンポよく動いてさえいれば、大丈夫だとわかった。方角はだいたいわかる。暗いところでは立ち止まらないようにして、フォー・フォアを目指して歩いた。
悪い人ばかりではなかった。明るいファミレス風のお店の前で、バイクの整理をしていたおじさんに、フォー・フォアの場所を聞くと、丁寧に教えてくれた。小さな路地にある小さな店だったが、フォー・フォアを発見した。フォー・ガー(鶏肉入りのフォー)を頼んだ。もうめちゃくちゃおいしかった。フォーを食べに行くためだけにベトナムに行ってもいいと思えるくらいだった。現金な私は、フォー・ガーのおいしさで、今までの怒りはきれいさっぱりどこかにふっとんでしまった。
2002/3/25(Mon) <ベトナム・カンボジア紀行(50)>
(49) カンボジアを去る
朝起きて、いつもの朝食を食べ、荷物の整理をした。いよいよこのぼったくりホテルともお別れである。お別れとなると、たとえ、ぼったくりホテルと言えども寂しくなる。ロビーに出て、ホテルマンたちと写真をとった。そして、昨晩書いた手紙を二通、出してもらおうとホテルのフロントに預けた。3ドル請求された。必ず出しておくようにと何度も念を押した。しかし、3月になってもいまだ届かない。カンボジアからの道はあまりにも遠いのか。あるいは最後の最後までぼったくりホテルであったのか。真相はわからないが、手紙はどこかへ行ってしまった。
昨晩話し込んだヤンとガードマンと三人でホテルの玄関で写真をとった。ちょうどそのとき、中国のモデルとカメラマンが車で乗りつけ、ホテル前で撮影をはじめた。モデルは、毛皮のジャケットに身を包んでいた。カンボジアの日射しが容赦なく照りつけていた、この長身のモデルは、明らかに不機嫌そうだった。「何で、私がこんなにクソ暑いところに来なければならないのよ」という苛立ちが、こちらにまで伝わってくるような不機嫌さだった。カメラマンは、不機嫌なモデルをなだめすかしながら、ポーズをとらせていた。撮影が終わったあと、私とホテルマンは、不機嫌なモデルと一緒に写してもらうことを申し出た。カメラマンは快諾し、不機嫌なモデルはさらに不機嫌になったが、断るのも面倒だったようで、撮影は成功した。帰国後、同じカメラでもこんなに違うのかという写りに感動した。さすがはプロのカメラマンだった。
ゆったりした午前を過ごしたのち、12時にコソルさんが迎えに来た。ホテルマンたちと別れ、空港に向かった。空港では出国手続きは簡単だった。国際線とは思えないような小さな待合室で長い時間を過ごし、行きと同じ小さな飛行機に乗って、シェムリアプを離れた。下にはトレサップ湖の風景が広がっていた。
2002/3/23(Sat) <ベトナム・カンボジア紀行(49)>
(48) ホテルの夜
キムと別れると、ホテルの部屋に戻り、水のシャワーを浴びた。そして、クレヨンしんちゃんを飲みながら、ポテトチップスを食べた。テレビをつけたら、日本の時代劇をやっていた。カンボジアまで来て、日本の時代劇をみるのもばかばかしいと思い、チャンネルを変えたら、ウインブルドンをやっていた。半年遅れのウインブルドンだった。このほかには、中国か、香港のものと思われるドラマが流れていた。どれもつまらないので消した。
カンボジアでの紀行をノートにまとめ(これは毎日ノートにぎっしり書いた。だからこのように旅の詳細を再現することができる。)、ホテルのロビーに向かった。ホテルマンのヤンと最後の夜を語り合うためであった。ヤンは忙しく、なかなかつかまらなかった。しかし、11時頃、彼は自分のベッドに戻ってきた。私はクレヨンしんちゃんを彼に渡した。ヤンは甘いクレヨンしんちゃんをうまそうに飲み干した。
ヤンは、カンボジアの雑誌をもっていた。私は彼に雑誌の内容を解説してもらった。彼は、雑誌のグラビアに掲載されているカンボジアの女優にぞっこんだった。そして、500ドル出せば、その女優と一夜をともにできるという。ほんとうかどうかあやしかったが、彼はそう信じていた。また、50000ドル出せば、その女優と結婚できるという。これもまたあやしかったが、彼はそう信じていた。
雑誌をめくりながら、最も印象に残ったのは、ベトナム兵に射殺された2人の青年の遺体の写真であった。2人の青年は、学費を得るために、猿を密猟しようとベトナム国境を越えたところを、ベトナム兵に見つかって射殺されたとのことだった。
続いて、ヤンは、今朝ホテルの前で起きた交通事故について興奮しながら話をしてくれた。結婚式に向かう娘を後部座席に乗せた父親が、タンクローリーに巻き込まれ、即死、娘も両手両足を切断するという瀕死の重傷を負ったという痛ましい事件だった。バイクの2人乗りで左折中の事故だった。私がキムの後部座席に乗り、ホテルを出たのとほぼ同じ時刻の出来事だった。ヤンは、父娘の悲劇をあたかも自分の家族のことのように嘆いていた。娘が父親を愛していたこと、娘は父親にとって唯一の娘だったこと、ヤンの語りには、人の悲しみをともに悲しめる彼の温かさがにじみ出ていた。それにしても、両手両足を切断した娘は、このあとカンボジアでどうやって生きていくことだろう。慶びの日に重い重い悲しみが突き刺さり、その棘を抱えたまま生きてゆかねばならないのだ。
私たちが話をしていると、ホテルの警備をしているガードマンもやってきた。私は呑気に泊まっていたが、このように貧富の差が激しいところでは、ホテルなどは狙われやすいところなのだろう。カードマンが毎晩常駐し、厳戒警備にあたっていた。彼は、家をもっていて、そこに妻がいて、幼い子どももいるという。カードマンの待遇は、ホテルマンよりも数段上のようだった。夜が更けるまで話をしたあと、私は部屋に戻り、ベッドに横たわった。
2002/3/22(Fri) <ベトナム・カンボジア紀行(48)>
(47) キムとの別れ
キムのバイクに乗り、シェムリアプの町に戻った。おみやげ屋にもう一度立ち寄ったが、めぼしいものを見つけることはできなかった。だが、おみやげ屋の二階にあったカンボジアでは珍しい近代的なスーパーマーケットには、面白いものがたくさんあった。そこにはカップラーメンやポテトチップスなどのジャンクフードがたくさん並んでいたのである。これらは値段も安く、この店ではぼったくりもなかった。ここでクレヨンしんちゃんのパック入り乳飲料があり、ポテトチップスとともに話のネタに購入した。クレヨンしんちゃんの乳飲料は、ストロベリーとブルーベリーだったが、どちらもやたらと甘かった。あと、文房具売場で、カンボジアの地図が入ったファイルを見つけ、喜んで買ったが、あとでタイの地図だとわかって、がっかりした。
昼に日本食をたらふく食べたので、もう食事は必要なかった。夕食は、ホテルでクレヨンしんちゃんを飲みながら、ポテトチップスをつまむだけで十分だった。キムは、今晩もマッサージに行くかと尋ねてきたが、昨晩カンボジアのマッサージの何たるかを知ったので、もう十分だった。日が暮れたホテルの前で、キムと最後の話をした。一時は険悪な雰囲気になったこともあるホテルマンたちも、私たちの周りに集まってきた。キムと一緒に写真を撮り、連絡先のメモを交換した。いよいよ、キムとの別れのときが来た。代金を支払うにあたって、いくら必要かと尋ねた。キムは、「君の思うままに」と答えた。旅行中、私が遠慮がちにキムに話しかけると、彼は決まって「君の思うままに」と答えてくれた。私はこのことばに力づけられた。そして、誰に気兼ねすることもなく、自分の旅をすることができた。キムのことばは、私のなかで温かく息づいていた。
私はキムに20ドル札を渡した。キムは複雑な表情をしていたが、これで十分だ、十分だとつぶやいた。7ドルという約束だったから、20ドルは十分な額だろうと私は考えていた。しかし、マッサージや舟に簡単に20ドルを払う私を見て、あるいはキムはもっともらえるだろうと予測していたのかもしれない。たしかに、この1日間のキムの献身的な働きには、20ドルというお金には釣り合わない大きな価値があった。日本に帰ったあと、キムから私の自宅に電話があった。彼は薄給の中、1分8ドルという世界一高いカンボジアの電話をかけてくれた。私は、あのとき、キムにもう少し渡しておけばよかったと思った。
2002/3/21(Thu) <ベトナム・カンボジア紀行(47)>
(46) プレ・ループ
キムはバイクを飛ばしていた。夕日が落ちる前に到着するためである。昨日の夕日スポットとは違い、今度の地点はアンコールワットからかなり離れていた。リーさんにしても、キムにしても、カンボジアで私を乗せた運転手たちは、朝日や夕日と一生懸命追いかけっこである。太陽が地平線に沈むより早く目的地に到着した。そして、昔の火葬場だったといわれているプレ・ループの遺跡からカンボジアでみる最後の夕日を見つめた。キムはついてこなかった。夕日は群れて見るものではなく、一人で見るものだと、彼はわかっているのだろう。夕日に説明や案内はいらない。昨夕のあふれる観光客とは違い、プレ・ループはアンコールワットから遠く離れているので、観光客もまばらだった。火葬場からみる夕日というのは、手塚治虫の『火の鳥』の人類の最後のシーンを思い起こさせるが、夕日はどこで見てもやっぱり夕日だった。
せっかく人がまばらなところでひっそりと夕日を見ていたのだが、どこからかフィルム売りの少年が現れた。それも、笛吹童子のように笛を吹きながら現れた。この笛吹童子の登場は、鬱陶しかったが、これもまたカンボジアなのだから、仕方がない。フィルムを3本5ドルで売ってくれとこちらからふっかけたら、向こうはフィルムを売るのをあきらめたようだった。
アンコールワットのてっぺんがわずかに見える地平線に夕日が沈んでいくのを見たあと、プレ・ループ遺跡を降りた。少年はずっと後ろをつきまとってきた。彼が人なつっこく話をしてきたので、早足で歩きながら、ときどき答えた。遺跡を下り終えると、少年はお金をくれと言った。私はやらなかった。やる理由がなかったからである。お金をもらえないとわかると、少年はそれまでのフレンドリーな姿を翻し、チェッとばかりに去っていった。少年は20歳で学校に通っているという。20歳にはとうてい見えないほど幼かった。
私の感覚では、勝手に話しかけてきて、自分に利益がないとわかると、プイッと背を向けるとは、ずいぶん身勝手なものだなと思った。しかしながら、彼にしてみれば、笛を吹いたり、自分の身の上話をしたり、いろいろとがんばったのに、わずかなお金すらくれないとは、ずいぶんケチな奴だなと思ったことだろう。旅に出ると、自分の価値観が通用しないこともある。自分の価値観を相対化してみること、これが旅の一つの楽しみである。私は、他人様からお金やものをもらって生きていくのは恥ずかしいことだという考え方をすりこまれて育った人間である。この枠組みでとらえるならば、カンボジアの多くの人々は恥知らずということになる。しかし、金は天下のまわり餅という考え方でいけば、カンボジアの人々の行動はまっとうであり、私よりもずっとたくましいということができる。世界にはいろいろなものの見方、考え方がある。人に頼れず、自分の力で生きていこうと思うのは、強さではなく、弱さやもろさなのもしれない。何はともあれ、自分とは違ったものの考え方で生きている人々が世界中にはおおぜいいる。そして、おそらく遠い世界だけではなく、自分の周りにもそういう人たちがおおぜいいる。これは確かなことであり、このことをいつも忘れずにいたいと思った。
2002/3/20(Wed) <冬の森から花粉の東京へ>
北海道・冬の森から花粉真っ盛りの東京に戻ってきました。(TT)ぼろぼろ、ぐすぐす。2年半前のゼミ旅行での宿題がようやく一段落ついたという感じです。2年半前はまさにどん底、地獄を見ました。あれから身の丈にあったゆとりある生き方と学び方をと自分に言い聞かせ、ぐっと我慢してきました。そして、2年半前にゼミの最下級生だった学生たちが卒業するのに合わせて、北海道を再訪したという次第でした。2年生から4年生となり、ともに行った学生たちもそれぞれ成長のあとを見せてくれました。
北海道から戻ってきてわずか2日ですが、この間、実にさまざまなことがありました。喜びや悲しみが怒濤のように押し寄せてきました。春はしんどい季節です。どうかお身体に気をつけて、お過ごし下さい。今日はこの辺で。おそらく明日からベトナム・カンボジア紀行を再開することでしょう。
2002/3/14(Thu) <3/18まで休刊>
引き続き、南国ベトナム・カンボジア紀行を掲載していますが、こんどは今朝から北国に向かって出発します。北海道の森にて、雪と木々に囲まれた自然のなかで息をして、生活をしてきます。というわけで3/18までHPの更新をお休みします。
2002/3/14(Thu) <ベトナム・カンボジア紀行(46)>
(45) 少女
待ち合わせた時間に、アンコールワット前でキムと落ち合って、夕日が見える遺跡に向かった。その道中に、アンコールワットで結婚式を挙げているカップルに出会った。華やかな結婚式だった。少し時間が遡るが、アンコールワットに到着したとき、参道前で物売りの子どもから子どもたちから絵はがきとTシャツを買った。フィルムや絵はがき、写真集、Tシャツ、おみやげなどを売っている7、8歳の少女たちである。私が絵はがきを買ったものだから、ほかのものも売りつけようと懸命に売り込んできた。かさばるからと断ると、それなら帰りに買ってくれという。あいまいな返事をしていると、「帰りに絶対買ってよ、お兄さん」と言い、これプレゼントと言って、工芸品の腕輪をはめてくれた。絵はがきを買っただけで腕輪をくれるなんて、気前のいい女の子だなあと感心していたが、帰りの参道でふと気がついた。
この腕輪は、獲物の印ではないか。数多くの旅行客の中から目をつけた獲物を選び出すための仕掛け。わずか7、8歳の少女にここまでの才覚が働いていることに驚いた。このことに気づいた私は、腕輪を外し、ポシェットに入れた。ところが、である。アンコールワット前でキムと落ち合うとすぐに、「お兄さん、お兄さん」とあの少女が駆け寄ってくるではないか。2時間以上前にほんの一瞬見ただけの私を覚えていて、そして、出てきたわずかの瞬間につかまえようとする嗅覚はあまりにも見事だった。私が一人でぼやぼやしていたら、当然ながら、少女からおみやげを買うことになっただろう。しかしながら、キムは私に夕日を見せようと急いでいた。彼にとってはおみやげどころじゃなかった。そして、彼は私と少女のいきさつを知るよしもなかった。彼にとって少女はただの物売りの一人だった。私を乗せたバイクはすぐに出発した。少女は追いすがったが、引き離された。「オー、マイ、ゴッド!」少女の叫びが、胸に突き刺さりながら、私はアンコールワットを去った。
2002/3/13(Wed) <ベトナム・カンボジア紀行(45)>
(44) みたびアンコールワット
別の場所で食事をしたキムが日本料理店に迎えてきてくれ、バイクに乗ってホテルに戻った。フロントでアンコールワットのパスポートを受け取り、部屋でシャワーを浴びたあと、みたびアンコールワットに出かけた。今度は、観光というよりも、ただそこにたたずむために出かけた。アンコールワットの建物の縁に腰をかけて、ぼんやりとカンボジアの空を眺めていると、一人の若い僧侶が近づいてきた。いろいろと案内をしてくれるという。こちらは結構だというのに、わけのわからない案内をする。そして、次は自分の写真を写させてあげようという。一枚撮ると、お金をくれという。面倒なので、1ドル渡そうとすると、違う違うという仕草を見せ、ちょっとこっちに来いという。その僧侶は、ちょっと奥まった場所に私を連れ込むと、1ドルは少なすぎる、10ドル渡せという。ぼったくりのクソ坊主である。「なんだと、貴様には1ドルでも高すぎる」と、いつものように怒って立ち去ろうとすると、その1ドルをよこせという。腹が立ったが、面倒なので、1ドル札を渡して、そこを去った。最悪なニセ坊主だった。
こうしたニセ坊主さえいなければ、アンコールワットはたたずむにいいところだった。いたるところに座れる場所があるし、空も青くて美しい。アンコールトムとは違い、アンコールワットでは検札が厳しく、内部には物乞いが入れないようになっている。だから、こうして坊主に変装した物乞いがいるのであろう。あるいはほんとうの僧侶のなまぐさ坊主なのかもしれない。
アンコール遺跡の観光地化に伴い、いずれはアンコールトムにも物乞いが入ることはできなくなるだろうと、キムは言っていた。物乞いはときには不愉快なこともある。しかし、これがカンボジアの現実であり、南北問題の現実である。旅はただ心地よさ、快適さを求めるものではない。異質と出会うこともまた旅の楽しみである。アンコール遺跡には心打たれたが、カンボジアの貧しさにも気持ちが揺れた。そして、貧しさのなかにも、人々のくらしの豊かさを垣間見て、自分たちのくらしを見つめ直させられた。旅行客とそこに住む人々との垣根が高くなることにより、世界の“今”と出会えなくなるのは、寂しい。
2002/3/12(Tue) <ベトナム・カンボジア紀行(44)>
(43) 日本料理店“銀河”
田舎で楽しく過ごしていたら、もうとっくにお昼の時間を過ぎていた。カンボジアの田舎の風景と人々に夢中になり、時間を忘れていた。キムはそんなそぶりは少しも見せなかったが、お腹ペコペコだったにちがいない。少し奥深くに入り込んだため、帰りには道に迷ったりもしたが、それでもなんとかシェムリアプの町に辿り着いた。田舎をめぐっている間、カンボジアに地雷が埋め込まれていることなど、すっかり忘れていた。
さて、町に戻り、3日目の昼食にしてはじめて、自分で食事を選べるときが来た。ここは迷わず日本料理店“銀河”に直行してもらった。店先でキムと別れ、のれんをくぐると、ここもお客は私一人。内装は日本料理店ぽい雰囲気で慣れ親しんだ風景だった。カンボジア人の店員さんがやってきて、注文をとる。寿司、とんかつ、各種定食、何でも揃っている。私は、ちょっと考えて、とんかつ定食。結局、日本と同じだ。出てきたお茶も日本茶で、ほっと一息。トイレもきれいでさらにほっと一息。
カンボジア人の店員さんと話をしていると、食事がやってきた。とんかつのほか、サラダ、小鉢、煮物、茶碗蒸しなど、驚くほど豪勢ではないか。箸を伸ばすと、どれもこれもはらわたにしみいるほどおいしい。涙が出る思いだった。この3日間の断食を取り戻そうと、並んだ料理のすべてを食べ尽くし、生き返った気分になった。これまでであれほど日本食に感謝したことはなかった。(といつも海外旅行のとき言っているような気もする)食事中、支配人の日本人男性も顔を出してくれ、その方といろいろと話をした。その方は、仕事でカンボジアに来たことが縁で、こちらで料理店を始めたそうである。はじめはプノンペンで料理店を開いたが、軌道に乗った頃、カンボジアの政変で店を閉じるはめになり、再度、シェムリアプで挑戦しているとのことだった。不屈の精神に感銘を受けた。空腹に日本食がしみわたっている私には、支配人の男性が神さまに見えたのは言うまでもない。会計を済ませ、この豪勢な食事がわずか6ドルということを知ったとき、いろんなものを人任せにしていると、ぼったくられるだけだということに改めて気づかされた。おそらく、私は、昨日までの何も食べることができなかった3食分のために、100ドルは支払っていたにちがいない。今後、カンボジアに来ることがあれば、ひたすら“銀河”で食事をとることにしよう。そうすれば、何泊でも生きていけるだろう。
2002/3/11(Mon) <ベトナム・カンボジア紀行(43)>
(42) さらなる田舎へ
トレサップ湖を離れると、さらなる田舎へ向かってバイクは走った。私は、カンボジアの田舎で、子どもたちの写真、大人たちの写真を何枚も撮った。両替した小さな紙幣は、写真のお礼として、人々に渡すのに役に立った。HPの表紙を飾っている写真は、このときに撮ったものである。彼らはたぶん兄弟姉妹だと思う。バイクを止めたキムと私を見つけると、小川を越えてやってきた。見かけない人間がやってきたことが珍しくて、興味深くてたまらない様子であった。もちろん、電気もないから、テレビもない。本来子どもたちがもっている好奇心がすり減らされていないので、人々や世界に対する関心が旺盛なのである。子どもたちは、お金を目当てに寄ってきているのではなく、ただ珍しいから寄ってきている。そして、私は、キムから子どもたちにお金を渡してほしいと言われていたから、別れるとき、お礼に小さな紙幣を渡した。キムはカンボジアの子どもたちに私が小さなお金を渡すことをとてもうれしく感じていた。さて、小川を渡ってきた4人の子どもたちをカメラにおさめ、シャッターを切ったとき、もう1人の男の子は、小川の向こうにいた。彼は、行こうかどうしようか迷っていた。「おいで」とさそって、5人揃って、もう一度シャッターを切ったのが表紙の写真である。子どもたちの微妙な表情が何とも言えない。
田舎では、結婚式に遭遇したり、村に学校を作ろうと募金をしているお坊さんに会ったり(募金をしたところ、延々と拡声器で祝福のことばを頂戴して大変であった)、子どもたちと遊んだり、楽しい時間を過ごした。村にある小さな橋を越えたとき、川で洗濯をしている女の子に心を惹かれたので、カメラにおさめようとした。ところが、その女の子は大変な恥ずかしがり屋で、カメラを向けたところ、川にざぶんと飛び込み、橋の下に隠れた。その様子を、そこに集まってきた子どもたちがはやしたて、橋の下をのぞき、笑い合っていた。子どもたちの関係性のやわらかさが何とも心地よく、温かい気持ちになった。
2002/3/8(Fri) <ベトナム・カンボジア紀行(42)>
(41) 湖上
堤防のような道が行き止まりになったところが、トレサップ湖だった。湖岸には、エンジンを積んだ舟がたくさん並んでいる。すべて観光用である。漁をする人たちはエンジンのない舟に乗っている。観光用の舟を出してもらうのに20ドル必要なのだが、迷わず舟に乗ることにした。私は、川や海や湖といった水場が好きなので、旅したところに舟があればいそいそと乗ってしまう。水上という視点が好きなのだ。標高0メートルの地点からみる風景は、背伸びをすることがないので、気持ちを落ち着かせてくれる。だから、一艘20ドルでも迷わず舟に乗る。それでも、一艘あたりの価格なので、こうしたときには、一人旅は非効率である。舟は20人ほども乗れる大きさだった。
キムが自分も一緒に乗るのか、それともここで待っていたほうがいいかと聞くので、もちろん一緒に乗ろうと誘った。最初に乗った舟はエンジントラブルで動かず、隣の舟に移って、出発した。お金を受け取り、舟を管理しているのは20歳の青年なのだが、10歳にならないような少年も乗っていて、ほとんどその少年が一人で操縦している。青年はときどき少年に指示するだけである。下請け制度というか、何というか、すごいシステムである。それにしても、10歳にならないような少年であるにもかかわらず、船頭として一人前の働きをしていることに驚いた。
舟ははじめ狭い水路を通っていった。両岸には、木造の家が並んでいる。だんだんと水深が深くなると、両岸の家々も水上に入っていく。湖上の生活というのは、聞いたことはあったが、これだけ大勢の人たちが湖上に住んでいるということは驚いた。ちょっと立派な白い壁の建物があったが、それは学校だった。湖上に学校が建っており、生徒たちが大勢学んでいた。湖岸では、子どもたちが裸で遊んでいる。子どもたちは、舟の私たちを見つけると、はしゃいで、ぽちゃんと湖に飛び込んでくる。サービス精神満点の子どもたちであった。湖の生活は、子どもたちにとっては、楽しそうであった。
湖上には、家や学校のほか、お店もあり、舟の物売りもいた。漁をするものあり、交易をするものあり、生活のある風景だった。狭い水路を抜け、大きな湖に出ると、湖とは思えないような大海原が広がっていた。はるかプノンペンまで続いている湖である。岸からは数キロ離れたが、乾期のピークにはそこまで干上がってしまうという。また、雨期には、湖上の家々は完全に水没するので、人々は村まで退却するとのことだった。
同じ地球上に、このような生活をしている人たちが住んでいるということが、何とも不思議だった。しかし、これもまた人間の生活であり、ある意味、こちらのほうが無理がないような気もした。深夜まで塾に通って進学し、就職したら通勤電車に揺られてマイホームのローンを払う生活と、働けるようになるまで思う存分遊び、働けるようになれば、湖上の家から舟で漁に出る生活、どちらも今、現実にある生活なのだと、標高0メートルの湖上で背中をのけぞらせ、青空を見上げながら、不思議な感覚にとらえられた。
2002/3/5(Tue) <本日休刊>
こんばんは。花粉症真っ盛りのシーズン、いかがお過ごしでしょうか。現在、〆切間際の仕事が混み合っていて、更新しづらくなっています。というわけで失礼いたします。
2002/3/1(Fri) <ベトナム・カンボジア紀行(41)>
(40) 田園
メインストリートから少し外れると、未舗装の道路が続く。水たまりが巨大な穴をえぐっており、バイクの運転はかなり難しいと思われたが、キムは有能なドライバーだった。ちょうど12月は結婚シーズンということで、お日柄も良かったのか、結婚式に遭遇することがしばしばだった。カンボジアは貧しいとはいうけれども、ただ貧しいわけではなく、結婚式に参列する人々の服装は、とてもおしゃれであった。南国の民族衣装をまとった女性たちはとても美しかった。過酷な時代の中にあっても、服装や結婚式といった人々の文化は、根強く生き延びてきたのだろう。結婚式をほんのわずか垣間見るだけで、この国が決してずっと貧しかったのではないことを知ることができた。
カントリーサイドに入ると、これぞカンボジアという風景に出会うことができた。最初は、高床式のわらぶきの家である。地理の教科書の口絵に載っているあの家で、ほんとうに人々が生活しているということに何か感動した。高床式のわらぶきの家がカンボジアの一般的な家だそうだ。キムもまた、このような家に住んでいるらしい。湿気がむんむんとする地域の知恵である。ここで、もしカンボジアでみんなが冷房、除湿完備の“近代的なハウス”に住むようになることをシュミレーションしながら、呆然となった。この高温多湿の地方に、閉ざされた家を建てるのは、あまりにも不経済なのである。しかし、これは私たちの社会にもいえることではないだろうか。日本も高温多湿の国である。だからこそ、古い家屋では、湿気を避けるために、水場を外の一段低いところにおいている。土間は、こうした知恵の賜物であった。
