『少年H』

妹尾河童(講談社、1997)



 自分自身の授業を顧み、いつも残念に思うのはユーモアのセンスに欠けることだ。ユーモアというのは、温かい笑いを誘い、場に一体感を醸し出す。文章を読んでいても、ユーモアのある文章には躍動感(リズム)が感じられ、知らず知らずのうちに引き込まれていくが、ユーモアのない文章は何かしら単調で退屈感を禁じ得なくなることがある。妹尾河童の『少年H』は、ユーモアにあふれ、厳しい戦時中の話にもかかわらず、多くの読者を引き込んでいく力をもっている。
 舞台は、神戸、須磨地区に隣接する本庄町。ここで、わたしたちは、神戸市須磨区で発生したある痛ましい事件を思い起こす。「酒鬼薔薇聖斗」少年による殺人事件である。少年Hもまた伸びやかな少年時代から、鬱屈した思春期をこの地で過ごすことになるのである。わたしが深く印象に残ったのは、二つの出来事である。一つは、上巻の「オトコ姉ちゃん」事件。「オトコ姉ちゃん」と呼ばれた、少年Hにいつもやさしく、物腰おだやかな青年に、戦場への召集状がやってくる。ところが、「バンザイ」「バンザイ」の声に見送られて、出征した「オトコ姉ちゃん」は、途中で脱走してしまう。その後、やがて訪れる悲劇は、印象的なシーンとともに忘却の彼方に追いやりつつある戦争時代のおそろしさを刻印させてくれる。

 もう一つの出来事は、下巻の「少年Hの自殺未遂」事件である。あれほど明るかった少年Hが思春期の多感さと豹変する周りの人々への不信、自分自身が生きる空間を奪われていく憤りから、自傷に向かっていくさまは、何とも痛ましいものがあった。そして、人間が生きていくという営みが必然的にもってしまう傷つけ合いと、それをなすすべもなく受けとめるHの父の弱さ、そしてその弱さだけと天の運命だけがHを救うことになるのである。生きることには、笑いもあれば、悲しみもあり、大いなる憤りもあり、それが身近な人々に向かうことだってある。そこで身近な人々はひたすらオロオロするしかなかったりする。だが、そのオロオロすることだけが、支えることだってある。子どものすべてを受けいれなさいといわれて、受けいれるのではない。かわいがっていた子どもがわけのわからない苦しみのなかにいて、ただオロオロしているのだ。このオロオロすることのもつ、癒しの力は、最近、声高にいわれている父性の復権よりも、ずっとかよわいけれども、ずっと確かなものではないかと、わたしは思った。