Daily
たまのさんぽみち



  2001/7/31(Tue) <ハイスクール・ヒーロー>

 1989年の夏の甲子園大会決勝戦は、0対0の緊迫した投手戦のまま延長戦に突入した。延長10回、均衡は破れ、仙台育英は帝京に敗れた。あと一歩だったみちのくへの優勝旗の悲願は、かなわなかった。このとき、仙台育英のマウンドに立っていたのは、大越基だった。
 大越は、その後、早稲田大学に進学。野球エリートの人生が約束されているはずだった。しかし、ある事情で早稲田大学を退学。ふるさとの東北に引きこもり、渡米してマイナーリーグに挑戦するも挫折、悶々とした日々を送っていた。ところが、1993年のドラフトで福岡ダイエーから突如の1位指名を受け、入団。1994年には投手として13試合に登板したが、それからは鳴かず飛ばずだった。
 ハイスクール・ヒーローだった大越が生まれ変わったのが、1999年のことである。持ち前の俊足を生かして、主に代走・守備固めとして82試合に出場、地道な役回りながらも、福岡ダイエーの初優勝に貢献した。
 昨日の西武ドーム。西武・西口の快投の前に、福岡ダイエー打線は沈黙。1対2で迎えた9回表二死無走者。敗色は濃かった。ところが、秋山が左中間を破る二塁打、わずかな光明が差した。王監督は、秋山に代えて、代走・大越を告げる。大越は、軽やかにセカンド・ベースに向かった。打者は城島。西口の意識は、城島に注がれる。
 西武にしてみれば、一打同点のピンチである。長距離ヒッターの城島では、外野は極端な前進守備はひけない。そして、二塁走者は走塁のスペシャリスト・大越。さらに、二死であり、ランナーは打球音とともにスタートする。内野を超えるヒットが出たら、もう同点は止められない。それなら、打者・城島に集中し、おさえるしかない。幸い、今日の城島は当たっていない。攻め方を間違えないかぎり、おさえられるはずだ。西武の選手たちはこう考えたはずだ。
 三遊間のゴロに備えて、遊撃手・松井は二塁ベースから大きく離れていた。また、一二塁間のゴロに備えて、二塁手・上田もインフィールドのラインまで大きく下がっていた。さらに、三塁手のマクレーンは、強烈なゴロに備えて、三塁の後方深くに構えていた。西武の守りは、誰もが、止めても仕方がない大越への意識を捨てて、打者・城島にのみ集中していた。西口は、城島の打ち気をそらすかのように、長く長くボールをもった。フィールドは、西口と城島の対決に向けて緊張感が頂点に達していた。
 そのときである。二塁走者の大越がスルスルと三塁に向かって歩き出した。誰もが気づかない。そこから大越は脱兎の如く三塁を目がけてダッシュした。捕手の伊東が西口に向かって叫ぶ。西口が異変に気づいたとき、大越はもうすでに三塁までの行程の3分の2に達していた。明らかに狼狽し無理な体勢からあわてて送球する西口、三塁手・マクレーンもあわててベースへ。しかし、無情にも白球はそれて、誰もいない三塁側ファールグラウンドを転々と転がった。大越は、同点のホームを踏んだ。がっくりと肩を落とす西口。9割9分ものにした勝ちがスルリと抜けていった瞬間だった。延長11回、小久保のホームランで、福岡ダイエーは奇跡的な勝利をものにした。
 今朝の毎日新聞によると、大越は、昔ピッチャーをやっていた経験から、あの場面では、投手は打者のことしか頭にないということがわかったという。かつてのハイスクール・ヒーローが、地道な、しかもあまりにも抜け目のない、計算に裏づけられた勇気をもったスペシャリスト・ランナーとして蘇ったのをみて、何だか胸が熱くなった。投手では通用しなかった。打者でもレギュラーの域にまだまだ到達していない。しかしながら、持ち味の足にかけて、その足を生かす思考を研ぎすまし、それを試合という実践の場で堂々と実演してみせたのだ。両チームの選手たちと何万の観衆が見つめるフィールドのど真ん中で、大越はとんでもないアクロバットを成功させた。そして、その一生一代の大舞台での成功には、これまでの数々の失敗から生み出された経験の蓄積があった。
 西武には、野球を知っている選手たちが揃っている。野球を知っているがゆえに、意味のない二塁ランナーを無視して、打者に集中した。だが、大越は、野球を隅々まで知っているがゆえの盲点を見事についた。それは、大越が、野球を知っているだけではなく、野球の恐ろしさを身をもって知っていたからだろう。






  2001/7/30(Mon) <にわとり頭>

 土曜日は、所沢ダイオキシンの住民決起集会にはせ参じた。所用があり、集会の終わり間近に到着するという、まるで関ヶ原の徳川秀忠のようなていたらくであったが、くぬぎ山の集会場では、80名ほどの人々が集まり、あふれんばかりの熱気に包まれていた。この決起集会は、テレビ朝日(ニュースステーション)の報道に端を発した、マスコミ VS 農家の人々(JA)という構図を超えて、新住民の人々が農家の人たちと手を携えて、産廃業者の立ち退きを要求するという、画期的な集まりだった。
 集会のあと、パーソナルに農家の人たちの話を聴く機会があり、マスコミの報道に対して最初に立ち上がった人たちが、マスコミ VS JAという構図に乗せられようとしたところで、「この構図はおかしい」と、訴訟団の中から真っ先に脱退されたということを、はじめて知った。新聞報道を読んでいるだけでは知り得ない話だった。つねに、騒動を利用しながら儲けようとする人間がいる。そこを見据えながら、ときには怒り、ときには笑い、手を結び、自分たちの生活と地域を守っていく。したたかで、しなやかな生き方に脱帽だった。
 また、この集会には、以前、丸一日かけて、所沢周辺の産廃施設をくまなく案内してくれたYさんがおられた。「この前はお世話になりました」と挨拶をしたところ、Yさんは、「あれ、そんなことありましたっけ、覚えてないなあ」と言われる。話を聴いてみると、たくさんの人を案内しているので、もう一つ一つ覚えてなんかいられないという。人は普通、人からしてもらったことは忘れても、人にしてやったことはしつこく覚えているものだ。しかし、Yさんは、右手のやったことを左手には知らせないというような、立派な心がけというか、なんというか稀有な心の持ち主であり、私はいたく感銘して、帰路についた。
 家に帰り、同居人に「Yさんという人がいてね、前に一日かけて所沢の産廃施設を案内してくれたのに、そのことを全然覚えていなかったんだよ、すごいね」という話をしたところ、どうも同居人はYさんのことを知っているようなそぶりで聴いている。「えっ、どうしてYさんのこと、知っているの?」と尋ねたところ、「あなた、なに? Yさんに案内してもらったとき、私も一緒だったじゃない!!!」と言うではないか。コロッと忘れていた。Yさんは、自らの善行を忘れていたのだが、私はただの健忘症だった。一言もない。ちょうど涼しい日が続いており、暑さのせいにすることもできないまま、トサカを振るといっぺんに忘れてしまう、にわとりのような頭をかいた。






  2001/7/27(Fri) <南米の人たち>

 昨日は、友人である学校の先生に誘われて、ひょこひょこと日系二世・三世の若者たちとのインフォーマルな懇親会についていった。今から60年〜40年ぐらい前に、南米に渡った日系移民の人たちの子どもや孫にあたる若者たちである。年齢は、17歳から23歳ぐらいで、ちょうど私が日々接している日本の大学生たちと重なっている。南米といっても、中米のメキシコから、ボリビア、パラグアイ、アルゼンチン、ブラジルと多彩だ。高度経済成長以降の価値観と感覚に覆われて、つい最近まで、日本が移民輸出超過国だったということを忘れそうになるが、ほんの数十年前まで日本から多くの国々へ人々が職と食を求めて旅立っていったのだ。
 若者たちは、ラテン系の快活さと、古き良き日本人の純朴さを兼ね備えていて、すぐに打ち解けてくれた。私の下手なケーナの演奏もしみじみと聴いてくれて、彼らの人間関係のあり方にすごい懐かしさを感じた。のべつくまなく情報の洪水にさらされていないからだろうか、彼らは聴く耳と、聴く構えをもっていた。キレるという感じとは対極にある、ふところの広さと、仲間を排除しない成熟した自我があった。日本では、特別な経験をした子どもたちにしか感じられないような、人々のなかにあっても脅かされない自我を、ほとんどみんながもっていた。
 きっと移民した先で、さまざまな苦労があったことだろう。彼らは、家業のことをよく知っていたし、自分たちの家族の歴史も知っていた。移民であるから、家族が力を合わせないと生きていけない。家族なしでも一人で生きられるかのような日本のほうが進んでいるのか。それとも家族の団結なしには生きていけない南米日系人のほうが幸せなのか。おそらくその答えは、それぞれが出すしかない答えだろう。とにかく、人にひょこひょことついていくことで、自分の世界が広がることがある。自分が知っているものだけがすべてではない。このことがほとんどすべてだ。






  2001/7/25(Wed) <雷雨>

 昨日はえらく暑いと思ったところ、今日の新聞を見たら、東京で38度を超えていたらしい。これでは実家(昨日のコラム参照)より暑い。たしかに暑いと感じるはずである。東京のサウジアラビア化が進んでいる。最低気温のほうも28.7度ということで、もうひとがんばりで、最低気温が30度を上回りそうである。これは朝晩は気温が下がるサウジアラビアより悪い。
 今日はめずらしく、昼過ぎから雷雨になった。黒い雲が立ちこめ、横なぐりの風が吹きつけ、雨が激しく地面を叩きつけた。研究室の窓から見ながら、なぜか気持ちは弾んだ。「もっと雨よ、降れ、もっと風よ、吹け」とばかりに、外を眺めた。
 しかし、考えてみると、この時間に外を歩かなくてはならない人もいる。道路工事の現場の人だっている。高校野球もやっているだろう。観客もいるはずだ。そういう人たちにとっては、雷雨はたまったものではない。安全地帯から雷雨を見ているのは楽しい。だけど、雷雨に打たれるのは大変なことだ。「聖域なき構造改革」なんていうけど、雨に濡れるのは得てして弱い者たちだ。参議院選まであと数日。
 政治について、昨日、学生と飲み、話しながら、考えた。政治家たちは、私たちの税金をどう配分するかが仕事なのだから、各政党がそれぞれのよしとする予算案の円グラフを出して、私たちはそれを見てどの政党に入れるかを判断すればいいのだ。どうせ守りもしない公約なんていらないし、巧言令色、一文にもなりはしない。それにたまたま二世か利権かによって選ばれた政治屋が、私たちの心の中、すなわち思想信条にまで踏み入るなんて、あまりにもおこがましい、等々。居酒屋で、学生たちをつかまえて政治談義をするようでは、いよいよ私も落ちぶれたというか、愚痴っぽい中年男への道をまっしぐらという感じである。世間を知らない学者の分際で、いろいろ説教するのもこれまたおこがましい。黙って仕事をすることにしよう。