言葉を換えていえば、近代化とは、後進国と呼ばれる国々を踏み台にして、自分たちが快適である反面、地球規模で考えるときわめて不経済な仕組みをつくることではなかったのか。このようなことを言いつつ、私は近代化の一つの象徴でもあるパソコンが好きで、PC WATCHというWebサイトを欠かさず読んでいるが、そこでテクニカル・ライターの元麻布春男氏が次のような文章を掲載している。 全文はこちら
「筆者がまだ小学生だった30数年前、世界で最も貧しい国として習った国の多くは、30年以上たった今も、最も貧しい国のままだ。生きるか死ぬかのギリギリで生活している。こうした国の生活水準がほとんど変わらないのに対し、先進国(もちろん日本も含まれる)の経済は、IT技術も含め大幅な進歩を遂げた。/30年あまりの時間は、最も貧しい国の生活を底上げすることなく、先進国との格差をむしろ増大させてきた。だからこそ、先のテロではアメリカの富の象徴(世界貿易センタービル)と、力の象徴(ペンタゴン)が同時に標的となったのではなかったのか。世界には、技術や情報と無縁で、アメリカの富や権力を怨嗟の思いで見ている人々が大勢いることをこのテロは示している。」
この文章は、<Intel Developer Forum>略称IDFのSpring2002における「技術こそが世界を変え、経済の成長をもたらす。技術をすべての人に、いつでも、世界中のどこにでも届けようではないか」という基調講演に対する著者のコメントである。パソコンや周辺機器の売り上げに寄与する文章を書くことを要請されているテクニカル・ライターの著者が、このような文章を掲載されたことに対し、私は敬意を表している。そして、元麻布氏がアメリカの最先端のコンピューター産業の頂点に立つインテルのフォーラムにて思ったのと似たことを、私はアメリカとは対極にあるであろうカンボジアの田舎で考えたのだった。
私たちの世代は小さい頃、先進国と発展途上国という区分で世界の国々について教わった。発展途上国という表現は、いずれは先進国になるということを意味していた。ところが30年近くの年月が流れても、ごくわずかの例外を除いて、発展途上国が先進国の仲間入りをしたという話は聞かなかった。システム論の考え方では、先進国が先進国たりうるのは、周辺の後進国を従属させているからであり、すべての国が先進国になるというのはあり得ないことなのである。今考えてみると、発展途上国というのは、表現の欺瞞だったということになる。
こうしたことは、ある程度、日本にいたときから考えていたが、すべて頭の中でのことだった。しかし、カンボジアの大地に立ち、IT革命だ、ブランドだ、それでいて、不況だと騒いでいる日本社会の現実のほかに、日々をまさに<生きる>ために働き、生涯、娯楽だとか、旅行だとかと縁がない人々の現実があることを、この目で見たのである。そして、これらの2つの現実は、別々の世界のことではない。1つの世界でときを同じくして存在しているのである。
私は、今回の旅では、これら2つの現実がどのようにつながり合っているのかを探究するところまではいかなかった。このことは、今後の課題である。それでも、わずか3日前まで日本にいた自分が、まるでタイムスリップをしたように、違った世界に入り込み、これらの世界が同時に存在しているということを、実感させられた。
ただ、一言つけ加えておかなくてはならないことは、世界は、先進国において科学万能を信奉している人たちと、後進国で先進国の富や権力を「怨嗟」の思いで見ている人たちだけで構成されているわけではない。先進国においても科学ですべてが解決するという考え方に疑問をもつ人たちがいるし、カンボジアのほとんどの人々は、アメリカや日本に対して「怨嗟」の思いなどまるでもっていないのである。したがって、テロを生み出す社会背景が確かに存在する一方で、テロを正当化したり、ある特定の国を悪の枢軸国呼ばわりすることは、どちらも間違ったことなのである。
このようなマクロな視点のほかに、心に残ったことは、カンボジアの人々、子どもたちの表情のやわらかさだった。以前、大学時代に、教育原理の講義でおいて、林竹二の授業を受ける子どもたちの写真を観たことがあった。どんな固い心をもった大人でも、思わず微笑まずにはいられないほど、屈託のない表情がそこにはあった。カンボジアの子どもたちの表情は、あのときの写真と少し似ていた。人間ってこんなにも素敵なのかと思わされるような表情であった。これらの国を従属させているはずの国では、まずみられないような人々の表情であった。
道に沿って、川が流れていた。川はトレサップ湖まで続いている。川の上には家が建っていた。床下が船つき場になっていて、合理的なつくりである。ちょうど地下にガレージがある家のようで、これならば、出勤が楽である。
バイクで集落を抜けると、両手に田園風景がひろがった。日本にも水田はあるが、ここはまさしく水田であった。湖の延長である。道路はまわりの水田よりかなり高くなっていて、堤防のようである。水田は雨期になると、完全に湖底に沈む。カンボジアへの飛行機の窓から感動した、果てしなく続くトレサップ湖の滲み出た場所を、今、バイクで走っているのだ。アンコールやシェムリアプの町とは違うカンボジアがそこにはあった。限りなく広がる水田、ぽつりぽつりと働く人々。とにかく見渡す限り、どこまでも続く低地が360度、広がっていた。
2002/2/27(Wed) <ベトナム・カンボジア紀行(40)>
(39) 紙一重脱出
明くる日もまたトーストと目玉焼きだけの朝食をとり(結局、昨日の朝、トーストと目玉焼きを食べたっきり何も食べていなかったので、これでもありがたかった)、朝8時、迎えに来てキムと落ち合い、私たちはさっさとホテルを出発した。今回はキムがホテルから離れた木陰で待っていてくれたのと、私がさっさと出たため、トラブルはなかった。しかしながら、出発前に荷物を整理していて、アンコールワットのパスポートをガイドのコソルさんに預けたままだったことに気づいた。しまった、大切なものは人に預けるべきではなかったと思った。それでも、コソルさんの携帯の番号を教わっている。だから、ホテルから電話をかけることはできた。しかし、ご存じのように、このホテルはぼったくりホテルである。電話をかけたら、いくら請求されるかわかりはしない。ただでさえ、カンボジアでは電話代は高いのに、このホテルからかけるわけにはいかない。
私はこのいまわしいホテルを出て、キムのバイクの後ろにまたがった。爽快だった。私の前には自由があった。カンボジアの田舎を訪れる前に、キムに2つのお願いをした。1つ目は、両替屋に連れていってもらうこと、2つ目は、電話屋に連れていってもらうことである。両替屋のお姉さんは、私のことを覚えていた。昨日、コソルさんと立ち寄ったからである。私は、今回、ドルだけでなく、リエンに両替をしてもらった。ポーチいっぱいの紙幣が手に入った。この軍資金をもっていけば、カンボジアの田舎を心おきなく旅することができる。キムのおかげでスムーズに両替ができた。あとで、両替屋のお姉さんは、シェムリアプでも有数の金持ちの娘で家を何軒ももっていると、キムから教わった。続いて、電話屋に連れていてもらった。電話屋は、街角にある。電話屋は携帯電話をもっていて、電話番号を告げるとつないでくれる。そして、携帯の通話時間で、お金を払うシステムになっている。外国人だと間違いなくぼられる。しかし、キムがついているので、安心である。コソルさんの携帯に電話を入れた。
携帯電話はすぐにつながった。何と、ちょうどそのとき、コソルさんは私のホテルに来ていたのだ。彼は私をつかまえるためにホテルに来ていた。もちろん、パスポートを返すためではない。リーさんの車、あるいは、コソルさん推奨のバイクライダーを、私に薦めるためである。コソルさんは、私に今どこにいるのかとしつこく聞いてきた。私は、さっさとホテルを出たことの幸運に心躍らせながら、「街にいる」というだけで、正確な場所は答えなかった。
コソルさんに、私のアンコールワットのパスポートをホテルのフロントに預けておくように言って、電話を切った。電話代は、わずかに1000リエンほどで済んだ。ホテルでかけたらきっと10ドルはとられただろう。8時に出発したのも正解だった。コソルさんの襲撃をかわし、幸先よく、カンボジアの田舎への旅に出発した。
2002/2/26(Tue) <ベトナム・カンボジア紀行(39)>
(38) ヤン
ホテルに戻ると、空気は一変していた。ボスはそこにおらず、ホテルマンたちは、私に対して、とてもフレンドリーになっていた。ここのボスに対して、憤りを感じていたのは、私だけではなかったらしい。ホテルマンたちも、ボスの理不尽さと吝嗇家ぶりに、ほとほと嫌気がさしていたようなのだ。キムが私に対して、No Problemと言ったのは、間違いではなかった。キムとホテルマンたちは、決して険悪だったわけでもなく、ホテルマンはボスの指示にしたがっていただけだったのだ。ボスとの対決のおかげで、私はホテルマンたちの興味をひいたようで、ホテルマンたちは親しげに歩み寄ってきた。私が危惧した簀巻きにされて山に捨てられるというのは杞憂であったようで、あちらもまったく一枚岩ではなかったのだ。
とくに親しくなったのがヤンという名のホテルマンだった。ヤンはとても人が良い青年で、私はヤンとほかのホテルマンたちと、夜遅くまでいろんなことを話し合った。ちょうど、私がホテルのボスとやり合ったあとでもあり、話題の中心はお金の話だった。私は、このホテルのために1万円(=$76)も出しているといった。ヤンとホテルマンたちは、驚いた。私は、1万円というのは日本のホテル代としても決して安くはないという話をした。そして、お湯が出なくて、ロビーが暗くて、1万円というのは、too expensiveだと言った。ヤンは、済まなそうな顔をして私に謝った。私は、ヤンに怒っているわけじゃないと返答した。そして、月々もらっている給料について尋ねた。ヤンの月給は、わずかに35ドルだという。何と私の1泊分の宿泊費のために、彼は2ヶ月働き続けなければならないのだ。さらに驚かされた事実があった。ヤンは、24時間ホテルのために働いていると言うのだ。いくら働き者のカンボジア人とはいえ、そんなことできるわけないじゃないかと、私が応答した。すると、彼はロビーの椅子を指して、微笑みを浮かべながら、これが私のベッドだと言う。ヤンは住み込みのホテルマンであり、自分の部屋を与えられていないのだ。ロビーの椅子、それもソファーではなく、硬い木の椅子に、彼は寝泊まりしていたのだった。夜遅く帰ってくる客があれば、その客のために玄関の鍵を開け、朝早くアンコールワットの日の出を見るためにモーニングコールを要求する客があれば、その客のために電話をかける。彼の仕事は、ほとんどホテルマンというよりも、ホテルの使用人だった。仕事ではなく、その生活のすべてが、わずかな賃金のためにホテルに拘束されているのだった。ヤンだけではなく、ほかのホテルマンたちも、似たり寄ったりの生活だった。
ヤンは、私に今回の旅行の費用を尋ねた。私がだいたいのところで答えると、彼はその金額を日数で割り、叫び声をあげた。彼の一年分の収入が、私の一日分の滞在費だというのだ。彼は、何てことだという顔をしながら、笑った。おそらく一日分というのは、ちょっとおおげさだったと思うが、月給35ドルだと、年間420ドル、だいたい5万円である。今回の旅行は、トータルで二十数万円かかったので、彼の5年分の収入にあたる。驚くべき、南北格差であった。恥ずかしながら、私ははじめて南北格差、さらには歴然たる階級差というものが、世界を覆っていることをこの身で実感させられた。
日本とカンボジア、私とヤンの年収を比較すると、約100倍の差がある。このままの状況が続くならば、ヤンは一生汗水垂らして働いても、日本の新入社員の一年分の給料を得ることもおぼつかない。問題は、これほどの所得(人件費)の格差があるにもかかわらず、ホテル代が日本と同じくらい高いということである。
この問題を、一言で解くならば、カンボジアでは、労働に対してものすごい収奪が行われているということである。私が払った1泊1万円のうち、ホテルマンに行くのはおそらく数十円程度。あとは、日本の旅行代理店、ホテルのボス、さまざまなところでぼったくられている。昨晩の5ドルのバイクにしても、ホテルマンの手には1銭なりとも入ることなく(ホテルマンは特別のサービスを課されても、35ドルの月給以上のものは手に入らないのだ)、ボスのふところに入っていることは明らかである。そうであるから、私がどこのバイクライダーを雇おうとも、ホテルマンにはほんとうにところは全く関係ない。ボスの命令で、ホテルマンやガードマンたちがキムと私を囲んでいたが、彼らはほんとうはどうでもよかったのである。
メモ用紙に数式を筆記しながら、こうした話をしているうちに、ホテルのロビーは、革命前夜のようなエキサイティングな雰囲気になってきた。世界的な不平等という問題を、私がはじめて肌で感じた瞬間であった。
ホテルマンのヤンは、貧しいにもかかわらず、親孝行だった。わずか35ドルの収入のうち、20ドルを農村に住む両親に送金しているという。ヤンは、貧しく、厳しい生活の中にあって、英語を習得し、知的好奇心も豊かで、教養のある青年であった。話を聞いていくうちにわかったことだが、祖父母はポル・ポト時代に虐殺されたということだった。おそらくそもそもは知的な家系だったのだろう。ヤンは、心やさしく、人への配慮も十分で、学ぶ意欲もある青年だった。カンボジアには、ヤンのように労働意欲あふれる若者たちがたくさんいる。にもかかわらず、不平等な社会システムのため、彼らにふさわしい仕事がない。それでも彼らは希望をもって生きている。あの貧しいヤンでさえ、休暇をもらって実家に帰ると、もっと貧しい近所の子どもたちが寄ってきて、「100リエン、100リエン」とお金をねだるらしい。(3000リエンで約1ドル/100リエンは4円ぐらいか)寄ってくる子どもたちにお金を渡しているうちに、ヤン自身のお金がなくなることもしばしばらしい。このように貧しさの中を生きる彼だったが、それでも、彼が私にお金を要求することは一度としてなかった。カンボジアでは、友だちには決してお金を求めない。ヤンと私は、たしかに友だちだったのだ。
ヤンの悩みは、結婚したくても結婚できないことだった。彼は言った。カンボジアでは、貧乏だと結婚できない、と。私は、日本では、貧乏な男でももてるヤツはいる。貧乏でも結婚できる、と返答した。ヤンは、日本はすばらしい国だ、と言った。しかし、考えてみると、同じpoorということばを使っているけれども、ヤンのいうpoorと、私のいうpoorはまったく意味するところが違っていたのだ。私は日本で人並みの暮らしができないことをpoorと表現したが、ヤンは2人で食べていくことができないことをpoorと表現していたのだ。仕事のないカンボジアでは、女性の仕事はさらにない。だから、ほとんどの場合、女性に食べさせてもらうこともできない。だから、ヤンは、このホテルでの使用人生活から脱出しないかぎり、結婚することはできないのだ。産業が育ち、仕事さえあれば、彼はこのホテルでの理不尽な労働から逃れられる。しかし、今のカンボジアの状況では、曲がりなりにも寝食が保証されているホテルマンという仕事は、決して悪い仕事ではないのである。
私は、日本のことについてもいろいろと話をした。日本は経済的には豊かであるけれども、通勤に時間がかかったり、人々は必ずしも幸せではないことなど。ヤンとホテルマンたちは、目を輝かせながら、日本の話を聞いていた。私たちは、薄暗いホテルのロビーで夜が更けるまで語り合っていた。
2002/2/25(Mon) <ベトナム・カンボジア紀行(38)>
(37) 帰りのバイク
マッサージの店を出ると、そこにはキムが待っていてくれ、私は彼のバイクにまたがり、走り出した。1時間という約束でも、必ずその前に待っていてくれる。この律儀さには頭が下がる。私は、ちょっとした冒険を終えて、バイクの上で愉快な気分だった。キムはもう一軒マッサージに行くか?という。いや、もういい、と答える。セックスはしたか?と聞く。していないという。していないのか?とキムは驚く。マッサージでセックスをするなんて知らなかった、と私は答えた。カンボジアは不思議なところだ。カンボジアでは、カラオケもセックスするところらしく、相当盛んだったそうだが、女性の奪い合いから何度か殺傷沙汰が起こり、ついにカラオケは禁止になったらしい。
カンボジアはあまりにもあからさまであるが、セックスのことが巧妙に隠され、いやらしいものとされている日本社会とくらべると、何か開放的な感じすらある。カンボジアに行くことで、セックスということばに対して、ヘンな衒い(てらい)がなくなったような気がする。あまりにも当たり前な人間の営為と欲望。それをねじくれたかたちにするのも人間のしわざである。あっけらかんとしたカンボジア。もちろん、そこには人身売買などの人が人を支配するシステムが根深く残っているわけであり、ただカンボジアを礼賛することは危険である。しかしながら、カンボジアで人々と話を交わすうちに、自分のなかで生きるということはもっとシンプルなことではないかと思えるようになったことはたしかである。
キムと夜の町を走り、ホテルに戻った。ホテルの外玄関の前で、キムと次の日の打ち合わせをした。朝8時にホテル前で待ち合わせをすること。そして、午前中、カンボジアの田舎をまわりたいということ、午後からはアンコールワットを再訪し、夕日を見たいということ。打ち合わせを終えて、キムと別れた。そして、キムを見送ると、ホテルの内玄関まで歩き、扉を開けて、ロビーに足を踏み入れた。すると、ロビーの空気は一変していた。
2002/2/23(Sat) <ベトナム・カンボジア紀行(37)>
(36) マッサージ(18歳未満のよい子は読まないこと(笑))
さて、夜の町といえば、当然あやしい。気心の知れたキムと出かけたのは、当然あやしいところに突撃するためだった。そして、私たちは、マッサージの店に向かって進撃した。マッサージの店なんて、どう考えてもあやしいのだが、そのあやしさも含めて、何でも見てみよう、体験してみようと思っていたので、マッサージというのは格好のターゲットであった。実は、このあと、ベトナムも含めて、3回マッサージの店に通うが、マッサージを通して、新たな世界が私の前にひろがったのである。
さて、キムが連れていってくれたマッサージの店は、メインストリートではなく、路地裏に入ったところにあった。キムは1時間後に迎えに来るといって、去っていった。店に入ると、いきなりカンボジアの美女たちが20人ほどずらっと並んでいた。いや、もっといたかもしれない。ここも例外ではなく、客は私一人で、そこにいるのはスタッフばかりであった。40以上もの目が一挙に私を見た。かなりあやしかった。これはだたのマッサージではないという気配が漂ってきた。男のスタッフが、気に入った女の子を選べという。ここにいる女の子たちから、このスケベオヤジと思われているにちがいないと思い、どきまきしたが、あせらず(いや、おおいにあせって)きれいな服を着た女の子を指名した。なぜその女の子を指名したかというと、店に入ったとき、最初に目が合ったからである。
前金で従業員に20ドル払った。キムは15ドルと言っていたが、よくあることである。紹介したバイクライダーに、キャッシュバックもしなくてはならないのだから、仕方がない。今夜、キムとはただでの契約だ。5ドル(いや、その中のいくらか)はキムのものだ。1時間20ドル。マッサージとして十分に安い。日本でマッサージを受けたらこんなものでは済まない。カンボジアは世界で最も電話が高い国の一つらしく、何と国際電話は1分8ドルかかる。さらに、ホテルでフィルム1本が7ドル。これらにくらべると、1時間20ドルのマッサージは安い。マッサージがカンボジアの地場産業だからだろう。何だかちょっと悲しい。
さて、20人の女性が立っているところからわずかに壁一つ隔てた個室に連れていかれた。個室だ。さらにあやしい。薄い壁なので外の声が聞こえてくる。服を脱げというゼスチャーをされたので、私は服を脱いだ。そして、メガネもとれという。ポシェットとメガネをとった。下着一枚という姿になった。そして、私は病院の診察室のような白いベットに横たわり、マッサージを受けた。ほんとうにちょうど診察室のような個室だった。
いかにもカンボジアらしいといっては失礼だが、マッサージはあまり上手ではなかった。ときどき痛かった。このあとに経験するベトナムのマッサージとくらべると、雲泥の差だった。女性は英語がしゃべれなかった。私はカンボジア語がしゃべれない。ちょうど一日目のレストランと同じ状況だった。カンボジアでは、会った男性(農村以外)は必ず英語をしゃべることができた。英語をしゃべらなければ、仕事にならないからである。しかし、女性はほとんどしゃべることができなかった。だから、コミュニケーションには苦労した。
あまり上手なマッサージではなかったけれども、腕力は十分だったので、それなりに効いた。一日中炎天下を歩いていたので、下手なマッサージでも、それなりに心地よかった。ときどき、痛かったが、痛いというのは、ことばが違ってもわかるらしく、あまり問題はなかった。
さて、読者もそうであるように、私もこの個室で一体何が起きるのかと期待したが、女性はただただ黙々とマッサージを続けるばかりだった。私はうつぶせにされたり、腹這いにされたりした。ぼーっと長かった一日のことを考えていた。そして、ホテルでの大騒ぎのことを思い返し、ホテルに戻ったらどうなっているのだろうかとぼんやりと思っていた。
もうだいぶ時間が経っていた。そのとき、女性は、もう準備はいいのか?というような話を私にしてきた。ことばが通じないのだが、私の大切なものを指さしていうものだから、ナニを意味しているか、すぐにわかった。今までのマッサージは、前戯だったのかと思いつつ、全然、前戯にはなっておらず、私の身体はただ弛緩していた。
彼女は、両手を使ったゼスチャーで、セックスをするのか?と尋ねてきた。sexという英語も知らないようだった。How much ? と私は尋ねた。これは知っていたようで、100ドルという返事が返ってきた。私が、カンボジアで最も使った英語がHow much?であり、次がtoo expensiveだった。このときも私は、too expensive と言った。女性を前にHow much?だの、too expensiveだの、とんでもない野郎だと言われれば、まさにその通りだが、ただただ私は彼女と会話するためのボキャブラリーをそのくらいしかもっていなかっただけなのである。そして、じっさいに私はお金をもっていなかった。
夜の町に繰り出すとき、はじめからあやしい場所に突撃するつもりだった。もちろん、あやしくなければ、面白くもない。しかし、あやしいところでは危険が伴う。身ぐるみはがされることだって十分考えられる。というわけで、パスポートやら、お金やら、カメラやら、ほとんどのものはホテルに置いてきて、身ぐるみはがされてもいいだけのわずかなお金だけをもってきて、バイクに乗ったのである。
もちろん、キムを信頼していたとはいえ、彼とも昨晩少しの時間会っただけである。何が起こるかわからない。だから、ホテルでシャワーを浴びるということで、一回部屋に戻って、夜の支度をしている。だから、20ドルを払った私には、もうほとんどお金はなかった。
彼女は、too expensiveということばがわからないようだった。だから、有り金を全部見せて、お金がないというゼスチャーをした。女性はほんとうにないの?という顔をして、ポシェット、ズボンを調べてみたが、あまりにもお金がないのであきれていた。こうして、現地の人にあきれられるようになれば、私がいよいよペースを取り戻したということである。ニッポン人なのに、なんでこんなにお金をもっていないのよと、情けなさそうな顔をする女性と別れて、私はマッサージ・ルームを出た。あやしいところも面白いものだと、愉快な気分になった。
読者の方は、もしそのとき、お金をもっていたら、おまえはどうしたのかとお尋ねになりたいだろう。まあ、それはそのときということで、このサイトは“神聖なる”大学の公式サイトでもあり、“親愛なる”同居人も熱心な読者の1人でもあるということで、今度、お酒を飲みながら、個人的に語り合うことにいたしましょう。
2002/2/22(Fri) <ベトナム・カンボジア紀行(36)>
(* 今週、学生たちとゼミ冊子作成のため、HP更新が滞りましたことをおわびいたします。仕事の多くを学生たちに任せたところ、手作りで納得のいく冊子が完成しました。内容はともかく装丁は申し分ない出来となりました。
それから、海の向こう、「塩の湖」氷上運動会はかなり荒れているようですが、たまのさんぽみちはどこ吹く風とばかりに、まだまだ南海旅便りを続けます。)
(35) 夜風
夜の風にさらされながら、私は昨日とは違う解放感を身体に感じていた。突破できるという解放感であった。私は興奮しながらキムにまくしたてた。「私は自分の仕事を終えて、ここに来た。私にとっては貴重な1週間だ。この1週間をどのように使おうがホテルの連中から指図される筋合いはない。私はこの1週間を自分が大切に思う人間とともに生きる権利がある」と。キムがすごいと思ったのは、あのようなトラブルのあとにあっても落ち着いていたことである。私は興奮し、うわずっていたが、彼の運転は、とても落ち着いていた。彼の背中は、私にとって安心できるものだった。彼は、私のことばを理解してくれた。「そうだ。君には、君が思った通り生きる権利がある。」彼はそう答えた。
キムは、カンボジアでは珍しく高校を出ていた。そして、キムの英語は、昨晩のホテルマンの英語とくらべると、はるかに出来がよかった。彼は、プノンペンの出身で、プノンペンに両親と恋人がいた。彼は、夢をもって生きていた。そのために、今、バイクライダーとして一生懸命に生きていた。キムのバイクのうしろに乗りながら、私は人にとって学ぶということと、夢をもつということがいかに大事かということを噛みしめていた。キムと私が話ができるのも、心が通じ合えるのも、互いに英語を学んできたからであり、また世界への関心を育んできたからである。また、夢をもっているから、彼は自分について語ることができる。そういう人間とは、気持ちが通じ合い、そしてより深くわかりたいという思いをもつことができる。こういう気持ちが芽生えたときに、はじめて友達になるのだということが体感できたのである。
