『猿を探しに』
柴田元幸(新書館、2000)
我らが「生半可な学者」の星、柴田元幸せんせいのエッセイ集の第三弾が登場した。さいきん、柴田せんせい「死んでいるかしら」と思っていたところ、「猿を探しに」本の森の中に迷い込んでしまっていたらしい。タイトルの由来は、本書を読んでいただくことにして、この中から心に残った一遍を紹介することにしよう。
そのエッセイのタイトルは「搭乗客の不安」である。このエッセイは、「我田引水もいいところなのだろうが、三浦雅士の新著『考える身体』(NTT出版)の次のような一節に行きあたって、自分がなぜ地図を描くのが下手で、小説のあらすじをまとめるのが下手で、大学教師として論文指導が下手で、にもかかわらず(というか実は「それゆえに」なのだが)翻訳はけっこう得意か、がいっぺんにわかった気がした。」という出だしで始まる。そこから<問いかけの思考形式>、<語りの思考形式>という2つの思考形式が紹介され、世界には「問う」ことを得意としている人と、「感じる」ことを得意としている人がいるという。もちろん、著者は「感じ」の世界の住民である。
さて、「感じ」の文化は、今の世の中では圧倒的に劣勢であり、「どうしてそう思ったの?」と先生に尋ねられ、「なんとなくそう感じました」なんて答えれば、「それじゃあ、答えになっていない」と言われるし、さらには、「先生、論文ってどうやって書くんですか?」と学生に尋ねられて、「自分の中から沸き上がってくる感じを大切にするんだよ」なんて答えれば、これこそ教師失格というようなまなざしで見つめられる。「感じ」っていうものは、結構大事なもので、感じ悪いなあと思っている人はとりあえず避けておいたほうが無難だし、感じ悪い場所に家を建ててもいいことはない。駅徒歩5分、日当たり良好、5LDKといったようなうたい文句につられて、自分の「感じ」を押さえ込んでしまうと、結構あとで後悔するものである。以上は、柴田新田の我田引水を、さらに我田引水したような話。
何はともあれ、論文指導のときに、「それが僕の大きな問題なんだよ」と学生に話し、「乗っている飛行機のパイロットから、実は私、操縦の仕方がよくわからないんです、と告白されたような不安そうな顔」をさせる柴田せんせいは、やっぱり「生半可な学者」の星だ。やっぱり柴田せんせいは、これがいいのだ。きたむらさとしさんの絶妙な挿し絵とともに、読むたびに楽しめて、何だか元気が出る一冊である。(2001/1/21改訂版)