『関ヶ原合戦』


笠谷和比古(講談社選書メチエ、1994)


 歴史教科書の論争が起こっている。書店の店頭に積み上げられている話題の教科書を手にとってみたが、あまりにもずさんな内容にアホらしくなった。子どもだましのような内容であり、読み手として、知的好奇心が刺激されることはなかった。イデオロギー論争もさることながら、学ぶ楽しみをもっと回復したい。
 というわけで、今回ほんのページで紹介するのは、講談社選書メチエから出ている『関ヶ原合戦』。講談社選書メチエは、知的好奇心をさまざまな角度から刺激してくれるエキサイティングな本を数多く出しているが、その中でも『関ヶ原』は、今までの素朴な疑問に真っ向から応えてくれる一冊だった。教科書論争以前の問題として、歴史の厚み・深みを細い線でなぞっただけの教科書という代物は、本気で読むならば、わからないことだらけの疑問の宝箱である。難関大学受験には最適と言われている(1980年代には言われていた)山川出版社の詳説日本史の記述によると、関ヶ原の叙述は次の通りである。
「豊臣政権下では、五大老の筆頭の地位にあった家康は、秀吉の死後、地位が浮上した。/しかし、五奉行の一人石田三成と家康の対立が表面化し、1600(慶長5)年、三成は五大老の一人毛利輝元を盟主にして兵をあげた(西軍)。対する東軍は、家康と彼にしたがう福島正則・加藤清正らの諸大名で、両者は関ヶ原で激突した(関ヶ原の戦い)。/天下分け目の戦いに勝利した家康は、西軍の諸大名を処分し、1603(慶長8)年、全大名に対する指揮権の正当性を得るため征夷大将軍の宣下をうけ、江戸に幕府をひらいた」
 このわずかな分量で、一体、読み手は何を得ることができるというのだろうか。その上、ここに名を挙げられている加藤清正は関ヶ原に参陣しておらず、九州で転戦最中であったし、東軍の勝利に決定的な貢献をした黒田長政は登場すらしない。そもそも、この戦いがどのような価値とどのような価値をめぐる戦いであったのかについての記述がなく、この問いに迫るための手がかりもない上に、自らの命と家運と家来たちの命を賭けて戦った武将の心情に迫ることもなされていない。この叙述をエキサイトしながら読めというほうが無理なことだろう。
 常々、私は、関ヶ原の合戦のあと、どうして徳川家康があっという間に政権を掌握したのか、疑問に思っていた。ひとところの合戦に勝利をしたからといって、すぐに安定した政権を確立することは難しいだろう。「関ヶ原の合戦は東軍の勝利に終わった。勝利した家康が幕府をひらいた。」この二つの文章は、私のなかではスムーズにつながらないのである。この謎は、本書によって、一つ解決された。関ヶ原に勝利したのちも、家康は決して安定的な政権を樹立してはいなかったのである。
 著者は、関ヶ原の陣地図から部隊のなかみを検証し、この世紀の戦いの実像に迫っていく。関ヶ原の陣地図がある。よく見かけるものである。そこにはほとんど徳川勢の姿はない。徳川家康の部隊があるが、この部隊は前線部隊としてはほとんど機能しないものだったという。そして、精鋭が揃った嫡子秀忠率いる徳川勢の本隊は、信州上田の攻城戦に手間取り、決戦に間に合わなかった。そのため、東軍はその中心戦力のほとんどを豊臣系の武将に負っていた。東軍に勝利をもたらしたのは、こうした豊臣系の武将・大名たちであった。このため、関ヶ原の合戦後、恩賞により豊臣系の大名の力は増しているのである。
本書の叙述によれば、東軍は勝利したが、その主な担い手は豊臣系の大名だったという歴史の綾が、江戸幕府の政治体制を枠づけたという。こうして、中央集権的な政権の樹立は断念され、内政不干渉の藩が乱立する封建社会が誕生するのである。
 ここでは、本の縦糸をたぐりながら、そのストーリーを素描したに過ぎない。この一冊の本には、当時の武将たちの心のひだと葛藤、さらには、一日一日刻々と変わりゆく政治情勢が迫真のタッチで描かれており、見事な歴史作品に仕上がっている。