『ハードアカデミズムの時代』

高山博(講談社、1998)



 著者の高山博は、1956年生まれの歴史学の旗手であり、現在、東京大学文学部助教授を務める。この本は、2020年のショッキングな日本の風景のシュミレーションで幕を開ける。
 「今では、中流家庭の子供たちのほとんどが、海外の大学をめざす。優秀であれば、アメリカの有名私立大学。そこが無理でも、アメリカの州立大学か、イギリス、あるいはシンガポールの大学へ行くことを希望する。日本の大学を卒業すると、就職のときに大手企業から門前払いをくわされる。…前世紀末には1000を超えるほどあった大学のうち、残っているのはわずか三分の一しかない。倒産した大学もあるし、専門学校に衣替えした大学もある。国立大学も半分に減らされた。残った国立大学も、今では、欧米の大学の予備校と揶揄されるようになっている。しかし、民間の予備校と張り合う力はない。」
 著者は、このプロローグのあと、東京大学とエール大学での自身の学びの経験を語り、厳しいが実りあるアメリカの大学院教育について紹介する。その上で、日本の大学の問題を鋭く問うのである。ハードアカデミズムとは、著者のことばで、探究されゆく知、知の最前線のこと。すでに共有された知をわかりやすく噛み砕くソフトアカデミズムと区別される。日本において、大学はしばしば批判の対象とされるが、大学教員の生活の実情は意外に知られていないのではないだろうか。現状では、大学教員は、研究者であり、教育者であり、行政官あるいは経営者であることが求められている。だが、もちろんこれらを全部満たすことは不可能なことである。かえって、どれも中途半端になることが危惧されよう。著者が提言するように、今後、ハードアカデミズムでしのぎを削る者、ソフトアカデミズムで学生への教育のプロパーとなる者など、大学教員の役割を明らかにしていくことは、大学教員のアイデンティティの編み直しのためにも、また学生へのサービスの向上のためにも、必要なことではないかと思われるのである。この本は、これからの大学のあり方、知へのかかわり方を考えるための読み応えのある一冊である。