東経大に移籍して最初の卒論集です。といって、追手門学院大学で出した『林檎白書』のようにゼミの卒論集として継続する予定のものではありません。したがって『意外とイイ』という名前も今回限りのものです。
『林檎白書』はマックを使った100%手作りの論集で、パソコンを使った印刷、つまりDTPの歴史そのもののような作品でした。パソコンの進展にあわせて、10年近く面白がって作ってきましたが、大学が変わって、必要な機材がそろわなくなりました。整えるには数年かかりますし、ぼくも多少くたびれました。そんなわけで卒論集は出さないつもりだったのですが、ゼミの活動補助費を申請したら認められてしまって、急遽出版ということになったわけです。版下だけ作って後は生協に印刷と製本をお任せですから、今までとは違ってきれいな体裁になりました。
『意外とイイ』という名前は苦肉の策です。学生たちに名前を考えるように言っておいたのですが、さっぱりイイのが出てこない。編集の手伝いをしてもらった岡澤さんと堀さんと名前の話をしたときに、「結局このゼミはどんなゼミだったの?」と聞いたところ、岡澤さんが「意外といい人たち」とぽつりと言いました。で「意外とイイ? あ、それで行こう」ということに決めました。安直な名づけですが、なかなか含蓄のあるタイトルでもあります。
「意外とイイ」人たち、意外とイイゼミ生、意外とイイ教師、意外とイイ関係、意外とイイ大学生活、意外とイイ卒論。もちろんいいことばかりではありません。意外とイイ加減、意外とイイ格好しい、意外とイイなり、意外とイイ気、意外とイイ子ぶりっ子………。
それはともかく、内容についてもふれなければなりません。東経大の卒論は規定では20000字ということになっています。追手門では12000字でしたから、6割増し。これはかなりきついハードルでした。経験から言って、長い文章を書き慣れない学生には10000字でも難しいと思っていましたから、早くからたくさん書くことには注意をしてきました。しかし、どうしても水増しの内容になってしまう。それでも、とにかく20000字の見通しがつくまでは、むやみに削ってしまうこともできません。「今、何字?」。これが口癖になってしまいました。で、20000字が見えてきたところで、やおら、刀を抜き出していらないところをばっさり切り捨てる。今年はこの快感を味わう機会が少なかったように思います。徹夜で書いてきたものを、「ここいらない」と言われたときの学生の蒼白の顔。意地悪な教師にとってはたまらない瞬間なのです。
学生の卒論にはいくつかのパターンがありますが、今年は特にそれが目立ちました。まず苦しいときの歴史頼み。これはとにかく量というハードルをクリアするためには、一番手っ取り早い方法です。テーマは現代の話でも、ずっと歴史をさかのぼって長々と書き連ねる。肝心の部分は最後にちょっと、ということになりますから、当然、テーマが何だったのか、わからなくなります。
同様の量稼ぎは、他に法律、制度などの説明、あるいはキーワードの定義など、さまざまなところで見られました。もちろん、それらは必要なものではありますが、テーマに直接関係ない部分が多く混じってくると、かえってないほうがいいということになってしまいます。
もう一つは、丸写し。これは引用の仕方がわからないことにも原因があります。まるで自分で考えた、調べたかのように他人の文章を拝借する。そのことを指摘されるまで、ルール違反だとは思わない。原因はたぶん、教師の側にもあるのだと思います。実際、学生たちは4年間に同様のスタイルでいくつものレポートを書いてきて、ほとんど文句を言われてこなかったのですから。
他人の考えたこと、調べたことは「引用」であることをはっきりわかるようにして、しかもそれが誰の書いたもので、何年にどこから出た何という本か、あるいは雑誌かを「注」にすること。そんな説明は、自分が書いたもので指摘されてはじめて理解できるもののようでした。「『注』ってそういうことのためにあるんですか?今までじゃまくさいだけで、何のためにあるのかわかりませんでした。」こんなことばが卒業間際になって学生の口から出るのは、はっきり言って教師の怠慢のように思いました。
批判ばかりでは学生が怒りますから、ほめることもしなければなりません。論文の評価は、一つはオリジナリティですが、自分なりの関心と視点もって書いたものは少なくありません。
たとえば楠見君の『ウェールズ音楽論』は音楽に詳しい彼ならではの内容になっていますし、アイルランドやスコットランドではなくウェールズに注目したところに、何よりありきたりを避けて新しいものをという彼の意気込みが伺えました。その分ちょっとナルシスティックというきらいがあります。
同様に丸田君の『吉本バナナ論』も以前からずっと読み続けていて、最近では同時代の他の作家にも関心を向けている彼ならではの内容になったと思います。人や世界への優しい眼差し。彼の性格そのままの論文で、もっと批判したらというアドバイスが必要でした。
岡澤さんの『外国映画、字幕で見るか、吹き替えで見るか』も、映画そのものではなく、字幕に目を付けたところがおもしろいと思いました。スクリーンの片隅にあって目立たないけど必要なもの。ユニークな発想ですが題名同様、長めなところが気になります。
間野さんの『社会における笑いの効用』は人間が「笑う」ということの根源的な意味と、現代の「お笑い」を結びつけるという大胆なものです。「笑い」と「お笑い」は違う。この難問に格闘した彼女の闘争心はかなりのものでした。
平本さんの『新宿の時代』も目の付け所の良さを評価できるものです。新宿は誰よりぼくらの世代にとって一番意味のある場所ですが、そのようなノスタルジックなところに興味を示す彼女の感性はおもしろいと思いました。もうちょっと相談に来れば、いろいろアドバイスができたのですが………。