日本では、学ぶことや、夢をもつことがバカにされているようなところがある。しかし、誰が何といっても、そうではないのだということを、私はキムのバイクの後ろで感じた。学ぶことや、夢をもつことをバカにされるのは、これまで学ぶこと、夢をもつことが違う何かにすり替えられてきたからである。私たちの社会では、しばしば、学ぶことが他者との間に隔たりをつくり、お高くとまって自己中心的になることと見なされ、夢をもつことが日常から逃避することと見なされる。学ぶことが世界への関心を育てることで、夢をもつことが自分への関心を育てることであるとするならば、それを否定したところには、何も生まれないだろう。
キムと出会い、殿様旅行から解放されて、私は自分を取り戻した。私たちの周りには、私たちを手段として扱う人々と、私たちを目的として扱う人々がいる。もちろん、人は人を手段として扱わないことには生きていけない。だが、それだけではなく、私自身のことを目的として扱う人々と出会うことのない人生は不毛である。お互いがお互いを手段としてだけではなく、目的として扱うときに、友情が生まれ、人を信じる心が生まれるのだということを、このとき、体感できたのである。カントのことばが、はじめて自分のなかで腑に落ちたのである。
2002/2/18(Mon) <ベトナム・カンボジア紀行(35)>
(34) 対決
ホテルでは騒ぎが持ち上がっていた。バイクライダーのキムが、ホテルマンたちに取り囲まれていた。ただならぬ雰囲気であった。私の帰着が遅れたのがまずかった。時刻は、7時半を10分ほどまわっていた。縄張り争いである。ホテルのボスの考えでは、ホテルの客は、ホテルが所有しているものである。その大切な金づるである客を、ペイペイのバイクライダーが奪いに来るとはどういうことだ、となる。キムが迎えに来たので、縄張りを荒らしに来るとは何事かということで、ホテルマンたちを動員し、排除にかかったのである。
そこに私が帰ってきた。私は周りのホテルマンたちに「何をしているんだ。この男は私の友達だ。今日、一緒に遊びに行くという約束をしている」と告げた。そして、キムに「遅れて申し訳ない。シャワーを浴びてくるから、待っていてくれ」と言って、部屋に戻った。部屋に戻って、これは厄介なことになったと思った。私はホテルに身売りしたわけではない。私は金を払ってホテルを利用しているだけで、ホテルの言いなりになるためにホテルに泊まっているわけではない。もちろん、これが正論である。しかし、このカンボジアというところで、どれだけ正論が成り立つのか。ホテルのボスが、おおぜいのホテルマンを使って、私の勝手な外出を拒もうとしている。これを正論で突き抜けることはできるのだろうか。身ぐるみはがれて、簀巻きにされて、どこかに捨てられはしないだろうか。また私はともかく、私がここで大暴れしたら、キムがこの先、仕事を続けていけるのだろうか。水のシャワーを浴びながら、いろいろと考えを巡らした。
しかし、このホテルに着いてから、お湯は出ないし、ロビーの電気は消すし、朝食はしょぼちいし、いろいろと腹に据えかねることがたまっている。ここで突破しなければ、一生後悔すると思い、肚をくくって、部屋を出た。案の定、そこには、ホテルのボス以下、ホテルマンたちが勢揃いしていた。そして、ボスが作り笑顔で、「町に行くのか? バイクライダーを用意する」と話しかけてきた。私は怒った。「余計なお世話だ。オレは自分の金を払って、このホテルに泊まっている。オレのやることに貴様が口をはさむ権利はない。」ボスは、私の言うことが理解できないという表情をして(私の英語だからほんとうに理解できなかったのかもしれないが)、クレイジーという仕草をした。ホテルの扉を開け、外に出ると、そこにはボスに命令されたホテルマンが、バイクを準備していた。私が、「ごめん、オレはキムと昨日から約束しているんだ」と言うと、彼は情けなさそうな顔をしたが、彼の手を握り、私はそこを去った。門柱のところにキムがいた。キムは、ホテルのガードマンらに取り囲まれていた。キムがAre you OK? と尋ねてきたので、私はOK! And you? と答えた。キムからOK! No Problemという返事が返ってきたので、私は彼のバイクの後部座席に乗った。すべて間をおかずに、こちらの間合いで、ボスに罵声を浴びせ、ホテルマンのバイクライダーを断り、キムのバイクにまたがった。そして、私たちは闇の中に走り去っていった。
2002/2/16(Sat) <ベトナム・カンボジア紀行(34)>
(33) 夜のレストラン
運転手とガイドさんに囲まれた殿様旅行の長い一日が終わろうとしていた。この夜のレストランが、パッケージの最後の付属物だった。また、昨晩と同じように、野外のレストランだった。しかし、毎食違ったお店だった。カンボジアの食事は合わなかったが、その中でもここが最悪だった。とにかく待たされた。食べることができない食事を待たされるというのは、何ともバカらしく、嫌なものである。はっきりいってアホらしい話であるが、パッケージなので最後までおつき合いしなければならない。さらに、食事の最後に出てくるフルーツが私の命綱なので、食事を止めてしまうわけにもいかない。朝にトースト1枚、昼にフルーツとアイスクリーム、そして一日中、炎天下を歩き回り、アンコールワットによじ登り、夕日の丘に登っているものだから、お腹はペコペコである。しかし、食事は食べられない。かなりストレスがたまる状況だった。
さらに、事態を悪化させたのは、バイクライダーのキムと7時半にホテル前で会う約束をしていたことである。昨日の様子では、7時にはホテルに戻れると判断し、7時半にキムと会って夜の街に繰り出す約束をしていた。しかし、レストランでもう7時を過ぎている。待てども待てども料理は出てこない。かなりいらついたが仕方がない。ようやく食事がやってきて、再び食べることを試みたが、やっぱりダメだった。海苔がたくさん入ったスープなど、見た目にはおいしそうで食欲をそそるのだけど、食べてみると、ダメだった。断っておくが、カンボジア料理そのものがまずいわけではない。ただ私にとってダメだっただけである。あとでホテルで会った日本人の女性は、カンボジア料理はおいしいと言っていたし、ベトナムで行動をともにした日本人の男性も、カンボジア料理は全然問題なかったと言っていた。だから、カンボジアの料理がまずいのではなく、私とフィットしなかっただけのことなのだ。
しかし、食事も一回ならば、合わなくても我慢できる。しかし、二日間、合わないと、かなりしんどい。やっぱり人間は脳だけで生きているのではないと思った。いくら脳がケタケタと楽しんでいても、食べられないとなるとだんだん気持ちがいらだってくる。外国に住むならば、食事のことをよく考えないと、あとでひどいことになると、そのとき思った。また、世の中、合わないということはある。合わないことを受け入れていこうとも思った。食事の時間、食事を楽しめなかったので、いろいろとこうした考えを巡らしていた。フルーツ(ここはバナナだけだった、ぐすん)だけの食事を終え、車に乗って、ホテルに戻った。ところが、ホテルでは騒ぎが持ち上がっていた。
2002/2/15(Fri) <ベトナム・カンボジア紀行(33)>
(32) 土産物屋
コソルさんは、土産物屋に立ち寄るかどうか尋ねてきた。せっかくだからと、のぞいてみることにした。入ったところは、いかにも日本人観光客向けの土産物屋だった。そこに売っているモノも、日本のどこにでもあるモノだった。例えば、伊豆の土産物屋にあるプレートの「IZU」が「CAMBODIA」に代わっただけのものが並んでいるといえば、想像がつくだろう。日本、いや、中国で作られた日本企業のみやげもの素材に、カンボジアのプレートが貼られて、売っている、それだけのことである。そして、値段も高かった。産業がないということの悲しさを感じた。カンボジアまで来て、お湯を入れると絵の色が変わるマグカップを、何十ドルも出して誰が買うだろう。私がまだ小さかった頃、そんなものが流行っていたような気がする。カンボジアの伝統工芸品があれば、きっと私は目を奪われたことだろう。しかし、そこには何もなかった。食事にはあふれていたカンボジアの匂いは、土産物からは脱臭されているかのようだった。
2002/2/14(Thu) <ベトナム・カンボジア紀行(32)>
(31) 赤とんぼ
夕暮れの丘を降りて、車に戻った。リーさんの運転でアンコールを離れた。帰りの車中で、ガイドのコソルさんがいきなり歌を歌い始めた。よく聞いてみると、なんと「赤とんぼ」ではないか。かなり調子がはずれていたが、何とか一番の歌詞を歌い終えた。続いて、二番らしきものを私が歌い出したところ、「二番もあるのか、ぜひとも教えてほしい」ということで、あとでメモして渡す約束をした。しかしながら、それっきり忘れてしまって、歌詞を渡しそびれたままだ。
それにしても、カンボジアで「赤とんぼ」を耳にするのは奇妙な気持ちだった。コソルさんは、この歌を歌うと日本人旅行客が喜ぶから覚えるようにと、上司に仕込まれたのだろうか。そして、日本人旅行客は、この歌を異国の地で耳にして喜ぶのだろうか。「赤とんぼ」は、カンボジアと日本の関係を象徴しているようであり、何とももの悲しい風が私の胸のなかを吹き流れていった。
2002/2/13(Wed) <ベトナム・カンボジア紀行(31)>
(30) 夕日
夕日スポットの寺院は、高い丘の上にあった。丘はかなりの傾斜があったが、コソルさんも同行した。丘を登ると、夕日とは反対側にアンコールワットが見えた。アンコールワットは夕日を受けて赤く輝いていた。寺院をのぼると、そこにはおおぜいの旅行客が夕日を待っていた。夕日を待つ人々は、皆、静かだった。コソルさんは、いろいろと説明を始めた。しかし、夕日に説明はいらなかった。私は黙った。カンボジアでは、地平線に夕日が沈む。南国の森林があり、そこに赤銅色の太陽が沈んでいった。美しい夕日だった。しかし、世界一の夕日というように、夕日に順番をつけるのはナンセンスだ。人は夕日そのものを見るのではなく、夕日を通して自分の心にふれ、生きる営みの切なさといとおしさを見る。いろいろあった一日が暮れていった。
2002/2/12(Tue) <ベトナム・カンボジア紀行(30)>
(29) フィルム
長い一日が暮れようとしていた。私たちはアンコールワットを離れ、夕日ウオッチングのスポットである丘の上に建つ寺院に向かった。フィルムが切れていたので、丘のふもとで物売りの子どもからフィルムを買った。カンボジアではもう4、5歳の子どもがちゃんと一人前に働いている。仕事のために、英語、日本語も覚えている。「お兄さん、お兄さん、フィルム」と、フィルムがぎっしりつまったビニール袋を下げて寄ってくる。How much?と尋ねると、1本5ドルという。私は、Too expensive!と驚きの声をあげる。少女は「高くないよ、お兄さん」と言いながら、4ドル、そして3ドルと値を下げていく。何度か値引き交渉をしてわかったことは、36枚撮りフィルム1本で3ドルが値引きの限界のようであった。どうも胴元から彼らへの卸値は2ドルか、それよりもう少し高い値段に設定されているようである。2本5ドルともちかけると、露骨に嫌な顔をされ、何とご無体なという態度をとられたから、彼らの儲けなんてほんのわずかなのだろう。
フィルム一本3ドルとは、日本に比べて随分高いような気がする。日本ではスーパーに行けば、3ドル(400円)で24枚撮りの3本パックが売っている。カンボジアは、貧しいのに、物価は高い。フィルムもあとで訪ねるベトナムより高かった。フィルムやおみやげ、いずれもカンボジアで作ったものではないから高いのだ。カンボジアは人件費も安いし、ここで作ったものならば、必ず安く生産できるはずなのだ。だけど、相次ぐ戦争、内戦のため、産業はいまだ壊滅状態である。だから、外国から持ち込んだものを売るしかない。流通もスムーズではないので、フィルム一本も日本や台湾、中国などからここまでやってくるだけで価格が跳ね上がる。それでも、観光地の現地販売で一本3ドルに抑えられているのは、子どもたちの懸命な販売努力のおかげなのかもしれない。ちなみに、私が泊まったぼったくりホテルのフロントでは、24枚撮りのフィルム一本を7ドルで売っていた。これこそクレイジーである。汗水たらして働いている子どもたちのほうがずっとずっとぼったくりではないのだ。
2002/2/11(Mon) <ベトナム・カンボジア紀行(29)>
(28) 落書き
さて、屹立する塔から降りて、コソルさんと再び同行し、続いて、アンコールワット内にある日本人の落書きへと案内された。石柱への落書きである。落書きと聞くと、「まったく日本人ときたらカンボジアにまできて落書きするなんて、もうモラルのかけらもないんだから」と思うところだが、この落書き、1632年(寛永9)にここを訪れた森本右近太夫のものだそうだ。落書きも400年近く経つと、貴重な歴史史料になる。
安土桃山時代から江戸のはじめにかけて、日本列島に住む人々が、東南アジアを雄飛していたことはよく知られている。はるか昔のことになるが、NHKの大河ドラマ『黄金の日々』は、当時の市川染五郎扮するルソン助左右衛門が主役で、国境を越えて交易にいそしんでいた。(大河ドラマのなかで、少年時代に出会ったこの『黄金の日々』が最も心に残っている。出だしの音楽と映像が印象的だった。)また、タイのアユタヤの日本人町で山田長政が活躍したことも有名である。ところが、藤木久志さんの『飢餓と戦争の戦国を行く』(朝日選書)によると、東南アジアに渡ってきた日本人は、このような豪商や武将だけではなく、奴隷として売られてきた人たちも数多くいたという。戦国時代から安土桃山時代にかけて、戦場で日本列島に住む人々が多数略奪され、奴隷としてさまざまな地域に売り飛ばされていったというのだ。もちろん、売り飛ばしたのも同じ日本列島に住む人々である。
カンボジア人の中には、日本人によく似ている人たちがいた。これは日本人が南方からやってきたからだとばかり思っていたが、あるいは戦国から安土桃山、江戸初期にかけて、日本人との混血があったからなのかもしれない。
2002/2/8(Fri) <ベトナム・カンボジア紀行(28)>
(27) 高所恐怖症
私は高所恐怖症である。これは小さいときからである。高いところから下を見下ろすと、腰が抜ける。もうダメである。アンコールワットには、ロッククライミングのようによじ登らなくてはならない塔がある。もちろん、よじ登らなくてもいいのだが、何かがそこにあれば、身の程知らずにやってみたいのが、私の悲しい性である。高所恐怖症の私だが、アンコールワットにまでやってきて、登らないで帰るわけにはいかない。何せ登らなくては、土産話のネタにもなりはしないということで、迷わず挑戦した。
階段の下まで来たところで、コソルさんは、「私は登りませんから、では30分後に」と去っていった。コソルさんは、とにかく親切で、フットワークもよく、どこでも一緒に汗をかいてくれたガイドさんなのだが、ここだけは逃亡した。たしかに、見上げると、敵前逃亡したくなるような絶壁である。イメージでは、ちょうど三角定規を立てて、60度の斜面を登っていく感じ。鉄のてすりのようなものがつけられているが、てすりは一本しかなく、登る人と降りる人がいるので、すれ違いも大変である。
意を決して、登ることにした私は、カメラを後ろに廻し、四つん這いになって登りはじめた。カメラをガイドさんに渡しておけばいいのだが、やはり上から写真を撮りたいし、もっていくしかない。四つん這いといっても、三角定規の60度だからやっぱりロッククライミングの感覚。身体は完全に立っている。降りる人がいるので、てすりを使わず、石段を登っていった。高所恐怖症だが、下を見なければ、何とかなるので、(このような人生を歩んできたような気もする)、途中の段までは無事に登れた。そして、そこから階段がさらに狭くなるので、階段の外側にあるスペースで一休みした。ふと下をみると、もうかなりの高さである。もちろん、落ちたらお陀仏である。(いや、ここはヒンズー教なので、阿修羅か?)途中で休んだことは明らかな失敗だった。腰が立たなくなってきた。ヤバイ。しかし、気持ちを落ち着けて、さらに上に向かって進んだ。上からも人が降りてくる。欧米人の男性、顔面蒼白である。いや、もともと蒼白なのかもしれない。私も余裕をかまして、Pleaseと道(手すり)を譲る。Are you down ? or up ?と訪ねられる。upと答える。向こうは、Ok Thanksといって先に降りる。明らかに降りる人々は、登る人間より切羽詰まっている。これはまずいと思いながらも、身体が登る態勢だから、上へ上へ行くしかない。石段にしがみつきながら、降りてくる人々を先に通し、最上段まで何とかかんとか辿り着いた。
大きな仕事を終え、もう私には塔の中を見てまわる力は残されていなかった。最上段付近の踊り場で座り込み、あとのことは考えないことにした。しかし、どこにも高いところが怖くない人がいるらしく、アジア系のプリティガールが崖っぷちに座って、ニコニコしている。話をしたら、友だちとシンガポールからやってきたらしく、タイとカンボジアを観光しているとのことだった。彼女の印象で、私の中では、シンガポールの人々は、とてもフレンドリーで、いい人だということになった。私は腰が立たなかったので、腰を下ろしたまま、彼女といろいろとおしゃべりをした。しばらくして、彼女の友だちが戻ってきた。そして、「ケンイチ、一緒に降りよう」という。降りるのは、一大決心がいるので、1人ではなく、現地ツアーを組んで降りる人々が多いのである。大勢で降りれば、登ってくる人が道をあけてくれるので、安全である。ただ、上の一人が落ちたら、みんなで落ちることにもなるが。
私は高所恐怖症であることを告げていたので、彼女たちは私を真ん中にしてくれ、「ケンイチ、がんばれ」と励ましてくれながら、同行してくれた。下まで降りたときには、ほんとうにホッとした。そして、2人に感謝して、そこで別れた。
もし、「ははは、また、ケンイチ君がおおげさなこと言っているわい」と思われる人は、ぜひとも、アンコールワットに行って、あの塔に登ってほしい。高所恐怖症の人でなくても、きっとスリルを味わえるはずである。なお、階段の下には、おおぜいの観客がいて、トライする人を見守っている。
2002/2/7(Thu) <ベトナム・カンボジア紀行(27)>
(26) 神が造ったのか? 人が造ったのか?
早朝のアンコールワットでは、朝日を見るのが目的で、ほんとうの中の中までは入らなかったので、アンコールワットの内部は今回がはじめてだった。写真でみるアンコールワットは、五つの塔がそびえる寺院だが、実物は、入れ子構造のようになっていて、中にはいくつもの建物がある。建物の中に建物があり、その中に建物があるという感じである。日本の観光地では、しばしば観光客が立ち入り禁止の場所があるが、アンコールワットでは基本的にそのような場所はない。どのような手段を用いてよじ登っても(あとで降りられなくなるかもしれないが)、おそらく問題ない。それでも、はしごをもっていったら、係員に注意されるだろうが、素手であれば、どこまでも探検できる[ハズ]。
アンコールワットにも壁画があり、これも壁石に浮き彫りで描かれている。どうやって石を彫ったのだろう。軟らかな彫りやすい石であれば、腐食も早いはずである。ところがここの壁石は、1000年ほども前のものなのに、ぴかぴかに照り輝いている。不可思議としかいいようがない。
建物全体がさまざまな角度からの美しさが追求されているばかりではなく、壁画もじつに繊細である。このアンコールワット、やはりこれはほんとうに人間が造ったものだろうかという疑問がわきでるらしい。コソルさんの説明によると、アンコールワットの壁画には、途中で未完のまま終わっているところがあり、だから、これは神さまが造ったものではなく、人間が造ったものだという。とても明快な説明である。神さまは完全であり、不完全なところがあるから人間なのだ。
中世の人々は、今とはまったく違った世界観、宇宙観、信仰をもっていて、その世界観の完成度の高さが、こうした建造物を生み出したのだと考えなくては、説明がつかないように思う。アンコールワットは、12世紀にアンコール朝のスールヤバルマン2世が自らの霊廟として造ったもの建造物である。アンコールトムがもともと仏教の建造物だったのに対して、アンコールワットはヒンズー教の建造物であるというのも興味深い。
2002/2/6(Wed) <ベトナム・カンボジア紀行(26)>
(25) アンコールワット、再び
コソルさんが迎えに来て、ホテルから出陣した。今日、3度目の出陣である。今朝に続き、アンコールワットに向かった。今回はガイドつきである。ガイドのコソルさんは、今朝購入したばかりのアンコールワットのパスポートを、私から受け取った。係員に提示を求められたとき、私の代わりに、パスポートを提示するためらしい。これもサービスの一環だったのかもしれないが、私は安易に自分のパスポートを渡してしまったため、あとで後悔することになった。自分のものは自分で保管しておく。これが基本である。人任せにするとロクなことはない。
朝、一度見たということもあったが、アンコールワットでは、アンコールトムほどの感動はなかった。しかし、マン・ツー・マン・ガイドのコソルさんのおかげで、自分が写った写真がとれた。だが、このとき、アンコールトムで写真を撮りすぎたために、日本からもってきたフィルムが残り一本になっていた。
最終的に、わずか1週間の旅行で、18本のフィルムを消費した。それも16本までがカンボジアであった。それもほとんどが36枚撮り。これは予想もつかない展開だった。カンボジアにはそれだけ写真におさめたいという欲望をかきたてる風景があった。この日、もっとフィルムをもっていたら、きっと総計で20本を超えたことだろう。
さて、のちに帰国して、その日に現像、プリントに出し、期待に胸を躍らせて写真を見たのだが、とにかくガッカリした。写真が、実物を見たときの感動や迫力とかけ離れていたからである。一眼レフのカメラを持参していたので、ちょっぴり期待していただけに尚更であった。しかし、その写真であっても、人に見せると、それなりに「へえー、こんなものねえ」と思われる。それは、私が行く前にガイドブックの写真を見て、カンボジアに行きたいなあと思ったのと同じような感覚だろう。だけど、実物は、写真とは全くスケール、厚みが違っていた。これまで何度かの旅を経験してきたけれども、実物と写真のギャップをこんなに感じたのは、アンコールが初めてのことだった。
最後のフィルムだったが、足元を見られると何かと面倒だと思い、知らんぷりをしながら、最後のフィルムを大切に使った。アンコールトムであんなに写真をとっていた人間が、アンコールワットではなんて写真をけちけちするのだろうと、コソルさんは思ったことだろう。
2002/2/5(Tue) <ベトナム・カンボジア紀行(25)>
(24) 和解
「お待たせしました」とにこやかにコソルさんに挨拶をした。コソルさんにも笑顔が戻っていた。観光午前の部が終わり、これからは昼寝の時間である。リーさん、コソルさんとで、ホテルに送ってくれた。コソルさんは、「食事はどうでした?」と尋ねる。「ちょっとカンボジアの食事は合わなかった」と答えると、「えっ、どうして?」と問い返される。親切なコソルさんにとって、自分がおいしいものを、人がおいしくないというのは、信じられないようである。あまり面倒なことを言っても、時間の無駄だと思って、「いや、おいしかった」と答えると、「そうでしょう」とコソルさんに笑顔が戻った。
私はフレンドリーに、しかし自分の決定には踏み込ませないという構えで、コソルさんと向き合った。コソルさんは、「明日ほんとうに車いらないの?」と尋ねたが、「はい」と短く答え、「どうして?」という重ねての問いかけに、「決めたことだから」ときっぱり言って、あとは話題を変えた。「どうして?」と言われても、あなたと私は違う人間なのだから、仕方がない。それに、何度も「どうして?」に対する答えを答えているのに、それを聴こうとしないのだから、それ以上、何も言うことはない。だけど、声を荒げるほどのこともない。
車はホテルに着き、私たちはにこやかに別れを告げた。部屋に戻り、水のシャワーを浴びた。寝る時間を惜しんで、ノートに旅紀行を綴り、「おーい、お茶」に冷やしたミネラルウオーターを詰めて、午後の部に出陣した。
2002/2/4(Mon) <ベトナム・カンボジア紀行(24)>
(23) 再びレストラン
私の怒気を含んだ声に、コソルさんは明らかに気を悪くしたようだった。それまでたいそう親切にしてくれたのだから、これもまた当然だろう。しかし、仕方がないことだと思った。「自立」のためには戦わなくてはならないことがある。「今より先に進むために争いを避けて通れない」(Mr. Children 『Tommorow Never Knows』)
昼食は、バイキング形式のレストランだった。外国人の団体客向けのレストランの入り口に一人だけのテーブルが据え置かれていた。何とも情けない食事だった。親切にしてくれたコソルさんとも気まずくなり、ひとりぼっちになったような気分だった。さらに情けないことに、バイキング形式なのに、どの料理をとっても、私の口に合わなかった。昨晩のレストランでは、疲れていたので食べられなかったのだろうと思っていたが、今日、そうではないことにようやく気づいた。カンボジアの食事がまったく合わないのである。いずれかの料理だけが合わないというのであれば、救いはある。しかしながら、どの料理にも使われている香草のようなものの匂いを、どうしても受けつけることができないのである。その匂いを嗅ぐだけで、私は吐きそうになるのである。かなり地獄だった。
朝からトースト一枚で炎天下の中、歩きに歩いている。お腹はぺこぺこである。そして、料理は見た目はいかにもおいしそうである。ところがそのいずれの料理も食べることができない。情けない状態だった。ご飯に、麺に、肉料理、魚料理と、食材は何とも魅力的なのである。ところが口に運んだ途端に、「うぇっ」と身体が拒絶してしまう。以前、この欄に書いたことがあるが、以前、私は好き嫌いがないいい子として評判だった。しかし、カナダに行き、ただ日本食に適応していたに過ぎないということを知った。これと全く同じ状態だった。カナダに続き、カンボジアでも食べられない。かなり自信をなくした。その上、孤食が続き、自分のコミュニケーション能力も全然発揮できていない。ひたすらへこんだ。
しかし、ただへこんでいるだけでは、午後からのもう一戦を乗り切ることはできない。とにかく、口の中に何か入れなくてはと考えた。すると、フルーツがとてもおいしいことに気がついた。フルーツを何杯もお替わりした。フルーツにはさすがに香草が使われていないらしく、とてもおいしく食べることができた。それから、アイスクリームをひたすら食べた。水分と糖分さえ吸収しておけば、あとは何とかなる。最近は、皮下脂肪もたっぷりついてきたし、2、3日食べないところで、何てことはない。フルーツとアイスクリームを食べているうちに、気持ちも随分おさまってきた。そして、これからがほんとうの旅だというワクワクした気分が生まれてきた。時間になり、コソルさんが迎えに来た。
