Daily
たまのさんぽみち
2001/10/30(Tue) <ADSL続き>
ADSLの開通は、私のパソコン史上、久々のビッグニュースであった。おそらく、モノクロ画面でずっとやっていたゲーム(Bio_100%のSuper Depthといえばおわかりの方もおられるでしょう)を、カラー画面で見たとき以来の衝撃だと思う。それにしても、当時の16色のカラー画面から受けた感動は、今の1677万色の感動よりも大きかったような気がする。ちょうど白黒テレビからカラーテレビの感動が、ハイビジョンの感動より大きかったように。(ハイビジョンで感動している人なんて、NHKのコマーシャル(語義矛盾?)でしゃべっている人ぐらいしか知りませんが)
書いていくうちに、カラー画面以来の衝撃というのは間違いで、その間にも、はじめてメールを送ることができたときの感動や、はじめてパソコン通信で書き込みをしたときのドキドキや、はじめてホームページを作成したときの“おおっ”という気持ちや、はじめて自作のパソコンを完成させたときの喜びなど、結構、いろいろパソコンというおもちゃにはお世話になったものだと、いろんな思い出が蘇ってきた。しかし、また考えてみると、これらの感動は、自分のパフォーマンスを伴った感動であり、技術革新の感動という意味では、やっぱりカラー画像以来の感動かもしれないと思い直す。(ちなみに私がパソコンをはじめたのは結構遅く1992年のこと。このときにはもちろんカラーモニタはありました。ですが、ノートパソコンはほとんどモノクロの時代でした。)
さて、ADSL開通で喜んでいたが、あまりにも簡単な手続きで常時接続ができたので、セキュリティの問題は大丈夫かと調べ始めたら、それが結構コワイのである。パソコンのハードディスクの中身が丸見えになったり、インターネットアクセスの履歴をすべて見られたり、定期的に画面がほかのパソコンに保存されたり、いろんな危険が待ち受けているらしい。私のパソコンの中身を見たって、インターネットアクセスの履歴を見たって、たかがしれているのだが、私のパソコンに侵入して、そこからほかのパソコンにアタックをかけることだってできるそうだ。そうなると、いつの間にか私は加害者になってしまう。恐ろしいことがあるものだ。こんなに恐ろしいものは、どう考えても、一般の人間が使うべきものではないはずだが、一般の人たちにどんどん広まっている。夜中に台所を脱走して、隣の家の冷蔵庫を襲うような、凶暴な冷蔵庫を一体、誰が買うだろうか?(いや、強盗犯は喜んで買うかもしれない。でも冷蔵庫を襲って何になる。)だが、私たちはパソコンにおいてはそうしたものを買わされているのだ。何ということだ。こうして、一日にして、感動のADSLは、恐怖のADSLに変わったのである。いいことばっかりはない。
2001/10/29(Mon) <ADSL導入>
今年の7月に申し込んでいたYahoo!BBのADSLがようやく使用可能になり、昨日開通した。自宅でインターネットが常時接続の環境になったのは、パソコン関係では久しぶりの感動だった。やはりダイアルアップで接続していると(これまでは普通のモデムでの接続だった)、課金が気になるし、電話代だって結構な額になる。ノートパソコンのOSをアップグレードして失敗した今年の8月には、情報収集のために頻繁にインターネットに接続し、SO-NETの月5時間コースを大幅に超過して、電話代と合わせて、結構な出費になった。
Yahoo!BBのADSLは月2280円の定額制で、しかもインターネット接続中に電話も同時に使えるから、安心してネットでの検索ができる。早速、「こどもの時間」という映画の上映場所と上映時間などについて調べたけれども、常時接続になれば、これまでとはまったく違ったインフラとして使えると確信した。(大学の研究室はずっと前から常時接続ですけどね、用途が違いますから)
Yahoo!の広告のような文章になったけれども、これまで日本のパソコンを取り巻く環境というのは、本体の性能ばかりが向上してネットワークは細々としている状況で、まるでフェラーリは買ったけど、走る道はなくて、仕方がないからフェラーリに乗って近くの銭湯にでも行くかという感じだった。だが、ADSLの普及で、ようやくハイウエー開通という段階にきたようだ。
それにしても、ADSLは速度もこれまでのダイアルアップの接続と比較すると圧倒的に速く、快適だが、これを使用するためには高速なCPUも、最新のOSも必要ではなく、ふた昔前のCPUとWindows95で十分なのだから、何とも愉快である。
2001/10/26(Fri) <ひとつくり>
先日、非常勤の先生(本務校をもっておられる方)とたまたま食堂でお会いして、お話しをしたところ、東京経済大学の教職員は教育にとても熱心だと言われた。私は、はじめて勤めた大学がここで、ここしか知らず、ここが当たり前だと思っていたけれども、その先生によると、教員が集まって、教育について熱く語っているところは珍しいということだった。
あるいはその方の社交辞令かも知れず、また学生サイドからの評価はどうであるかはわからないけれども、会議での厚い(「熱い」けれども、「熱い」ではなく「厚い」)議論に接し、この大学は、信頼できる同僚が多いところだという確信をもっている。
少子化で大学がいわゆる「冬の時代」を迎えようとしている今、大学は生き残りに向けていろいろな算段を行っているが、結局のところ、大切なものは、人だと思う。人を大切にするところでは、必ず人が育つ。そして、長い目でみれば、人は間違いなく見ている。人の目を節穴だとなめてはいけない。人を大切にするかぎり、東京経済大学は、十分に21世紀に通用する大学になり得ると、私は思っている。「冬の時代」とは、ほんものが見抜かれる時代ではないかと思う。大学は、人を育てる場だし、人が育つ場でなくてはならない。これを見失ったときが、大学はその存在意味を失うときだろう。これまで育ててきた「人が育つ場」としての力を守り、育てていくことが、大学の教育改革において最も大切なことではないかと思う。縄文杉が長い年月を経て大樹となったように、「ひとつくり」もまた長い歴史を負っている。今しか見ないで、伐採してはいけない。
2001/10/25(Thu) <ものつくり>
あけてびっくり玉手箱。さまざまなパーツを切り取って、人々の暮らしのイメージをかたちにするという授業は、学生たちをたいそうアクティブにしました。授業をした4年生にとっても、予想以上の反響だったということで、やはり準備しただけのことはありました。準備の深さ、浅さ、出来、不出来というのは、見事に結果に反映されるものです。パーツづくりに時間をとられて、そのあとの展開の詰めが甘かったことも、如実に反映されました。それにしても、作業をしているときの学生たちの表情は、なんとも生き生きしています。ものつくり、表現というのは、人にとって深い欲求なのだということを、今日の授業を通して、再確認しました。それではまた。
2001/10/24(Wed) <平田オリザさん>
前期の授業で、演出家の平田オリザさんの文章を読んだという話をこの欄に書いたことがある。読者の方は覚えておられるだろうか? 分かり合えないという話で、分かり合おうとした私が、あまりにもせこかったという話である。後期の授業で、「自立」についてしつこくやっているが(あまりのしつこさに、今日は学生が少なかったような気がする。先週、先々週と雨が降っていたのに…)、そのテーマのレポートで、平田オリザさんの文章を覚えていて、それと絡めて、大人になることについて書いている学生がいた。その学生は、分かり合えないということを分かって、そこから一歩踏み出すのが大人ではないかというような話を書いており、教員としてはうるうると感涙を禁じ得なかった。というのはおおげさにしても、以前に話した話が学生の中に残っており、あとの話とつなげて考えてくれるということは、教員冥利につきることである。考えてみると、話しているこちらより、聞いているあちらのほうがよく覚えているということもしばしばある。この前、ある学生と話をしていて、「I君と議論をしているうちに○○ってことを発見したんだよ」と言ったところ、「先生、その話は、2年前の授業で言っていましたよ」と言う。えっ、最近ようやく発見したんだけどなあと思っていると、彼は、2年前、私は△△ということを言っていて、それは○○ということだと理解していたと言うのである。世の中には、賢い学生がいるもので、教員が言おうとするところまで汲み取って理解してくれるのである。彼は、2年後の私をすでに読みとっていたことになる。あまりにもすばらしい。しかし、考えてみると、この私は、平田オリザさんのように分かり合えないというところから出発するどころか、本人もよく分からないようなものを学生に分かってもらっているわけで、とんでもなくへぼな教員であるということが明らかである。平田オリザさんへの道は、遠く険しいのである。
2001/10/23(Tue) <一歩入ると>
こんにちは。昨晩は11時過ぎまで、パーツづくり。この成果がどうなるかは、木曜日のお楽しみ。アイディアを出すのはまだしも、これを具体化するのは手間、暇がかかります。やってみれば、教師の仕事が心構えなんてものでできるものではなく、学ぶための時間と空間と仲間を必要としていることがわかります。今、すごい実践をしている先生たちは、超人的な生活を送られていますから。凡人が学びの専門家になるためには、どうしても育てられるための環境が必要です。
さて、今日は、貫井神社の駐車場に車をおいて、大学まで歩く道の途中、一歩脇道にそれて、崖を登ってみました。この崖は、国分寺崖線といわれている断層で、ここからわき水が出るので、東京経済大学の水も井戸水ですし、キャンパス内には新次郎池という湧き池があり、そこから清流が野川に向かって流れています。貫井神社境内でも湧き水が出ていて、水音が心地良いのです。崖を登ると、左手方面は、崖の途中の森林が伐採され、開発されつつあります。おそらく住居を建てる予定だと思われます。たしかにそこは南斜面の崖の途中で見晴らしと日当たりはいいものの、ひとたび大雨で崖崩れがあれば、大災害が起こりそうな場所です。駅と駅の真ん中で崖という、これまで不便さに守られてきたこんな場所にまで開発の手が伸びているようです。一方、右手方面は、けもの道のような道が続き、子どもの遊び場としては格好の場所になっています。立て看板をみますと、貫井神社の敷地の一部のようで、開発をとどめるのは、もう神社にしか頼れないというような感じです。
人間に、過開発や過競争を止める力があるのか? 最近の経済のグローバル化と中小企業の窮状、テロリズムや報復、住宅の乱立と虫食いされる農地、こうした現象をみていると、人間の思想が厳しく問われているように思われます。
2001/10/22(Mon) <対話でつくる授業>
こんばんは。更新が滞り気味ですみません。現在、学生たちと「授業づくり」の途中です。今年の教育実習生の授業をもとに、「ああだ、こうだ」と議論し、そして代案を考え、新たな授業を作っています。
授業のアイディアというのは、一人で考えるよりも二人や三人で考えるほうがずっと生産的であり、対話を続けていると、必ず、停滞していた思考が一つの枠を突破し、そこからクリエイティブな世界が広がるというときがやってくる。今回の「授業づくり」の試行錯誤の中で、何度かそのような経験を味わうことができた。
アイディアが固まったら、次はアイディアを具体化する作業。これがなかなか難しい。現在、授業で使用するパーツを作っている最中であるが、思いのほか時間がかかる。しかし、対話のなかで新しい世界が広がっていくという体験は、掛け値なしに面白い。この面白さを、すべての学生に伝えることができれば、最高なのだが。何はともあれ、あと少し、大学でパーツづくりの作業です。それでは、また明日!