  2001/7/24(Tue) <暑さ考>

 暑い日が続いている。高校時代、クーラーのない部屋でよく勉強なぞできていたなと思うのだが、考えてみると、あの頃はこんなに暑くはなかったような気がしている。(それとも身体が軟弱になったのか?いや、前から軟弱だったはずだ)
 大学に入学し、上京して、いろんなボロ・アパート(大家さん、ごめん)を転々としてきたが、なかでも最高に暑かったのは、石神井のI荘だった。修士論文が書けず、苦しんでいたときだった。夏の夜、あまりにも暑くて眠れないので温度計をみたら、針が40度を指していた。おもむろに起きあがって、玄関のドアをあけて外に出たら、外はとても涼しかった。それでも30度ぐらいあっただろう。木造モルタルの2階、昼間照りつけた日差しが夜もじわじわと部屋に押し寄せ、我慢大会の会場のような部屋だった。しかし、夏の暑さをのぞけば、I荘は居心地がよく、いい思い出が詰まっている。
 考えてみると、高校時代だけでなく、結婚してしばらくまで、クーラーなんてものはないところで生きていたのだった。これまた考えてみると、大学にもクーラーのない教室は結構あったような気がする(記憶が定かではないが)。数年前に学会でいった京都大学では、大教室にもクーラーがなく、学会の受付で参加者にうちわが配られていた。そもそも、私たちの実家である母親のお腹の中にも、クーラーはなかったはずで、ちゃぷちゃぷ温水につかっていたのだ。体温と日々競っているような気温が続くが、実家に帰ったと思って、ちゃぷちゃぷ生きていくことにしよう。






  2001/7/23(Mon) <高校生のような夏>

 退行しているのか、この夏は高校生のような生活を送っている。日曜日は、炎天下の中、野球の練習。村山校舎の野球場(硬式野球部が使っている本格的なもの)で4人でやったので、かなりへばった。練習時間3時間半。途中まで身体が暑くなっていたが、途中から鳥肌が立って、身体が寒くなりはじめ、これはヤバイと思った。ちょうどオーバーヒートした車が、オーバーヒートを超えて、動かなくなったような感じだった。しかしながら、練習が終わって、シャワーを浴びたあと、身体はかなりご機嫌になった。身体を使って、自分の限界まで挑戦してみることは、爽やかなことだ。この爽やかさが、人々がイチローや新庄、中田を応援する一つの理由だろう。応援するのもまた楽しいが、自分がやってみるとこれまた楽しい。結果は、素質などもあって、思った通りに行くとは限らないが、やるだけのことはやり尽くしたという爽快感は、自分の存在を根底から認める自信につながる。高校生にばかり青春を追い求める楽しみを独占させていないで、大人たちもそれぞれの場所で自分を鍛え上げる楽しみをもてるならば、一人ひとりが輝き、社会全体ももっと活気づくように思われるのである。いよいよ暑い夏だ。






  2001/7/21(Sat) <プロジェクトXその後>

 7月18日付のDailyたまのさんぽみち「プロジェクトX」に対して、読者の反論をいただいたので、紹介したい。

 「ちょっと待って!最近、余計なお節介がなさ過ぎるんじゃないですか?
 また、アウトサイダーだから、ヒーローに憧れるんじゃないの?夢と希望を奪い去られたサラリーマンに、頑張れば自分ももしかしたら・・・って、単純に夢を与えていいのではないですか?
 但し、最近はマンネリ化し無理矢理という点は否めませんが。 でも、初期の頃のプロジェクトXは、私はよかったと思います。 青函トンネルを作った男達の物語や、窓際から生まれたVHS とか。
 特に青函トンネルの時は、まず町を作るところからプロジェクト が始まり、本州最北端の強風の中、作った社宅の屋根が吹き 飛ばされたり壁が飛ばされたり、また何にもないところから町が 出来ていく過程を婦人達の視点で捉えたり。良かったです。
 余計なお節介とか、頼んだ覚えないとか、そういう行為に偏見を 覚えることこそ平準化を益々進行させているように思えます。…」

 う〜ん、「余計なお節介」云々というのは、他人のありようにかかわりをもたなくなった人が増えたという意味では、同感である。しかしながら、私が7/18付のコラムで書いたのは、(1)私がみた「プロジェクトX」のある番組に限定したもので、(2)「プロジェクトX」で事実わい曲があったというニュースと絡めて、(3)「プロジェクトX」が大きな物語(日本人に誇りをもたせようという意図とともにある)にとりこまれつつあるのではないかという論であった。したがって、「初期の頃のプロジェクトX」はよかったという情報は、不勉強な私に、新しい情報を与えてくれたわけだが、「余計なお節介」云々は、このコラムに対する批判というよりももう一つの問題提起として受けとめることができる。

 「余計なお節介」について考えるために一つ例を挙げたい。児童虐待の話である。私たちは児童虐待のニュースを聞くと、ほんとうに何ともいえないような気持ちに襲われる。きっと多くの人が同じような気持ちを抱くだろう。犠牲者は、私にとっては、姪や甥と同じぐらいの子どもたち、ほんとうにちっこいし、おとなに頼らないと生きていけない子たちだ。こんな子どもたちが、「しつけ」という名の不当な暴力で殺されていく。何という不条理。児童虐待の報道の中には、上の2人の子が不可思議な死に方をしていたのに、3番目の子がひどい暴力を受けるまで、何ら介入ができなかったという事件もあった(この事件では容疑者は容疑を否認している)。こうした悲劇は、「余計なお節介」を排除していった私たちの社会と大きなかかわりがあるように思われる。
 はたして、子育ては、わたくしごとなのだろうか、それとも、おおやけごとなのだろうか。子どもたちが実際には家庭をはじめとする親密圏で育てられるという意味では、わたしくごとであるといえるだろう。だが子どもたちを、家庭だけで育てることは不可能である。さまざまな他者の影響を受けながら、人は育っていく。また、子どもたちは次の時代の担い手であり、わたしたちの社会を背負って立つ存在である。このことからも、子育ては、必然的におおやけごと(一家庭の問題ではなく、社会全体の問題)であるといえるだろう。
 私たちが生きている今という時代は、子育て(あるいは人が育つということ)があたかもわたくしごとであるかのような幻想が覆っている。この幻想はあまりにも強く、松崎菊也のようなスキンヘッドの頑固オヤジが個人的に若者たちをどなりちらしても(私個人としてはすごいことだと思うが)、なかなかこわれそうにない。
 しかしながら、人間は本来的に他者との出会いを通して、自分を見つめ、また高めていくものであり、今の子どもたち(若者たち)も決して例外ではなく、つながりを求めている。おとなとことばを交わし、自分自身を確認したがっている。これは私の経験からもそう思う。そうでなければ、ゼミ合宿に36人もやってくるわけがないのだ。
 そういう意味で、私たちおとなは「余計なお節介」をおそれてはいけないのだと思う。ただ、そこまで押さえた上で、人の育ちを支える「余計なお節介」とは、自分の物語に相手を巻き込む(現実には否応なく巻き込まれるものだが)だけではなく、相手の物語を耳を澄まし、自分を変えていく回路をもつ必要があるのだと、私は考えている。そういう意味で、私は、私がみた「プロジェクトX」の番組の物語を、すんなりと受け入れることはできなかったのである。またあの企画が「国策としての中東における油田開発」を扱っており、同じ時代に、石炭産業における苛酷な合理化が進行していたことを知る者として、「プロジェクトX」が提供する物語に簡単に組みすることはできなかったということを、つけ加えておきたい。
 貴重なコメントを十分に受けとめることができなかったかもしれないが、「余計なお節介」という一つのことばにしても、これをきちんと論じることは、力量が求められるものだ。今後、宿題としてポケットに入れておきたい。

 追記:自分としては結構力を入れて、納得のいく文章が出来上がったのだが、セーブのとき、どこかに飛んでしまい、書き直すハメになった。気力の回復を待っていたが、初稿ほどきちんと書けなかった。残念。






  2001/7/20(Fri) <なぜ7/20は祝日なのか?>

 今日、7月20日は祝日である。「海の日」というらしい。最近、国会議員によって、勝手に成人の日やら体育の日やらが月曜日にされたりして、あまりの勝手さに呆れ返るのであるが(学校では月曜日の休講が多くなるなどのアンバランスが生まれるのだ)、この「海の日」というのも、私はすかん(好きでない)のである。せめて、7月20日ではなく、6月20日ならば、もろ手をあげて歓迎するところだが、学校にかかわる人間としては、夏休みと区別がつかない7月20日の休みにはほとんどメリットはない。
 さてさて、いつもの小学館の百科事典によれば、「この日はもともと、明治天皇が「明治丸」で東北を巡幸し横浜港に帰港した日で、従来から、海運の存在を知ってもらうための「海の記念日」とされていた。制定の主旨は「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」というもの」とある。ふ〜ん、これを読んでいるかぎりでは、「海の日」の意味もようわからんし、さらには「海の日」を7月20日にこだわらねばならない理由だってようわからん。「成人の日」や「体育の日」の日にちを勝手に変えてもいいのであれば、「海の日」だって勝手に日を変えたらいいのである。
 6月に休みを入れてくれたら、リフレッシュもできて、洗濯もできて、きっと多くの人々にとってメリットが大きいだろう。これまた冬休みとの区別がつかない天皇誕生日を、6月に移してほしいものだ。天皇受胎記念日とか(計算が合わないか)、天皇出生半年前記念日(ちょうどよい)とか、名前を変えて。アホなことをぼやきながら、カレンダーと人生がズレている私は、今日も研究室に来ている。最近、ぼやきすぎか?また明日!