2002/2/2(Sat) <ベトナム・カンボジア紀行(23)>
(22) 自立
さて、レストランに向かう道中のことである。ガイドのコソルさんは、私の明日の予定について尋ねてきた。彼は、シェリムアプにはまだまだたくさんの寺院があるから、明日はそれらのお寺をリーさんの車で訪ねるといい、と私に提案した。
私は迷っていた。今晩、バイクライダーのキムと会う約束をしている。昨晩、キムには明後日の予定はまだ決めていないと話していた。私の前には、@「リーさんの車でまわる」A「キムのバイクでまわる」B「その他」という三つの選択肢があった。午前中、アンコールトム、タ・プロムを巡りながら、明日はどうしようかと心の中で考えていた。
リーさんの車であれば、より安全である。ここまで同行して彼が信用できる人であることはわかっているし、私の知らない観光地に連れていってくれるにちがいない。しかし、車だと外の空気にふれることができない。人と出会うことも妨げられる。何せ「ビー、ビビビビー」とそこに住む人々を押しのけての大名旅行である。一方、キムのバイクに乗れば、危険と紙一重である。昨晩、会って少し話をしただけで、まだキムのことをよく知っているわけでもない。さらに今朝、バイクの死亡事故と思われるものを目撃している。私の気持ちは揺れた。
私の気持ちの揺れもあり、コソルさんは、ぜひともリーさんの車で行くようにと働きかけてきた。とにかく親切な人柄ということもあり、「バイクは止めたほうがいいよ。私はあなたのことがとても心配です」と強くすすめてきた。さらに「朝も見たでしょう。バイクの事故」と追い打ちをかけられ、私は揺さぶられた。
しかし、と私は思った。これは私の旅だ。自分が自分なりに命を削って仕事をし、それで得たお金で、自分のみかたをひろげ、鍛えるために旅に出たのだ。それだから、私は誰にも干渉されず、自分の旅を選びとる権利をもっているのだ。たとえ、カンボジアで、バイクでこけて死んでも、私はそれだけの自由をもっているのだ。
私は気持ちを奮い立たせて、コソルさんに「明日は、リーさんの車は必要ありません。自分で一日歩いてみようと思う」と告げた。しかし、コソルさんは、そのくらいでは決して引き下がらなかった。「どうして?それは危ないよ。リーさんの車なら安全だよ。バイク、危険、ダメね。車、安全。心配だよ」と。
この日の午前中、コソルさんは、汗をかきかき、一生懸命案内してくれた。献身的なガイドといってもいいくらいだった。その親切を思うと、心は揺れた。しかし、私にとって、ここは正念場だと思った。「私は自分の足で歩きたいんだ」「でも、歩いていける距離じゃないよ。どうするの?」「自分でバイクライダーを探す」「それは危ないよ」「いや、やってみる」「そう、もしどうしてもバイクがいいんだったら、“安全”なバイクライダーを紹介するよ」
「いや必要ない。これは“私”の旅なんだ。」
最後に私は怒気を込めて言い放った。あとから考えてみると、ちまたには、ぼったくりのバイクライダーもゴロゴロしていることだし(バイクライダーでなくてもみんなぼったくりだけど)、コソルさんは何より親切心から私に忠告してくれたのだろう。あるいは日本人の旅行客をケガさせたら、それこそ会社からクレームが来て、今後、クビになるなんてことがあったのかもしれない。おそらく、コソルさんは、私という金づるを囲いたいという気持ちだけで、しつこく粘ったわけではないだろう。しかし、私は、自分の足で旅をするために、コソルさんと対決しなければならなかった。「危ない」「あなたが心配だ」といったことばで、私が自分の足で立つことが妨げられてはならなかったのである。
私は「これは“私”の旅なのだ」と言い放った。私はこの一つのことばを言うために、カンボジアまで行ったのではないかと、今でもそう思っている。
2002/2/1(Fri) <ベトナム・カンボジア紀行(22)>
(21) カムリ
朝8時からアンコールトム、そしてタ・プロムと駆け足でまわり、少し遅めのお昼となった。私とガイドのコソルさんは、リーさんが運転する「トヨタのカムリ」に乗り、レストランに向かった。朝からずっと気になっていたことだが、シェムリアプ、アンコールの町で行き違う車が、揃いも揃ってなぜか「トヨタのカムリ」なのである。これには、さすがに車音痴の私も、何かヘンだと感じはじめていた。明らかにカタチが違うのに、あれも「トヨタのカムリ」、これも「トヨタのカムリ」。やっぱりヘンだ。そのとき、ハッと気がついた。どこかで「トヨタのカムリ」のエンブレムを製造しているにちがいない。いや、エンブレムをくっつけているにちがいない。そう考えると、一日目、私が乗っている「トヨタのカムリ」が韓国製の車だと言われたことも説明がつく。なるほど、この国では外見にだまされてはいけないのだ。
さて、「トヨタのカムリ」の正体を見ようと、運転席ののぞき込んだところ、走行距離は15万キロ台で止まっていた。はたしてこの車がどのくらい走った車なのかは全くの謎だった。おそらく、カンボジアは自動車の墓場のような場所なのだろう。日本や韓国、中国、さまざまな国で乗り回され、使い古された車が、最後の働きの場を求めて、ここにやってくるにちがいない。どういうルートがあるのか知らないけれども、カンボジアでは、どんな古いぽんこつカーでも、「トヨタのカムリ」として生まれ変わる。生まれも育ちも問われない。ただ車というだけで、人々からは羨望のまなざしで見られる。だが、この車でさえも会社の車であり、リーさんの車ではない。
車についてもう少し書きたい。カンボジアの車は、クラクションを鳴らすというより、鳴らしっぱなしで走る。「ブッ」ではなく、「ビー、ビビビビビー」という状態である。「そこのけ、そこのけ、車が通る」の世界である。圧倒的な強者である車はめったに自分からはよけない。クラクションを押し続けて、弱者であるバイクや自転車によけさせる。それから、ガソリンスタンドはほとんどない。その代わりに、道端のいたるところで、ベットボトルにつめたガソリンを売っている。気をつけないとジュースと間違って飲んでしまいそうなオレンジ色をしたガソリンが、そこら中で売られている。かなりあやしげなガソリンである。私が乗った「トヨタのカムリ」は右ハンドル車だったが、道路は右側通行だった。ちょうど日本で左ハンドルの外車に乗るようなものだ。日本ではもちろん左ハンドルは少数派だが、カンボジアではイレギュラーな右ハンドルが多数派らしい。右側通行で右ハンドルだから、もちろん危ない。人口が日本の十分の一以下で、車も圧倒的に少ないカンボジアで、交通事故による死者は年間1万人を超えるということだった。車もバイクもやたらめったら飛ばす。早朝はまだ見ぬお日さまとかけっこしておそらく100キロは出ていた。それも舗装されていない道だった。昼もそれに近いスピードが出ていた。そして、信号もなく、ヘルメットもない。こうすれば、交通事故を増やせるという条件が、揃いも揃っている。
2002/1/31(Thu) <ベトナム・カンボジア紀行(21)>
(20) タ・プロム
勝利の門からアンコールトムを離れて、アンコールトムとは別の寺院を外から眺めたあと、タ・プロムという遺跡に向かった。アンコール遺跡群は、アンコールワット、アンコールトムだけではない。この周辺には、名もなき寺院、建造物が数え切れないほどあるのである。タ・プロムもまた、建造されたのち、長い間、忘れ去られて、ジャングルの中に埋もれてしまった寺院だった。石造りの建物を巨大な木がはさみつけ、今にもひしゃげそうになっている写真を、どこかでご覧になった方もあるだろう。これがタ・プロムである。
タ・プロムもまた、写真で見るのと、実物を見るのでは、あまりにもモノが違っていた。建物も、木も、とにかくデカいのである。日本の樹木の感覚で写真を見ていたから、小屋ぐらいの建物に木が絡みついているのかと思いきや、お城のような建物にそれをはるかに凌駕する巨木が絡みついていたのである。木の生命力にも驚いたけれども、巨木の圧力を受けながら、何とか持ちこたえている石造りの建造物の丈夫さにも驚いた。新宿の都庁や池袋のサンシャインといった現代の建物が1000年後も持ちこたえることができるだろうか。長崎の軍艦島のように、いずれは巨大な廃墟、ゴミと化すのではないだろうか。ジャングルに埋もれたタ・プロムとは違い、ボロボロになった都庁は、1000年後の観光資源になることもおそらくないだろう。
カンボジアには地震がほとんどないそうである。これがアンコール遺跡群が今に至るまでその形を保っている大きな理由となっている。そう言えば、日本では石造りの巨大建造物をあまり見かけない。私の好きな奈良の法隆寺、興福寺、東大寺、いずれも木造建築である。気候や風土に合わせながら、文化を形成していった過去の人々の知恵にはただただ驚かされる。
タ・プロムでは、このほかに、なかに入って胸を叩くと鐘のように音が響くお堂や、石畳を突き破って生えている巨木が印象に残った。ここもまた、丁寧に見ていくならば、一日をかけたいぐらいの寺院であった。
2002/1/30(Wed) <ベトナム・カンボジア紀行(20)>
(19) アンコールトム(4)〜片足の兵士〜
アンコールトム内には、観光客のほかにもさまざまな人々がいた。まず子どもたち。エキゾチックな服を着て、塔の中にたたずんでいる。観光客に写真を撮らせて、お金をもらうのが仕事である。彼、彼女らは、「ワンダラー、ワンダラー」と呪文を唱えるように話しかけてくる。ワンダラーとは$1のこと。しかし、あまりしつこく迫ってはこない。ただ、物憂げにそこにたたずんでいた。それから絵はがきやお土産物を売っている子どもたちもいる。こちらはかなり商売熱心である。ちゃんと日本語も勉強していて、「お兄さん、お兄さん、絵はがき、絵はがき」と話しかけてくる。そして、絵はがきも1セット$1であるから、決して高くはない。私は一人の少女から絵はがきを買った。すると、たくさんの子どもたちが集まってくる。買うのはいいけれども、一回買うと、格好のカモと思われ、つきまとわれるものだから大変である。買った子は、満面に笑みを浮かべるけれども、買わなかった子はむくれて、これまた大変である。感情がとてもストレートなのだ。ストリートや観光地で子どもたちから何かを買うときは、相手が気を悪くしたり、しつこくしてきても、めげない気持ちが必要である。彼、彼女らは、一人から買ったら、自分から買うのも当然だという顔をしてやってくる。別の少年・少女から買ったのに、自分から買わないとはなんという人でなしだという仕草を見せる。ここでこちらはめげそうになる。
お金を必要としているのは、子どもたちだけではない。アンコールトム内には、僧侶、老女、傷痍軍人などが、観光客からお金を求めている。このとき、小さなお金をたくさんもっていると何かと都合がいい。一人ひとりに渡していると、1ドル札でもすぐになくなってしまう。欧米からの観光客は、一般に金を乞う人々を一顧だにしないように思われた。しかしながら、私の場合、なぜだか、同じアジア人だという気持ちが沸き上がってきて、後ろ髪を引かれるような思いになった。もちろん、お金を渡さないという固い決心があってもいい。だけど、お金を渡すことでコミュニケーションができることもある。逆にいうならば、お金を渡さないのなら、金を乞う人々とコミュニケーションをもってはならない。彼らは仕事なのだから。そうであるから、金を乞う人々とコミュニケーションを行うためには、小さなお金がたくさん必要である。多くの人々に行き渡るためには、1ドル札でもまだまだ大きかった。軍資金があっという間に尽きてしまう。
芝の上にポル・ポトの時代に地雷で片足を亡くした軍人が座っていた。前に帽子を置いていた。1ドルを入れて、握手をし、写真を撮らせてもらった。彼の手は大きかった。そして力があった。ファインダー越しに鋭い彼の目が突き刺してきた。その目に人間としてのプライドを感じた。1ドルを差し出し、写真を撮らせてもらう自分の立場の傲慢さを、突きつけられる思いだった。しかし、日本に帰って、彼のような人々がいることを伝えたい。そう自分に言い聞かせながら、何とかシャッターを切った。
アンコールトム内の象のテラスは圧巻だった。象のテラスは、等身大の象が彫られた壁に囲まれたアリーナである。よくもまあ、ここまでやるものだとあきれはてるほどだった。対面にはこれまた大きな塔がいくつも建っていた。塔の修復工事も行われていた。日本の企業もここでは活躍しているようだ。こうした働きもあり、カンボジア人は、総じて日本人に対して好意的であるように思えた。アンコールトムにはとてつもなく大きな木があった。わが清瀬にも、樹齢数百年を誇る巨木があるのだが、熱帯の木というのはオーダーがまったく違うと思わせられた。駆け足でアンコールトムをまわった。まだまだここの魅力のほんの一部しか、私は味わっていないのだろうと思う。
2002/1/29(Tue) <ベトナム・カンボジア紀行(19)>
(18) アンコールトム(3)〜壁画にみとれる〜
ガイドさんの有難味が身にしみたのは、壁画を観たときだった。1人で観るだけでも壁画のすごさと細やかさはわかるけれども、一体この壁画が何を物語っているのかは、全くわからない。コソルさんは自らをガリ勉というだけあって、よく勉強していた。アンコールに隣接するシェムリアプの町の名の由来は、シャム(タイ)がリアップ(負けた)した場所というところから来ているそうである。つまり、この場所で、カンボジアのアンコール王朝は、シャムの軍隊を迎え撃ち、撃退したのである。この戦争の模様が、壁画には綴られているとのことであった。
それにしても、カンボジアが勝ったという名前ではなく、シャムが負けたという名前をつけるというのは、現代から見ると何とも性格が悪く映る。しかしながら、古代の中国では、自分たちの町を守る城門に、敗死した敵兵の遺体を埋め込んだという。敵兵の遺体は、魔よけのような働きをしていたらしい。ちなみに、私の姓にもある「高」や、都城をあらわす「京」は、敵兵の遺体をしっくいで固めた城門からつくられた象形文字であるといわれている。敵というものの意味が、当時はまったく違っていたのだろう。だから、シェムリアプという町の名には、あの目障りなシャムが負けた、ざまあみろという思いではなく、あの強大なシャムでさえここで負けた、この地は神に守られた永遠の平和の地だ、といった意味が込められているのだと、私は思う。
さて、壁画には、カンボジア人とシャム人のほか、中国人も登場する。これらは髪型によって見分けがつくそうだ。中国人は、カンボジアの援軍としてやってきたという。アンコール朝とタイのアユタヤ朝が激闘をくりひろげたのは、アンコール朝の後期であり、中国では元の時代である。もしこの壁画がその時代のものならば、九州を襲った元の軍勢が、ここカンボジアにも遠征していることになる。壁画は双方から軍勢がやってくるシーン、そして、戦闘シーン、最後に戦勝を祝うパレードのシーンと展開する。戦闘は、陸上での戦いだけではなく、トレサップ湖での水上戦も行われていたようである。陸上での戦いは、象が威力を発揮している。水上戦では、船から落ちた兵士が、ワニに食べられたり、魚の餌になっている模様が描かれている。また頭蓋骨に槍がささっている兵士もいる。しかしながら、戦争とはいえ、登場人物は兵隊だけではない。商人がいて何か取引をしていたり、人々が闘鶏や闘犬を楽しんでいたり、さまざまな場面がある。張り切っている兵士もいれば、休んでいる兵士もいる。
私にとって、壁画はいつまでいても飽きない場所だった。当時の人々のことばはもう聞けないし、文献が残っていても私には読めないが、壁画だったら何かを感じとることはできる。自分なりに疑問を発見し、読みとることができる。壁画は、当時の人々と今の私たちをつなぐ力をもっている。中国の軍勢が援軍としてやってきたということは、カンボジアはかなり劣勢だったにちがいない。壁画に描かれたカンボジアの王は、さほど大きくもなく、装飾品もまとっていなかった。王は、ほかの人々とまったく違うもののようには描かれていなかった。王の役割はもうすでに古代専制君主とは違っていたのだろう。それならば、どのようなかたちで民衆を動員し、このアンコールトムの大都城は造営されたのだろうか。
おそらく、この都城を生み出したものは王の意思だけではないだろう。そこには、深い信仰をもつ人々、深い芸術の表現を求める人々、そして高い技術をもつ人々の集団が存在していたにちがいない。人は強制されるだけではこのようなものは生み出せない。民衆の中に湧き出るようなエネルギーがないかぎり、生み出されたものの輝きは生き続けないのではないだろうか。ただ強いられたものであれば、どうしても完成したものはがさつになってしまうのではないだろうか。
キラキラと輝くアンコールトムの壁画は、私の心を魅了してやまなかった。
2002/1/28(Mon) <ベトナム・カンボジア紀行(18)>
(17) アンコールトム(2)〜マクロとミクロ〜
南大門をくぐり、内側から見上げると、かなり痛んでいるところもある。門も大きいが、そこに生えている木も巨大である。人には、大きなモノに感動するという性質があり、私はとくにその性質が強くあるようで、空からみたインドシナ半島の脈打つようなダイナミックさ、そして唖然とするほどのアンコールトムの偉容に、心奪われた。
これまでの一人旅ならば、相手が何者であろうともひたすら歩いていただろうけれども、3キロ四方のアンコールトムを歩けば、それだけで日が暮れたにちがいない。それはそれでまたいいのだが、今回は専属のドライバーとガイドつきの殿様旅行である。何と遺跡の中まで車で入ることができた。そして、次のポイントまで運んでくれ、また出口付近で待っていてくれる。これはカンボジアでは車がまだまだ少ないからできることだろう。いろんなことがアバウトなのである。
南大門から車でとばして、中央付近にある寺院に向かった。この寺院では、壁面に精細な壁画が今もなお残っている。1000年もの歳月を超えて今もなお精細さを保っているのは、ひとえにこの壁画がただの壁画ではなく、壁石を彫ったものであるからである。人、動物、風景、さまざまのものが固い石に浮き彫りで彫られている。そもそも石を彫るということだけでも、膨大な時間とエネルギーを要する大変な作業であると思われるのに、延々と続く巨大な壁に、絵巻物がこれでもかこれでもかと綴られているのである。
アンコール遺跡の魅力は、マクロの宇宙を擬した、巨大さにあると思っていた。しかし、その巨大な一つ一つのパーツを見ると、そこには精細なミクロの世界が輝いていた。巨大でかつ繊細、この両立困難なプロジェクトに、当時のすべての知恵と技術を注ぎ込んだモニュメントが、アンコール遺跡なのであろう。不可思議だったのは、これほどのモニュメントをうちたてた民族が、どうして今、こんなに貧しいのか、ということであった。私たちにあてはめて考えるならば、今豊かであるということが、決して将来の豊かさを保証しているわけではないということを意味しているのだろう。また、考えられないような規模と細やかさを兼ね備える遺跡を見ると、人類ははたして進歩しているのだろうかという素朴な問いが浮かび上がってきた。中学校の地理では、東南アジアの単元でもほとんどカンボジアは扱われない。高校の世界史では、アンコール王朝のことは周辺に追いやられている。私たちの意識には、滅多にカンボジアのことは上ってこない。そして、教科書では、産業革命以降、化石燃料をエネルギーとして使うことを知り、人類の技術は格段に進歩したと記されている。たしかに、産業革命が人々の生活、行動様式を大きく変えたことは確かだろう。しかし、それを以前の無知、蒙昧からの進歩とみなすことができるのかどうか、これは疑問である。このみかたでは、なぜ1000年も前に、カンボジアの奥地でこのような建築が生まれ得たのかを、説明できないように思う。
昔の人は、今私たちが思う以上に、知恵をもち、技術をもっていたにちがいない。あるいは、もしかしたら、近代という時代こそ、自分の時代、自分の行動様式以外のものを無能と思い、無知と決めつける、それこそ傲慢かつ蒙昧な時代なのかもしれない。説教する教師よりも黙っている子どものほうがよくわかっているということがしばしばあるけれども、同じように、黙っている遺跡は、今を生きる私たちの驕り、高ぶりを厳しく問うているように思われるのである。
2002/1/25(Fri) <ベトナム・カンボジア紀行(17)>
(16) アンコールトム(1)〜入る前に唖然とする〜
両替のあと、「トヨタのカムリ」は、アンコールトムに向かって突っ走った。その途中の道で、交通事故の現場に遭遇した。バイクと車との事故らしく、アスファルトの道路に赤い血がべったりついている。ちょっと助からないような量である。ヘルメットをかぶらない自由の裏側には、このような現実が待ち受けているのもまた確かであった。カンボジアでは、もう一回、悲惨な交通事故に出会うことになる。
さて、「トヨタのカムリ」は、アンコールトムの南大門前に到着した。車から降りると、むせるような南国の暑さが身体にまとわりついてきた。この日は、一週間の旅で最も暑い日で、見上げると雲一つない南国の濃い青空が広がっていた。熱帯を感じた一日だった。
さて、アンコールトムとは、大きな都という意味である。ことばにたがわず、ひたすら大きい。これからしばらく、自分が小人になったような感覚を味わうことになった。アンコールトムは、3キロ四方にわたる巨大な都で、その周りには高さ8メートルの城壁がはりめぐらされ、その中には巨大な寺院がいくつもそびえている。象のテラスやら、何やら、得体の知れない建造物が、あちらこちらにある。そして、どれもこれもやたらとデカい。世界的にはアンコールワットのほうが有名だが、その規模と迫力はアンコールトムのほうがはるかに勝っている。
早朝のアンコールワットでは、建物よりも自分がそこにいるということに酔っていたが、アンコールトムでは、この度肝を抜かれるスケールにただただ圧倒された。あらかじめガイドブックで写真で心の準備はできていたが、写真と実物のあまりもの違いに驚いた。一つ一つのものが予想をはるかに超えるスケールだった。
まず最初に目に入った南大門前の欄干の石像だが、そこに並ぶ一つ一つの石像が(これは日本でいえば、橋の欄干の突起のようなものである)人間の身長の3倍ぐらいあるのだ。写真でみると、せいぜい神社の狛犬ぐらいの大きさにしか見えないのだが、実物はあきれかえるほどにデカい。さらに、四つの顔がある南大門だが、縦長なので、人が数人入るほどの大きさかと思いきや、象や自動車が楽に入ることができるのである。象が観光客を乗せて、のっしのっしと門からアンコールトムに入っていったが、門は象の10倍を超えるほどの高さがある。これらがすべて石を積み上げてできているのだ。こうした巨大な建造物が1000年以上も前に造られたのである。ただただアンビリーバルな世界だった。
2002/1/24(Thu) <ベトナム・カンボジア紀行(16)>
(15) 両替
ホテルに戻って、朝食をとった。食堂にも、たくさんのホテルマンとウエイトレスがいた。食事の内容は、トースト1枚と目玉焼き。とてもシンプルである。お湯が出ない上に、この食事で1泊10000円というのだから、はっきり言ってあきれる。やっぱりホテル探しは人任せにするものではない。
部屋に戻って、ミネラルウオーターを日本からもってきた「おーい、お茶」のペットボトルに移して、準備完了。8時からの観光タイムに備えた。カンボジアは朝の始動が早い。日射しが強く、日中は外にいられないのである。だから、多くの人々は、日中、昼寝をする。朝早くから仕事を始めて、昼寝をして、少しばかり日が傾いてからまた仕事をする。健康的な生活である。
8時ジャストにガイドのコソルさんと運転手のリーさんがあらわれた。にこやかな笑顔とともにホテルに入ってきた。ホテルの玄関から「トヨタのカムリ」に乗り込んだ。昨夜と早朝、そして三度目である。このパッケージには、個人旅行の人たちをまとめて1日間、日本語ガイドつきで案内するものがついていたが、たまたま客が私しかいなかったので、専用の運転手、日本語ガイドつきでの1日となった。ときには人任せにすることでラッキーなこともある。あとで詳しく述べるが、アンコール遺跡には、膨大な量の石彫りの壁画があり、その壁画を理解するためには、ガイドがどうしてもほしい。空港からの送迎は必要なかったが、この日のガイドは必要だったし、ありがたかった。
出がけに、ベトナムの免税店で両替した1万円分のドルだけでは心許なかったので、街角の両替屋に立ち寄ってもらった。日本の金券ショップのような両替屋で、円をドルに替えた。1万円が$76に化けた。そして、ベトナムの免税店でぼったくられたことを知った。人生はまあそんなものだ。
さて、カンボジア、ベトナムを旅するときには、できるだけ小さなお金に換えておくことが両替の秘訣である。1万円札を出して、100円のチューインガムを買っても、ちゃんと99900円のお釣りをくれる日本とは違い、カンボジアでは、大きな紙幣では、小さなものを売ってくれない。またもし売ってくれたとしても、おつりがドルとリエンのちゃんぽんで戻ってくるので、合っているかどうか確認することも難しい。お金があれば、あとはOKの日本とは違い、ここでは、お金があっても、用心深く工夫していかないと、瞬く間にお金が消えてしまう。お金の目減りを減らす最もいい方法が、できるかぎり小さなお金をもつことである。$76は、$20札では4枚にもならないが、$1札では、76枚にもなる。ここでは、一枚のお金の価値よりも、何枚もっているかのほうが大事なのだ。両替屋では、小さな紙幣に換えてくれというと、あまりいい顔はされないが、それでも粘って、小さな紙幣に換えておいたほうがいい。私は、のちにこのことが何よりも重要だということを思い知ることになった。
2002/1/23(Wed) <ベトナム・カンボジア紀行(15)>
(14) アンコールワットの夜明け
アンコールワットの夜明けのすばらしさについては、至るところで耳にする。12世紀前半にスールヤバルマン2世によって造営されたヒンドゥー教の霊廟寺院であるアンコールワットは、西向きに建てられた建造物である。日本での北枕のように、カンボジアでは、死者を送る方角が西であるため、アンコールワットが西向きに建てられたという。西方浄土からきたのだろうか。(ヒンドゥー教にも西方浄土があるのだろうか?)