2001/10/18(Thu) <孤立のアフガン>
パキスタンとアフガニスタンで長年医療ボランティアに携わってきた中村哲医師の講演会のメモが、朝霞西高校の田中先生より送られてきました。現地を熟知している方からのリポートですので、ぜひ読んでいただきたいと思い、転載いたしました。
「9月30日、福岡市中央区薬院の河合塾福岡校において
パキスタン北西部およびアフガニスタンで医療活動をしている
NGO「ペシャワール会」の中村哲医師の講演会「孤立のアフガン」
が開かれました。
中村哲氏の講演会 「孤立のアフガン」
福岡市中央区薬院・河合塾にて 2001年9月30日
1 「報道管制」は不可能。
タリバーンは報道管制を敷いていると欧米や日本のマスコミは言います。
しかし、アフガンではこれは不可能なことです。
なぜならば、電気が通っていない村が圧倒的に多いからです。
つまりテレビがありません。
徒歩でしか行くことができない村も多い。
3000メートル級の山岳地帯が大部分アフガンで、
そのような統制ができることは考えられません。
アフガン人の多くはBBC放送のパシュトゥー語ラジオを聞いて、
わりと正確に今回の米国における同時多発テロを把握しています。
なお、このテロ事件のニュースが伝わった際、アフガン人のほとんどは
テロリストを強く非難し、犠牲者への哀悼の意を表しました。
しかし、テロを指揮したとされるビンラディンが潜伏しているのでアフガン
へ報復攻撃をするというアメリカに対して、今までにないけた外れの敵意を
抱いています。
2 「女性への抑圧」の実体。
タリバーンは外出する女性に、ブルカ(チャドル)の着用を義務づけてい
ます。これが欧米の人権活動家には女性抑圧の最たるものと映っています。
しかし、ブルカ着用は農村部での常識です。
農村出身者が多いタリバーンは農村の常識を、
都市部で強制しているにすぎません。
3 大変親日的なアフガン人
どんな山奥の小さな村に行っても、
広島・長崎に原爆が投下されたことを知らない人はいません。
アフガン人たちは、自分たちの国を侵略したロシア・イギリスと戦った日本
に好意を持っています。
もっとも、日本についての正確な知識はほとんどありません。
真顔で「日本まで歩いてどのくらいかかるのか」と聞かれたことがあります。
(笑)
それはともかく、アフガン人の間に外国人排斥の動きがあっても、日本人は
例外とされてきました。
このおかげでペシャワール会の活動がどれほど助けられたかわかりません。
しかし、今回の米国の報復に日本が協力を表明したことで、
アフガン人の親日度が下がることは間違いありません。
4 誇り高いアフガン人
アフガン人たちは、ロシア・イギリスの度重なる侵略を
自力で跳ね返したことに誇りを抱いています。
そして、統一国家アフガニスタンを指向する気持ちが根強くあります。
そのアフガニスタンは多民族国家です。パシュトゥー人、ウズベク人、
タジク人、日本人によく似た顔立ちのハザラ人から成っています
その彼らをまとめ上げているのが、
統一国家アフガンへの思いとイスラーム教です。
ただし、統一国家といっても近代国家のそれではありません。
江戸時代の幕藩体制のようなものです。
5 アラブ人への感情。
知っての通り、アフガンのタリバーン政権はアラブ人の
オサマ・ビンラディンをかくまっています。
これは彼が旧ソビエトと戦ったことと、異国から来た客は丁寧にもて
なすアフガンの伝統からです。
その客人をアメリカに引き渡すのはとんでもない、と普通のアフガン人
は思っています。
しかし、だからといってアラブ人に対する感情は良いとはいえません。
6 250円と8円の命
アフガン・パキスタンでは、250円の薬が買えないためにばたばたと
人が死んでいきます。
しかし、扁桃腺が腫れただけでロンドンやニューヨークへ飛んで診察
してもらう金持ちがいます。
彼らは日本の小金持ちがびっくりするほどの財産を持っています。
その一方で一発の銃弾の値段は8円です。8円で人殺しができます。
7 BBCヒーロー
一九七九年にソビエトがアフガンに侵攻した際、
多くの人々が村や家族を守るために
ゲリラとなって戦いました。
外国のマスコミが取材に殺到しました。
報道によってゲリラの中から日本や欧米で有名になった者が出ました。
彼らはBBCヒーローと呼ばれています。
BBCとはイギリスのテレビ・ラジオ局で日本のNHKにあたります。
アフガンにおける外国マスコミの代名詞です。そのいわば作られた英雄
の中で日本でも有名なのが米国同時多発テロの二日前に暗殺されたマス
ードです。
しかし、彼はひどいことをしました。ソビエト軍撤退後の内戦で、
タジク人の彼は対立するハザラ人の村に無差別攻撃を行い、
多くの人々を虐殺しました。
8 アフガンは地球温暖化と国連経済制裁の犠牲者。
私がアフガンに来た17年前と比べると、この地を東西に横切る
ヒンズークシ山脈に降る雪の量が目に見えて減っています。
それで雪解け水の量も激減しています。降雨量も同じです。
地下水の水位が下がっています。
昨年アフガンは史上最悪の旱魃に襲われました。雨が一滴も降らなか
ったのです。川は干上がり、井戸は枯れました。田畑や牧草地は乾き、
砂漠になりました。多くの農民や遊牧民は難民となり都市に流れ込みま
した。廃村が続出しています。この飢餓と水不足でこれまでに約100万人
が餓死したと言われています。このことは全くといっていいほど先進国
では報道されませんでした。それどころか、米国や国連はアフガンを
テロ支援国家に指定して経済封鎖を続けています。
そのために被害はひどくなる一方です。その上に米国の報復攻撃です。
崩壊寸前の小国を相手に国際社会、すなわち欧米諸国は戦争をしようと
しています。
一体、米国は何を守るために戦おうとしているのでしょうか。
9 難民収容所と化した都市。
先に言いました旱魃によって首都カーブル(カブール)やジャララバード、
カンダハルなどの主要都市は町全体が難民収容所になりました。
そして今回の米国の報復攻撃を恐れて、
お金がある人たちはパキスタン国境に殺到しています。都市に残っているのは、どこにも行く当てがない本当に貧しい元農民や遊牧民ばかりです。
パキスタン政府は国境を封鎖したと言っておりますけれども、
1500キロもある国境線を見張るのは不可能であります。検問所を避けて、
徒歩で3000メートル級の山を越えてパキスタンを目指しているのが
現状です。その山越えで年寄りや子どもがたくさん死んでいます。
10 今回の事件は「終わりの始まり」
今回のテロ事件は終わりの始まりだと私は思っています。
経済的繁栄と安全が両立する社会が成り立たなくなったのです。
今、日本は少し貧しくなっても安全に平和で暮らせる社会か、豊かだけれ
ども危険と隣り合わせの社会のどちらかを選択しなければならなくなった
と私は思います。
11 小泉首相を対米協力について。
小泉首相の支持率は80パーセントだと聞いています。
その彼がアメリカの報復行動にできるだけ協力すると
ブッシュ大統領に約束しました。
この事は重く受け止めなければなりません。
大多数の日本人が支持した政治家の選択です。
これは日本人の選択なのです。
12 私だってテロに走りますよ
アフガンの人々は、仕事は無い、家も無い、お金も無い、食べ物も無い、
飲み水も無い、何もかも無い無いづくしの状況に追い込まれています。
助けを求めても、豊かな先進国は手さしのべようとはしませんでした。
声を聞こうとさえしなかったのです。
徹底的に無視されました。そんな絶望的な状況に追い込まれたら、
私だってテロに走りますよ。
13 日本は平和憲法を全面に押し出すべき
日本は憲法9条を全面に押し出すべきです。
「我が国は憲法によって戦争に今回の参加することはできません」
とはっきり言えばいいのです。
それで日米関係が悪化して経済的に不利益を被って少し貧しくなっても
いいと私は思います。
アフガンに比べればどうってことはないですよ。
14 むしろ米国や日本の方が報道管制を敷いている
日本に帰って驚きました。マスコミの報道があまりにも一方的だからです。
タリバーン=悪者、北部同盟=よい子、悪の権化ビンラディンをやっつける
正義の味方アメリカ、という図式で報道しているからです(笑)。
冷静さを失っているようです。
タリバーンというのは「神学生」という意味です。
農村の普通のおっちゃんや兄ちゃんが(笑)がメンバーです。
ペシャワール会が旱魃対策のため井戸掘りをしていた時です。
一緒に井戸を掘っていた村人が、
「タリバーンに気をつけろ。武器を持っているからな」と注意して
くれました。その人自身もタリバーンのメンバーです(会場大爆笑)。
ただ、アフガンの多数民族であるパシュトゥー人が中心であるため、
少数民族のハザラ人やタジク人と対立していることは事実です。
私もハザラ人と間違えられて、頭に銃を突きつけられたことがあります。
15 復讐法について。
アフガン人にとって法とはイスラム法と復讐法です。
野蛮の代名詞とされている復讐法については説明します。
アフガンはシルクロードの十字路であるため、
古代から現在にいたるまで戦争が繰りかされました。
「やられたらやり返せ」をしないと生き残ることができない土地です。
話が脱線しますけれども、アフガンと同じように戦乱が絶えなかった
パレスティナに生まれ育ったイエス・キリストが「汝殺す無かれ」
と説いたのはとてつもないことでした。
生き残るための復讐を禁じたというのは実に極限状態の決断なのです。
私も似たようなことがよくあります。無医村へ診察に行きますと、
びっくりするほどたくさんの人々が集まります。行列ができます。
待ちきれない人々が怒って投石をします。発砲することも珍しくありません。
アフガンでは内戦が続いているので多くの人が銃を持っています。
ロケット砲を打ち込まれたこともありました。幸いはずれましたけれども。(笑)
また、援助団体の派閥抗争に巻き込まれて、謀略にはめられかけたことも
あります。そのたびににアフガン人スタッフは怒って、仕返しだ、やりか
えせといきり立ちます。そのたびに私は「復讐をしてはならん」と言います。
すると彼らは目を丸くして「仕返しをしてはならんですって!ドクターは
正気か」と驚きます。
私は「復讐をすれば必ずあとで仕返しを受ける。今は我慢だ」となだめます。
これを17年間やってきました。
また脱線しますけれども、アフガンを含むイスラム教圏において、
イエス・キリストは、ムハンマド(マホメット)に次ぐ預言者として崇拝
されています。なお、私も一応クリスチャンです(笑)。
16 募金の行方
ユニセフなどの援助団体に寄せられる募金の9割は、組織の維持のために
使われます。残りの1割しか難民に使われません。それに対して、ペシャワール会へ寄せられる募金の9割が実際の援助に使われます。当会は全くのボランティアで運営されるために、それが可能なのです。
17 「教育の貧困」について
アフガンの農村においては、イスラム教の指導者(村の長老がなる)
が寺子屋を開いて、子どもたちに字の読み書きを教え、
クルアーン(コーラン)の暗誦させます。
クルアーンには、人が人としてなすべき道徳や、
日常生活の決まりが書かれてあります。
そして、幼いころから大人と一緒に働いて仕事を覚えます。
それがこの国の農村における教育です。
よく国連のユニセフあたりがこのような状況を見て
「なんたる教育の貧困」を嘆き、学校を建設し、
教育を施そうとします。しかし、私はそれが良いとは思いません。
