97c1079 戸坂 貴彦
『ウマが合う人、合わない人~ビジネス、恋愛に活かす「相性」の心理法則』
著者・樺 旦純(かんば わたる) PHP文庫 1999年3月15日発行
人間生きていればそれなりに各々の社会があり、人付き合いもある。これは当然の事実であり、ほとんどすべての人が、避けては通れぬ出来事である。しかし、長い人生を送る上で出会う人すべてと円満にふれあい、接していくのは持論であるがはっきり言って困難である。これはたかだか二十二年と少ししか生きていない私自身の経験から述べている事であり、もしかすると全く別、つまり人生を送る上で出会う人間すべてと円満にふれあおうとする人はいるかもしれないし、現実にいると思う。今回手にした『ウマが合う人、合わない人~ビジネス、恋愛に活かす「相性」の心理法則』では、これまでの自分自身を含め、誰もが自問自答したであろうあらゆる種類、系統の人間との接し方について、著者の経験に基づく意見やそれを理論的に実証すべく過去の偉大な学者、特に心理学者の実験結果、考察をもとにこれから先、出会うであろう様々な人間との接し方、距離の置き方などについて正直、鳥肌が立つほど誰もが身に覚えのあろう経験などを扱い、実にわかりやすく説明している。それとともに恋愛に関する女性の悩みにも答え、どのような駆け引きをしていけばその恋愛が長続きし、うまくいくのかなどについても具体例をあげ解説している。
実際に読んでみての私自身の意見としては、確かに恐いくらい身に覚えのある経験と重なり合う点が多く、かなり同感できる内容のものもありこの本にはまってしまった。文章や本の構成も先にも述べたような実験結果などを上手く織り交ぜてたいへんに興味を引くもので、それほど現時点で人間関係について本当に深く自問自答し悩んでいない人が読むには(悩んでいなければこの本を手にしないかもしれないが)、今まで気付いていたようで気付いていなかった自分を見詰め直す良い機会を与えてくれる本といえそうです。
ただし、あげられている例が具体的すぎて今現在、人間関係について本当に悩んでいる人がこの本を読むならば、確かに大いにためにもなるし今後の人付き合いにも役立つとは思うが、恐いくらいに"図星"とも言えるような著者の意見が淡々と書かれているので、言わば何か人から直接的に自分の悪い部分を指摘されているような感じがしてあまり読んでいて快く思えないかもしれません。それでもその悪い部分を直し今後の仕事や人付き合いなどを改善し取り組みたいと思っている前向きな人が読むのであれば、一種の先生というか、カウンセラー的な本となることは間違いないと言っても過言ではないくらいに私自身は感じました。ただ、内容が理論的なので、実際に友人などの人間と向き合っている時に本の内容が頭に残っていて、何かいつもなら気にしない自分の、そして相手の一つ一つの言動や仕草が気になり、コミュニケーションがぎこちなくなってしまっている時があり正直、私自身には結構大きな影響力を与えた本であったと言えそうです。
そして巻末の女性による恋愛相談というのも多分、女性であれ男性であれ、この本に書かれている内容は二十歳前後の我々大学生ぐらいであれば多少なりとも身に覚えのある経験のものであり、中には参考になるものもあるので悩んでいる人がいるのであれば、これもまた言わば参考書的なものになるのではないかとも思います。
このようにこの本は仕事社会、学校社会、そしてその他に存在する様々な社会においての言わばノウハウ本であり、これらのことについて悩んでいる人にとっては一種のバイブル的な一冊になりうる可能性を持った本となるかもしれません。また、偉大なる学者達の考察などが織り交ぜられているので妙に遠回しではなく、直接的にポイントを指摘してくれるので人間関係で行き詰まりを感じ、アドバイスを求めているのであれば誰が読んでもわかりやすい内容なのでお勧めします。
98c1066 矢野将則
「ゲバラ伝」
一九六七年一〇月九日、ボリビア山中でゲリラ活動中のエルネスト・チェ・ゲバラは政府軍の包囲攻撃を受けて負傷し、逮捕即刻銃殺された。それから三〇年後の、一九九七年一〇月一七日、ボリビア南部で発掘されてキューバに送り帰されていたゲバラの遺体は、キューバ革命の同志フィデル・カストロの手で、キューバ中部サンタクララの霊廟に改めて埋葬された。首都ハバナで行われた追悼式典には、実に二十五万人の市民が参加、革命に生き、革命に死んだゲバラに寄せるキューバ国民の熱い思いを窺わせた。
キューバばかりではない。今や世界中の人々がゲバラの勇姿に心を打たれ、その熱は留まるところを知らない。いったいなぜ、革命家ゲバラはそこまで人々の心を捉えるのか。
一九二八年六月十四日、アルゼンチンのロサリオ市で中産階級の長男として生まれる。彼が初めてゼンソクの発作を起こしたのは二歳の時だった。また、このゼンソクのために、少年時代医者を志し、ボリビア山中のゲリラ活動の足を引っ張られるなど、彼とゼンソクとは終生切っても切れない関係にあったようだ。ゼンソク持ちのゲバラはけしてひ弱な少年ではなかった。たいへんなスポーツマンであり読書家でもあったのだ。その知識の深さは仲間内でも群を抜いており、ブエノスアイリス医大を卒業し博士号をとった時も、半年前中南米放浪から帰ってきたばかりで、一二の試験にパスし、博士論文をかきあげている。こうして彼のゲリラ活動に耐えうる強靱な肉体と意思は鍛えられていったのであろう。