  2001/7/19(Thu) <カノープス>

 カノープスとは、りゅうこつ座のα(アルファ)星。カノープスとはギリシア語からきたラテン名で、トロイ戦争に参加した艦隊の水先案内の名である。天球上の位置は、赤経6時24分、赤緯マイナス52度41分のため、日本では地平線に赤く見える天体であるが、赤道や南太平洋上では青白く見える。以上、小学館百科事典スーパー・ニッポニカより引用。
 カノープスは、シリウスに次いで地球からみると2番目に明るい恒星であるが、パソコンの世界にも、カノープスという輝ける星がある。Canopusは、画面表示をコンロトールするビデオ・カード等を制作しているメーカーである。Canopusの製品は、他社の製品より総じて高価だが、信頼性が高いので、自作パソコンユーザーには大人気である。この私も、ビデオ・カードはCanopus製を使っているし、DV(デジタルビデオ)の編集にもCanopusのDVRaptor(宮崎駿の『天空の城ラピュタ』と同じ意味か?辞書で調べてみたらラピュタは「歓喜・恍惚」とあった。DVを編集しつつ恍惚にふけるのか?)を使っている。DVRaptorは、これまでの専用編集機だったらおそらく100万円ではきかないだろうと思われる編集システムを要した機能を、わずか数万円で可能にするボードとソフトである。よしよし、これで私の教材づくりは完璧だと思ったが、ビデオ編集は結構時間がかかるので、遅々として進んでいない。やっぱりいくらシステムを揃えても、人間がきちんとした構想と時間をかけてかかわっていかないと、何もできないのである。当然ながら。
 これはさておき、DVPaptorはすぐれたシステムなのだが、ちょっとした不満があった。それはDVの映像を取り込むことはできるのだが、VHSや8mmなどのアナログの映像を取り込むことができないのである。しかし、CanopusからAnalog Capture Kitなるものが販売されていて、\9800でアナログの映像を取り込むためのソフトを購入することができることを知った。さて、このキットを買って、アナログ映像を取り込もうと思った私は、インターネットでこのキットの性能について体験談を探しはじめた。すると、あるページに、このソフトはアメリカのCanopusのサイトから無料でダウンロードできると書いてあるではないか。ほとんど性能にかわりはないらしい。「えっ」と思いつつ、タダならとダウンロードして試してみた。すると、ものの見事にアナログ映像の取り込みに成功したではないか。さらにビデオデッキとつなぐとTVまでパソコン画面で観ることができるようになった。
 アナログ取り込みに成功した喜びとともに、これはおかしいという思いも沸いてきた。アメリカ人にただであげるのなら、わしらにもただでくれよ。これは、まさにわたしら日本の消費者がなめられているということだ。なめたらあかんぜよ!選挙だってそうだ。3月までケー・エス・デー(なんでDがデーなのだ。こんなことやっているからいつまで経っても日本人は英語ができないままなのだ)疑惑とか、大騒ぎしていたのに、小泉登場とともに、すべては忘却の彼方に追いやられる。なめられたらあかんぜよ!飼い慣らされたらあかんぜよ!






  2001/7/18(Wed) <プロジェクトX>

 NHKのドキュメンタリで人気を誇っている「プロジェクトX」。この「プロジェクトX」で事実わい曲があり、NHKが謝罪したというニュースが“夕刊フジ”にあった。ちょっと前、東京経済大学にも「プロジェクトX」の制作チームがやってきて、講演会が開かれたことがある。そこに出席した学生によると、「いい話が聞けて、すごく感動した」とのことだった。講演会は大盛況だったようである。そういうことならば、ちょっと観てみようと、昨日、この番組を観てみた。昨日の番組は、アラビアで油田を開発した日本の技術者の苦労を描いたものだった。
 番組が進んでいくにつれ、私の中では、違和感のようなものが増大していった。戦後の復興をエンジニアたちが支えていったことはわかる。そして、その上に、今の私たちのくらしがあることもわかる。しかしながら、今の社会が行き詰まっているのは、開発競争、経済競争の結果、環境問題等で私たちのくらしが脅かされているからではないか。戦後のニッポン人たちは、家族も顧みず、こんなにがんばったんだぞというストーリーは、作る会の歴史教科書と同じように、閉ざされた中・高年の癒しでしかないのではないか。
 私が観た「プロジェクトX」では、「男たちは」「男たちは」というナレーションが連呼されていた。男だけが歴史を作ったのではあるまい。男たちの向こうにいる女たち、子どもたちは、どういう戦後を生きていたのか。生かされていたのか。「男たち」の物語でオーディエンス(聴衆)の期待に応えようとすればするほど、そこに事実のわい曲が生まれるのは、必然的なことである。「男たち」を際立たせ、ヒーローにするために、いろいろな劇的な仕掛けが必要になる。
 別に、「男たち」のヒロイズムに満ちた物語がなくても、私たちは誇りをもてないことはない。誇りは一人ひとりが自分の生き方を見つめ、自分の日々の歩みの中で積み上げていくものである。人の誇りを肩代わりしてやろうとするのは、おせっかいに過ぎず、大きな物語がなければ誇りをもてないというのは、誇りのなさの裏返しなのだろう。「プロジェクトX」のスタッフたちは、出世コースに乗った人々ではなく、アウトサイダーの集まりだったと聞いたことがある。もしそうであるのなら、「プロジェクトX」のスタッフには、人々に誇りを与えるといった変な使命感からの仕事でなく、アウトサイダーとして自分の誇りをかけた仕事をしていただきたいと思うのである。






  2001/7/17(Tue) <深夜のファミレス>

 昨晩、12時過ぎ、ファミレスで遅くなった夕食をとった。小金井街道沿いのファミレスの営業時間を眺めていたら、午前5時までとか、午前2時までとか、どこもかしこもがんばっている。12時までというのは「えっ早い」と感じるくらいだ。私の生まれ育った町では、8時になるともう繁華街の灯りが消える。8時になると暗くなる繁華街なんて、ことばが矛盾している。もと繁華街というべきか。この一方で、東京の外食産業は、ほとんど灯りが消えることがない。
 私にとっては、12時過ぎてもちゃんとした食事ができるということはありがたい。しかし、働いている人たちにとっては大変である。12時過ぎに高校生を働かせるわけにもいかないから、結構年輩の人たちが働いている。その人たちには家族がいるだろうし、あるいは小さな子どもがいるかもしれない。私にとっては快適だけれども、その人や家族にとっては決して快適ではない。つまり、快適さを生み出すために不快が生じている。さらに、問題なのは、この快適さがほんとうに必要なものなのかということである。
 1960年代からみると、くらしはほんとうに快適になった。お風呂もガスでワンタッチで沸くし、温度一定のシャワーだってある。昔のお風呂は、上と下とで熱さが違い、温度をコントロールするのが難しかった。トイレも臭わないし、ウォッシュレットで快適だ。だけど、あるときから商品は必要を追い越してしまった。必要を商品が追いかけているとき、そこには夢がある。初期のパソコンなど、まさしくそうだった。てんで話にならない日本語変換や改行のボタンを押すとお茶を一服してからようやく文章が動き出すような状態から、機械がこちらの考えるスピードに追いついたときの感動は、たまらないものだった。しかし、商品に必要がせきたてられるようになると、せちがらくなった。必要もないヴァージョンアップにそわそわさせられ、必要を十分満たしているのに巧妙に時代から取り残されていく孤独感を味わわされ、必要もないものに手を出すという際限のない繰り返し。
 結局のところ、携帯が進化しても、インターネットのブロードバント時代が到来しても、究極の楽しみは、ひたすら人と語り合い、自分の中の物語を豊かにして、人とともに自分自身をヴァージョンアップしていくことのような気がしている。今、私が仕事に使っているパソコンは、SOTECのWinbookBird133G(愛称とりさん)で、CPUはペンティアムの133メガヘルツである。使いはじめて5年目になるが、画面は見やすいし、キーボードは打ちやすいし、何不自由ない。OSはいまだにWindows95だが、これもたいした問題はない。ワープロソフトは一太郎の9、エディタはWZの3、どちらもヴァージョンアップしているが、どこまで進化しているのか知らない。ちなみに、一太郎はDOS版の5が一番よかったと今でも思っている。
 IT革命で問題を先送りしてみても、結局は、自分と他者とを豊かにしていかなければ、外からのヴァージョンアップではほんとうに満たされはしないのである。






  2001/7/16(Mon) <熱中病>

 仕事に熱中して病気になったというのなら格好もつくけれども、昨日の炎天下の中、野球の練習をしたおかげで、未だに頭がクラクラくる。ちょうど日干しになった昆布のように、頭が干からびてしまっていて、頭が回転しない状況に陥っている。水分を補給しながら、干からびた頭を少しずつ戻しているところであるが、とにかくこの夏の熱中病にはご用心である。
 土曜日から日曜日にかけて、武蔵村山にてゼミ合宿を行った。午後1時から午前5時までほぼ休憩なしに、議論を続けた。また、相変わらず学生たちから「覚悟はあるのか」と、私のへっぴり腰ぶりに釘をさされ、夜なのに熱中病になりそうな勢いだった。いつの時代にも、こちらの背筋がピンと伸ばされるような人々がいるものだ。これは年上、年下、関係がない。毎年、毎年、乗り越えなければいけない自分がそこにいる。また、それを気づかせてくれるような出会いがある。つらいけれど、面白いものだ。






  2001/7/13(Fri) <やっぱり梅雨明け>

 相変わらずしつこいのだが、梅雨明け(宣言)翌日の昨日は、埼玉県の鳩山町で39度を超えるという猛暑だったらしい。東京でも35度を超えたということで、結構いいタイミングの梅雨明け宣言だったということがいえる。いつもなら庭の草がぼうぼう茂って、手に負えなくなる季節だが(集合住宅だが一階なので小さな庭がある)、あまりの暑さと雨のなさで、草はもう力尽きようとしている。また、いつもなら蚊が大量発生して(小さな庭の向こうには大きな森が控えている)、庭に出ることは危険を伴う季節だが、今年は蚊もへばっているのか、安全地帯となっている。蚊もへばる中で、人間だけがせっせと働いている。クーラーが出来て、言い訳もできなくなった。ああ、無情。