もし、すべての農村に学校を建設し、
子どもたちに先進国なみの教育を施したら、
学校を卒業した途端に村を捨て都会へ流れるでしょう。
ほとんどの村が過疎で空っぽになることが予想されます。
教育を通じて豊かな都会の生活を知るからです。
それは日本がすでに経験したことです。
18 なぜタリバーンが政権をとったのか
タリバーンの兵の数は私が見た所、せいぜい2万人ぐらいです。
こんなに少ない兵力でなぜ国土の9割を支配しているのかと言います
とそれは、平和を求める民衆の止むに止まれぬ思いからでした。
1992年4月、ナジブラ社会主義政権が倒れ、ラバニを長とする暫定政権
ができました。これがすぐに内紛を起こしたのです。
また戦いが起こりました。治安は極度に悪化し強盗や殺人が横行しました。
人々はうんざりしていました。「もう戦争は嫌だ。平和が欲しい!」
それが民衆の心からの願いでした。
そこへアフガン南部のカンダハルを拠点とするタリバーン勢力が勃興しま
した。党派争いに疲れ果てていた民衆は、タリバーンが平和を回復して
くれると期待しまた。
その期待を受けて、タリバーンはあっという間に支配地域を広げました。
確かに平和が確立されました。
イスラーム法に則り犯罪者を厳しく取り締まった結果、治安は見違える
ほと良くなりました。
平和を求める民衆の、積極的とはいえない支持で、タリバーンが政権
をとったのです。
19 自力で帰国したアフガン難民
1989年、旧ソビエト軍がアフガンから撤退を開始しました。
これによってパキスタンに逃れていたアフガン難民350万人がすぐに帰国
するとの観測が流れ国連は数百億円の予算(その多くを日本が拠出)
を使って難民帰還計画を立てました。
これに欧米の200を越えるNGOが群がりました。しかし、
誰一人帰国する者はいませんでした。
実はアフガンの戦闘がさらに激しくなったからです。
生き残りを賭けるカーブルの社会主義政権と、
戦いに勝って新政府の主導権を握りたいゲリラ各派がぶつかりあいました。
そして、数千万個にのぼる未処理の地雷や不発弾もあります。
そのような実情を無視して、
国連や欧米のNGOは机上の難民帰還計画に熱中し、難民たちを翻弄しました。
結局何一つ実現しませんでした。数百億円はどこに消えたのでしょうか。
そして、1990年に湾岸戦争が勃発すると危険だという理由で、
彼らの多くは難民を見捨てて撤退しました。
その難民たちは、1992年4月にナジブラ社会主義政権が崩壊し戦闘が下火
になると、自主的に帰国を始めました。
今でもはっきり覚えています。
彼らは胸を張り、希望に顔を輝かせて家財道具をトラックやラクダ
、あるいはロバの背に乗せて、続々と国境を越えて帰還しました。
信じられないような光景でした。夢のようでした。誰にも指図されず、
誰の手も借りずに、自分たちの力で故郷へ帰っていったのです。
一生あの光景を忘れないでしょう。
中村哲氏の著作
「ペシャワールにて」・「ダラエ・ヌールへの道」・「医は国境を越えて」(いずれも石風社刊)
「アフガニスタンの診療所から」(筑摩書房)
「ドクター・サーブ 中村哲の15年」(丸山直樹著)」
* 驚くばかりの事実である。
** 当日の講演会の主催者側に、河合塾福岡校に勤めている私の妹がいた。妹からも中村哲氏が決して「反戦運動家」などではなく、ただアフガニスタンで長い間、生活をされ、仕事をされて、そこから得られたことを率直に話されたという情報を得ている。
*** マスード将軍についての情報は、ショックであった。写真家の長倉洋海さんからの情報とまったく正反対であったからだ。念のために、長倉洋海さんのホームページのリンクもつけておく。
長倉洋海ホームページ
2001/10/17(Wed) <笑えない話>
昨夜、私は考え事をしながら、生協に食事にいった。メニューを決めるとき、とにかく「牛肉」が入っていないものにしようと思い、最初、カツ丼を注文した。ところが品切れということで、「えっと、牛丼はまずいし、ビーフカツもやばい。さて、どれにしようかな」と悩み、ある品を頼んだ。ある品は、いつもより多く盛ってあり、ついているなと思ったが、その瞬間、自分があまりにも迂闊(うかつ)だったことに気がついた。
私がとっさに頼んだ品は、なんと「牛トロ丼」であった。加熱してもヤバイというのに、「牛トロ丼」は生(なま)である。いかにも危なそうではないか。しかし、注文した以上、仕方がないと肚(はら)をくくって、すべてたいらげた。しかしながら、あまり笑える話ではない。今朝の新聞に、狂牛病で被害を被った農家に対して、政府が補償するという記事が掲載されていた。補償はもちろん必要であろうが、公金を使うわけだし、同時に、行政における責任の所在を明らかにすることがセットでなければ、あまりにも無責任だろう。また、補償がはたして農家だけでいいのかという問題もある。「牛骨ラーメンの店」「レトルトカレーの工場」「牛丼屋」「じゃぶじゃぶ店」「コンソメスープ工場」などなど、被害はかなり広大な領域に及ぶのではないだろうか。肉骨粉の製造も禁止になり、その機械を作っているメーカーやメンテナンスの仕事をしている人たちも、大きな打撃を受けたはずである。そういえば、東京経済大学の「牛トロ丼」は好評メニューで、私もしばしばお世話になったし、お客さんと一緒に食事をするときに、結構すすめたものだ。大事なお客さんが、東京経済大学にゲスト講師に来て、私に「牛トロ丼」をすすめられたばかりに、狂牛病に罹病したとすれば、政府は何らかの補償をしてくれるのだろうか。
行政の怠慢、マスコミの報道、人々のおそれ、風評被害、公金による農家への補償、忘却というパターンは、今まで何度もくり返されたことである。行政には説明責任がある。なぜ日本で狂牛病の牛が出現したのか。その感染ルートを明らかにして、水源を絶たなくては、私たちの不安は残されたままになる。それとともに、いろんなところからおいしいものを集めてきて、食べ散らすというライフスタイルを、改めていくことも必要なのかもしれない。小さい頃、牛肉は高級品であり、なかなか食べることはできなかった。それでも、誕生日には、とりのもも(あし)を食べることができて、結構幸せだった。流通革命で、今はどこに行ってもあらゆるものを食べることができる。山形で「ウニ丼」を食べたり、長野で「刺身の盛り合わせ」を食べたり、自分でもヘンだなあと思いつつ、こういうくらしをしてきた。だけど、どこでも何でも食べられるという夢が実現したことにより、地方の特産品をおいしくいただくという楽しみが奪われてしまった。何でも手元にあるのが幸せとは限るまい。とりやたまごを安く流通させようとブロイラーを檻の中に入れて、育てていたら、人間までブロイラーのようになってきた。ブロイラーの幸せを捨てて、野山をかけまわるにわとりに戻るならば、人間の創意工夫ももっと違った方向で発展するにちがいない。
2001/10/16(Tue) <脱帽、イチローどの>
球場でみると、あたりまえのことだが、プロ野球の選手というのは大きい。テレビで見ていると、自分もやれそうな気がするが(いや、さすがにもうしないが)、球場でみると、プレーヤーは明らかに別の世界に住む人たちだということがわかる。なかでも、外国人選手は、とくに身体が大きく、近づいたら、おっかいないだろうなあと思う。そして、練習をみていると、やはり外国人選手は、ものすごい身体からものすごい打球を飛ばす。その迫力には圧倒されるばかりである。だが、考えてみると、多くの外国人選手は、メジャーリーグでバリバリ活躍というわけにはいかないから、日本にやってきているわけで、メジャーリーグの選手というのは、もっとすごいということになる。テレビで見ていても、日本のプロ野球とのスピードの違いが感じられるぐらいだから、とてつもない世界がそこには展開されているのだろう。
相変わらず、前置きが長くなったが(講義でもいつもそうだ、さっさとせいと、学生たちに叱られる、それでもこりずに前置きを長くする)、イチロー選手は、そのような大リーグで、大活躍をしているわけだから、驚嘆の一言に尽きる。地区プレーオフでも、5試合でなんと6割の打率を残している。その姿は、まるで草ぼうぼうのグラウンドでいつもヒーローになる小学生のずば抜けた子どもが、そのまま、大リーグのユニフォームを着ているかのようである。しかしながら、最終戦、4打数3安打という活躍にも驚いたが、その3安打がすべて内野安打というのにもさらに驚きが増し加わり、最後の内野安打が二遊間の強いあたりで、遊撃手が軽快にさばいたにもかかわらず、セーフになったのには、あきれてものも言えなかった。しかも、相手の遊撃手(ショート)は、8年連続ゴールデングラブ賞の名手ビスケルときている。解説者さえも、「普通はボールのほうが足より速いんですけどね」とぼやいていたほどの、韋駄天(いだてん)ぶりだった。
イチロー選手はおそらく日本の球界における空前絶後のプレーヤーであり、凡人がそこから参考になることを求めようとするのも図々しいような気もするが、それでも参考にしたいのは、彼が自分の長所をよく知っているということである。私は、オープン戦の初期のイチロー選手を見て、当たり損ねの内野ゴロの山に、大リーグでは通用しないのではないかと思った。しかしながら、最終的には3割5分という高打率で首位打者を獲得、私の予想は全く覆された。今シーズン、イチロー選手は、242本のヒットを打っている。そのうち、内野安打がなんと61本。4本に1本は内野安打ということになる。日本にいたとき、内野安打の割合は16.3%であったというから、アメリカへ行き、天然芝のグラウンドという地の利を十分に生かしたということができる。
こうして振り返ると、あのオープン戦のときの当たり損ねの内野ゴロの山こそが、イチロー選手の成功につながったということができる。「みてくれ」ではなく、自分のスタイルを貫き通し、それを洗練させていったイチロー選手は、プレーというかたちで、その思想をいかんなく表現してくれた。そして、節穴だった私も、ただ脱帽するばかりだった。体格で勝負するならば、大リーガーにかないっこない。しかし、彼は、ヘンな張り合いはせずに、平凡な内野ゴロを非凡な安打に変える忍者野球で、大リーグの歴史を塗り替えた。前述のイチロー選手の内野安打のあと、ショートが捕球した時点でアウトを確信した相手チームの選手たちは、ただただ唖然としていた。解説者も、私も唖然とした。イチロー選手には、「あきれるほど」という形容詞がふさわしい。
2001/10/15(Mon) <修学旅行>
週末、埼玉県と茨城県の高校の先生から沖縄への修学旅行が相次いで中止になっているという連絡が入った。お2人とも、「平和」なときは、沖縄を「平和学習」として利用して、何かが起こると、危険だといって切って捨てる、というつきあいかたを、ご都合主義であるとして憤っておられた。“有事には危険だから、米軍基地のある沖縄には行かない。”ごくごくあたりまえの常識的と思われるような判断の向こうにひそむ手前勝手さを突きつけられ、ハッとさせられた。危険であっても、そこでくらしている人々がおり、くらさざるを得ない高校生がいるのだ。このあたりまえのことさえ見えなくなっている。
さて、続いて語られた茨城の先生の話は、勇気づけられる話だった。これまでも総合学習を通して交流を重ね、向こうで会うことになっていた沖縄の高校生たちに、「皆さんは、この時期に茨城から高校生たちが修学旅行で来ることを望んでいるのか?」と尋ねたという。そうしたところ、「テロとアメリカの報復攻撃により、沖縄の観光と経済は冷え込んでいる。そういうときだからこそ、ぜひとも来てほしいし、その実態を自分たちの目で見て帰ってほしい」との返事が来たそうだ。この返事を受け取った茨城県の高校生たちは、「自分たちが修学旅行に行くことが沖縄の人たちのためになるということなら、ぜひとも行きたい」ということで、両親らへの説得に入ったらしい。
