林檎白書第7号

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論文寸評

  • 今年は個々の論文についてそれぞれ論評をするのを少な目にすることにした。共通にする指摘が多くて、何度もくりかえさなければならないからである。
  • 共通している点。それはまず出来上がり具合、要するに団栗の背比べなのだ。それほどひどいものもないが傑出したものもない。一応巻頭論文を宇都宮さんの『さくらももこ論』にしたが、その理由は、ほかの作品に比べてほんの少しだけ社会学の匂いがするといった程度にすぎない。
  • 共通している二つ目の点は、批判精神が欠落していること。「さくらももこ」「ドラえもん」「宝塚」「通販」「小林よしのり」「ボクシング」「インターネット」「妖怪」はどれも自分にとって好きなもの、関心があるものをテーマにしている。だから、その魅力やおもしろさの積極的な評価、あるいは自分との関わりについてはよく書けていると思った。
  • けれども、そのような対象には、どれも一方でさまざまに向けられる批判や悪口が存在する。そのことを取り込んで考えるという姿勢が生まれないと、他人を説得できるだけの主張はつくりようがないはずである。わからない人にはわからなくていい。好きな人同士で楽しくオシャベリしましょうという態度は、要するに狭い意味でのオタク的なものだが、それはまた、気のあう人だけで固まって、ちょっと違う人との間にもそれなりの関係を、といった態度の持てない最近の若い人のみせる最大の欠点の一つなのかもしれない。
  • もっとも、このような指摘は完成前のやりとりで何度もしたから、論文ではそれぞれ、多少は修正されている。

  • 例えば安吉さんの「社会の中の通信販売」は企業内の報告書のようだったが、デパートやスーパーなどとの比較といった視点をいれることでちょっと厚みが出たように思う。「通販」についてはわりとできのいい論文が去年も書かれていて、その点彼女にはやりにくかったことだろうと思う。けれども、それでもあえて同じテーマでと決めたからには、もっと視点に工夫が必要だったろう。

  • 平井君の『インターネット論』は、まるでパソコンのマニュアルのような内容だった。これはパソコンなどをテーマにする学生が共通して陥るところで、その原因は、まだまだ何も知らない人が多い、とする常識にある。確かにそうかもしれないが、何も平井君の文章をインターネットをするためにつかうわけではないから、インターネットについて考えることが本論にならなければならない。そんな指摘をしながら、最初に書いてきた章を完全に一つ二つカットさせてしまった。それでも、素直に書き直してきたのは誉めてやってもいいだろう。

  • 同じことは長沢君の『ボクシング論』にも言える。ボクシングが暴力か否かというテーマを出しながら、暴力ではないと、さしたる理由もつけずに断定して、最近の選手の健康管理の話をだらだらと長く書く。最初はそんな内容で、ぼくは「ここも、ここも、ここもいらない」とバサバサ削ってしまった。ボクシングは暴力かスポーツか?あるいは、スポーツは暴力より本当に価値があるもの、高尚なものなのか?そこのところは、この論文でも充分に展開されているとは言えない。けれども、ボクシングがハングリーなスポーツと言われ、社会が豊かになると強いボクサーが生まれにくくなるとされていることへの注目。しかし、ボクシングが金儲けや貧困から抜けだすための手段ではなく、もっと新しい魅力をもったスポーツになりうるのでは、といった問題意識には少しだけ、ユニークな視点があるのではと感じさせてくれた。

  • 木本君の論文には『社会学的妖怪論』というタイトルがついている。妖怪は闇を意識する人間が作り出したもの。ある社会、時代の裏の顔。それは時と場所によってよそ者であったり、異端であったり、敵であったりする。そのような指摘は、妖怪を社会学的にとらえたものとして十分評価できると思う。しかも、人間には光と同時に常に闇の部分が必要だということ。本当は、そこから、人間の持つ矛盾や二律背反の問題に入ってはじめて「社会学」となるのだが、残念ながらこの論文はそこで終わっている。もっとも、独特の軽薄な文体からはじまって、論理的な流れをつくりだすために、ずいぶんと書き直しをしたことは書いておかなければならない。読む人によって評価は別れるが、ひょっとしたらこれが一番いいかもという気もしている。

