Daily たまのさんぽみち
2001/5/26(Sat) <サヨナラ負け>
今年はじめて西武ライオンズのファンクラブに入った。「レオはライオンズにあらず」という合い言葉をもつ九州人として、もちろんライオンズを応援することが目的ではない。西武ドームでの福岡ダイエーホークス戦を観戦するためである。ファンクラブに入ると、内野指定席のチケット2枚と内野自由席のチケット2枚がもらえるほかに、結構ちゃんとしたポーチと小さなバッグがついてくる。これで3000円なのだから、とってもえらいと思う。(普通にチケットを買うと、たしか内野自由席1枚で2600円するのだ)
演劇とともに野球を好み、放っておくと、とにかく遊び好きな私は、昨日、仕事を終えると、国分寺駅前のランプ亭で牛丼の大盛りとサラダを買い込み、西武ドームに向かった。電車通勤すると、最後の一本の乗る方角を変えるだけで、西武ドームにたどり着く。まったく便利なところに、大学と家があるものである(笑)。
さて到着すると、試合は松坂・ラジオの投手戦で1対1と緊迫している。めったに座れない内野指定席からは、投手と捕手、打者の息づかいが感じられる。ホームベース付近から同心円上に緊迫感がひろがっていることに気づいた。試合内容は、松坂の好投で西武が押していた。ダイエーはラジオから吉田への継投で、ぎりぎりのところでしのいでいた。無死からもらった四球のランナーを二回続けて二塁に進めることができなかったダイエーと、二死からビッグチャンスをつくる西武、今日は負けゲームだと観念した。
しかし、9回表、リリーフ・吉田の好投に主砲の小久保が応えた。右中間最深部へのホームラン。松坂からはこれしかないという一打だった。ほしいところで一発打つ小久保に心から惚れ惚れした。負けゲームをしのいで一発でうっちゃる。これぞ野球だと思った。ところがこれでは終わらなかった。9回ウラ、不調のストッパー・ペドラザが登場した。明らかに球は走っていなかった。吉田とは段違いだった。案の定、打率がとても低い先頭打者を四球で歩かせ、送りバント、二塁ゴロで2死3塁に。これでも打順は二番、まだまだダイエーの勝ちムードだった。ところが2ストライクと追い込んでから、痛恨のセンター前ヒットを打たれ、土壇場で同点。西武ドームは、ライオンズファンの歓声に包まれた。そして、続く三番・松井。前の打席で2死満塁のチャンスに吉田に抑えられた松井だったが、さすがは好選手、左中間をライナーでやぶるサヨナラ安打でゲームセット。西武ドームの電光掲示板にはヴィクトリーの文字。ホークスファンはわずかの間に、天国と地獄を味わった。
帰りの道で、考えた。9回も吉田をそのままマウンドに送っていれば、きっとホークスは逃げ切ることができただろう。しかし、なぜ不調のペドラザを使ったのか。ペドラザは、前節の日本ハムとの試合でも抑えに失敗し、大量点を奪われている。あえてペドラザを使ったわけは何か。そして、140試合という答えに行き着いた。吉田を継投させれば、今日の試合をとる可能性は高くなる。しかし、シーズンは140試合であり、ペドラザ抜きで戦い抜くことはできない。そうであるから、リスクを冒しても、ペドラザを信頼しようと考えたのではないか。このように考えたとき、今日の試合は負けたけれども、今年もホークスはパ・リーグを制するのではないかと思った。一つの試合へのこだわりは大切だ。しかし、もっと大切なものがある。選手のモチベーションを高めるような起用法だ。これが結果的にシーズンを戦い抜く原動力になる。一回の失敗で見切られるようであったら、そこで選手たちは伸び伸びと自分の可能性を拡げることができないだろう。小久保や井口がいい例だ。結果が出ないシーズンが続いた。しかし、王監督は小久保を四番で使い続けた。そして、今、打ってほしいところで結果を出す真の四番に成長している。
一つの試合を観戦しながら、一喜一憂するばかりでなく、自分のもののみかたが少しばかり変わってきていることに気づき、負けてもまた心地よい一日だった。
2001/5/25(Fri) <原初生命体>
野口体操の創始者、野口三千三の『原初生命体としての人間』(三笠書房)を読んでいる。読み進めるうちに、からだの感覚がほぐされるようで面白い。野口さんは、脳がえらくて、ほかが従っているという思想を、一つひとつ具体的な感覚をもって、問い直していく。これまで脳が専制政治を行ってきた私にとって、からだの反乱と革命は、新しい自分への気づきと可能性に満ちている。
人間は道具をつくる。そしてその道具が人間を支配する。今の社会の最もポピュラーな道具はコンピュータであり、人間の脳を真似たはずのコンピュータが人間の思考を支配している。しかし、現実には、人間のなかにある遊び、無駄に結構大切なことがつまっているのだ。脳を洗練させて賢くなることをめざすより、原初生命体からなるからだにきくほうが可能性があり、より深い人生を探ることができるような気がする。
2001/5/24(Thu) <知的、その後>
一週間前の「知的」な学生たちの第一回目の発表があった。船頭のヘボさを考えると、思った以上のなかなかの出来だった。心配性なのか、発表者がやってこなかったらどうしようかと、研究室を出る前にふと不吉な予感が頭をよぎった。そして、発表者がやってこなかったときに、どのような段取りで話を進め、どのような言葉を投げかけるか、わずかな時間で考えて教室に向かった。そうしたら、発表者は4人揃っていて、それぞれレジュメをきちんと準備していた。
こんなことは当たり前のことだと、このページを読んでいる読者の方々は思われるかもしれない。しかし、決して当たり前のことではないのだ。今週の月曜日、ゼミの手製のテキストを読もうとしたら、なんとほとんどのゼミ生が読んでいない。どうもコメンテーター以外は読んでくる必要がないと思っていたようなのだ。私は、怒るより前にがっかりし、出鼻をみごとにくじかれた。みんな、きょとんとしている。最後に、司会をしていた5年生が「読んでこなかった人たちはこの時間全然面白くなかっただろう。読んで自分の疑問をもって参加しないと何も学ぶことはできない。これから読んでこないんだったらこのゼミを辞めてくれ」と、明らかに私が言わなくてはならないことを、ビシッと言った。格好良かった。
学生の格好良さに惚れ惚れしている場合ではないのだが、あのときは、まさかほとんどの学生は読んできていないだろうなんて思ってもいなかった。そして、いつも、敵は思ってもいないところからやってくる。今回、発表者が逃走するケースを想定した。そして、結果的に誰も逃走しなかった。教師のなかのシュミレーションの幅の大きさが、授業を決定づけるような気がしている。注意深さというか、気遣いというか。これがない怒りやルールだけでは、教育実践は成立しない時代にきているのだ。
2001/5/23(Wed) <今日は雨>
自分で自分に無性に腹が立つことがある。とくに、講義やゼミなどで、自分が言っていることを自分ができていないときなどである。因果な商売で、「教育方法」や「教育学」なるものを担当しているのだが、自分が言っている「教育方法」を自分の行いが裏切っていることより、自分の身が引き裂かれることはない。1年目に感じたこの因果から5年目になってもまだ逃れることができないままだ。
とにかく一喜一憂の大本山のような私だが、今年の公約通り、あとに引きずらないことだけを心がけようと思っている。引き裂かれたあとは、地獄のような気持ちになるが、この気持ちをせめて次のプラスにつなげよう。もう地獄より下に落ちるところはないのだ。結局のところ、一喜一憂を克服するためには、息の長い研究と生き方を根っこにもつ以外の方法はないのだから。
2001/5/22(Tue) <遠い夜明け>
昨日は、朝から晩まで休みなく仕事(やぼ用?)が入っていて、HPを更新する暇がなかった。これから教育実習・魔のロードがはじまる。今日、先陣を切って、わがゼミナールの幹事が初日から授業をやっているはずだ。さてどうなったことだろう。さすがに実習生とともに一喜一憂していた1、2年目とは違い、今年はゆったりと構えることができている(今のところ)。一人目の子育てと、二人目の子育ての違いだろうか。経験というのはたしかに何かを変える。
しかし、なかなか経験によっても変われないこともある。そのような場合は、きっと変わろうとしている方向が間違っているのだろう。それにしても、徹底して突き詰めていかないと、方向が間違っているのかどうかなんてわからない。5年目になるけれども、まだ仕事のなんたるかが、見えてこないのである。私の敬愛する牧師が祈られた「変えることのできるものを変える勇気と、変えることのできないものを受け入れる知恵をお与え下さい」という祈りを、いま再びかみしめている。
2001/5/18(Fri) <運命>
だいぶ暑くなってきた。5月もいよいよ後半に入り、さわやかな初夏から梅雨の前ぶれを感じる時期にさしかかる。むかしむかし、九州で高校生をやっていた頃、この時期に、蒸し暑さとともに、知らず知らずのうちに身体の疲れがたまったのか、通学途上の電車で具合が悪くなり、駅のトイレでもどしたこともあった。車でも10分近くみておかなくてはならない駅までの道のりを、自転車で5分で走った(もちろんすべて信号無視)つけがきたのかもしれないが、暑くなるとムリが効かなくなる。というか、暑くなるとムリが露呈する。何はともあれ、電車のなかで次第に具合が悪くなり、吐きたくなるときの時間は、わずか5分が5年間のように長く感じられた。あのとき、私は、通勤電車に乗らなくても済む仕事に就こうと固く決心したのだった。
苦しみを思い出したついでに、最高に苦しかったことを思い出した。それは東京経済大学に引っ越した日のことである。あれは忘れもしない1997年4月1日。それまで自宅に置いていた本やファイルなどを研究室にもっていくために、引っ越し屋さんの2トン車に荷物を積んだ。たまたま引っ越し屋さんは2人で来ており、私と助手の奥方はトラックの客席?に乗り切れなかった。そこで私と助手は2トン車の箱の中に乗り込むことになった。2トン車はジュラルミンケースのように密閉されており、私たちが乗り込むと外から鍵をかけられた。いよいよ誘拐完了である。トラックは、清瀬から国分寺へと向かった。
出発してまもなく、私の身体に異変が起きた。猛烈にもよおしてきたのである。それも大きい声では言えないが“大きい”ほうである。まだ家を出てからからわずか数分しか経っていない。外はもちろん見えないが、まだ清瀬の自宅近くを走っているにちがいなかった。脂汗がたらりを落ちた。今だったら、携帯電話なんていう便利なものがある。運転席と連絡をとることも可能だっただろう。しかし、当時はそんなものはふつう使われておらず、トランクの中の私たちと運転席との連絡手段は存在しなかった。そして、内側からトランクを開けることはできない。ああ、絶望。さらに、トラックの小気味のよい振動が、まるでウオッシュレットのパルスのように、私の大腸内の運動をきわめて効果的に高めていく。さらなる、絶望。
もちろん、この秘密は私の胸に閉まっておくには大きすぎる。同居人である相方に相談した。しかし、相方としても私の苦しみを変わってやるわけにもいかない。たとえ、もし変わってやっても、今度は向こうが困るだけで問題は解決しない。トラックの荷台の中で私は「ああ、死にそうだ!たすけてくれ!」といつものようにおおげさにのたうち回っている。本人におおげさなつもりはないが、周りからみるとばかみたいな光景だっただろう。しかし、すべては密室のできごとである。誰もみているものはいない。相方は、あせる私を尻目に、比較的平然としていた。さすが腰が据わっている。「ここで、すれば」と言う。私はまわりを見渡す。トランクの荷台の中には、なぜか青いポリバケツがおいてあった。おあつらえ向きだ。童心に帰って「おまる」だと思えばよい。白鳥さんに座っていると思えばそれだけの話だ。しかし、私は大人だ。なかなか童心に帰る決心はつかない。おそらく私一人だけならば、決断をしただろう。しかし、そこには相方もいる。これが私の決断の妨げになった。私が決断すれば、このあと、相方は密室でくさいものとともに長時間過ごさなくてはならない。まさにこれこそ臭い仲だ。相方を気にするなんて水くさいと、人は言うかもしれない。しかし、私が出そうとしているものは“水”ではない。