こういう時代だからこそ、ほんとうの意味での「平和」学習ができるのかもしれない。テロで、報復で、そのこととは直接関係がない人々のくらしが脅かされる、これこそが、まさしく現代の「戦争」ではないか。茨城の先生は、「教師だけがいくら言ってもダメだ、生徒たちが動き、親たちが賛同しなければ、何もはじまらない」とおっしゃっていた。これまで総合学習での積み重ねがあり、沖縄の高校生たちとのネットワークが形成されていたからこそ、右へならえではない、勇気ある判断が可能になったのだろう。「現場の声」が学びを動かしたこの出来事と、それを支えた先生の見識に、出会いと学びのもつ力の一筋の光をみる思いだった。
2001/10/11(Thu) <絵のせんせい>
私は、絵を描くのが下手である。小学校の中学年ぐらいから絵を描くのが苦手になり、中学校の頃なんて、もう最低だった。絵で深みというか、厚みを描くことがまったくできないのである。私の描くのっぺらぼうの水彩は、まるで鉛筆一本で描いたもののように薄っぺらい出来上がりだった。立体感のある描写をする同級生たちを尻目に、情けない気持ちに沈んでいた。
こういうことを思い出したのは、仕事をはじめて、同じような思いにとらわれたからである。自分としては一生懸命にやっているつもりなのだが、何をしても薄っぺらくて、情けないのだ。この情けなさは、何かに似ている。そうして思い出したのが、中学時代の水彩であった。そして、出た結論。私にこの仕事は向いていない。ほかの人より人一倍、いやかなり特別、世界について薄っぺらい描写しかできない私が、ことばによって世界をとらえようという学問をやっている。これは明らかにお門違いだ。ここに私がいることはそもそも間違いだった。私はそういう結論に到達した。
そして、私はお風呂に入った。湯船につかり、身体がリラックスしてくると、思考が自分の底まで降りていく。そこで、小学校の低学年以前の躍動的な絵を描いていた自分に出会ったのだ。忘れもしない私の小学校1年生のときの絵は、機関車を描いたものだった。動物園にあった動かない機関車を写生したものだが、キャンバスからはみ出て今にも動き出そうとする躍動感あふれる絵だった。それから、幼稚園のときに描いた“木”の絵。葉っぱが幾枚も丁寧に書き込まれ、色彩豊かで立体感あふれる力強い作品だった。もっとさかのぼって、幼稚園年少組のときに“皿”に描いたカニの絵。カニが大きなハサミを持ち上げて、今にも飛び出してきそうなほど、ダイナミックな作品だった。
思考が自分の底に降りていくうちに、ある一つの大切な事実に思いあたった。私からこのような絵を引き出したのは、一人の絵の先生だったことに。この先生は、幼稚園で絵の先生をなさっていた。子どもの目にもみすぼらしい身なりではあったが、いつも絵の時間は楽しみだった。母親のきまぐれでいろんな習い事をやらされ、ほとんどが苦痛だった中で、絵の教室だけは楽しみだった。当時は、そんなことは思いもつかず、考えもしなかたけれども、あの先生は、ほんとうに絵のことを考え、子どものことを考え、指導をされていたのだと思う。何よりも私の3つの絵がそれを物語っている。今でもそれらの絵がくっきりと瞼に浮かぶのだ。そして、その絵を通して、自分の力強さが感じられるのだ。先生は、私が小学校2年の頃、心を病まれて、それで絵の教室はおしまいになった。幼心にも心の病みと聞き、先生がどこか遠くに行ってしまわれたような寂しさを感じた。そして、それと同じくして、私は絵が描けなくなった。
心を病んだ先生は、今どうしておられるだろうか。あれから25年以上の歳月が経つ。あの先生のことは、ずっと忘れていた。しかし、今、私が自分という存在に行き詰まり、これからどうしようかと思ったとき、記憶の底に沈殿していた自分の絵が浮かび上がってきた。そして、その絵を通して、あのときの先生が私に語りかけてきた。
教育って、なんなんだろう。いつもその日、その日の成果を求めすぎてはいないか。そう、自問する。25年以上経って、自分がにっちもさっちもいかなくなったときに、一筋の光を与えてくれる。そんな先生に出会っていたことを、今、思い、自分の浅はかさとともに、噛みしめている。
2001/10/9(Tue) <ライン>
雨が降り、すっかり秋めいてきた。海の向こうでは、イチロー選手が首位打者と盗塁王の二冠を獲得し、この喜びに浸っていたかったところだったが、とうとうアメリカはアフガニスタンへの爆撃を開始した。ついにテロという国際犯罪は、名実ともに「戦争」に発展した。アフガニスタンの国土は、日本の総面積の1.7倍。本州と北海道を合わせて2倍したより広い。いくら世界最強のアメリカ軍の近代兵器をもってしても、「勝利」を得ることはたやすくはないだろう。湾岸戦争のときは、まだクエートに侵攻したイラク軍を撃退するという一つの「勝利」のラインがあった。クエートからイラク軍を追い出せば、それは「勝利」であるということができた。ところが、今回のアフガニスタン「戦争」では、「勝利」のラインは見えない。領土にラインはあるのか、いやそうではない。ビンラディン氏をとらえればいいのか、いやそれでは済まないだろう。組織が残っていれば、まだ安全とはいえない。考えていけばいくほど、今回の「戦争」は、殲滅戦の様相を帯びるという結論に到達する。ラインのない「戦争」、これこそ無差別殺戮である。
あるとき、人間はラインを引くことを覚えた。ラインは、囲い込みのようなかたちで、人々を疎外することもあった。しかし、ラインを引くことで、人間の攻撃性を、ラインのなかで昇華させるという知恵を獲得した。スポーツには、必ずラインがある。柔道にしても、レスリングにしても、陸上にしても、野球にしても、サッカーにしても。ラインの中では、あらんかぎりの力を尽くし、ルールすれすれのところで狡猾かつ獰猛に動き回っても、ラインの外で乱闘することは恥ずべきことだとされる。(プロレスは観客席もラインの中という合意があるだろう) ラインを守ることがスポーツマンシップであり、終わればノーサイドである。ラインというのは、攻撃性をもつ人間が、自らの攻撃性をコントロールするために創り出した、高度なシステムであるということができるだろう。
ラインなき「たたかい」。その結末は決してたやすいものではない。
2001/10/5(Fri) <ヤケッパチ更新>
ただいま、午前1時28分。まだ研究室にいます。明日の学会の準備。何という泥縄。修論執筆のとき、工学部の友人に徹夜でつき合ってもらったことを思い出します。朝が白々する頃、私の論文はようやく註をつけるところまでいきました。この楽しみは、学生たちにも味わってもらわなくては。(サドっぽいですが) きっと、今年のゼミの学生は、味わっていることでしょう。修論ばかりか、就職しても、泥縄な私です。もうヤケッパチHP更新。よい週末を!(私は、ヤケッパチ週末ですが・・・)
2001/10/4(Thu) <中世に迷うのか>
昨日の毎日新聞夕刊2面に興味深い取材記事が掲載されていた。かつてソ連がアフガニスタンに侵攻したときの生き残りの旧ソ連兵の話である。何しろ、アフガニスタンというのは、とんでもない場所だったらしい。(もちろん、侵攻される側にとって侵攻はもっととんでもない話だっただろうが) とんでもない理由の第一は、気候。昼は50度近くまで上がり、夜は0度まで下がることもあったという。続いて、人々の生活意識の違い。アフガニスタンでは女性は不可侵で、女性の家に足を踏み入れただけでも、村民すべての敵となってしまったという。また神を信ぜぬソ連人というのは、悪魔のように厭われたそうである。(いずれも当時の話) それから、インフラのなさ。町でも水道や電気はなく、インフラを攻撃するという手段がとれなかったという。このとんでもなさは、一言でいえば、20世紀の(当時)人間が、いきなり14世紀に迷い込んだようなものだったらしい。相手は、価値観も違えば、失うものもなく、死をも恐れない。ソ連兵は、自分はなぜここにいるのかという疑問にさいなまれたそうである。そして、出た答えは、ここは自分がいるべきところではないという回答。アフガニスタンにも、ソ連にも、大きな傷跡を残した戦争だった。
当時とは、たしかに国際情勢は違っているだろう。今回は、テロという卑劣な“犯罪”=(あくまでも戦争ではない)をきっかけとしており、国際世論は、“今のところ”アメリカに同情的だし、好意的だ。しかしながら、テロを起こしたのがアフガニスタンという国家であるという確証はどこにもない。また、さきほど述べたように、今回のテロは“犯罪”であり、いわゆる“戦争”ではない。(アメリカはテロこそ21世紀型の戦争だと主張しているわけだが) 今回の事態は、わかりやすくいえば、「おまえのうちの息子がうちの息子を殴り殺した(にちがいない)。だから、おまえの家族を皆殺しにしてやる」と言っているようなものである。今は、息子が殺されたアメリカに同情は集まっている。しかし、関係ない家族まで皆殺しにし、また近所の人々まで「おまえらが、あんなごろつきを放置しているから、こんなことになったんだ」と八つ当たりして、蹂躙しはじめたらどうだろう。それでも、息子が殺されたアメリカに同情が集まるだろうか。
歴史的にみても、アフガニスタンは、イギリスも、ソ連も、侵略に失敗した土地である。何せ失うもののなく、死をも恐れない人々が相手である。地上戦が長引き、泥仕合の様相を帯びてきたとき、文明を享受しているアメリカ兵は、「なぜ自分はここにいるのか?」という重い重い問いを、一人の人間が負うのはあまりにも苦しい問いを突きつけられるにちがいないのだ。そして、これこそ、今回のテロを仕掛けた黒幕が臨んでいるシナリオなのだ。
アフガニスタンで苦渋をなめた旧ソ連兵は、20世紀のわれわれが14世紀に迷い込んだようなものだったと語った。そして、今、アメリカが行おうとしている“報復”という罠は、世界が中世に逆戻りする、恐るべき罠である。公論によって、公正と正義を求める国際社会。これは2つの世界大戦で流された人類の多大な血を通して、われわれが獲得してきた知恵であり、築いてきたシステムである。これを今、放棄するということは、まさしく中世に迷い込んでいくことを意味する。そして、ほんとうの中世とは違い、われわれは今や、世界を何度も滅ぼし尽くすほどの軍事力をもっている。そして、われわれは、傷つきやすいこころももっている。
アフガニスタンに経済援助をし、救援物資を送り、国の再建を助けること。これが時間もかかり、格好よくもないが、テロリストの力を削ぐためのおそらく唯一の道だ。軍隊は、救援物資を滞りなく民衆に届けるために、その役割を担えばよい。もちろん、この話を具体的に実行するにはさまざまな困難を伴うだろう。だから、こんなことは理想論であって、不可能な話だと笑われるかもしれない。だが、同じように、“報復”によってテロリストだけを成敗するというシナリオも、ハリウッド映画ならともかく、現実は実行不可能な物語である。天秤にかけるならば、テロリストにも救援物資が渡ってしまう“ミステイク”と、無関係な人々も爆撃を受ける“ミステイク”。どちらの“ミステイク”がより致命的かという問題である。
2001/10/3(Wed) <時間の流れ>