もう一つ評価できるものは月並みですが努力です。
木倉さんの『アメリカ対抗文化の始まりとビートニクについて』は、これもぼくにとってはなじみのものですが、今の若い世代に関心を持つ人がいることに興味を覚えました。参考文献を読みこなすことで精一杯のところがありますが、うまくまとめたと思います。
星さんの『メディアが作る日本人イメージ』もとにかく事例はよく集めてあります。煩雑すぎたところも、指摘にしたがって整理してまとまりのある論文になりました。まじめさと頑なさが論文を少し堅いものにしている印象を受けるのは、彼女の性格そのままのように思います。
堀さんの『読売巨人軍を暴け』も歴史や現状などについてよく調べてあります。しかし、優秀な選手の大リーグ指向や日本のプロ野球機構のお粗末さなどにあきれているぼくには、もっと大胆な巨人批判ができるはずなのにという不満を言いたくなります。そんなことまで書いてもいいんですか?という自己規制が感じられます。
井原君の『アメリカの死刑制度』もよく調べたところは評価できます。自分の考えや独自な素材が少ないという注文をつけましたが、ほどほどに手直しもしてくれました。ただ、誤審で服役とか死刑といった事例はアメリカにはたくさんあって、それを一つでも詳しく取り上げたらもっとおもしろくなったのにという気がしました。わりと根性なしです。
徳井君の『変わり行ゆく人間関係』は努力賞の最右翼かもしれません。何しろ秋の発表の時には、ほとんど白紙状態でしどろもどろでしたから、その後の発憤は評価できると思います。正直言って彼にこんな論文が書けるとは思いませんでした。
椚君の『メディアに見る少年法』は最初に書いてきたものからはずいぶん変わりました。テーマと関係ない章のカットや法律などの説明の簡略化など。ホットな事例にふれることが少ない点が不満ですが、手直しをがんばったところは評価できると思います。
手直しといえば何といっても石見君の『「三国志」と日本における人気の秘密』。とにかく枚数を稼ぐために、書けそうなものは何でも入れてくるといった最初の内容から見れば、できあがりは格段の進歩と言えると思います。しかしそれでもまだ、日本における三国志人気の原因が十分に解き明かされたとは言いにくいです。
島田さんの『リカちゃん人形から見る日本の社会』もリカちゃんに対する関心をどう広げるかで苦労した内容になっています。女の子の遊びの歴史的な説明などには不用な部分もありますが、途中でデータが消えかかるといった苦境を乗り越えてまとめ上げられたのはよかったと思います。
坂巻君の『地上波デジタル放送』は、始まったばかりのものに取り組むという難しい試みでした。予測は必ずはずれるし、すぐに陳腐な内容になる。そのようにならないためには放送の現状についての理解が必要だが、数冊の本に頼りすぎという印象は否めません。しかし、彼も最初の問題意識のあやふやさからすれば、それなりに評価できるでしょう。
井上さんの『ガゼルパンチ』は苦肉の策です。いくつかテーマを変えた末に、自分が撮った写真ではだめですかと弱音を吐きました。ボクサーを写したそれなりにおもしろい写真ですが、それだけではとても卒業制作として評価することはできません。それで、写真論を書き加えるということになりました。月並みですが、彼女なりに精一杯というところなのかもしれません。
後は提出が遅れてぼくがほとんどアドバイスをしなかった人たちです。
佐々木さんの『現代日本の「化粧」の意味』は、現代という題名がない方がいいという内容のものでした。したがって卒論用に歴史の部分はほとんどカットされました。はじめは自分でアンケートを取ったり、最新のデータを集めたりという気持ちがあったのでしょうが、結局「化粧とは何ぞや」という問いかけへのありきたりの回答になりました。
角君の『ポピュラー音楽におけるメディアの役割』はぼくが今一番関心を持っているテーマそのものでした。もっと相談に来れば、いろいろアドバイスもできたのですが、ほとんど読まずじまいで提出ということになりました。
松本さんの『クラシック論』は、音楽が演奏される場や聴衆の聴き方に注目したものです。このような視点はずいぶん前から話していたのですが、準備が足りなくて、最後で慌てたようです。その分不要な歴史や、楽器についての説明などが残りました。
最後に村上さん。彼女の『グリム童話について』も、ぼくは提出後に読みました。グリム童話はここ数年話題になることが多いのですが、その要約にしかなっていないのは、そのためです。1カ月前に提出して手直しをするといった作業がなぜ必要なのか、提出間際になってわかったようです。
以前からこの欄を読んでいらっしゃる方には、今年はちょと辛口なコメントに欠けるという印象を持たれるかもしれません。実際かなり控えめなのです。2年間つきあって感じたことは、東京の学生は関西にくらべてきついことばになれていないということでした。実際、冗談半分の叱責をまじめに受けとられてしまうといったことも何度かありました。これは女子学生の比率が高いということにも原因があるのかもしれません。もちろん、その分まじめなのだということも言えると思います。しかし、まじめは必ずしもいいとは限らない。このような意識が暗黙の前提としてあった関西が、何となくなく懐かしく感じられれることも間違いありません。
この卒論集は予算の関係で、一人15000字までに絞り込みました。学生たちには提出後にもう一回、字数を減らすための推敲の作業をやってもらったわけですが、その分、提出されたものよりはどれも、スマートになったと思います。量が多ければいい、というものではありません。
みなさん、ご苦労様でした。
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