『教育改革をデザインする』
佐藤学(岩波書店、1999)
2000年代の2冊目は、評者の大学院時代の恩師である佐藤学先生の『教育改革をデザインする』。1999年10月25日発行で、12月15日に3刷、現在は4刷に入っているというほど、教育書としては異例の売れ行きの本である。評者は本書を読む会に参加するため、本屋を探し回ったが、至るところで売り切れており、手に入れるのが大変だった。それほど話題になっている本である。
さて、指導教官の本にコメントを加えるというのは何とも気が引けるのだが、この本はまことに売れるに値する本であると言わざるを得ない。本書では、1980年頃の日本の教育システムにおける量的拡充の飽和点到達が、現在の教育問題を生み出していると診断している。まさに1970年代から1980年にかけての飽和点を境として、学校というものが人々にもたらす意味が180度転換したにもかかわらず、システムがこの事態に対応しなかったことが現在の状況を生み出しているのである。親より高い学歴をめざす競争と、親より下にはいかないようにがんばらなくてはならない競争では、子どもにとっても親にとっても受験競争の意味は全く違ってくるといっていいだろう。現実は、受験競争の意味が変わったということにあるわけであり、知識偏重などにはないのである。こうした教育改革をめぐるまことしやかな言説を一刀両断の下に切って捨て、学校をベースとして新たな公共性を生み出すためのさまざまな提言がなされている。例えば、内申書、高校入試の廃止や30歳まで何度も挑戦できるような教育システムの保証などである。
本書を読む会で、佐藤先生の補足として話された「外国からみると日本の初等教育がどんな財産であるかがわかる」という話はとても印象的であった。インドや中南米では、大学進学率は上昇しても、初等教育はなかなか普及しないという。そして、貧富の格差が激しいのである。日本社会は、冷戦のはざまにあるというような特殊な条件にも支えられながらも、江戸時代以降の庶民の識字率の高さ、教育への意識の高さを財産として、比較的不平等感の少ない社会を築き上げていた。少なくともバブル経済の前まではそうであった。犯罪や非行の根っこにはしばしば不平等への憤りがある。教育改革の旗印の下、自由化論に身を任せて、初等教育の財産を手放してしまっては、取り返しのつかないことになる。何度もいうが、親だけが子育てをするという時代は今までになかったし、これは不可能なことである。子どもは共同体、社会で育てるのであって、それゆえに公教育が必要なのである。佐藤先生の本を読むと、公共性をキーワードとして、親も教師も子育てに誇りと喜びをもてるような未来の学校像が具体的に迫ってくる。評者は不肖の弟子であるが、本書には大変励まされる思いであった。