  2001/7/12(Thu) <あたり前のこと>

 梅雨も明けて、前期も明けた。まだいろいろと後始末が残っているけれども、とにかく完走するだけでもうれしいものだ。守りに入るわけでは決してないが、大過なくあたり前のことをあたり前にやるということだけでも、ほんとうに大変なことだ。どちらかというと、あたり前のゴロをきちんとさばくことより、一発芸のファインプレーのほうが好きな私としては、あたり前のことをおろそかにしがちであるが、あたり前のことをあたり前にやるということの向こうには、とても深い職人の世界がある。
 今年ははじめて試験なるものを試みたが、これもあたり前のことをあたり前にやってみようという試みであった。あたり前のことだが、試験をやって採点をやってみないと、大人数講義の先生たちの苦労もわからない。きっと世の中は、あたり前のことが積み重なってできているはずで、このあたり前のことを省略しようとするから、いろいろとおかしくなっているような気がする。さてこれからあたり前の夏を過ごすことにしよう。






  2001/7/11(Wed) <こりゃ夏だ>

 日差しが照りつけている。梅雨明け宣言はまだらしいが、こりゃどこからみても夏だ。梅雨明け宣言がないと、暑中見舞いを書けないというか、勝手に書けばいいのだが、一応、流儀に従うならば、今は梅雨中なので、暑中ではないことになる。しかし、気象庁も我慢強いもので、ここまで来た以上、とことん粘る気でいるようだ。考えてみると、6月末からこの天気、タイミングを逸するのも仕方がないか。気象庁の人々の面子のためにも、私たちの夕涼みのためにも、ここらで一発夕立でもザッと振って、さっと上がって、「さあ、梅雨明け」といきたいものだ。
 夏といえば、オールスター。メジャーリーグ・オールスター、開会セレモニーでは、アメリカ以外から渡ってきてメジャーリーグで活躍した選手たちが5人並んで、始球式をおこなった。顧みて、わがニッポンのプロ野球、どんなに多くの海外出身の選手たちに支えられてきたことだろう。バース、リー兄弟、ブラインアント、ローズ(などなど)、そして今ではカブレラ、ペタジーニ、さらに忘れてはならないのは、張本、新浦、世界の王といった名選手たち。メジャーリーグ・オールスターの1シーンから、なぜ選手たちがアメリカを目指すのか、少しばかりわかったような気がした。

◎追記 こんなことを書いているうちに、関東も梅雨明けしたらしい。案外、気象庁も意固地ではなかったようだ。でも、「7月11日ごろ梅雨明けしたもよう」とニュースにあるけれども、7月10日までと今日でどこがどう変わったのだろう? いじわるだねえ、そんなこと言いなさんな。さて、これから試験の採点、採点。






  2001/7/10(Tue) <あと一歩>

 前期のシーズンも明日を残すだけとなった。大学生とともにスタートした私の大学教員生活も、5年目になると、同じことを反復しているうちに、小難しいことを言うようになり、新たなる課題が浮上してきた。先週、学生に、次週の試験の予告をしたところ、そんなものはできっこないと言われた。あげくのはてに「先生、自分の大学時代のことを思い出して下さい」なんて忠言される始末である。またやってもうたという感じだが、今回はまだやっておらず、実施は明日となる。思い出してみると、へぼな先生というものは、自他の区別がついておらず、自分が一生懸命にやっていること(自分の教科についてよく知っているのは仕事だから当たり前のこと)は、ほかの人間も一生懸命にやるべきだと思い込みがちだったようだ。だから、やたらと難しい問題を出してきた。考えてみると、人間はそれぞれこだわりをもち、打ち込んでいるものがある。それを認め、自分を相対化することができていた先生は、学生に無理な負担を要求せず、意味あることを伝えることに成功していたようだ。
 しかしながら、何をやるにしても最初からうまくいくわけもない。へぼな先生ぶりを発揮して、お互いイヤな思いをするのもまた一つの薬になるかもしれない。






  2001/7/9(Mon) <梅雨明け>

 明け方、家の前の森では、ひぐらしの鳴く声が響き渡るようになった。まだ7月の上旬だが、梅雨の谷間の猛暑がずっと続いている。果たして、梅雨は谷間からもう一度這い上がれるのか。あるいは谷間からなしくずしに酷暑に突入する(している)のか。
 最近、いろんな常識がほんとうにそうか?と問い直されはじめているが、季節感もだいぶ変わっているのではないだろうか。体感では、今や酷暑とは6月後半のイメージだし(この時期に40℃近くの瞬間最高気温を記録することが多い)、IT時代に乗り遅れまいと季節までも急いでいるようだ。しかしながら、考えてみれば、夏至は6月後半にある。そして、最も暑い(はずだった)のは8月。これまで、なぜ暑さは季節にズレてやってくるのか不思議に思っていた。このズレは、地表や海面が温まるのに時間がかかるためと教えられてきたが、最近のコンクリート都市では、瞬間湯沸かし器の原理で(なんのことやら)一瞬にして温まるようである。せわしない時代になってきた。では、また明日。






  2001/7/6(Fri) <金持ち父さん>

 ベストセラーとなっているロバート・キヨサキ氏の『金持ち父さん 貧乏父さん』は面白い本である。あらゆるものを資産と負債という2つの概念にわけ、どちらが自分を豊かにするもので、貧しくするものなのかを、とてもわかりやすく教えてくれている。例えば、普通の人々は、せっせとお金を貯めて、高価な車を買う。そして、資産をもったつもりになる。しかし、キヨサキ氏によれば、これは資産ではなく、負債を抱え込んだだけである。車を買ったおかげで、税金や保険、駐車場代、ガソリン代など多くの経費がかかる。また、ローンを組んで、立派な家を買う。これも普通、資産と見なされる。しかし、キヨサキ氏は、これもまた負債であるという。立派な家は、固定資産税も高い。ソファーも、家具もほしくなる。もちろん、車や家を買うことにより、快適さや心のゆとりといった価値も生まれるわけだし、キヨサキ氏の話に反論も十分可能であるが、何はともあれ、資産と負債という2つの概念で、会計学、簿記のややこしい世界を、一気に説明してくれたのだから、これはすごいと思う。
 さて、お金において資産と負債があるように、言葉においても資産と負債がある。言葉の資産を豊かにもっている人は、言葉でつまずくことがない。一方、言葉の約束手形を乱発していると、とんでもない負債がたまっていき、首がまわらなくなる。言葉の資産とは、一つひとつの言葉、考え方を生み出す根拠(学び、学問、探究、方法論などのことばであらわされるだろう)のことであり、言葉の負債とは、はったりのことである。クレジットカード全盛の時代に、ほんとうのおカネはなくても、とりあえずブランド品を買い物してリッチな気分になれるように、ことばもまやかしのリッチさを演じることはできる。しかし、資産(根拠)がなければ、あとで自分の首をしめることになる。一つの言葉を語ることさえほんとうは難しい。資産を育てていくことを怠っていると、ひどい目に遭うということを、この本を読みながら考えたのだった。






  2001/7/5(Thu) <暑い暑い>

 暑い。どうも近年、気候が変化しつつあるようで、夏休みよりも夏休み前のほうが暑い。暑さで普段から回転の悪い頭が、さらに機能不全に陥っている。今日からラスト1周。回転の鈍い頭に油をさして、ファイト! この夏、いよいよ旧式の頭脳が限界に来て、修理工場に出す予定。ではまた。






  2001/7/4(Wed) <見通し>

 週末、学生たちと野球をして汗を流した。相変わらず見通しが甘く、15分ぐらいで着くかと思っていた野球場まで、35分ぐらいかかり、始まる前からへばってしまったが、一人で歩いて周りに迷惑をかけなかったことは幸いだった。小さかったときに、もっと小さかった妹を連れて遊園地に出かけ、バス停まであとちょっとと言いながら、1時間以上歩かせた前科の持ち主である。私の見通しは、要注意である。
 さて、野球はともかく、野球のあと、食事をしながら、学生たちから教育実習講義やゼミナールのありようについてのレクチャーを受け、有意義な時間になった。なぜだか、一緒に身体を動かしたあとは、肚を割った話ができるものであり、思考も活性化する。宿痾(しゅくあ)のような見通しの甘さをもつ私にとって、学生の意見は、自らの見通しを検証し、修正する貴重な薬であり、まさに有り難いものである。学生たちが、それぞれに生き方、考え方は違うにしろ、互いに認め合い、自分を大きく育てている姿に出会うと、ほんとうに教えられる。世の中には、いろんな人たちがいるけれども、老若男女を問わず、まっとうな考え方をする人に出会うと、背筋がピンと伸ばされる。こうした出会いがあることが、自閉的な私が、何とかこれまで仕事につながっている理由なのかもしれない。






  2001/6/30(Sat) <挨拶>

 私は古いタイプの人間で、挨拶は大切なことだと思っている。サッカーの中田選手や大リーグのイチロー選手のような卓越した実力をもつ人々にとっては、挨拶抜きで、いきなりキラーパスを決め、スーパープレーを演じれば十分なのかもしれないが、凡庸な私たちのような人間にとって、挨拶はとても大切なコミュニケーション・ツールであると思う。(中田選手やイチロー選手にしても、ぶっきらぼうに見えるのは、卓越した選手の厳しい孤独、そこから生まれるプレーの質を理解しないで、場当たり的に大騒ぎする日本のマスコミに対して、自らを守っているからであり、彼らも決して挨拶をないがしろにしている人々ではないと思う。そして、彼らの表層だけを真似て、中身もない癖に、ただぶっきらぼうでしかない人々が、私は大嫌いである。)
 さて、本日(6/29)、東京経済大学で関東の私学教職課程の事務担当者の懇親会(研究会)というものが開かれた。そこで本学学長、そして教職課程の先輩の先生の挨拶をされたわけだが、私はお二人の挨拶をさすがと思った。学長の挨拶は、ホスト校としての配慮に満ちていたし、教職課程の先輩の先生の挨拶は、人柄から滲み出る謙虚さが聴いている人々にしみわたるような内容だった。訪問者にとって、一期一会の挨拶は、その学校がどんな学校であるのかを判断するほぼ唯一の機会である。私も仕事柄、いろんな学校を巡回するけれども、かなりの確率で、挨拶がなっていない学校は、学校としての内実を伴っていないし、形式ではなくその学校らしさが感じられる挨拶と出会える学校は、質の高い教育実践が行われているように思う。これは「オアシス運動」や「挨拶をしましょう」というような形式的なものではなく、教育活動の一つひとつに目配りがいき、教員相互のコミュニケーションができている学校では、自然と生まれるものなのである。
 「人は外見じゃない、中身だ」みたいな考え方が、とても安易なかたちではびこり、自分が勝手に思い込んでいる肥大化した自己の中身を見てもらえないと苛立つような人々が増えている。私は、これは一種の甘えだと思う。誤解を招くかもしれないが、やっぱり「人は外見」なのだ。もちろん、私が言っていることは、学校の校則のようなレベルではない。誰だって、自分の好きな外見を演じる自由をもっている。しかし、その自由にはリスクが伴うということを認識しなければならない。わざわざ頭の毛を逆立てていれば、その人は、怖い奴、言うことを聞かない奴、攻撃的な奴と思われる。トサカをいからせたにわとりが好戦的なのと同じだ。そうであるから、頭の毛を逆立てるならば、「ほんとうはボクちゃんは小心者なのよ、ほんとうはボクちゃんは傷つきやすいのよ、なんでわかってくれないの」なんて思っている場合ではないのだ。
 話が流れてしまいそうなので、もとに戻すと、たかが挨拶と考えるか、されど挨拶と考えるか。型をバカにする文化と、型を練り上げていくことを求める文化と、どちらが豊かな文化につながるのか。これはもう、私の中では決着がついている。