西を向いているので、アンコールワットの正面に立てば、朝日はアンコールワットの後方から昇ってくることになる。私が訪ねた12月下旬は、ほぼ冬至の頃で、太陽は東南に大きく傾いていた。もしアンコールワットの真後ろから昇る朝日を見たいのであれば、2月がベストシーズンだそうだ。2月は朝焼けも美しいという。
昨晩、カンボジアに着き、夜遊びをしたのだが、それでも朝5時に起きて、運転手のリーさんの車で、アンコールワットに向かった。車は、舗装されていない狭い道を走った。狭い道の両側には、掘っ建て小屋のような家が並び立っていた。まだ辺りは暗かったが、人々はもう起きて、生活を始めていた。道端の家々はとても簡素であり、その生活の貧しさを物語っていた。
運転手のリーさんは、数年前までベトナムに出稼ぎに出ており、今はカンボジアに戻って、ドライバーの仕事をしているとのことだった。彼が巧みに操る「トヨタのカムリ」は、会社の車であり、客の支払いは会社にもっていかれるとのことだった。リーさんは、口数は少なく、実直で穏やかな人柄だった。私がしつこく聞くことがなければ、彼は「トヨタのカムリ」が会社の車であることも語らなかっただろう。不平一つ言わず、真面目に働く。そういう人だった。
さて、最初のパッケージにアンコールワットの1日券がついていたが、私は翌日も行きたいと思っていたので、3日券を購入したいと、リーさんに話した。すると、リーさんは、「カムリ」をぶっとばして、かなり遠方にあるチケット売場まで行ってくれた。1日券はどこでも買えるが、3日券、1週間券は、写真が必要であり、メインゲートまで行かなくてはならない。リーさんがぶっとばしてくれたのは、私が日の出までにアンコールワットに到着できるようにするためだった。私は今日はダメでも、明日があるさと思っているいい加減な人間だが、カンボジアの人々は、とにかく親切なのである。
入国管理局のような立派なアンコールワットのチケット売場で、3日間通用するチケットを購入した。40ドル。大金である。1日券だと20ドルである。1日券はそれっきりだけれども、3日券は写真つきのパスポート型で、あとあとの記念にもなるので、お薦めである。ガイドブックに写真持参のことと書いてあったが、見事に忘れていた。ところが事務所で撮ってくれるというので助かった。事務所では、タイからバスに揺られてきたという1人旅の日本の大学生と会った。バスでの旅は十数時間もかかり、未舗装の道路で揺られて、大変だったらしい。でも、大変な分だけ、貴重な経験を重ねたのだろう。すがすがしい青年だった。
事務所で青年と話しながら、写真の出来上がりをしばらく待った。出来上がったら、写真は無料でちょっとびっくりした。40ドルを払って、アンコールワットの3日間パスポートをゲットした。顔写真つきでうれしかった。ところで、この高い入場料だが、アンコール遺跡の維持・保存には全く使われていないという。政府がお金に困って、私企業に入場料の授受権を売り渡し、その私企業が入場料を懐に入れているという話だった。何ともいいようがない。過去の人類の遺産が、ただ金儲けのために利用されている。いわば歴史の収奪ではないかと思った。金儲けでもいい。それでも次の世代のために保存して、継承していく、そういう仕組みを考えていかなくては、と強く思わされた。
さて、アンコールワットに着いた。5時半すぎ、辺りはまだ闇に包まれていた。リーさんがぶっとばしてくれたおかげで、まだ暗いうちに到着できた。チケットのチェックは厳しかった。暗闇のなかをアンコールワット廟の中に向かって歩いた。第一参道を渡り、堀の内側に入ると、そこには大勢の人々が朝日を待ちかまえていた。人々の多さに驚いた。欧米系の人たちや東アジア、東南アジアの人たち、日本人はさほど多くなかった。しばらく前まで日本人旅行客が最も多かったそうだが、テロの関係で減っているという。道から外れると地雷が危ないと言われているが、欧米人が2人、参道から外れて歩き始めた。別の欧米人が彼らを指さし、「マイン、マイン」と話していた。Windowのゲーム、マインスイーパーを思い出し、マインって地雷のことだったとぼんやり思いながら、Off Course(オフコース)の2人組を見ていた。どこにも道から外れる人間はいるものだ。
アンコールワットの五つの塔が明るくなってきた。アンコールワット自体への感動もさることながら、以前から見たかったアンコールワットの前にたたずんでいるという事実に何とも言いようのない感動がふつふつと沸き上がってきた。少しずつ闇のベールを脱いでいく恋人を前に私はカメラのシャッターを何度も切った。しばらくそこにいたのち、アンコールワットの夜明けは、近くで見るより、遠くから見るほうが美しいということに気づき、再び堀を渡った。堀に映し出されるアンコールワットは、何ともいえず美しかった。さまざまな場所から、さまざまな美しさを味わうことできるように造られているこの建造物に、昔の人の深い芸術性と確かな技術を教えられる思いだった。
6時半、約束の場所でリーさんは待っていた。カンボジアでは、いつもドライバーが私を待っていてくれた。往復の車代は、10ドルだった。昨晩、「夜明けのアンコールワットはいくらかかるか」と尋ねたとき、たしか5ドルという返事だったが、値段は変わっていた。カンボジアでは、こんなことはざらであった。しかし、暗闇を一生懸命飛ばして、夜明けに間に合わせてくれた上、長い時間、待っていてくれたのだから、10ドルを高いという気持ちにはなれなかった。こう思うから、日本人はぼられるのかもしれないが、観光客という唯一の資源に群がるカンボジアの人々の姿をみていると、お金のことでクレームをつける気にはなれなかった。ホテルに戻った。
2002/1/21(Mon) <ベトナム・カンボジア紀行(14)>
(13) 夜の町
シェリムアプの町は、思った以上に小さかった。そして、ホテルのロビーと同じように暗かった。前の項でボスの悪口を書いたが、ほんとうに電気が不足しているのかもしれない。それでも、路地で果物を売っている人がいたり、屋外カフェでビールを飲んでいる人がいたり、活気があった。人々が生きることを楽しんでいる様子がうかがえた。驚いたのは、町にインターネット・カフェなるものがあったことである。昔の日本の駄菓子屋くずれのゲームセンターを彷彿とさせる建物に、INTERNET CAFE 1HOUR$2と書いてある。貧しいのに・・・と驚いた。
だけど、考えてみると、今の日本の若者たちも、食事はカップラーメンでも、携帯電話やEメールに多額のお金を費やしている。私も、学生時代は、食事は切りつめても、本は買ったし、行きたいイベント、旅には出かけた。若者は、いつだってどこでだって、パンよりも、情報を求めているし、人とのつながりを求めているものだ。だから、カンボジアにインターネットカフェがあったって不思議なことではないのだ。インターネットカフェ、ちょっと入ってみようかと思ったが、わざわざカンボジアまで来て、昨晩までさわっていたインターネットというのもなんだしねえと、そこを立ち去った。
夜の街では、少しでも立ち止まると、バイクライダーが寄ってきたり、ストリートチルドレンが集まってくる。子どもたちも、大人たちもとにかくお金を手に入れることに懸命だった。ガイドブックには、カンボジアでは夜の街は危険だから出歩かないようにと書いてある。しかし、私の印象では、夜のシェリムアプは、危険というよりも、わずらわしいという印象だった。そんなに人がいるわけでもないのに、こちらを見つけて、人がやたらめったら寄ってくるのだ。シェリムアプでは、旅行者が単身で町をゆったりと見物するということはほとんど不可能である。私の知るかぎり、シェムリアプのほとんどの唯一の産業が、観光である。そうであるから、私たち旅行者はいわば貴重な金づるなのである。とくに、ガイドも、バイクライダーもついていない単身の旅行者は、手つかずの金塊のようなものであり、人々のねらいの的となる。
シェムリアプでは、インフラはきちんと整備されていない。鉄道もないし、バスもない。ようやくメインの道路だけが舗装されているという段階である。戦後の焼け跡の東京のように、腹は減っているけれども、誰もがビジネスチャンスをもっているという感じだろうか。インフラが整っていないということは、ことばを変えるならば、制度化されたぼったくりシステムがまだ準備されていないということである。これは、宮崎学的なとらえかたであるが、今回、カンボジアを旅して、ストリートチルドレンの子どもたちも、バイクライダーも、大手旅行代理店も、リゾート産業も、やっていることはまったく同じではないかという奇妙な合点を経験した。いずれも観光客からお金をぼったくるということには変わりはなく、ただ制度化されたぼったくりシステムのほうが、値が張る代わりに安心感を与えてもらえるぐらいの違いしかない。
ここで私は、「ぼったくり、ぼったくり」と言っているが、こちらも移動・ガイド・宿泊などのサービスをしてもらわなければ旅ができないわけだから、お互いさまである。もちろん、ストリートチルドレンやバイクライダー側からみるならば、こんなにサービスしているのにお金をくれないなんて、なんてぼったくりな客なのだということになる。街角でフレンドリーに話しかけてこられて、こちらも調子を合わせていると、最後は「お金をくれ、何か買ってくれ」という話になり、断ると、途端に嫌な顔をされる。向こうにとっては、商売でわざわざ見ず知らずのおまえにフレンドリーにしてあげたのに、気持ちのいい気分だけもらってお金を出さないのは、なんてぼったくりな奴なんだということなのだろう。カンボジア、ベトナムは、このように徹底して交換の原理によって、人間関係が成り立っていた。だが、そうであるからこそ、損得勘定を抜きに、ただ話をしていて、一緒にいるだけ楽しいという相手が、友達なのだということがこれまたよくわかった。カンボジアとベトナムでは、私を手段とみなしている人はお金を要求し、友達は決してお金を要求しない。ものすごくわかりやすい社会だった。そして、旅の間、4人の友達ができた。
このあとも、カンボジアでは、ほんとうに多くの人々に話しかけられた。日本では、いくらセクシーな美女でもここまでは声をかけられないだろうと思うぐらい(ほんとうにセクシーな美女には声をかけづらいものである(余談))、1人にさせてもらえないのである。おそらく彼らにとって、日本人は、カネが服着て歩いているようなものなのだろう。ただ、残念なことは、ほんとうにカネが服着て歩いているような日本人は、カンボジアにはまず来ないということを、彼らが知らないことである。そういう人は、こんなぼったくり合いを求められる場所にはまず来ない。ぼったくり合いを楽しむ旅行客は、まずあまりお金を落としてくれない。ディレンマである。
さて、いろんな人たちにあまりにもしつこくスカウトされるものだから、ゆっくり店をみることもできず、夜の街をただひたすら早足で歩いていた。ガイドブックのような危険性は感じなかったとはいえ、立ち止まるのはやっぱり怖い。早足で歩いたら町の突端まで辿り着き、引き返そうとした。ちょうどそのとき、一人のバイクライダーが私を呼び止めた。Can I help you? これまでは、バイクライダーに声をかけられても、相手にしなかった。そして、今回もNo thank youといって立ち去った。しかし、彼は再び追いかけてきて、Can I help you? と呼びかけてきた。顔をみると、私とあまり歳が違わないようなバイクライダーだった。彼には今までのライダーにはない匂いを感じた。それは、彼が自分と同じ人種だという動物的な勘だったのかもしれない。ちょうど私は、とどまることのできない街での1時間をもてあましつつあったこともあり、彼と会話を交わした。
最初は、バイクライダーの商談だった。いつカンボジアに来て、これからどのような予定であるのか、彼は的確に尋ねてくれた。彼はとてもいい聴き手だった。私は、彼と話をする中で、曖昧だった今後の予定が明確なかたちを帯びてきた。もちろん、彼にとってはこれはビジネスであった。それでも、コミュニケーションを深めるうちに、彼は、私の良き旅のパートナーになってくれるだろうという確信をもった。きっと彼は、親切の押し売りではなく、親切のあと豹変するのでもなく、私が見たいと思っているものを見せてくれ、出会いたいと思っている人のところに連れていってくれるのではないかと感じたのだ。街頭で、私と彼と話した時間は、15分ぐらいだっただろう。だが、このとき、カンボジアに来て、はじめて気持ちが通じ合う人間に出会ったという感触をもった。そして、どこの国であれ、どこの社会であれ、人を手段としてしか見ない人間もいれば、人の気持ちを大事にできる人間もいる、どこも同じだということに気づかされたのだった。
彼は、私をホテルまで送ろうとしたが、ホテルマンとの約束があったので、それは断り、明日の夜、ホテルに迎えに来るという約束を交わした。彼は約束の印に、バイクの合い鍵をくれた。彼の名前は、KIM、私の名前は、KEN。お互い、わかりやすい名前だった。私は、彼と別れ、早足でここに連れてきてくれたホテルマンとの約束の場所に戻った。ホテルマンは、約束の時間通りにあらわれた。カンボジアでとても感心したことの一つだが、カンボジアの人々は、約束の時間を必ず守った。一度として待たされたことはなかった。私の滞在中、カンボジアの人々は、あの手、この手で旅行客から出費をさせようとしたが、決して不当な手段でお金を得ようとすることはなかった。私が出会った人々は、たしかに貧しさの中にいたけれども、正直で誠実な人々だった。帰りのバイクでは、機嫌良く、ホテルマンと話を交わした。夜の外出が、新しい出会いを生み出し、私の旅に明るい日差しが射し込んできた。弾んだ気持ちで、ホテルに戻った。夜の町への5ドルは決して高くなかった。
2002/1/18(Fri) <ベトナム・カンボジア紀行(13)>
(12) バイク
ホテルのフロントの暗がりをうかがうと、若いホテルマンとボスがいた。よくいえば倹約家のボスがいつも電気を消してまわっているので、ホテルのフロント・ロビーはいつも暗い。きっとシャワーからお湯が出ないのも、倹約家のボスの努力のたまものにちがいない。私が「これから町に行きたいんだけど」と言うと、ボスは「5ドル」だと答えた。町に行くだけで5ドルというのは、あまりにもぼったくりだと思いつつも、ほかに手段もないので、若いホテルマンのバイクに乗って、町に出かけることにした。
ホテルマンがバイクを準備し、私はその後部座席に乗った。もちろん、ノーヘルメットである。若いホテルマンはあまり運転が上手ではないように思えた。ヨロヨロとバイクは動き出した。不安だった。しかし、スピードは出した。乗っているバイクも、何ともあやしげなバイクで、今何キロ出ているのかとスピードメーターを見たが、針は0kmを指したままだった。このあとも、カンボジアでは、一度もスピードメータや走行距離メーターが動いている自動車やバイクを見ることはできなかった。
下手なバイクの後ろに座り、アホな私は、ここで死ぬのだろうか、とふと思った。頭の中を尾崎豊の『十五の夜』がぐるぐるとまわった。胸をのけぞらせ、星空を見上げた。恐怖は去り、心地よさが沸き上がってきた。カンボジアでは、ノーヘルの2人乗りでこけて死ねるぐらい自由なのだと、私の身体は感じた。もちろん、これは身勝手な旅行者のこれまた身勝手な感覚なのだろうけれども、恐れは、いつしか快感に変わっていた。夜の風にさらされながら、自分の身体が解放されていくのを感じた。
それでも快感は街中に入るまでだった。街中の交差点に信号がないのはさすがに恐ろしかった。クラクションを鳴らしながら、バイクと車がスペースを奪い合う。よくぶつからないものだと感心した。夜風の中で、ホテルマンは私にどこに行きたいのかと聞いた。しかし、私はどこに行きたいわけでもない。ただ、夜の町をぶらつきたかっただけである。どこに行きたいのかと言われても、困った。このあともそうなのだが、カンボジアで一番困ったのは、親切さである。あちらは、親切に手取り足取りやってくれようとする。だけど、こちらは、勝手にやりたいこともある。町の交差点で降ろしてもらい、1時間後にもう一度拾いに来てもらう約束をしてホテルマンと別れた。
2002/1/16(Wed) <ベトナム・カンボジア紀行(12)>
(11) ホテル
レストランで砂を噛むような食事をしたあと、ようやくホテルに着いた。空港からずっと車で、もう辺りはとっぷりと日が暮れており、ホテルがどこにあるのかもわからない。ただわかったことは、ホテルの周りには何もないということである。町はずれのホテル。これは動きづらい。やっぱりいろんなものを人任せにすると、ツケが来る。
レストランと同じように、ホテルもまたスタッフが多く、客は少なかった。ホテルで部屋の鍵をもらい、部屋で休んだ。部屋は小ざっぱりとしている普通のツインルームだった。水道の水が飲めないので、プラスチックボトルに入ったミネラルウオーターが二本置いてあった。日本のペットボトルのような硬いプラスチックボトルではなく、軽く押せばへこむような柔らかいプラスチックボトルである。しかし、十分な量がある上に、飲み口はきちんと密封されており、一口飲んで、おいしかったので、ほっと一息ついた。旅行に出る前、最も心配なものが水だったが、このミネラルウオーターがあれば、大丈夫だと思った。
一日の疲れを流そうと、バスルームに入った。大理石風のバスルームは、造りはとてもきれいだったが、お湯は出なかった。クレームをつけることもできたかもしれないが、面倒くさいのでやめた。カンボジアは暑いし、お湯が出なくても何とかなる。水のシャワーを浴びて、一日の疲れを流した。
シャワーから出て、ベットに寝転がって、長かった一日について考えた。カンボジアに来て、まだ一歩も自分の足で歩いていない。ガイドさんに連れ回されただけである。これでは一体何のために来たのか、わからない。明日からじっくり自分の足で歩けばいいわけだが、せっかちな私としては明日まで待てなかった。ガイドブックには、「カンボジアでは内戦時の銃器なども出回っており、夜間の外出は避けること」と書いてあったけれども、危ないと言われると出かけてみたくなるのが人情である。この町はずれのホテルから脱出して、何とか夜の町に出かけてみようと、部屋を出た。
2002/1/15(Tue) <ベトナム・カンボジア紀行(11)>
(10) レストラン
「トヨタのカムリ」は、ホテルではなく、レストランに到着した。そこは室内ではなく、屋根つきの屋外であり、少し高級そうで、清潔なレストランだった。一目見るだけで、外国人旅行客向けのレストランだとわかるつくりだった。私の個人的な趣味としては、このようなレストランは好きではないのだが、パッケージについているものなので仕方がない。それに、今回の旅では、四の五の言わず、何でも経験してやろうと、若い日の小田実のようなことを考えていたので、これもまたよしと思い直すことにした。
周りを見渡して、まず驚いたことは、客の少なさと店員の多さである。広い店内にもかかわらず、客はほとんどいない。その代わりに、あふれんばかりの店員がそこにはいた。キャバレーかと見まがうばかりに(キャバレーを知りませんけど)、着飾った美しいご婦人(いや、レディ)たちが、壁際に並んでおり、客が来たら、そのうちの何人かが動いて、接待をする。接待といっても、別にこちらの歓心をくすぐるようなことをするわけでもなく、「飲み物は何にしますか?」と尋ねて、ビールをもってきて、面倒くさそうに注ぐだけなのであるが、とにかく、たくさんのスタッフがそこにはいた。日本のファミレスで、あまりにもわずかなパートタイムの店員が、こまねずみのように忙しく走り回っている光景に慣れている私としては、この逆転した世界に大いなるとまどいを感じた。
なにせ、客は、私と、あと数組しかない。一人ツアーの私はそれまで殿様気分で喜んでいたが、この食事には参った。レストランに連れていかれて、一人取り残されて、そして周りには、たくさんの店員たちが暇そうにこちらをじろじろ見ているのである。ガイドさんとドライバーは、別の場所でチープな食事をとっている。私だけが外国人旅行客向けのよそ行きのレストランに軟禁され、ものめずらしそうに見られているのである。それでも、まだ言葉でも通じるならば、暇そうにしている店員を笑わせながら、楽しく食事をすることができただろうけれども、彼女らは英語も、日本語もできない。そして、私はカンボジア語ができない。
この日、一日中、飛行機に乗っていたこともあり、ほとんど食欲はなく、カンボジア・ビールをビンの半分飲んだだけで、あとはフルーツだけ食べた。カンボジア・ビールは甘くて、私の口には合った。フルーツは、緑色の小さなバナナがとろけるようにおいしかった。しかし、食事にはほとんど手をつけることなく、何とも言いようのない最初の食事が終わった。店員がたくさんいるわけは、あとでわかったことだが、カンボジアには仕事がないからである。だから、そこら中に、仕事を探している人、仕事にあぶれている人があふれている。仕事がないから安く買いたたかれる。安く買いたたかれてあまり意味のない時間を過ごしているから専門的な技能も育たない。専門的な技能が育たないから産業も育たない。産業が育たないから仕事もない。こうした悪循環が、この社会に住む人々の生き方を大きく阻害しているように思えた。
2002/1/11(Fri) <ベトナム・カンボジア紀行(10)>
(9) コソルさん
旅の醍醐味は、片道だけのワンウエイチケットで、帰りのキップを買わずに、風の吹くまま気の向くまま、旅は道連れ、世は情けという世界にある。しかしながら、今回は、久しぶりの海外、十分に下調べをする時間もなく、「ちゃんと帰ってこい。そうでないとあとが面倒だから」という同居人や同僚の声もあり、帰りのキップもあらかじめ買っての出発だった。また、ホテルの手配も面倒だったので、個人旅行ではあるけれども、空港からホテルまでの送迎と一日目の食事、ガイドがセットになっているパッケージをインターネットで探して、依頼していた。
したがって、私には空港にお迎えがあり、ホテルまでの足を探す必要はなかった。日本やいわゆる先進国の多くの空港とは違い、シェリムアプ空港には鉄道などはもちろんない。バスもない。あるのはタクシーとバイクタクシー。タクシーといっても普通の車と同じ。メーターもない(私が乗ったものはそうだった)。ちなみにスピードメーターも動かない。しかし、何にもないけど、カンボジアに一番ないのは仕事である。仕事がないから、人々はほとんど唯一の産業である観光に群がってくる。無認可のバイクライダーたちが空港の周りには雲霞のように押し寄せている。これに対して、空港から出てくる外国人はわずかであり、圧倒的な買い手市場である。行ってみてはじめてわかったことだが、カンボジアでは空港への送迎を事前に依頼する必要はなかった。十分なバイクライダーやタクシーがそこにはいるからである。しかし、初心者の私にとって、送迎つきは安心できることでもあった。
お出迎えのガイドさんは、TAKAIRA KENICHIという私の名前が書かれたプラカードをもって、空港の出口で待っていた。コソルさんという日本語のできるガイドさんである。本来ならば、パッケージを依頼した個人旅行客の複数の日本人をまとめて迎えて、ホテルまで案内するはずなのに、その日は、たまたま客が私だけだったので、殿様気分というか、VIP待遇で、専用の日本語ガイドさん、専用の運転手さんを従えて、専用の黒塗りの車に乗り込んだ。車はTOYOTAのCAMRYである。車にはうとい私だが、たしかトヨタのカムリといえば、高級車のはずである。こんな高級車がどうしてカンボジアを走っているのだろうといぶかしく思った。いはやはすごい待遇だと感心しつつ、私は後部座席に腰を沈めた。ガイドさんに「この車、日本の車ですね」というと、「いや、韓国の車です」という答え。「いや、たしかトヨタのカムリというのは、日本の車のはずだけど」と思いつつ、まあ、いいやと思い、日本語で別の話題について話した。
コソルさんは、とてもフレンドリーかつ親切なガイドだった。彼は丸顔で、私の叔父に似ており、我が一族は南のほうからやってきたのだということを深く確信した。彼女はこの文章を読んで複雑な思いをもつかもしれないが、私の母によく似た女性がカンボジアにはたくさんいるのだ。コソルさんは、この道路は日本が造ったんだと一生懸命説明をしてくれた。ベトナムの空港での店員のぼったくりにムッとしていた私は、カンボジア人が一挙に大好きになった。コソルさんは、自分は「ガリベン」で日本語を一生懸命勉強しているところなのだと語ってくれた。新しいボキャブラリーを習得することに余念がなかった。日本人旅行客に教えられたのか、ヘンな日本語をたくさん知っていた。彼があまりにも下品な日本語を知っていたので、驚いたのだが、その下品な日本語が何だったのか、ずっと思い出そうとしているけれども、いまだに思い出せずに胸がもやもやしている。スラングを教えて、それをスラングと教えないとはまったく悪い日本人観光客がいるものだ。コソルさんに「その言葉はあまり使わないほうがいいですよ」と話し、道中、あまりにも美しい夕やけに、車を止めてもらい、西の空に向けてシャッターを切った。長かった一日が夕闇に包まれようとしていた。
2002/1/10(Thu) <ベトナム・カンボジア紀行(9)>
(8) シェムリアプ空港
ちょうど夕暮れ時、カンボジアのシェリムアプに到着した。この日、私は、東京・蒲田で朝日を見て、カンボジアで夕日を見ることになった。シェリムアプはカンボジアの北西部にある。タイとの国境まで約100キロ。首都プノンペンに次ぐ都市だと言われている。しかし、日本の都市とくらべると、都市とはいっても月とすっぽんの違いである。
カンボジアの首都プノンペンは、ホーチミンとシェリムアプのほぼ中間地点にある。プノンペンはベトナムに近く、シェルムアプはタイに近い。現地の人の話によれば、シェリムアプは、いずれプノンペンをしのぐ都市に成長するだろうということだった。私もそう思った。なぜならば、シュリムアプはアンコール遺跡に隣接する町だからである。あとで詳しく述べることになるが、アンコール・ワット、アンコール・トムをはじめとするアンコールの遺跡群は、圧倒的な規模と迫力、さらに繊細さを兼ね備えた、世界でも超一級の遺跡である。これらの遺跡群の奥の深さは、日本で、写真やガイドブックを観て、想像していたものをはるかに超えるものだった。遺跡の中には、期待していたのに実際に行ってがっかりするものと、期待を上回るものがあるが、アンコールの遺跡群は間違いなく後者である。あれだけの遺跡を有する以上、カンボジアが政治的に安定し、インフラの整備が行われるならば、アンコールは世界的な観光地になることは必須であり、そこに隣接するシェリムアプは観光都市として発展する大いなる可能性を秘めていると思う。
シェリムアプ空港は、小さな空港だった。そこにはプロペラ機が何とも似つかわしかった。タラップを降りたとき、長かった一日の夕日がちょうど地平線に沈もうとしていた。私はカメラをとり、その夕日に向かってシャッターを切った。カンボジアの夕日は世界で一番美しいと言われているそうだ。私は世界のほとんどの夕日を知らないので、何とも言えないが、山ではなく、地平線に沈むカンボジアの夕日はすばらしかった。カンボジアに滞在中、三度の夕日を見た。そのいずれもが、幼い日々への哀愁をかきたてるような、せつなく、美しい夕日だった。
