書き方表現法

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サブカルとサブ・カルチャー


「サブカルチャー」について考える 中村麻寿美
 “サブカルチャー”が存在するには、対極に値する“メインカルチャー”が必要である。そして、それら二つは流動的であって始めて、その存在が効果的になる。
 まず、文化はどうやって二分されるのか。始めに例えを出してしまうならば、読みものでは、メインカルチャーは本であり、サブカルチャーは漫画である。それと同じように、映画でいうとハリウッドと単館もの、音楽でいうとメジャーとインディーズ、など。つまりサブカルチャーはメインカルチャーよりも質や認知度や規模が落ち、大衆文化とはみなされない。新しく生まれた文化は一貫して蔑まれたり受け入れられなかったりされるものである。その文化から見出せる長所よりも、心配される欠点のほうが目に付いてしまうのだ。人の質の低いものと高いものとを区別したいという性質、新しいものを弾圧したいという欲望によって、文化は二分されてきた。
 しかし、その分類のしかたははたして正しいのだろうか。若者の間では本よりも漫画のほうが圧倒的に親しみがあるし、購読量も多い。ハリウッドにはもう飽きてしまい、トレインスポッティングやバッファロー66のような単館ものに人気が集中した。こういった事から、若者にとってはむしろ“サブカルチャー”のほうが“メインカルチャー”なのではないか。そして、小人数に親しまれているからこそいい、というはなからメンカルチャーを毛嫌いしている潮も否めないのではないか。そういう疑問はサブカルチャーとメインカルチャーとの境のをぼやけさせる。誰にとって何がサブで何がメインなのか、本当にメインのほうが質が良く、認知度が高く、規模が大きいのだろうか。そしてそういう文化のほうが本当に愛されているのか。サブカルチャーとメインカルチャーとう言葉の存在はいろいろな戸惑いを生じさせる。
 しかしサブカルチャーとメインカルチャーの関係は決して固定的ではない。流動的であるし、またそうでなければならない。だから質のいい漫画はメインカルチャーになり得るわけだし、質の悪いハリウッド映画はサブカルチャーに成り下がる事もあるのだ。時代の流れによって、その時代の人々の感覚によって、感動によって、慣れによって、文化は活性化され、いいものが発展し、残り、愛される。
 一方、固定的な見方をしていると、メインカルチャーに分類されたものの位置はなかなか変わため質が落ち、逆にサブカルチャーに分類されてしまったがためにいいものでもハイカルチャーとして捉えられず、せっかくの作品や文化が日の目を見れなくなってしまう。よって、サブカルチャー、メインカルチャーという分類するための言語を効果的に残しておきたいと思うならば、私達の意識を固定的から、流動的に変えなければならない。この意識変換は文化を発展させるために重要であろうと思う。


「サブカルチャー」 上野 豪
一般的にサブカルチャーとは、文化において上層・下層に分けた場合には下層に当たることになるといえる。上層は「ハイカルチャー」と言い、その対称として生まれたものである。よってそれは下層文化、すなわち一段低い文化として扱われてきた。「ハイカルチャー」が上層というわけではないが、たいして低いことから、場合によっては低俗・批判の矢面に立たされる場面が多くなっているのだろう。
ここ数年で少年・少女の犯罪が多発し、犯罪を犯してしまった者の背景にはマンガ・アニメ・テレビゲームの影響が少なからずあると言われてきた。確かにそれらの内容には、子供に悪影響をもたらずものもある。犯罪の状況があるマンガに酷使していた、格闘ゲームの真似をして本当に、相手を傷つけてしまったなどと。
その影響から、大人達は悪影響を及ぼす可能性のある、マンガ・アニメ・テレビゲームから子供たちを守ろうとした。といっても、大人達がマンガなどを作り出し、表現してきたわけだから子供たちは、親の規制に隠れて悪質なものに染まってしまい、犯罪にまで影響してしまうのではないか。
それならば、大人達が子供に対し悪室か良質かを見極める能力をつけてやることが大切なのではないか。しっかり子供が自主的に判断できるようになるまで、大人が教育すればいい。しかし今の大人達の中には、そういった教育をする以前に自分自身が、教育してもらわなければならない人もいる。通勤電車内で、くすくす笑いながらマンガ本を読んでいたり、少し前流行した「謎本」は、多くの大人達が読んでいたはずだ。
私個人的には、マンガ・アニメ・テレビゲームなどのサブカルチャーに子供のことからほとんど接してこなかった。マンガにいたっては、自分で買って読んだことが無い。これらのサブカルチャーに関して大人達が、しっかりと良質か悪質かなど判断し、犯罪に影響しないようにし、批判されないよにするべきである。また、これらがサブカルチャーでありながら、ハイカルチャーの一面も持つくらいになればいいと思う。