  2001/6/29(Fri) <浅い眠り>

 突然であるが、今年になって、イライラすることが多くなっていけない。学生の発表、レジュメの作り方、あまりにもなっていないので、はらわたが煮えくり返る。つたないことは仕方がないと思っている。しかし、つたないにもかかわらず学ぶ謙虚さも感じられないと、はらわたがくつくつと煮えたぎるのだ。
 昨年まで、こんなことはなかったので、学生が変わったのか、それとも、オレが変わったのか、いろいろ考えてみた。考えてみれば、つたないにもかかわらず学ぶ謙虚さのない学生なんて、昔からたくさんいたはずである。世間を見渡してみれば、そのような人々にあふれているではないか。私も十分、その要件を満たす学生として、先生方を憤激させていたはずである。
 となると、自分が変わったとしか考えようがない。最初の4年間の学生たちとは、同じ問題をひたすら一緒に考え、学ぶことによって生きてきた。この間、はらわたが煮え返る暇などなかった。まわりをみる余裕もなく、自分に突きつけられた問題を考えることだけで精一杯だった。2周目に入った今、自覚的な方法論を確立していかないと、仕事が成り立たなくなっている。
 そういうことを考えていたら、煮えくり返ったはらわたが早朝4時に私を起こし、寝て仕事をしてばかりいないで起きて仕事をしなさいとせかしたのであった。また明日。






  2001/6/28(Thu) <睡眠しごと>

 先日の平田オリザの「分かり合えない」話を、講義のプリントして配布し、本人としてはわかりやすいつもりで、説明したところ、学生たちは「ムズカシすぎてわからなかった」らしい。考えてみれば、「分かり合えない」話をネタに「分かり合おう」ともくろんだ私の魂胆があまりにもせこかった。相変わらずである。
 最近、暑さのせいか、挨拶する人々、「暑くて眠れません」と異口同音におっしゃるのだが、その中で、私は床に就くなり、バタンキューである。そして、眠りながらすごい勢いで仕事をしている。仕事の夢ばかり見るのだ。おかげで、起きているときはボケッとしているようだ。いや、起きているときにあまりに仕事をしていないから、夢で仕事をすることで補っているのか。卵が先か、にわとりが先か、わからないが、蒸し暑い夜の、昼夜逆転現象である。ときには、起きているときに仕事をしたい。






  2001/6/27(Wed) <わかりあえない>

 月曜日の毎日新聞・夕刊に、劇作家・平田オリザの文章が載っていた。安易な「表現教育」の流行に警告を鳴らし、「分かり合えない」という絶望を突きつけられてはじめて、表現への旅が出発するという論旨だった。
 「分かり合える」はずだというところから出発する構えと、そう簡単には「分かり合えない」というところから出発する構えは、大きな違いをもっている。今まで私たちの社会は、同じ日本人同士「分かり合える」はずだという幻想をなんとなくもちながらやってきた。これは右も左も、自民党も労働組合も同じだっただろう。
 昨晩、渋谷から帰ってきた同居人は、あそこは異星人の街だと言っていた。六本木は外国人が多いが、まだ同じ人間同士だという感覚がもてるという。しかし、渋谷を徘徊する若者たちは、もはや異星人としてしか感じられないのだそうだ。おそらく、あちらから見れば、渋谷へ行って劇を観て帰っていくような人間こそ、異星人なのだろう。同じように、本を読まないで教師を目指そうとする若者は、私にとってスーパーマンであると感じるが、本に埋もれて息も絶え絶えになっている私こそ、彼らにとってエイリアンのようなものだろう。
 「分かり合える」はずだという温室にいた者にとって、「分かり合えない」という現実を見るのはつらい。しかし、平田オリザは次のように言っている。「人は一人ひとり、異なる価値観を持ち、異なる生活習慣を持ち、異なる言葉を話しているということを、痛みを伴う形で記憶している者だけが、本当の表現の領域に踏み込めるのだ」。「分かり合えない」時代の到来は、一人ひとりが表現者として立つことを厳しく求めている。






  2001/6/25(Mon) <福岡>

 週末、校用で福岡に行っており、たまのさんぽみちの更新を休んでいた。飛行機であっという間に福岡に着き、地下鉄に乗り込むと、ほとんど東京と違いは感じられない。ただ、「アンアン」のつり革広告を見ながら、エルメス銀座店に勤めたいとしゃべっている、男の子2人組の方言だけが、福岡を感じさせたけれども、ここしばらくの間で、均質な風土が日本中を覆ったような気がする。
 ちょっと前に、長野に行ったときも、そこの居酒屋のお薦めは、千葉・銚子から直送の(名前は忘れたが)ある魚だった。もはや地方の特産品など、幻想でしかないようだ。ただ、福岡から東京に戻ると、やっぱり東京は違うと思う。とくに深夜の東京は雑多なものが混ざり合っている。東京はアジアなのだ。ヘンな話だが、スタンダードであると思われている東京に地域のカラーがあり、地方都市のカラーが白く塗りつぶされているように感じた。
 福岡では、タクシーの運転手さんに「街がきれいになりましたね」と話しかけたところ、「街はきれいになっても、(人の)中身は何も変わっとらんですよ」ということばが返ってきた。街の厚化粧をはがしたところにある、人々の中身とは一体どんなものであろうか?
 それでは、また。






  2001/6/21(Thu) <真相>

 エアコンをつけた途端に、走りが悪くなった黄色いトッポ君だが、少しずつエアコン運転に慣らしているうちに、ちょっとずつ走りが向上している。う〜ん、人間だけでなく、自動車も、少しずつ経験を重ねて、慣れさせていくことが大事のようである。ムリにエアコン全開ではなく、「弱(レベル1)」から始めたことがよかったようだ。ヴィゴツキーの発達の最近接領域ではないが、ちょっとずつできるところから進んでいかないといけない。
 エアコンの効かない車に乗っていたら、ふと10年前のことを思い出した。大学院で佐藤研究室に入り、夏合宿で奥多摩に行ったときのことだ。今では考えられないことだが、あの頃は、院生が3人しかおらず、佐藤先生の車に乗せてもらって、東京を出発した。じりじりと照りつける日差し、後部座席に座っていた私と先輩は、この暑さが尋常ではないことに気づきつつあった。先生の車ということで我慢していたが、それにしても暑い。ふと天井からぶらさがっていた温度計をみたところ、なんと50度を超えているではないか!暑いはずだ。とうとう堪忍袋の緒が切れた私は、「暑いです。エアコンつけて下さい!」と注文をつけた。佐藤先生は、「いや、たばこを吸っているから、窓をしめたら悪いと思って」とおっしゃっていたが、10年経った今、ようやくあのときの謎が解けたような気がしている。
 夏の暑い日、4人乗せて、奥多摩に向かう道では、あの佐藤先生の車にエアコンをつけることは不可能だったのだ。あのときの佐藤先生の車は、三重におられたときに、県内の学校をまわり続けたため、いかにもすり減っており、ゼイゼイと肩から息をしていた。まるで、今の私の黄色いトッポ君状態だったのだ。不肖の弟子は、そういう師匠の苦労も知らずに、後部座席から文句をたれていたというわけだ。10年経って、はじめてわかることもある。息を長く生きていきたいものだ。






  2001/6/20(Wed) <魔法>

 学生たちの要望もあり、講義で教育実習生に話をしてもらった。いつものように、実習の直後の話は迫力があり、またいつものように「これまでの授業で一番よかった」というほめ言葉なのか、お叱りなのか、わからないような感想があった。若い人たちが、ほんきで子どもたちに向かっていくと、どうしてあのような生き生きした学び合いが生まれるのだろう。今年も、教育実習の魔法にとらえられた学生が出たようだ。それは危険な危険な魔法である。そして、それも一つの人生である。






  2001/6/18(Mon) <開かれた学校・その後−長文注意!!−>

 いつの間にやら、6月も後半に入った。そろそろ一年中で最も日が長い夏至だ。人生でいえば、夏至とは30代後半ぐらいだろうか。10代だった頃、30代なんてどんなおじさんだろうかと思った。しかし、自分が30代になってみると、はなはだ心許ないのだ。10代だった頃、30代になれば、人生のレールはほぼ敷かれるのではないかと思っていた。ところが、自分が30代になってみると、もうプロ野球の選手にはなれないというように可能性の幅が狭まっていることはたしかだが(プロ野球の選手への道は10代の頃から閉ざされていたが)、決して人生のレールは敷かれていないことを悟った。人生のレールなんて、あとから振り返ってみると一つの軌跡として見えるだけで、先にはただ茫漠とした原野が広がっているだけだ。夏至まであとわずか、淡々と一歩一歩を重ねたい。
 さて、「開かれた学校」について、たまのさんぽみちの読者から待望のコメントがやってきた。それがかなり鋭いのだ。まさにスーパー読者にたじたじといった感じだが、誰かなんか言ってくれないかなと思っていたところだけに、嬉しいコメントだった。この方との対話のなかで、私の舌足らずな物言いが少しずつはっきりしてきたので、「開かれた学校・その後」ということで掲載したい。