結局、国分寺までの1時間、私は脂汗とともに耐えた。そして、耐え抜いた。トラックが最終的に止まり、扉がひらかれたとき、「救われた」と思った。トラックの荷台からわずかに聞こえる音を手がかりに、これは西武池袋線、これは西武新宿線、そして中央線、さあもうすぐだと期待をもちつづけた。最後に扉がひらいたとき、そこが大学ではなく、踏切待ちや渋滞の中とかだったら、私はきっと絶望の谷底に落とされたことだろう。しかし、そこは大学であり、私は飛び出してトイレに駆け込んだ。
一年の計は元旦にあるといわれるが、赴任一日目の経験はその人の運命を占うものであろう。まさに私のウン命は、なんともいいようのないものだった。それから私はずっと、幾多の脂汗と、周りへの迷惑と、耐えることと、救われることの繰り返しを続けてきた。この告白を一つの契機として、新しいパターンに踏み出してみたいものである。しかし、いつもながらウン話はなぜかうまく書ける。やはりフロイトのいう肛門期が私の発達上の課題なのか。
(当初、書く予定のものとまったく違ったものが出来上がってしまった)
2001/5/17(Thu) <知性と氣合>
総合演習という今年からの新設科目で、死刑制度の是非について話し合っている。ここで驚くことは、学生たちの「知的」レベルの高さである。知的にかっこをつけたことでわかるように、ただの知的ではない。彼・彼女らのことばはあまり整理されてはいない。いわゆる理路整然とした知的さからは遠いかもしれない。しかしながら、彼・彼女らが感じとっている感覚は、きわめて知的なのである。彼・彼女らは、かなり深いところまで考えている(考えているというより感じている)。だから生半可な理論では、彼・彼女らに立ち向かうことはできない。こちらが揺さぶられ、どっちが学んでいるのかわかりはしない状態である。
しかしながら、来週からは、学生たちの発題を受け止めるシリーズに入る。ここで彼・彼女らの感覚が、はたして知的に表現されるのか、それともかっこつきの「知的」に終わるのか、ためされる。観客としての「知的」と創造者としての知的の間には、きっと大きな溝が横たわっていることだろう。学生たちとともに、自分が崩れる感覚を愉しみながら、新しい自分を創っていく「学びの場」にしていきたい総合演習である。
・・・今日も、授業の終わりに、学生たちに「氣合」を入れてしまった。「氣合」と「説教」は、私の知性の欠如のゆえである。それでも、私は「氣合」を入れ、「説教」をし続けるだろう。自分自身を奮い立たせるために。
2001/5/16(Wed) <所沢訴訟判決>
2年前の冬、TVのワイドショーは、所沢のダイオキシン問題一色に塗りつぶされていた。そのきっかけとなったのが、1999年2月1日の「ニュースステーション」での報道だった。所沢産のホウレンソウが危ないという報道で、翌日からホウレンソウの価格は暴落。のちに野菜のダイオキシン濃度として報道されたデータがせん茶のものだということがわかり、農家側は「ニュースステーション」の報道が莫大な損害を招いたと、訴訟を起こしていた。
2年たった今も、所沢・産廃銀座近くに住む人々は、公害に悩まされているという。報道が訴訟問題に発展したあおりで、所沢のダイオキシン問題はほとんどジャーナリズムに取り上げられなくなり、さらに問題の解決が難しくなったという話もある。こんな中で5月15日、さいたま地裁の判決が出た。「所沢産の野菜のダイオキシン汚染濃度が全国的なものと比べて突出して高い」等を理由として、「番組の主要部分は真実」と認定した判決は、画期的なものだったと思う。
農家の人々の苦悩は察するにあまりある。しかし、ホウレンソウの価格が暴落した真因は、所沢に産廃銀座ができ、農作物がダイオキシンに汚染されたからである。「ニュースステーション」が悪いわけではない。また、健康被害を訴える市民と、風評が自らの死活問題である農家が、これまでも複雑な関係にあった。しかし、そもそもの問題は、産廃施設の建設を許した地方行政にあるわけであり、さらには、大量消費大量廃棄社会に何ら有効な手を打たない中央行政、政治にあるのだ。つまり、産廃施設はゴミの出口であり、入口である製品の段階で手を打たないかぎり、どこかに出口を求めてさすらうことになる。循環型の社会を構築することなしには、この問題は解決しないのである。
このような中にあって、もし判決が報道機関の責任を問うレベルに矮小化されたとしたら、かなり事態は絶望的だったと思う。しかし、判決は、所沢の汚染の現状に踏み込み、さらには日本のダイオキシン問題への取組の甘さに踏み込む、久々の骨のある内容だった。
所沢に産廃施設が集中したのは、大規模農家の相続税問題などがその発端であったと思われる。広大な農地をもつ農家は、相続税を支払うために、その一部を手放さなくてはならない。そこに資材置き場などと偽り、産廃業者が手を伸ばしていく。こうして農家のすぐ隣に産廃施設が作られる。農家にとってはもちろん迷惑な話だが、行政が取り締まることをしないので、手を出せない。そして、自分たちの生活のために、ことを荒立てないようにするしかなくなる。このようにして所沢の問題は生じてきたと思われるのだ。
そうであれば、食糧安全保障と都市部の緑を守るために、農家の相続税を免除し、相続税を免除された農地を売り払った場合のみ、高額の税金をかけるなどの方策をとることも必要になるだろう。裁判所は、たしかな仕事をした、あとは、私たちの税金でメシを食っている行政が、ほんとうの解決に向けて汗を流すだけだ。
2001/5/15(Tue) <空が高い>
今年の5月はとくべつさわやかな日が続いているような気がする。空が高いのだ。まるで秋の空のように空が高く、雲がはるかかなたを流れている。先日は、家の前から富士山が見えた。5月に富士山が見えるのは珍しいことだ。
ここからいい加減な話だが、このさわやかさは、今の経済の行き詰まりと何かしら関係があるような気がする。私たちの社会からモノを作る仕事が失われつつあることと無縁ではないように思うのだ。もちろん、所沢等のダイオキシン問題はいまも続いている。しかし、全体として東京の空は澄んできているように思う。一昔前、ひんぱんに光化学スモッグ注意報が出ていた時期もある。でも、今は聞かない。昨年、就職したゼミ生たちも、ほとんどがサービス業に就職している。何か大きく変わりつつある。
あいかわらず、私のただの妄想かもしれない。なにはともあれ、さわやかな風を身体中にあびて、これから夏休みまでの終わりなきロードをぼちぼち歩いていくことにしよう。
2001/5/14(Mon) <落とし穴>
時間に追われる生活をしながらも、人生のたのしみの「野球」を続けている。打つことよりも守ることのほうが好きで、グラウンドで打球を待ちかまえる緊張感がたまらないのだ。毎年、ほとんど練習をせずに試合に臨み、やっぱり練習をしておくんだったと思って終わることのくり返しだったから、今年から少しずつ練習をはじめた。
チームにはとても上手い選手がいて、その人が練習に来てくれると、練習はぐっと引き締まる。そして、なんだか自分も上手くなったような気になるのが不思議だ。練習もとても楽しくなる。ほんとうの意味で力のある選手は、まわりも高めてくれるものだ。
「野球」の練習を振り返り、自分の仕事のことを考える。私の師匠は、明らかに指導生たちを高めてくれていた。さて、私はどうだろう。あら、あらら。いけない。また、人との比較という大きな落とし穴にはまっていた。私は今、学生たちを高めることができるような監督をめざしての修業中の身だった。そして、同時に一人前のプレーヤーをめざしての挑戦中の身だった。そんな私にとって、人と比較をすることにはまったく意味はないのだ。淡々と修業を積んでいればよい。ちょっと油断をすると、すけべ根性が頭をもたげ、人と比較している自分に気づく。あほやなあ。人と比較しているかぎり、自分の道は見えてこないのである。
2001/5/12(Sat) <親指姫>
携帯でピコピコとメールを打ち込むお嬢さんたちのことを「親指姫」というそうな。昨日、久しぶりに電車で通勤したら、ちょっと前より「親指姫」が増殖しているような気がした。前も右も左も、お嬢さまがたは、画面が大きくなった携帯を見つめ、一心不乱に親指を動かしている。
私にとって、電車に乗るたのしみは、一心不乱に本を読むことにあるのだが、視野に「親指姫」が入ると、どうも集中できない。これは一体慣れの問題だろうか、それとも同じ場にいるのにまったく場を共有していない人といることから生まれる問題なのだろうかとふと考えた。おそらくずっと昔は、同じ場にいるのに、黙読なぞをして、その空間からエスケープする人間があらわれたとき、そうでないそれまでの普通の人間は、ものすごい嫌悪感と違和感を感じたに違いなのである。しかし、黙読をあたりまえとする文化が生まれ、私たちにとって電車のなかでそれぞれが思い思いに読書をすることは、居心地の悪いことではなくなっている。
そして、携帯電話、そしてケイタイ・メールの登場。黙読が自分に沈殿し、自己を形成する営みであるのに対して、携帯電話、ケイタイ・メールは浮遊しながら人とつながっていく営みであるように思える。空間からエスケープするという点では同じでも、エスケープの仕方が全然違う。つまり、自己内対話を通して自分を深めるという生き方を育んできた人間にとって、たとえば、授業中に別の本を読むことならまだ許容できるが、ケイタイ・メールで授業とは別の世界にエスケープされることは耐えられないのである。
ある高校の先生からの通信で、「内言=自分のこころのなかで考えること」のできない生徒があらわれているというショッキングなニュースが綴られていた。つまり、幼児のように、声に出してしゃべっていないと考えることができない高校生の誕生である。こうした新しい(あるいはかなり古い)人々を対象として、どうやって授業なるものを成立させることが可能なのか、まじめにやっている教師ほどその悩みは深いだろう。
しかし、考えてみると、私も相当、「内言」のできない幼児性を残している人間であり、もうかなり前のことにはなるが、友人たちとスキーに行き、徹夜でトランプ(ナポレオン)をやったときなど、心で考えていることを全部口に出してしゃべるものだから、隣に座っていた、のちに同居人となる人が怒り出したことがある。そのとき、少しピアジェの理論などをかじっていたのちの同居人は「あなたは内言ができないのか。まるであなたの発達段階は幼稚園レベルのようだ」とするどい指摘を突きつけてきた。もちろん、私は反論する余地もなく、反省する気もなく、それからも平然と自分の戦略と人の戦略の予想をしゃべり続け、トランプには負け続けていたわけである。
そんな人間であっても、いつまでもそうやって生きていくわけにもいかないから、痛い目にあいながら、「内言」を育てる大切さを覚え、生きていくわけである。(何を言っているの。あんた、まだ幼稚園レベルよという声も遠くから聞こえてくるが・・・)だから、人間が変わっているというよりも、ゆっくり育っているぐらいに思って、ゆったりと構えていくことが、自分自身の経験からみても、また教育者の心の健康のためにも、いいように思われるのである。
2001/5/11(Fri) <現場感覚>
