『記憶/物語』

岡真理(岩波書店、2000)



 現代アラブ文学を専攻し、第三世界フェミニズム思想のフロンティアである著者は、1960年代の生まれ。1990年代に入って広まった歴史修正主義の流れに抗して、記憶の忘却・捏造にあらがう思索を深めている。「タッル・ザアタル」このことばは、私にとって意味不明のことばである。ところがパレスチナ・アラブ人にとっては虐殺の<出来事>の記憶に刻み込まれたことばであるという。
 著者は、読者に少しの休息も与えてくれない。戦争、虐殺、理不尽な死は、私たちにカタルシスを与えてくれる物語とは対極にある。すべてを了解可能な物語に仕立て上げる欲望をもつスピルバーグ(「シンドラーのリスト」「プライベート・ライアン」)を批判し、この欲望の共犯者である“こちら側にいる者たち”を糾弾する。あとがきに「この物語を終えるにあたって、濫喩でしかない<言葉>と暴力的に名づけられた<もの>が、幸福な一致を奏でているのではないかということが気懸かりだ。テクストはささくれだっているだろうか。」と書くほど、著者の姿勢は徹底している。
 著者より少しあとに生まれた私も、幼い頃、傷痍軍人がアコーディオンを弾きながら、街角に立っており、何ともいえない気持ちにさせられたことを憶えている。それをみると、父母は必ず「あの人たちはもう補償をもらっている」と言った。著者と同じように、すっきりしないものを抱えながら大人になった私だが、「街角で、はからずも出会ってしまう傷痍兵は、すでに別の物語を生きている者に、完結したはずの物語が実はいっこうに終わってはいないことを、出来事がなお現在形で続けていることを突きつける。傷痍兵に対する嫌悪を露にした母が否認しようとしたのは、まさにそのことであったのではないか」という文章に出会い、衝撃を受けた。シビアな本である。