 「高井良さん、こんばんわ〜♪
 ええっと、今夜は珍しく!(詳細に言うならばウオッシュレット以来) 超久々にたまの散歩道を拝読致しました。 それは、大阪の事件が四歳の子供を持つ母としてはあまりにショッキ ングだったからです。対岸の火事どころではありません。
 んで、拝読していて思ったのですが、(因みに6月13日は私のバース デー<関係ない!)本当に学校って実質閉ざされている?
 私は、いわゆる港北ニュータウンと呼ばれる街に現在住んでおり、 よーーくテレビドラマにも登場するようないわば綺麗な新しい街なんです。 ドラマ「クイズ」「ストロベリーオンザショートケーキ」などなど。 で、その街で我が子、Y(息子さん、仮名にしました)が数年後入学予定の小学校は、前述の 「クイズ」のロケ現場になったとこですが、非常に新しい試みをしています。
 そのひとつに、運動会。 徒競走に備えるべく、事前にタイムを計り同じレベルの子供達を同時に 走らせ競わせるやり方です。 コンプレックス生産の観点からして、これは果たして正解でしょうか??? また、コンプレックスはマイナス方向だけに作用するとは思えません。
 それと、家庭イコール密室、故に虐待、、、と言うのは、あまりに短絡的では ないでしょうか?
 私もマンションの一室で子供とほぼ母子家庭のような生活を送っております。 主人は当日に帰って来ることはなく、また出張が多いのでそうなのです。
 私はむしろ、社会に問題があると考えます。 それは、無論歴史を含めてです。(三池だけじゃないです) 密室で育児している若いお母さん達は、恐らくみんな孤独です。 私は、年も年だし、興味があることが女離れしてるところから 非常に稀な母親だと思います。自慢ではありません。
 私は、他人の子供と比較しながら育児するのが嫌でした。 よって、Yはいろいろな遅れがあると思いますし、現実そうです。 目下幼稚園年中さんですが、それこそ担任によってこれほど 子供の目の輝きが違うのかと驚いている現状です。 子供のコンプレックスは非常に複雑です。 競わせていいところ、フォローすべきところ、傷ついていいところ、 いけないところ。
 最近の小学生は、公園でよく目にしますが、非常に粗暴です。 ハッキリ言って、思いやりに欠けている。 果たして、学校はどうあるべきか???
 これは、私自身の課題であります。 垣根の高さは、ある程度必要であり、ある程度不要だと考えます。 その境界線自体が、今後の教育のあり方ではないでしょうか?
 あら〜、カッチョイイこと言ったかもーーー? そろそろ本来のお勉強(?)に戻ります。 お気を悪くされませんように。 でわ〜♪」


 このメールに対する私の返事
 「こんばんわ
 メール、ありがとうございます。
 コメントをいただけると、とてもうれしいです。 とくにご批判は、私にとってすっごくありがたいのです。
 で、学校はやはり閉ざされていると思います、全体として。 そして、少しずつ開いていこうとした時期での事件だったので、 あれでやっぱり閉ざさなくてはという話になったらよくないと 思って、あの文章を書きました。
 それからコンプレックスと運動会について。これもいろんな 人からよく言われることなのですが(運動会の徒競走で順位を つけないというのはおかしいのではないかと)、私は運動会の 徒競走で順位をつけるとコンプレックスが生まれるからよくない と言っているわけではないのです。
 私が言いたいのは、こういうことです。
 運動能力や学業成績において個々の子どもたちに歴然とした差がある ことは否めないことです。しかし、教育というのは、個々の子どもたちが もって生まれた能力を、ただ1つの物差しで評価するというものでは ないと思います。つまり、教師が教育の専門家として、子どもたちと その親、そして社会に責任を負っているとしたら、ただ彼らの生来の 能力を評価するのではなく、多様な物差しによってそれぞれの長所を 伸ばし、弱点をカバーする力を育てていく必要があるのではないかと 私は考えているのです。
 だから、安易に運動会で競わせるだけで、技術的なコーチングも行わず、 子どもたちにだた意味のない優越感とコンプレックスを与えるような 営みを教育とは思わないし、同様に、安易に運動会で順位をつけない ことで個々の子どもたちの差を隠蔽し、隠蔽するがゆえにそのような 能力の差へのこだわりを増幅させるような営みも教育とは思いません。 最終的には、一人ひとりの人間にはそれぞれの能力において違いがある ことを冷徹に見据えた上で、他者との比較だけではなく、自分を大切にし、 育てていけるような人間を育てたいというのが、私の考えです。

 それから「家庭イコール密室、故に虐待、、、と言うのは、あまりに短絡的では ないでしょうか?」というところについてですが、 決して短絡的ではないと考えています。母親だけが子どもの教育に 責任をもたなくてはならないという状況は、大正時代に都市部の 中産階級において現出したきわめて特殊な状況でした。
 これがほとんどの地域、階層にひろがっているのが現在の状況だと 思います。長屋住まいだった時代には、夫婦喧嘩は外まで聞こえましたし、 実際に奥さんは外に出て、夫がいかにひどいのかを訴えました。 また、子どもを叱る声も隣などに漏れていきます。そういう中で、 まさに社会が、そして地域が子どもたちに責任をもち、その網の目の 中で子どもたちは育っていきました。
 こうした網の目が(これぞほんらいのセーフティネットですね)どのように して壊されていったのか。この問題を解く鍵の1つが、三池争議にあると 私は考えているのです。
舌足らずなところがあって、いろいろと失礼いたしました。 まだまだ納得がいかないということがあれば、お願いいたします。」


 この私の返事に対するお返事

 「高井良さん、こんにちわ〜♪
 > 最終的には、一人ひとりの人間にはそれぞれの能力において違いがある ことを冷徹に見据えた上で、他者との比較だけではなく、自分を大切にし、 育てていけるような人間を育てたいというのが、私の考えです。

 はい! まさにそのとおりだと思います。 教育者の全ての方々が、高井良さんのようにお考えになってくだされば どれほど良いことでしょう。。。
 先日お話いたしました通り、Yはまだ幼稚園年中さんなのですが、 Yの通っている幼稚園は、七田式フラッシュ導入してたり、割と 意欲的な園です。
 私は、ただただ家から歩いて行けるので、そこに決めただけなんですが。
 で、その園で、年少の担任の先生は非常に厳しい先生で、入園当初より 他のお子さんと比べて、よく「Y君は、なになにが出来ないのでー」 って、電話頂きました。正直ちょっと慌てた面もあったけど、それでも 私も頑固な一面があり、いつかできるようになるわよーって思ってた。 ただ、給食が食べれないので、その事で先生からマンツーマンの指導を 受けることに。。。(二度ほどありましたね)
 これは、ハッキリ言って、逆効果そのものでした。 毎晩ベッドに横になると、「明日先生給食食べないとまたおこるー?」って 聞くようになったんです。
 また、元は給食のことだけだったのに、全てのことに関し、例えば折り紙 が出来なくても、また先生から居残りさせられるんじゃないかと萎縮して しまったんですね。
 三、四才児のことで、教育問題の範疇に入らないかも知れませんが、 この四月から年中になって、担任が変わりYは生まれ変わりました。

> こうした網の目が(これぞほんらいのセーフティネットですね)どのように して壊されていったのか。この問題を解く鍵の1つが、三池争議にあると 私は考えているのです。
 これは、家庭イコール密室、故に、、、の話でした。 う〜〜〜ん。。。確かにその虐待などの行為が行いやすくなるという 点は否めませんし、私も長屋同然の中で育ちましたから、分かります。
 んでも、私が思うに、 まず、家庭が孤立している上に、情報量だけが溢れている。 この情報によって、母親達はますます孤独に陥るような気がします。 何故なら、比べてしまうからです。
 昨今、子供がよく育つ言葉云々の本などまでいろんな育児本が出て います。良い母親とはこうで、ああで、とあるわけです。 だから、その通り出来てないと不安になるんだと思います。
 それと、現在の母親達はほぼみんながOLなどの経験者で、仕事の 面白さと社会参加の当たり前を経験している。
 それが、突然密室で育児だけに関わっていると、非常に疎外感が あるんですよね。そして、子供は決して思い通りに育ってくれない。 また、仕事の有無に関わらず、本当にやりたいことをずっとずっと 人間って追い求めているんでしょうね。子供がその足枷になると 思ってしまう部分も分かるような気がします。
 社会が変わり、女性が変わったのですから、もしも密室でなくても 女性が抱える憂鬱は必ず何かの形であらわれるように思います。
 そして、最近のお母さん達は、、、と批判される世のオバサマ達、 (勿論私もその一人?)批判するのはいいけど、もっと手を貸して くれてもいいのでは?と思いましたね。とにかく世の中自己チュー だらけ。
 さて、網の目の崩壊はどうでしょう??? 資本の側から言うと、そのようなものがない方が管理しやすく また個人同士を競わせやすい。人間同士の横の繋がりを絶って しまった方が都合がよいのでしょうね。 確かに、鍵は三池にあるかも知れません。
 長文、すみません!!!」


 三池(を研究している)の仲間同士、無理矢理、三池に つなげてしまいましたが、情報のなかで孤立していくという パラドックスを見事に突きつけてくれたコメントでした。

 そうそう、昨日、生きることに煮詰まった私と同居人は、散策を しました。もと都営住宅の近所の人だったおじさんと道ばたに座って 話をしたりして、なんだか癒されました。ややこしいことばかり 考えていますが、みんなが求めているもの、そしてお互いに気持ちよく 生きていくコツは、案外簡単なものなのかもしれません。 それは「批判するより手を貸して」ではないでしょうか。