大学は今、教育改革談義の真っ盛りだ。少子化に伴い、尻に火がついて、あたふたと「教育」なるものを考えようとしている。大学の「教育」について考える会議に出席し、そこでさまざまな先生方の話をうかがった。とにかく面白かった。とくに体育(スポーツ)だったり、コンピューターだったり、身体や技能にかかわる現場で格闘しておられる先生方の話には、ぐいぐいひきこまれ、心の底から笑った。私にとっての一番のヒットは、パソコンのワープロソフト「ワード」を教えつつも、そんなものより学生たちが毎日欠かさず鍛錬している親指入力の携帯メールの技の上達のほうが圧倒的に勝っていることに複雑な思いをもちながら、今日も「ワード」を教える先生の話であった。学生たちの文化を否定するわけでもなく、その文化に敗北していることを認めながら、教師としてわずかでも工夫して学生たちと切り結んでいこうという姿には、現場の生き生きとした感覚がある。今の私たちのポジションはまさにそういうところにあるのだ。圧倒的な大衆消費社会の文化に、パルチザンとしてゲリラ戦を挑み、たいてい痛い目に遭いながら、ときどきスカッとする時間を経験する。そのくらい、ちっこい、それでいて苦しくも愉快なポジションなのだ。そして、また現場というのは、敗北と失敗に満ちたところなのだ。敗北と失敗の積み重ねと反省(あやまるということではなく、そのことを自分のなかでコロコロと転がしながら考え直し、新しい意味を見出していくこと)だけが、現場人を育ていくのである。これこそが実践感覚である。
教育改革大いに結構。しかし、この現場感覚を失い、「笑い」と「失敗」を許さないような改革であれば、それは自分たちの首を絞めることは確実である。「オマエらばかだから、オレたちが教育してやるぞ」というような教育改革はきっと破綻する。そして、「オマエらすごいな、オレたちオマエらにすり寄るぞ」というポピュリズムも地獄への道を歩む。このどちらでもない、「オマエら強そうにみえるけど、オレたちそう簡単には白旗あげないぞ」というゲリラ戦が、最も現実を見ているたたかい方のように思われるのだ。そうはいうものの、あの大学はパルチザンの巣窟らしいなんて噂がたてば、大学もやっていけないだろうし、対外的にはそれらしいことを言っておかなくてはならないだろう。しかし、現場サイドからすれば、教育という営みはそんなに格好のいいものではないのだ。知的な肉体労働といったらいいだろうか。
私は思う。現場は結構面白いし、結構みんなよくやっているよ。現場のボクらに必要なのは行き詰まったときに励まし、打開策をともに考え合えるようなシステム、あるいは人間関係なのであって、上から「〜しなさい」なんてことではない、と。文部行政が、圧倒的に自分たちより現場感覚をもち、「教育」の事実について深い識見をもっている教師たちに対して、一生懸命「指導」したがったために、陥った同じ隘路に、私たちが自分から入る必要はないのだと。
2001/5/9(Wed) <(続)星の村>
先日書いた「星の村」/ザ・スズナリのHPは、こちら。
「ざぶとん」その後についてまだ書いていなかったが、みかん箱らしきものにざぶとんを敷いて、2時間半ぶっとおしで劇を観たものだから、あとで腰が痛くて痛くて仕方がなかった。しかし、この腰の痛みさえも、役者たちの息づかいと熱演と、彼らのこれまでの労苦をほんの少しでも共有したようであり、心地よいものだった。演劇には、映画と違う、ライブという魅力がある。観客のすぐ前、その一線を越えれば、そこに役者たちはいる。生身の身体で演じている。こちらが飛び出していけば、あるいは劇はめちゃくちゃになるかもしれない。その緊張感のなかで、彼らは演じており、私たちは観ている。彼らの本気の演技が、私たちが一線を越えることを厳しく許さない。
私はインターネットによる授業なんてものには興味を覚えない。おそらく時代はインターネットによる講義、そして単位取得をIT革命時代の大学のウリにする方向に進むのだろうが、そんなものは放送大学とNHKの英会話だけで十分だ。私は授業とはライブであると考えている。私は特定の学生たちの前でライブの授業をやるのであって、不特定多数に向けてやるのではない。学び合うのであって、知識の伝達をするのではない。知識を得たいのであれば、本を読めば十分だ。
誰だって引きこもりたい。自分は聖域にとどまったままで観客として傍観していたい。だけど、生きる意味は、そして学ぶ意味は、そんなところにありはしない。不完全な自分が不完全な他者と出会い、葛藤を経験しながらも、そこから何かをつかんでいくこと、おそらくそれが学びだ。ときには、傷つき傷つけながらイヤな思いをしつつも、最後には笑いがある。そんな学びを私は求めている。
あの朗らかそうな渡辺えり子が、地獄のような苦しみを抱えながら、演劇という方法によって社会と向き合い、生きている姿に出会ったとき、私は言いしれない感動を覚えた。演技のすごみと最後の涙の向こうに、生きづらさを抱えながらも、自分の根っこを失うことなく生き抜こうとする、彼女のすばらしさが見えてきた。月曜日、私は心の底から笑った。今日もまた、「宇宙堂」は「ザ・スズナリ」でいのちの響きをうならせているはずだ。
2001/5/8(Tue) <星の村>
ごく最近になって、実は、私という生き物が「演劇」なるものを大いに好むということが判明した。情けないことだが、自分が何を好むかということさえ、よくわからずにここまで生きてきたことになる。しかし、自分というのは案外わからないものだ。
さて、「演劇」に魅入られている私、新聞文化欄で「宇宙堂 旗揚げ公演」の記事が目に入り、「ねえ、行こうよ、行こうよ」とそぞろ虫の誘惑が。連休「ぐうたら」のあと、それも連休明けの初日に行くなんて、ちょっとこの人あんまりだよね、という理性の声が聞こえつつも、「教育にいきづまった中年の女性教師が主人公だってよ、あんた必見よ」というそぞろ虫の明らかに合理化とわかる声がそれをかき消し、ゼミナール、卒論指導が終わった私の足は、一路、下北沢へと向かったのであった。
下北沢のザ・スズナリに着くと、当日券の私はいきなり、「ざぶとん席でもいいですか?」と言われ、「えっ、ざぶとん、なんじゃそりゃ?」と思いつつも、「は、はい」と異様に胸元の空いた受付の女性の、胸元を見たり見なかったりしながら、答えた。う〜ん、読めない展開。早めに行けば、少しは前のほうで見ることができるかと思いきや、席はほとんど指定席でうまっている。「ざぶとん席」の我々は、うらぶれた劇場の階段下で待つことしきり。狭い劇場とのことで、指定席のお客さんたちが入ってしまったあとでないと、「ざぶとん」は入れないらしい。あとから来る人々がどんどん先に通され、どうせオレは「ざぶとん」さと、入る前から気持ちは暗澹としてくる。
暗澹たる心で時計を見つつ、まさか「ざぶとん」が入る前にはじまるなんてことはないだろうなと、階段の下で待っているとき、チケットを見つめていると、そこに一筋の光が。チケットには「ざぶとん 右 1」と書いてある。もしかして一番前にざぶとんを敷いて、見ることができるのでは。この希望を抱えて、そこでのわびしい時間を過ごした。
そして、ついに入室、「ざぶとん 左」さんたちからだ。「ざぶとん 右」は思いっきり、最後のようだ。だが、入って、キラキラと希望が輝く。やっぱり「ざぶとん 右 1」はものすごい前だった。砂かぶりというか、唾かぶりというか、舞台のすぐ前、一列目の脇のわずかなスペースに、みかん箱のようなものがおいてあり、そこに「ざぶとん」を敷いて座るのだ。感涙ぼろぼろ、もう一人分前だったら、正規の席の一番うしろだったはず。「演劇」の魅力は、役者との距離の近さだ。息づかいを感じられる席はたまらない。私の授業を聞く学生にとっては、一番前はC席で、一番後ろがS席に違いないが、「演劇」はたとえ、照明器具の上だろうが、スピーカーの上だろうが、前がいいのだ。「ざぶとん」に腰を下ろし、今までの暗澹たる気持ちは一気に吹っ飛んだ。
2時間半ののち、劇場は大きな拍手のうねりに包まれた。止まない拍手に、何度もキャストが一斉に揃った。旗揚げ公演にふさわしい、内容と演技、まさに熱演だった。座長の渡辺えり子の目に涙が光っていた。脚本から演出を手がけ、さらに自らもキャストとして大熱演、すばらしいの一言に尽きた。登場するだけで劇場の雰囲気を一変させる渡辺えり子の存在感はほんとうにど迫力だった。同時に、脚本家としてのこだわりと、演出家としてのこころの細やかさが劇の節々に感じられた。あれは人間技ではない。神がかっているような世界だった。
帰りの電車のなかで「演劇少女」という題の彼女の文章を読んだ。
「…(劇団を解散して歌手として生きようと思い)北の港町、南の温泉地に、すっかりやせて、黒い服を着た自分が、暗く歌う姿を思い浮かべ、涙したものだった。
しかし、現実は違った。依頼される様々なジャンルの仕事と格闘しながら寝ずに働く自分がいた。しみじみ泣き暮らす時間はまるでなかった。しかも益々太っていった。そして、解散したら消えるだろうと考えていた地獄のような苦しみ、悩みは、解散後、逆に膨張し続けていったのだった。
世の中は昔も今も厄介で、その中で生きるということの不確かさや絶望感は益々胸を縛るのである。正義も薄れ、大人達も汚れてみえる。そして私もそんな大人達の一員として、その社会の未来を担っている。
社会の中で社会と向き合う時、やはり私の表現方法は演劇である。
解散後、劇場の客席に座りながら、山形から芝居をやりに上京してきた十八歳の頃を思い出していた。古里で観た舞台が、傷付きやすく、生きづらい私を何度救ってくれたことか。そして今でも演劇によって勇気を得ている自分がいた。…」
文章がしみじみとしみわたった。宇宙堂の旗揚げ公演「星の村」、勇気と希望を与えてくれる劇である。下北沢のザ・スズナリにて、5月16日まで毎日公演している。(ザ・スズナリ 03-3469-0511 / HPもある)
2001/5/7(Mon) <ぐうたらのあとで>
これまで連休はいつもだらだらと過ごしていたが、今年は思い切ってぐうたら過ごすことにした。「だらだら」と「ぐうたら」の違いは、「だらだら」は仕事を引きずりながら、だらだらと燻(くすぶ)っていることで、「ぐうたら」はいっそあきらめて、休むことである。というわけで、HPの更新もせず、ほんとうの連休を満喫させていただいた。明け方まで宮部みゆきの小説にはまったり、新緑の清瀬を久しぶりにゆっくり歩いたり、大好きな昼寝をしたり。
しかし、面白いもので、きちんと「ぐうたら」していると、また仕事に向かいたくなるから不思議なものだ。これまで「だらだら」していたときは、連休が終わって、また終わりなき日常が始まるのがイヤでしょうがなかった。しかし、今年は、連休が終わって、少しばかりホッとしたところもある。人間(わたし)というのは、どうも飽きっぽいもののようで、結局「ぐうたら」にも飽きてしまうのだ。
さてさて、今度は、飽きるまで仕事をすることにしよう。(きょう一日で飽きるかもしれない)
2001/4/27(Fri) <転校生後日談>
先日、とある高校で、女子生徒に「えっ、転校生!」って言われたという話を書いた。ところが、その後、高校の先生からのメールに、別の女子生徒が「あの人、ストーカー?」と言っていたという話が書かれており、ショック。あいかわらず、自分に都合のいいことしか聞いていない私である。では、また、明日。
2001/4/26(Thu) <12人の怒れる男>
授業でヘンリー・フォンダの『12人の怒れる男』を観た。高校時代、同級生たちの演劇に感動し、そして映画を観て、再び感動し、学生たちと観て、さらに胸を打たれた。終わったあと、一人の男子学生が「先生、よかったよ」と一声かけて、次の教室に向かった。『12人の怒れる男』がまだまだ伝わる学生たちと、自分自身を深めていきたい、そう思っている。大田先生といい、ヘンリー・フォンダといい、戦争の傷跡を噛みしめた「あの頃」から学ぶべきものはたくさんあるのではないだろうか。ヘンリー・フォンダのような格好いいことはできないが、元死刑囚の免田栄さんとつながりをもった今、私にとって『12人の怒れる男』はもう海の向こうの世界ではないのだ。相変わらず、ひとりよがりに感動して、あれあれ、学生たちはどこだろう?という私だけれども、これから、時間をかけて、感動をことば、学びに変えていくプロセスで、ほんとうに問われるのだろう。しかし、教師が感動したものを押しつけられるのは、ちょっと(かなり)迷惑かなとも思った私だった。(でもまあ、私も大学時代に、授業中に『映画』などを見せてもらって、「へ〜え、この先生って、こんな映画に感動するのか、ふ〜ん」なんて思ったので、まあいいかとも思うのだった)
