『本が死ぬところ暴力が生まれる』

バリー・サンダース/杉本卓訳(新曜社、1998)



 最近、二つぐらいの場で、統計の数字を示しつつ、長いスパンで見ると、少年犯罪の数は必ずしも増えておらず、1960年代からみるとむしろずっと減少しているという話をしたのだが、どうも聞き手の反応がかんばしくない。私自身、数はともかく質が変わってきている印象はあるので、そこを突っ込んで考えないと、説得的な話は難しいという気がしていた。
 こうしたことを考えながら、古巣の図書館に足を運んだところ、そこでちょうど私の大学院時代の先輩である『本が死ぬところ暴力が生まれる』の訳者杉本卓氏に会い、前々から題名に惹かれていたこの本を入手した。サンダースの議論は、『子どもはもういない』のニール・ポストマンと同様に、本を読むという行為によって自己は形成され、そこに倫理性が宿る、しかし、識字能力の低下により、自己は育たず、そこに暴力が生まれるという筋をとっている。サンダースは、子どもたちがメディアにさらされ、消費社会に侵食されることにより、暴力の渦中に生きることを余儀なくされているという。確かに、アメリカのティーンエイジャーの死亡原因第二位に殺人が位置し(第一位は交通事故)、40%の子どもが毎日銃に脅かされている感じがすると考えているという現状は、(もしこの統計をそのまま受け取ることができるならば)由々しき事態であるといえるだろう。しかしながら、サンダースの議論は、ポストマンと比較してもかなり粗っぽいという印象が否めないのである。
 サンダースは、メディアやテクノロジーについて頭から否定的だが、それを用いる人間の側はそう単純ではない。テレビゲームは、確かに決められたルールの世界に子どもたちを誘うが、複数の子どもたちがその前に集えば、ゲームを媒介としつつも、新しいルールがそこに生まれる。有象無象のメディアがあふれていても、それをうまく突き合わせることができれば、世界の裂け目があらわれることだってある。例えば、サッカーのワールドカップフランス大会予選のとき、私が愛読していたのは、イランのサッカー協会のホームページだった。ひょんなことからイランの立場からみる世界が垣間見れて、何とも新鮮だった。
 おそらくメディアとテクノロジーを全面的に否定する議論は(私もこの誘惑にしょっちゅうかられるのだが)現実的ではなく、これらとのつきあい方について議論するレトリックが求められているように思われる。メディアとテクノロジーにさらされる世界では、階級格差があからさまに拡大する可能性が高いと、私は考える。親が文化的に高い資産をもち、子どもにメディアやテクノロジーとのつきあい方を教えることができる家庭と、メディアとテクノロジーの暴力に直接にさらされる家庭では、子どもの育ち方は明らかに違ってくるはずである。ここでの格差は、子どもの努力によっては解消できないものであるので、子どもにとっては一種の暴力として刻印される。この暴力は何らかのかたちで暴力として跳ね返ってくる。したがって、幼児教育、初等教育において公共性を復権させることこそが、子どもの識字を回復し、暴力に立ち向かうための唯一の方策であると思われる。この地点において、サンダースがいうように、声の復権、読み聞かせの実践から大人と子どもの関係を再構築していく必要があるように思うのである。