  2001/6/14(Thu) <ルーズソックス>

 昨日、豊橋から帰還して、私の今年の教育実習行脚は終わった。いつものように二度ほど、電車に間に合わなくなりそうなピンチに立たせられたが、相変わらずいつもの土俵際のうっちゃりで電車に乗り込み、命拾いした。しかし、いつまでもこんなことばかりしていると、身体に悪いし、命を落としかねないので、そろそろ時間にゆとりをもつ生活を心がけたいといつも思うのだが、ギリギリのスリルに身体が引き寄せられていく。
 さて、豊橋では、女子生徒が多い学校で、まるで指定服になっているかのように、みんなルーズソックスを履いていた。そうした彼女らに向かって、「もう東京じゃ、みんなルーズソックス履いてないよ」と一言告げたところ、彼女たちの反応はすごかった。「えっ!」と驚きのあと、「じゃあ、どんなソックス履いているの?」「白?」「どんな長さ?」と矢継ぎ早に質問が返ってくる。普段なかなか彼女たちに伝わる話をするのは難しいのに、一言「もう東京じゃ…」と話しただけで、すごい反応だった。
 東京に戻って、観察をしていると、たしかにルーズソックスは減っている。だいたい25%ぐらいか。あと紺の少し長めのものと白い短いものが目立つ。「みんなルーズソックス履いていない」というのはガセネタだった。しかし、きっと今後、豊橋の高校から、少しずつルーズソックスが消えていくだろう。情報というのは恐ろしいものだと再認識。女子高校生の皆さん、知らないおじさんには気をつけたほうがいいよ。赤ずきんちゃん、気をつけて、ではまた。






  2001/6/13(Wed) <開かれた学校>

 教育実習行脚の旅から帰る途上の新幹線の電光ニュースで、大阪の小学校の事件を知り、今後の報道を含めてこれは大変なことになると思ったのと同時に、専門家のはしくれとしていい加減なことは言うまいと思い、これまで黙ってきた。
 しかし、先日、長野で大学時代の友人と久しぶりに会い、今後「開かれた学校」がどうなるのかというテーマで議論を交わす機会があった。報道の流れに抗う意味でも、そこで生まれたいくつかのインスピレーションについて、書き記しておこうと思う。
 ある新聞社の論説委員である彼は、各新聞社が一斉に「開かれた学校」のもつ危険性を論じるなかで、学校を安全な場とするためにむしろもっと開いていくべきだという論を構想したという。しかし、この事件の全容が明らかになるにつれて、被害者の方々の感情や読者の思いを考えると、そこまでストレートに表現することは難しいと考え、この事件によって「開かれた学校」を閉ざすということには慎重でありたいといった表現に変えて掲載したという。
 彼の論理は、小学校は小さい子どもだけが集まる場所であり、弱い者だけが集まっているから、逆に危険も生じる。普段から大人たちも出入りするようになれば、ねらわれにくくなるだろうというものだった。いくら壁を高くしたところで、ねらってくる人間はそれを乗り越えてくる。そうであれば、「閉ざす」ことより「開く」ことが有効であるというのである。
 この話に触発されて、私の中には、ある一つの疑問が輪郭をおびて浮かび上がった。その疑問とは、マスコミ報道では「開かれた学校」の問題、学校の危機管理の問題が指摘されているが(ある番組では某国立大学の元学長という人が「私は前々から今の開かれ過ぎている学校のあり方は危険だと思っていた」などとのたもうていた)、一体、ほんとうに今回の事件と「開かれた学校」が関連性をもっているのかというものであった。
 伝え聞くところによると、容疑者は元小学校の職員であったと言われており、事件が起きた小学校にとっては外部の人間であったが、学校という世界からみるとある意味内部の人間(学校の内側に詳しい人間)であった。そのような観点からみると、容疑者は、内部の人間として、小学校ならば自分の思い(妨害をされずに殺戮すること)を果たせると考えて犯行に及んだととらえることができる。つまり、彼は学校が「開かれていた」から学校で犯行に及んだのではなく、学校が「閉ざされている」ことを知っていたからこそ、学校で犯行に及んだと思われるのである。したがって、この事件を契機として、学校を「閉ざそう」とするのは、ほんとうの解決からあさっての方向に向かっていると思われるのである。
 学校を「開く」ことで生じる問題と、「閉ざす」ことで起こる問題を天秤にかけるならば、「閉ざす」ことで起こる問題のほうがより深刻であると、私は考える。学校は弱い者が集う場所であり、「閉ざす」方向に向かうならば、いじめ、体罰、セクハラ、さまざまな人権侵害が容易に起こりうる場所である。児童虐待の問題でも明らかになっているように、「閉ざされた」空間=家庭は、容易に無法地帯に変わる危険をはらんでいるのではないか。
 壁を築き、内部と外部の敷居を高くすることで、学校が安全な場になるわけではない。学校がコンプレックスを生産する場所であることを終え、人々が力を合わせて学びの喜びを産み出す場所に育てていくことが、こうした事件に対する長期的な回答になるだろうと、私は考えている。もちろん、直接の対応としては、今回の事件の被害に遭われた、子どもたち、親御さんたち、そして先生方への、継続的で、手厚いケアが必要なことは言うまでもないことである。






  2001/6/7(Thu) <知的欠陥>

 筑波大学附属駒場中学校の大野新先生の授業を見学したときのエピソード。そこは中学生とは思えないほど活気のある教室だった。どこから生徒が攻めてきても的確に受け答える知識の幅の広さと、一人ひとりの生徒の発言を授業に織り込めるしなやかさ、いつ見せていただいても脱帽の授業である。今年はじめてゼミ生とともに、授業見学フィールド・ワークに出かけているが、アクティブな授業に出会うと、学生たちの顔もさわやかに見える。
 知的好奇心を満足させる授業。これからの学校は、知の喜びが幾重にもはりめぐらされた空間に変わっていかなければならないだろう。かつて私が公立の中学校から私立の高校に進学したとき、一番驚いたのは、知的刺激のない授業を周りの生徒たちが拒絶することだった。ある授業では、クラスの半分近くがエスケープしていたし、教え方をめぐって、教師と生徒が言い合うこともザラだった。今から考えると、高校時代の知的刺激とは、探究していく喜びというよりも、問題が解けるようになるテクニックを身につけることだったりして、それはそれで皮相なものであったが、それでも、教えられたものをそのまま黙って受け取ることを当然のこととしていた(実際は受け取っておらず、ほとんど聞いていなかったが)中学時代とは大きな違いだった。
 このような自分の学びの履歴を振り返っても、大野先生の授業ような知的好奇心を堪能できる授業を経験できる生徒たちがうらやましくてならない。あんな授業を中学時代に経験していたら、こんな生半可な学者ではなくて、立派な学者になっていたのではないか、なんていう思いが頭をよぎる。けれども、きっとあの頃、満足のいく学びに出会っていたら、もう子ども時代に何も思い残すことはなくて、何も教育学者なんて奇妙な仕事に就くことはなかっただろうと思い直すのだった。そういえば、大学時代、どう見ても「あなたご自身が対人コミュニケーションにご欠陥がおありになるのでは」と思われる教官が、たいそう難しいことばを並べて、コミュニケーションの大切さについて力説されているのを目の当たりにして、憤慨したことがあった。すると、慧眼の現同居人は、憤慨する私を尻目に、「人間ってそういうものよ」といともたやすく人生の神秘を解き明かしてくれたのであった。自分にできないことだから、できなかったことだから、かなわなかったことだから、生涯のこだわりとして求め続ける。知的好奇心もすてきなものだが、知的欠陥もまた学びの原動力になりうるのである。と言って、自分を慰めている私だった。






  2001/6/6(Wed) <見えるということ>

 なぜか今年は、水曜日はいつも雨。東京大学の西平直先生は、大学院の授業に来られるとき、お茶の水から東大病院行きのバスに乗ってこられたそうだが、授業のとき、「病院に行く人々と、授業に向かう自分、なぜだか妙にシンクロするんだよね」とおっしゃっていた。あの頃は、なぜあんなに学生の心を惹きつける授業をされる西平先生が、病院に行くような気分で来られているのだろう、と不可解であったが、同業者になった今、この気持ちに共感できる。まさに、病院に行くときの気分と、講義に向かうときの気分は、よく似ているのだ。さらに、東京経済大学の6号館のブルーの建物は、病院のようであり、入ると病院のような匂いもするので、まさに病院そのものである。検査を受け、何も異常ありませんでしたよと言われて帰るときの心は晴れやかで、風景まで違って見えるが、重大な病気の疑いがありますと言われて帰るときの心はどん底である。
 学生にとってみれば、おそらく「ああ、今日の授業は眠かったな」といったところぐらいだろうが、これでメシを食っている私たちとすれば、学び合うエネルギーを交換できた日は、一日気持ちがいいものだし、一方通行で空回りに終わった日には、一日気持ちがささくれ立つものである。
 一年目は、勢いだけで突っ走れた。まわりが見えないから、自分がどんなに危険なところを渡っているのか、わからないまま、蛮勇で吊り橋を渡っていた。だけど、まわりが少し見えてくると、ぼんやりと霧の中から谷底が見えてくる。そこは深い深い谷である。それに対して、自分の装備がいかに足りないのか、そのことに気づかされる。これまでは見えないからこそ突っ走ることができた。ところが、見えてしまったとき、呆然と立ち尽くすことになる。見えてなお、先に進むこと、これが今、私に突きつけられている課題である。これは決して目をつぶって歩くという方法では、片づかない。
 人が張った吊り橋を安心して渡っていけた時代は去った。今度は、自分で吊り橋をかけなければならない。吊り橋に不安があるならば、時間と労力をかけてでも、谷底まで降りて、そして谷を渡らなくてはならない。そういうことがわかった今、何とか授業らしい体裁をつくる授業よりも、途中で授業が止まってしまっても、自分がきちんと調べたことだけを誠実に伝える実習生の授業に、大いなる好感をもった。いよいよ、これから一週間、教育実習の行脚が始まる。






  2001/6/5(Tue) <手際>

 火曜日は研究日ということで、学校を訪問したり、自宅で研究や授業の準備をする日にあてているのだが、今日は、学校訪問が中止になり、それなら午前中“だけ”大学に行って、図書館で調べものをしようと、出勤してきた。そして、現在の時刻は、4時30分。あまりの手際の悪さのため、とんでもない時間オーバーである。それに、まだ本来の用事であった図書館にたどり着いていない。とほほのほである。
 これまで何をやっていたかというと、研究費の請求、これからのさまざまな出張の手続きなどであった。ボケッとしていると、仕事は不可逆的にたまる一方であるらしく、“手際”を磨いていかないと、このままでは仕事とゴミの山に埋もれてしまいそうだ。そもそも、親から「口を動かす前に手を動かせ」と言われ続けてきたほど、生来“手際”が悪い人間だった上に、長年の大学院での入院生活がさらに“手際”の悪さに拍車をかけ、頭(口)と手足がなかなか折り合いをつけてくれないのである。
 そうそう、こんなところでまた油を売っていないで、はやく図書館に行かなくっちゃ。では、また明日。






