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2013年4月1日

京都と成明さん


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竹内成明さんが亡くなった。大震災と原発事故からちょうど2年目の3月11日だった。癌で余命6ヶ月ということを聞いてから2ヶ月しか経っていなかった。彼のブログには3月1日付けの文章と闘病略歴が載っている。
 2012年11月初め、腰痛がひどく近所のバプテスト病院へ。レントゲン検査で肺下部に小さな瘤が見つかり、わたしが50年来のヘヴィスモーカーであったことを知ると、ただちに京大呼吸器内科へ紹介される。
 12月6日夕刻、ビリビリビリッと、突然の激痛が、全身を走る。痛いなんてものじゃない。焼きごてを背中一面に当てられたよう。
 叫びました。絶叫です。病院でもらっていた薬を全部飲んで、一時休眠、明け方から痛みが再び走り出し、絶叫。(「ぐしゃだより」から引用」
成明さんは僕にとって雲の上の存在だった。同志社大学の修士過程に在籍していたときに彼は同じ専攻の教員だったが、大学院を担当していなかったから、筑摩書房から出ていた『展望』に連載したエッセイを通してしか知らなかった。当時『展望』は文系の院生にとっては必読の雑誌だった。彼と親しくなったのは、大学院に進学をしたゼミ生を介してで、つきあいは大学ではなく、もっぱら銀閣寺近辺の飲み屋になった。あまり飲めない僕には、大酒飲みとのつきあいはしんどかったが、そこで得て、血となり肉となったものは少なくない。

『展望』に連載されていたエッセイは『濶達な愚者』(れんが書房新社)という題名の本になった。ドン・キホーテではなくサンチョ・パンサの存在とその役割を「濶達な愚者」と名づけてその重要性に注目をした。崇高な騎士ではなく闊達な愚者。成明さんはその両面を強く併せ持った人だった。成明さんたちとのつきあいは僕が東経大に移籍するまで20年以上続いた。振り返れば、一番元気で勉強もした時期で、それだけに、思い出すことは多い。

たまたまK's工房の個展が京都であって、本当は成明さんに会うつもりでいたのだが、一緒につきあっていた仲間たちと会って、いろいろ話をした。京都に来たのは前回の個展以来2年ぶりで、会った人たちの多くはもっと久しぶりだった。




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