『12人の怒れる男』の紹介はこちら
2001/4/25(Wed) <読み直し>
なぜか思いたって、大田堯(あきら)先生の『教育とは何かを問いつづけて』(岩波書店)を読み返している。高校のとき、学校の図書館にあったこの本を手にとり、東大の教育学部に行こうと思った懐かしい本である。当時、内容はほとんど理解できなかったと記憶しているが、ここから滲み出る何かを感じたのだろう。大学の専門課程に進んだとき、もう大田先生はいなかったし、教育学は「教育社会学のパラダイム転換」の荒波をかぶって、大きく変わろうとしていた。そういう意味で、大田先生の本はほこりをかぶっていたのだが、現在の大学に勤めて、同僚の先生が「大田先生の本は、ここの学生たちに(ことばが)届く」と言われ、もう一度読み返してみようと思ったのだ。
すると、1977年の集中講義が土台となった本であるにもかからわず、時代の風雪に耐え、響いてくるのだ。きっと大田先生が、自身、兵役の体験をもち、そこで観念が何の役にも立たないという敗北の経験をされたからだろう。大田先生の思考は、舞い上がるでもなく、地に足がついた、現実に根ざした思考なのだ。戦争を経験した人たちで、その問題に正面から向き合った人たちは、人間存在の光と影というか、恐ろしさを身をもって知っており、こうした人たちの存在が、今までの社会を支えてきたのだと思う。これと対照すると、勇ましく「憲法改正」を唱える小泉新首相や民主党の鳩山党首らは、あまりにも軽いという感じがする。小泉フィーバーのようだが、「勇ましさ」の向こうに何があるのが不安が募る。人間の弱さを身をもって経験している大田先生たちの世代からじかに学べるタイムリミットが近づいている。
2001/4/24(Tue) <転校生>
今日、フィールド・ワークで出かけた、とある高校で、女子生徒に「えっ、転校生!」って言われた。きっとみんなの2倍ほど歳をとっていると思う。生きているといろんなことを経験する。今日はこれでおしまい。また、あした。
2001/4/22(Sun) <応答と癒し>
昨日は、疲れが澱(おり)のように心の底にたまり、「Dailyたまのさんぽみち」をアップデートする気力が湧いてこなかった。今日は、久しぶりに熟睡しながらも、昨日の疲れを引きずっていたが、たまっていたメールに返事を書いているうちに、なぜだか元気が出てきた。人とのインターアクションのなかで、元気が出るということがじっさいにあるのだ。人に語ることによって、自分が何を考えているのかがわかったり、また発信したものへの応答によって、語ったことが深められたり。このようなやりとりがまれに授業のなかで行われると、心地よい疲労感に包まれ、明日への希望が生まれる。手作りの授業を準備されている新座北高校の金子奨先生がおっしゃった、「教師は授業によって癒される」という名言が頭をよぎる。
前回のコラムについて、卒業生からコメントが届いたので、それを紹介したい。
◎「たまのさんぽみち”高く高く”を読ませてもらいました。この中で、「学びは積み上げではない」「前のことを知らないと次にいけないというものではない」のコトバにドキッとさせられ、思わずメールを書いています。
私は何をするにあたっても基礎を、基本を・・・と考え、そこをある程度クリアして、ようやく動き出そうとしているこれまででした。更に言えば、全てにおいて基礎を学んでいるうちに、いつしかその締め切りは過ぎてしまっていました。
基礎をじっくり学んでいるあまり、本来到達すべき目標にたどり着くまでのペース配分としては、実現とはほど遠いモノに、自ら追いやってしまっていたのでした。
自ら、そのチャンスを逸してしまう行動。モタモタと留まって
しまう、私の人生選択上の「心のクセ」でした。
しかし、このコトバを知ったとき、「いや、始めるのは(レベルの)高いものからでも入って行くべきだ。」と思うようになりました。そうしてその世界に足を突っ込み首を突っ込みした中で、恐らくいくつもの失敗や挫折などを経験するはめとなり、基礎や基本の必要性を思い知って、必要に応じた基本を蓄えようと反省(そして基本のマスターを)
することとなるのだと思います。
繰り返しになりますが、私自身がこのコトバから受けた刺激とは、基本は当然に大切だが、高いレベルを目指すにあたって、「何ビビッテんだ!」「低いところでマゴマゴしてないで、とっとと行け!」と、バンジ−ジャンプを目の前にして背中を後ろから蹴り出されたような感じを受けたのです。
プールの飛び込み台を前にして、飛び込んだ後のことをあれこれ想像し、準備体操をしたり水温や水深を測ったりと入念なチェックをおこたらずやっている自分に、「アホカー!!」と喝を入れられました。
元来、じっくり物事にあたっていたがる自分に対して、強制的に締め切りを背負わせる、そんな感じでしょうか。
とにかく、『消化不良』に気を付けつつも、多少の荒っぽさを受け入れられる強さと『見切り発射』のくそ度胸を持とうと、心の背すじを正した出来事でした。」
人の表現を受けとめ、それを幾倍にも広げて、返信できる。この感性には、脱帽するしかない。佐藤先生は、学生のつたない意見をくさすのではなく、つたない意見の向こうに広がる広大な地平を生き生きと描き出すような指導をして下さった。学び直したい。
2001/4/20(Fri) <高く高く>
昨日、U部のゼミナールで、こちらの要求が少し高すぎるかなと思い、濃い・薄い2つのメニューを準備して、出席した学生たちに諮(はか)ったところ、学生たちは「やったあとの充実感、達成感があることをしたい」と異口同音に答えた。私が、時間をかけて薄いほうを説明したあとに、このような応答が返ってきたものだから、予想が外れて驚いたとともに、学生が高いものを求めていることに、ハッと気づかされた。
先日、師匠の佐藤学先生に会ったとき、「底辺校といわれている高校に行ったとき、生徒たちがみんな授業に不満をもっているの。なんと言ったと思う?」と尋ねられた。佐藤先生の答えはこうだった。「ほかの高校生がやっているのと同じ授業をして!」つまり、教師たちは、できない生徒たちだからと考え、小学校、中学校のおさらいをやっているけれども、生徒たちは高校生としての自負と、そしてまた抽象的な事柄への理解力をもっている。だから、小学校、中学校のおさらいをやるのは耐えられないのだ。
人間ちっとは難しくても、それがほんものであると感じられるなら、たとえその一部分しかわからなくても、ひきこまれていくものだ。逆にわかりきったことをやらされたり、おままごとをやらされたら、イヤになるはずだ。続けて、佐藤先生は、「学びは積み上げではない」と言われた。前のことを知らないと次にいけないというものではないのだ。これは私の実感でもわかる。雰囲気のいい授業のときは、たとえ最後の15分だけその場に参加したとしても、そこの空気から何かを学べるものである。また、たとえ経済学についての基礎知識がなくても、今の社会のありように楔(くさび)を打ち込むような先生の授業からはさまざまな触発を受けることができる。
というわけで、私は「大学で高校の補習授業を!」という考え方には反対である。ほんものをぶつけ、基礎的なところから学び直さなければとんでもないことになると学生たちに気づかせるのが大学の役割であり、ここは教師も学生もやりたくもない補習授業をやる場所ではないからである。学び直したい学生たちのために、リソースを準備しておくことには意味があるだろうが、少なくとも「おまえは必要な学びをしていない。学び直せ」とおせっかいを焼く場所ではない。もし学生が必要な学びをしていないとしたら、大学入試のあり方自体を考えるべきである。大学入試から数学を外して、数学のできない学生がいると騒ぎ立てるなど、まったくちゃんちゃらおかしい話である。
2001/4/19(Thu) <授業中のケイタイ>
昨日、教育方法の授業で、平野婦美子の『女教師の記録』を朗読していたところ、「袂」という文字が出てきて、読めないでまごついてしまった。昨年は、きちんとふりがなを打っておいたのだが、うっかりふりがなのチェックをするのを怠っていて、4月早々のことでもあるし、あせってしまった。あせってしまうと、あたふたして、ヤバイヤバイという気持ちが、さらにあせりを加速させる。学生たちから「この先生、あほとちゃう?」と思われているのではないかという不安が背中から滝のように流れる汗となってどっと押し寄せていたところ、とある一人の金髪の男子学生が「たもと」と助け船を出してくれた。そこで、教室はキューバ危機のような緊張がとけ、そのあとにホッとした温かい空気が流れた。あとで聞いたところによると、その男子学生は、携帯電話からアクセスできる辞典で調べてくれたとのこと。授業中のケイタイにお怒りの先生方も多いが、授業中のケイタイに助けられているわたしだった。
ちなみに「袂」は「たもと・そで」どちらの読み方もある。
2001/4/18(Wed) <なぜ4月入学?>
一日あけて、研究室の窓のブラインドを上げると、一昨日より明らかに緑が濃くなっている。一日一日、新緑が万緑に向かって疾走している。桜と緑、やっぱり4月入学って、列島の風土にあっているよな、と思っていたら、ふと疑問が。なぜ日本は4月入学なのだろう。学校教育制度は、西欧から輸入したもののはず。そうであれば、9月入学の西欧と違うのはなにかヘンだ。教育学者であれば、このくらいのことは知っていて悪くないだろうということで、ちょっと調べてみた。
すると、江戸時代、寺子屋では随時入学を認めていたようだ。つまり、お習字のおけいこのようなものだ。基本的に自学自習の個別学習だから、みんな一緒に用意ドン!の必要はない。明治になっても、しばらくは同じような感じで、「地域や学校によって入学時期はまちまち」だったらしい。一方、西欧直輸入型の高等教育では、9月入学が主流を占めていたらしい。戦前の学校教育は、教育(訓化)と研究を分離した、複線型の教育システムだったといわれるが、この2つの流れの差異は、入学時期の違いを生むほど、根深いものだったようだ。
ところが、1886年に政府の会計年度が4−3月に変わったため、政府の意向で、小学校でも4月入学が奨励されるようになったらしい。政府の会計年度がなぜ4−3月に変わったのか、これは不明である。(歴史の先生に尋ねることにしよう)続いて、1887年に中学校の教員を養成する高等師範学校が4月入学を採用、各府県の師範学校も右にならえで4月入学になったらしい。この背景には、優秀な学生をはやく採りたいという意向があったらしい。1900年に小学校が4月から新年度になるという法規が明文化され、初等教育の分野では、ケリがついた。
これに対して、帝国大学、旧制高校は9月入学を死守していたが、大正期、文部省の方針で、1919年旧制高校が、1921年帝国大学が4月入学へと陥落したそうである。つまり、大正の後半まで、日本では、4月入学と9月入学が並立していたということになる。桜と緑の4月入学は、列島の風土によるものではなく、当時の権力の強力な意志により、成立したのだといえる。9月ではなく、4月に統一されたというところに、「学び」よりも「教育」を指向した権力の意志を読みとることができる(カナ?)。さらに、一家の慶事であった寺子屋入学は、いつでもいいとはいえ、気候のいい春先が選ばれることが多かったという。こうしたこともあって、4月入学は、列島に定着したのだろう。
* このコラムを書くにあたって、「Yomiuri Online なんでもクエスチョン」にお世話になった。下をクリックするとそのページに行きます。
米は9月入学 なぜ日本は4月?