  2001/6/4(Mon) <真夏の太陽>

 日差しが強い。暑い。まるで真夏のような天気になった。これまで快調に動いていた中古の軽自動車・黄色いトッポくんだが、エアコンをつけた途端に、動きが鈍くなった。アクセルを踏んでも、思ったように進まない。安い、外から見ると小さいが中は広い、燃費がいいと、かなりご機嫌な車だったが、やっぱり世の中、いいことばかりではない。というわけで、エアコンなしで走ってきたが、九州生まれのせいか、暑さにはめっぽう強いというか、あまり強くはないのだが、暑くていい天気だと機嫌がよくなるので、私はたいして気にならなかった。しかし、人を乗せたら、こうはいかないだろう。よく妹から「お兄ちゃんといると、食べはぐれる(食事にありつけない)」と言われたが、これは、もっと安くておいしい店があるはずだと言っているうちに日が暮れるという私の行動パターンを読んでの発言であった。このままでは、次は、私といるとサウナ風呂のようだという風評をたてられかねない。夏に黄色いトッポくんに乗せられる人は災難である。相変わらず安物買いの銭失いの私、つける薬はないのか。今日はひとまずこの辺で。(行方不明だった「アンチ・パフォーマー」(5/27付)を救出しました。あわせてお読み下さい。)






  2001/6/2(Sat) <携帯ブチッ>

 教育実習の巡回で、高校をまわっていると、高校生たちが明らかに変わりつつあることに気づく。一つのエピソード。ある高校の教室で、実習生と指導の先生を待っていたところ、女子生徒が入ってきて、「あのう、どなたですか?」と尋ねてきた。今時の高校生にしては丁寧な言葉遣いで感心、感心と思いながら、私が、実習生の大学の指導教員であることを伝えようとしたところ、「あっ、数学の追試とは関係ないんだ。そんならいい」と途中でブチッと切られた。もちろん、電話ではない。面と向かって話をしているのに、向こうから話しかけられて、自分のニーズと関係ないとわかると、話の途中でブチッと切るのだ。
 実習生は拙いながらも、こうした高校生たちに向かって、朝鮮戦争の話などを一生懸命伝えようとしていた。本来、日本が東西(あるいは南北)に引き裂かれるべきところを、代わりに朝鮮半島が分断され、そこが戦場となったことで、日本では特需が生まれ、経済復興、今の豊かなくらしにつながったということを、生徒たちはどのくらい知っていることだろうか。おそらく、場を同じくする私ですら、彼らには関係ないのだから、遠い昔の(わずか50年前だが)朝鮮戦争なんか、まったく関係ないことだろう。
 でも、彼らを責めることは辞めよう。知らないのだから。そして知らされていないのだから。拙いけれども、教えるという立場に立ち、はじめて本気で学び、考え、あとに続く人々に伝えようとしている実習生の姿から、教えられることは多かった。彼らとともに、足元を見つめることなく突っ走ってきた戦後の軌跡を、もう一度ゆったりを見つめ直してみることで、もう一つの豊かさについて探っていきたいと思うのだ。






  2001/5/31(Thu) <ゴルバチョフ>

 5月も今日で終わり。どんよりとした梅雨空が6月の到来を感じさせる。四季が私たちの生きるリズムを創ってきたことは確かだろう。夜間部の授業が始まる頃にもまだ明るさが残るこの季節は、気持ちが開放的になる。それぞれの季節に、それぞれのよさがある。
 さて、自宅のパソコンは相変わらず不穏だが、その前に長く愛用したパソコン(NECのモノクロノート)が突然お亡くなりになったときは、なんとも悲しかった。なぜならば、そこにはこれまでの生活の証しだった家計簿の膨大なデータが眠っていたからである。「銭湯 395円」とか、「家賃 13200円」といった貧しかった頃の生活の営みが手にとるようにわかる家計簿のデータが、パソコンとともに埋もれていったことは、返す返すも惜しいことだった。そのパソコンは、いつか奇跡的に生き返りはしないかという一縷の望みをかけて、今日も私の部屋で眠っている。早く来い来い、王子さま。
 今回のパソコンのトラブルは、大人気のパフォーマー首相と、不惜身命の大横綱をくさした原稿をHPに載っけようとしたところからはじまった。私は自分の命は惜しいし、絶叫パフォーマンスのような茶番につき合っている暇はないので、パソコンの修復を待って、もう一度原稿を載せたいと思っているのだが、たまたまとはいえ(完全に言いがかりだが)、私のパソコンまでぶっとばしているパフォーマー内閣の支持率は驚きである。
 そして、今朝、新聞を読むと、首相が「衆議院の定数是正」を提言しているとのこと。こりゃまた、すごいことになっている。選挙区ごとの一票の格差の不均衡は、自民党が20〜30%台の得票率で半数近くの議席を占めるからくりのもとになっていた。ここは自民党にとって聖域だったはずのところで、首相の発言は、まさに内側から党を突き崩す可能性を秘めている。
 ここで、小泉=ゴルバチョフという見方が、ある真実味を帯びてくる。ソ連共産党の一党支配を突き崩したのは、ゴルバチョフの登場だった。ペレストロイカという開放政策は、一党支配に風穴をあけ、ソ連邦は解体した。「道路特定財源」「衆院定数格差」の見直しという提言は、もし本気でやるのならば、公共事業に群がる族議員の力を削ぎ、それにつらなる土建票・地方票を失うことにつながる。こうなると自民党の存在基盤を根底から揺り動かすことになるので、党内で猛烈な反対論が沸き上がることは必至である。ここに国内世論の動向や、このごたごたに乗じてナショナリズムの高揚をはかり、矛盾をすべて覆い隠そうとする勢力が絡んで、しばらくはてんやわんやの状況になるだろう、きっと。まあ、私の話はいつもいい加減なので、いい加減に読み飛ばしてもらうのが一番だが、現実の政治というのは理屈で動くというよりも、ひょんなことから歯車が動き出すことがあるような気もする。私はパフォーマーに期待はしない。しかし、パフォーマーに期待している人々が何を求めているのか、そこに耳を傾けないようでは、何も始まらない。小泉首相が、自民党延命のためのトランプのカードに留まるのか、あるいは日本のゴルバチョフになるのか、これから慎重に見守っていきたい。






  2001/5/30(Wed) <三々が九>

 今日のタイトルは「散々が苦」と読む。自宅のパソコンがいかれてしまって、参っている。フォーマット、OSの再インストールから二度やり直したのだが、それでも直らない。そもそも私の自宅のパソコンは、部品を買って組み立てたハンドメイドのパソコンなので、トラブルを起こしても誰のせいにもできないし、あの一台であらゆることをしようとやたらめったら周辺機器をつけているので、システムを再構築する作業に膨大な時間と手間がかかるのだ。
 やっぱり分相応、実力相応にやらないと、トラブルが発生したときに大変だと再認識しつつも、トラブルに対応することで分も実力もついてくるのだという考えも浮かんでくる。しかしながら、いつものようにさまざまな考えが交錯しながらも、“現実”としてはパソコンがつむじを曲げていることに変わりはない。
 話は変わるが、昨日、教育実習の巡回で、鎌倉へ。鎌倉の風は心地よかった。これがシーズン中でさえなければ、ゆったり寺社を巡り、中世の風に身をさらしていたかった。しかし、翌日は講義。寄り道好きの私も、まっすぐ帰るしかない。相次ぐ事件の影響か、電車の中でいつもより人々がトラブルを避けようと配慮している空気を感じ、今年の教育実習、小さな旅、第一日目が終わった。






  2001/5/28(Mon) <爆風>

 支持率87%の爆風に吹き飛ばされたのか、昨日と今日の「Daily たまのさんぽみち」の原稿ファイルが消滅してしまった。今、修復する時間もエネルギーもないので、またのちほど。今日はこれにて。





  2001/5/27(Sun) <アンチ・パフォーマー>

 心優しい武蔵丸の敗戦で、大相撲夏場所は幕を閉じたが、あのパフォーマンス首相にはうんざりした。こんなことを書くと、怒りのメールが100通ぐらい送りつけられるかもしれないが(こんなローカル・サイトに来るわけないが)、経験の蓄積がバカにされ、薄っぺらいパフォーマンスがもてはやされる世情に危惧を感じている。大人気のパフォーマンス外相にしても、彼女の発案した介護等体験の法案によって、教職課程をもつ大学と養護学校、社会福祉施設の現場がどんなに混乱し、また混乱し続けているのか、私たちは身にしみて知っている。
 ただ、もちろん、不況の世の中で、税金をピンハネし、利権なるものを形成している族議員たちに、腹が立つという心情はわかる。ガソリン税が1リットルあたり48.6円というのには驚いた。今、安いスタンドでは1リットル92円だから、税金を引くとスタンドが受け取るのはわずかに42.4円。これからガソリンの原価、地代、人件費などを捻出しなくてはならない。とてつもない営業努力が求められている。一方、国は営業努力もすることなく48.6円丸儲けである。それでもそのお金を社会にとって有効に使っているならまだいい。しかし、このお金で山を破壊し、ほとんど誰も使わないスーパー林道を造っているとしたら、もちろん頭に来る。
 おそらくこうしたシステムの破壊者として、パフォーマーたちが期待されているのだろう。しかし、パフォーマーたちはシステムを破壊することはできても、システムを構築することはできない。システムを構築するのは精神論ではなく、社会をデザインする知性だからである。そして、社会をデザインする知性は、ねばり強い対話と学びを通してでなくては、獲得できないものなのである。
 自分が今知っているよりももっと深い世界がある。これはいろんな人たちと出会うたびに、気づかされることである。そして、その都度、傲慢で軽薄な自分自身が恥ずかしくなる。私自身はここから出発するしかないと思う。そして、社会をデザインする知性をめざして経験を紡いでいく旅に出るのだ。そして、数多くの出会いからいくつもの小さな物語を織り上げ、その一つひとつを尊重できる人間に育ちたいのだ。パフォーマーの叫びやメディアの迎合が生み出す、薄っぺらい大きな物語はもうたくさんだ。