サブカルチャー 久松由樹子
 「サブカルチャー」を辞書で調べたところ、『ある社会の支配的にみられる文化に対し、その社会の一部の人々を担い手とする独特な文化。例えば若者文化・都市文化など』と書いてあった。そこで私は若者文化について、特に男女間の文化形態がどのように変化していったかを調べることにしました。
 男・女文化には社会的役割や男らしさ・女らしさ、男ことば・女ことば、服装、髪型、化粧、立居振舞いなどを含めていう。今では男女平等・同権といわれているが、『60年代までは男女の文化的差異は確実に存在していたし、多くの人がごく自然に受け入れていた。』と「若者文化人類学」著者の中野収氏は本の中で語っている。しかし、現代社会の現状を見ると男女の文化的差異は稀薄になりつつあると思う。今思えば私たち若者層は、私が高校生だった頃から男らしさ、女らしさ、という意識、あるいはそういった存在感がなくなってきたと思う。昔でいう「男らしさ」は、たくましくてどちらかというと体育会系の人がそうであると思うが、私と同年代の男性を見ると、昔でいう「男らしさ」はほとんど感じられない。ビィジュアルが重視され、化粧をする男性も少なくない今の社会で「男らしさ」はどこかにいってしまったように思える。
 これは男ことば・女ことばについても同じことがいえるのではないでしょうか。女性が男ことばを使っているのを耳にしたことは誰もが1度はあると思います。4〜5年前までは女ことばの男性化がみられたが、最近では言語が共通化されていると思います。「チョ−ムカツク」とか「マジウザイ」などという言葉が代表されるように、男女間、あるいは男同士・女同士の会話の中で使われる言葉使いは共通性をもっているといえる。特に女同士の会話の中では女子中高生を中心に短縮言葉が行き交っています。
 こういった背景には、女性の地位が上がったことがあげられる。男女雇用機会均等法の施行により女性の社会進出が本格化し、それに伴い、社会全般の女性が男性と対等になろうという風潮が強まり、その結果若年層の女性も元気になったと思われる。それによって若年層の男性は勢いのある女性に圧倒されたのだと思います。
 これは若年層の限られたことではない。女性の社会進出が本格化したため、やる気と能力が認められれば男性と同じ仕事を、そして責任を負わされている。それゆえ、残業や顧客との対応、会議での発言、出張、上司・同僚との人間関係などで、精神的・肉体的疲労、ストレスが男性同様に受けることになる。『特に総合職の女性は、一般職の女性への気配り、服装、態度、物腰、言葉遣いに関して、「女らしさ」を意識しすぎたりで、さらに精神的疲労が大きいと言われている。女性総合職とは「きつい、気配り、きれいに」であって、新三Kといわれることもある。』と、中野収氏語っている。そのため、女性が居酒屋やビアホールで友人と飲んだり、麻雀・パチンコなどのギャンブルでストレスを解消する、いわゆる「女性のオヤジ化」が進んでいるのも、男・女文化にあったボーダーがなくなりつつあることを示していると思われる。


サブカルチャー 山内淳
 サブカルチャーという言葉を使うとき、どうしても違和感を感じてしまう人は多いのではないだろうか。サブというからにはメインカルチャーがあるはずだ。でもそんなものどこにあるのか。確固として揺るがないメインカルチャーなんて、かつてはあったのかもしれないが、少なくとも今の日本にはどこにも見あたらない。だったらサブカルチャーなんてものはないのではないか。
 広辞苑にサブカルチャーという言葉が収録されたのはようやく第4版からだった。その意味は「正統的・支配的な文化ではなく、その社会内で価値基準を異にする一部の集団を担い手とする文化。下位文化」とある。与党に対する野党のことのようなものか。しかしいまやどっちがどっちかわからない。いまひとつ意味がはっきりしないのである。
 なのになぜかサブカルチャーという言葉はいまだによく使われる。サブカルなんてさらに矮小な言い方さえも使う。やはりこれはおかしいのではないか。
 もともとはアメリカ直輸入のサブカルチャーというものがあったのだろう。ちょうど70年代の雑誌『宝島』に代表されるような。それは音楽(ロック・ジャズ)を中核にして、旅や精神世界やドラッグや文学や詩やサイケデリックやエコロジーやオカルトやフェミニズムや映画などなどがそうだったのだろうと思う。
 その後、80年代という大消費時代を迎えて、ほとんどの若者雑誌はカタログ雑誌となり読者の主体である「ぼくたち」があふれた。
 そして、90年代に入って登場した若者雑誌『BOON』になると、「ぼくたち」は究極の、ものそのものの言葉“即ゲット”に至るのである。つまりこうともいえる。日本のサブカルチャーの行き着いた果てが、Gショックにナイキのハイテクスニーカーに501XXであると。
 正当なメインカルチャーが存在し、それゆえに確固としたサブカルチャーの伝統があるアメリカでも、そうした傍流ばかりになってしまった状況をふまえて、90年代の文化状況を800のキーワードでまとめた「オルタカルチャー」(スティーブン・デイリー&ナサニエル・ワイス編書/邦訳・リブロポート)が出版された。
 なぜオルタなのか。それはアメリカでは80年代のオルタナティブといわれた音楽や文化の流れもあるが、もっとも大きいのは、インターネットのニュースグループでジャンル化されないグループを総称して「alt.オルタ」(altanative=もう一つの、非本流の、傍流の)というからだ。そこが量質的にも膨大にあり、様々なオルタナティブなものにあふれているからだ。
 ある事情通は「オルタ・カルチャーって日本でいうとマイブームのことじゃない」と語った。そうするとこのキーワード群は“マイブームの嵐”といえる。
 あるものをオルタカルチャーと呼称すること自体に意味はないという反論もあるだろう。単にサブカルチャーを言い換えただけではないかと。しかしあるジャンルに当てはめること自体が無効であるという意味において、オルタナティブという言い方は有効に思える。少なくともサブカルチャーよりは


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