2001/4/17(Tue) <教師がいても学生は育つ>
昨日、卒論を書く学生たちと相談をしたが、今年は今までになくコミュニケーションがうまくいったような気がする。これも昨年、とあるU部の学生が「論文が一体何なのかわからないまま卒業するぐらいだったら、授業料を自分で稼いでもう一年留年する。論文とは何なのだ。」と鬼のような形相で迫り、毎日差し違えんばかりのやりとりをしたおかげだろう。あいまいさを許さない彼の根性が次の年の学生たちの土台をつくってくれた。何とかして彼に納得してもらおうと努めることで、私自身、論文とは何か、卒業論文とは何か、考える機会を得た。最後まで理屈として納得させることはできなかったが、それでも、完成した論文は秀逸なものだった。
卒論相談ということで書類を整理していると、2年前の学生の卒論指導会のレジュメも出てきた。すると、とてもいい研究計画が書けていたのに、卒論が書けなかった学生のレジュメが出てきた。なぜ書けなかったのか、あのときはわからなかったけれども、今読み返してみるとわかる。彼が書きたいことではなく、私が気に入る(であろう)研究計画を書いていたのだ。だから、研究計画は書けても、じっさいには書けなかったのだ。「いい研究計画だね」とほめた自分の浅はかさに今になって気づいた。もう一つ掘り下げてやることができれば、彼はそれがほんとうに自分が書きたかったことではなく、別に自分が書きたいことがあることに気づいたであろう。とにかく、人を育てるという仕事は、失敗と後悔の連続で、また同時に、それがほとんど唯一の成長の糧となっている。申し訳なさもあるが、人が育ち、また人を育てるという営みは、太古の昔からこういうものだったのだろう。失敗や傷つきこそが、成長の糧であるということを考えるとき、それを避けることよりも、それにどう向き合うかが問題であることが見えてくる。また同時に、1年目に許される失敗と5年目で許される失敗は、違うということもたしかである。
4月に入り、大学も新入生の季節だが、卒業生たちも社会人としてそれぞれのフィールドでがんばっているようだ。昨年のゼミ生からメールの便りがやってきた。国分寺勤務ならば、ゼミに出席しようと思ってくれていたようだ。こういう学生たちに支えられて、私のゼミは成り立っている。もはや大学で学んで終わりの時代ではないのだ。
「今年のゼミは月曜日になったみたいですね。
良かったような悪かったような(笑
さて、私の配属先なんですがどうやら神奈川できまりそうです。
東急田園都市線の鷺沼・溝の口近辺でGW明けまで研修をします。
一応、希望は国分寺にしていたのですが・・・(^^;
やはり世の中自分の希望通りにはいかないものです。
厳密に言いますと、現在研修をしている地域で配属が確定する訳では
ないのですが、「神奈川県」というエリアだけは変わらないようです。
宅建も持たず、不動産知識も乏しい自分が会社の生命線である
東急沿線で果たしてやっていけるかどうかかなり不安です(^^;
という事でゼミ自体に顔を出しに行くことはちょっと無理そうですが、
村山合宿の時ならもしかしたら時間がとれるかもしれませんので
その時にでもみんなの前に顔を出したいと思います。
また、一応水曜定休ですので折を見て研究室にも遊びに行きます♪
それでは。
追伸:今年度のゼミ生はどんな顔ぶれになりましたか?
高井良ゼミのことですからきっと個性的で面白いメンバーが
揃ったとは思いますけど(笑
昨年度以上の結果が出せると期待しておりますので
最初の内は大変だとは思いますが、先生も頑張ってください。」
相変わらず私は励まされている。しばらく前、「ダメな親でも子は育つ」と書いたが、『堕落論』の坂口安吾は「親はいても子は育つ」と名言を吐いている。「教師がいても学生は育つ」の精神で、今年は歩みたい。
2001/4/16(Mon) <春風>
いつもの年にも増して、さわやかな春の日々が続いている。桜のピンクから新緑の薄緑へ、東京経済大学の中庭にも春の花が咲き揃っている。春のさわやかさとはうらはらに、大学の4月はニューカマー(新来者)と先住民との折り合わせがたいへんな時期である。ニューカマーこそが新風を吹き入れてくれるのだが、先住民には先住民の流儀というものもある。これを折り合わせながら、一つのまとまりをつけていくこと、この目には見えないたいへんな仕事のために、事務の人々はグッタリし、教員はピリピリし、学生はドキドキしている。それぞれがそれぞれの仕事をしているのである。
今日の学生相談、T部ゼミナールで一巡目が終わる。通勤途中に読んだ『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』の知的腕力あふれる上野せんせいのゼミナール風景に圧倒されるが、ものごとを達成するのにひとつのやり方しかないわけではない。自分なりのルートと方法を探り、また経験を積んで、いくつものルートと方法を知っていくことが自分の厚みとなるはずだ。ここ数年、春先になると、「春風や闘志いだきて丘に立つ」という高浜虚子の句を思い起こし、気持ちを奮いたたせている。自分のペースを崩すことなく、新しい顔ぶれと共振し合いながら、学ぶことの楽しさを信じて、歩んでいこうと思っている。
2001/4/13(Fri) <新緑と青空>
相変わらず落ち着きのない私は、一昨日は自転車、昨日は電車、今日は車と日替わりメニューで大学に通勤している。毎日違った行き方に満悦していた私に、同居人からは「一人でやるのは勝手だけど、気分で周りを振り回すのは迷惑だからやめてね」ときつ〜い一言。返すことばもない。
さて、相変わらずの気分屋は、不況のご時世にもかかわらず、なかなか閉店できないようで、一昨日は予想を上回るスタートで機嫌がよく、昨日は期待が空回りして落ち込んでいた。つまり、今年こそは避けようと思った一喜一憂を、わずか2日でやってしまったことになる。ここで私は方針を変えた。私の性格からして一喜一憂は避けられない。それなら、代わりに、気分屋の在庫を翌日に持ち越さないようにしようと。この方針もいずれ挫折する運命にあるだろうが、それでもこの方針のおかげで今日はこころ穏やかである。まあ、これもまた気分屋のなせるわざかもしれない。
車での出勤者は、東京経済大学構内の駐車場に乗りつけることはできず、少し歩いたところにある貫井神社の駐車場にとめることになっている。大学内の駐車場は、来客と非常勤の人たちのために空けることになっていて、これは立派な心がけだ。(仕えるものとしてへりくだるこのシステムこそ、ほんとうのパブリック・サーヴァントの精神だ。)そして、これからが今日の本題だが、貫井神社の新緑がなんともいえずあざやかなのだ。長らく花粉症に苦しめられ、春を呪っていたけれども、あの重なり合う新緑と青空のコントラストがあまりにも美しかったので、呪いはいっぺんに解けてしまった。四季の移り変わりにこころは癒され、新たなリスタートへの元気が与えられた。今年一番のほれぼれする朝だった。
2001/4/12(Thu) <15年まえ>
さて、今日は何を書こうかなとパソコンの前で思案していたところ、4/12という日付に何か見覚えがある。何だろうとぼんやり考えていたら、私の大学の入学式の日だった。その日は1986/4/12だったから、ちょうど今日で15年になる。
ときはバブルの直前、期待と不安が入り混じったこころを抱いて、私の東京での一人暮らしは始まった。自分の生きる場所をどのようにして築いていくのか、不安でたまらなかったが、15年後、なぜかこうして落ち着くところに落ち着いている。不思議な感じである。
ある高校の先生が「大学時代はまさに自分づくりの時代ですね」と言われたことを思い出す。続いて、大学教師は学生の自分づくりと併走することができるうらやましい仕事だと言われた。おそらく荒れた高校で、生徒の自分くずしとつき合い続けてこられた先生の実感だったのだろう。これはあくまでも個人的な経験であるが、私も高校時代、何か一つでも人と変わったことを言えば、「顰蹙(ひんしゅく)」の大合唱に遭う環境のなかで、結局のところ、自分を押し殺しながら生きていた。もちろん、当時は、人生に対して相当ふてくされていたので、人や環境のせいにするつもりはないが、その高校時代を離れ、新しい地で、何を言ってもバカにされない大学生活というものに出会ったときの驚きは新鮮なものだった。
「なぜ教職をとったのか?」最初の授業で学生たちにこのような質問を投げかけている。思わず微笑まされるような回答や結構深刻な回答もあるのだが、そのなかにあって、「高校時代が楽しかったから」、「中学時代が楽しかったから」というものがある。考えてみると、私の場合、何の因果でこんな仕事に就いたのかを考えてみると、案外「大学時代が楽しかったから」というようなものなのかもしれない。人は、ヘンなところで罠(わな)にかかり、一生を台無し(ウソ)にするものである。ただ、自分自身がほんとうに楽しかった経験というのは、ウソをつかないし、無理をしなくても、人に伝わっていくものだということを、最近感じている。「生きる」「学ぶ」「出会う」ことの楽しさの掘り返しが、今日から始まる総合演習という新科目に対して、私のなかから響いた一つの意味である。さて、どうなることか。
2001/4/11(Wed) <5年目のシーズン>
大学は今日から授業が始まり、私にとっては5年目のシーズンが開幕する。今日の開幕戦は、「教育方法T/教育方法」。敵の面構えはいかがであろうか。
5年目のシーズンともなると、ほとんど眠れなかった1年目の決戦前夜のようなことはないが、それでも、昨晩は未明に目を覚まし、頭をさまざまな構想がかけめぐり、結局、朝刊を読んで、もう一眠り。朝は、景気づけに自転車でやってきた。今シーズンも、目標は、好打率でも、優勝でもなく、ただ完走あるのみである。
1年目は、週末になると必ずダウンし、土曜日の講義では、ほんとうに身体が動かなくなるという状態になりながら這って登校し、帰って高熱と吐き気に苦しみ、点滴を打って、翌火曜日の講義に出たということもあった。しかし、点滴を打ってふらふらになって出たその講義では、なんとまあ、私のかぼそい声をみんな静かに聴いていたこと。がなりたてるのが教育ではないということに、あのとき気づかされた。
私の尊敬する北海道の高校教師・川原茂雄先生のモットーは「笑う門に福きたる」だそうだ。今シーズンもちっぽけなこころをひきつった笑いに包んで、すこしだけたくましく歩いていくことにしよう。
2001/4/10(Tue) <大滝先生からやってきた>