最近、世の中の時間の流れが速い。その上を歩いている人生の「逆・動く道路(=ボケッとしているとうしろに巻き込まれてしまう)」のスピードがものすごく速くなったような気がする。次から次へ事件が起きて、前の事件はあっという間に忘れ去られる。パソコンにしても、ケイタイにしても、買ってウキウキ、でもあっという間に旧製品、置いてけぼりになっている。私なんぞは、18年前に祖父に買ってもらった腕時計をいまだにしているような人間で、時間の流れにちょっと待ってよと言いたくて、言いそびれて、取り残されている化石のような人間であるが、世の中には同じような化石な人々も結構いるのではないかと思う。
さて、化石は化石らしく、時間を見つけては、近くの資料館を訪ねることにしている。昔々、「たまのさんぽみち」を始めたときに、隔月刊の「多摩の散歩道」なるものを発行していたのだが、その最初のテーマが「トポフィリア(=場所への愛)」。偏愛と身びいきに満ちた私は、気に入ったらとことん気にいるし、関心をもてないとまるっきりダメなタイプである。はっきりいって人間としてはいびつな人間だ。故郷の九州を偏愛していた私だが、東京・国分寺に勤め、なぜか東京経済大学なるものと肌があって、国分寺なる土地を好きになって、多摩の歴史にめざめることになった。
今日は、授業の前に、小平市の「鈴木遺跡資料館」なるものをはじめて訪れ、一級品の史料に感動した。鈴木遺跡とは、1974年に鈴木小学校の建設現場から発掘された旧石器時代の遺跡で、この発見により、小平の人類史が江戸から縄文以前へと一挙にさかのぼったものである。石神井川の源流の泉がここにあり、その水源を囲んで、馬蹄型に集落があったといわれている。旧石器時代の石器の見事さにうっとりしながら、人類の歴史の雄大さを改めて思った。今、私たちはせかせかしているけど、人間はこんなにたっぷりとした時間をかけながら、バトンを、たすきを、次の走者に受け渡してきたのだ。マス・メディアは、今をさまざまな角度から伝える。これに対して、私たちは振り回されないためにも、身近な生活を見つめる顕微鏡の学びと、大きな視野から見つめ直す望遠鏡の学びを、身につけていきたいと思うのだ。
*「鈴木遺跡資料館」はお薦めです。
所在地 : 東京都小平市鈴木町1−487−4
電話 0423−23−2233
開館日 毎週日曜・水曜・土曜・祝日(10時〜16時)
交通案内 JR中央線武蔵小金井駅北口下車
京王バス小平団地行「小平団地」下車・徒歩15分ほか
2001/10/2(Tue) <緑と青空と>
10月の2日目は、前日と打ってかわってキラキラとまばゆい青空。久しぶりに研究室のブラインドを上げたら、青空としなびかけた緑のコントラスト。同じ青空でも、5月の青空と10月の青空は違う。新緑が日の光にキラキラと照り輝く5月の青空と、その役目を終えようとしている落ち着いた緑が日の光を受けとめている10月の青空。どちらも何だかしみじみとした気持ちを与えてくれる。
2001/10/1(Mon) <10月のスタートは雨>
10月のスタートは雨。しっとりと秋に向けて季節が動いている。10月に、アメリカはアフガニスタンを攻撃するのだろうか。山岳地帯では、もう摂氏零度をこえる寒さらしい。5000人の犠牲者と、500万人の難民。いのちの重さは、ひとやまいくらではないだろうが、いつもしわよせは弱者にいきつく。
何もしないという選択だって、あえてすることは勇気がいること。蛮勇に満ちた時代に、ただ何もせずに祈っていること。無力かもしれないし、あざけられるかもしれない。だけど、あえて何もしない。何かをするよりしないほうがいいときだってある。国際社会から孤立する? 孤立したのは、蛮勇を奮ったあの時代ではなかったっけ?
よわっちいものは、よわっちいなりに、生きていけるのが、安心できる社会。強くなくてはいけないよとのメッセージだけでは、人は塹壕にこもるばかり。変われ、変われ、変われとうるさい時代に、かわらなくったっていいよという安心感。かわらなくったっていいよと言われたとき、人はそこから変わり始める。
ただ、一日一日、秋を乗り切ってまいりましょう。
2001/9/28(Fri) <タイムリミット(+α)>
何を書こうかと考えていたら、まとまらないうちに、タイムリミット。これから会議が五つ続くので、失礼いたします。ゴメン。
ゴメン下さい。夜戦終わり。おなかぺこぺこ。大学の先生はガマン強い。多動症の私としてはこの先つとまるかどうか不安にみちている。教授会で出店を開いて、たこ焼き屋をやったら、きっと大繁盛すると思う。転職しようかしらん。でも、あまりの場所のよさにきっとショバ代がすごく高くなり、直に弾き出されるにちがいない。再びよい週末を!(私は〆切に追われる週末ですが、それはともかく)
2001/9/26(Wed) <授業評価>
前期の教育方法の最終回で行った「授業評価」をようやく集計し、公表できるかたちに加工した。こうした「授業評価」は、他人(上)から押しつけられるものではなく、自分でやるのがいい。まあ屠り場に連れていかれる牛のようなものだから、なかなか自分からやりたくはないのだが…。学生たちは案外やさしかったが、それにしても、寝ていたと白状した学生がなんと多かったことか。後期の授業第1回目のレポートで、もうさっそく「多分授業中居眠りをしてしまう可能性が大だと思うのでちょっとだけ許して下さい」というものがあった。私の授業は子守歌なのか!? 不眠症の方、一度お試し下さい。試用は無料です。しかし、二度目からは、代金をいただきます。
授業評価アンケート集計
2001/9/25(Tue) <柳瀬川>
煮詰まったとき、打開を求めて行く場所、それは誰にでもあるだろう。私にとっては、川がそうである。ずっと川の近くに住みたいと思っていた。高校の寮にいた頃は、高良川(こうらがわ)、筑後川の川べりをよく散策した。そして、自分の将来を想った。自宅にいた頃は、わざわざ川ぞいの道を通って、家路についた。川とともにいることで、私の心は落ち着いた。そして、今、柳瀬川のほとり(といってもちょっとあるが)に住んでいる。
柳瀬川は狭山湖を水源とし、新河岸川に合流し、荒川に注ぐ小さな川である。この川も高度経済成長の時代には、汚染がひどかったそうだが、清流を復活させるための人々の努力があって、今では、透き通った水が流れている。鯉やウグイが泳いでいて、釣り糸を垂らしている人もいる。川を汚したのも人なら、清流を取り戻したのも人だ。柳瀬川という宝を守り、育て、生き返らせてきた人々の営みを、ほんとうに尊いものだと思う。自分がプレゼントされた川という場所を次の世代にも継承していきたいと思う。
柳瀬川のさんぽみち
2001/9/22(Sat) <北海道のような青空>
昨日までのうっとうしい天気から、今日は爽やかな、そしてあまりにも爽やかすぎる秋晴れ。清瀬のけやき通りを自転車で走りながら、ここが北海道といわれても、信じちゃうだろうなあと思いました。ただ爽やかなだけではなく、肌寒い風、窓を開けたら、こもっていた部屋の空気がいっぺんに澄み切った空気にかわりました。こういう日もあって、人は生きている、そう思いました。「無限の正義」は名前が変わるようです。明日(今日)から連休、よい週末をお過ごし下さい。
2001/9/21(Fri) <無限の正義とサイバーテロ>
昨日のこの欄で、「自分を無限定の「正義」におくとき、大きな落とし穴が待っているような気がする」と書いたあと、自宅に帰って、毎日新聞の夕刊を読んだところ、アメリカは今回の報復作戦(戦争)について「無限の正義」というネーミングにすることに決めたとあった。あまりものジャスト・フィットの符合に、思わず、にが笑いしてしまったが、人間が「無限の正義」を名乗るとき、しばしば“神”はそこから離れていく。
今回のテロの出発点ともいえる1998年8月のアメリカ軍によるアフガニスタン爆撃について当時の新聞記事をあさって調べていたら、面白い記事に出会った。ケニア・ナイロビでのアメリカ大使館テロ事件のあと、このテロ事件の首謀者であると見なされた、今世界中にその名をとどろかせているウサマ・ビン・ラディン氏の引き渡しをめぐって、アメリカとアフガニスタンが協議している最中に、突如アメリカ軍がアフガニスタン爆撃を行ったというのである。この攻撃により、当然、引き渡し交渉は決裂、さらに、ウサマ・ビン・ラディン氏はぴんぴんしていたというから、一体、この爆撃は何だったのかということになる。交渉にあたっていた人々は、ショックだったことだろう。
ちょうどこの時期、クリントン大統領は、あのモニカ嬢との不倫疑惑問題で、法廷での証言が求められており、タイミング的にこの問題から国民の目をそらすために、爆撃を行ったのではないかという疑念が、その記事には書かれていた。ここまで記事を調べたところで、私の頭には、「誰が“種”をまいたのか?」という疑念が湧いてきた。(女性の読者の方、下世話な話ですみません。えっ?、なんのことか、わからない。それならいいです。)
というわけで、「無限の正義」なんて言っている場合ではないことは、一目瞭然である。続いて、とんでもないコンピューター・ウイルス・ソフトの話。W32.Nimdaという悪質なウイルス・ソフト。これは今回のテロと関連したサイバーテロではないかと疑いをもたれている。このウイルスの怖いところは、ただインターネットでネットサーフィンをしているだけで、そのページのあるサーバーが感染していた場合、自分のコンピュータが感染してしまうというところにある。これまでの多くのウイルス・ソフトは、メールを通して、感染するものであり、一般的に添付ファイルにさえ注意すれば、よかったのだが、今度のウイルスは、どこに地雷があるかわからないというほど、とてつもなく危険なものである。今回のウイルスをみると、インターネット・エクスプローラ(=マイクロソフト社)への攻撃であり、明らかな政治的意図が垣間見られる。
インターネット・エクスプローラを使用されている読者の皆さんは、ぜひ次のページにアクセスして、自己防衛をはかられることをお薦めします。ああ、こわ。
このウイルスとその対策法について(1)
このウイルスとその対策法について(2)
マイクロソフトの修正プログラム・ダウンロード
2001/9/20(Thu) <学生世論>
歴史の先生によると、今回のテロに対するアメリカの報復については、学生の多くが反対しているということだった。報復は問題解決にはつながらないという意見が多数を占めていたということで、結構みんな冷静に見つめているのだなと思わされた。ただ、これが自分の国で起こったら、どうなることやらという心配は残るが・・・
本日の毎日新聞の記事によると、イスラム世界では、一般市民への無差別殺戮については、ジハード(聖戦)と認めておらず、イスラム教徒にとっても今回のテロは、あくまでもテロであって、ジハード(聖戦)とは見なされないということであった。しかしながら、もしアメリカの報復攻撃によって、イスラムの一般市民が巻き込まれることになると、それに対する“報復”(=報復には終わりがないのだ)は、ジハード(聖戦)になってしまうそうだ。
報復合戦は、「正義」と「正義」の戦いだから、収拾がつかなくなる。詩人の吉野弘は、「祝婚歌」の中で次のように詠っている。
二人が睦まじくいるためには愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい …
互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで
疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい」