  • もちろん批判が前面に出ている論文がなかったわけではない。例えば、『テレビ・コマーシャル論』『テレビ・ニュースとステレオタイプ』。

  • 秋田さんはテレビに関心があって、おもしろくてよく見るんだけれど、夢中になってしまう自分にこわさも感じている。そこのところを考えたいと思っていたはずだった。けれども、章立てを考えはじめると、一方的な批判になってしまう。そこで、おもしろいけれども、同時に人の意識を操作しようとする手段であるCMに目を付けた。ところが今度は、残念ながらCMに対する批判精神がお留守になってしまった。おもしろいけれど、そのおもしろがっている自分に不安を感じてしまう。そこがうまく描写できない。たぶんこのジレンマは本人が何より感じていることだろうと思う。

  • 同じような視点でテーマを探した石井さんは、最初、他人から無断借用した硬い文章の羅列で書き上げてきた。実は彼女は研究室でのワイド・ショー的な話題の中心にいる人なのだが、論文になると、そんな自分の存在が完全にどこかに行ってしまう。その断絶、無自覚さを指摘したが、それをうまく自分なりに消化することはできなかったようだ。マスコミが流すステレオタイプに踊らされると批判するときに、そのことを誰より先に確かめて見るのは、自分自身でなければならない。実は、これはなかなか難しいのだが、自覚がないとその難しさにも気づけないのである。そのことは、全員に共通している三つ目の点につながる。

  • 文章を書くというのは、ある対象に積極的な関心を持っている「私」という存在に距離を置く「もう一人の自分」を自覚するところから始まる、とも言える。そしてこのような態度が希薄なところに生まれるのが、対象と「私」との「ナルシスティック」な関係ということになる。それは、何か充たされた感覚をもたらしてくれるが、要するに自己満足でしかない。
  • そこにとどまらずに、そんな関係に入り込んでいる「私」を自己対象化して見るおもしろさに進んでいく。「何で、こんなものに私は夢中になっているんだろう?」とふと考えてしまう心の余地(あるいは空白)を自覚すること、自覚したらすぐに否定したりせず、また気づかずに見逃したりしてしまわないこと。文章を書くおもしろさ、あるいは他人が書いたものを読みたくなる欲求は、こんなところから始まるのだと思う。

  • 宇都宮さんの「さくらももこ論」は、さくらももこがなぜ受けるのかといった分析にはなっている。けれども、そのような現象は、宇都宮さんにとっては積極的に評価できるものでしかない。大人ばかりでなく子供も、「ノスタルジー」という視点から現実をとらえようとしている。その後ろ向きの生き方は、木本君流にいえば、さくらももこが提供する「笑い」の陰に潜む「妖怪」のように感じられないだろうか。難しくいえば、現在や未来が子どもたちにも閉塞したものとして実感されているということになる。「ちびまるこちゃん」にはそんなしらけた子どもたちの気持ちも代弁されているのかもしれない。もしそうだとすると、宇都宮さんの論文は、あまりに明るすぎる気がしてならない。

  • 同じことは東さんの『ドラえもん』にもあてはまる。『ドラえもん』は『ちびまるこちゃん』以上の長寿番組で、現代の子供にとって一つの通過儀礼的なマンガだが、東さんは、大人になっても好きでありつづけることに積極的な意味を見いだしている。それは一方では、純粋さを失った大人批判になっていて、それはそれで説得力はもっている。けれども、批判は同時に大人になりたがらないあなた達にも向けられるべきもののはずだが、そのような問いかけはどこにも見あたらない。