茨城県の高校教師・大滝修先生より、ゼミ冊子への感想が届いた。私がゼミを学びの場であるとともに、プロジェクトの場にしたいと思ったのは、大滝先生の教育実践の話を聴いてからであった。大滝先生は、ウロナム・プロジェクトという、世界の高校生たちをつなぐ壮大なNPOプロジェクトを立ち上げ、育てられている。
高井良ゼミのインタヴュー集をありがとうございました。
「はじめに」をよみ、また学生のインタヴューの数編をよみ、 感激しています。札幌での出会いと「学びの」協働の場としての 学校というはなしから、先生と学生が大きなプロジェクトへと 結実されていることに、知の練り上げと努力をひしひしと感じました。
私も、2年生主任として、今までの担任としての見方からまた 違ったステージを担任・副担任らとなにより生徒の肯定面との 出会いを創って行けたらと思います。
素晴らしい実践記録をありがとうございます。
(出版・シンポジウムなどで、社会に還元してみてはいかがですか。)
高井良ゼミの学生の皆さんにもよろしくお伝え下さい。
◎ もちろん私たちの冊子は「社会に還元」するにはほど遠い出来だが、こうして現場の教師の方々から反響が来るのがなんともうれしい。遠い道のりだけど、断罪し、いがみあう教育のことばから、共感し、学び合える教育のことばを創っていきたい。そして、このことは、人を癒すだけでなく、自分自身を癒す道のりでもあるように思う。
2001/4/9(Mon) <太った?>
3月の末に、仕事で九州を訪れ、妹の家と実家に立ち寄ったところ、異口同音に「太ったろ?」と言われた。ドキン!体重計にのってみると、みごとに太っている。今まで父権に敬意を表して、父の体重を超えたことがなかったのに、ついに逆転してしまった。これはマズイ。目上の人には敬意を表するという私のポリシーに反するというわけで、「太った」原因について考え始めた。これが学者の(私の)悪いクセで、考える前に、運動でもすればいいのだが、まず考えて、そして実行しない。これを考えたフリという。さて、少し考えただけで有力な犯人が浮かび上がった。それは2月から車で通勤するようになったことだ。なんという単純な犯人像。これでは推理小説にもなりはしない。車通勤で、ラクチン、らくちん、こんなことを何で今まで思いつかなかったのかと思っていたところ、思わぬところに落とし穴が待っていた。一面しか見ないで大喜びしたり、がっかりしたりする。これをサルの(私の)浅知恵という。
考えてみると、これまで私の通勤は、直線でいけば15kmしかないところを、せっせと清瀬駅まで自転車を漕ぎ、地下の駐輪場に入れ、地下から階段で上がり、さらに駅まで階段を上がり、それからホームに階段を下り、しばしば走って電車の乗り込み、わずか2駅でまた階段を上がり、下り、また走って電車に乗り込もうとしてドアを閉められ、ふてくされながら10分間ホームに立って次の電車を待ち、電車に乗り込むとわずか1駅でまた階段を駆け上がり、階段を駆け下り、今度はなんとか電車に間に合い、わずか4駅で国分寺駅に着き、また階段を上り、なだらかな下り坂をしばらく歩いていると、急激な上り坂をいやおうなく歩くはめになり、息も絶え絶えに(ウソ)研究室に辿り着いていたのだった。このアップダウンの激しさにうんざりして、天気がいいと、そのまま自転車で研究室まで来てしまい、ああ、こちらのほうが楽だったと思うほどだった。(自転車ではほとんどアップダウンがないのだ)しかし、このアップダウンに満ちた通勤生活こそが、私の健康とシェイプアップに寄与していたことに気づかなかったとは、なんとも浅はかだった。
このように考えてみると、たいていのことには表とウラがあるにちがいなく、あまり大喜びしたり、がっかりしたりする必要もないことがわかってくる。でも、きっと、今年も私は喜怒哀楽の激しい1年間を過ごすのだろうなあと思う。ちなみに、今日は、電車できました。このあと、どういう展開になることやら。
2001/4/7(Sat) <轟先生からやってきた>
大学も今年からはシラバスがCD−ROM化されるなど、着々とIT革命が進んでいる。さらに、学修相談(学習相談ではない、学業履修?相談、すなわち時間割の作成などの相談)などもあり、えらく親切になっている。スマート化と親切化で、学生たちの「生きる力」が衰退しないかどうか心配で夜も眠れない(ウソ)。まあ分厚いシラバスを隅から隅まで読んだところで身につくものは、腕の筋力ぐらいで、今のスマートな時代は、CD−ROMでピンポイントに必要な情報を得ることができれば十分なのだ。私のように、買った本は隅から隅まで読まなきゃ損だなんて考える(そんなこと考えてもいないが)人間はもはや去るのみである。シラバスの関係のないところを読んでいるうちに、自分の時間割を作成することを忘れてしまう私のような人間は、どうも20世紀の遺物のようである。まあ、せめて、スマートな時代の異物としてしつこく生きていくことにしよう。
さて、『轟先生がやってきた』の著者轟寿男先生から『たかいらゼミ2000』の冊子に向けて、メッセージの第二弾がやってきた。感激屋の私としては、学生たちが創ったものを丹念に読んで下さる方がいて、さらにメッセージを送ってもらえることにとても感激している。このようなメッセージに出会うと、昨年度の陰鬱な(陰鬱にしたのはおまえだろうがと言われればまさにその通りだが)ゼミが、決して悪いばかりではなかったと、ホッとさせられるものである。今年も安心して、「あ・かるい」世界への誘惑とたたかいつつ、私の持ち味の陰鬱さに磨きをかけていくことにしよう。
「『高井良ゼミナール(第二部)』読み終わりました。
教師のライフヒストリーには非常に興味があります。どの先生にも1冊の本となるべき人生があるというのをあらためて実感させられました。
私は自分自身を振り返り、次のような仮説を立てています。
「教師は生徒の中に自分を見て、その自分の部分を育てようとする」
この仮説を検証したいという気持ちで『高井良ゼミナール(第二部)』を読み ました。もちろんそれだけで読んだ訳ではありませんが。
「教師は生徒の中に自分を見て、その自分の部分を育てようとする」
分かりにくいと思うので、具体例を挙げます。
強制的に勉強させる人は、自分が強制されないと勉強しなかった人である。
管理的な人は、自分が管理されないとやってゆけない人である。
自分を信じられる人は、生徒を信じることが出来る。
感激家は、生徒を感激家に育てたい。
自分の持つ価値観を生徒に伝えようとする。
自分が生徒の時嫌だと思ったことはしない。
自分が生徒の時こんな風に言われたら納得するのでそういう言い方をする。
生徒の中に自分の弱さ汚さを見たとき、教師は暴力を振るう。
等々。
ライフヒストリーを読んで、私の仮説は正しいのではないかという気がより強 くなりました。
この仮説が正しいならば、「教育は人である」と言えそうです。
あえて言うならば、教育は「人」につきるのかも知れません。
『高井良ゼミナール』面白く、かつ楽しく読まさせて頂きました。有り難うご ざいました。高井良さんのますますの御活躍を祈ります。」
◎「生徒の中に自分の弱さ汚さを見たとき、教師は暴力を振るう」という一節に、自らを振り返り、ずきんとするとともに、自らを省察する轟先生のすごさを感じました。
2001/4/6(Fri) <マイナー・リーグ>
しょっぱなから、野茂がノーヒット・ノーランなんてとんでもないことをやってくれた。(しかも、両リーグでノーヒット・ノーラン達成)いつの間にか、新聞を読んでも、日本のプロ野球や選抜高校野球はとばし読みするようになってしまった。新庄は、今日もダイビング・キャッチしただろうか、イチローは、今日もバント・ヒットを決めただろうか、佐々木は、今日も大魔人だったろうか、と大リーグを一通りみると、安心して、スポーツ欄を閉じる。あとは来年、巨人の松井が大リーグに行き、数年後、西武の松坂が続けば、日本のプロ野球はマイナーリーグになりそうな勢いである。
さて、大学はスポーツと違ってことばの壁があり、今のところ、ことばという高い関税が障壁になっているが、これからはわかりませんぞ。ぼやぼやしていると、日本の高校生たちは揃ってアメリカの大学に進学し、日本の大学はマイナー落ちになりかねない。この大学の近未来の悲劇(?)をシュミレートしたものが高山博著『ハード・アカデミズムの時代』(講談社)。いつまでも偏差値だどうだなんてアホなことばかりいっていると、高山さんの予言通りになりかねない。なにせ、日本の高校生はとても優秀なのだ。数年前の高校サッカー決勝、東福岡高校のスぺクタクルな攻撃サッカーは、スペインリーグ顔負けだったし、夏の甲子園を制した智弁和歌山高校の猛打も、大リーグレベルだった。もちろん、ホラを吹いているのだが、あのままの調子でレベル・アップしていけばという前提での話だ。ところが、高校を卒業すると、クール・ダウンするのが日本の特徴である。高校時代が頂点なんて、人生八十年の時代、あまりにも情けない。
まあしかし、ぼやぼやしていると置いてけぼりになるぞとせかされて走っているのほどみっともないものはない。野茂も、新庄も、イチローも、自分の力をためしたかったから、そのような場に進出したにすぎないのだ。また、いろいろとしがらみもあり、おんぶおばけもたくさんまとわりついてくる、こちらの社会から自由になりたいという思いもあったことだろう。だから、今、大リーグに向かって脱走する選手たちはまだ輝いている。しかし、少年野球で大リーグに行くように指導者から方向づけられ、そのレールに乗って、生産される選手たちに、魅力を感じるだろうか。同じように、教育ママに英語の早期教育を受け、ママ同伴でアメリカの一流大学に進学する学生たちに、将来を任せる気になるだろうか。ぼやぼやするな、やばいぞやばいぞ、IT革命、なんじゃらほい、大騒ぎの今、結局は、マイナーリーグで愉しんでいるのが賢い人生なのかとも、思うのである。
2001/4/5(Thu) <(続)荒畑家の人々>
九州(肥前)なまりの「荒畑家の人々」に盛り上がっている私が癪(しゃく)にさわったらしい。一緒に観劇(感激ではありません、念のため)した同居人から、「ことばで生きる人間だったら、もっとふるさとを相対化したらいかがですか」ときついことばをいただいた。たしか、なにかの本の中に、「よく学ぶものは、どこでもそこが故郷となる」という内容のことばがあった。つまり、自分のいる場所を相対化する力、それが学び続ける者に求められるα(アルファ)でありω(オメガ)なのだろう。永遠の寄留者というわけか。さすらい人で居続ける強さが求められている。