『続・吉野弘詩集』(思潮社)より
人間の「正義」なんて、どこか必ずずっこけている。「正義」なんてどうでもいいと言っているわけではない。ただ、自分を無限定の「正義」におくとき、大きな落とし穴が待っているような気がする。
そうそう、今、突然、思い出したことがある。私は、大学院時代に“英語のバイブルクラス”に参加していたことがあるが、そのとき、イランからの留学生の人も参加していたのだ。敬虔なイスラム教徒で、立ち振る舞いから真面目な人で、ほかの宗教についても、学んで理解しようとされていた。あのとき、それまで漠然と思い描いていた「イスラム教徒」についてのイメージと、随分違うもんだなあと思ったことがある。この文章を書いているうちに、突然、記憶の奥底から浮かび上がってきたことである。
2001/9/19(Wed) <手を広げて>
将棋というのは、一手一手を指しながら、自分の可能性を広げ、相手の可能性を狭めていくゲームである。指す前は、可能性はいわば無限に広がっている。天才棋士・羽生善治王将と私が盤に向かい合っても、対局前は同じ可能性がある(はずである)。しかし、一手一手指す毎に、羽生王将の手(=選択肢)は広がり、私の手は狭まっていく(ことは間違いない)。そして、私はなすすべもなく詰まされる。
人間の歴史も、同じような性質をもっている。行動を起こす前には、可能性は無限に広がっている。満州事変の前には、15年戦争を回避する可能性もあっただろう。日中戦争の前には、中国との泥沼の戦争を回避する可能性もあっただろう。真珠湾攻撃の前には、南洋に散った兵士たちを救う可能性もあっただろう。しかし、現実には、一手一手、可能性が狭まっていき、一つの歴史の道が選ばれた。
そして、今、21世紀のはじまりとともに、今後の人間の歴史を決定づける大事な一手が下されようとしている。この一手を間違えると、人間の歴史の可能性は一挙に狭まる。人類は知ったはずなのだ。二度の世界大戦によって。この大量殺戮の時代に、戦争はもはや紛争解決の手段としてあまりにも高くつきすぎることを。アメリカは知ったはずなのだ。ベトナム戦争によって。故郷を攻撃された者の怒りと悲しみと底知れぬ強さを。私たちは、テロを許さない時代を育てた。だからこそ、世界の世論は、アメリカに同情的だ。世界のいかなる政府も、今回のテロに賛同することはできないほど、あからさまな暴力は、もはや人々に受け入れられなくなっている。それだから、今はまだアメリカには手が広がっている。「戦争」(=私刑)という手以外に、国連に解決を委ねたり、粘り強く外交交渉をつづけるなどの手がある。
手が狭まってしまったあとでは、人間は何もすることはできない。なすすべもなく、歴史の暴風に身をさらすしかない。事件のあと、鉛のようなものがずっと胸のなかに入っているような気がする。
2001/9/17(Mon) <後期開幕>
9月の上旬は、歌舞伎町ビル火災、中学教師の逮捕、アメリカの無差別テロ事件と、暗澹たる事件が続いたが、それでも、キャンパスでは、今日から(正確にいうと先週金曜日から)後期の授業がはじまる。いろんな事件に遭遇すると、安全はただではなかったんだなと思わされる。お互いに、フェイス・ツー・フェイスの関係で、顔を突き合わせて、おまえちょっとヘンだぞとお互いがお互いの鏡になりながら、生きていく日々の実践が、どんなに大切なことか、ほんとうに気づかされる。いずれの事件にしても、コミュニケーションの大切さを改めて考えさせられるものであった。
さて、日本に住む私たちの立っている位置は、アメリカに近い。今回のテロでは、日本人も巻き込まれたし、アメリカを通した情報はいくらでも入ってくる。だけど、アフガニスタンやイスラム世界からの情報はほとんど入ってこない。新聞の片隅に、テロに便乗してイスラエルがパレスチナに攻撃を加えているというニュースが掲載されていた。今回のテロの黒幕がオサマ・ビン・ラディン氏であるとしたら、パレスチナとは直接かかわりはない。アメリカがまず行うべきことは、報復攻撃をすることよりも、便乗攻撃を止めさせ、テロリストたちに正当性を与えないことである。苦しいけれど、ここは我慢比べだ。それも人類史を左右する我慢比べなのだ。
オサマ・ビン・ラディン氏の情報
2001/9/14(Fri) <剣をとるものは剣で滅ぶ>
昨日は、一日研究会のため、更新なし。この間も、テレビの報道はアメリカのテロ事件一色という感じだったようだ。一般市民を無差別に殺戮した今回のテロは許されないことであり、犠牲になった方々への深い悲しみを共有する。しかし、その一方で、アメリカの報復攻撃が、同じように一般市民を無差別に殺戮するものであるならば、私は断固これに反対する。
今回のテロが「真珠湾攻撃」以来などというアナロジーで語られていることに、私は疑問を感じている。〜「真珠湾攻撃」をおこした連中は、広島・長崎で報いを受けた。今回のテロも同じようになるだろう。〜これはむちゃくちゃな論理である。いや、論理というよりも神話である。広島・長崎の原爆投下は、まさに一般市民を無差別に殺戮したものであり、こうした蛮行をあくまでも<正義>の名の下に語ろうとするから、テロリストたちに大義名分を与えてしまうのだ。数年前にABC放送の取材班が、今回のテロの黒幕といわれているラディン氏に、決死のインタビューを試みたときの記録を目にしたが、イスラム原理主義といわれているラディン氏が、広島、長崎の惨劇を何度も引用しているのに驚いた。ラディン氏は、“アメリカという国家への憎悪と、アメリカの一般市民への攻撃を一緒にするのか”という内容の質問に対して、“一般市民との区別をつけずに無差別攻撃を行ったのはアメリカだ。長崎の例をみるがいい。アメリカこそが世界一のテロリズム国家だ”という内容の返答をしている。もちろん、私はラディン氏の論理に組みするものではない。だが、国家による無差別殺戮とその正当化が、同じようにテロリズムに対しても正当化の論理を与えていることに注意しなければならない。
アメリカは大きな血を流した。しかし、血には血ではなく。この血によって、パワー・ゲームがどのような結果に至るのか、目覚めてほしい。そして、映画『12人の怒れる男』で見られたような、少数の意見でも大事にし、時間と労力をかけて民主主義を守るアメリカの精神を思い出してほしい。怒りにまかせた報復の代償が、どのように高くつくか。よくよく考えてほしい。今、世界は、民主主義 対 テロリズムという構図で、この事件をとらえている。だが、今、アメリカが無差別爆撃を行うならば、この構図は、アメリカの国益・パワーゲーム 対 アメリカによって虐げられたイスラムという図式に変わりかねない。この血を、自国益至上主義から、世界への想像力に目覚める契機として、受けとめていきたい。
なお、以下のようなメールがまわってきたので、掲載しておきます。時間の許す方はどうぞ
皆様
米国への「テロリズム」について、米国の非暴力平和主義のNGO、戦争抵抗者連盟
(WarResisters League)が声明を出しました。以下がその拙訳です。
君島東彦
戦争抵抗者連盟(War Resisters League)の声明
2001年9月11日
ニューヨーク
わたしたちがこれを書いているいま、マンハッタンは包囲攻撃を受けているように
感じられる。すべての橋、トンネル、地下鉄が閉ざされ、何千人、何万人もの人々が
マンハッタン南部から北へゆっくり歩いている。ここ戦争抵抗者連盟の事務所にすわっ
ていて、わたしたちがまず想うことは、世界貿易センターの崩壊で命を落とした何千
人ものニューヨーカーのことである。天気は快晴で、空は青い。しかし、煙りの下の
瓦礫の山の中でおびただしい数の人々が死んだ。その中には、ビルの崩壊のときその
場にいた数多くの救急隊員も含まれている。
もちろんわたしたちは、ワシントンの友人・同僚たちが、ペンタゴンにジェット機
が突入したときに巻き添えになった一般市民について想っていることを知っている。
そしてわたしたちは、この日ハイジャックされた飛行機に乗っていた何の罪もない乗
客たちのことを想っている。現時点で、わたしたちはどこから攻撃が来たのかわから
ない。
わたしたちは、ヤサー・アラファトが攻撃を非難したことは知っている。もっと情
報が入るまで、詳しい分析は差し控えるが、しかし幾つかのことは明らかである。ブッ
シュ政権はスター・ウォーズ計画に膨大な支出をすることを議論しているが、それが
最初からでたらめであることははっきりしている。テロリズムはもっとありふれた手
段でこんなにたやすく攻撃することができるのである。
わたしたちは、合衆国議会とブッシュ大統領に対して、次のことを求める。これか
ら米国がどのような対応をするにしても、米国は一般市民をターゲットにすることは
しないこと。一般市民をターゲットにする政策をいかなる国のものであれ認めないこ
と。これらのことをはっきり認めてほしい。このことは、イラクに対する制裁──何
万人もの一般市民の死をもたらしている──をやめることを意味するであろう。この
ことはまた、パレスチナ人によるテロリズムのみならず、イスラエルによるパレスチ
ナ人指導者の暗殺や、イスラエルによるパレスチナ住民に対する抑圧、西岸およびガ
ザ地域の占領も非難することを意味するであろう。
米国が追求してきた軍国主義の政策は、何百万もの死をもたらした。それは、イン
ドシナ戦争の悲劇から、中米およびコロンビアの暗殺部隊への財政援助、そしてイラ
クに対する制裁や空爆などに至る。米国は世界最大の「通常兵器」供給国である。米
国が供給する兵器は、インドネシアからアフリカまで、最も激しいテロリズムを助長
している。アフガニスタンにおける武力抵抗を支援した米国の政策が、結局、タリバ
ンの勝利とオサマ・ビン・ラディンをつくりだしたのである。
他の諸国も同じような政策をとってきた。わたしたちは、これまで、チェチェンに
おけるロシア政府の行動や、中東およびバルカンにおける紛争当事者の双方の暴力な
どを非難してきた。しかし、米国は自己の行動に責任をとるべきである。たったいま
まで、わたしたちは国境内で安全だと思ってきた。快晴の日、朝起きてみて、米国の
最大の都市が包囲攻撃されているのを知って、わたしたちは、暴力的な世界において
は誰ひとり安全ではない、ということを思い起こした。何十年もの間、米国をとらえ
てきた軍国主義を、いまこそ終わらせるべきである。
わたしたちは、軍拡と報復によってではなく、軍縮、国際協力、社会正義によって
安全が保障されるような世界をめざすべきである。わたしたちは、きょう起きたよう
な、何千人もの一般市民をターゲットにする攻撃をいかなる留保もなしに非難する。
しかしながら、このような悲劇は、米国の政策が他国の一般市民に対して与えている
インパクトを想起させるものである。わたしたちはまた、米国に住むアラブ系の人々
へ敵意を向けることを非難し、あらゆる形態の偏見に反対してきた米国人のよき伝統
を思い起こすよう求める。
わたしたちはひとつの世界である。わたしたちは、不安と恐怖におびえて暮らすの
か、それとも暴力に代わる平和的なオルタナティヴと世界の資源のより公正な分配を
めざすのか。わたしたちは失われた多くの人々を悼む。が、わたしたちの心が求めて
いるのは、復讐ではなく和解である。
───────
これは戦争抵抗者連盟の公式の声明ではないが、悲劇が起きた直後に書かれた。戦
争抵抗者連盟の全国事務局のスタッフと執行委員会のメンバーが署名して、公表され
る。
2001年9月11日