  • ゼミでよく「先生〜してください」といった言い方をされる。その時ぼくは知らん顔をしたり、「だめ」とか「いやだ」と言ったりする。だけど本当は、「じゃあ、あなたは何をしてくれるの?」と言いたいことが多いのだ。つまり、考えているのはしてもらいたいことだけ、といった態度が見え見えなのである。実際、そんな態度の学生が年毎に増えていくように感じられて、ぼくのイライラや憂鬱の原因になっている。ぼくはあなた達のドラえもんにはなれないし、なりたくもない。

  • 論文を書く作業をする中で、ぼくが何を言っても、批判精神をまったく必要だと感じなかったのが須磨さんだろう。彼女の「宝塚ファンの生態」は、現役の一ファンの目から見た宝塚とその周辺に集まるファンの生態である。ファン・クラブの「代表」をやっているというから、年季の入り方はかなりのものだと思う。けれども、そんな距離感で描写された宝塚は、結局、そこに取り込まれたり、関心を持って近づきたがっている人にかぎってのおもしろいさでしかない。ぼくは宝塚そのものには関心がない、というよりは気持ちの悪さを感じるのだが、あのような文化が成立する理由は知りたいと思う。
  • 須磨さんは、宝塚への憧れを嘘とわかっていても夢のような世界に惹かれる気持ちだという。それはたぶん、「さくらももこ」にも「ドラえもん」にも共通したものだろう。そうすると、なぜ夢が「女だけで作られた世界」で、しかも「男役」ばかりがもてはやされるのだろう、といった疑問につながるし、それは同性愛とはどう違うんだろうと、考えてみたくなる。あるいは、須磨さんは、その夢の世界に近づくためには、クラブというきわめて排他的で序列のはっきりした集団に所属しなければならないことを教えてくれている。しかし、ファンが作るそのような集団や人間関係は、スターに近づくためにしかたなく関わる手段なのか、あるいは、目的そのものなのだろうか。

  • 後は、ちょっと面倒だった人。

  • 山本君は日本の音楽につかわれる外国語について書くはずだったが、交通の取締についてにテーマを変えた。動機は捕まったことのようだが、ほんとうのところはわからない。テーマ変更の相談をされたときに、ぼくは時間がないから無理だと言った。それに違反の取締は恣意的に感じられることが多いし、捕まってもたいがいの人は運の悪さを嘆く。関連する本にしたってそんな警察のやり方を告発するものとか、どうやって取締を回避するかといったものが多い。だいたいレーダー感知装置が合法的に売られているご時世なのである。論文のテーマにするには、雑音や主観(私怨、警察不信)がじゃまになるだろう。もし本気でやるつもりなら、ねずみ取りやその他の取締がどこで行われていて、それは交通事故とか渋滞といった理由と関係するのかどうか丹念に調べる必要があるよ、と忠告した。
  • で、書いてきたものはというと、確かに、自分で調査をやり、データを集めてはきたが、「これは百%信用できる」とか「これは真実」といった言葉が多用される割には、データと解釈との間に、納得しにくいものがいくつも含まれている。さらに、国民性の違いや、車種と性格の関連性、あるいは法律論など、ちょっと荒っぽすぎる議論だと言わざるを得ない。

  • 片山さんの『「種子」が「花」を咲かせるまで』は、もともと『絵本論』として書き始められたものである。それを、岡山で育って大阪へ出てきた自分がもった違和感から書きはじめようとした。人は育った環境に否応なしに強く影響されてしまうのだろうか?そのような感覚とそれを否定したい気持ち。その解き口を「絵本」に求めるようにして話を展開しようとした。ところが、絵本にいつまでたってもたどりつけないで、枚数は増え、締切時間が迫ってくる。
  • 片山さんはよく言えばマイ・ペース、悪く言えば自分だけという性格の持ち主である。つまりやることがゆっくりしているし、何かをはじめると周囲が見えなくなるし、他人の声が聞こえにくくなる。そんな自分の性格を考えれば、もっと早くにとりかかる必要があったはずである。論文はだから当然、出だしはいいのだが、途中から引用が多くなって、視点もぼやけてしまっている。