4月早々、スタートラインに着く前に、こけているようなありさまだが、桜は人々を躁(そう)状態に導くのか、私のもとには卒業生から「宣戦布告」のメールが届いている。といっても、ゲバ棒(もはや死語か!?)をもって研究室を急襲するとかではなく、自らの夢に向かって「宣戦布告」しているのである。私も勇ましく「決戦前夜」といきたいところだが、今年もやっぱり「我慢」のようだ。マグマをたくわえないと、中途半端になる。自分のうっぷんを晴らすには、突撃するのが気持ちがいい。しかし、自分のこころは晴れても、私とともに脆い自分を抱えながら歩んでいる人たちには迷惑をかけるし、自分がほんとうにやるべきことをほっぽり出してしまうことになる。少なくとも、4年間、学生たちと歩んできた私には、すでに「戦争責任」がある。
ここで先輩の先生からメッセージ・メールを一つ紹介
「また始まりましたね。でも、「多摩の散歩道」を読んで、高井良さんは確実に第2ステージに進まれたと感じました。ゼミ論集でも、高井良さんの教師・学生の双方に対するまなざしの確かさとあたたかさに感心しました。(教師が自分の子供をもつと変わる、ということを知りました)
私は、今年は少しゆっくりと、愚痴を言わず、歳相応に、やろうと思っていますが、たんなる手抜きになってしまわないような工夫ができるかどうか。
いずれまた。」
◎一番しんどかった時期を支えて下さった先生に感謝!温かいおことばが身にしみいります。私の返事は、「今年は、愚痴を言わずに、実力相応にやろうと思っています」というもの。しかし、シーズン早々、昨日から愚痴を言ってしまった。猛省。
2001/4/4(Wed) <荒畑家の人々>
昨日、六本木の俳優座で岡部企画の演劇“権兵衛−荒畑家の人々”を観てきた。佐賀・鹿島を舞台とした劇で、「ふるさとのなまり懐かし…」の感情移入もあっただろうが、こころに響く劇だった。この劇は、1995年3月20日の前夜に起こった一つのレイプ事件をきっかけとして、荒畑家のきしみが露呈し、そのきしみのなかに生きられた戦後史を浮き彫りにする構造になっている。劇の中では、隠居したはずなのに存在感あふれる旧日本陸軍兵士“権兵衛”が、なんども戦争責任ということばを語る。それは、自らが参加した戦争についてではなく、影の薄い息子(=全共闘世代)に向けられる。
影の薄い息子は、その息子に遠慮ばかりしている。権威を否定した男は、自らが権威になることもできず、宙ぶらりんの状態で、家に居場所がない。ただその不機嫌で威勢のいい孫娘だけが、父親の味方であり、父性の復権をもくろんでいる。
1995年3月20日とは、地下鉄サリン事件の日である。この日本社会の破綻を、三世代の責任のとりかたと重ねながら、描き出している岡部耕大の力や恐るべしである。パンフレットには、「(権兵衛の)哀れさ」を描きたかったとありながら、劇では、権兵衛の存在感だけが際立ったという逆説には、戦後日本社会の危うさがあまりにもみごとにあらわされていて、心底恐ろしさを感じた。
私の深刻そうな論評とは裏腹に、劇自体は、セクシーで(前から三列目で下からのアングルにはっきりいってドキドキしました)、笑いに富み(たっぷり笑えます)、人間の深みを感じさせてくれるものであり、お薦めである。☆☆☆☆☆
2001/4/3(Tue) <開幕>
いよいよ今日から開幕、というのは大リーグのことである。しばらく前までだと、日本のプロ野球の開幕とともに春が来て、新年度だという気持ちになっていた。しかし、昨年あたりから(昨年は野茂が開幕投手で勝利を挙げた)、大リーグの球音とともに、新年度を感じるようになった。おそらく一球団を中心にまわるマンネリ化した日本のプロ野球に飽き飽きしてきたのだろう。金や安定より夢に確かなものを求める新庄選手の活躍が、なんとも気持ちいい。
昨日は、国分寺市民の方が研究室を訪れ、教育についていろんな談義をして帰られた。徒党を組まずに、変えていきたい、変えていかねばと思っている人たちはきっとたくさんいる。こうした人たちとつながっていきながら、自分を育て、社会を育てていくしか方法はない。長い道のりだけど、決して悪くはない。空洞化している日本の中心から多くの人材が外に出ていく時代がすぐそこに来ようとしている。開幕戦、イチローは美しいランニング・フォームでホームベースを駆け抜けた。寄生虫のようにシステムに依存し、自分の力を押し殺したまま鬱屈した安楽な一生を終えるより、たとえ敗北に終わろうとも力を出し切って生き抜く人生に、私は価値を認めたい。もちろん、人に代理戦争をやらせるのではない。自分が自分の十字架を担い、生き切ること。今年も、空洞化する一方の世間的な勝利を求めるのではなく、自分の人生における(もちろん他者性を内包した)勝利を求めるための学び方、生き方を、じっくり探っていく一年になりそうである。
2001/4/2(Mon) <仕事始め>
いよいよ今日から新年度。5年目のシーズンの始まりである。最初の仕事は、ゼミの選考。学生も選考されるから大変である。教師も選考しなくてはならないから大変である。これまでの気心の知れた学生たちが去り、新しい学生たちと出会うこの時期、体力、気力を消耗する。教師がこのような思いをもって新年度を迎えていたとは露知らない学生時代だった。思えば、遠くへ来たもんだ。
ゼミ選考の面接で、学生たちに「お薦めの一冊」を尋ねた。ほとんどの学生が「本は読まない」とのことだった。無常の世の中、頼りになるものなどどこにもないと諦めているのか。本を読み、思想に触れ、自分の根っこをかたちづくるという生き方は、もはや過去のものなのか。彼らはどんな闇のなかを生きているのだろうか。共通の経験が見えない中、手探りで学びを創り、最後に共通の経験を準備できるように、この1年間を歩みたいと思う。たゆまず倦まずテクテクと。
2001/3/31(Sat) <帰還>
ただいま、土曜の午後2時ジャスト。17時間、寝台列車“はやぶさ”に揺られて、東京駅からちょくせつ大学に来ている。まだ身体が揺れている感じだ。17時間もあれば、ほとんど世界の裏側まで行けるような時代に、時代錯誤(アナクロ)な私は、飛行機で1時間半の行程を10倍以上もかけて戻ってきた。桜がもう散りはじめていた九州をあとにして、到着したのはみぞれ混じりの雨の降る東京。こころがなんだか弱っちくなっている。
この数日間、いろんな人に会い、いろんな話を聴いてきた。一人になろうと思った、寝台車までも旅は道連れ、世は情け、いろんな人に会い、たくさん話を聴き、また話をすることになった。寝台の上では、ここ数日に起こったこと、それから今までの人生のもつれを一つひとつ解きほぐしていきながら、さまざまな人生のシュミレーションをしていたら、いつの間にか眠っていた。あきれられるような17時間が別に長くもなく、私の身体とこころは、無理をすることなく九州モードから東京モードに移っていった。
仕事の聞き取りを2件行い、その間に、きわめて私的な聞き取りを1件行い、柄谷行人を読んだ。家族と会い、話をし、他者性について考えることになった。今日は、2000年度の最後の日。いつものようにひょんなことから(人任せに)聞き取りの話に乗っかったのが今回の九州行きの発端。相変わらず人任せの私だが、きっかけは人任せでもそのおみやげは自分で受けとらなくてはならない。まだまだ整理がつかないけれども、これが私にとっての2000年度の締めくくりとなったことはたしかである。おみやげをどっさり下げての帰京となった。
2001/3/28(Wed) <水曜日の朝、午前5時前>
サイモン&ガーファンクルのヒット曲に「水曜日の朝、午前3時」という歌がある。ギターをつま弾くのに手頃な曲にのせた、少し退廃的かつ倫理的な歌詞が心に残る歌だが、現在、水曜日の朝、午前4時50分。いつもは気を失っている時間に起きています。これから少しばかりお出かけです。お気に入りの列車での聞き取りの旅。話を聴くとともに、自分を見つめてきます。それでは、少しばかりさようなら。
2001/3/27(Tue) <編集人>
新読書社の伊集院郁夫さんよりお便りが来た。
「やっと春という感じがしてきました。お元気ですか。冊子がお送り下さりありがとうございます。高井良ゼミの一生懸命さがつたわってくる冊子だと思います。まだ読み終えていませんので感想はそこまでですが、これからじっくりと読み感じた事を申し述べたいと思います。まずは御礼まで。」
さすが編集者、小さいことにも必ず丁寧な返事を返される。職業人としてすばらしいと思い、また我が身を省みた。実は、今年のゼミ企画、新読書社の編集室で伊集院さんと語り合いながら、詰めていったもの。途中でへこたれて、「いやいや、思ったようには行きません」と愚痴ったところ、伊集院さんからは「いや、1年でうまくいったら面白くないでしょう。何年もやって積み重ねて、そしてようやく公刊できるようなものができるんですよ」と諭された。いやはや、まったくだ。功を焦れば足元を救われる。積み重ねていけば、必ず成果はあとからついてくる。生き方、学び方のギア・チェインジの時期である。
2001/3/26(Mon) <電気うなぎは今日も行く>
春になり、花粉症が跋扈(ばっこ)している。マスク人間が増えていて、今なら銀行強盗をしてもバレそうにないほどだ。さて、弱点だらけの私の弱点の一つはこの花粉症だが、この季節、もう一つひどい苦しみがある。それは“静電気”である。まるで日頃の悪行がバレて、電気イスにくくりつけられたように、“静電気”が至るところから私を襲ってくる。とくになぜだか知らないが、研究室は“静電気”の巣のようなところだ。ドアをさわると、パチン、窓を開けようとすると、バチン、スチール棚をさわると、ピチン、極めつけの水道の蛇口をさわると、バチバチ、ピクピク、ピクン、ピクン、ああ、もうダメ、あまりにもひどいのだ。この研究室のいずこかに電気うなぎが潜んでいるのか、あるいは私の前世が電気うなぎだったのか、いや、今すでに電気うなぎと化しているのか、拷問の日々である。
さて、この拷問から逃れようと、一つの案を考え出した。“静電気”が発生するのは、空気が乾燥しているからだ、よし、それでは手洗い場に水をためて、少しでも“静電気”の発生の要因となる空気の乾燥を抑えよう、そして、蛇口をさわるときには、その水で手をぬらしてから、さわることにしよう、と。ところがどっこい、なみなみと注がれた水をさわった途端、パチンという電気ショック。ああ、なんと水にさえ、私の身体は“静電気”を起こしてしまう。さらに、水で濡れた手で、水道の蛇口をさわったところ、もう一度、バチン!結局、電気ショックの数が増えただけだった。ああ、情けない。電気うなぎは今日も行く。
2001/3/24(Sat) <市民大学>