asif ullah
Carmen Trotta
Chris Ney
David McReynolds
Joanne Sheehan
Judith Mahoney Pasternak
Melissa Jameson
(君島東彦訳)
2001/9/12(Wed) <衝撃>
昨晩、英語放送のラジオを聴いていた同居人が、「アメリカで何かとんでもないことが起こったようだ」という。真夜中に起き出してテレビのスイッチをつけると、そこでは航空機が高層ビルに体当たりした映像が流れていた。ほんとうに、これはとんでもないことばい、ただごとではなかばいと、身体中に衝撃が走った。
日本時間で朝になっても、死傷者の数さえはっきりしない。アメリカを中心とする世界システムの心臓をやられたという感覚である。地下鉄サリン事件は衝撃的な事件であったけれども、私はあの五日後に予定通り結婚式を挙げることができた。しかし、ニューヨークに住むアメリカ人が今度の事件の五日後に結婚式を挙げることはできないだろう。
テロリズムは許せない。暴力はさらなる暴力を生むだけだ。この一点を十分に押さえた上で、テロリズムを生んでしまう土壌を根底から見直す必要がある。ただ、これは根気と時間と忍耐力がいる仕事である。今回の事件が、パレスチナ問題と関連があると決まったわけではないが、今、中東和平のために困難な道を歩み、原理主義者によって暗殺されたイスラエルのラビン首相のことを思い出す。犠牲に合った人々に痛みははかりしれない。それでも、民族共存を目指したラビン首相の道を思い出して、冷静な対応を求めたい。
現場にいた人たちの声
2001/9/11(Tue) <台風>
ゼミ合宿で研究室をしばらく空けていたら、数日間私を悩ましつづけたヤブ蚊が洗面台で哀れにもご臨終を遂げていた。それまで規則正しくやってきていた食事が、なぜかばったり来なくなり、せめて水でも飲もうかと、洗面台までヨロヨロと飛んで、そこで息絶えたのだろうか。兵糧責めの効果は絶大であった。
さて、台風15号が関東を直撃している。そして、今日、私はその台風に向かって大学にやってきた。台風は、神奈川県の藤沢沖から鎌倉に上陸、横浜を通過と北上し、私は北から南へ台風をめがけて車を走らせた。台風のおかげで洗っていない車がだいぶきれいになったようだ。なにせ1時間みっちり洗車をしたわけだから。ガソリンスタンドの自動洗車は、だいたい5分で400円ぐらい。1時間なら4800円だ。こう考えると、何か得した気分になる。しかし、台風で事故でも起こしたら、こんなものじゃ済まない。
何はともあれ、九州生まれの私としては、南海からはるばる台風がやってきてくれると、まるで旧友に久しぶりに会ったかのように、気持ちがはしゃいでしまうのだった。しかし、このノロノロ台風、たくさんの雨を東日本にもたらしたようで、とくにこれからやってくる地域の方々は、どうか気をつけてお過ごし下さい。
2001/9/7(Fri) <いい学生たちだ>
明日の日記の欄ですが、ちょっとうれしい出来事があったのでフライングで失礼します。毎年、東京経済大学では、教育実習講義なるものがあり、第一回目には、教育実習に行ってきた4年生に話をしてもらうことになっているのだが、今年もまた、依頼した学生が、みんな快く引き受けてくれた。人の前で話をするというのはプレッシャーがかかることだし、なかなか大変なことだと思うのに、次の学生たちのために話をすることをいとわずに、快く引き受けてくれる。私はこういう爽やかさがとても好きなのだ。
今年はとくに、自分のゼミ生ではない学生たちに依頼したので、さてどうだろうと思っていたけれども、みんな「自分でよければ」と、謙虚にかつ快く引き受けてくれた。彼らの生きる構えからは、ほんとうに学ばせられることが多い。こうした好青年たちが、教育現場に立つことを夢みて、がんばっている。もう3年ほど挑戦している卒業生たちもいる。私を育ててくれた1995年入学の学生たちだ。彼らが、彼らを待つ子どもたちのもとで伸び伸びと力を発揮する、そういう機会を与えられることを切に願うばかりである。
2001/9/6(Thu) <再び合宿>
明後日からゼミ合宿(三年前から夏休みの入りと終わりに二度やるようになった)で、越後湯沢へ。その準備やほかの雑用でバタバタしているが、ほかの先生の話を聞くと、「合宿をしないかと誘ったが、学生のほうから断られた」などとまるで思春期の子どもをもつ親のような話も耳にするので、学生に二回も相手にしてもらっているだけ、ありがたいともいえる。しかし、7月になって、「先生、合宿どうしましょうか?」と行ってきたゼミ幹事に、「バーロー、今頃言っても遅い。今年は辞めだ」と一蹴したという豪傑の先生の話も聞き、学生と教師の関係といってもいろいろあるのだと感心する。このいろいろあるところが、東京経済大学の懐の深さといっていいところであり、これは大事にしたいところである。また寝不足な日々が待っている。
2001/9/5(Wed) <西武国分寺線>
車ばかりだと身体がなまるので、電車で通勤。電車で通勤していると車が新鮮に思え、車で通勤していると電車が新鮮に思えるので、当たり前のことだが不思議である。さて、私が通勤に使っている西武国分寺線というローカル線だが、西武線の中でもマイナーな線であり、単線で駅は五つしかない。所要時間約10分の小さな旅気分を味わえる路線なのである。
私自身、以前から西武池袋線を日常的に使っていたにもかかわらず、西武国分寺線なるものがあるということを知らなかったぐらいであり、西武線に縁のない人々には、もっと縁遠い路線であると思われるが、東京の歴史をちょっと調べているうちに、思いもかけない発見があった。なんと、この西武国分寺線は、西武鉄道の中でも最も古くにできた路線だということだった。1894(明治27)年(←日清戦争がはじまった年)に、「久米川」−「国分寺」間に「川越鉄道」が敷かれた。この「久米川」駅が現在の「東村山」駅であるとのこと。当時の日本は、茶と絹を輸出品の目玉としており、その輸送のためにこの線ができたとのことである。マイナーと思っていた通勤路が、輝いてみえた。
* 出典は(『史跡でつづる東京の歴史(上)』尾河直太郎(一声社))
2001/9/4(Tue) <メガネ>
朝からメガネが見つからずに、家中(そんなに広くないのだが)を探し回り、えらい目にあった。幸い、昨晩、気が滅入っていて早く寝て、早く起きていたので、探す時間が十分にあって助かったが、1時間近く探しただろうか。最後に、私の部屋の片隅でカメレオンのように保護色となって転がっているメガネを探し出した。
しかしながら、メガネを探すということは、そもそもメガネがないわけだから、よく見えない状態で探さなくてはならず、大変なことである。メガネがあれば、メガネを探すことはカンタンだけれども、メガネがあれば、メガネを探す必要もなく、こんな苦労からそもそも無縁なのだ。そう考えてみると、メガネを探すということは、かぎりなく深遠な営みに見えてきた。(* メガネは所定の場所に置きましょう)
2001/9/1(Sat) <9月>
9月に入った。防災の日、東京・新宿歌舞伎町では、火災による大惨事があった。東京には、あのようなペンシル・ビルがたくさんある。学生たちと飲んでいる安い居酒屋もそうしたビルのテナントだし、音楽の練習に使うスタジオもそうである。ただ、たまたま災害にあっていないだけで、災害の火種はあらゆるところに転がっている。ということは、まだまだ規制や公共事業が必要とされる領域があるということでもある。規制や公共事業を目の敵にするより、その中味を吟味し、また意思決定のプロセスを問題化することが先決なのではないだろうか。諫早湾を埋めることに膨大な税金を注ぐことより、効率が悪い上に危険なペンシル・ビルを数本まとめて大きなビルに替えることに税金を注ぐほうが何倍もマシだろう。しかし、亡くなった方々は、おもに二十代、三十代のこれからの人たちであり、何とも申し上げようがない。合掌。
さて、同じ三十代で、火事に遭わずに生き残った私は、ちっとは人のためになることでもしようかと、池袋の西武百貨店で献血なるものを試みてきた。「AB型80人分不足、ピンチ!」という立て看板に、心動かされ、最近、身体に栄養がまわっているし、この辺で、血抜きでもやっておこうかと、相変わらずいい加減な気持ちで、向かったのである。ピンチという立て看板の文字のわりに、会場にはのんびりした雰囲気が漂っていたが、それはさておき、丸々ふとったいいエモノがやっていたとばかりに、400mlの献血を勧められ、「健康そのものです」「血の濃さも十分です」とおだてあげられた(?)。最近、劣等感に沈んでいた私としては珍しくほめられたものだからうれしくなって、800ml献血しようかと思ったけど(ウソ)、血の気が多かったのか400mlあっという間に出てしまった。帰り際に、なんと献血のポイントカードなるものの説明があり、ポイントが八つたまったら図書券で次は…という話だった。CDショップやカメラ屋さんに並んで、献血までポイント戦略をはじめていると時代の流れに驚いた。よし、それならまた明日来て、ポイントをゲットしようと思いきや、400mlの献血のあとは3ヶ月間献血ができないらしい。ここにはちゃんとした規制があるようで、私のようなポイントに動かされる欲深い人間が、血の気が引いてしまわないように配慮されていることに感動した。帰って、体重計に乗ったところ、体重は減っていたが、残念なことに体脂肪率は増えていた。それでは、また来週。
2001/8/30(Thu) <学会への道>
学会ではじめて横浜国大を訪ねた。公称・駅から15分が、なまっている私には長く感じられた。地下鉄を降りて、ゆったりとエスカレーターに乗っている人々の脇を、駆け上がったが、いつまで立っても地上に出ない。そして、地上に出る前に息が切れた。地下鉄の駅がなんとB5(地下5階)だったのだ。みんなが観念したようにゆったりとエスカレーターに立っていた謎が解けた。しかし、地下鉄が混み合っている場所でもないのに、なんでこんなに深いのかといぶかしく思った。地上に出て、国道1号線沿いを歩き、最後に階段と坂が待ち受けていた。このコースは、なまけものの私にはいい運動だった。
さて、あとで聞いたところによると、現在の横浜国大の敷地には、もともとゴルフのカントリークラブがあったらしい。そのど真ん中を道路が走ることになり、分断された土地を購入し、横浜国大のキャンパスが造成されたそうな。昭和40年代、坪2万円。今の基準からみると格安かと思いきや、同じ時期に建設された大分大学の敷地が坪1千円とかなんかで、もっと値切るようにと大変だったらしい。カントリークラブの跡地と聞いて、山あり谷ありの起伏に満ちたキャンパスの謎が腑に落ちた。しかし、地下鉄の深さの謎はいまだ解けない。
2001/8/28(Tue) <一人になること>
依然として小泉首相や田中外相が人気だが、その人気の秘訣としてこの2人は群をなしてつるまないということがあるのだろう。現実にはどうだか知らないが、何かしら一匹狼というイメージがある。また、セリエAの中田選手もマリナースのイチロー選手も群れるタイプではない。群れない人々への人気は、人々が、強いフリをしていても群れる人間はほんとうは弱いということを、何とはなしに感じとっていることのあらわれだろう。
人が一人になったことがない場合、その人がほんとうはどんな人なのか、判断がつかない。というよりも、その人自身、自分のことを知らないにちがいない。いや、自分のことを知らないことすら知らないかもしれない。自転車に乗りながら、携帯電話をかけている人たちをみると、自分一人だけでいるのが怖いのではないかと感じる。
