『子どもはもういない−教育と文化への警告』
ニール・ポストマン/小柴一訳(新樹社、1995)
大学生の学力低下や読書離れなどの問題が指摘される中、こうした問題を文明史の上に位置づけて考察するとともに、近代を克服するという論に対して警告を発しているのが、ニール・ポストマンによる『子どもはもういない』である。ニール・ポストマンは、ニューヨーク大学教授で、メディア・エコロジーを専門としている。本書を読むかぎりでは、テクノロジー論と人間の発達のメタ理論(人間の発達はそもそもどのようなものであるのかという前提)との関係を説得的に論じることができる、たぐいまれな知力とセンスの持ち主であることが伝わってくる。
ポストマンは、印刷術の登場とともに、近代という時代が始まったという。フィリップ・アリエスが明らかにしたように、中世には、子どもと大人の区別がなかった(子ども期という特有の見方は存在しなかった)。しかし、印刷によって、書物が一般の人々の手に届くようになり、そこで大人になるためには、読み書きの能力が求められるようになった。このようにして、子ども期は誕生し、発見されたのである。ところが、20世紀に入り、映像というメディアが登場することにより、子ども期は危機を迎えることになった。すなわち、テレビに代表される映像メディアには、秘密を暴くという性質が自ずから備わっており、また感情と感覚に訴えてくるテレビを観るためには特別の技術は必要ではないからである。3歳の子どもであっても、テレビのメッセージを受けとることは可能である。8歳になれば、テレビのメッセージをほとんど大人と同じように受けとめることができる。
映像というメディアは、このようにして、大人と子どもの境界を侵食していった。この中で、大人になることへのあこがれや、辛抱をして鍛錬をし学びの技術を習得する喜びなどが、子どもから奪われていったと、ポストマンは論じている。
ポストマンの論は、近代の超克論に対する鋭い批判となっている。近代とはすべて洗い流されるべきものであるのか。近代が提出した正義、公正、公共性といった概念は、まやかしに過ぎないのか。また、これらの概念を相対化してしまったとき、一体誰が得をして、誰が損をするのか。メディアによる暴力が市場化されつくした社会に均質に猛威を振るうならば、その影響を最も深刻に受けるのは、最も無防備な子どもたちではないか。市場化されたダイエットの情報が、中学生、高校生たちの身体を蝕んでいるように。
私たちは、ポストマンが論じているような映像メディアの浸透によって、大人の権威が突き崩され、深い学びが困難になっている時代に生きている。近代という壮大なフィクションに対して、そのすべてが誤りだったと言っていいのか、あるいは自由と市場がいびつな形で肥大化した近代を批判し、共同と公共性と民主主義という近代の未完のプロジェクトを立ち上げていくのか。本書は、私たちに決断を迫っている。