放浪中、ゲバラとその友人はペルーに足を運び、そこで貴重な経験をした。インディオの悲惨な生活を知って革命の必要を痛感したのだ。だが、当時の彼はまださほど政治に関心があったわけではない。その後のグアテマラにおいて、革命の渦中に巻き込まれ、情勢を目の当たりにし、初めて革命家をめざしたのだ。その後彼はカストロと運命的な出会いをすることとなる。
初め彼は、カストロ率いる運動に必ずしも賛成ではなかった。カストロの計画には全幅の信頼は置かなかったが、その人物には深い共感を覚えたのだ。信念、意思の強さ、行動性、抱擁力、雄弁、全ての点でこれほどの革命家と出会った事はないという。そして、彼らによってキューバ革命は起こされた。
革命後のゲバラは国立銀行総裁、工業相、国連代表、少佐とキューバの政治に専念する。だがそれも長くは続かず、カストロとゲバラの進路は別れて行くのだ。ゲバラはカストロへの訣別の手紙を残しキューバを去って行った。
その手紙の中で、ゲバラは「世界の他の国が私のささやかな努力を求めている、キューバの指導者としての責任から、あなたなら拒否せざるを得ない事を、私ならやれる。別れの時がきたのだ」、「勝利に向かって限りない前進を。祖国か死か。かぎりない革命的情熱を込めて」、「最後まで自分に忠実な行動をとりたい」と述べている。そうしてアフリカでの失敗の後、ゲバラはボリビアへと赴き、その生涯を閉じる。
かれのゲリラ戦理論は、?人民の力は軍隊との戦いに勝つ?革命に必要な全ての準備が整うまで待つ必要はない。ゲリラの蜂起がその条件を生み出すからだ?中南米という低開発地域では農村こそ戦いの中心地だ、という三点から成っている。だが、ボリビア山中では、農民が非協力的でやがては敵に回ったことは皮肉であり、彼もその誤算を素直に認めてもいる。この人間的であり、必ずしも完璧でないヒーロー像が人々の心を打つのであろう。
最後に、ゲバラの日記に対するカストロの言葉を引用したいと思う。「この日記の中で、日々の出来事を細かく分析しながら、彼は革命的ゲリラ活動の発展上避けることのできないあやまち、批判、反批判を展開している」。
"ゲバラ日記 (角川書店)" 参照
「フリッパーズ・テレビ TV文化の近未来形」 稲増龍夫
98c 1067 関田夕香
朝起きて、夜寝るまでに一体何時間テレビを見ているのだろう。見たい番組を見るのはもちろんのこと、たとえ見たい番組が無くても、なんとなくテレビのスイッチを入れ、リモコンをせわしなく動かし、面白そうな番組を探す…。CMに入れば、またリモコンに手が伸びて、チャンネルをあちこち変えてみる。べつに決まった番組を見るわけでもなく、数時間が過ぎていく。そんなふうにして、毎日テレビと付き合っていることが多いのではないだろうか。
この本では、上に書いたようなチャンネルをせわしなく変える行為(ザッピング)、録画されたビデオを飛ばし見したりする行為(ジッピング)などをする「せっかち視聴者」のことを「フリッパーズ」と名づけている。普通、テレビが与える影響について、多くの場合が批判的になりがちである。しかしここでは、そのせっかち視聴者、フリッパーズを批判するのではなく、今日大量に溢れている情報を効率的に処理するしていくには必要なこととして捉えている。そして、メディアを通して多くのことを経験している現代のわれわれを分析している。
私も、「フリッパーズ」を否定的には捉えない。私自身、「フリッパーズ」であるということもあるし、このようなテレビの見方が一般化してきたように思うからだ。今や、一つの番組をじっと見ていたり、ビデオに録画したものを早送りせずに見ない人はいないと思う。現に、CM明けはチャンネルを変えた人のために、CMに入る前の映像を映す。つまり、送り手側もそういう事態を想定して番組を作っているのである。
はじめ、送り手が情報を与え、それをただ受け取るだけに過ぎなかった視聴者が能動的になったのである。能動的になったのは見るという行動だけではなく、番組を制作していくという過程でも現れてきた。現に、最近視聴者参加型の番組が目立つように思う。街頭インタビューや人生相談、これができたら賞金がもらえるなど、番組の中心人物にもなったりしている。たしかに、素人、つまり視聴者が参加している番組は面白い。予想だにしない反応、スポーツのような筋書きの無いドラマを展開してくれるから目が離せないのである。だが、果たしてそのような番組を見たいと思って見ているかと思うと疑問に思う。偶然チャンネルに合わせたとき、続きが見たくなってみ続けてしまうことが多い気がする。これも「フリッパーズ」の宿命か。しかし、そんな付き合い方でいいのだろうか。だらだらとなんとなくテレビを見続ける。意味も無く見続けるのはいけないことだと思いつつも、やめられないでいる。
テレビが誕生して約半世紀、もはや、テレビは家族の一員といってもよいと思う。どの家庭にも、必ず一台のテレビがあり、毎日ありとあらゆる情報を届けられている。世間話の中心はテレビから提供されたものが多い。べつにテレビが無くても生きてはいけるけど、無いとなんとなく寂しい存在になってしまっている。これを機に、「フリッパーズ」として、これからテレビとどうやって付き合っていくべきかを考えなくてはいけないと思った。
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