自分のことを知り、掘り下げていかなくても、まわりに調子を合わせていれば何とかなった社会も、いよいよ終焉のときを迎えようとしている。一人ひとりが寂しさに向き合い、自分を耕しながら生きていかねばならない時代がやってこようとしている。しかし、この不安感と寂しさが、逆にまわりに調子を合わせることに向かわせたり、“つながっている幻想”にしがみつかせたりしているのが、今の時代なのだろう。一人になれというだけではなく、一人になっても大丈夫という安心感をもてることが、今まず求められているのかもしれない。
2001/8/27(Mon) <あるもので>
久しぶりに研究室にパソコンが復帰した。すったもんだしたあげく、Window95bだったものが、Windows95aにヴァージョン・ダウンしてのリニューアルとなった。
ここ数年、自分とモノとの関係をいろいろためしてみたけれども、物にあふれて生活するよりも、少ないものでいかに工夫していくかが、自分の性にあっているようだ。日曜日には、夏の終わりの多摩を友人と散策した。台風のさなか山に登った友人から聴いた話だが、沢の丸太橋が濁流に流されて、立ち尽くしていたとき、山小屋のおじさんが、チェンソーを取り出し、あっという間に丸太橋をつくり、先に渡ってロープを通して、友人たちを渡してくれたという。彼は、おじさんの見事な手際と技に魅了されたらしく、一生懸命その話をしてくれた。
あれがない、これがない。そんなことばっかり言っていた自分の人生だったように思うが、あるものを磨いて育てていく、そんな生き方に変えるターニングポイントが今であるような気がしている。そう考えつつパソコンをいじっていたら、なんだかヴァージョン・ダウンして動きがサクサクとしてきたような気がする。いや、これは気のせいではない。たしかに反応がよくなっている。
2001/8/25(Sat) <夏休みの宿題>
夏休みはいつも出だしは張り切っているのだが、8月に入ると崩れはじめ、盆を過ぎると、末期的症状に陥ってしまう。いよいよ夏休みの宿題にあせりはじめる時期にさしかかってしまった。小学校の頃からの生活習慣というのはなかなか変わらないものだ。今日、池袋の書店で大学教育関連の本を立ち読みをしていて、大学1年生は小学校13年生という本があったが、それにならえば大学教員は小学校25年生といったところか?おまえと一緒にするなという声がほかの先生方から聞こえてきそうだが、海の向こうに目を転じると、夏休みもなく、ヒットを打ち続けているイチロー選手の活躍には、ただただ感嘆するばかりである。
2001/8/24(Fri) <トラブラー>
再び更新が滞っている。パソコンのトラブルが原因である。同居人のノートパソコンが不調というので、ハードディスクを取り替え、ついでにWindows95から98にアップグレードしたところ、うまくいったので、それならば、自分のパソコンでもやってみようと、あらぬ欲を出したことが、そもそもの失敗のはじまりだった。Windows98をインストールすることはできるのだが、そのあと、立ち上がらない。うんともすんとも言わない状態である。これはどうしたことかと、メーカーのHPにアクセスしたところ(もちろん、別のパソコンから)、OSのアップグレードはいっさいサポートしていませんとのこと。そりゃ、ないぜよ、と思いつつ、はじめにHPをよく読んで予習しておくべきだったと後悔するもあとの祭り。HPで同じ機種のユーザーに検索をかけたが、かなりのヘビーユーザーと思われる人でもWindoows95を使っており、私のパソコンに98を入れることがそもそも不可能だったという結論に達した。
そこで、もとの環境に戻そうとしたところ、なんとバックアップ・ディスクに欠番があるではないか。記憶を辿ってみると、フロッピーディスクが必要になり、たまたま手元に空のフロッピーがなかったとき、まあいいやと、バックアップ・ディスクに手をつけていたようなのだ。四十数枚あるバックアップ・ディスクだが、その1枚が欠けていると、もう致命傷である。ためしにやってみたが、やはり致命的だった。
ここにきて、パソコンより私自身を呪った。あんまりだ。バックアップ・ディスクに手をつけるとは、お金が足りなくて、子どもの貯金に手をつけるようなものだ。あるいは、腹が減って、来年の稲籾を食べてしまうようなものだ。それもすぐそこまで買いに走れば、フロッピーなんてどこにでもあるのだ。なんというとんでもない奴なのだ。ひどすぎる。
というわけで、懲りない私も、このときばかりはしこたま懲りた。そして、律儀な同居人のバックアップ・ディスクが存在していたのに救われて、なんとかパソコンは一命をとりとめた。しかし、このトラブルに費やした時間は、ここに書くのははばかられるほど、膨大なものだった。そして、トラブルの原因は、この私だった。
こうして夏は過ぎていく。ああ、かなしい。ではまたあした。(そうそう、この間、台風、なんかも来たなあ。台風についてもいろいろと書きたかったのだけれども、それはまたこんど)
2001/8/20(Mon) <鹿教湯温泉>
週末は鹿教湯(かけゆ)温泉というところに遊びにいっておりました。私は、大学時代から(かなり)細々と、南米の民族音楽(=フォルクローレ)というものをやっているのですが、そのフェスティバルが鹿教湯温泉(信州上田と松本の中間あたり)であるというので、いそいそと出かけたわけです。フェスティバルといっても、南米からはるばる演奏家がやってくるというわけではもちろんなく、私たちがその演奏家なわけです。
南米を彷彿とさせるような(行ったことありませんが…)山あいの温泉郷で、笛を吹き、歌を歌ってきて、楽しいひとときでした。何よりも、あやしげな記憶を手がかりにしながら、昔の仲間たちとともに演奏していくというプロセスが楽しく、それをにこにこしながら聴いてくれる人たちがいたということがさらに楽しさを増し加えてくれました。
人にはさまざまな生き方、自分の育て方があると思いますが、私の場合、いろんなことを切り捨てて一点突破するのではなく、いろんなことを通して自分を見つめ、自分をほぐし、自分を育てていくことが性に合っているようです。あるいは、一点突破の地点を見つける以前の発達段階のプロセスを、人より何周も遅れてやっているだけかもしれませんが。
2001/8/17(Fri) <欧州旅行>
いやいや、皆さん、8月7日より十日間のヨーロッパ旅行に旅立ち、今日帰ってきました。いやあー、ヨーロッパはよかったですねえ。日本の夏のように蒸し暑くないし。フィンランドでは、氷河期時代にできたつららのかき氷まで食べてきましたよ。おいしかったですねえ。のどごしさわやかフィンランドのかき氷を食べたあとは、ラップランドでトナカイの背中に乗って…、なんて真っ赤なウソでありまして、大学のサーバーさんが夏バテ状態で、うまくアクセスできない日々が続き、何の前ぶれもなく「Daily たまのさんぽみち」の更新がとどこおっておりました。
この間、何度もトライしてみたのですが、どうにもこうにもつながりません。更新が突然中断して、見てくれている人たちは心配しているだろうなあ、いよいよあいつも失踪してしまったかとか思われているだろうなあと、ヤキモキしていたのですが、どなたからも心配のメールは来ておりませんでした(涙)。それはさておき、アクセスできないときのインターネットというのは不便なもので、そば屋だったら、「8月14日・15日は所用のため、誠に勝手ながら休業させていただきます」という貼り紙を一枚出せば済むところ、何ともしようのない状態でありました。まあ、HPもお盆休みということで(東京にずっとおりましたが>親不孝もん)、また明日から(明日からなりゆきで信州行きですが)よろしくお願いいたします。
2001/8/6(Mon) <ミスチル>
Mr. Childrenのベスト・アルバムが出てから、聴きまくっている。歌詞カードを見るでもなく、BGMとして流しているので、歌詞を理解していないのだが、心にズンとくる。中島みゆきと民族音楽しか聴かない私だったが、ミスチルを聴くことで、わずかばかり今とかかわりをもつようになった。そもそも、同居人がミスチルのファンで「ミスチルはいいよ」と言われていたが、その頃、私はうわの空で、ちゃんとミスチルを聴くようになったのは、1998年の「現代社会と人間」というへんてこな授業で、学生がレポート代わりに提出してくれたカセット・テープから“Tomorrow never knows”が流れたときからだった。
1990年代という時代をつかみ損なった感じを引きずっている私だが、ミスチルは1990年代を歌い上げた。尾崎豊は1980年代のシンガーだったかもしれないが、1990年代を歌うことはできなかった。中島みゆきは、1970年代を歌った歌姫だったが、恐るべきことに1990年代も歌い上げた。私は、今、ミスチルを聴きながら、一周遅れで1990年代を感じている。また、私がつかみ損なった1990年代を見事に生き抜いた学生たちから、1990年代を教わっている。いつか、自分のことばで1990年代を語れる日が来ることを夢みている。
2001/8/4(Sat) <夜の訪問客>
我が家は、前が保存樹林に面しているので、しばしば夜には、森から訪問客がやってくる。先日は、くわがた虫がやってきた。網戸に張りついている。腹側からみると、まるでゴキブリのようだが、ちゃんと角がある。“こくわがた”の雄だ。つかまえて、家の中に入れようかと思ったけど、止めた。くわがたやカブトムシとは、小さいときに思う存分遊んだから、もういいのだ。一方で、まだ野球から離れられないのは、ほんとうにやりたかったときにやり切れなかったからだと思う。
エリクソンのライフサイクルという考え方、発達段階という考え方、これを規範と捉えると面白みはないけれども、人生を一つの統合された作品としてみる見方として考えると、なかなか面白い。振り返ると、いくつものことをやり残してきた。だけど、それらはもう取り返しのつかないことではなく、自分にとっての宿題のようなものとして与えられたものである。私にとって、くわがたはもう卒業できることだった。しかし、野球はまだ宿題であり続けている。
2001/8/3(Fri) <幼稚>
毎日新聞の記事によると、兵庫県明石市の花火大会で11名が亡くなった痛ましい事故で、「明石市と警備会社が「茶髪のせい」と口裏合わせ」していたという。まさに無責任体制の中での、幼稚な発想であり、呆れてモノも言えない。記事によると、「花火大会の主催者側の同市の幹部と警備会社の担当者が事件直後、「茶髪の若者が暴れたことが事故原因ということにしよう」などとと口裏合わせをし、その通りの発表をしていた」とのことである。
小説『模倣犯』のなかで、著者の宮部みゆきは、思いつきの浅知恵でその場がしのげると考える人々のどうしようもない幼稚さを執拗に描いているが、この事件の幼稚さには小説も真っ青である。中学生ぐらいのとき、人に罪をなすりつけるやり方で、その場をしのごうとするどうしようもない輩がいたが、明石市の幹部と警備会社の担当者は、ごろつきの中学生がそのまま大人になったような、どうしようもなさである。
そもそも、ここでは人が死んどるとですよ。子どもが死に、また別の子どもが死につつあるとき、責任逃れの談合をやるとは、呆れてものも言えんですばい。さらには、その責任を、また茶髪という子どもに押しつける。それが税金をもらって、市民を守らなくてはならない人間たちのすることでしょうかねえ(鳥越俊太郎風 T)。
この