さて、シェリムアプの空港では、カーキ色の軍服を来たソルジャー(兵士)たちがいかめしい顔をして、ニコリともせずに立っていた。美しい夕日の次の印象は、これはとんでもないところへ来たというものだった。この国が平和で安定した国ではないことが一目瞭然だった。軍人が威張っている国は、旅行者にとってもあまり居心地のいい国ではない。この国では変なことをしでかしたら首をはねられるかもしれない、そう旅行客に思わせるに十分な、空港での軍服姿であった。
2002/1/9(Wed) <ベトナム・カンボジア紀行(8)>
(7) カンボジア上空
さきほどの飛行機でもメコンデルタ上空で感動したが、今度のプロペラ機ではメコンデルタがより一層あざやかに見え、その向こうに虹までかかり、思いっきり感動した。広大な、そしていまだ飼いならされていないインドシナ半島を見ながら、地球は生きているとほんとうに感じた。地球が生き物のように、ドックンドックンと心臓を鳴らしている音が、メコンデルタの大地から聞こえてくるかのようだった。プロペラ機から大地を眺めながら、ここで死んでもやってきてよかったと思えるほど、カンボジアの大地は躍動感にあふれ、迫ってきた。1時間半のフライトがあっという間に感じられるほど、ずっと大地を見続けていた。
メコンデルタを離れると、次はインドシナ最大の湖であるトレサップ湖が見える。あとで訪ねることになるこの湖は、雨期には3倍の大きさになるという、とんでもない湖である。生きた湖であるトレサップ湖には、湖岸というものがない。湖と大地との境はボーダーレスであり、湖が田んぼにつながり、どこからともなく大地につながっている。湖と大地の二分法ではなく、グラデーションによってつながっている。二分法ではない、やわらかいつながりの中のくらし。これはカンボジアのいたるところで感じられたものである。水の上=人が住めないところ、陸=人が住めるところ、といった区分けもない。水の上にも人は住み、湖が上昇すれば、陸に移住する。また陸かと思われるところも、水面下に沈み、水底もまた、陸となる。実にやわらかい。上空から見ても、湖と陸とのやわらかい関係を読みとることができる。そのやわらかさが何とも心地よい。
どこまでも平らな大地が続いており、そこには水と土と森とが、お互いに入りくみあいながら、支え合い、いのちのリズムを奏でている。暴れ川を固い管理によって押さえている日本では今やほとんど見られない光景である。カンボジアの上空からの風景だけで、来てよかったと心から思いながら、プロペラ機の着陸に身をゆだねた。
2002/1/8(Thu) <ベトナム・カンボジア紀行(7)>
(6) ホーチミン空港
ホーチミン空港に降り立った途端に、ムウッとする暑さが襲ってきた。熱帯の粘りつくような暑さである。空気もどんよりとしている。冬の東京を朝出た身体には、何とも言い難い生暖かさであった。
行きはホーチミン空港は乗り継ぎだけで、ベトナムに入国はしない。ベトナム入国はカンボジアの帰りである。ホーチミン空港のロビーにて、次のカンボジア・シェリムアップ行きの飛行機を待った。ところが、私の手元には、日本の円の現金しかない。ドン(ベトナムの通貨単位)、リエン(カンボジアの通貨単位)どころか、ドルすらもっていない。もちろんトラベラーズ・チェックもない。まあ何とかなるだろうと思ってやってきたが、ここらで両替しておかないとこのあと何かと不便にちがいないと考えた。空港の案内の女性に両替について尋ねたら、免税店で両替してくれるとのこと。2ドルのチョコレートを買い、福沢諭吉を一枚渡したら、63ドルのおつりが返ってきた。当方、不勉強で、今ドルと円のレートがどうなっているのかさっぱり知らなかったため、何だかヘンだなあと思いつつ、向こうのレジの女性がにこにこしているので、こちらも仕方なくにこにこして63ドルを受け取った。カンボジアに着いてわかったことだが、円とドルの交換は、1万円で75〜6ドルが相場だった。さっそく見事にぼられたのである。ベトナムというところは基本的ににこにこしていてはいけないところだということを、あとでまた思い知ることになるが、ベトナムとの最初の出会いは、あまりいいものではなかった。
しかし、これはトラベラーズ・チェックやドルを一枚ももっていない上に、レートさえも調べていない私も悪いわけで、仕方がない。円があれば何とかなると思う考えのほうが、大東亜共栄圏的ずうずうしさともいえる。とにかく、63ドルの軍資金をもって、よしとばかりにカンボジアに向かった。カンボジア行きの飛行機は、30人乗りぐらいのプロペラ機。はじめてならば、ちょっと驚くところだが、以前シアトルからバンクーバーまで同じようなかわいいプロペラ機に乗ったことがあったので、思ったより大きいと感じたぐらいだった。しかし、今回の旅で、このプロペラ機が一番安定しており、着陸も穏やかだった。きっと機長さんが上手だったのだろう。思わず拍手をしたくなるような着陸だった。
2002/1/7(Mon) <ベトナム・カンボジア紀行(6)>
(5) ベトナム上空
機上からみるベトナムは、田園風景だった。海に近い場所のせいか、あるいはベトナム戦争時の枯葉作戦の後遺症か、森林(ジャングル)はさほど多くない。日本のほうがずっと森林国である。またベトナムの大地は、日本列島よりも土が赤く、そこに田園風景が広がっている。飛行機はホーチミンシティの市街をこえて、南下し、そこから右旋回して、空港へと向かった。下にはメコン川が流れていた。
空から見るメコン・デルタの風景には圧倒的な感動を覚えた。川はいくえにもうねり、いくつもの小さな流れが繊毛のように伸びている。あるいは大河の静脈とそこにしたがう毛細血管のように、川が大地を覆っている。肥沃なメコン・デルタがそこにはあった。あとでベトナムの人に聞いた話だが、ベトナム南部では、米は三期作だそうだ。田植えから90日ほどで収穫となり、また再び田植えを行うのだという。とくに、メコン・デルタでは、田植えの時期など決まっておらず、いつ田植えをしても、必ず90日のあとには、収穫があるのだそうだ。インドシナは、何という肥沃な大地だろうか。チベットから中国、ミャンマーを経て、養分を蓄えに蓄えたメコン川が、このメコン・デルタで養分を吐き出す。だから、メコン・デルタに住む人々は、メコン川に洗われた肥沃な大地で、いつでも豊かな収穫が得られる。上空から見たメコン・デルタは、インドシナがそもそも豊かな大地であったこと示していた。飛行機は旋回すると、ホーチミンの街並みを右手に北上し、空港に着陸した。
2002/1/5(Sat) <がまん>
只今、大学の研究室。目の前には「がまん」という紙が下がっている。一昨年の正月、今年の抱負は「がまん」だと宣言したような気がするが、2年後の今年もやっぱり私に必要なものは「がまん」のようである。
昨日の東名高速で、何度「がまん」できずに、じたばたしようとしたことか。最初は一宮インターで高速に入った途端に渋滞に巻き込まれたときのことである。「ああ、高速にのるんじゃなかった」「小牧からのるべきだった」うんぬん。そして、岡崎の渋滞では「中央道に行くべきだった」「中津川まで行ったら中央道にのれるはずだ」「中央道だったらさっさと行けたにちがいない」うんぬん。さらに、浜松の大渋滞では「降りて、泊まろ」。これだけではなく、綾瀬バス停の渋滞情報に「厚木で降りて、下走ろ」。しかしながら、賢明な同居人が隣にいて、私の手綱を締めてくれたおかげで、何とか東名を完走した。家に帰ってHPを見てみると、中央道は雪のため数ヶ所でチェーン規制などがあり、とてもスムーズに行けたとは思われない。たしかに渋滞に巻き込まれて、とっても時間がかかったけれども、東名で「がまん」したことによりほかの行き方よりも明らかに一番速く、おそらく一番安全に帰ることができたのである。
それにしても、友人に車にのせてもらうと、助手席でじたばたするし、自分で車を運転しても、運転席でじたばたするものだから、私は相当“たち”が悪い。たまたま賢明で寛容で「がまん」強い人々に助けられて、ここまで生きてきたけれども、私は相当、人間として欠陥があるようである。今年は一日一「がまん」をモットーに、人間として少々罪償いをしたいところである。(* 来週から紀行に戻ります。)
2002/1/4(Fri) <大雪>
この正月、気まぐれで、黄色いトッポ君にて、奥方の古里の尾張地方まで遠出した。ヨロヨロとした軽自動車での長旅だったが、なんとかかんとか辿り着いて、ホッとしていたのもつかの間だった。2日の夜から3日にかけて、1月としては41年ぶりという大雪が尾張地方を襲い、「行きはよいよい帰りは怖い」状態となった。何とか帰ることができたものの、4日の帰りは、3日に足止めとなった人たちも合わせて、東名自動車道は大渋滞となった。(中央道も通行止だった。しくしく。)というわけで、つい先程、清瀬に車も人もヨロヨロになりながら、帰還しましたとさ。ご飯も車内での、約11時間の長旅で、まだ身体も揺れている。いつもニュースで渋滞情報を見ながら、喜んでいたことのバチが当たったようだ。
今年も激しいスタートになりましたが、無事帰還できたことを喜ぶプラス思考で行きたいと思います。本年もなにとぞよろしくお願い申し上げます。
2001/12/31(Mon) <ベトナム・カンボジア紀行(5)>
(4) 機上にて
なぜか11時25分発のはずの便が、11時15分発に繰り上げになり、私は日本列島を離れ、ベトナム・ホーチミンシティへと旅立った。飛行機のフライトの遅れは何度も経験したが、早まったのははじめての経験だった。
関空を飛び立ったベトナム航空の旅客機は、神戸上空を旋回し、四国を縦断し、南へ向かった。神戸上空で、かつて神戸市須磨区の少年Aの町を取材したときのことを思い出し、そのとき考えたことをもう一度考え直して、飛行機の中で長いメモを作成したが、ここで脱線すると、いつまでもベトナム、カンボジアに行き着かないので、省略する。(私は小学校6年生のとき、修学旅行の紀行文を原稿用紙100枚以上に渡って、書き連ねたことがある。わずか一泊二日の旅行についての文章である。あの頃から、読者の迷惑は考えずに、やたらと長い文章を書く人間だったということを、まさに今思い出した。さらにいえば、私の講義も、ベトナムの話をしようとしながら、関空で終わることがきわめて多いということにも、今気づかされた。かなりの病気である。申し訳なし。)
さて、四国を縦断した飛行機だが、本州とくらべると、四国にはゴルフ場が少ないという印象をもった。四国の森林は深く、鮮やかであった。南海上に出ると、機内食が出て、さっそく牛肉を食べた。もう狂牛病などどうでもよくなっている。ベトナム・カンボジアに行くのに、狂牛病がどうだなんて言っていられない。明日のことではなく、今食べたいものを食べる。これで行こうと心を決めた。それにしても、ベトナム航空はすごい。前の座席の背もたれの布が破れ、中から段ボールのようなもので出てきている。さっそく記念に写真を撮った。
それから、民族衣装(アオザイ風)をきたスチュワーデスはみな美しいが、異様に愛想が悪い。すみませんということばもなく、いきなりボカリと来る。着陸のときなど、前のテーブルをそのままにしていたら、小学校の怖い女の先生のように「上げろ!」とにらまれた。日本のスチュワーデスのサービスのよさが懐かしかったが、考えてみれば、過剰サービスはなくとも死ぬわけでもない。こんなものでいいかとも思った。サービスしすぎて、ストレスをためて、また別のところでサービスを求めるというのも、異常な社会である。日本では、総じて仕事となると、腰が低いというか、たっぷりサービスをしてくれる。これは日本人のよさでもあるが、疲れすぎるのもまた考えものである。あまり無理をしないで、破れた座席に、機嫌の悪いスチュワーデスも、まあいいかという気持ちになった。何よりも、海外旅行離れなのか、隣の席があいていて、リラックスできたことがありがたかった。昼食のあと、窓はすべて閉められ、乗客はお昼寝タイムに入った。ベトナムやカンボジアでは、飛行機の中でなくても、多くの人々がお昼寝タイムを過ごすらしい。おかげで私もお昼寝をして、昨夜の睡眠不足を取り戻し、ふと目が覚めて、窓を開けたら、下にはベトナムの大地が広がっていた。
* 世界が新たな中世に突入した2001年も今日で終わりです。なかなか散々な21世紀に始まりでしたが、2002年、もう一度仕切直しということで、がんばっていきたいものです。今年も1年間、“たまのさんぽみち”におつきあい下さいまして、ありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。なお、たまのさんぽみちは、正月三が日お休みののち、4日あるいは5日から再開する予定です。どうぞよいお年をお迎え下さい。
2001/12/30(Sun) <ベトナム・カンボジア紀行(4)>
(3) 関空
さて、飛行機は、大阪湾の関空に到着した。そこで私は出国手続きを行った。関空は二度目だったが、前は国内便であり、はじめて関空で出国手続きを行った。私の印象では、さまざまな手続きが成田よりずっとスムーズで、表示もわかりやすかった。おかげで気持ちよく出国ができた。テロで厳戒態勢かと心配したが、羽田での検査のほうがずっと感じが悪いと思うぐらいで、ここではすべてが思ったよりもスムーズだった。観光客が少なかったというのもその一因かもしれない。あるいは、ニューヨークでのテロがすべて国内便だということで、国内便の警戒態勢がとくに厳しくなっているのかもしれない。
出国手続きを終えたあと、関空のロビーで出発を待った。免税店とやらがあり、たばこや洋酒、香水、ブランド品などを売っている。ところが残念なことに、私はどれにも興味がない。ブランド品など、その世界に参加している人にとっては、大いなる意味があるのだろうけれども、そもそもそのレースに参加していない私にとっては、何のことやらさっぱりわからないのである。私がブランド品をもらってもまさに「豚に真珠」であるが、心配しなくても誰も私にブランド品をくれることはない。(気づいていないだけかもしれないが=もっと悪いか)(余談:私は、大学時代、人から入学祝いでもらったネクタイをはめていたところ、友人に「おっ、そのネクタイ、ラルフローレンじゃないか」と言われ、「えっ、これがラルフローレンか。馬のマークの参考書かと思っていた」と答えて、あきれられ、笑われたほどのブランド音痴である)
さて、関空で帽子を忘れたことに気がついた私は、帽子を探したが、日本は冬で夏物のいい帽子が見あたらず、まあいいかと、冬物の帽子を買って、飛行機に乗った。これがあとで、同居人に大受けだった。カンボジアにて深緑の帽子をかぶって写真に収まった私が、畏れ多くもホーチミンのようだったらしい。まあ、カンボジアだし、私は丸顔だから、どちらかといえば、フン・センといったところだろうか。しかし、フン・センはカンボジアでは不人気だった。
(註:ホーチミン=ベトナムにおける独立と革命の英雄。フランスからの北ベトナムの独立、そして対米戦争を経て南北統一をなしとげた指導者であった。ソ連などで行われた社会主義革命とは違い、粛清の血を流さずに革命をなしとげたところが特筆される。)
(註:フン・セン=現、カンボジア王国首相。1970年代、カンボジア民主連合政府軍に参加、負傷して左目を失明。ポル・ポト派を離脱し、ベトナムに亡命ののち、人民革命党(現、人民党)のリーダーとなり、第二首相に就任。1997年、流血クーデターを起こし、第一首相のラナリットを追放し、第一首相となる。)
2001/12/29(Sat) <ベトナム・カンボジア紀行(3)>
(2) 日本列島
日航機で羽田から関空に向かった。いつものように冬の富士山は美しかった。私は東側からみる富士山が最も好きである。そして東側の富士山が一番雪に覆われている。今回の富士山は、南側からの眺望である。雪はさほど多くなく、地肌がかなり露出している。東側の山麓に山中湖が大きく見えた。これまでで最高の富士山は、スカイマーク・エアラインズの飛行機からみたもの。富士山のほぼ真上、わずかに北側をかなり低空でかすめて、迫力満点だった。スカイマーク・エアラインズは、羽田で機内に入るためにエアポート・バスに乗る必要があり、手間がかかるが、富士山をみるには悪くない。
さて、飛行機から日本列島を眺めているとき、いつも暗澹たる気持ちにさせられるのが、ゴルフ場の乱立である。私はゴルフという競技は嫌いではないし、全英オープンやマスターズなどを観て、感動することもしばしばである。ゴルフ場は地上からみると美しい。芝が敷き詰められたフェアーウェイと巧みに配置された木々、まるで緑の楽園のように思われる。ところが、上空からみると、ゴルフ場は、まさしく山のやけどの痕である。森林に覆われた富士山の山麓が、ゴルフ場の部分だけ無惨にも抉られ、まるで地球がやけどを負ったかのように映る。地上からみる美しさと、上空で明らかになる破壊。視点を変えないとわからないことが世の中には数限りなくある。これもその一つである。バブルが終わり、ゴルフ場の乱開発にピリオドが打たれたことは、決して悪いことではないと、私は思う。しかし、不景気になると人はあえぎ、景気が良くなれば、再び乱開発となれば、一体どうすればいいのかと考え込む。この方程式を解くのは、おそらく経済学の問題なのだろうが、ゴルフ場で得られるお金と、森林資源の更新を行うことで得られるお金が同じお金であることに問題があるように思われる。直接の受益者以外に負の影響を及ぼす財と、直接の受益者以外にも潤いを与える財が、今の経済のシステムでは差異化されない。ゴルフ場は、ゴルファーを楽しませ、いくらかの雇用を生み出すだろうが、下流地域には幅広くマイナスの影響を及ぼす。最終的に人間は土と水と空気によって生きているわけであり、これらにマイナスの影響を与える産業には、大きな税負担を要請する必要がある。そして、同時に土と水と空気を守る産業を優遇しなければならない。
えぐられた国土を眺めながらも、日本列島の山の多さと豊かさを改めて感じる。森林面積が約7割の日本は、世界でも有数の森林大国である。この日本がなぜ熱帯雨林の木を伐採し、輸入しているのか。南の国に住む人々にとっては理解に苦しむことだろう。また日本列島は、海岸線も長く、海の幸にも恵まれている。地勢的に恵まれた場所にある私たちは、決して傲慢になってはいけないだろう。同時に、日本を、国土が狭く、資源に乏しい小国であると思うのも間違いであろう。日本は、国土の利用範囲は広く、森と海の資源に囲まれた大国である。おそらく日本は小国であるというイデオロギーは、大陸侵略を正当化するために作られたものだと、私は思う。もちろん、欧米を視察した岩倉使節団は、近代化の進んだ欧米社会に圧倒されたに違いない。そして、彼我の国力の差を感じ、実際以上に日本を小国と考えたのだろう。しかしながら、ヨーロッパの国々で日本より面積が多い国はさほどないし、森林資源や海資源に恵まれた国もない。日本の国土を歩き、また上空から眺めるたび、私は日本列島の豊かさを感じずにはいられない。そして、同時に、この豊かさを当たり前のように味わい、生きている私たちの幸福な鈍感さに気づかされるのである。
2001/12/28(Fri) <ベトナム・カンボジア紀行(2)>
(1) 羽田
夜更かしで朝遅い私にとって、早朝の東京はもうすでに異文化である。6時の山手線がすでに混んでいることに驚いた。また朝っぱらから駅のホームで乗客同士がケンカしているのにはさらに驚いた。よう元気があるわいと感心する。しかし、元気というよりもただやり切れない鬱憤をぶつけているだけのように思えた。活気というよりも哀しさを感じさせるケンカだった。品川で京急に乗り換えた。私はカードをかざすだけで乗車できるJR東日本のSuicaを使っているが、京急の乗り換えではこのために手間取った。便利のようで不便。人間は誰しもどこか抜けているような気がする。人間は完璧ではあり得ないのだから、便利なシステムは、必ずどこかにセキュリティ・ホールが生まれ、そのとき不便かつ非効率になる。ちなみに、行きに品川で手間取ったあと、帰りの浜松町では退場の記録がないという表示が出て、また手間取ることになった。JR東日本ご推奨のSuicaを使用しながら、まるで不正乗車のように扱われたので、少しばかり腹が立った。
さて、京急蒲田でぶるっと震えながら、東京にのぼる朝日を眺めたあと、羽田空港に着いた。私が乗る国際便は、関空発なので羽田からの出発である。成田が都心から遠く、そしていくつものボタンの掛け違えがあったために、成田はハブ空港としての地位を失いつつあるようだ。ベトナム・ホーチミンシティへの便も関空発は毎日運航でかつ便利な午前中出発だが、成田発は週6回で午後出発である。
羽田空港のロビーでぼんやりテレビを見ていると、母親が子育てノイローゼから子どもを殺し、飛び降り自殺を遂げたという事件が流れている。何とも言えない気持ちに襲われる。もう一つ違った見方ができなかったものか。またもう一つ違った見方を誰かが与えてあげることはできなかったものか。私には子どもはいない。子がいるだけで誇りに思ってもいい。子がほしい家に子はできず、子のいる家で虐待があり、心中がある。ただただ不条理である。今からの旅は、私に何かもう一つ違った見方を与えてくれるだろうか? 違った見方を指し示すことができる人間でありたい。そう思いながらロビーにたたずんでいた。
朝食のうなぎ弁当を食べたあと、ふと思いたって、万が一向こうで切れたときのためにカメラの電池を買い、しばらく待って、飛行機に乗る。そうそう、ロビーにいたとき、他の席はがらがらなのに、中年夫婦が隣にやってきて腰をかけるという出来事があった。ほかの場所が十分空いているときに、わざわざ隣に座られることが、私はとても嫌いである。隣に来るのだったらフレンドリーにやってきてほしい。フレンドリーであろうともしないのに、他者の空間にずけずけと入ってこられるのは、ものすごく不快である。もちろん、混んでいるときにはそうではない。当然スペースをあけて、気持ちよく座っていただく。おそらく彼我の空間感覚の違いなのだろうが、私にとっては、広いスペースで近くにいるということは、フレンドリーであるということであり、フレンドリーでもなく、フレンドリーであろうともしない人が私のテリトリーに入ってくるのは、とても気分が悪いのだ。というわけで、中年夫婦が来たあと、私はその場所を離れ、別の座席で出発を待った。
2001/12/27(Thu) <ベトナム・カンボジア紀行(1)>
これから数回にわけて《ベトナム・カンボジア紀行》を連載しようと思います。現地に行って私が見たこと、そこで考えたことを書き綴っていくつもりです。この1週間は私にとって圧倒的な体験でした。しかし、体験を体験のままで放っていると、時が経つとともに、日常の中に埋もれていきます。書くことによって、今回の体験を捉え直し、経験として自分の血肉にしたいと思い、紀行を記しておこうと考えました。今回の旅で得た体験は、私にとってだけでなく、ほかの人たちにとっても意味のあるものではないかと思っています。これからしばらくの間、おつきあいいただけますと幸いです。
《ベトナム・カンボジア紀行2001/12/18-23》
TAKAIRA KENICHI
(0) はじめに
国分寺では冬の空がキャンパスを覆っている。今日は12月27日、2001年もあと数日を残すのみとなった。21世紀の幕開けとなった今年、日本国内では不況が深刻さをまし、世界ではテロと報復戦争が人間と人間のあいだに癒しがたい不信を投げかけた。戦争と大量殺戮の世紀であった20世紀をあとにして、再生への期待を胸に21世紀に向かった私たちだったが、鉛のように重い何かがその胸に残った。1年が過ぎ、私たちの前には期待というより暗雲が立ちこめている。
ところで、ふと私は思った。メディアや周りの他者を通して、私たちが日々接している現実は、果たして世界の現実として妥当性をもつのだろうか? もしかしたら、私たちは極めて偏った現実しか、見ていないのではないだろうか? 人間が生きるということはおそらく苦しいことなのだろうけれども、今のような息苦しさを我慢することが唯一の生きる道なのだろうか?
私のなかでは、さらにいくつかの疑問が沸き上がってきた。日本という場(いや、私のいる場)は、今、人類がおかれている現実を考える上で、意味ある場所なのだろうか? あるいは、私は、あらゆるおそれのあまり、狭い檻の中に自ら自分をくくりつけているのだろうか? もしかして、今、自分はディズニーランドで世界の貧困を考えるというような愚を犯してはないだろうか?
日本の高校では、9月11日のテロ以来、修学旅行で沖縄に行くことを辞める学校が続出している。もちろん、沖縄の人々は今まで通りに生活を行っている。危ないから辞める?米軍基地のあふれる沖縄では、テロとアメリカの報復という事態に否応なく巻き込まれるという現実を知るこそが、社会科の学習であり、格好の平和教育なのではないか? もちろん、修学旅行が全員参加を前提とした学校行事として行われる以上、行き先を現在のアフガニスタンにするというのは暴挙であろう。しかし、沖縄がテロに狙われる確証などどこにもない。いやその兆候すら私は知らない。よっぽど安全なはずのハワイ沖に出かけるほうが、米軍の潜水艦に撃沈される危険があるのではないか。寡聞にして、あの気の毒でならないえひめ丸事件のあと、ハワイ沖での海上研修が中止になったという話は知らない。それなのに、起こりもしないテロにおびえて、沖縄に行くのを中止するという事態。それも、当事者である生徒、教師、親が十分に話し合って、その末の結論ならば、いたしかたないが、多くの場合、ドミノ倒しのような主体のない決定のように、私には見えた。
私は、ただ日本から離れたかった。そして、日本という枠の外から世界、そして日本を見つめてみたかった。ここ10年間、私は海外に出かけていない。私はこの10年間で身体が固くなった。海外に出かけて、固まった自分の身体ともう一度対話をしてみようと思った。そして、授業が終わり、学生たちとゼミの打ち上げをした翌朝の12月18日、私はカンボジア・ベトナムに向かって旅立った。
2001/12/24(Mon) <生還>
今日、1週間ぶりに日本に帰ってきました。ほぼ10年ぶりの海外旅行でした。南の国、カンボジアとベトナムを歩いて、私にとっての失われた1990年代を少しばかり取り戻せたような気がしました。アンコール・ワット、アンコール・トムの小宇宙の迫力、カンボジアの農村地帯に生活する人々、子どもたちのやわらかさ、ベトナム・ホーチミンシティの活気、その他、人々の生きるエネルギーからたくさんのものをいただいてきました。1週間の旅行で、フィルムが18本というのは、私にとって新記録でしたが、それだけ惹きつけられるものがまわりにあふれていました。また写真に納めることのできない出会いの数々が、たしかに私を変えてくれたように思います。旅とは、地球と出会う場であるとともに人と出会う場であり、自分と出会う場であるということを、痛感するひとときになりました。私のなかの“そぞろ虫”がそぞろと這い出して来そうな予感です。とにかくおなかも壊すことなく、無事に生還しました。ありがとうございました。
2001/12/17(Mon) <ちょっとお散歩>
今日で年内の授業が終わった。大過なく(先週休んだけど)、ここまで来ることができたのは、全くもって僥倖であり、ありがたいものである。さて、これまでだと、授業の終了のゴングとともに、コーナーに倒れていた私だが、今年はゴングとともに、ちょっとお出かけをすることになった。前回のコラムがその前振りだったわけだが(相変わらずの我田引水コラムで申し訳ない)、ちょっと外から日本を(いや、そんな大げさなことではなく、自分を)見つめてこようと思っている。というわけで、これから一週間、たまのさんぽみちはお休みいたします。また、無事生還のあかつきには、お出かけレポートを掲載しますので、お楽しみに! それでは皆さん、よいクリスマスを!