  • 最後に池田君。彼は『小林よしのり論』を書いたのだが、ぼくはこれを提出後にはじめて読んだ。だから、この論文集では、ぼくのアドバイスのない唯一の作品ということになる。ただあわてて書いたために誤字脱字だらけだったこと、文章が荒れていたのは、論文集の校正の段階で修正されている。内容はというと、やっぱり小林よしのりとの間にどんな距離をとって書こうか充分に計算されたものではないということだ。つまり、時には小林の代弁者、また時には批判者と揺れ動いていて、一貫性が見られない。もちろん、それは小林の歩いた道筋が奇妙なものであることのせいでもあるが、なぜ、そうなったのかについての考察としては、説得力のあるものにはなり得ていない。

  • さらに苦言をいくつか。

  • 大学生が本を読まない、といわれてから久しいが、最近つくづく、本当に読まないなと実感することが多い。学生によってはまともに一冊も読まずに大学に来て、そのまま卒業してしまう者も、けっして少なくない。何も本だけが大事だというつもりはないが、本をほとんど読まずに、一体自分で何かを考えることができるのだろうか、と思ってしまう。
  • そして、そんな心配が、今年の論文にはあちこちで見受けられる。例えば特徴的なものとしては、何人かの学生が「書物」ということばを何のこだわりもなく使っていることだ。「書物」などと言われると、ぼくは何か古文書のようなものを連想してしまう。ぼくにとって、ふだん読むのは「本」であってけっして「書物」ではないのだが、学生たちには、ぼくの研究室にある本はすべて「書物」なのである。
  • もちろん、本を読む人も少なくない。けれども、そのような人も、社会学の専門書は強制されなければまず読みはしない。と言うことはもちろん教科書に指定されなければ買ったりもしない。講義で参考になる本の紹介などしていることがぼくにはだんだん無駄のように感じられてきている。
  • 読まなければ、文章も書けない。というよりは、自覚しなければ、ふだん使いなれている話ことばが顔を出してしまう。もちろんそれは、一概に悪いというものではない。しかし、気になることばはずいぶんあった。
  • 例えば、最近の使い方で意味なく「〜とか」「〜方面」「〜関係」などをつかう場合がある。それに似たものとして、卒論を読みながら「〜という(もの)」「〜のような(もの)」などが気になった。これらはもちろん、なくても意味の変化はない場合がほとんどである。「〜じゃないですか?」「〜しません?」などの付加疑問も会話の中で気になるが、共通しているのは「曖昧化」だろう。なぜ意味もなく曖昧にするのだろうか?そこにはどんな意識があるのだろうか?そんな疑問を感じてしまう。
  • それから、不要な漢字が多すぎる。最近では出版社の注文でも、原則的に訓読みする漢字はつかわないように、と言われることが多い。これは、漢字が多いと読みにくいというよりは、見た目で汚くなるというのが理由のようだ。だからぼくは漢字をなるべくつかわないようにしている。
  • ところが学生たちは、訓読みのところにここぞとばかりに漢字をつかってくる。「ため(為)」「こと(事)」「すむ(済む)」「つく(付く)」「ない(無い)」「つかす(尽かす)」「どこ(何処)」「いつ(何時)」「なぜ(何故)」「よう(様)」など。これは自覚があって、論文は漢字を多く使った方がよく見えると考えているのである。しかし、本をよく読んでいれば、こんな漢字がほとんど使われないことは習慣として身についているはずである。
  • と、今回は悪口ばかりあげつらってきた。学生たちには、「何か恨みでもあるのか?」と聞かれそうである。いや、けっして恨みなどはない。ただ、社会に出ていく前に、嫌がられるのは覚悟の上で、ご忠告を申し上げようというわけである。