今日、国分寺の市民大学講座(正確には市民大学の卒業生の方々が運営している会の学習会)で話をする機会があった。2回目の依頼であり、今回はほぼ2時間みっちり話をしたが、相変わらずペース配分が悪く、前置きで時間が長くなり、本題が駆け足でちょっともったいないことをした。それにしても、人々の「教育」と「学び」に対しての関心は高く、プロ野球やJリーグなど楽しいことづくめの土曜日の午後に、80名もの方が集まって下さり、ほんとうに頭が下がる思いだった。講演の自分での採点は、70点、いや60点か、ちょっと(いや、かなり)悔しい思いが残ったが、まだまだこれから。次に向けて、自分のことば、自分の論理、そしてユーモアのセンスを磨いて、またいつか挑戦をしたい。人の前で話をすることはしんどいけれども、他者と出会い、自分と向き合える機会を大切にできる自分でありたい。
2001/3/23(Fri) <卒業式で考えたこと>
今日、東京経済大学は卒業式である。私の研究室にも、キャンパスの学生たちの賑やかな声が聞こえてくる。巣立っていくのは、その多くが1997年に入学した学生たちである。その年、私も新入教員として、彼らとともに、東京経済大学の門をくぐった。
東京経済大学では、全体の卒業式のあとに、入学時のクラスに分かれて卒業証書授与式というものがある。教員が一人ずつ卒業証書を渡す係となっている。しかし、ほとんどが知らない学生たち、まさに今日かぎりの一期一会の学生たちだ。まさに初対面の学生たちを前にして、どのように振る舞えばいいのか。ありきたりに職務を遂行すればいいのか。あるいは一方的に熱い思いを語ればいいのか。自分の時間を費やすからには、ありきたりにただばくぜんと時間を過ごしたくない。せっかく出会っている以上、何かしらのメッセージを送りたい。しかし、はじめて会った教員から下手なスピーチを聞かされること、それは学生にとっては迷惑でしかないだろう。そういうジレンマの中で、この職務を果たすというのは、どのようにしたらいいのか、これはずっと私の悩みの種だった。
今日もやはり、話はあまり聴いてもらえない。まあ当然だろう。そして、卒業証書の授与でも、人がもらっている間、みんな、ざわざわしている。これもまた当然だろう。さらに、こちらが両手で渡している卒業証書を片手でひったくっていく学生がいる。そこで、私はいよいよキレた。もちろん、怒鳴ったりするわけではない。私語をしている学生たちに気をとられながら、ばくぜんと渡している自分のやり方にキレたのである。私は、五十数枚の卒業証書を渡す。だから、私にとって、この一枚は、五十分の一でしかない。しかし、学生にとってみれば、どうだろうか。この証書を渡されるという瞬間は、一生に一度しかないのだ。学生によっては、あるいは大学時代に親がリストラに遭い、そしてそこで苦労をしながらようやくこの日にたどり着いたという学生もいるにちがいない。また、彼らの向こうには、例えば、病弱な子どもを懸命に育てて、この日が来るのを涙を流して喜んでいる両親がいるかもしれない。学生の向こうに広がる世界だけではない。この一枚の証書の向こうにも遙かな世界がひろがっている。どのくらいの人の手がかかって、この証書が今、私、そして学生の手に渡っているのかと考えたら、驚くべき、人々の心と技が積み重なりが見えてきた。卒業証書(学歴)に寄りかかるという態度ではない。この一瞬を形成する人々の足跡を考えたとき、この一瞬をなめたらいけないのではないかと、考えたのだ。例えば、一つ一つの証書には、見事な毛筆で氏名、さらには生年月日まで記されている。私の母は書道家であり、その仕事を身近に見てきたから、一生残る証書に自らの筆跡を残すということがどれだけの大仕事であるのかを、少しばかりではあるが、知っている。また、この紙を梳いた職人の労苦、こうしたことが一瞬のうちに頭の中をかけめぐった。
私は、片手でひったくっていった学生のあとから、一人ひとりに心をこめて渡そうと思った。それまで心をこめていなかったというわけではない。今考えたようなことを自覚化していなかったということだ。一枚の証書の向こうにあるものに思いをはせたときに、私は学生たちの私語から解放され、一人ひとりの学生と向き合うことができた。そして、心はぐっと穏やかになり、ざわつきがなくなった。不思議なことではあるが、それ以降、片手でひったくっていく学生はいなくなり、両手で「ありがとうございました」を受け取っていく学生たちが続いた。
教育を行う人間にとって、どんな場所でも学べないことはない。そのあとの教職課程の免許授与式は、顔見知りの学生たちと、みんなが拍手で迎える中での、授与式となった。ここはたしかに心地よい空間だった。しかし、はじめて会ったばかりの学生であっても、ある種の関係をつくることはできる。それは押しつけがましい説教でもなければ、ありきたりな職務遂行でもない。相手によって、自分が変わり、そして、一本の糸を探っていくことなのだ。ただ今、4時。卒業証書を渡して、まだその温もりが残っているときのレポートである。卒業、おめでとう!
2001/3/22(Thu) <ダメな親でも子は育つ>
昨日、T部ゼミナールの飲み会で終電帰宅。卒業生を送る会だった。OBもかけつけてくれ、賑やかな会になった。なかでも、とっても感心したのは、一人ひとりの学生が話をするのが上手になったということである。上っ面の言葉ではなく、自分の内側から言葉を紡ぎ出して、人に伝えるということが、驚くほどできている。きっと教育実習、就職活動などで、もまれたからだろうが、我がゼミ生ながら誇らしい気持ちになった。
すると、ある学生が「たかいらゼミで鍛えられましたから」と言う。おやおや、卒業前のおせじかと思いきや、どうもそうではないようだ。続くことばがいい。「無理やり発言しなければならない窮地に何度も立たされましたから」とのこと。そうそう、へぼな舵取り(もちろん、私のこと)のせいで、ゼミの議論がどこに行っているのかわからなくなったとき、にっちもさっちも行かなくなった舵取りは「じゃあ、○○くんはどう?」と明らかな苦しまぎれの舵の押しつけをしたものだった。(みんな、ごめん!)そこで、普通の学生ならば、「何、聞かれているんだか、わかりません」と答えるところだが、心やさしい彼らは、無理やり気合をもって、局面を打開してくれたのだった。こんなとんでもない体験が、彼らの力となっているというのがまったく面白い。ダメな親でも子は育つというのは真なりと思った。いや、ダメな親だからこそ子は育つというか。しかしながら、ダメな親を意図してやっていたらかなりのものだが、素でダメな親なのだから、なかなか救いようがないのだが。まあ、安易に救われようと思うのも虫が良すぎるともいえる。ただ、ダメな親なりに賢い子たちからいろいろ教わった、この4年間だったことだけは確かなようである。
2001/3/21(Wed) <けんかのしかた>
佐藤学先生から大学院時代に教えられた話に「民主主義とはケンカの仕方を学ぶことである」というのがあった。また「小学校の社会科はケンカの仕方から学ぶべきだ」とも語られた。まさに言い得て妙である。
けんかのしかたが下手な私は、ケンカ上手な周りの人々を見ながら、羨ましいと思う。そして、羨ましがっているだけでなく、ケンカ上手になりたいと思いながら、それぞれのけんかのしかたに耳を澄ませている。
幼い頃、兄妹げんかをすると、よく父親に怒られたものだ。よく妹に言い負かされて、最後は泣かせて終わっていたような気がする。しかし、結局は、泣かせたほうの負けだった。今になって考えてみると、けんかによって学ぶことはとても貴重だった。もっともっとたくさんけんかをして、たくさん仲直りをしておけばよかった。
ケンカ上手な人は、相手を追い込みながら、ちゃんと相手の逃げ道も準備している。だから、けんかもするけど、仲直りも上手である。面倒くさがらずに、けんかをすべきときにきちんとけんかをすることが、ケンカ上手への唯一の道のようだ。やはりけんかに王道はないネ。
2001/3/20(Tue) <ホームページ・リニューアル>
懸案だったホームページのリニューアルが終わり、お披露目となった。「結局は中身だよ」という考え方もあるが、商品もディスプレイ次第で、購買欲をそそったり、そいだりするもので、「見た目は結構大事だよ」ということもいえる。ホームページをいじっていると、かなりはまっていく自分と出会い(ほんとうなら研究にこれぐらいはまるべきなのだろうが)、割と面白い。細かいことにこだわる自分の性癖らしいものが見えてきて、また細かいことにこだわるわりにはいい加減な自分が垣間見えたりして、学生たちにはほんとうに気の毒したなと反省しきり。
こうした自分のありようは、かなり長い年月をかけて形成されてきたものだから、変えるというのも一朝一夕でできるものではない。ただ、少しばかり見えてきたことと変わりたいという思いがあるから、時間はかかってもきっと修正することは可能だろう。少なくとも見えているだけで随分違うのではないかと思う。
時代の風潮のなかで、あまりにも政治家が堕落しているものだから、何でも変えてくれる独裁者を待望するような空気が漂っているが、これはとても危険だ。独裁者に頼らずとも、一人ひとりがもっと自分自身を見つめるならば、自分の力で変えていけることはたくさんある。例えば、選挙に行くことだったり、自分に身近なことでおかしいことにはおかしいと声を挙げること等だ。1990年代以降、日本社会のさまざまなほころびが見えてきて、人々の気持ちが沈んでいるようだけど、政官財の癒着や警察などのいい加減なやり口は、昔からあったはずだと、私は考えている。(こう考える根拠ももっている)こうした不正、不条理に、人々が声をあげはじめたから、さまざまな問題が今、露呈しているのだ。これ以前には泣き寝入りしたり、させられたりした人たちは多かったはずだ。そして、そうした人たちの犠牲の下に、見ざる聞かざる大多数は、安眠をむさぼっていたのではないか。
こう考えていくと、問題が噴出している今は、決して悪い時代ではない。考えるべき事柄、考え、行動することで変えていくことができる事柄が、目の前に山ほど積んであるのだ。何も独裁者に、この山を天幕で隠してもらったり、この山を人のせいにしてもらう必要などない。自分を掘り下げていけば、人の一生はどこかで宝石に突きあたるようにできている。人とのつながりはとても大事だ。助け合って生きていくことも欠かせないことだ。だけど、自分の人生は自分で生きるしかない。そして、自分の中にある棘は自分で始末するしかない。人に抜かれたら、傷跡から鮮血がほとばしるかもしれない。新しくなった「たまのさんぽみち」のなかで、自分のこころと時代の鉱脈を探っていきたい。少しでも人のせいにすることなく、生きていけるように。