2001/12/14(Fri) <外へ出よう>
先日から毎日新聞で、ベトナムにおける日本人戦犯についての特集が組まれている。ドキュメントの取材であるが、そこで伝えられているのには、戦犯として裁かれたのは、ベトナムの旧支配層であったフランス人に危害を与えた日本人であり、ベトナム人に手を下した日本人は裁かれなかったという事実である。東京裁判は、勝者による敗者の裁きだったといわれることがあるが、問題はそういう次元にあるのではなく、旧植民地の人々の叫びを無視していたことが最も大きな問題であるだろう。そういう意味で、戦後五十数年経った今でもなお、やはり戦後(=戦争の後始末)は続いているわけである。
田中宇さんのニュースによると、今や英米系のニュースから情報を得るだけではダメで、フランス語、スペイン語を学び、英米以外のニュース・ソースから情報を得る必要が出てきたということである。これは、もちろん、英米系のニュースが「愛国者か、それともテロリストか」といった極端な二項対立に取り込まれているからである。9月11日の衝撃は、パックス・アメリカーナ(アメリカによる平和)の終焉を意味したといわれる。アメリカに寄りかかるだけではもはや安全ではない世界が到来したということであろう。それと同時に、9月11日以降のアメリカの動きを見ていると、知の面でもアメリカに寄りかかるのでは危ういことが日々明らかになってきている。もちろん、これが安易に日本ナショナリズムにつながっていけば、さらに危ういわけであり、絶妙な綱渡りが必要になっている。
テロとその報復戦争に伴い、今、日本では海外旅行が激減しているそうである。だが、このような時期だからこそ、日本、アメリカのメディアから自由になる地域に出ていって、そこで世界を見つめる自分の視点を探ることが大事なのではないだろうか。
2001/12/12(Wed) <お休み>
風邪のため本日の授業を休講しました。学生の皆さんには大変ご迷惑をおかけしました。よしラスト1周(1週)と思った矢先の風邪でした。どうか皆さんも、風邪にはくれぐれもお気をつけられますよう。
さて、病床で新聞を読んでいたところ、札幌で大雪という記事がありました。三日間で1メートルを超える積雪量というではありませんか。ちょうど先週の土曜日、東京経済大学の教育実習講義のために、北海道から奥谷忠浩先生がお見えになりました。江別高校という札幌近郊の高校にお勤めですので、無事に帰還できたかどうか、心配です。実習講義は義務から参加しているという学生も多いのですが、北海道から熱い思いをもってきていただいたということもあり、講義のあと学生たちが残り、話に花が咲きました。旅費も出ないのに、自らを次の世代のための手段として、捧げるというあり方に、私も心を打たれました。そして、昨秋、出会った江別高校の生徒たちのステキな笑顔も忘れることができません。
もう一つ、王貞治監督の奥様が亡くなられたという記事もありました。まだ57歳というお歳でした。選手として、監督として、一線で活躍し続ける王監督を、支える人生は、さぞかし重いものだったと思います。一線で活躍し続ける人生は、風当たりの強さとも裏腹です。配偶者としてその風圧を受け止めながら、夫を支え、3人の娘さんを育ててこられた人生には、ただただ頭が下がります。王監督勇退後、夫婦でその人生を振り返り、いたわりあうときを待たずに、旅立たれたことに、心が痛みます。
明日から私は、復帰します。お見舞いのメールを送ってくれた学生の皆さん、どうもありがとう。日本漢字能力検定協会が発表する恒例の今年の漢字は“戦”に決まったそうです。さんざんな21世紀の幕開けでしたが、来年の漢字は“愛”になるように、身近なところから見つめ直していきたいと思います。“戦”は、ワールドカップのフィールド上で発揮してもらうことにして。
2001/12/10(Mon) <カゼ>
年内もあとラスト1週にさしかかったところで、カゼをひいてしまった。昔からよくカゼをひく私だったが、勤めてからというものはシーズン中はめったにカゼをひかなくなり、仕事というのは偉大なものだと感心していたところ、カゼにやられた。
私の場合、カゼをひくと、まずノドをやられる。すると、声が出せなくなる。つまり、しゃべることができなくなる。これは教師という仕事にとってはかなり致命的なことであるが、人間としてはあまり悪いことではないようである。しゃべることができないと、人の話を聴くようになる。しゃべる前によくよく考えるようになる。カゼをひくことで、自分の内側で持ちこたえることが増え、少しばかり真人間になったような気になる。
せっかくカゼでおしゃべりを止めたのに、こうしてこの欄でおしゃべりをしていては、元の木阿弥のような気もするが… 皆さんも、カゼには気をつけてお過ごし下さい。
2001/12/7(Fri) <フィット>
通勤途上、前の車はホンダのフィットだった。今一番売れている車である。淡いパープルのフィット、“カッコいい”と思いながら、黄色いトッポの中で、私はミスチルを聴いていた。すると、ファミレスの「粒よりのかき(牡蠣)がそろっています」というのぼりが目に入った。そこから私の頭はあらぬ方向へ展開していった。
実は、私はかきを食べることができない。負けず嫌いな私は、何度も挑戦してみたのだが、その度に、ひどい食あたりになった。とにかく相性が悪いのである。一晩中吐くなど、三度ほどひどい目に遭った時点で、かきを食べるのは辞めることにした。(食事中の方、まことに申し訳ありません)しかしながら、かきを除くと、身近な食べ物のなかであまり好き嫌いはない。いや、好きなものは明らかにあるけれども、どうしても嫌いで食べられないというものはあまりない。そうであるから、私は小さい頃から好き嫌いがなく何でも食べるいい子だと思われてきた。そして、自分もそう思っていた。ところが…。
今から10年ほど前のことである。私ははじめて欧米に旅をした。留学中の現同居人を訪ねて、カナダに足を踏み入れたのである。さっそく機内食として出てきたビーフの山にシチューがまるでソースのようにちょこんとかけられているとしか思えないビーフシチューや、大学の寮食堂で食べた発泡スチロールかと見まがうばかりのパスタや、これは日本のとほとんど同じだが退屈な味のハンバーガーといった選択肢しかない(と私には思えた)状況で、好き嫌いがなかったはずの私がほぼ1日にして音をあげてしまったのである。
窮した私は、現同居人をだまくらかして、「君はこんなものばかり食べているのか、それはかわいそうだ。よし奮発して日本料理店に連れていってあげよう」なんて言って、日本料理店で、寿司やカツ丼などを食べた。さらには、私のあまりもの偏食ぶりを見かねて、肉じゃがを作ってくれた日本人留学生のおかげで、何とか生き延びることができた。しかし、そのときはじめて、私の偏食のなさは、何も私がえらかっただけではなく、たまたま私が日本の食事というものに適応していただけだったということにしこたま気づかされたのである。
一方、私の家では偏食で有名だった妹は、アメリカにホームステイしたとき、向こうの食事がたいそう合っていたらしく、ぷくぷくとふくよかになって帰ってきた。(今はとってもスマートです。念のため)これで妹は偏食だったわけではなく、たまたま日本の食事というか、家の食事に適応していなかっただけだということが証明されたわけである。
さて、今日の話の最初に出てきたフィットというのは、ご存じのように、英語で「適応する」という意味である。今、うまくいっているように思える人は、たまたま今の社会と適応しているだけではないかと考える必要がありそうである。また、うまくいかないことばかりと思える人も、たまたま時代との折り合いが悪いだけなのかもしれない。めぐるめぐる時代であるから、「いい」とか「わるい」とか、「いい子」だとか「困ったもんだ」とか、あまり決めつける必要もないし、思い込む必要もないのかもしれない。
2001/12/6(Thu) <素朴な問い>
素朴な問いこそが最も面白いものだということが、学生の模擬授業を通して明らかになった。素朴な問いを通して楽しい学びの世界にいざなってくれた学生に出会えたのである。こんな経験を重ねると、昨今騒がれている学力問題なんて的を大きく外しているのではないかと思われる。学力問題というのは、解く学力について問題にしている。しかし、授業を構成する力というのは、問いをたてるセンスが問題なのである。だから学力が低いといわれている大学の学生であってもぐいぐいひきこんでいくような授業をすることもあれば、学力が高いといわれている大学の学生が何もできないということもあり得る。というか、逆に、素朴な問いを断念させられ、ただ知識をなぞっていく学び方をしてきたことは、問いをたてるときに大きな障害になることだってある。小、中、高と考えるなという教育を受け、いきなり大学に入って自分の頭で考えろ、だなんて、ギアを何度も変えなくてはいけない学生たちも、大変である。
2001/12/5(Wed) <学力問題>
今朝の毎日新聞によれば、2000年度のOECDによる学習到達度調査において、日本の15歳は数学的応用力で1位、科学的応用力で2位、読解力で8位と上位にあるという調査結果が出たという。学力低下論を払拭するような調査結果である。これで少なくとも日本の義務教育レベルにおける学力低下論は、根拠が疑わしいことが示されたといえる。
さてこの調査では、「毎日、趣味で読書をするか」という問いに「しない」と答えた比率は日本が堂々と1位を占めたというデータも明らかにされている。この一方で雑誌や漫画を「週に数回読む」比率はこれまた堂々1位であり、やわらかい活字は圧倒的に支持されているようである。雑誌や漫画を読む頻度が高いほど、読解力も高かったというから、日本の子どもたちは雑誌や漫画によって、教養を形成しているといってもいいだろう。
子どもたちの学力ばかりが問題にされるが、この際、大人の学力も測ってみたらどうだろうか? どんな数字が出るのだろうか? 楽しみである。
2001/12/4(Tue) <あみだくじ>
今朝は雨が降って、寒い朝だった。高校の授業見学に行ったら、教室で女子がジャージに着替えている。あとで聞いたら制服が濡れて寒いから、とのこと。雨が降っても、自転車で通わなくてはならない高校生は、やっぱり社会的弱者だ。子どもたちは甘やかされる必要はないが、もっと温かく見守られる必要がある。
それから振込のためにT銀行へ。ATMでは現金の振込ができなかった。T銀行の口座をもっていないと、カードでの振込はできないし、他の銀行からの振込は手数料が高いということでT銀行の口座をつくることにした。いつものように1円入金して(ははは)、ただの普通預金口座をつくる予定だったが、普通預金にも“スーパーなんたら”というのがあるらしく、その“スーパーなんたら”であれば、時間外ATMの手数料がタダになるとか、そういう説明があった。どうもその“スーパーなんたら”は10万円以上の預金がないと、月会費をとられるとのことだったが、何ヶ月かは無料というのと、まあ1円の預金から月会費をとるのも難しかろうと思い、その“スーパーなんたら”口座を開設することにした。まったくもってややこしい世の中である。
ややこしいといえば、自動車保険がそうである。初回は中古を買った店で特約店の保険と契約したので簡単だったが、今度は少し安く上げようとインターネット見積もりをしたところ、十社近くから郵便がどさっと舞い込み、契約内容もいろいろとややこしく、もうあみだくじで決めるしかないような状態である。さらに、インターネットで入力した保険契約切れの日付が間違っていたようで、電話で修正の連絡を入れたところ、優しい声のお姉さんが、再び分厚い書類を送るとのこと。私は「お手数をおかけしますし、こちらで修正して申込書を送りますが」と答えたら、大変困惑した表情で、「コンピュータの関係で…」というお返事。さらには、日付の関係で、契約規約関連の書類と、契約書は別々に送られて来るとのこと。「あとのに合わせて一緒でいいですよ」と言うと、「いえ、コンピュータの関係で…」とのこと。たしかに、私の保険料は安くなったが、膨大な紙資源のムダと、手間を考えると、果たして昔よりよくなったのかどうか。コンピュータに人間が使われているというか、人間力が衰えている感じである。
世の中はかなりややこしくなってきているが、これが私の生活を豊かにしているか、エキサイティングなものにしているかといえば、かなり疑問である。だいたい私は店のおっちゃんと値切ったり、油売りしたりするのが好きなわけで、モノやカネがないなかでどうやって工夫して生きるかというところに喜びを見出すタイプの人間である。ところが、社会はどんどんカネとコンピュータで解決する領域が増殖してきて、人間の肌触りの領域が狭まってきている。工夫してもおんなじなら、もう思考停止。そして、あみだくじだ。こうして占いブームが続くのか。
2001/12/1(Sat) <壁>
先日、ゼミの学生たちと野球をしたら、運動不足がモロに出て、ノックで足がもつれてコケる始末。いよいよ歳を突きつけられるコーナーにさしかかったようだ。学生たちの動きをみていると若くてしなやかなのだ。(もう腹が出始めているのもいるが…)まあ、こちらは若い頃からしなやかではなかったけれども、連中にやられるのは、負けず嫌いの私としてはなんとも悔しいものだった。“さわやかに やぶれる”境地にはまだまだ遠いようである。
2001/11/30(Fri) <途上>
今週の水曜日、ほかの先生のゼミにゲストとして参加して、短い時間のプレゼンテーションをしたところ、学生たちからとてもいいコメントが帰ってきて、「気づき」と「信頼」を感じることができる爽快な時間を過ごすことができた。学生たちもすばらしいが、本音で語れる関係性を育ててこられた先生もすばらしい。
自分のゼミを顧みると、カタチはできてきたが、その分、考えたことをストレートに語れるというよさが薄れてきているように思う。もちろん、カタチがあってこそ、考えも引き出せるわけであり、この二つは相反するものではない。ストレートであると収拾がつかなくなり、カタチがあると形骸化するという私のゼミのパターンは、まさに指揮者である私の教養の弱さに起因しているのであろう。しかし、あせっても簡単に解決するものではなく、時間をかけて私の文化、そしてゼミの文化を育てていくしかない。生きる愉しさ、学ぶ愉しさは、頂上にあるということによりも、途上にあるというところにあるように思う。途上にある自分と、ゼミの今を、今後の可能性として認め、正面突破をしていこうと思うのである。
2001/11/29(Thu) <二分法はヤバイ>
お騒がせモノの田中真紀子外相が、「世の中には(自分にとって?)二種類の人間しかない。それは使用人と、敵だ」と言ったとか言わなかったとか、言われているけれども、私は田中真紀子外相の使用人でも敵でもない。ということは、論理学的には、私は人間ではないということになるのかもしれないが、まあそれはいいとして、星の数ほどもいる人間が「使用人」か「敵」かといった二つのカテゴリーに分けられるわけもない。この世の中には、田中外相のことなど知りもしないし、田中外相が知りもしない人々がたくさんいるはずである。
さて、今日の毎日新聞・社会面に、「米ウェストバージニア州で「戦争反対」を訴えるTシャツを着て登校、反戦クラブの設立を呼び掛けて先月中旬に3日間の停学処分を受けた郡立高校2年ケイティ・シエラさん(15)が27日までに、同校を退学した。」という記事が掲載されていた。記事では「アフガニスタンへの米軍の攻撃に反対する行動に対し脅しや中傷、嫌がらせを受け、娘の身を案じた母親のエイミーさんが退学を決めた」と書かれている。脅しや中傷の具体例として、「何人かの生徒がエイミーさんの車につばを吐きかけたほか、ケイティさんの友人の両親は学校帰りにケイティさんを車に乗せることを拒否。パナマ生まれのケイティさんに向かって「出身地へ帰れ」と書いたTシャツを着て嫌がらせをする生徒まで現れ、このTシャツには多くの生徒が署名」するなどのことがあったらしい。
この嫌がらせがその場の感情に任せた“無知”な人々の衝動によるものであったのならまだしも、嫌がらせの背景には、学校があり、国があったということが問題の根深さを示している。表現の自由を認めているはずのアメリカにおいて、「ケイティさんは「国難の時期に非常識な行動」と停学処分を受けた後、州地方裁判所に「憲法に保障する表現の自由を侵害された」と不服を申し立てたが、今月1日に却下された。その後、上訴したものの州最高裁は27日に訴えを退けた。」ということである。ケイティさんに向けられた暴力は、明らかな国家暴力であるといえる。
学校や国家からの迫害の中で、信念を貫いたケイティさんには、心より敬意を表したい。同じ環境で、自分が同じことをできる自信はない。私は今、学生たちとともにいじめの問題について学んでいる。そこでいじめは、当事者間での解決は難しく、第三者が場を変えていく援助をする必要があるということに気づかされた。ケイティさんの事例をみると、もはやアメリカでは、学校も、国も第三者ではあり得ないことが明らかになっている。だいたい、世の中に「敵」と「味方」しかないというのは、あまりにもバカげたフィクションにしかすぎず、世界には、「どうせ、アメリカの連中は、タリバンによる人権侵害とかにかこつけて、軍事産業を潤わせているだけだろ」みたいな、斜に構えた見方をする人間だって、たくさんいるに違いないのだ。「はい、先生。テロをいけません。悪いことをするタリバンをやっつけて、正義を実現しましょう」なんていうお利口なおばかさんと、「アメリカの帝国主義戦略に対して、イスラム世界が結集して聖戦を遂行しよう」なんていう連合赤軍的な原理主義者ばかりではないのだ。問題は、学校や国が二分法にはまっていけば、そこで違った見方をする人間は、魂を抹殺され、生きていけなくなる。そして、現実に、私たちの日々のリアリティを超える理不尽な暴力が襲ってくる。これが二分法の暴力の仕組みなのだ。
日本も二分法の片棒を担ぐよりも、偉大なる第三者として、堂々とそこに立っていればいいのだ。貢献できないなんて、後ろめたく思うことなど何一つない。いじめに貢献するよりも、貢献しないほうがずっと人類に貢献することになるのだから。
2001/11/28(Wed) <便利と不便>
大学に到着すると、メールボックスに「ウイルスに注意」という紙が入っていた。もちろん、カゼのウイルスのことではない。コンピュータ・ウイルスのことである。そういえば、自宅を出る直前にも、ある人から電話がかかってきたのだが、コンピュータ・ウイルスに感染しており、メールを出せないので、メールの返事を電話でという次第だった。
コンピュータ・ウイルスなるものは、おそらく(きっと)コンピュータが出現する前にはなかったはずで、私たちはコンピュータによって便利さととともに不便さ、不快さもプレゼントされたことになる。別の話で、ずっと首都圏で生活していた友人と話をしたときにわかったことだが、彼は地方の人々は新幹線の開通を待ち望んでいるに違いないと思っていた。もちろん、新幹線の開通を待ち望んでいる人たちもいるだろう。工事請負の人々や新幹線の停車駅となるところの人々など。しかしながら、もう一方で、新幹線の開通を悲しんでいる人たちもいる。例えば、これまで在来線の特急が停車したけれども、新幹線の開通により、特急が廃止され、不便と地盤沈下を強いられる人たちである。また、停車駅から遠く離れていれば、美しい田園を横切る新幹線の線路は、景観を損ない、うるさいだけである。ここにも、便利さと不便さが背中合わせで存在する。
こんなことばかり言っていると、「オマエのように考えていると、ちっとも物事は進まない。」「後ろ向きだ。」「オマエは保守主義者だ。」と言われそうだが、別に変わりたくないわけではない。何かを変えるときには、そのメリットとデメリットを考え、デメリットが今実現されている“よきもの”をみすみす流してはしまわないかを十分考慮の上、動かなくてはならないと思うだけである。
2001/11/26(Mon) <初冬>
私の自宅は、前が雑木林になっている。向かいの道からみると、9階建てのマンションがすっぽり覆われるぐらいだから、雑木林というよりも立派な森だ。南側に森があるから、夏は暗い。しかし、この時期になると、ほんとうに一日一日、部屋が明るくなる。落葉樹の葉が落ちて、そのすきまから光が射し込んでくるのだ。これから初夏まで日の当たる生活がはじまる。何とも季節感あふれる家である。
大学の研究室もそうである。夏になると、窓から図書館の前を歩く人々の姿が見えなくなる。ところが、葉が落ち始めると、再び人々の姿が見え始める。ふとした折に、季節の肌触りが、心を和ませてくれていることに気づく。また新しい一週間がはじまる。
2001/11/22(Thu) <アフガンその後>
新聞やテレビ(TVはほとんど見ないのですが)で北部同盟の快進撃と、タリバンの劣勢が伝えられた間、しばらくアフガニスタン情勢について、この欄ではふれてこなかった。カブール陥落のあと、これからほんとうの戦いになるだろうといった私の予測と、マスコミからの情報がかなりズレていたということもあるが、しばらく様子をみた上で何かを書こうと考えていた。
私は現地に特別なルートをもっているわけでもなく、国際政治の専門家でもない。ただ、自分がアクセスできる情報を手がかりとして、素朴に考えているだけである。そして、なお、アフガニスタン情勢が収束に向かっているといえるのかどうか半信半疑なのである。もしタリバンの瓦解がマスコミの報道のようであるとすれば、タリバンはアフガニスタンの住民(とくにパシュトゥーン人)の信を得ていなかったということはいえるだろう。だが、このことは、北部同盟がアフガニスタンの住民に歓迎されていることとイコールではない。鳥越俊太郎さんの「あのくさ、こればい」には、北部同盟によるカブール陥落以後、報道関係者が殺害されるなど、治安は悪化しているという話が書かれている。これまでの経緯を辿ってみるならば、タリバン以前のアフガニスタンでは、治安が保たれておらず、人々の安全が守られていないという情勢があり、そこにタリバンが入ってくる間隙があったのである。そして、北部同盟といわれている人々は、もとはといえば、タリバン以前の権力にあった人たちである。そして、お互いに権力闘争をしていた人たちである。中村哲医師は、タリバンの支配になってから、人々のくらしは安全になり、落ち着いたと証言されている。(まだ読まれていない方は、11/14のこの欄のリンクから「子ども新聞〜北部同盟〜」を読んでいただきたい。そこにわかりやすく、これまでのアフガニスタン情勢が辿られている)
このような経緯から考えると、北部同盟が主要都市を制圧しました。はい、めでたし、めでたしでは、済まないと思うのだ。だいたい、アメリカの論理からすれば、タリバンが悪で、タリバンと戦っている北部同盟が善であるという理屈だけれども、北部同盟にすれば、アメリカでのテロとその後のアメリカのタリバン攻撃は、まさに渡りに舟といったところで、こんな千載一遇のチャンスはない、それだけのことなのだ。そして、これまでにも、イランと対立していたアメリカが、敵の敵ということでイラクに肩入れし、イラクを軍事大国に育て、そして今度はイラクと戦うはめになったという記憶に新しい出来事もある。この敵の敵は味方であり、そして善であるという論理が、事態をややこしくしている。
そのあげくに、国際ジャーナリストの田中宇(たなかさかい)さんの評論によれば、今、アメリカやイギリスではポスト植民地主義どころか、露骨に植民地主義の復活を唱える論評が、右派のマスコミから出てきているとのことである。これらのジャーナルでは、彼らには自分たちの国を治める能力はない、だから、私たちが支配してあげたほうが彼らのためなのだという、とんでも論がまじめに書かれているというのだから驚きである。おまえらがめちゃくちゃにしといて、それはないだろう、と言葉は悪いけど、率直にそう思うのである。そういうわけで、アフガニスタン問題はまだ終結しているわけではなく、これからが本番だと今も本気で思っているので、この欄で書き続ける予定です。狂牛病も二頭目が出てきましたが、アフガニスタンについての関心も粘り強くもちつづけてまいりましょう。
田中宇さんのページ
2001/11/21(Wed) <イチローMVP>
大リーグ・シアトルマリナーズのイチロー選手が、アメリカンリーグの最優秀選手(MVP)に選ばれた。すばらしいの一言に尽きる。MVPは、並みいる名選手の中から両リーグで一名ずつわずか二人だけ選ばれる賞である。ナショナルリーグのスーパースター・ボンズ選手とともに受賞したわけであり、夢のような話である。MVPの受賞は、実力はもちろんこと、人々に印象の残るプレーヤーとして、1年間活躍したことのあらわれでもある。
イチロー選手のコメントもまたいい。来シーズンについて「まず体をゆっくり休め、野球がやりたくなるまで待つ」と語る。自分の身体と正直に対話をしながら、技術を高めていったイチロー選手ならではのコメントである。私にとっては、大リーグのMVPといえば眩暈(めまい)がするような話だけれども、あるいはイチロー選手にとってはMVPもまた一つの通過点でしかないのかもしれない。何はともあれ。おめでとう! そして、ありがとう。
2001/11/20(Tue) <しし座流星群>
しし座流星群がすばらしかったらしい。19日の午前3時から1時間に3000〜5000もの流れ星が見られたというから、もう驚きである。月曜日の未明にもかかわらず、空を見上げて、待っていた人たちには、一生心に残る天からのプレゼントになったことだろう。
その昔、天文少年であった私は(ほんとうにいろんなことに目移りがしていた人間である)、ペルセウス座流星群をみようと、中学の校庭で友人たちと徹夜をしたことがある。4人で東西南北の方角をそれぞれ担当し、流星の数を数えていた。しかしながら、途中で退屈してしまい、暗闇で野球をはじめて、あやうく用務員さんに捕まりそうになった。照らし出されるライトの中で、地面にふせていた私たちの気分は、戦場のゲリラ兵のようなものであった。(こちらはいい気なもんだが)
しかしながら、生まれてはじめて徹夜をして、友人たちと流星を見たという経験は、何だか強く自分の心の中に残っている。天を仰ぐとき、私たちは、些細ないさかいよりもずっと大きなものを見る。そして、少しばかり、自分にも、人にもやさしくなれる。しし座流星群は、誠に残念ながら見逃してしまったけれども、自分よりも世界がずっとずっと大きなものであることを思い起こさせてくれた。
2001/11/19(Mon) <23分間の奇跡>
ゼミの時間があいたので、ほぼ23分間をもらって、土曜日の市民大学講座で話したことについて、ゼミの学生たちに話した。しかしながら、2時間ものの(2時間でも駆け足だった)話を、23分で早送りしたために、いまいちではない、いまさんぐらいの出来だった。教育の20年というのは、まさに学生たちのこれまでの人生の20年と重ねるので、彼らからはいろいろなメッセージをもらえたはずなのに、大変もったいないことをした。せっかくなら、時間があるときにやればよかったと反省しきり。
ところで、今日のタイトル、23分間の奇跡というのは、プログラム通りに授業を行う有能な若い女の先生が、子どもたちの愛国心をきれいにはぎとり、新しい忠誠心を植えつけるという小説のタイトルである。この小説では、若い女の先生が子どもたちを変えるのにわずか23分間しかかからなかった。いい教育って何だろう? いい教師って何だろう? と考えさせられるお話である。私の場合、23分間の奇跡を起こすこともできないようだし、せめてあまり害のない教師でありたいと思うのだが、毒にも薬にもならないのもまた問題であり、いずこに道はあるのだろうか? (『23分間の奇跡』は集英社文庫から)
2001/11/17(Sat) <市民大学講座>
国分寺市の市民大学講座で話をした。二年半前に初めて講演をしたときには、二時間講演をするなんて、どう考えてももたないとあせったのに、今は、二時間で話をするにはどことどこだけにポイントを絞ろうかと思うようになったので、ちっとは成長したのかもしれない。それにしても、話の途中のコマーシャルで使おうと思っていたネタのために、寝ている人を探したのだが、何と一人もいない。あわてて、目が合った方に、寝たふりをしていただいたのだが、話を聞いていただけるというのは、ありがたいことである。
おっと忘れていた。市民大学講座のタイトルは「教育(子どもの育ちの環境)の20年と展望」というもので、1980年代からの今までの20年間を振り返るというものだった。この20年間を振り返ると、学校がやせほそる方向で改革が進み、教師たちの専門性が危機に瀕してきたことがわかる。同時に、子どもたちが学ぶという営みから疎外させられてきたこともわかる。そして、居酒屋談義のような、今日の教育改革の流れ。まだまだ学びの途上にいる私ぐらいの人間が話をするだけでも、ほとんどの方が、今の教育改革(奉仕活動の義務化や主幹制度の導入など)が問題をはらんでいることに気づかれる。これまでの日本社会が培ってきた教育の豊かさを、感情論で流してしまってはならない。
それにしても、人間は話すことによってわかり直すのだと思う。講演なんて依頼されて、最初「えっ、この私が? 話すことなんてないよ」って怖じ気づいていたけれども、今は依頼されたものはできるかぎり引き受けようと思っている。場を経験し、失敗し、それを修正することによって、人は成長する。今、野球のワールドカップが行われているけれども、要の捕手は巨人の阿部選手が任されている。一年前ならば、きっと阿部選手で大丈夫だろうか? と多くの人が思ったはずだ。しかし、一年間プロ野球での経験を積み、今では国際舞台での捕手を当然のように任されるようになった。力があるから任されるのではなく、任されるから力があるようになる。人が育つということは、このようなものだと思う。
大学に勤めてから、講演を5回行った。一度も人々に何か教えてあげたいと思ったことはない。教えていただきたいと思って、一体こんな自分の考えが受け入れられるだろうかと悩み、考え、話をしてきた。まだまだ不十分なところがたくさんあることは、自分自身、わかっている。しかし、人に話をすることで、こちらもおみやげをたくさんもらうことができる。そういう学びの場は、とてもエキサイティングだと思う。また、次の話の場に向けて、自分という土地を耕していきたい。
2001/11/16(Fri) <晩秋>
久しぶりに研究室の窓のブラインドを開けたら、目の前の木は、紅葉しており、黄色に変わった葉っぱが日の光を受けて、きらきらと輝いていた。今も目の前を、金色に光った葉っぱが、風に舞って、一枚また一枚と木にさよならを告げている。これから冬休みまで、もうひとふんばりだ。今日はこれにて。ではまた明日。
2001/11/15(Thu) <ロボット>
今日は、ちょっと話題を変えて、ロボットの話。東京ビッグサイト(それはどこにあるのか?田舎のねずみにはわからない)にて、2001国際ロボット展が行われているとのこと。そこには、バンダイのネコ型ロボット(どこかで聞いたことがあるような? *ポケットはありません、念のため)や、「こうちゃん」という名の高齢者福祉用・クマ型ロボットなどが展示されているらしい。なかでも、驚かされたのが、muuという名の「ひとつ目小僧」ロボットである。水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」のおやじさんを彷彿とさせる、このmuuというロボットは、コミュニケーション型ロボットである。muuは、人間が声をかけると振り返り、人間とも会話をするし、複数のmuu同士で会話もするらしい。ちゃんと話し手、聞き手、傍観者が生まれるというからびっくりである。(「なんやなんや」とか、話すらしい)レポーターの人によると、muu同士が楽しげに会話しているところに、人間が一人で入っていくと何だか疎外感を感じてしまうというから、ちょっとすごいのである。
人間がお互いを傷つけ、他者を手段としてのみ考え、バカなことばかりしていると、「わたしゃ、ロボットのほうがいいわい。ロボットに囲まれて老後を暮らしたい」なんて、人々は思うようになりはしないかと、国際ロボット展のサイトを見ながら、思ったのだった。
「2001年国際ロボット展」レポート
2001/11/14(Wed) <カブール制圧>
実は、私、大学時代に、文学部東洋史学科に進みたいと思ったことがあった。学科の説明会にまで出席した。そこで、おえらい教授に「君はどこの地域をやりたいのかね?」と尋ねられ、「中央アジアに興味をもっています」と答えたところ、「中央アジアであれば、○○や××の文献は必読だね。もう読んでいるだろうね」と言われ、○○と××が、一体本の名前なのか、人の名前なのかさえ、わからなかった私は、こりゃダメだと思って、中央アジア研究者の道をあきらめた。
あのとき、中央アジア研究者の道を選んでいれば、アフガニスタン戦争について、深い学識に支えられたコメントができるのに、と思いつつ(いや、それもあやしいものだ)、蛮勇をふるって、素人としての考えを記させていただく。
新聞では、アフガニスタン首都カブールが北部同盟によって制圧されたという記事が掲載されていた。この記事を読むと、「おお、この戦争は早めに終結しそうではないか」と思うところだが、カブールの制圧は、日本で首都・東京が制圧されるのとは、全く意味が違っている。ご存じのように、アフガニスタンは、19世紀、インドから北上するイギリスと、中央アジアから南下するロシアのせめぎ合いの場所となった。そして、イギリスの安全保障のために、もともとの民族分布から国を北に移動させられ、そのために国のほぼ真ん中をヒンドゥークシュ山脈が横切るという、奇妙な国が誕生した。7000メートル級の山もあるヒンドゥークシュ山脈をはさんで、その北側には、ウズベク人、タジク人らが住み、南側に総人口のほぼ半数を占めるパシュトゥーン人が住んでいる。そして、首都カブールは、山岳地帯の南東だが、国全体からみると北側に位置する。ここから南には、パシュトゥーン人が住む広大な土地が広がっている。
もし戦争を継続するならば、これからがほんとうの戦争になる可能性が高い。なぜならば、タリバンにとっては自衛戦争という大義名分ができるからだ。そして、民族意識を刺激しながら、民族対立を煽るという方法も使える。そうなれば、戦争は自己増殖運動をはじめて、もはやコントロールすることはできなくなる。そうであるから、カブールが陥落した今こそ、早期に暫定政権の枠組みをつくり、和平交渉に入る空前のチャンスであると思えるのだ。停戦を行い、ミサイルの代わりに、救援物資とインフラストラクチャーを送ること。これがテロ化しつつある世界を変える最も有効な方法だと、私は思うのだ。
私たちはもうすでに心の時代を生きている。戦争によって需要が喚起され、景気が上向く時代はもう終わった。人が人を殺戮する陰鬱さが、人々の消費行動を手控えさせる、そういう時代なのだ。そうである以上、停戦、和平、救援、構築というプロセスは、人道の観点からだけではなく、経済の観点からみても、十分に妥当性があると思われるのだ。
子どもニュースは我らの味方−北部同盟とは?−
2001/11/13(Tue) <抑止力>
NGO「ペシャワール会」でアフガニスタンの人々の生活と医療を支えるボランティア活動を18年にわたって行ってこられた医師の中村哲さんが、11月17日(土)13時15分から(12時45分開場)、法政大学市ヶ谷キャンパス532教室(55年館3階)にて(JR市ヶ谷・飯田橋徒歩10分)、講演を行われるとのこと。現場のことは、現場の人に聞け、ということで、関心をもち、都合がつく方はぜひとも話を聞いてきていただきたい。かくいう私は、当日、国分寺市の市民大学講座にて講演することになっており、残念ながら出席できない。ちょうど午前中に都心で用事があるので、かなり悔しいが、自分の仕事はきちんとやらなくてはならない。ということで、どなたかメールにてレポートをお願いします。
問題の所在は、アメリカVSタリバンではなく、戦争を必要とする世界システムVS戦争に脅かされることのない世界システムなのだと思う。父と母がいがみ合いを続ければ、どちらが正しいとかには関係なく、わけのわからない小さな子どもこそが一番傷つく。北部同盟とタリバンが戦えば、そういう政治のことなどわからない人々が一番傷つく。私も、核の抑止力などということばに、心がぐらついていたけれども、今は違う。軍事力の抑止力なんて、ウソっぱちだと確信できる。確かに大国間で直接戦うことは不可能になった。だが、日本では戦後といわれる時代に世界で起こった戦争で、どれだけの人々が殺されたかを考えれば、軍事力が力の弱い人々の盾になり得なかったことは一目瞭然である。
使用するための何かを作って、目の前にあれば、当然、人間は使いたくなる。子どもでもわかることだ。そして、何より、いったん兵器を作れば、そこには専門家が生まれ、その製造によって生活をたてる人々が生じる。そうなれば、兵器を時々はけさせる戦争は、必要不可欠な消費過程としてシステムに組み込まれてしまう。もちろん、日本の機械や光学の企業のように、戦後、民需に転換した会社もあったが、民需には限りがある。朝鮮戦争やベトナム戦争といった大量破壊、大量殺戮の戦争があったからこそ、順調に成長することができたといえるだろう。そして、今、戦争を組み込まなくてもいい世界システムの構築について、本気で考えなくてはならない時代に来ている。
2001/11/12(Mon) <また雨>
11月というのに雨が多い。車通勤の今、雨はさほどつらくはないが、自転車をこいで駅まで向かい、駅から降りては自転車をこいで学校まで向かった高校時代、雨の朝は気が滅入ったものだった。雨という小さな例でもそうだが、さまざまな苦しみは、それを避ける手段をもたないものに(つまり社会的弱者)により重くのしかかるものだ。
さて、11/10の英紙「タイムズ」によると、オックスフォード大学院に留学中のチェルシー・クリントンさん(クリントン前大統領の娘)が、アフガニスタン反戦集会に星条旗をもって乱入し、集会を妨害したとのことである。私の理解では、1998年の夏、ケニアのナイロビでアメリカ大使館がテロで爆破されたとき、クリントン大統領は、モニカ嬢との不倫問題で政治生命の危機にあった。そして、アメリカ大使館爆破の黒幕と見られたオサマ・ビン・ラディン氏の身柄引き渡しをめぐって、アメリカはアフガニスタンとの交渉に入っていた。そのとき、クリントン大統領は、突然、アフガニスタンを空爆し、もちろん交渉は決裂、ロケットを外に向けることで、不倫問題を乗り切ったのである。
今回のニューヨークでのテロは、3年前のアフガニスタン空爆への「報復」であるという見方もできる。もちろん、そのときのアフガニスタン空爆は、アメリカ大使館爆破への「報復」であったのだが、3年後、このような大惨事が起こったということは、アメリカの「報復」という行為が政治的な失敗であったことを意味している。アメリカの世論は、オサマ・ビン・ラディン氏への憎しみと、彼をかくまっているといわれるタリバン政権への怒りに収斂されているが、本来ならば、前回のテロ事件に対して怨恨だけを残すような対応をしたクリントン大統領もまた責任を問われなくてはならないだろう。
父親がこのようなかたちでかかわっていることをどこかで気づいていたからこそ、チェルシーさんは、今回のアフガニスタンへの攻撃を正当化しなければならなかったのだろう。反戦運動が許せなかったのだろう。今回のチェルシーさんのご乱行は、このようなバックグラウンドの上にある。
しかし、雨で寒い。これからの季節、戦争に巻き込まれる人々はあまりにも悲惨である。寒がりな私はほんとうにそう思う。せめて、アフガニスタンに食糧を! ということで、まだまだあります、カンボジアのTシャツとイエメンの絵はがき。一口参加しようと思われる方、ご一報下さい。
2001/11/9(Fri) <雨>
一雨毎に寒さが増していく。アフガニスタンの冬はもっと寒いことだろう。たらふく飲んで食べて暖かい毛布にくるまっている国の軍隊が、飢えて寒さのなかにいる人々が住んでいる地域に、攻め込んでいる。そして、そこに住んでいる人々の絶対多数が、ニューヨークのテロに無関係であるどころか、地球の裏側で起こったテロのことなど知ることもできないような環境で生きているのだ。この戦争って、一体なんだろう?
*(茨城の高校教諭・大滝修先生が生徒たちとウロナム・プロジェクトを立ち上げ、海外との文化交流を行っておられます。私もウロナム・プロジェクトの会員の一人です。今回のアフガニスタン戦争を受けて、中村哲医師のペシャワール会を通して、アフガニスタンの人々に食糧「ナン」を送ろうという企画を立ち上げました。趣旨に賛同していただける方に、Tシャツ(1000円)、絵はがき(200円)を買っていただき、その収益をペシャワール会に送ることになっています。私の手元にもTシャツと絵はがきがあります。買ってみようかなと思う方は、私にメールを下さるか、研究室まで立ち寄って下さい。結構、魅力的なTシャツと絵はがきです。
2001/11/8(Thu) <失敗OK>
昨晩は、北海道の永幡先生と講義に出ていた学生たちと夜遅くまで飲み(私はウーロン茶ですが)、楽しいひとときを過ごすことできた。永幡先生は、東京経済大学の学生たちのことをとてもほめて帰られたので、私も気分良くなっていたのだが、翌日になると、新たな現実が待ち受けている。教育方法Uでの模擬授業である。先日の学生との合作・地理授業に引き続き、今度は、私の公民・冷戦の授業である。演習形式の授業では、学生にやらせる以上は、自分もやるということが、ヘボな私が最低限自分に課したことであり、もちろん、ゼミのライフヒストリーでもやっている。ここ数年、演習形式の授業が増えてきて、私の課題も増えている。理屈ばかりで(その理屈もヘボであるのが何とも悲しいのだが)やってきたので、具体化しようとすると落とし穴があちらこちらにあるのだが、最近、落とし穴に落ちることも楽しくなってきた。実は、今日も、「先生が聞いていることがなんだかわかりません」なんて、学生にまじめな顔をして言われ、あたふたして、模擬授業ほとんど崩壊状態だったが(こんな人間が「学級崩壊について」なんて講演をしているわけだから、まったくのところお笑いである)、考えてみれば、私が教わっている現場の先生たちは長い年月をかけて自分の実践を創り上げていったわけであり、そう簡単にできるわけなどないのである。私は長らく失敗恐怖症という病気にかかっていたが、打たれ強い諸先輩方を見て、また教師という専門職の奥深さを実体験で経験して、失敗を楽しめるようになってきた。学生たちにはほんとうにヘボ教師で申し訳ないと思うが、私たちの研究者養成のシステムが大学院で理論的なトレーニングを受けることに偏っている以上、大学教員は講義はできても、教育実践を行うことにおいては初心者でしかないのだ。だから、失敗を怖れていては、何も始まらないのだ。このことに気づくのに、私は何と5年間もかかった。そして、今、自分が初心のものだということに気づいたときに、何だか気持ちは楽になった。
ようやく、私は、失敗を許さないような官僚的な職場づくりが、どんなに教師の専門的成長の幅を狭めるか、即戦力ということばで最初からかたちになっているような教師を求める考え方がどんなに教育実践を矮小化したものであるのか、身をもってわかったように思う。教育実践とは、教師が一人で創るものではない。子どもたちとともに創っていくものである。その道は遠く、険しく、そして楽しい。教師は失敗によってたくさんのことを学び、成長していく専門職である。授業でいろいろ工夫をして失敗しても子どもたちは死にはしない。かえって、ありきたりの授業を続けることが、子どもたちの魂を殺すことになるだろう。
2001/11/7(Wed) <未来にまいた種>
生徒指導論のゲスト講師として、北海道から永幡豊先生が来られた。先日、段ボール二箱分の資料が宅急便で送られてきた。北海道からのゲスト講師も今年で5回目だけれども、教室まで台車で資料を運んだのは初めての経験だった。23年間の教職生活と46年間の人生を60分間に凝縮して話していただいたこともあり、学生たちの反応もすごいものがあった。学生たちは、本気で生きている大人たちの話を求めていることが、今年もまた明らかになった。人は一人では決して生きられるものではなく、いろんな人に支えながら生きている。今年もまた、ゲストの先生と出会い直すことで、自分の生き方、学び方を見つめ直す機会を与えられた。北海道からわざわざ来ていただいた先生方に、心から感謝している。学生たちにまかれた種は、いつかきっと実を結ぶことだろう。文化というものは、未来に向けて種をまくものだ。今だけを見るのではなく、未来をデザインし、創っていく、そういう精神をもって生きていきたいと改めて思わされた。
2001/11/6(Tue) <ノスタルジー>
出先からの帰りに、近くの魚屋さんをのぞいたら、買い物に来ていたおじさんから話しかけられた。「寒いねえ。ふところも寒いよ。この冬、越せるか心配だよ。」そのおじさんは言った。「仕事はどうですか?」と尋ねると、「仕事ねえ、ダメだよ、土方もダメだ(ない)し」という返事。「おまちどうさま」という声とともに、魚屋さんがおじさんに袋を渡したので、「何買われましたか?」と尋ねたら、「ねこちゃんと一緒に食べるの。あらだよ。これでもごちそう。それじゃあ、お先に」とおじさんは去っていった。おじさんにつられて、私はさばの切り身を二切れ買って、家に帰った。
古い都営住宅に住んでいた頃は、1960年代的な共同体があって、いろんな人生経験を積んだ人たちが周りにいて、とても居心地がよかった。貧しいくらしではあったけれども、家のまわりに笑いが絶えなかった。長屋ぐらしは、私が生まれた頃の時代にタイムスリップしたように、時間がゆったりと流れていた。しかし、今は、都営住宅も建て替えられ、近所の人たちは、新しい高層の住宅に移っていった。近所をパトロールしているおじさん、おばさんたちの数もめっきり減った。何だか寂しくなった。私は一体何がほしいのだろうと、ふと考えた。私がほしいのは、瀟洒(しょうしゃ)なマンションでもなく、仕事での成功でもなく、ただお互いにいたわり合うことができる、笑いと安心のあるくらしなのだということに気がついた。ここ三十年あまり、金メッキのように社会の表面は豊かになった。多くの人が車ももっているし、パソコンも携帯電話ももっている。だけど、肚の底から笑うような経験をどのくらいしているだろうか。人の喜びを自分の喜びとし、人の悲しみを自分の悲しみとする人間としての共感と想像力をどのくらいもっているだろうか。モノや情報に囲まれることで、モノや情報はなくても人生を楽しめる人間力は、かえって衰えているのではないだろうか。この文章を書きながら、私は、笑いと安心のあるくらしを求めているから、今こうして仕事をしているのだということに気づいた。
2001/11/5(Mon) <寒風>
学祭が終わり、宴のあとの大学には寒風が吹いている。国分寺にも冬の匂いが感じられる候になった。冬の匂いといえば、応援していた日本ハムの遠藤良平投手が「戦力外通告」を受けたというニュースを今日知った。東京六大学で8勝を挙げた左腕だったが、プロの世界は厳しいものだったようだ。ものの考え方、投球術など、プロでも通用する逸材だと思っていただけに、とても残念である。しかしながら、彼はまだまだ若い。野球だけが人生ではない。プロに挑戦したことは、きっと彼の人生にとってかけがえのない財産になるにちがいない。たたかわずに負けないより、たたかって負けたほうがずっと大きな宝になるだろう。もちろん、これは人生のことであって、戦争のことではない。しかし、これで最後になるのならば、西武球場での最初で最後の公式戦一軍マウンドを見ておけばよかった。それだけが残念である。
遠藤投手からのメッセージ
2001/11/2(Fri) <続々ADSL>
ADSLを導入して、一喜一憂の日々が続いているが、これまでの常識が覆され、一体どういうふうに考えたらいいのだろうと思うようなこととも出会う。その1つが「ただTEL」というHPだ。このHPでは、何とただで電話がかけられるという。それも相手がパソコンをもっている必要もなく、ややこしい設定もなく、普通の一般加入電話に向けて、ただの電話がかけられるのである。さらには、携帯電話・PHS、そして国際電話までかけられるというのだから、あ然としてしまう。
もちろん、ただより高いものはないといわれるように、ただじゃ済まないというか、電話をかけるためには、TELというポイントをためなくてはならない。ポイントをためるためには、別に献血をする必要もなく(意味のわからない人は、バックナンバーを参照下さい)、ただ広告を見て、しばらくしたら出てくるバーナーをクリックすればいい。そして、ポイントがたまれば、それこそ「ただTEL」ができる。何だか、ありがたいのだか、なさけないのだか、わからないような、ヘンな時代になったものだ。
これまでのダイアルアップの接続だったら、「ただTEL」なんてページとは無縁だったのだが(ポイントをためるだけでかえって高くつく)、ADSLの常時接続になると、こんな使い方もあるのかなと思うようになる。しかし、何だか悲しくなったのは、こんな時代になって、電話屋さん(小学生のような表現ですが、いや小学生も使わないか)は、どうするのだろうという思いがわき上がってきたからだった。常識的に考えると、みんなが「ただTEL」を使えば、電話会社に勤めている人たちは、仕事がなくなる。これはいい時代なのか、そうではないのか、一体全体わからない。しかし、電話屋さんに勤めているおじさんたちが、「ただTEL」に駆逐されて、リストラされるのというのは、かなしいものだ。
そして、さらに、「ただTEL」で得をするのはどういう人たちだろうか?とふと考えてみたところ、これまた考え込まされることになった。フルタイムで忙しく働いている人たちは、「ただTEL」で広告バーナーをクリックしている暇などない。「ただTEL」で広告バーナーをクリックし、ポイントをためることができる人は、暇があり、情報にアクセスできる人たちである。生活に汲々としている人たち、そして仕事に汲々としている人たちには、恩恵はなく、消費社会を軽やかに立ち回っている人たちに恩恵のあるシステム、これは、たとえていえば、キリギリスがアリを駆逐するようなシステムであるといえるだろう。もちろん、キリギリスの存在を許さない社会は、とてもイヤな社会であると思うけれども(キリギリスの歌声はみんなを和ませてくれるしね)、アリが駆逐される社会も、これまたヤバイ社会なのではないかと思うのだ。
たぶん「ただTEL」は、今の社会について考える上での絶好の教材を提供してくれているのだと思う。「ただTEL」が、田舎のおじいちゃんやおばあちゃんたちに広まって、ただで孫の声が聞けるようになったらいいのだけれども。孫が広告をクリックして、おじいちゃん、おばあちゃん孝行をするという手もあるか。
「ただTEL」はこちら
2001/11/1(Thu) <こどもの時間>
昨日は、大学が学園祭のおかげで、授業がお休みとなり、「こどもの時間」という映画を観て、フリースクール「たまりば」にいって、子どもたちと(いや、おとなたちと)遊び、子どもづくしの一日だった。BOX東中野で上映中の「こどもの時間」は、保育園の子どもたちの日常を撮った映画である。農家の一軒家のような保育園で、土にまみれ、川に入り、友だちといさかいを起こしながら、成長していく子どもたちの姿が、生きるという営みの掛け値なしでの“よさ”を気づかせてくれる。この映画は、根強い人気を保っており、BOX東中野でもロングランだが、全国各地で上映予定が組まれている。インターネットで「こどもの時間」で検索すると、全国での上映日程を見ることができるので、興味がある方はぜひともアクセスして、近くで上映がないかどうか、調べてほしい。とにかく、子どもたちがおいしいそうに、至福の表情を浮かべながら、モノを食べている様子に出会い、めちゃくちゃ腹が減ってきた映画だったことは、確かだ。
それから、南武線の久地駅近くにあるフリースクール「たまりば」へ。1年数ヶ月ぶりの来訪だったが、子どもたちがみごとに成長していた。こどもの時間というのは、すばらしい。ほとんど人とのコンタクトができなかった子が、あいさつができるようになっていたり、やはりこどもは、時間の中で育つことを再確認した。それにしても映画「こどもの時間」も、「たまりば」も、そうだが、子どもが勝手に育っているわけではなく、その向こうには、大人たちの温かく、厳しく、配慮深いまなざしがあることに、改めて気づかされた。「こどもの時間」では、父親たちが子どもたちのためにプールを作るのだが、そのプールには飛び込んでもケガをしないように底に畳が敷かれている。畳の上にビニールシートがあり、もちろん畳は見えないのだが、子どもたちの成長をかげで支えている。「たまりば」もそうだ。子どもたちは好き勝手放題、何でもありのように見えて、大人たちのまなざしと子どもの捉え方、その枠がきっちりと子どもを守っている。そして、子どもたちはその枠に対して、さまざまな方法で挑戦をする。大人は、ときには枠を組み替えながらも、枠を保ち続けている。硬直した枠は自由を奪うが、同時に枠のないところにも自由などないのだと、これらの場所は教えてくれる。